はてなキーワード: ライトノベルとは
いいじゃないか。
並大抵の覚悟ではできることではない。
わざわざそんなことをしなくても十分得るものは得たのに。
それでもなお書くというのは並大抵の勇気ではない。
競争考みたいなつまらない本を出した時はこの人ほんとに終わったかと思ったけど
そんなことはなかった。とても嬉しい。
だからこの本は買う。買って読む。
読んでみておかしいなと思ったらちゃんと指摘するし
ハックルさんの読み方がさすがだと思ったらちゃんと絶賛させてもらう。
ところで。
ラノベ企画の続報はどうなっておりますか http://info.nicovideo.jp/seiga/hucklenovel/
もうイラストレーターが決まってから2年経つんですがまだですか?
ライトノベルの書き方をブロマガで一生懸命書かれてましたがついに終わったということはもうすぐ出るって思ってていいんですよね?
もしかしてラノベ出る前に「ラノベの書き方の教科書」って本出したりしないですよね。
でもラノベは頑張ってくれないと困る。
ラノベの話が出てくるまで、今まではずっと岩崎夏海さんのことは
企画者としては優秀でも文章が本当に退屈でつまらない人だと思って読んでました。
もしドラ読んでもエースの系譜読んでもチャボよんでもいっつも同じ。
わかってる立場の人間が思わせぶりな言い方で人をけむにまくような話ばかり。もっとまっすぐ伝わる書き方できないのかとやきもきさせられる。
本人はいろんなことをよくわかってるんだろうけれどそれを他人に理解してもらうことを諦めてて、
それで自分の殻に閉じこもっていろいろ先回りして言い訳して自分を守ってるいけすかねえ野郎だと思ってました。
理解してもらおうと言う努力は放棄して相手に理解してもらおう受け入れてもらおうという甘えがすごいにじみ出てた。
そんなに自分が何でもわかってるつもりでいたいならそうやってずっと頭髪あたりが裸の王様やってろと。
でもそんな岩崎さんがラノベに挑戦すると聞いて、そういう殻を取り払って
ダイレクトに読者とつながりあうものを書こうって考えられてるのを見てすごい嬉しかったのです。
それは、ある意味でもしドラなんかよりずっと難産だろうと思います。
どこまで岩崎夏海が頭髪以外の部分をさらけ出せるかという挑戦だと受け止めています。
その意気込みをブロマガでたくさんたくさん書いてくれて、私の期待はもう有頂天なわけです。
その挑戦の結果が、たとえストーリーとしてつまらなかったりテーマ性外して売れなかったりしても構わないのです。
ただ、岩崎夏海が、どれだけ真剣に読者に向き合ってくれてるかのほうが大事です。
少なくとも出さずじまいは絶対に許されないし、変に奇を衒って作者が鎧を着てるような作品だったとしても私は嘆き悲しむでしょう。
いつもの。
お馴染みのあのアニメを見てるんだけど、このアニメ見てるとテンプレラノベっぽさっていかにアホの子を出すかなんだろうな…と大真面目に思えてきた。昔から「自分のことをかわいいと理解した上で色気を振りまいてくる娼婦のような女子高生キャラ」はいたんだけど、最近のテンプレラノベはそれよりも…ある時期までは「(自分がかわいい・お色気を期待されている理解してる)娼婦のような女子高生」が出てくるラノベが増えていると思うんだが、最近はそれをさらに突き抜けて「男子中学生の恥ずかしさを詰め込んだようなアホの女の子を入れる(むしろ、彼女達こそラノベらしさ)」になってない?
例えば、西尾維新(というよりも、この場合は物語やめだか)がラノベかどうかを議論する上で、ヒロインの娼婦っぽさとか設定の中ニっぽさに着目するならラノベよりもクサいから、ラノベにカテゴライズしてもいい。でも、ある時期からのハーレムラノベに出てくるアホの子はほぼ出てないから今の基準だと。僕が西尾維新が苦手(少なくとも、あんまり文学的だという評価をしたくない)なのはめだかボックスに代表されるような「読んだだけでお腹いっぱいになるような中二」なんだ。ある時期までラノベには多かれ少なかれそういう雰囲気を入れるものだったが、最近のは形骸的に中ニという作品が増えた? 落第騎士で学んだことはアホの子も萌えキャラにすると許されるというかいじりがいがあるという「可愛い子は正義」「オタクは本質的にはフェミニスト(女の子びいき)」ということだと思うの…。個人的感想だから、異論は認めるし、僕自身おかしな事言ってる自覚はある。落第騎士見てると頭悪くなりそーだけど、逆に言うとテンプレでラノベ書いている人がなんでそんなことをするかを考えながら見てると「あー読者的にはこうだから、こうなってるのか」と感じることがしばしばある。頭悪そーなことには変わらないけど、自分が好きな作品・ガチで語る作品はウケへんもん…
主人公が唐変木すぎてセクハラにも相手からの好意にも気づかないというラノベの主人公の設定って要約すると(というよりも、女性が身もふたもないツッコミをするとするなら)「ガキ」なんだろうね。それも悪い意味ではなく、煩わしい性欲がない代わりに性を隔てるデリカシーもないという両方の意味で。すご~く変な言い方かも知れないけど、落第騎士ってホモアニメだと思ったほうが(登場人物全員男子で、男子校的な場所にいると思ったほうが)ぶっちゃけしっくり来ると思うんだよなぁ…。ちゃんと女の子らしい視点とか、キャラを持ってる人がいないし、女性目線入れると簡単に崩壊しそうな意味で…。女の子を女の子として書く必要がなくなってると考えるとテンプレラノベって童貞でも…いや、むしろ童貞の方が書きやすい?男がかっこいい男を主人公とかすぐ死ぬキャラとして配置して、男子的な幼さは女の子に埋め込んでしまえばいい。あーそう考えると、女の子っぽさが何かとか考える必要ないわ。
ハーレムラノベでドンドンヒロインの影が薄くなって、主人公が他の女の子には親身になって行くという現象を学術的に言い表すと「クーリッジ効果(ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF…)」と言っていいと思うの。浮気は本能。新しい女の子は別腹!!
