はてなキーワード: 大人目線とは
いろんな色の服
着まわしのことを考えたら
白、グレー、黒、ベージュあたりが便利で
このへんの色で服を揃えたらとにかく使いまわしがきくので便利すぎる
しかし、水色、ピンク、ミントグリーン、黄色あたりの鮮やかな色の服もやっぱり欲しい
派手な色の服は幼児、乳児受けする。色は彩度が高ければ高いほど人の目を引く。
私が鮮やかな色のトップスを着ていたら、私の赤ちゃんは興味深そうに私の服を触るし
私が蛍光オレンジの服を着て、遊び場で座っていたらよその赤ちゃんがわざわざハイハイして近づいてきて私の服をさわり始めた
赤ちゃんは明るい黄色が一番好きで、続いて白、ピンク、赤、オレンジという順位で好きらしい
子供の幼稚園の送りのときに濃い青の服を着ていったら自分の子供のとなりのクラスのよく知らない男の子に肩を触られ、「今日は青い服なんだね」と声をかけられたこともある
しかし、大人目線だと、グレー、黒、白、ベージュあたりがやっぱりおしゃれに思えてくる色だ
お金持ちではないのでとにかく着まわしができる無難な服はありがたい。見た目がおしゃれだし
自分の周りにいる大人におしゃれに思われたくて、そしておしゃれな自分になりたくて無難な服を着るのか
悩む
おまえらすみっコぐらしの映画が公開しているのに、すみっコぐらしの話をやらねえな。ネットのすみっこにいるんだから親和性はバッチリなのによ。
ただ、前二作にあったような思想の強さは今回はナシ。最後の方に取って付けたように「物を大事にするのは大切なこと」「なかまは大事」というメッセージを入れてくるけど、そこまで全体的なテーマとして表れているわけでもないしな。
というか、すみっコたちって結構ドライなところも多いから(今回の映画のぺんぎん(本物)に対するぞんざいな扱いなんかまさにそう)、なかまは大事と言われても、う~ん???という感じは割とする。
さてさて、今回の映画もいつものようにイントロで、すみっコたちのメインキャラクター全員の紹介から始まるので、この映画で初めてすみっコを知ったという人でも安心。
今回はすみっコたちが迷い込んだ森にある玩具工場を舞台に話が繰り広げられるわけだけど、予告編にこの工場には何か裏がある……?と、匂わせた内容になっているだけあって、中盤以降は急にホラータッチな内容になってくる。工場長の真相が明らかになるシーンや、みにっコたちが工場から脱出して街にたどり着くシーンはそこそこ怖い。
あと、ホラーを緩和するためか、ギャグシーンも多め。すみっコたちが工場から脱出するシーンは、かなりシリアスな展開にもかかわらず、妙なことやってるから変な笑いが出てくる。あのとんかつのラジコンカーはどうなってるんだよ。
そんなわけで、全体的にちょこまか動き回るすみっコたちが可愛らしく(非常に重要)、話としてもまあ綺麗にまとまっていて、ワクワクしながら見れる程度には面白かった。エンディング~エピローグの映画そのものも巻き込んだ話のまとめ方も、なかなか手の込んだ展開になってて好き。
でも、今回はメッセージ性を弱めにして単に子供が楽しめるだけの映画にしている感が強いのは確かにそうなんだけど、大人が見るとね、玩具工場のあれやこれがブラックジョークにしか見えなくなかったりする……。
玩具工場に迷い込んだすみっコたちは、工場長からのお願いもあって、玩具工場で働くことになる。
始めはみんな和気藹々と玩具作りをしていたんだけども、次第に工場の設備が改善されるにつれ、単なる流れ作業を淡々とやるだけになる。
仕舞いにはすみっコが機械に巻き込まれても、フェールセーフ機能が無かったり、その件ですみっコが大変なことになっても、持ち場を離れるなと言われたり、さらには過剰なノルマを突き付けられたり。
さすがにこんな工場で仕事なんかしてられるか!と、すみっコたちが反乱を起こして、工場を脱出しようとするけども、工場の入り口には見張りのロボットなんかもいたりして、前述の工場からの脱出の話につながるわけ。
いやもうこの辺は、大人目線で見ると、現場猫でも見ているかのようなブラックジョークの塊にしか見えない。
全くすみっコぐらしで、なんてことやろうとするんだ。
あと、そうそう今回の映画のテーマソングは「すみっコディスコ」というタイトルで、当然ながら「すみっコ」の単語が歌詞に入りまくりなので、最近のアニソンはアニメのタイトルを歌詞に入れないと嘆いている御方にはぜひお勧めしておきたい。
> 今は中学生の息子が、なんというか、小物キャラというか卑怯者みたいな感じで辛い
こう思っていること、お子さんは気付いてるんじゃないの?
こういう子供って、相手が自分をどう思っているか勘付きやすいところあるよ。
なんとなく、元増田自身は、この子のクラスメート的な立場で育ったのかなって思ってる。
比較的人間関係にはすんなり馴染めて、ハブられない立ち位置にいる感じ。
だから、この子の行動が「小物」「卑怯」って感じるんだと思う。
エピソード読んだ感じでは、「小物キャラ」「卑怯者」というより、ある種の子どもにある通過儀礼的なもののように感じたよ。
小学生の時の案内役を買って出たのに喧嘩して1人で帰ってきた話なんかも、我慢が効きづらい子ども特有の話で、珍しいことじゃないと思う。
自分はどっちかと言うと、元増田の子供みたいな性格をしていた。
相手が友達だろうと嫌いなやつだろうと、正しいことは正しいって言いたいし、間違っていることは間違っていると言いたい。
だから、相手が大嫌いな奴でも、証拠もないのにクラス中から犯人扱いされた時には無実を証明したこともあるし、仲の良い友達でも共通の嫌いな奴をハブるような行動は許さなかった。
自分も不公平に扱われたくないし、他人が不公平に扱われるのも見たくなかった。たとえ相手が自分をいじめてくるような奴でもね。
要は相手との関係性で手加減するってことができない、世渡り下手な性格だった。
ただ、こういう性格の子供は、同年代で集団生活を送る「学校」という組織とはすさまじく相性が悪い。
友達少なかったし、ハブられたりとか高校まで断続的にあったよ。
>息子はどこからか情報を手に入れて担任に注進して、打ち上げ会を台無しにさせたみたいで
>あと学校にスマホを持ち込んでる生徒を一々教師に密告していたらしい
参加していたり持ち込みしている立場から見てたら「台無し」「密告」という受け止めになるよね?
