はてなキーワード: 王蟲とは
ちょっと買い物に行って帰ってきたら、ポーチのタイルの上を、蓑虫がモコモコと歩いていた。毛虫ではなく蓑虫が、歩く。モコモコと、てくてくと。身体をくねくねと蛇行させながら歩くのだ。
一、二年前まで、私はてっきり蓑虫とは木や草の小枝を編んで作った硬い蓑の中にスポッと入って暮らす虫なのかと思っていた。例えばヤドカリが貝殻を被って暮らしているような。そんな感じだと想像していたのだが、違った。
ある日、やはり外出から帰ってみたら、ポーチに蓑虫がいた。タイルの上を歩行していたのではなく、ドアに貼りついていたのだが、うちの下の子の視界の中に入るくらいの位置にくっついていたために、「気持ち悪いからなんとかして」とせがまれた。
蓑虫の、簑の出入口部分? とドアが密着しており、そのため簑はドアから斜めに突き出て見えた。私はあまり無益な殺生は好まない方なので、へばりついているだけで無害な蓑虫などほっとけばいいじゃないかと子供達を諭したのだが、どうしても嫌だというので、しぶしぶ箒を手に取り、ドアをサッと払った。蓑虫はタイルの上を転がり、そして道路へと続くコンクリのアプローチへと落ちた。案外簑が頑丈に出来ていたお陰で、箒の威力でぐちゃぐちゃにならずに済んだ。軽いので、そのうち風に吹かれてどこかへ飛ばされて行くだろうと思い、そのまま放置して家に入ろうとした時、子供達が絶叫した。
見れば、簑を纏った身体を蛇行させながら、真っ直ぐ公道に向かって歩く、蓑虫の後ろ姿があった。遠目に見ると、ただの毛虫のようだ。それくらい、蓑虫の本体と簑の素材が一体化しているように見える。
蓑虫の足取りは、つい先ほど理不尽な暴行を受けたことなど無かったかのようにしっかりしており、そして迷いが一切見られない。車二台がすれ違えるくらいの狭い道路を渡った先の、イネ科の雑草が茫々に生えた場所を目指し、蓑虫は歩いていく。白っぽく退色したアスファルトの上をゆく蓑虫の後ろ姿は、腐海に帰る王蟲のように堂々としつつ、孤独をまとっている。
蓑虫が道程の半ばを過ぎた頃、左方から赤い乗用車が近づいて来た。農地から住宅街に入ってすぐの所なのに、赤い車は減速する様子もない。蓑虫は大きすぎる危機に全く気づかない様子で、歩みを止めない。車からはうちの子供達がアプローチのところにいるのも見えるはずだが、かといって飛び出しに警戒する様子もなく、かなりのスピードで目の前を通り過ぎていった。一陣の風が私達に吹き付けられた。
蓑虫は無傷で、歩調を速めることも遅めることもなく道路を渡りきり、草叢の中に消えていった。
そんなことがあって、蓑虫は歩くということを知った。たぶん、今日の蓑虫は今頃、玄関のドアの地味に邪魔な所にくっついていることだろう。
王蟲みたいな人らなんだろ
ほんとに王蟲は止められないだったな…
あー、そういうこともありうるのか
これからワクチンを1日100万回だの24時間対応で接種だの言ってるけど、
増えた分だけ1日に副反応で救急車を呼ぶ人が数人、数十人レベルでも激増すれば、
その対応に救急車が呼ばれて、既存の交通事故とか病気の対応にも支障が出る
でも、今の段階で副反応ってどれぐらい出てるんだろう
寧ろ副反応が出る方がワクチンとして効く可能性だってあるんではないかと思うわけで
というわけで、無闇にスガとか政府が二倍!三倍!って布団のCMみたいに言うのも、
ちょっとどうなんだろうなあ、という気がしないでもないのだけど、
いずれにせよ何よりもかによりも何がなんでもオリンピックみたいに自民党は思ってるみたいだし、
王蟲の怒りは止められないし
この増田のせいでもののけ姫観るつもりがナウシカ観てしまった。どうしてくれる。
漫画版ももちろん大好きだけど、音と声と動きとがあって感覚全部使って揺さぶられる。
ただでさえすごい映画で、何回もテープやDVD見てるのに、それをおまえ映画館で観たらさあ…
腐海や蟲達の描写とか、一歩間違えればめちゃくちゃグロいし目を背けたくなるだろうに絶妙に綺麗。初っ端の腐海描写が全面青っぽいのが海の中みたいで嫌悪感減↓とか、王蟲の威厳とか。
傷付いたウシヤブの守ってあげたくなる感とか。
ここで蟲描写に拒否反応出てたらナウシカに同調・共感できないもんね。
すごい。ほんとにすごい…
あと場面がすごい速さで展開してる。
1日目→ユパ救出、風の谷到着、深夜に艦墜落
2日目→トルメキア軍に制圧される
3日目→朝からペジテに出発、アスベルに襲撃される、腐海泊まり
4日目→ペジテ行って捕まる、脱出(ここのコルベットと会敵して逃げるときの音楽だーいすき!!!!ありがとう久石譲)
5日目→なんやかんやで終幕
書き出したら5日だった。
あとは自身の子が出来てから初ナウシカだったので、ちょいちょい親目線の感想が入るようになった。
アップにハノン前半をゆっくりさらって、初見でツェルニー30番の1番だけ。
全然弾けなくて草
練習曲1曲分くらいは初見でまともになると思った僕がばかでした。
マスターできないのがわかったので、キッチリゆっくり練習して休憩。
そのあとは好き放題にテキトーに弾く。
ナウシカの王蟲との交流、ラピュタの空から降って来た少女のコード進行を耳コピして五線譜ノートにメモ。
ラピュタOPは後半のサビに来るところがシータの飛行石光るところにマッチしてついつい感情の塊になる。いいよね…。
休憩してから昔はそれなりに弾けたチックコリアのスペインを弾く。
全然弾けなくなってて草
それでも弾くのは楽しい。
何も弾けなくなってて絶望。
あー指いたい。
は? 小指痛すぎでは?????