萌え豚はフェミニスト ※半分はネタだけど、もう半分はジブリ社屋のトイレが女性のモノのほうが広い理由を尋ねられた時に「それは宮さんがフェミニストだからです」と鈴木さん(だったかな?)が答えたのを元ネタにしてる
姫さんなんか言動の(斜め上な)色ボケっぷりを外して評価すれば、刑事モノとかアクション劇の“バディ枠”ですわね… 負けず嫌いが過ぎて時々逆噴射する熱血・正義漢だと思えばいいと。「男子中学生の小っ恥ずかしさを女の子に詰め込んでかわいいかわいいという系統のキャラの代表格は柏崎星奈だと思う」的なことを1,2週間前ぐらいにいったらヴァーミリオンが肉っぽくなり始めてきた…。予想どおりっつうかなんつうか
禁書からずっと続いてる、ラノベ世界に都合よく湧いてくる悪役のヤンキーってなんなんだろう?悪く言うつもりかどうか以前にあいつらの存在自体が謎。本来、フィクションの中で出てきたヤンキーって主人公一味よりは現実味を帯びたキャラクターのはずなのに、なぜかヤンキーの方が現実味がないキャラクターに感じて萎えるんだよなぁ…。アレなんでだろう?数日に一度は、近所でヤンキーらしき人見てるから「いない」とはおもってないんだけどなぁ。異能力使いよりも非実在性をヤンキーに見出してしまうのはなんでだろうか?NPC的な割に人間味を見いだせないラノベに出てくるヤンキーほど謎なキャラクターも珍しい。舞台装置といえばそれまでなんだけど、もっとうまくやれないのかが謎。いや、下手だと感じるライトノベルにしか出てきてないからヤンキーが出てきちゃう時点で下手くそなラノベなんだけどぱにぽにとかパンストみたいにヤンキーが楽屋裏で出演陣と楽しく盛り上がってないと整合性が取れないぐらいの舞台装置っぷりに困惑する現象を何と名付ければいい?
先に言っておきます。
引用部分は青二才が詳しくない分野について語ってる時の文章です。読んだら確実に後悔します。
6畳間から魂の叫びをシャウト!するブロガー…三沢文也です(`・ω・´)
俺修羅の1話がまずまず面白かったから2話も見始めたが冒頭で「腕なんかくんじゃってやらしい」と女の子からそんなセリフが出て「こいつ、童貞かよ。」という気持ちになってる。手を繋いだり、腕くんだりすることについて恋仲だなんだと感じるのは童貞の悪いところ、男のキモい所ってよく言われるよね
ティーン向けのラノベの女の子見てると、性的なものを見出す基準が完全に男過ぎて辛い
最近のラノベが童貞をこじらせてるんじゃないかと心底心配になってきた…ほら、僕の頃に流行ってたハルヒとか狼と香辛料とかは最低限度童貞の男みたいなことを言わないぐらいの良心はあったよ?フィクションが恋愛やモテの参考になるという見解を示す人が最近のラノベ見るとどう思うんだろうなぁ…とは
付き合ってもないのに裏切り者と言い出したり、腕を組んでるだけでやらしいと言ったり…なんなんだこの女は?ゴムつけて☓☓☓しても「責任とって」とか言い出すアレか?