ただ、第三者から見たら「大人目線から見たら大人気ないけど、そもそも決まりを破っているし、子供だったら、誘われなかった怒りで誰かに言うよな」って思う。
悪いことを見つけたら告発したいし、意地悪されたらやり返したくなる。
意地悪した方も、それ相応に反撃される可能性があるって覚悟を決めて意地悪しなきゃダメだよね。
子供だから仕方ないところあるけど、親としてはハブられる方の気持ちを考えてあげた方がいいと思う。
理由がどうであれ、他の子供達のように誘われなかった事実を受ける止めるのは辛いし、それが原因になって意地悪しちゃうこともありそうだ。
子供の世界はより残酷なので、スクールカーストの上位にいる子供が「嫌い」と感じると、子供本人に問題がなくても排除される傾向があるから、息子さんのそう言う性格だけが問題だと思い込むのは良くないと思うよ。
だから、そこから少しでもずれてしまうと、本当に辛い目に遭うんだよ。元増田はそんな目にあったことある?
原因は様々だけど、スクールカースト上位にいる子供の気持ち一つで左右されることも多くて、ターゲットにされた子供のせいじゃないよ。
そこだけはわかってあげてほしい。
自分は、元増田のお子さんのような性格しているので、学校組織には合わなかった。本当にひどかった。一番戻りたくない時代だw
ハブられることも虐められることもなかった。何かした覚えはないけど、上から引き上げてもらうことが多かった。
正直なところ、なぜかはわからないんだけど、「周囲に流されない。噂話を信じない。必ず自分で事実を確認して、自分の責任で決断を下す」というのがキーかなと思ってる。
学校組織で苦労せずうまくいく子っていうのは、程度はあるけど「スクールカースト上位の意向に従い、善悪はその場の雰囲気で判断する。ただし、率先して自ら悪事に手を染めない。集団にうまく隠れて、個人的な責任が問われる行動や言動は避ける」という子が多いと思う。
でも、社会に出ると、それだけじゃ難しくなる。
「周囲の雰囲気を観察しつつ行動するが、周囲に流された判断はしない」にシフトできないと荒波に飲まれてしまう。
>「友達がやってる打ち上げ会を、誘われようが誘われまいが、チクっちゃいけません」「同僚を売って上司に媚びうるのは評判が悪い行為です」って
元増田は「先生や上司に申告することは、チクリや媚びること」って思ってる?
これ、自分は良くない考えだと思っている。
「チクリ」という考えって、申告された側の恨み節だよね。要は悪事がバレちゃっただけだからw
子供間ならそう言う認識でも仕方ないのかなと思うけど、大人が仕事で禁止されている事をやっているとすれば、止める必要があるんだよ。
同僚が横領しているの知ってて上司に報告しなかったら、背任行為に手を貸してることになるし、小規模の会社なら倒産する可能性もある。
それって「チクリ」や「媚びてる」ことになるの?
自分は複数の役職者やヒラの部下がいるけど、同僚の行動に関する申告を上げてきた部下を悪く思ったことはないよ。
課を任されている管理職なので、所属する課員たちに悪影響を及ぼす物事を放っておくことはないけど、こちらからは見えないことも多いので、申告があった場合は速やかに事実確認をして対応をする。
もし、たびたび申告された内容が「嫉妬による嘘」や「同僚を陥れる嘘」だったら、申告者を要注意人物と警戒して、課から排除するための策を巡らす。
策と言っても、特別何かをやるわけじゃない。彼らは勝手に事実を積み上げるので、それを集めて目の前に突きつけるだけだ。それでおしまい。
もしそうなら大問題だけど、そうじゃないのなら、正義感が強いんじゃないのかな。
> 親が悪いんだろうな
>せめて普通に育ててきたつもりだったんだが
> 子どもが発達障害かもしれないとかアスペルガーかもしれないとかそういう窓口はあるけど
なんで、そういう考えになっちゃうの?
元増田は悪い親なんかじゃないよ。悪い親はこんなことで悩まない。
「普通」っていうのは、元増田自身の子供時代や、元増田がイメージする子供の性格が「普通」という認識なのかな?
そもそも「普通」ってなんだろう。こんなにたくさん人がいるなら、「普通」というカテゴリーを作ることさえ難しいような気がするけど。
「普通」というものが「周囲の雰囲気に従って集団に隠れて生きる」ことならば、最悪、善悪の判断も周囲の雰囲気によるものになるけど、元増田は子供がそんな人になってほしいの?
性格については、学習障害とは別だと思うけどなあ…。最近、なんでもそういうところに原因を見つけようとするけど、この障害にはそういう特性があるの?
もしそう考えるなら、思い込みで済ませないで、きちんとした診断を受けた方がいい。でも、診断でなかったらどうするつもり?どんな言いわけ見つけるの?
自分は「チクリ」っていう言葉が嫌いなんだけど、ここまで書いて、元増田が言っているニュアンスはもうちょっと違うものなのかなって思った。
で、もう少し考えてみたんだけど、元増田が言う「チクリ」は「クラスメートに意地悪をしている」という感覚で言ってるのかなあ。
だとすれば、言葉を尽くしても、本人が「申告はマイナスだ。黙っていれば自分にもプラスになる」と思えない限りはやめないと思う。
この子は打ち上げに声をかけて欲しかったし、スマホの持ち込みもしたかった。
でも、誰も仲間に入れてくれないので、「正義を行う」ことで、どうにか溜飲下げてるんだと思う。
正義感はあると思うけど、本当は「正義」を行いたいんじゃない。「不満」や「悲しみ」をなんらかの方法で解消したいのよ。
だから、元増田が「チクる」という行為をやめさせたかったら、この子は「不満」や「悲しみ」を解消するための行動を学ぶ必要がある。ただ、今の時点では、同年代の中では難しいかもしれない。同年代では他人を許してあげる余裕はないだろうしね。
今の環境は本人が一番辛いんじゃないの?