テレビで何回か見てたんだけど、近所のイオンでジブリを上映するとの事で行ってみる。
前から三列目で見たんだけど、画像か荒い感じがした。絵がザラザラしてて、解像度を無理に上げてるようだった。あと、ナウシカの顔の構成がけっこう単純だなと思った。具体的には、へのへのもへじに濁点増やしたような感じ(あくまで個人の意見です)。背景に比べると、非常に単純な感じ。逆に背景や戦車や飛行機は細部まで描き込まれた絵がそのまま動いてる感じがした。
最初は画面の見た目を思いつつ、観てたんだけど、だんだん引き込まれて、ナウシカが小王蟲を助けてるとこぐらいから、目から水が垂れてました。あと、トルメキアにやられているペジテが味方だと思っていたら、風の谷に王蟲の群れを送り込むことを画策していることを知ったときの絶望感が凄かった。戦争の非情感をよく表してると思った。
今コロナ対策で、席の前後左右が空いているので、周りが気にならずに観れるから、みんな行ってね。次はもののけ姫見に行くかな。
劇場版ポケットモンスターセレビィ(2001)を今更みました。
セレビィがどうとか言う前に、ジブリの〇〇に似てるなあと思ってしまう自分にがっかりしました。
セレビィの森に入ってく古道のような古木のトンネルは千と千尋の神隠しのトンネルに見えるし
命の湖はシシガミの森の湖はに見えるし
傷ついたセレビィを癒す金色の光は風の谷のナウシカで王蟲がナウシカを癒すシーンに見えるし
ロケット団の悪役がセレビィを操り攻撃させるときの動作とセリフはクシャナが巨神兵に「薙ぎ払え」と言っているシーンに見えるし
セレビィがツルに絡まって苦しんでいるのはラピュタの飛行石を守る木の根に見えるし
私は既に知っている作品の似たシーンを思い出し、「このシーンに似ているなあ」と思ってしまう
これ「https://note.mu/amakara_no_tare/n/na4eb53fb6768」を受けて書きたいと思ったこと記事。
自分は今回に関してはテレビ局に慎重に取り扱ってほしい旨をメールで送った、ドラマ実写化に関してのみ規制賛成派。
該当作品はツイッター投稿をリアルタイムで見てて、その後ピクシブのぶんだけ読んだ。
ここまで前提。
■幸色のワンルームは少女にとって魅力的なのは「性」の扱い方にもあるんじゃないか
■クロスメディア展開がへたくそなのと制作側が色々甘く見てそうで怖い
■実写ドラマ反対したい理由は色々だけど、私個人に関しては”自分のため”だったと思う
の3本です。長い。一番最後に3行でまとめたから忙しい人はそれ読んでくれたら嬉しい。
幸色のワンルームは単なる誘拐の話ではなく、ただの男女の逃避行でもなく、
・理不尽にただ蹲って耐えるしかなかった少女が守るべきもの(=居たいと思える居場所、人)をはじめて得て戦うことで少女から大人へと羽化する話であり、
・リアルの男女の性に絶望した読者に対して「男と女ではなく、大人と子供でもなく、ひとりとひとりの人間として関係性を結ぶ」という夢を与える物語。
と捉えることができる。できるんですよ。傍から見たら犯罪だけど。
(問題は誘拐ストーカー設定なくてもこれを描けたことだけど、その設定のおかげで(いろんな意味で)バズってるから うん…)
「男とか女とか性とか支配被支配とかラベルだけの話ではなく、ぜんぶひっくるめて、私という人間とあなたという人間の話であり、救いの話」というふうに見たとき、
正直、読み口としては2000年代の商業BLやブロマンスに近いなと私は思った。
実際幸色のワンルームの幸とお兄さんの関係は決して恋愛感情だけにはとどまらないという風に描かれています。
加害者と被害者であり、無自覚的な搾取する側とされる側であり、姫と従僕であり、ナウシカと王蟲の幼生であり、友情であり、慈愛や同情であり、恋愛感情もうっすらあり、依存であり、共闘関係であり、勘違いであり、共犯者であり、そして全てを肯定し合う関係である。
だから人気が出た。
恋も愛もべたべたラベルが付いてひと山いくらで売られていることを、十代の少女たちはとっくに気づいている。そんなふうに安っぽくない、けれど十代少女たちに門戸を開いているフィクション作品をもとめている。それがどれだけ過去の文学や映画や漫画でありふれてやりつくされてきたものだとしても、「いま」「ここ」で「私たちに対して」向けられている作品に惹かれて何がおかしいのだ。
またこれは重大なポイントだが、お兄さんは性のにおいがしない。
デフォルメされた世界で成人男性の記号をほとんど持たない、いってしまえば無性の存在。メンタル的にもそう。
その上、精神年齢は少女とほぼ変わらないため、罪の意識を持った姿は読者にはどこか可哀想にうつる。過去の傷があるらしく年下の幸が守らねばと思うほどいたいけでたよりない。幸に都合の悪いこともしない。
けど、男。
「そんなやついねえよ」だ。だからこれはファンタジーだし理想たりえる。リアルと切り離せる免罪符でもある。
ひと山いくらのラノベに出てくる都合のよいヒロインから性の匂いをひっぺがしたようなものだ。少女にとって男の性は不要なもの、というか幼いころから自分を脅かしてきたものでしかないから、無い方がいい。幸の安心できる居住空間を提供する為にも。
だから、ストーカー、誘拐犯の男、というショッキングでスキャンダラスな設定はあるものの、それは今やおにいさんと幸が法を犯したことをしても問題ないというハードル下げのための設定になり下がっており、基本「ある日突然(可愛くて自分が居ないと生きていけない(A))女の子が空から降ってきた」と同義なのだ。ぺらっぺらだが、それこそが求められている。「怖くないから」だ。
(A)には「やんごとない身分の」「血のつながらない妹/姉である」とか、あと「大量殺戮生体兵器の」とか「妖怪の」とか「暗殺者の」とか「殺人鬼の」とか「サイコパスの」とか入ったりする。よくあるやろ。そういうのを①男女逆にして②リアル現代の③クライムフィクションにチューニングすると
ついこないだあった事件にそっくりで笑えなくなる、みたいなの超あるあるなんすわ…
とはいえフィクションだし少女漫画だし、問題ねーじゃんと思うだろ?私も思う。お兄さんは捕まるか虐待親に突撃して共倒れして死んで美しい思い出になって欲しいけど(どうせやるなら徹底的に幸に都合よく退場して欲しい)。
ツイッターへの最初の投稿とか現実の事件に対してタイミングが最悪すぎる件に関してわざとかどうかはもう「関係ありません」で貫き通すだろうし実際分かんねえからいいわ…。マジでインスピレーションさえ受けてないとしてももう運が悪かったと思ってほしい。というか当時あれだけのトップニュースすらチェックしてなかったなら作者はうかつだし、チェックしてても特に何も考えず出したならそれはそれで大変アレなのでそれは怒られても仕方ないんじゃねーかと思う。
特に問題に思うのは、クロスメディアするとしたら慎重にやるべき題材だったということだ。
「先生!」「PとJK」の実写化の時も同じこと思ったけど(あれも「少女漫画なら素敵だがリアルに考えるとわりとやばい」案件)今回は格が違う。なんせ誘拐犯でストーカーだ。どれだけ気を使っても使いすぎるということは無いだろうに…と思う。
後ろめたさも、退廃的なことも、この作品の魅力と分かちがたく結びついている。伝え方を一つ間違えたら倫理観を疑われる作品なのは変わらないのだ。
このへんは制作側の、なかでもプロモーションの腕が必要な作品だろうなと思う。
たとえば、この作品がギリギリまで性のにおいを消臭できているのは、絵柄の影響が大きい。デフォルメが強く、リアルさは無いティーン向けの絵。虐めのシーンにも性的なものは見受けられず変態教師とのバトルでさえ匂わせる程度だ。
性も犯罪も、それが主題ではないのだと、なによりも絵が主張している。
また、この作品は家族で見てやいやい言いながら見るより、一人で集中して見たいものじゃないだろうか?ターゲットは現在テレビを良く見る層と被っているか?いないんじゃないか?ティーンの原作ファンがこの作品を見て語り合うなら、家族よりも、同性で趣味の合う友達とではないか?