確かにライトノベル読む年齢層じゃなくなりつつある人間だけどさ、それでも僕が直撃世代の話から見ると整合性が落ちてるものはつまらなくて、それと同等かそれ以上のもの(ホライゾンなんかつい最近見たけど面白かったし、化物語はなんやかんや言って見られてる)から僕自身の問題だけでもないと思うの
そういう意味だと、アスタリスクはかろうじて見られる方だったんだよなぁ…。面白いかつまらないかはともかくとして、見ててつんのめって愚痴るほど面白くない・整合性がない作品ではなかったのよね…。見られるか見られないかぐらいの基準だけど
あ、アニメに対して矛盾を指摘すると「楽しく見ればいい」「ネタにマジレス、カッコ悪い」という人が必ずから断っておくけど、ヤマもオチもない東京の・それも女の会話はちゃんと構成があって返しも話の終わりも意識する関西人の会話から見るとすごくイラつくものなんです。支離滅裂すぎて
あーそっか!最近のラノベって男女が逆なんだ!!男が女の鈍い(と男から思われてる眼中にないけどモテる)やつみたいで、女が童貞の男みたいな痛いというか、性的なものへの認識が男子中学生っぽいのは、「痛い女の子」なら許せるけど「痛い中学生男子」はラノベを読む層のメンタル削るんだ〜♪
すげー。片方のヒロインは「痛い中学生を性転換させたような奴」だけど、片方は「娼婦を女子高生にしたみたい」なあざとさ。あーラノベってこうなってるのか…。落第騎士やアスタリスクみたいなテンプレを見た後に俺修羅みたいにテンプレを斜め上から書く作品見ると構造が見渡せて素敵
あー最近のラノベのヒロインで俺が苦手なキャラって大きく分けて2種類に別れるんだ。
・発言がとても女とは思えない自意識過剰な男子中学生みたいな人
なるほどなるほど。
ちなみに、前者の代表が高坂桐乃で、後者の代表が柏崎星奈かなぁ…。後者は御坂美琴とか白井黒子でもいい気はするんだけど、あの子らは割と女の子らしい(自分の性に対してもっとドライ)な部分があるからなぁ…。
あー俺修羅はすきじゃないけど、勉強になる。テンプレラノベがどういうものか、僕がなんでラノベにイラつくのかをものの見事に、作者自身もきっとバカにしているであろう手法でやってくれるから面白いわ!
わー謎部活だ−謎部活系(ハルヒ・はがない・生徒会の一存)辺りはパロディが多い気がします。わかりやすい元ネタがあって、それをべらべら喋ってつなげていく感じのお話が多いような気がします
あれ?テンプレラノベの方向がとらドラとか俺妹の方に行くかと思ったら、まさかの生徒会の一存とかそっちの路線?学校の隅っこから社会とネットを風刺しちゃう系?
最近というか、謎部活系ラノベに割りとありがちな設定として「あんたなんか眼中にないカリソメの関係なんだからね」みたいな作品をよく見かけるが、アレって男で言うところの「先っぽだけ」を女がやるとああなりますというイメージなのかな?
OKわかった。もういい。
お前が、お前こそが青二才だ。青二才って看板下ろした瞬間に助走つけてぶん殴るけど青二才って看板掲げてる限りはもう何言ってもいいです。お前はそういう奴なんだな、以上にもはや思うことはないです。もう好き勝手に喋っててください。突っ込む気力すら起きないです。
でも、一つだけお願い。ここだけはやめて。
あ、アニメに対して矛盾を指摘すると「楽しく見ればいい」「ネタにマジレス、カッコ悪い」という人が必ずから断っておくけど、ヤマもオチもない東京の・それも女の会話はちゃんと構成があって返しも話の終わりも意識する関西人の会話から見るとすごくイラつくものなんです。支離滅裂すぎて
なんでや関西人関係ないやろ。当方関西人ですけど俺修羅好きですし、関東と関西全く関係ないです。
もうね、青二才は自分の感想としてなら何言ってもいいですよ。お前が思うんならそうだろうなお前の中ではな、で終わりにする。本当は頼むからもうお前ラノベ原作アニメ見るなそもそもお前何のために見てんだよといいたいけど好きにしたらいいよ。
でもまあ、あの人はある意味ありがたい存在で、「童貞」みたいなキーワードを使って感嘆符も多用し「わかった!」とか軽率に言ってくれるから、明らかに単なる勇み足+マウント取りたいだけとすぐに分かる。実質的に同レベルの内容だけど表現的には落ち着いたものになってたりする場合の方が怖い。— いのり@JC2 (@srpglove) 2015, 11月 3
でもさ、俺がそう思っただけって言うことにしたいなら他人巻き込むのやめて。アホなこと言った後で関西人や理系を引き合いに出さないで。 君の発言に関西人や理系を巻き込むのだけはやめて。マジでお願い。青二才は青二才だから。関西人とか理系とかそんなくくりに収まらないから。関係ないから。うちら君と関係ないから。全く関西人関係ないネタで唐突に関西人を言い訳にするのやめて。ホントやめて。お願い。もうホントお前のtwitter発言が素晴らしかろうがクズだろうがどっちでもいいです。でも、発言をした後に「関西人として」とか「理系の人間として」とか言うのだけホントやめてください。お願い。お願いだからやめてください。もうそれ以上はなにも望みません。好き勝手に発言したいなら一人でやってください。
青二才の言ってることは全く意味がわかりません。ただひとつ判る事は、お前の発言は関西人と全く関係ないということです。 もちろん理系とも関係がありません。どうか関西人や理系を巻き込まないでください。それだけが私の望みです。
言いたいことが読み取れないのは僕の読解力がないせいか?「うんそうだね」以外に何も起きない記事がこうも長く書けるのはすごい / “いつの間にか仮装イベントとして定着しつつある日本のハロウィン - ARTIFACT@ハテナ系” https://t.co/nJ7axPDJvI— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2015, 11月 1
☆2つなんて…売れてないライトノベル以外や、タレントが書いた中身が伴わない本以外では始めて見た。どんだけ酷いんだろう?これ。 / “https://t.co/7x1OIhTzR0: 「若作りうつ」社会 (講談社現代新書): 熊代…” https://t.co/sHQucGirUb— 三沢文也@こっちは本気で遊んでるんだ! (@tm2501) 2015, 11月 1
ファイ!