親には「友達いない」ってあまり言えないよ。自分も中学生当時は言えなかったなあ。
だから、うちの親も、一時的とは言え、クラスでハブられてた事を相当後に知って驚いてたし、その時言われた言葉にいまだに傷ついているよ。
「私の子供のくせに、周囲とうまくいかないなんて。私はイジメられたこともハブられたこともないのに」って。
すでにズブズブの中年なんだけどさ、思い出すと結構クるんだよw
ハブられてた時期は本当に辛かった上に、親の言葉で自分の存在全否定された気分だったよ。自分は他の子と比べて欠陥品なんだろうなって思った。劣等感もすごく大きかった。
ハブられた理由は「一人っ子」だったからなんだけど(首謀者がそう言っていたのを人づてに聞いた)、うちは親が流産も経験しているので、理由は言えなかったなあ…。親は悪くないし。
元増田はお父さんかな?って思ったんだけど、お母さんはどう思ってるのかな。
二人とも学校や社会ではうまく世渡りできるから、息子さんがうまくできない事に悩んでいるのかな。
同世代が集まる学校ではうまくいかないけど、いろいろな世代や環境を持つ人たちとは、うまく関係性を築けるかもしれない。
元増田はショックもあるんだろうし、とても辛い思いしてるんだろうけど、元増田は悪くないよ。息子さんも悪くないよ。
でも、息子さんの今の環境は、息子さんにとってはちょっと辛いかもしれない。
だから、学校生活でうまくいくように集中させるんじゃなくて、いろいろな世界を見せて外に目を向けさせるのも大事だと思うよ。
今日のはなかっぱは、ガリゾーがはなかっぱになりきることでワカ蘭の秘密を解き明かすため、はなかっぱの家で生活する回だった。
しかし、ガリゾーは大変気の利く良い子なので、はなかっぱの行動を真似るよりも、家族のお手伝いを積極的にしてしまうのだ。
孤児の悲しみ…
ガリゾーの細かい設定は知らないけれど、とりあえず両親とは暮らしていない。アゲルちゃんの家の蝶兵衛の弟子だ。
大人に気に入られなきゃ生きていけないから、大人目線での良い子なんだろう。
うちの両親が特に悪気はなく、
「あんないい子ならうちで育ててあげるのに…」
なんて言っていた。
「いい子なら」
これよ。これが苦しいのに。
もちろん、いい子を頑張っていたのにそれでも殺されてしまったこの事件はとても悲しい。
でもさ、子供達に必要なのは、自分が役に立つからではなく自分がただ自分であるだけで愛され続ける自信よね。
だから、機関車トーマスもこわい。役に立つ機関車でなければ社会に必要ないのかね。
いや、究極的にはそうだと思うんだけど、どんな基礎研究が将来役に立つのかなんてわからんし、スポーツや文化も必要なことだけど、「役に立たない」と切って捨ててしまう考えもあるじゃん。
全ては巡り巡って意味がある、役に立つのだろうけれど、危機的状況では通用しないかもしれない。
いやまぁ綺麗事だし、結局世の中金なんだけど、モヤモヤした。モヤモヤさせて考えさせるのがEテレなのかもしれんけど。深いなEテレ。
このはなかっぱのお話を見て、子供たちがお手伝いし始めたらやべーなと思ったけど、そのままきょうだいでふざけ合ってたから、とりあえず安心した。
うちの子供らは下の子がもう小2なのでもはや関係のない話なのだけど。
子供らがまだ幼稚園の頃にはランドセル争奪戦をいかに勝ち抜くか問題でよく子供の親同士で話し合った。
とにかく、女の子のランドセルはボーッとしてるとすぐに売り切れるっていうことで、年長さんの4月にはラン活始めないとヤバいとのことだったので、私もメーカーからいそいそとパンフレットを取り寄せたものだ。
聞いた話によれば、GWとお盆は出資者であるジジババと共に展示会を見に行く期間なので遊んでいる場合じゃないとのこと。
だが、我が家の場合は私も夫も親に出資させる気がミリもなかったので、世の年長さん親がジジババと子供とを連れてわたわたと展示会巡りをしている頃、我が家はのんびりと休暇を楽しんでいた。
ちなみに、何故うちは親に金を出させなかったのかというと、夫のほうは母親が生活保護で暮らしているからで、私のほうは両親に金はそこそこあっても二人とも性格に難があり……超押し付けがましいので出資権を握らすと当事者たるうちの子の意見もガン無視してくること間違い無しで火種でしかないから……だった。
展示会に子供を連れていくことは結局なかった。うちの子供らの性格上、現物を見ればそれを今すぐに欲しい! となるし、持ち帰ったら弄らずにはいられないので、新一年生をピカピカのランドセルで迎えることが出来なさそうだと考えた。
それで、私だけが一人で百貨店の鞄売り場に赴き、人気メーカーのランドセルを比較してみた。機能性デザイン性の面では天使の羽が突き抜けているように思えた。だが、どうやら子供の幼稚園ではふぃっとちゃんを買ってもらったという子が既にいたとかで、うちの子もふぃっとちゃんがいいなーと、よくわかっていないなりに言っていた。ふぃっとちゃんはお手軽価格だし一番高いやつはほどほど良い。でも機能性と質はお値段なりだ。
当時はちょうどサーティワンと天使の羽がコラボっていたので、各社のパンフとともにサーティワンコラボのパンフももらってきた。うちの子にウケそうだなと思ったのだが。
ミリもウケなかった。
乙女心って難しい。
子供の前に各社パンフレットを並べてみると、案外どれもピンとくるものがないらしかった。友達が買ってもらったというふぃっとちゃんもいまいちであるらしい。
で、中でもこれがいいかもーと言ったのが、ララちゃんランドセルだ。これのパンフは百貨店で貰ったのではなくネットで取り寄せたものだった。昔、私がまだ小学生だった時代にCMでみたことがあったので取り寄せてみたのだ。
子供はララちゃんランドセルのセミオーダーで、自分のデザインしたランドセルがいいと言った。スマホでお手軽にデザイン出来るのだ。ランドセル全体、バイアステープ、糸などのカラーと、刺繍の有無や名前入れなどを自分で選ぶことで、世界に一つしかない自分だけのランドセルを作れる。
それで、デザインを子供に任せたら、子供はスマホをスイスイと操作してかなり個性的なランドセルをデザインした。
自分でデザインしたものだから、絶対に後でやっぱりこれじゃ嫌だとは言わないと子供は約束した。実際、翌年の2月にランドセルが届いたとき、子供はやっぱりこれじゃ嫌だと言わなかったし、むしろ飛び跳ねて喜んでいた。
お値段は消費税を含めると60000円くらいだったかな。気に入ってくれてホッとした。
三年後、下の子のランドセル選びのときは話が速くて、じぶんもお姉みたいにランドセルをデザインするんだ!! と力強く主張するので、そうしてもらった。
下の子もスマホをスイスイと操作してデザインを拵えたが、なんとオーソドックスな赤いランドセルに刺繍を入れたものだったので、ちょっと驚いた。これが個性ってやつか。上の子は何かにつけて奇抜なものを選ぶが、下の子はいつも中庸オブ中庸をピンポイントで突いてくる。二人とも、おもしれー奴らだ。