だから、メディア展開を思い切り間違えてる気がしてならないのだ。
テレビでやるならアニメ作品にすべきだったと思う。その人気に火を付けた一端でもあるキャッチーな絵柄を生かし、フィクションであることを最大限利用すればよかった。あくまでこれは夢物語で、リアルとは違うのだとアピールすればよかった。それでも非難は受けただろうが実写化よりはましだったはずだ。「誤解されやすいけど本来こういう話ですよ」と12話でも24話でもかけてやればよかった。
実写化したいなら、この退廃的な作品は映画の方が合うだろうと思った。それに映画館でしか見れない、というフィルタリングは大きい。実写化することでどうしても露悪的に、生々しい匂いになる画面をテレビから無作為にまき散らすのではなく、納得して料金を払い席に着いた観客にだけ誠心誠意向き合う形をとれば良かった。観客を巻き込んで二人の世界に浸れる場所を作ればよかった。
広告展開で規制派の火に油を注ぐ可能性は大いにあっただろうが、中止よりはマシな結果になったんじゃないか。
なんで再現が難しい絵柄を実写で、なんでナイーブかつ視聴者を選ぶであろう題材を全国放送の誰でも見れる割にメインターゲットを逃しまくるであろうテレビで、やろうとしたのだろう。やはりコストの問題だろうか。
いや本が売れたらいいなと思ってたんだろうけど炎上商法やった割にリターンがアレ過ぎない?そうでもない?わからんけど
正直、ドラマ制作側も作者の方も編集部も、「現実にある犯罪を扱った現代劇である」という認識が甘すぎたのではないかと思う。
それも、未成年の被害者がいる事件を、「犯罪としてではなく救済として描く」というひねりを売りにした作品でだ。
「カリオストロの城」でも撮っている感覚だったのかもしれない。モニタの解像度低いわ。
もしくは、とてもリアルだと思ったから実写にしよう!と思ったのかもしれない。
そのリアルさは虚構で夢でしかなく、それでいてとてもありふれた現実だ。
だって、実際の誘拐や幼児への事案はひっきりなしに起こっていて(マジでひっきりなしに起こっている)。
ストーカーや誘拐犯の脳内で、自分は被害者と愛し合っていたという美しい物語が展開されているのは決して珍しくないのだから。
その恐ろしさを無視して、リアルに寄せる実写化をするのは賛成できなかった。
苦言を呈す派に対して作者からのコメントは「実際の事件とは切り離してみてください」これだけだ。たったこの一言で全て免罪されるなら表現の自由とはなんとも気楽で無責任なものではないですか。いや作品内で色々ファンタジー要素盛って免罪符切ってるしあれこれ言及するより作品に集中するのは良い手だと思うけど無責任だとは思うぞ。
だって「世の中いろんな人もいる」と、これが現実でもありえるかもね、とでも捉えられるコメントを付けて世に送り出したのは、他ならぬ作者自身なのだ。
ドラマにしても、女優に「実際にこういうこともあるかもと思う」というコメントを、編集もせず流してしまった。(これで規制派の使命感に火を付けたようなものだと思っている)。制作側止めろよ…
現代のクライムフィクション作品でこのコメントが出るときは「だから怖いなって思いました」くらいのことが続くはずが、「実際あったら素敵」と続いてしまうような。
作品そのものというよりもその周りの倫理観がガバガバなのだ。現実がガバガバ。
そうでなくても今現在、長年沈黙されてきたハリウッドやら世界的に女優の性的搾取の告発が起きてて転換期で、それでも搾取する側の擁護をやめない(「いや、でも女性側も望んでたんじゃないか」みたいなのワイドショーで沢山見ましたね!)、日本のテレビ業界をつい最近私たちは見せつけられているのだ。そもそもの信頼感が地に落ちている時に「地獄の真ん中で搾取されてるけど女の子はハッピーです」みたいな作品作ってもそりゃ倫理観が疑われるだろという話だ。
お兄さんと幸の間にある感情はとても純粋なもののように描かれる。
それは憂いを帯びて美しい。破滅に向かっているからだ。地獄の上にある安息だからだ。あかるい太陽ではなく、暗闇の中の星。
薄汚く、ふたりを虐めるものばかりの世界でここだけは綺麗であるように感じる。実際そうだからなのだろう。未来なんて考えたくもないし過去の事は忘れたい。いまここにある、おにいさんと幸のあいだにある、形容しがたいなにか、それだけが全ての世界でいたい。
この作品のメディア展開が一つ潰れることで、悲しく思うファンもいるだろうなと思う。恨まれるだろうなとも。
つーか私も十代の時に、リアルで起きた殺人事件(娘が父を鎌かなんかで…)をうけて「ひぐらしのなく頃に」のメインキャラが義父を鉈で殺す回の放送が見送られた時「いやリアルとの区別くらいついてますけども~~~~~????」って怒ってたよ。
でも今(アラサーだよ)、もし「新幹線で鉈をふるう殺人事件が起きたけど、犯人は実は悪い人ではなかった」みたいなフィクション作品がテレビで予定されてるとしたら…今の私は、「それは見送った方が良いのではないか」と思う。
大人になるにつれて、想像力は広がりだけではなくリアルさを増していった。経験と知識が増えたからだ。
「これのせいでちいさい子供や、少年少女が酷い目にあうかもしれない」と思うと、耐えられなくなってくる。大人になれば強くなると思っていたのに、陰惨なフィクションも年々見れなくなっている。それは、年を重ねた分現実に起きる陰惨な事件を、それに対する酷い言説を、これまで見過ぎて、現実を見過ぎて、どうしても思い出すから、なんだか嫌になっちゃうからだと思う。大人になるにつれて、後から生まれてくる子たちが傷つかない世界になればいいと、祈るようになってきたからだと思う。
フィクションなのに、現実で被害に遭って泣いていた子や、かつて嫌な思いをしたときの自分を、思い出す。被害者の絞り出す様な言葉や、それに向けられた酷い言葉の数々を、理不尽を、やたらと思い出して、想像してしまって、苦しいときがある。
子供の時はフィクション作品やメディアの力を舐めてたし、大人になればもっと区別がつくようになる、
なんならフィクションを見てリアルを思い出すなんてオタク失格だとすら思っていた。
でもそうじゃなかった。
倫理観スイッチ切って倫理観ゼロの作品を楽しむには、TPOがある程度大事だと知った。自分の家族を亡くした直後に、家族を殺す話を楽しく読めないように。
倫理観ゼロの作品は、倫理観ゼロの現実世界では楽しめないと分かった。楽しめるならそれは娯楽である以上に、麻酔や薬であり、治療なのかもしれないと思った。生きるための救済。
作品の影響力を舐めたらダメだと思った。面倒なオタクである自分は偶像やフィクションに命を救われてなんとか生きてきた。
ならば人の命を奪う作品が無いなどとどうして言えるのか。
だから今回の幸色のワンルームへの規制は、わたしは(あくまで私はな)、
これを見た「大人」がリアルに起きた事件や今までの経験のフラッシュバックに耐えきれなくて「やめろ、せめて少女漫画のカテゴリのなかにいてくれ。そうでないなら無作為にまき散らす前に対策してくれ無作為にまき散らされて何が起こるか分かってんだおれはくわしいんだ(※嫌なことを沢山思い出しながら)」
って言ったんだと思う。
そういう側面は大いにあると思ってる。
「それでも僕はやってない。」が公開された以降から痴漢被害者への二次加害が酷くなったって話聞いてワァーってなった。
そんな変遷を見てきたら「こういう作品が公開されたら、また…」というフラバもそりゃ起きるよと思った。
直前に現実の誘拐事件があり被害者バッシングを見てるんだから余計に「あれが、また…」ってなるよ。(だから本当にタイミングが悪すぎたんだよ…)
というかそれはダメだ。現実がこうだから配慮して作品自体消そうみたいなのは私が一番やりたくないことだった。だからゾーニングとフィルタリング推進派なんだけどさ。
そしてゾーニング・フィルタリングはメディアの差でも実施できると思う。その作品に触れるまでのハードルの差があると考えているから。テレビは特にハードルが低い。例えば映画館での上映や本屋で棚が分けられパッキングされた単行本等とはそれだけでも違う。同列に語れないと思う。
だからってガチガチにこの本は誰向け!この本はこの性別この年齢このカテゴリ!とかマジ誰もやりたくねーよ。なにそのディストピアだよ。