別にそんなに気にすることでもないかもしれないし、大したことでもないので気になる人だけに。
・テクノロジー(PC、インターネット、IT、ケータイ、ウェブデザイン、デジタル、ネットコミュニティ)
また、カテゴリ変更におけるガイドラインとして以下のようなものがある。
http://b.hatena.ne.jp/help/entry/guideline_category
以前にアニメとゲームカテゴリの名称がおかしいのではないかという増田を書かせていただいたが
それ以外にも幾つか不明点、不満点が存在するため合わせて併記する。
・世の中と政治経済の内容が一部被っているために分類しづらい部分がある。
政治系の話題は世の中のエントリとかぶってしまっているように見える(経済はあまりかぶっていないかな?)
・テクノロジーの中にネットコミュニティという分類があるが紐づきづらい分類のため一見わかりづらいエントリーが含まれる。
例えば以下である。
http://b.hatena.ne.jp/entry/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20151028/1445970600
かといって他の分類には当てはまるわけではない。
アニメとゲームという名前にもかかわらずかなり広範にわたった内容が含まれる。
内部分類はゲーム、アニメ、漫画、ライトノベルだが、他にもニコニコ動画などのサブカル系動画サイトの話題
pxivなどのイラスト関連、声優(アニメに含まれるのは分かるが厳密には芸能である)、SF小説(おそらくライトノベル関連で入ってしまっている)、フィギュアetc
等々、名称と関連性が薄いように見えてしまう内容が大量に含まれる。
・おもしろ
正直よくわからん。
内容の不一致を引き起こしすぎるとブクマが伸びづらい等の弊害が起きかねないと思われる。
INTERIOR
TRIP
BEAUTY
GIRL'S BLOG
でも細かくて逆にどこに含んでいいかわからない内容も散見されますね。
http://bkuma.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151027-00050080-yom-soci
これがインテリアかよw
※追記
シロクマさんと青二才さんがオタク系の記事も書くからだと思う。
あのへんの連鎖反応でたまに入ってくる。
遠くない業界(非SFのエンタメジャンル商業出版)から、小声でそーっとコメントする。
SF業界っていうのは、もうすでに業界っていう言葉を使うのも躊躇われるくらい小さくて脆弱なのだが、他に適当な言葉もないんで業界っていう言い方をするのを許して欲しい。
とにかくこの日本のSF業界ってのはあんまりにも小さくて脆弱であり、そこに住む住民は岐阜県の山間にある過疎の村にように全員顔見知りであり、それは作家編集者どころのレベルではなく、ハイアマチュアであるとか、ちょいと発言力のあるBlogレビュアーレベルで、顔見知りではないにせよ「ああ、あの人」程度の認知がある世界なのだ。そしてそこの住民全員は自分たちの住んでいるその過疎の村が、村どころか、浸水しかけたボートであるという共通認識を持っており、降って湧いたような夭折の天才(真実かどうかはともかくそういう設定の)のもたらす「業界の利益」には逆らえないのだ。映画化さえされるのだ。それは過疎の村にとっては逆らいがたい「巨大な天意」である。
こんなちっぽけで権益もクソもないような、初版数千部のジャンル――Exelで読者の総数が管理できるような規模はもはや不特定多数ではなく特定多数であり、実売数に占める献本の割合が誤差じゃないような、そんな小さな小さな世界。
にもかかわらず、SFを読む方ならご存じだろうが、日本SF作家クラブの一件はああなった。
業界という言葉を使わざるを得ないのは、まあ、要するにそう言うことなのだ。
ライトノベルという様式(個人的にはジャンルじゃなくて出版様式だと思っている)というものがあり、それは出版業界や読者に低俗と見られることも少なくはないのだけれども、しかし「SFで育ったオレなのだが、オレは俺の好きなSFを書きたいのである」という作家を、ハヤカワではなく救ったという事例はある。
読者のみなさまは、面白いものを読んだときに、「くあーこれ面白れええええ、やっべええ、脳汁ぷしゃったわー!!」と読んでいただけるのが一番良いと思う。「あれ、これなんだかちょっっと……」と思ったら口をナプキンで拭いてスルーしてもらえればなお良い。SFだから、とか、SFジャンルでの出版だから、とか、SF老舗の、SF業界での評判だから、というような文脈で読まずにも楽しめる読書体験であれば、とてもとても嬉しく思うし、それが最終的には「業界」を健全化すると考える。
そんなこと、どうでもいいので。