そんな訳でランドセル代はうちら夫婦で出し、子供達には好きなように選んでいただいた訳だが、後から私の両親がやっぱりお金出すからいくらかかったか言ってみ? と言ってきたので、「アバウト60000円」と答えたら、両親は絶句していた。私や弟のランドセルは2万もしなかったから、今はそんなに金がかかるとは思わなかったのだそう。
私のランドセルはどこかの鞄屋で買ったらしい本革の血のように赤いランドセルで、弟のランドセルは誰かの口利きで安く買えた黒いランドセルだった。
両親的にはいい買い物をして満足だったらしいけど、私自身は、幼稚園のクラスメートがみんな幼稚園で一括購入したお手頃価格で明るい赤色の合成皮革のランドセルが良かったなーと実は思った。
小学校へ上がってみると、どこの幼稚園や保育園出身の子達であれ自分の居た園を通して買ったランドセルを使っていて……つまり私以外の全員が全員とも同じメーカーの同じランドセルを使用していたから、私だけが激しく浮いていたのだ。
【追記】
昔のランドセルは黒も色味が違ったけど、今はどうかな。遠目に見てあまり違いがわからない。
まあ、昔の場合はメーカーがどこかというよりか素材の違いだったように思う。本革のランドセルはツヤツヤに光る黒だったけど、合成皮革のランドセルは安いソファーみたいなぼやっとした感じの黒だった。
ちなみに、男子のランドセルは大急ぎで買わなくても、三月になってもまだお店に並んでいるし、お金をかけたくなければネットオークションとかで安く買えるって、男児持ちの親御さんから聞いたことがある。
【追記2】
ブコメ見たら感覚過敏でランドセルは背負えないかもっていう人がいたけど、展示会で実物をお子さんに背負わせてみたらどうかなと思う。
リュックも良いかもだけど、教科書とか入れるもんの形状によって形がデコボコしてしまうのがネックかなと。
ランドセルの良いところは何を入れても形状が大きく変形しないところ。背中がやたらデコボコもこもこしないのは安心だと思う。が、背中の広範囲にふかふかなパッドが当たって蒸れる感じが嫌だというかもしれないし、背負ってみないことにはわからないからね。
ちなみに私は身長が150cmしかないので、子供のランドセルをベルトの調節もせずに背負えるんだけど、背負ってみたら今のランドセルは肩ベルトも背中のパッドも柔らかくて背負い心地がいいよ。
男の子の親御さんはあまりランドセルを買うのに時間とお金を使わない傾向があり、私の知る範囲では特に40代で出産した人はそうだった。世代的にヤンキーが肩で風を切って跋扈していた時代をサバイブしてきた人達は、息子に変な(≒かわいい)ランドセルを持たせるとナメられていじめられるんじゃないかって畏れているのだ。だから適当に黒でいいよ黒で! って。発想が本当にツッパリハイスクールロックンロールで恐いよ。
男児の親御さんにもランドセルにお金をかけたい人はそれでもいて、そういう人はえーと、軽井沢かどこかに有名な鞄店があるらしくて、そこに出向いて実物をフィッティングしてきたと言っていたけど、息子さん本人の反応はいまいち良くなかったみたいだ。まあ、大人目線では極上の革製品だけど子供にとっては見た目が地味なんだろうな。
ランドセルの見た目を重視するような男の子は、黒字に深紅の火炎が施されたようなイカしたランドセルを持ちがちだ。
うちで買ったランドセルのお値段60000円に驚いた人もいるみたいだが、有名メーカー品だとこれくらいが普通かなって思う。消費税が10%だからお値段にやや迫力が出てしまったかもしれない。
イオンのカラフルなやつならもっとずっと安い。有名メーカーでは当時ふぃっとちゃんが一番安かったが、店頭に並んでいてその場で買って持ち帰れるもので40000円くらいだったかな。きっと本体価格がそれなので消費税がついたらヒィッ! ってなるかもしれないが。
知り合いに娘さんのランドセル選びに余裕ぶちかましたら選択肢がほぼなくなってしまった人がいる。だが一応入学までには間に合ったらしい。
慌てて購入したというランドセルを見せてもらったが、超絶プリンセス仕様……!! 輝く白さのボディに金糸で繊細な刺繍が施されていた。チャームもお洒落だし、スタッズに何か宝石みたいなキラキラ光るやつが埋め込まれていた。乙女の憧れがフルで詰め込まれていらっしゃる……。値段は恐くて聞けなかったが、確か有名メーカーのカタログには100000超えのハイクラスのランドセルも載っているんだけど、まさにそういうお品もの。
しかしうちではそのぐらいの価格帯の商品を買ってもらえるのは誕生日とクリスマスだけだった
子供には長すぎる数ヶ月を過ごし、ようやくそのタイミングを迎えたとき
ポケモン赤はプレゼントしてもらえたがゲームボーイは与えられなかった
代わりに与えられたのはスーパーファミコンに挿して遊ぶスーパーゲームボーイだった
素直にゲームボーイではなかったのは、携帯機であるため親の監視外で遊ばせたくないという思惑があったらしい
それに加えて
・小さな液晶を覗き込むよりTV画面の方が視力低下の影響も多少はマシだろう
という考えもあったようだ
友達と遊ぶときにはプレイ環境一式を外に持ち出すわけにはいかず
ソフトしかないのでそれぞれがゲームボーイを持ち寄って遊ぶ空間では自分はプレイすることはできない
公園ではもちろん無理だし
友達のゲームボーイを借りるにしてもみんなまず自分が遊びたいのは当然だ、貸してもらえることなど少ない
友達の家で遊ぶときでも、わざわざそこのスーパーファミコンを借りるというのも不自然でハードルが高く実現することは少なかった
そもそもその時に発売していた初代スーパーゲームボーイには通信端子が無いのだ
(通信端子のあるスーパーゲームボーイ2が発売したのはそれより後のことで、スーパーゲームボーイを既に持っている子供が買い換えるにもメリットが少なかった)
混ざれるはずなのに混ざれない
一番下が自分だった
悪意を持って明確に仲間外れにされることはなかったが
その場でポケモンを一緒に遊べる仲間の方が親交が深くなるのは当たり前で
それがすごく惨めだった
20年以上たった今、その時のヒエラルキーが流石にそこまで尾を引いているはずもなく
ふとあの時の疎外感を思い出す時がある
他と同等に揃えてもらえない子は
かつての自分と同じように寂しい思いをしているのだろうかと
ぼんやりと思いを馳せるのだ
はてブを見る限り、結構な共感があったようで、書いた甲斐があった。
寄せられたコメントの中からいくつか取り上げたいものがあったので、追記しておきます。
自分の回りにもいました。
貧乏だから買ってあげられない、というケースは見なかったけど、親の方針でゲームを買ってもらえない子。
90年代当時の親世代にとって、まだゲームへの偏見や未知なるものという認識は多かったと思います。
やはり、禁止されている子供は逆に執着してしまう傾向にありました。
大人になって反動でゲーム三昧の人もそれなりにいるでしょうね。