ネックは「現実の事件に対する二次加害が野放しなこと」だから、ここがマシになれば結果的に表現の自由も守られるんじゃねーかなと思うけどどうですかそのへん。
ほんとね現実クソだったよ。現実の誘拐事件おこす犯人もマジでクソだったし被害者に向ける目も相当クソ。二次加害を大量に見過ぎて本当にメンタル削れたし、なによりオタクのリアル事件に対する大喜利に慣れ過ぎて、被害者がいるっつーのに自分も一瞬「あっそんなひどいことされてなかったのかも?」とか思ってしまったのがめちゃくちゃ自己嫌悪で死にたくなった(自分ネットのアイドルと二次元オタクカルチャーに10数年どっぷりなんですよ)。「そんなわけねーだろ」と思った。被害者の苦しみをも加害者のやったことも軽視出来るもんじゃない。絶対。
この感覚のままでいるのはやばいと思った。でもこれは曲りなりにも女体持ちで嫌な思いも散々してきたから「そんなわけねーだろ」と思えた部分はあるだろうなってのもあるし、「そんなわけねー話」をいくらでも茶化せる人がいるのも知っていた。
誘拐もストーカーも盗撮も被害者叩きも遠い世界の人にとってはそれはファンタジーだろうしな。
でもファンタジーじゃねえんだよな。
私が生きていく現実に影響があるんなら、私は私のために戦わないといけないと思ったんだよ。
『GODZILLA 決戦機動増殖都市』について。
生態系の暴走[王蟲/ゴジラ]をロストテクノロジーの最終兵器[巨神兵/メカゴジラ]で止めようとする、が失敗するという話。
他にも、ハルオはモスラの鱗粉(?)を身体に塗られたことでナノメタルに取り込まれずに助かる――ナウシカは王蟲の血を浴びたことで伝説通りの存在となる、という点も似てる。
(さらに宮崎アニメからの影響らしき部分として、無人のまま自己修復をつづけていた都市は「ラピュタ」、フツアのフェイスペイントなどは「もののけ姫」と思える)
だからアニメ「ナウシカ」に沿って、この先の展開を考えるなら、奇跡を象徴するモスラの出現によってゴジラの暴走は鎮まり、人類は自然との調和を取り戻す、といった感じになるという予測ができる。
しかし、第三部ではキングギドラの登場が予告されており、この通りにはならないだろう。
ハルオはメトフィエスからゴジラ以上の脅威として「ギドラ」の名を聞かされる。
原作「ナウシカ」で、王蟲以上の脅威として出現したのは粘菌である。「ナウシカ」における粘菌に対応するものとして「アニゴジ」にはギドラが登場するのではないか。
第三部のタイトル「星を喰う者」も、原作「ナウシカ」の粘菌のすべてを食い尽くそうとするイメージと重なる。
「アニゴジ」の登場人物の布置は、原作「ナウシカ」を参考にしているのかもしれない。
賢者的なエクシフは森の人を思わせるが、宗教家ということでは土鬼の僧正らにも近い。ビルサルドの武闘派のイメージは土鬼兵のようだが、進んでナノメタルと融合しようとする不気味さはヒドラのようでもある。フツアのナノメタルの使用は風の谷の民のようだが、モスラと心を通わせているとすれば森の人のようでもある。
このように単純な重ね合わせではなく、要素を組み替えて使っている。
宮崎駿は尊敬する作家としてよく『モスラ』の原作者の一人、堀田善衛を挙げており、ともに巨大イモ虫によって自然の聖性をあらわした作品として『風の谷のナウシカ』は、『モスラ』の後継に位置づけられる。
この『モスラ』『ナウシカ』を結ぶ線の延長上に「アニゴジ」はある。
巨神兵の作画を担当した庵野秀明は、『新世紀エヴァンゲリオン』にもそのイメージを反映させ、短編「巨神兵東京にあらわる」を経て、54年と84年二つの『ゴジラ』を引き継ぐものとして『シン・ゴジラ』を完成させた。
重く受け止めているからこそ、旧人類のした「生命をもてあそぶ」という愚行を責めていないだろう。それは仕方がなかったと言っている。それを重く受け止めた上で、現人類は別の道を行くと言ってるだけだ。
旧人類は「リセット」したんだよ。現人類は「リセットはしない」と言っている。そのことをもっと重く受け止めろ。
団塊世代は高度成長期という比較的過ごしやすい時代を生きていたのに後生のことは考えていなかったから批判されている。ナウシカたちの死ぬか生きるかの世界とは全然違う。雑な例を出すな。あと「ナウシカが正義」なんて一度も書いてないだろ。「ナウシカもそうするしかなかった」と書いてるの。
ナウシカは選択の是非を問われる立場にいたし、それまでの功績がどうであろうがその1点については人類滅亡まで問われ続ける。それは揺らぎようのない事実。
あなたはいつも「~なのは疑いようがない」とか「~は揺らぎようのない事実」とか書いているけど、根拠がないんだよ。「○○だと思う。なぜなら私がそう思うから」でしかない。毎回そうだ。
違う。未来への道筋を残すために今を生き残る必要があるの。現人類はあなたの言う「未来を作る確固とした意志」の上に今を選択した。
一方の旧人類は自身の改善を諦めた。旧人類は「未来の今を生きる人間のため」に新人類を作ったんじゃない。道筋なんて作ってないの。自分たちに絶望し、自分たちと未来との繋がりを切って捨てたの。旧人類が未来に残したのは音楽や詩だけ。卵には旧人類の積み重ねなんて残っちゃいない。
あなたは「旧人類の絶望が分かる」と言うが、これが理解できていないようでは全然分かってないんじゃないの?
私は最初はあなたに期待していたんだよ。「きっと別の方法が取れる」かのように書いているから「確かに選択肢は多い方がいいな。どんな手段を考えているんだろう」と読んでみたら「~は揺らぎようのない事実。~は恨むだろう」だ。
別にあなた一人がそう思うだけならそれで何の問題もないよ。でもその思考をもって他人を責めたり、他人の思考を代弁する気なら、それなりの根拠が必要だろう。
繰り返すが、私がここまでで一番納得いかないのは、あなたにはまともな根拠がないこと。あっても簡単に反論できてしまうものしかないことなんだよ。
ここでもう一度これまでにあなたが出してきた疑問点について書いてみたい。
ない、と私は書いた。それは物語から読み取れることであり、また「ある」とした場合矛盾が生まれるからだ。
1.現人類と新人類は共存できない。なぜなら現人類は新人類を簡単に滅ぼせる力を持っており、新人類は簡単に滅ぼされるほど弱い。
2.よって旧人類は、現人類をそのまま生かしておくことは考えていない。唯一の抜け道は現人類の新人類化。
3.しかし、新人類化=感情をなくした人間=「そんなもの人間ではない」と私は考える。
4.「それもまた人間である」派に「そんなもの人間ではない」派を止める力はない。あなたにその力がないように。
5.結果、現人類は旧人類の技術を受け入れない。墓の技術は使用されない。
現生人類が奇跡的に新しい環境に適応できる確率と、墓と和解する、墓の技術を使って適応できるよう変わる、新生人類と共存の道を歩む確率なら後者の方が高いことは疑いようがない。
同意しない。私はナウシカが言うように、血を吐きながらでも現人類の中から浄化された環境に適応できる人が現れると考える。なぜなら自然界の中で生き多様性を身に着けた人類の生命力は、頭空っぽの新人類には想像できないくらい強いからだ。
一方の新人類の生命力は恐ろしく弱い。あなたが言うように、敵を殺すぐらいなら自分で死を選ぶからだ。捕食して栄養を得る能力を持つ単細胞生物(粘菌)にすら及ばないのだ。墓所の技術で栄養はなんとでもなるし、不死身にもできるが、実際は寿命が設定されて次の卵と変わるだけだろう。一種のウイルスか、卵が寄生虫に乗っ取られるか、いずれにせよ同じ体に作り変えられたら現人類は一緒に全滅する。
なによりそれらの方法を検討している余裕がない。墓は現人類の存続を現在進行形で脅かしている。墓所を生かしておけば先に現人類が滅ぶ。そして何度も言うが現人類は滅びを選ばない。
現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。
上にも書いたけど、あなたは旧人類の思考を理解できていないと思うよ。または「あなたは理解できた」かもしれないが、現人類の大多数には理解できなかったんだよ。そしてあなたには理解をしてもらえるだけの説得力がない。
全滅してから言え。
とかまだ言ってるし。人類は「今は絶滅しない」道を選んだんだよ。あなたの言うことは聞かない。