なぜ物語の少年少女が「学園」に呪縛されるようになったのか - Togetterまとめ
このまとめの最初のあたりで芦辺拓氏が例に挙げている作品の刊行年は以下のとおり。
西條八十の白ばと組
→『あらしの白ばと』1952年
高木彬光の古沢姉弟
まず、このくらいのスパンの話だということを理解しておいてほしい。
たかだか十年前と比較するくらいの感覚で「最近のラノベ作家は楽をしたがるから」などと言っていると論点がズレてしまう。
さて、そもそも「昔は学園ものは少なかったが今は学園ものばかり」というのはラノベだけの問題なのだろうか。
Wikipediaの「学園漫画」の項には以下のように書かれている。
少年少女を主人公とする作品に学校を場としたりその人間関係が中心になることが多いことは当然であり、漫画以前の小説の時代から学校ものは存在したし、学校を舞台とする漫画作品も昭和30年代から存在した。ただ昭和30年代には、放課後に家の手伝いをする者や中学で卒業して実社会に出るものがまだ多く、学「園」ものという呼び方にはある程度の生活階層の青春ものを意味するイメージもあった。
結果的に、雑誌の漫画において学園漫画という「分野」(市場分野?)が生じたと言われるのは、日本の高度経済成長が成果を安定させて生活の向上や学歴の向上が既定路線となった1960年代半ば(昭和40年前後)からである。
学園漫画で言えば『ハリスの旋風』が1965年、『夕やけ番長』が1967年、『ハレンチ学園』や『男一匹ガキ大将』が1968年である。
芦辺氏と同じ論法を使えば「戦前や終戦直後には学園ものの少年漫画は少なかったのに今は学園漫画ばかり」とも言えそうだ。
もとより、「学園もの」増加の原因を、一足飛びに現代のラノベに求めたところで、何が分かるものでもあるまい。
学園小説が一定の発展を見せたのは、少年雑誌よりも少女雑誌においてである。もっとも著名な作家としては『少女世界』の読者から作家デビューした吉屋信子があげられる。
1916年に連載が始まった吉屋信子の『花物語』は、当時ベストセラーとなった連作短編で、女学校を舞台とした話が多い。→エス
これは「漫画以前の小説の時代から学校ものは存在した」「学園ものという呼び方にはある程度の生活階層の青春ものを意味するイメージもあった」ということの実例と言える。
こうしてみると、むしろ「1960年代以前の少年向け娯楽作品において学校が舞台とならなかったのは何故か」というほうが問題なのではないかと思えてくる。
そしてそれは、Wikipediaのとおり経済力に理由を求めるほうが、現代の青少年の心性を大仰に言い立てるよりは筋がとおっているだろう。
(もちろん他の要因もあるだろう、議論するならその点についてすべきである)
最後に、筆者が最近読んだライトノベル50作品を「A. 学校が出てこない」「B. 学校は出てくるが事件が起こるのは学外である」「C. 学校が主な舞台である」で分類したところ、以下のような内訳となった。
つまり芦辺氏が言うような「全てが学校で起きる学園もののラノベ」は16/50=32%である。
言うまでもなく、このサンプル数は少なすぎるし、個人の嗜好による偏りなどもあるので参考程度にお願いしたいが、
最近のライトノベルの全てが「学内で完結している」ということはありえない、とは確実に言えるはずだ。
大ヒット作だけを見ても、SAOやダンまちは「A」であるし、禁書目録や魔法科高校は「B」に分類されるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20151017150249
ところで、どうしてライトノベルだけ「最近の」という枕詞がつくのだろう。
ツイッター検索したらわかるけど、「最近の純文学」も「最近のケータイ小説」も「最近のSF」も「最近のミステリー」も「最近の大衆小説」もないんだわ。
たとえば「最近の純文学」というフレーズを用いると、「最近の純文学ってなんだ? 綿矢りさの蹴りたい背中か?」「何言ってるんだあれ出版されたの2003年だぞ。もう10年以上も前だ。最近の純文学あげてみろよ」「ひ、火花……」みたいになって話が盛り上がらない。
そして「最近のケータイ小説」というフレーズを用いると、「最近のケータイ小説ってなんだ? あれだろ、映画化された恋空だろ?」「恋空も10年前の2005年に執筆されたんだ。てめえは一体いつの話をしている」となってやはり話が成り立たない。
最近のSFとして虐殺器官(2007年)を挙げるのも、最近のミステリーとしてすべてがFになる(1996年)を挙げるのも、「それは最近じゃねえだろ!!」とツッコミが入って、やっぱ話にならない。
でもま、なぜか「最近のラノベ」だけは話が通じてしまう。不思議なんだよな。