かく言う自分も、完全禁止でないにせよ少しずつ不便や不満を重ねていたので、
これは、当時は仕方のない話かと思っています。
特に恨んだとか、間違っていたとは考えていません。
子供のコミュニケーションツールとして重要なポジションにあったことは理解できていなかったのですから。
ゲーム世代が親になり、かつての苦労と大人目線での懸念から葛藤しているのもわかる話です。
ゲームに理解があっても程よい距離感で向き合わせるには難しいでしょうね。
ネット接続やSNSの広がりもあり、フォローアップしてあげることの難易度も上がってしまいました。
自分の家に呼べば友達がゲームボーイを持ってきて、自分は自分のスーファミで遊べますよね。
ここは地理的な問題なのですが、小学校から自分の家が一番遠くにあり、坂の上にありました。
いわゆる新興住宅地(○○台と名前のつくような所)です。集まるには不向きでした。
たまり場になる友達の家がありましたが、ゲームが多かったり集まりやすい立地にあったのが大きな理由ですね。
対戦というより、自分のポケモンを進めつつ、お互いの進行状況をその場で共有して楽しむ、という場でした。
ポケモンスタジアムは持っている子もいましたが、起動率はそこまで高くなかったですね。
ゲームボーイで何をしていたかと言うと、赤緑の出現ポケモンが違うので、
赤でしか出現しないマンキーを持ってない緑の子のためにその場でマンキーを捕まえて交換してあげる、なんて光景も有りました。
うちの地域でポケモンスタジアムが脚光を浴びたのは、ポケスタ金銀が発売されてからでした。
しかし、そこまで来るとポケモン一色ってほどのブームでは無くなっていました。
あくまで、ポケモン赤緑の一時期だけがそれ以外がほぼ無いぐらいに占めるコンテンツだったんですよね。
やりましたよ!スーパーマリオワールドや星のカービィスーパーデラックスなど。
ドラゴンクエストなど1人用RPGをプレイしている様子を眺めつつ、自分は置いてある漫画を読みふけるなんてこともしましたね。
その話を盛り込むと要旨がボヤけてしまうので、今回はポケモン赤緑の話に絞っていました。
みんな揃ってポケモンに傾倒した時期があって、そこで疎外感を覚えたのは大袈裟に受け取ったことでもなく事実です。
バトエンやカード、すごろくなんかも出ていたので、ポケモンブランドを冠した交流ツールはゲームに限った話でもないですけどね。
あ、やってます。
図鑑は剣盾時点までコンプしてます。アンノーンもビビヨンも今の所全種揃ってますよ。
対戦はあまり興味ないですが。
ええ、それを狙いました。
あの時代を生きていた人が「ポケモン」「スーパーゲームボーイ」と聞いたら
ピンと来るだろうな、という期待を込めてタイトルに入れておきました。
ネットでもはてなでもプライベートでも「シン・エヴァンゲリオン」の話でもちきりだ。
友人・知人から「増田君はもう見たか?」「いつ頃見るん?ネタバレされんようにな」とか、見たこと・見ることを前提で話題を振られる。
でも自分は見てないし、見る予定もないし、見るつもりもない。だって、今までエヴァを見たことないもん。思い入れがない。
なんで見たことがないかって、捻くれてるわけでも逆張りしているわけでもない。
ものすごくかんたんな話で、当時、テレビでやってなかったんだよ!!!!!!
アニメの情報を知る手段なんて、せいぜいコロコロかジャンプくらいしかなくて、それ以外はテレビ欄やCMで存在を確認していた時期だ。
それ以外で家のテレビで映らないアニメなんて存在しないも同じ。うちの地方は映らないから周りでも話題にならず、情報も入ってこない。
取っ掛かりがないから、レンタルビデオを借りようなんて発想もない。
もちろんある程度年を食ってから、エヴァってすげえぞみたいな情報は入ってくるけどさ、周りの話を聞いてると悶々としている思春期の少年のハートにぶっ刺さる内容みたいじゃん。
そんなアニメを大人になって初めて見てみろよ、「あ……ふ~~ん……」「フウン、面白いね(暗黒微笑)」みたいな大人目線で捻くれた感想を持ってしまった挙句、このアニメ本当に面白いのか?と面白がってる人に茶々を入れる面倒臭いオタクが完成するのが目に見えてる。だから俺は見ない。なんかすごいアニメだということで、心の中に封印してイメージを崩さないようにしておく。
もうね、俺は思春期にエヴァを見られなかったはみ出し者で負け組なんだよ。リアルタイムで見て、俺の思春期のハートにぶっ刺さって欲しかった。エヴァQで頭がテンパったり、シンエヴァが公開されるまでドキドキしたり、今のエヴァの話に混ざりたかった。でも、もう、すべてが遅い。
チクショー!!!KBS京都め、なんで当時エヴァを放送してくれなかった!!!びわこ放送はやってるのに!!奈良テレビもやってるのに!!!テレビ和歌山もやってるのいぃぃぃっ!!!
あ……でも、サンテレビはやってないな。でも神戸の方だと確かテレビ大阪は映ったはずだし、兵庫県の……おそらく姫路の方の人だと悲しみを共有できそう。
ていうか、テレビ東京系のアニメのクセに何で世代共通言語みたいになってるんだよと思って、Wikipediaを見てたら、独立系放送局だと日本全国津々浦々放送してんのか。だったら、なんでKBSは当時やってくれなかった。
まあ京都も場所によってはテレビ大阪は映るんだけどさ。うちの学区は映らねえんだよ。ただ、ケーブルテレビに加入すると映る。なにせ、加入の殺し文句は「テレビ大阪が見れるようになりますよ」だからな。
なんか話が脱線してしまったけど、リアルタイムで洗礼を受けて、今エヴァを楽しめてる人が羨ましいってことや。嫌味で言ってるわけじゃない。文字通りの意味で羨ましいんだよ。
ブコメも書いたけど、増田さんの問題意識と違うこと書いた気がするので改めてトラバ。
えーと
増田さんの「やっつけること自体はいいけど直接手を下すのを幼児に見せるな」について。
「敵を滅ぼして良い」を分解すると、「なぜ滅ぼすのを選ぶか?」に触れないわけにはいかないとおもうんだよね。
寄生獣のシンイチは自分のエゴにすぎないと自覚して相手を殺す選択をしたわけだけど、ビョーゲンズも寄生獣と同じく、そのようにしか生きられない生物なんじゃないのかな(よく知らないので違ってたらごめん)。
(プリキュアのラストで描かれたのは、おそらく)人々を苦しめ傷つけたものを罰する≒正義だから手を下すと言う事だと思う(違ったらごめん)。それは大人目線では欺瞞なんだけど、その解決方法がのどか以外のデウスエクスマキナがうまいこと悪をやっつけてくれる…ってのは、どうなんだろう?手を下さなかったのどかは優しいねー?いやいや、大人目線ではのどかはシンイチのように無辜の病原体に手を下したエゴを噛みしめるべきだろうよと思うんだよ。でも、幼児にそれは難しい。だからとりあえず正義のように描写しといて、大人になってからノンマルトの使者やジャミラみたいに「アレ人類が悪くね?」って思うのもアリなんじゃない?