絶滅するしかない、という案を取るか取らないかはその時の人類が決めることだ。あなたが「現人類には絶滅してほしい」「新人類に希望を」と言ったところで現人類を説得できなければかなわないじゃないか。
私は、あなたの疑問に一つ一つ反論を出し、その根拠を書いてきた。なのにあなたはなんだ?パチンコが~とか本来日本人は~とか雑な例はいらないんだよ。疲れてたのは分かるけどさ。
私は、一応は人類としての回避策を出しただろ。現人類が踏みとどまり、どうにか戦争と自滅を回避し、新人類を受け入れられるだけの余裕を持てればよかったと。しかし今回はかなわなかった。私自身がその場にいても、協力らしい協力もできず、ナウシカに託すくらいしかなかっただろう。
多様性のない新人類はそのままでは王蟲のようにはなれないし、あの時点で現人類に新人類を受け入れる余裕もない。ナウシカが滅ぼさずとも現人類に滅ぼされる。
罪をかぶるなら全人類が被るべきであって、最後の決断をゆだねられたナウシカではない。あなたは自分なら罪をかぶらずに済んだのにと思っているようだがあなた自身も現人類であり、新人類を救えなかった一人だ。
私は先日、
「ナウシカは一人の人物ではあるけど、結局はそこに至るまでの過程を現人類が選択したんだよ。あなたならその時破滅を止めるために何か協力できただろうか?」
と書いたが、一番聞きたい回答はこれについてなんだ。あなたは、自身がどうすれば今回の悲劇を止められただろうと思っているのか。
「ナウシカがこうすればよかった」という例についてはこれまでに書いた通り「それはできそうにない」と私は思う。なので、ここではあなた自身、いや個人でできることなんてたかが知れてるので、あの場の「人類が」どうすればナウシカの行動を止めることができたか?ということについて聞いてみたい。
で、私は今後三週間くらい忙しくて増田を読んでる余裕がなくなる。もしこのダラダラと長い駄文に回答してくれる余裕があるなら、急がないんでのんびりどうぞ。
(実は上記以外に、もう一つ追加で文章を書いていて、長いので別記にした。anond:20180303232700 忙しいだろうし余裕があるときにでも)
うん。めちゃくちゃ肩入れしてるよ。私はナウシカという人物が大好きだし。
そして、ナウシカは現人類に肩入れしている。ユパが好きだし、アスベルやチククも好き。クシャナやクロトワだって好きだ。風の谷のみんなが好きだし、トルメキア人やドルク、蟲使いも。それ以上に王蟲が好きなんだけど……。いがみ合いは嫌いだが、いがみ合ってる人物そのものを嫌っているわけではない。
その好きな人々を亡くしたくないんだよ。そのためにできることは何でもするだけだ。犠牲行動を「良い」と思ってやっているわけではない。行動原理は「その相手を助けたい」だ。そのためなら瘴気の中でマスクだって取っちゃうし、周りをドルクに囲まれて死の一歩手前だろうがトリウマを助けるのが先だ。「良いか悪いか」で判断してるような人にこの行動はとれない。
ナウシカは墓所が現人類に邪魔だから消したんだよ。私もその決断に同意する。「私達のように凶暴でなく、おだやかで、かしこい人間」なんていらない。少なくともそれを生かすことによって自身の愛する世界を失うことになるのなら、その障害を潰すことを厭わない。
作中の現人類の多くはこの思考に同意するだろう。漫画の世界ではなく、今PCを閲覧している読者の多くも、ヴ王と同様に「そんなもの人間とはいえん」と思っているだろう。
うん、それは私の思い込みだな。新人類が進化して「凶暴で、おだやかでない、バカな人間」に、現人類並みに育つ可能性はあるよ。私はそれまで待てない、と言い換えるか。それにどうせ現人類並みになるならリセットせずに今の現人類を使えばいいじゃない。そしてそのとき、墓所の技術は現人類にとって危なすぎるの。そこの技術が現人類のいがみ合いの種の一つになってるから。「ヒトラーと同じだ」というが、ヒトラーなら優性思想だから「おだやかで賢い人間」を生かすんじゃないの。知らんけど。
墓所側が攻撃するのは当たり前のことだ。旧人類の悲願は人間性の闇を捨てることだ。現生人類を死滅させたいのも当たり前だ。それが残っていては計画が水の泡になる。交渉する余地など最初からない。武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある。
あ、そういうこと言っちゃうんだ。じゃあまあ墓が弱かったから仕方ないね。「交渉の余地すらない。武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある」と言うからには負けた旧人類と新人類は黙って消えるしかないだろ。どうもあなたは「墓所が勝った場合は人類に交渉の余地はない」しかし「墓所が負けた場合は、墓所は交渉のテーブルに着かせてもらえる」と思っているようだが、そんな甘いわけがない、巨神兵の裁定はおりている。そして巨神兵をプログラムしたのは旧人類だ。
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。はるかかなたの未来に生きる人類たちだ
「今」を生きるのに精いっぱいの人々にはるかかなたの未来に生きる人類を気にかけてる余裕なんかない。21世紀の現代日本ですらそうだろ。繰り返すけど、あなたは物語の中の今を生きている人類に寄り添えていない。そんな人物の言説を誰が聞く?
古今東西、人を説得できないと物事は変わらない。国会でどれだけ「日本を良くする法だ!」と自説の正しさ唱えたところで、党内の票をまとめられなければ法案は通らず歴史は変わらない。
その、愚かな人類と決別しようとする "新人類教" では物語の中の世界を変えられないんだよ。せいぜい数千年後にまだしぶとく生き残っている現人類が「古文書見つけた!『お前ら人類は虐殺者だ』『ナウシカは悪魔だ!世界を滅ぼしたのだ!』とか書いてあるよ。新人類教だってさ」と珍しがる程度だ。
そうだろうね。そしてそういう人物は、誰かを殺す心配をするまでもなく、とうに誰かに殺さているだろう、と先にも書いたよ。
ナウシカの世界は、その環境の過酷さにより人々がいがみ合い、憎しみ合っている。しかしそれぞれの人は "新人類ではない" から、憎悪の一方で愛も持っている。良い一面も悪い一面も持っている。これが人間だ。そういう人々の行動を変えるにはどうしたら良いか。まずは説得だ。ナウシカは数々説得してきた。しかし凶暴で賢くない人類だから、説得には応じられないこともあるだろう。では説得に応じない相手はどうすれば良いのだろうか?そう "行動を起こす" のだ。あなたは「交渉する余地などない、まず武力だ」と言っているが、まずは交渉、のちに行動。
最終話近く、マニ族とクシャナ軍がにらみあっている。ユパが、ケチャや年寄り連中と一緒に必死にマニ族を説得している。だがマニの若者たちは納得しない。彼ら彼女らも "復讐は何も生まない" と理性では分かっているのだ。だが自身の感情を説得しきれない。そして、この気持ちを晴らすにはトルメキア人を殺すしかない、と"行動を起こし"クシャナに襲い掛かかった。(法の整備された現代日本では許されないよ)
ここでユパも説得は通じなかったことを悟り次の手段に出る。マニ族とクシャナの間に割って入り、マニの刃を受けることで双方の連鎖を止めた。先だって左腕も犠牲にし「この片腕、わしの心のあかしだ。たのむ判ってくれ」と再度説得。単なるきれいごとではなく、自らを痛めてまで訴える人間の言葉は人の心に届く。(これには先立ってマニの僧正が同じ方法でユパの命を救っており、恩返しという側面と、僧正の念がこの場に出現しマニ族を説得するという流れになっている。この通り、聞かなきゃ殴るだけが行動ではない)
ナウシカも同様に、数々の行動によって人々を説得してきた。
ナウシカは恐れでためらうことが少なく、瞬時の判断力を持っており、おおむね良い方向に作用する。(主人公補正はあるが)
アスベルを新人類と入れ替えてみたらどうだ?と言いたそうだな。やってみようか。新人類は生き残ろうとしない。生に執着しない。あなたと同様に「人間の凶悪さを発揮し蟲を殺してまで生きようとは思わない」と言い残し、ナウシカに遭遇する前に蟲に食われる。おしまい。