「最近のラノベってなんだ? ああ、あのアニメでやってるあれだろ。巨乳が生き物みたいに自己主張するやつ。昔はよかったよな。灼眼のシャナの貧乳なんて最高だったのに、最近のやからは貧乳がどれほどの価値を持つのか理解していない。嘆かわしい」
「最近の」とわざわざ言うからには、過去との対比がよほどやりたいのだろう。
スレイヤーズ(1989年)の頃は良かった、ブギーポップ(1998年)の頃は良かった、禁書目録(2004年)の頃は良かった。
それと比べて「最近のラノベは」と嘆くのは、果たしてそうだろうか。昔だって、99%のラノベはゴミみたいなもんだったぜ。
いや、ラノベだけじゃない。99%の純文学も、99%のSFも、99%の大衆小説も、99%の恋愛小説も、等しくゴミなんだ。
スタージョンの法則って知ってるか。
「最低の作例を引っ張り出しては叩く」という悪意の攻撃に対して、自分から直接反撃しているのだ。90%のSF作品をゴミカス扱いするのと同じ基準を用いれば、映画、文学、消費材などその他あらゆるものの90%も同様にゴミである。言葉を変えれば、「SFの90%がカスだ」という主張ないし事実のもつ情報量はゼロである。なぜならば、SFは他の芸術/技術の産物と同様の質的傾向を示しているに過ぎないからである。(Wikipedia:スタージョンの法則)
つまりな、そういうことだ。
「最近のラノベ」なんて存在しない。語ったところで、得られるものが何もない。
しいて言うならば、そのフレーズはラノベ天狗を怒らせることにのみ貢献する。
ラノベ天狗はな、俺は奴が怒る気持ちはよく理解できるんだが、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うんだ。やり過ぎっつーか、不毛だわな。果てしなく不毛な戦いである。
雑なラノベ語りをする輩に喧嘩を売って、それで相手を論破して勝ったところでな、スカッとはしない。精神的な疲弊だけが残る。どれだけ叩いても、次々と飛び出てくるモグラのように「最近のラノベ」というフレーズが現れる。駆逐できない。無駄なんだ。
たとえブギーポップであっても、このオバケは倒せねーと思うぜ。何でって、「最近のラノベ」って言葉は、もうライトノベルを語る人々の心に憑り憑いてしまっているからだ。もう手遅れ。
だから俺はもう、諦めた。「最近のラノベ」それは取るに足りない、ちょっと足元を通り抜ける冷たいつむじ風のようなものだ。放っておいてやればいい。下手につむじ風をやっつけようと、足でバンバン踏みつけると、そいつは調子に乗って巨大化して、竜巻になるんだ。
「最近のラノベ」はもはや空気のようなものだ。あってもなくてもいい、存在していても存在していなくてもいい、その言葉そのものが持つ情報的価値はとっくに失われている。
なあ、だからラノベ天狗よ。俺は、先に逝くぜ。Windows8と共に、安らかな眠りの世界にな。
魔法・超能力を駆使した学園バトル。主人公はその中でも特殊な能力の持ち主、特殊すぎて落ちこぼれ扱い。でも実は強い。俺Tueee。女性登場人物の殆どは主人公に好意を持っている。ハーレム、またはそれに近い。
※学戦都市アスタリスク、落第騎士の英雄譚、新妹魔王の契約者、対魔導学園35試験小隊
地方都市や田舎で少女たちが遊んだり学校に通ったりバイトしたりする。事件らしい事件も起こらないし、悪役も登場しない。男性も登場しない。背景が異様にきれいに描かれている。作画と演出が命。
伝統的な巨大ロボット枠。遡れば鉄人28号までご先祖様はいるが、大体ガンダムかマクロスかパトレイバーかエヴァンゲリオンチルドレン。
文字通り腐女子向け。完全に腐女子向けの場合もあれば、普通の少年マンガ原作をここに含める場合もあり、定義はひとによって変わる。イケメンがたくさん登場する。ある意味石鹸枠の逆バージョン。ただ主人公の少女も美形。
※スタミュ、Dance with Devils、DIABOLIK LOVERS
文字通り王道のスポ根もの。ただし、最近は腐向け扱いされる場合あり。原作は週刊少年ジャンプ。
※ハイキュー!!
原作なしの描きおろしオリジナルシナリオのアニメ。しばしば質アニメになりやすい。
「紳士」とあるが実質エロアニメ。AT-Xでは乳首まで見れる。おっぱいが揺れることだけが重要で、ストーリーはどうでもよい。石鹸枠と違い主人公は女性。
邪気眼的な世界観のアニメ。石鹸枠やオリジナル枠とも重なるが、ラッキースケベやギャグは少ない。
※K、終わりのセラフ
ラノベ・マンガではなく一般文芸原作のアニメ。ミステリが多い。場合によってはメディアワークス文庫など半ライトノベルも含む。実写化よりはマシ?ノイタミナのお家芸。
まさに「どうしてこうなった!」。誰得アニメ。ギャグ枠とは別に考えるべきである。
一見すると日常もの、単なる萌アニメに見せかけて見ているものを精神的に追い込むアニメ。
※魔法少女まどか☆マギカ、結城友奈は勇者である、がっこうぐらし!