なんていうか本当に子供向けって感じでそれ通り越してガイジ向けというか
ダサイ口上にダサいみたい目
ギャグもはいここ笑ってくださいとお膳立てして行われるためなんかすごい不自然な上違和感
PTAからの苦情をかわしにかわしていくとこういう歪な作品が生まれるんだなあって
俺が子供の頃はロックマンエグゼとかデジモンとか大人になった今でも格好いいとか割と面白いというより大人目線での面白さもあるんだが
この妖怪ウォッチってどうなんだろう
大人が思ってるより子供は理解力あるしこんなガイジ向けまでレベル下げなくてももう少し大人向けに作品を作ってあげればいいのに
そう思いました。
君の青春時代を思い出してほしい。部活動やサークル活動に明け暮れ、あるいはそうでなくとも仲の良い友人たちと過ごした日々を。同年代の仲間たちが集まって、同じ目標に向かって努力し、でも皆個性的でバラバラだった。得意分野も違えば、目標を目指す理由も違って、かける熱意も時間も、家庭環境や物事の価値観だって違う。ただ同じ場所にいる、同じ目標を持つ、同年代なだけの子供たちが集まった歪な空間。青春譚はそんな中で紡がれる。皆バラバラだからいつも仲良くというわけにもいかず、時には激しく争ったりして、仲間が去ることもあったろう。対立の末に互いを尊重するようになることもあったろう。決して順風満帆ではないその起伏に溢れる日々は、フィクションの中にとどまらない、現実の物語として青春時代を支配する。
青春譚の世界は狭い。子供たちは自分たちの目に見えて手の届く範囲の世界を生きる。仲間たちを見て、この先いつか出会う他の集団を思い、自分たちのこれから歩む道を見据える中で、その下に埋もれた大勢に思いを馳せることはない。自分たちと同じくらい努力して、けれど自分たちと今後出会う事のない別の子供たちに対して、仲間意識や同情が芽生えることもない。だからいつも青春譚の主人公は「自分」になる。青春の熱気が、自分こそが物語の主人公かのような錯覚に溺れさせる。だから青春時代に、例えば「僕はこんなに頑張っているのに!」とほかの仲間たちも同じくらい、あるいはそれ以上頑張っていることを知っていたとしても、つい思ってしまうのだ。クラスメートGでも部員その16でもない、自分こそが主人公なのだから、その主人公というまやかしのアイデンティティにすがってしまう。子供たちにとっての青春譚は、自分を自分たらしめるアイデンティティを探し求め、特別になろうとする物語とも言えるだろう。
しかしずっと青春を謳歌しているわけにもいかない。歳を重ねるごとに見なければならない世界は広がりをみせ、将来という現実が重くのしかかり、広い世界の中で自分がいかにありきたりで普通な存在なのかを自覚せねばならない時が来る。受験や就職、勉強やスポーツの成績、資格試験、引っ越し、失恋、身内の不幸、怪我、もっとささいな下らない会話かもしれない、そのきっかけは様々だろう。子供たちは転機を迎える。そうして子供たちは青春を過ごした集団から引退する。「成長」して「大人」になって、青春譚は終わりを告げるのだ。
けれどそんな期間限定の青春譚をずっと紡ぎ続ける者も中にはいる。青春を捨てることなく集団から去って「大人」のひしめく社会へ赴く彼らは、その「子供」的な部分をあるときは称賛され、ある時は幼稚だと批判され、けれどそのどちらであれ特別な存在であることには変わりない。大半の子供たちが普通の大人になる中で、普通ではない者だけが特別な存在として「子供」であり続けることができる。選ばれし者だけが終わらない青春譚を謳歌する。
ライザのアトリエは青春譚である。しかしライザのアトリエは青春譚として異質な部分がある。
青春譚の多くは主人公を物語の中心に据えつつも、仲間たちにまつわるエピソードを描く。例えば青春を題材にした傑作部活もの「響け!ユーフォニアム」はアニメ化も成功しており知る人も多いと思うが、この作品は主人公久美子を通して物語が進むものの、個々のエピソードの中心には様々なサブキャラクターが据えられていて、彼女たちの問題にぶつかりながら、彼女たちの力で先に進むつくりになっていることが分かるだろう。「響け」ではある種記号的な主体性のないひとたらし主人公を設定することで、疑似的に吹奏楽部全体を主人公として描き、仲間たちの物語を繰り広げる。青春譚は仲間たち「みんなの物語」だからこそ、多くの作品は幅広いキャラクターの幅広い問題を描くことになる。
けれどライザのアトリエにはサブキャラクターイベントがほとんど存在しない。したがって仲間たちの物語はほとんど描かれず、物語の節々からその成果だけが見え隠れするにとどまる。そんな主人公だけにフォーカスした青春譚は、いつのまにか、まるで主人公ひとりの英雄譚かのような様相を呈してくる。そう、青春譚が「みんなの物語」なのはあくまで大人目線の客観的なものにすぎず、そのさなかに居る子供たちにとってはそれが「自分が主人公の英雄譚」かのように錯覚してしまうのだ。ライザのアトリエは青春譚だが、ただの青春譚ではない。青春の熱に浮かれた主人公ライザの視点から見た、錯覚の英雄譚なのである。
ライザのアトリエはライザの英雄譚だ。自身こそが主人公である錯覚に溺れるライザは、仲間たちにも同じように物語があることに気づけない。例えばタオはどうだろうか。勉強を頑張っている場面が何度かあったかと思えば、いつのまにか遺跡で古代文字をそらんじて見せた。他にも、例えばライザとの確執を乗り越えたボオスはあっという間にライザをも超える決断力と行動力を見せるようになった。彼らの成長はそれだけでひとつの物語になりうるほど大きいものに違いなく、彼らは全員が物語の主人公たりうるのだ。けれどライザはそのことに気づけない。気づけたとしても気にしない。青春の熱気で仲間たちへの関心さえも浮ついてしまったライザは、自身の英雄譚に溺れていく。
ライザのアトリエはファンタジーRPGであり、プレイヤーは主人公ライザを操作してゲームを進めていく。走り回り、素材を採取し、アイテムを調合し、依頼をこなし、戦闘をし、そしてテキストボックスをおくって物語を進めていく。そんなゲームとして当たり前な行動に対して、ライザのアトリエもまたゲームとして当たり前の快感をプレイヤーに与える。素材採取の爽快感、調合の楽しさと達成感、報奨金を得てうれしく思い、戦闘では調合の成果に一喜一憂する。RPGにおいてプレイヤーはゲームシステムから特別感や万能感といった快感を享受することになる。