説得・行動・説得・行動だ。これによりナウシカは数々の障壁を超えてきた。残念ながらあなたの思惑とは違い、最終話ではもはやナウシカを止める人はいない。ナウシカはもう辺境の一首長ではない。行動により強力な支持者を得て、民衆を説得できる力を持った。ナウシカはみんなをつなぐ糸になれた。
あなたには説得力もなければ行動力もない。だから序盤で死んでいるだろうけど、それを大目に見てこの場で
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。はるかかなたの未来に生きる人類たちだ
と言えたとしよう。で?誰が耳を……あ!聞く耳持つ人がいたわ!墓所と守り人。ヒドラ。
これがあなたの発言。そして墓所・庭園の主『歴史は繰り返す』『お前達はその朝をこえることはできない』。そっくりだな!といってもあなたは墓の側に立って意見を出してるんだからそりゃそうか。
あなたが墓所かヒドラだった場合、結局ナウシカを説得できなかったので歴史は変わらない。変えるとしたら、最後の生き残りの人々の前に現れ、今回の数々の教義を唱え、賛同者を募ってナウシカを止めてもらう必要がある。
そこにいる人々は、戦乱の世を必死に生き延び、死にたくないと願い、場合によっては人を殺めても生き延びてきた人たちである。その中でどのくらいあなたの賛同者がいると思う?ナウシカを引き留めるには到底足りないと思うんだけどね。
ナウシカだって最初は無垢でいたかったんだよ。でもそれだけでは自分の愛する人は救えないと理解し、成長する物語だ。そしてナウシカは罪悪感や自己矛盾をちゃんと受け入れている。「人類を滅ぼしにいくのかもしれない」と自覚している。「悪魔として記憶されてもかまわぬ」と言っている。それに比べりゃ私たちなんて楽なもんだ。最後の決定をナウシカに任せちゃえるんだから。だからこそ、その決定について、ナウシカに責を負わせることはしないでおこうと思う。
新人類だってあなたを救世主だとは思えないだろう。「その人は私たちのために何かをしてくれたの?」「なんだ、世界の片隅で祈ってただけか」と。
あなたは、未来を変えたいが、自分の手は汚したくないという。墓所の主はそういう役割としてプログラムされているからまだわかる。しかしあなたはには自分の意志があるのに、その体があるのに、先へ進もうとしない。今の自分を超えようとしない。現人類より新人類側に思いを寄せている。もしかしたらあなたも旧人類のように全てに絶望しているのかもしれない。どうせ全滅するのだから何をしたって同じか?「そうではない」とこの物語は示している。
ナウシカの行為に正当性を産むことができるとしたら現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。しかし作中の現生人類がそれを示すことはないまま作品は終わってしまった。
「答え」なんか分かるわけがない、っていうか自分で考えろってことだよ。人類は再度火の七日間を起こすよ。歴史は繰り返す。人類は愚かだから正統性より目の前の命を取る。
今回私が書いたことはほとんど漫画の中に描写されていることだ。あなたは最後の答えを知りたいというが、まずそこに至るまでをうまく読み取れていないじゃないか。まずもう一度通して読んでみてはどうだ。
あなたは結果を重視しているが、私は現人類の過程を重視している。あなたは「自然に任せよう」と思っているらしいが、あなたが自然だと思っていることは実のところ人間のプログラムだ。穏やかで、賢い、人工の物体だ。自然体は許されない。人も動物も全てを書き換えるつもりだ。ナウシカの方法の方がずっと自然だ。「今」を乗り越えても、凶暴で頭の悪い人類は結局は滅ぶかもしれない。でも人類は滅んでも虫や動物は生き続ける。人類は滅ぶが、世界は滅ばない。とはいえ、人類はそんな簡単には諦めないという話だ。
たとえ過去1万回同じ過ちを繰り返したとしても、諦めなければ1万1回目でクリアできてしまうのが人類だ。1万1回やったけどダメだったから諦めたのが旧人類なんだろう。現人類は1万2回目、歴史は繰り返す。しかしそれがいつになるかは現人類が決めるし、現人類はその今を精いっぱい生きるの。
このあたりはどこまでいっても平行線かもしれない。だからあなたが「私はナウシカの決断に同意できない」と宣言すること自体に問題はない。ただ、最後の決断をした人物を責めてはいけない。私は旧人類の決断が間違っていると思うが、旧人類がそれしか取る手がなかったのだということは受け入れる。旧人類を責めはしない。現人類として、その決断には従わないという意思を示すだけだ。
1万2回目の人類の最後はナウシカが決める。少数の反対を除き、私を含め大多数はナウシカに最後を託した。
歴史に埋もれたできごとが間違っているわけではないが、トルメキアとドルクをクシャナとチククが再興していくことを考えると、はるかかなたの未来に生きる人類たちはナウシカを「救世主」として受け止めることになるよ。「青き衣の人」として。新人類は生に執着しないが、もし執着するほど進化したとしたら、その時は現人類の選択を理解し受け入れるだろう。(同時にはなし得ないのでパラドックスだが)
あなたは現人類に絶望しているのだろうが、それでも旧人類の決断に自分を託すんじゃなくて現人類として自分で決めよう。誰からも必要とされない自分なんていなくていいと思っているかもしれないが、人の評価で未来を決めることはない。
本当に絶望の淵に立っている人に「マンガでこう言ってるし」「不安も絶望も背負って、それでも生きていくしかない」と諭してもまったく力にはならないだろうなとは思う。私は漫画版ナウシカから力をもらったけど、絶望中にはせいぜい現実逃避として読んでただけな気がする。ある程度元気になって、現実世界に少し救いがあったからこそ、余裕をもってああだこうだ言える今がある。
とはいえ、あなたは「マンガだし」と投げ捨てず、その内容について意見を書き綴れるくらいの力があるんだから、もう一度立ち止まって読んでみてはどうですか。
逆にいうけど、あなたはあなたでナウシカに肩入れしすぎている。
墓所側の言い分はどうなんだ。
人類の行きつく先として巨神兵や王蟲を作るほどの高度な科学技術を手に入れたが
ヴ王やナウシカの好む人間としての闇が強すぎた結果、滅びの道に進んでしまったのが旧人類ではないか。
滅びに進むにつれて旧人類はナウシカたちが想像するよりもずっと大きな絶望と失敗を繰り返した。
ナウシカのいうような「血反吐を吐いてまで」という経験は旧人類側はもう既に十分すぎるほど経験している。
墓所側の歩いてきた歴史を信じられないし、同情もできなかった。
血反吐を吐いて進んだ道の答えが新人類であり、現生人類たちが例え環境に適応し生き残ったとしても、
まったく徒労でしかない。
人間性の闇を捨てる計画を立て、自分たちで破壊した環境を取り戻すために尽力した行動と選択は、全部旧人類の流れた血によってつくられている。
神の視点に立たずともナウシカには墓所側の行動と動機を推し測るだけの情報は十分すぎるほど得ている。
ナウシカのエゴが贔屓されたのは、それは自分たちに向いていたからだ。
ナウシカは自己犠牲や時には反知性的な犠牲行動を、「良い」と思ってやっている。
やりたいから、やっているだけであり、その行動の結果がどうなるか推し測る能力にたけているわけではない。
トルメキアの兵士を怒りに任せて殺した場面でも仲間をより危険にさらすだけだ。
それが残っていては計画が水の泡になる。
旧人類は徹頭徹尾、新人類を次の星の覇者にしたいのであって、現生人類はずっと捨て駒としてしか見てない。
だからこそ武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある。
あの時点で武力衝突するのは当たり前のことだし、それで和平が成立しないというのも早計すぎる。
交渉は戦争が終わってからしかできない、墓所と現生人類の戦争はあの時点では何も終わっていない。
むしろ墓所側からしてみれば現生人類が約束を守ってくれるなんて信じられるわけがないんだから。
真実を話せば殺される、なら戦うまでだろう。
実際その予想は当たっていてナウシカという現生人類に殺されたわけだ。
それもまた思い込みにすぎない。
旧人類の計画では新人類は現生人類が死滅した浄化された世界ではじめて活動を再開する生き物であって、
それが一体新人類にどういった影響を与えるかはそれこそ神ですら分からないことだ。