難民枠と違い男性の登場人物もいる日常もの。これも作画と演出が命。
※ラブライブ!、アイドルマスターシリーズ、Wake Up Girls、うたの☆プリンスさまっ♪
魔法・超能力は登場しない。一般的な高校の部活動。但し部活動自体は実在しない、よくわからない部活。主人公はヒロインや担任によって強制的に入部させられる。タイトルに「俺」「僕」が入る場合が多い。主人公は平凡、下手をすれば平凡以下。
※俺の妹がこんなに可愛いわけがない、僕は友達が少ない、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
文字通り腐女子向け。完全に腐女子向けの場合もあれば、普通の少年マンガ原作をここに含める場合もあり、定義はひとによって変わる。
文字通りハード。または背景思想がハード。エヴァンゲリオンなんかもここ。
※攻殻機動隊シリーズ、PSYCHO-PASS、Fate/Zero
少々書き直した。今期って狭義の腐向けって無いのね。
落第騎士の英雄譚の1話って客観的に(ここでは学園での評価軸)みた天才ステラと落第生黒鉄の話だと思うんだけど、ここでその対立軸を凡才ステラと天才黒鉄って二項対立に代えちゃってるのがあれ。実際は天才と称される実際は努力を重ねる秀才(あるいは凡人)ステラと、落第生と称される実際は努力を重ねる秀才黒鉄って対立軸でしょう。原作よんでないから知らんけど1話観てこれほど誤読して、かつ語れちゃうのかと感心するレベル。
そっくりそのままお返ししましょう。僕は確かに落第騎士をきっかけにあの記事を書いたが落第騎士以外の話もかなりしてるし、落第騎士だけの話という書き方もしていない。あなたの方こそこれほど誤読して語れるのかと私は感心する
だいたい、全く努力してない人間を探すほうが難しいんですよ。才能なんてものはその多くは家庭の事情(親と同じ属性を持ってたから親が寛大で突き抜けたり、幼い頃から高いす順にあったから努力の自覚がない程度のもの)であって、努力と呼ぶかはともかく、努力をしてない人間なんかいないんですよ
それを努力だと思ってやってる人間を努力家だの真面目系クズだのと呼び、努力せずに自然と秀でた人間を変わり者や面白い奴と呼ぶ。変わり者とか面白いが3つも4つも固まったところにあって何かを作り上げてしまうような人が天才なのである
とこんなことをあのブログを読んでも気づけないバカがラノベを文化だ、テンプレで何が悪いと居直るから「程度の低いご趣味ですね」としか言いたくなくなるわけです。大抵のものには妥協点を探す僕でもラノベのテンプレ大好きな人は「いいテンプレと悪いテンプレも判別しないバカが多すぎる」と言うわけ
生まれてきた途端から歩き出して、しゃべるお釈迦様みたいに本当に努力しないで一度で何かができちゃう人なんかそうそういないんですよ。そして、僕はブログを書く前にあれこれ考えてからそれを書いて、それが終わった時に面白い意見が出なかったら考え方をそれで固める。つまり終わった話なのだよ
基本的に作品の好き嫌いってその人間の好き嫌いと直結するから僕がテンプレみたいなラノベに歩み寄って「あーやっぱりダメか」と言ってることも不毛だし、そのファンが僕から見たらバカかカルトにしか見えないこともまた不毛な話でしかないんですけど…もういいや。
いやさ、最近のラノベよりも最近のラノベクラスタ(≠ラノベ読み)の方が重症だよ。昔の禁書のファンは禁書が否定された時に「まぁ、せやろな」ぐらいに言う度量というか謙虚さがあったけど、最近の禁書の廉価版コピーみたいなライトノベルの信者は話題になってほしそうにして「嫌なら見るな」だもん。
いや、ゲームの分野の方が明るいからかもしれないけど、ソシャゲーの方がまだ批判されてる割には希望ある気がしてきた。ラノベ読みが好きなあんまアニメ化されないラノベは僕も好きだけど、ラノベクラスタが好きな挿絵目当てで買うラノベは「だったら、四コマ萌えアニメかアニメオリジナルでええやん」
年々ファンが狂信化する辺りも萌えが宗教たるゆえんなのだろうが、人が集まることの大抵の動機と組織メカニズムは宗教と同じような道筋をたどる(濃く煮詰まって滅ぶか、浅くなってい形骸化して残る)からなぁ…
ライトノベルの女性キャラを指して、こんな話し方の女、現実にはいねえよという意見をネットで見かけた。
それ以来、ラノベを読むときには、登場人物の口調に注意して読むようにしているが、たしかに現実とはちがう気がする。
「~するわ」とか「○○よね」とかいう語尾をつけてしゃべる女性は、僕の観測する範囲では見られない。
さらに「女性語」でググってみると、おばさんやおばあさんの年齢だと使うひともいると書かれてあった。ということは、ラノベに出てくるような十代、二十代の女性キャラがそんな口調で話すのはおかしいということだ。
……まあ、小説では、映像と音声のない中でセリフを表現しなくちゃいけないから口調には誇張が入っているのだろう、ということはわかるのだが。
だから、ラノベの口調がおかしいとか、おかしいから悪いとか言うつもりはない。
僕の興味は、〈じゃあ、どんな口調ならおかしくないのか?〉というところにある。
上にも書いたとおり、僕は女性と接点がない。
そういえば、リアルの女性がどんな口調でしゃべっているのかも、僕ははっきりとは言葉にできない。なんとなくの感じは想像できるんだけど。
なので、これを読んでいるひとがいたら、「こんな口調ならおかしくない」とか、「リアルの女性はこんな口調だ」とか、「この小説のこのキャラの口調ならおかしくない」とかいう意見を教えてください。