そしてライザのアトリエでこの快感を享受するとき、プレイヤーは気付かぬまま物語に没入してしまうのである。ライザの英雄譚を進める中で、ライザ本人は自分の特別さや万能さといった錯覚を抱えて自分を物語の主人公だと信じており、一方プレイヤーはゲームシステムから特別感や万能感といった快感を与えられながら「ライザが主人公のゲームの物語」を進めることになる。ライザの描く錯覚の物語とプレイヤーの受け取るゲーム的快感はゆるやかに、けれど確実にシンクロしていく。プレイヤーは気付かぬうちにライザの錯覚の英雄譚の支持者となってしまう。プレイヤーもまたライザと同じように青春に溺れてゆき、サブキャラクターにも物語があることを重要視できなくなってしまう。タオの古代言語の研究も、ボオスの精神的成長も、レントもクラウディアもアンペルもリラのことも、しっかり評価しているつもりでもどこか軽視してしまう。青春譚がみんなの物語であることをつい忘れてしまう。だってライザのアトリエはライザの英雄譚なのだから。
ライザのアトリエは、誰もが英雄ではないからこそ面白い青春譚を、英雄譚を語るためのフォーマットであるRPGを用いて語った時いったい何を表現できるのかという問いに対して、ひとつの面白い答えを示せているだろう。
やがて夏が終わり物語はエンディングを迎える。けれどそこに訪れたのは英雄の凱旋というハッピーエンドではなく、別れだった。自分の将来という現実、親の都合という現実、これからの生活という現実、ライザがそれまで見て見ぬふりをしてきた様々な現実が、仲間たちとの別れとともに押し寄せる。英雄譚を共にした大切な仲間たちが「大人」としてライザの前に立つ。青春譚を経て特別になれなかった子供たちが「大人」としてライザに別れを告げる。ここでライザははじめて、仲間たちにも同じように物語があったことを理解する。ライザが青春の熱に浮かれて目の前のことだけに躍起になって満足している間に、仲間たちはもっと広い世界を見つめていたのだ。このひと夏の出来事は、決して英雄譚なんかではなく、仲間たちみんなの物語だったという現実がライザを襲う。自分が見て体験してきたひと夏が一気にひっくり返されて、言葉を失うほどのショックを受ける。
けれどライザも特別な存在でないのなら、現実とは向き合わねばならない。ライザは「大人」になることを決める。皆を引き留めない。隠れ家は解散。遠く離れてもまたいつか会おう。そんなありきたりな結末を選ぶ。ライザは特別にはなれなかった。子供のままではいられなかった。「なんでもない」ライザは青春の夢に生まれ、そしてなんでもないまま「成長」という名の死を迎えた。青春を生きたライザというキャラクターは、青春の終わりとともに消える。ライザは「大人」になっていく。
ライザが「大人」になることを選んだように、プレイヤーもまた青春の夢から覚めなければならない。ずっとこつこつ積み上げてきた錯覚の英雄譚は、エンディングの場にきて一気に崩される。プレイヤーの支持した英雄譚なんて最初からなかったのだ。エンディングはプレイヤーに、ゲームシステムからもたらされる特別感や万能感を物語の解釈にまで持ち込んでいないかと咎めてくる。ライザ視点でしか見てないのに物語全体を理解した気になっていないかと冷酷に突き放される。ずっとおだててきたくせにエンディングにきて突然「なんでもない」の世界に突き落としてくる。プレイヤーも「大人」にならなければならない。
平和な後日談もなく物語のピークから急に始まる決してハッピーではないエンディング。いつか訪れることを知っていた仲間たちとの別れ。その別れを祝福したい気持ち。けれど自分だけ取り残された焦燥感もある。どうにかハッピーエンドには行けないのかと歯がゆく思う気持ち。自分の特別さを否定された時の居心地の悪さ。
そんな複雑に絡み合ってモヤモヤした、けれど無性に懐かしいあの青春の喪失感を、「ああ、明日からこの部室に来ることは無いんだ」と思うあの青春の残響を追体験したいなら、これほど適したゲームは他にないだろう。
ひと夏の濃密な時間を過ごして、結局特別にはなれず「なんでもない」まま青春時代を終えた少女、ライザリン・シュタウト。そんな少女に、3年の年月を経て、2度目の夏が訪れるという。
日本の児童文学は終わると思う。魔女の宅急便の原作読んだことあるやつって少ないだろ。でもみんなジブリで知ってる。映画化されるだけで読んでみようという人もでてくるし、何より原作として存在意義がある。他のアニメ映画はほとんどが漫画が原作だ。それに最近は子ども目線で作ったアニメだけど大人が見ても見応えがある、ではなく、ぶっちゃけ大人目線のアニメだけど子どもも楽しめるに傾いてる。これは原作が漫画だからだと思う。映画の世界にとどまらず、昔はみんなよく見ていただろう世界名作劇場の原作はだいたい児童文学だし、制作に携わった有名人と言えば宮崎駿だ。
ジブリが消えたら、誰が児童文学の素晴らしさを映像におこしてたくさんの人に広めることができるのだろう。それよりも、子どものためを第一に思って作った映画やアニメがいつかなくなるんじゃないかと危惧してる。
今年の正月に、近場で一番大きなTSUTAYAに娘達を連れて行った。一冊ずつ絵本を買ってあげようと思って。で、児童書のコーナーに入った時に条件を二つつけた。一つはオモチャ絵本(音の出るやつとか、オモチャのレジスターや楽器などに申し訳程度に冊子っぽいものが付いてる物)は買わないこと、もうひとつは図鑑など単価が高過ぎる物は無理という事。それだけ約束させて、好きに選ばせるつもりだった。
長女はひとつ目の約束の時点でテンションダダ下がりだったが、クリスマスにサンタさんと親戚一同から遊びきれないほどプレゼント貰ったばっかりなんだから、と説得。長女は渋々って感じだったが同意した。
長女は本好きで図書館では自由に借りて色々読んでるから、今回は何を選ぶんだろうと思ったら、数多の絵本の中からソッコーで選んだのが、まさかののぶみだった。ジュウオウジャーのやつ。
それは別に平積みされてた訳でなく、むしろ目立たない棚の片隅にひっそりと置かれていた。ひっそり……といってもそれは大人目線でのことで、子供からしたら棚の一番下の段って見つけやすかったのかもしれないけれど。
私は例の『ママがおばけになっちゃった』を読んだ事があるがあんまり良いと思わなかったし、ネットでの評判はあの通りだし子供に有害説もあるので、正直言ってやっぱり読ませたくないっていう気持ちがあった。
それでつい反射的に言ってしまったのが、
「それはちょっとどうかな、ジュウオウジャーもうとっくに終わったし」
ジュウオウジャーとっくに終わったとか自分でも意味不明だと思う言い訳だ。だがなんか瞬間的にあの本を買うのを阻止するべきかもしれないという気になってしまったのだ。