完全に未知の領域であり、王蟲のようによりよい変化が起きる可能性もあるし、
そういった可能性のある未来を確かにナウシカはあの場で殺したのだ。
ナウシカは道化との問答で自然に生きて自然に死ぬべきだといっていたが、
それはナウシカが産まれるよりずっと前から存在し何百年も経過した後の結果である、
王蟲の心という、それこそ旧人類の計画で産まれた上澄みだけを掬い取って悟ったつもりになっているだけだ。
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。
人々はナウシカを見て心動かされるかもしれないし、ナウシカのおかげで助かった人間もいる、
だがそれは、そこまでは正しかっただけであり、この先もナウシカという暴力とカリスマが正しくあり続ける保証などない。
ナウシカの聖人性の反証として最後の新人類虐殺があったわけだ。
人間性の闇に疲れて果てた旧人類側からしてみれば成し遂げられそうだった計画を台無しにして、
生みの親どころか抵抗すらできない子どもを殺す悪魔でしかない。
あの世で彼らは環境変化を生き延びた現生人類が再び科学技術を再興し、二度目の火の七日間に進むまでじっと見てるだろう。
現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。
しかし作中の現生人類がそれを示すことはないまま作品は終わってしまった。
誰もが森の賢者のようにはなれない、それを実現しようとしたのが墓所の願いだった。
ナウシカを読んだからこそ、愚かな人類と決別しようとした旧人類の思考を理解できるし、
あなたの視点は読者として外の世界から見ているからこそ言える「神の視点」なんだよ。
『墓と和解せよ』というけど、裁定者となった巨神兵が話合いのために責任者を出せと言ったのに墓は問答無用で攻撃してきた。交渉を拒否したのは墓側だよ。
『勝手に一人で現生人類を愚かだと決めつけて』というが、ナウシカは色々なところで何度も説得したよ。でも民衆は聞かなかったの。
『それがエゴ以外の何だというんだ』については先にも書いたけどその通り「エゴ」だよ。これは本にも描かれてる。
"虚無" から『お前はもう何人も殺してるくせに何カマトトぶってんだ』なんて言われてるし。
『どれだけ苦しくても人の命を奪ってでも生きたいと願わない人間もいる』
そういう人間がいた方がいい。しかし、あの世界のナウシカにそれは不可能だった。風の谷を守るためにトルメキアの捕虜になり戦場へ赴かなければいけなかった。
少年兵だと分かっていながら切り殺さなければいけなかった。そこで自分が死んではいけなかったからだ。ナウシカは風の谷を守るために人を殺してでも生き残る必要があった。
ナウシカのエゴ。戦場で赤ちゃんを拾っても足手まといなだけだ。戦場を一騎で駆け抜けたり、兵士が瘴気を吸って吐いた血を口で取り除くなんて自殺行為だ。トリウマ一匹に泣くなんて無駄だ。
しかし、これらのエゴが兵士や民を惹き付けた。あのクロトワですらな。
村の長なのに一人で腐海の深部をうろついて凶暴な王蟲を愛でている。この無謀な行動が、"汚れているのは土である" に繋がり、"粘菌の暴走の原因に気づくことができた" 理由であり、
"王蟲の信頼を得ている”ので "大海嘯の最前線に入ることができ" "王蟲は怒っているのではなく腐海となって土地の傷を癒そうとしている" "腐海は土を浄化するためにある" "これらが大海嘯の原因である" "どうも地球は腐海まみれになって滅ぼうとしているのではなく、ギリギリのバランスで生き残ろうとしている" というすべての流れに繋がっていくんだよ。それでも一回諦めちゃったけどな。
これがあなたにできただろうか?ナウシカは無敵のマンガの主人公だからなんて話は聞かないよ。私なら頭悪いから腐海に入って5秒で死んでる。あなたはおそらくどこかの時点で自らの命を絶っただろう。「最後の決断」まで辿り着けない、のはまだしもナウシカを助ける脇役にもなれないだろう。
『どれだけ苦しくても人の命を奪ってでも生きたいと願わない人間もいる』
というあなたと同じことをする人物がこの物語の中に存在する。綺麗で争わない新人類だ。あなたは私から見るとどこか「大人しくて清らかな人類の側」に立っているようにみえる。あなたは物語の中の今を生きている人類に寄り添っていない。
そして、あなたは新人類と王蟲を同列に扱い「新人類にも希望を」と言っているが、私はこの二つは同列に扱えないと考えている。
まず、旧人類は「汚染に適応した人類を元に戻す技術もここに記されている」と現人類を諭しているが、おそらくこれは嘘だ。または条件付きだろう。ロボトミー手術よろしく、頭を書き換え清廉潔白な体になれ、と。これを現人類が受け入れるわけがないし、旧人類もそれは承知なので、危険な現人類を生かしておきはしない。役目が終わったら死ぬようにプログラムした。
そして、墓もエラーが出ないように旧人類がきちんとプログラムしている。夏至と冬至に1行アウトプットするだけだ。同様に墓が管理する卵にもエラーはない。恋愛があれば争いが生まれるので、単性生殖すら避け、墓が製造した卵からのみ増えることになるだろう。
ではなぜ王蟲にはエラーが出たのか。それは ”王蟲は自然界に放たれたから”に他ならないと思う。"外敵"に襲われ、自然の驚異にさらされるなか命を長らえ、交わり子を産み世代を重ねることで突然変異も生まれる。
敵のいない、すべてを中央コンピュータに支配された新人類は、何世代も進化のないまま一種類のウイルスに対応できず全滅するだろう。"血を吐きつつもそれを乗り越えて飛ぶ"力はない。だからといって殺しても良いとは言えないけどさ……。
(墓所も能力に上限がかけられてて自我を目覚めさせるレベルにはないと思う。最後なんやかんや喚いてるがあれは旧人類の伝言。自我は巨神兵が担ってるし)
『その場にもしヴ王がいたらやはり選択は違っていただろう』『居たような気がする』
そう、その場にヴ王はいたよ。しかし、ヴ王がいても選択は変わらない。
ヴ王はナウシカの「私達のように凶暴でなく、おだやかで、かしこい人間になるはずの卵です」という言葉に「そんなものは人間とはいえん」と返している。
ヴ王は人間の闇の部分がわりと好きなんだよ。王に対してボロカスな口をきく「道化」を蹴っ飛ばしながらも割と仲良くやってるしね。清廉潔白な人なんか面白くないと踏んでる。お人よしかどうかの話ではない。
「とんでもないことになると分かってても欲しがるタイプ」というのは正しい見方で、まったくもって危ない人物ではあるけどな。
最後に毒気が抜けたのは「お綺麗な」墓の光を浴びたのでまさに「毒気が抜けた」んだろう。この辺は漫画だから「そんな超常現象」とか言わずにね。ナウシカのカリスマ性も一因だろうね。
ここまでで挙げたように、たぶん今あなたは手元に本が無いから?内容を曖昧にしか理解できていない気がする。
という私もコミックをある所に持ち出したら、その場に定着しちゃって置いてきたから今は持ってない。勘違いしてる部分が沢山あるはず。ちゃんと買って読み直そうっと。
確かにナウシカがいなければ現生人類はすぐに絶滅していただろう、そこは認める。
しかしナウシカに全責任を押し付けたのなら、押し付けられた最高責任者であるナウシカは最後まで慎重な判断をするべきだった。
墓の技術を用いれば現生人類が新しい環境でも生きていけるだけの可能性だってあった。
その真偽を確かめる前に破壊したのは全責任を背負わされた者の判断としては絶対に間違っている。
人が傲慢であることを認めるなら例え危険を冒してでも墓の技術を現生人類存命のために転用しようと努力するべきだろ。
ナウシカの境遇に対する同情は当たり前だが、それとは分けてナウシカは現生人類の運命を決断する立場にいたことを理解するべきだった。
墓と和解する、墓の技術を使って適応できるよう変わる、新生人類と共存の道を歩む確率なら後者の方が高いことは疑いようがない。
武力的制圧の観点からなら生殺与奪拳をナウシカが握った時点でついている。
ところがナウシカは根っからのテロリストだから相手が無力化しても最後まで暴力を手放さなかったわけだ。
真意を聞かされた人間がナウシカだけだったのが現生人類・旧人類・新生人類全員の不幸だった。
それにナウシカが押し付けられた側というのなら、ナウシカは現生人類と話し合い情報を共有しあったか?
勝手に一人で現生人類を愚かだと決めつけて話すタイミングもあったのに、一人で判断し一人で決断してたじゃないか。
それがエゴ以外の何だというんだ。
王蟲とは心を通わせるというが、ナウシカのような特異な人間でないからこそ現生人類を導く役目があったのではないか。
カリスマ的求心力を向かわせた先は結局ただの暴力と破壊活動だった。
平時においてはみなまとも、とは夏目漱石の言葉だが、平時でないからこそナウシカの本質が浮き出た最終審判となった。
どれだけ苦しくても人の命を奪ってでも生きたいと願わない人間もいる。
ナウシカは危険な道を手探りで歩くことよりも、エゴイズムにまみれた自分の信じる正義で現生人類の生きのこる選択を奪った。
それはナウシカに背負わされた責任よりも遥かに重い結果だった。
何度でもいうが墓の技術を破壊したというのは取り返しがつかない選択だ。
政治力・武力を持った人間が行うべき選択は、支持率や多数決が問題ではない。
正しい歴史が残るかどうかだ。
ってこんだけ書いててヴ王もその場にいたような気がするなあ。
というかラストでヴ王がナウシカの決断に納得してるのがやっぱり腑に落ちないわ。
ヴ王なんて墓所の技術を何としても手が欲しかった側の人間じゃん。
横からだけど。あそこに至るまでに全人類の希望をナウシカ一人に責負わせちまったからなぁ。
命をもてあそぶのをやめろって言ってもやめないし、争いをやめろって言ってもやめない。なんでこんなことになったのかというと墓のヤバイ技術が漏れ出してるからで、そんな墓何のためにあるのよと思ったら「現人類はバカだからリセットして、争わない綺麗な新人類を作るんだ」だもん。ざっけんなよって言いたくなるわ。
(整理。旧人類:巨神兵や王蟲を作り、火の七日間を起こした世代。現人類:ナウシカの世代(浄化までの捨て駒)。新人類:世界浄化後、卵から生まれる予定の綺麗なジャイアン)
まああんたの言う通り、王蟲も巨神兵も人工物だけど当初の予定以上の知能を持つようになったんだから、頭空っぽの新人類だって年月を経ればまともな感情を持つかもしらんよ(オーマは裁定者として元からスーパーAIだったろうし、王蟲と墓の血液が同じだと分かったのは墓の崩壊後だけどな)。
綺麗な新人類はすぐに邪悪な現人類に攻撃されて滅ぼされそうだけど、それをナウシカが守ってやればいいじゃんってのもまた一理ある。ただな、最終話の時点で人々はもうどうにもこうにも限界が来てた。旧人類が絶望の末に綺麗なジャイアンや音楽くらいしか残す価値を見出せなかったように、人間は絶望すると余裕のある判断はできなくなる。
なにより前提として、そこに至るまでにすでに現人類はナウシカに全部を託したんだよ。そうしないと現人類絶滅が避けられそうになかった。ナウシカによってどうにか破滅の一歩手前で止まってたわけ。ヴ王とかに任せてたら巨神兵使って再度核戦争まっしぐら。
で、託してしまった以上「文句を言うのが遅い」と思うね。本当に綺麗な新人類を助けたいなら、それまでに現人類がナウシカを助ける必要があった。現人類同士での争いをやめて、新人類を受け入れるくらいの余裕がありますよと言えればよかったのに…できなかった。クッソ重い責任をたった一人に背負わせて「最終判断間違ってるぞ!」って責めるのは酷だろう。
ナウシカは一人の人物ではあるけど、結局はそこに至るまでの過程を現人類が選択したんだよ。あなたならその時破滅を止めるために何か協力できただろうか?
絶望した旧人類の選択を、これまた絶望した現人類が書き換える。傲慢だ。ただそれはちゃんと漫画にも描写されてて、旧人類にはああするしかなかったと書かれてるし、ナウシカ(というよりは現人類)が傲慢だってのはまあそうだ。その傲慢さを持つのが人間だと。
『巨神兵を使い捨てにした』と言うが、技術が未完成で育つ見込みは薄かった。そしてナウシカが指示したわけではなく巨神兵(オーマ)自身の判断もある。あの時点で裁定者として動き始めてたからな。前線でドンパチやってる「墓所」を前にして「責任者を出せ」と言ったら墓所が問答無用で発砲してきたのが発端。最後はナウシカもオーマ本人も、助かる見込みはないということが分かっていて、ナウシカの最後のお願いを聞いてオーマは発砲し死んだ。ナウシカ自身もオーマに自身を母親のように認識させておきながら同時に「オーマの死を望んでいる」。物としては危なすぎるからな。その傲慢さは本人も自覚している。
結果として、墓の崩壊とヴ王の死去により今後はクシャナ殿下が国を統治することになり、人類は少しは軌道修正できるだろう。
最後にユパが身を挺してトルメキアとドルクの報復合戦を止めたことも大きい。そのユパの存在はナウシカの存在によるものが大きく、ナウシカなくしてはユパもまだ腐海の探検を続けてただろうし、ここまで身を挺さなかっただろう。
ナウシカが巨神兵を物扱いせず名前(オーマ)を授けたことで、巨神兵の知識が急速に進み「昔の人は巨神兵をただの兵器としてではなく裁定者として作ったのかも」ということが分かった。
旧人類は自らに絶望し、すべて新人類に託すことにした。一方の現人類は、旧人類同様リセット寸前だし、浄化後の世界に耐えられないかもしれない、だがそれでも「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ」という選択ができた。
俺としては「ナウシカは称えられこそすれ、責められるべきではない」「ナウシカに全責任を負わす前に、人類が自分たちで踏みとどまる必要があった」だな。
お前こそ読んでないだろ
将来的に死ぬかどうかじゃなくて生命として認めるかどうかって話で
王蟲は環境を綺麗にする生体兵器だったのが長い年月で魂や精神性を身に着けた
つまり最初はまがい物の生命でも長い時を過ごせば生命としての自然な姿へと回帰していくのがナウシカの世界観
ところが産まれてすらない新人類の卵に対してナウシカは一方的に
と決めつけたわけだ
それで焼き殺したと
何様なのこいつ?
何百年という長い年月をかけて生命体として成熟していったんだぞ
産まれる前の新人類の卵相手にお前は生命じゃない、ノーカンな、ホイ焼き卵(ブォオオオ)
本当に調和を愛するなら新人類の1人でも育てて経過を見たらどうだ
と、思ったら自分のことを母親だと思い込んだ赤子同然の巨神兵を使い潰して捨てる女だった
悲劇のヒロイン気取り
こんなやつに子育ては無理だ
墓所戦争のときはみんなテンション高かったからナウシカマンセーで済んでた
しかしことが全部済んで振り返れば自分らがしたことにゾッとするだろうし
何度もいうがナウシカはナウシカ教の教祖で特殊性癖持ちのテロリストだ
勝利したとも言えないような状況になった
一体、森の賢者のところで何を学んできたのか
ただの休暇、完全に無駄だった
本人が王蟲の知性の芽生えを崇拝してるにも関わらず
新しい者にはチャンスを分け与えない
当時は正しければ何やってもいい世の中だったが
今はその間違いにみんな気づいてるだろ
人は必ず間違える
だから寄り添って生きてるんだろうが
そこを勘違いしてるやつは大嫌いだ!