そしたら長女はそれに物凄くショックを受けてしまい、絵本を選ぶのを止めてしまった。しばらくコーナーをさ迷い、自分の買いたくない本を買うという重すぎる任務を背負っているという感じで死んだ目で本棚を見ていた。
長女がふらふらと歩いて行った先に、特撮絵本の棚があった。長女がそれを見て言った事には、
「どうせこれも買っちゃダメなんでしょ?これは絵本じゃないし」
私が
「いや良いよ、これ買っても!これも絵本だし」
というと長女は
「ふーん。でもいいよ。これは絵本だよね、ジュウオウジャーじゃないから」
なんか色々誤解されていた。
長女は結局『ひつじのショーン』のアニメ絵本を数回「これは絵本?」と確認してから「これでいい」と選んだ。
そのしばらく後に、先日のお詫びのつもりでまた娘達をTSUTAYAに連れて行ったのだけれど、長女は絵本の棚には見向きもせずにドリルの棚に向かって行き、入学準備ドリルをチョイスしてニコニコしていた。(以前からドリルが好きなのである)
絵本も買ってあげるよ?って言ったら「いらなーい」だそうだ。
まだ乳飲み子でギャン泣きするかうんこ漏らすか寝てるかの3択の子供なら気にしないので勝手に連れてくれば?と思う。
うるさいと思うし、臭いとは思うけど、仕事には集中できるからこっちに被害はない。
とはいえ、連れてきてる親自体は結局子供が寝ている時間しか仕事にならないだろうから意味がないんじゃない?とは思うが、そこは好みの問題だからご自由に。
親の腕の中やゆりかごの中にいる子供ならいいが、人間成長したら動き回るわけですよね。
オフィスにはハサミやカッター、重いコピー用紙、キャスター付きの机などなど、
下手に触ったり動かしたりしたら大怪我につながるものはたくさんある。
周りが注意してればいい、とか、子供をしっかり躾けておけばいいとかいうのかもしれないが、
邪魔だとかマナーだとか、そういう論点はあくまで大人目線のもの。
子供が安全に時間を過ごせるところなのか?という論点から見たら、
年に一度、職場参観日というのがあり社員の子どもたちが職場にやってくるのだが、
数時間という間で、親が子供のことを見張っていたとしても、ヒヤリハット案件は何度かあった。
生まれも育ちも秋田、高校まで住んで大学から県外へ、就職も県外って私が秋田県の人口が100万人割ったニュースを聞いて思ったこと
→当たり前。秋田県人は陰湿いわれるけどもその中でもダントツな県南地域で育った私からすれば当然としか思わない。
まず 碌な仕事がない
この日記書くときにハローワークのweb求人みたけどまぁ見事に 介護、土方、ハケン くらいしかみかけないよ
給料も額面で10万円前半。これ絶対手取り一桁万円だよね?(どうでもいいけどハローワークのweb検索って正社員で検索すると”正社員以外”もひっかかるのなんとかならないの?)
秋田でホワイトな職場っていったら実質公務員しか選択肢がない。 たしかに給料が高い職場はあるけど休日出勤サビ残当たり前
まぁ土地もってれば農業もありだけどそれだってホワイトとはいえない
で地元でこんなこといえば返ってくる答えが
し ょ う が な い よ(諦め)
もうねみんななにかを改善しようとか思ってないわけよ。あくまで現状維持。自分たちが変わるのは絶対やだってね
高校卒業までに同級生、先輩、後輩で自殺したやつは私が知ってるだけでも5人はいる。
暴力的ないじめはあんまりなかったけど精神的な奴(仲間はずれ、陰口)なんかは日常茶飯事
なんか”普通”でないとだめなんだよね秋田では。少しでも”普通”からずれると迫害の対象になる
雪国だから~とか日照時間が~とかいろいろ理由はあると思うけど
私も美人、イケメン多いってインターネッツなんかで言われているのみて
んなわけないだろww って思ってたけど県外の大学にいったらホントに秋田には美人、イケメン多かったなって実感した。
たまたま通っていた県外の大学の近くに付属高校(共学)あったんだけど、通っている女子高生みて
アレ?今流行のジェンダフリーってやつ?男でもスカート穿くんだ やっぱ都会はスゲーとかマジ思ったからね
でここまではよくある話なんだけど私が声を大にして言いたいのはここから
秋田には美男美女が”多い”けど”全て”の男女が美しいわけではないんだよね当然。
ではっきりいってそういう醜女、不細工なやつら(具体的には私みたいなやつ)には秋田は厳しいわけよ
クラスでも美男美女が”多い”からそれ以外のやつらは恋愛対象にならないというか
そもそもそういうやつは”普通”扱いされないからね。”普通”じゃないやつがどうなるかは上に書いてるよね
子供の絶対数が少ないから先生が一人ひとりの生徒に集中できる。
ってよく地元や全国版のテレビで言われてるけどこれ大人目線な模範回答だと思うよ
からみんなテストの成績がいいんじゃないかと思うの。小中学生ならゲームするかそこらへんの野山で遊んで
れば満足だし、家に帰れば勉強しかすることない。秋田県ではテレビのチャンネルも少ないし、そもそも最新のドラマやアニメなんかは視聴できない。
だから高校生になると途端に全国的な成績が落ちる。 そりゃ高校生にもなればゲームで遊ぶとか魚釣りして遊ぶなんてことよりもカラオケとかいろいろやりたいこともでてくるし勉強だって難しくなる
でそういった都会の人が普通にできることが秋田では難しい。だから勉強ができるやつほど秋田から出ていこうとなる
ないです。そもそもそんなのがあればとっくの昔におこなっているでしょう。
この前の知事選挙で佐竹の殿様が当選してたけどその時の公約でもたしか少子高齢化対策があったはず
でもね 肝心の秋田県人に少子高齢化を改善する気がまったくないんだからうまくいくはずないじゃん
そりゃテレビの取材とかでマイク向けられて「少子高齢化をどう思いますか?」とか聞かれたらだれだって「なんとかしないとだめですねぇ」、「このままじゃいけないですねぇ」
とかいうよ?私だって言うよ。でも実際のところ他人事。他県から人を呼ぼうとすると自分達のやり方に100%従え!ってなる。それができなきゃ村八分よ
既に秋田県の65歳以上の高齢化率は34%を超えています。秋田県に住んでいる人の3人に1人以上は65歳以上です。
この流れは変わらないし変えようもないでしょう。秋田県出身の私が言うのも何ですが
47都道府県が46個になったところであんまり変化もないと思うし僻地に住んでいる人たちを強制移住でもさせた上で山形とか青森に分割吸収合併してもらったほういいんじゃないかな
それか移民特区として日本にいるアジアの人たちを強制的に秋田に住ませるとか?どちらにせよ現状維持を好む県民性である以上手荒な方法以外に変わることはないでしょう。