本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。
著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割を果たしている。
我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。
著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能を果たしてきた。
しかし、ライトノベルの著者近影は現在、近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。
その変遷には作品と作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。
収集したサンプルは以下の通りに分類した。
1、顔が鮮明に映っている。
4、イラストを使用している。
これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。
一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。
けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。
その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。
現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。
メディア論の重要な批評家であるヴァルター・ベンヤミンは肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。
近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。
しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。
ところどころに今ドキの青春の痛々しい思い出が散りばめられている作品なのだけれど
その主人公が「確信犯的難聴系男子」とでも言うべき男なのである。
放課後に部室へ集まってただ一緒に過ごすだけという部活「隣人部」に所属している彼は
同じ部活動に入っている女性陣から好意を向けられていることを明確に自覚しつつ
それらをすべて断るわけでもなく進展させるわけでもなく受け流し続け
「え?なんだって?」
との発言。
他にもいろいろと逸話があるのだが、総じてなかなかドイヒーな男である。
こういう小説や漫画に描かれるような自由な学生生活には憧れるもので
仲の良いメンツとそれなりに充実した日々を過ごした。
最後の年には生徒側の統括長として様々な折衝や企画に携わり楽しい毎日だった。
いや・・良いんだけど
特に3年♂が後輩に手を出して破局して、後輩の子のほうが気まずくなって辞めるってパターン多すぎぃ!!
学べよ!!
あと微妙な話は誰か俺にチクって(涙)
その後ずっと「あの二人には何もなかった」みたいな顔して回し続けなくちゃならなくなるんだからね!!
というのもあって自分は
誰かに好きですアピールをするのは極力控えていたのだけど
ずっと気になってた子はいた・・
けれど向こうもこっちも大学入ってからちょっと疎遠になってたし
たまに会うとどんどん綺麗になってるし
酔った勢いで恋話を振っても「えー全然そんなの無いです」の一点張り・・
そのうちこっちに彼女ができて別れて・・
むこうは向こうでサークルがずいぶん楽しそう
このまま昔の友人になってくんだろうなー
「・・気になる人が」
のお答え
まぁそんなこともあるさ、と持ち直すもこっちの熱量は引ききらず・・
くっ・・これが彼氏持ちの余裕か・・
などと思っていたら
その後はあえなく退場
「私ついに彼氏出来ました」
と
はぁん?
俺、動揺
いや当然いままでの付き合いからすれば
「おめでとう!惚気けろよ」
この日は少し疲れていた
そのあとはアレだ
「ずっと好きだったとか」
「なんで今さら言う」
「ようやく諦められたのに」
「氏ね」
いやそこまでは言われてない
けどまぁ
最長で5年も引っ張った挙句
ちょっと敵対的な内容の記事だから個人ブログには書けない。すまん。
前々から言いたかったことなのだがいい加減言ってしまおうと思った。
はてなでもラノベ天狗などが「最近のラノベ」というワードを使用してライトノベルに対する偏見を取り上げる形でホットエントリーに入ることがしばしばあった。
ライトノベルがまとめブログなどで叩かれがちなのは確かでそれについては実感もあった。
しかし果たしてどういう層が叩いているのかイマイチよくわかっていなかった。
しかし、Twitter等でライトノベルを叩いている人たちを見ているとある特徴が有るのではないかという推測を思いついた。
もちろん只の偏見に基づく推定なので話半分程度で聞いてもらって構わない。
では、その叩いている層とは誰なのかということだが・・・
え?ライトノベルを読んでる人なのにライトノベルを叩くってどういうこと?
と思った人もいるかもしれない。
ところがTwitterでラノベを叩いている人を見ると高確率でライトノベルを読んでいたりするのだ。
最初私もなぜそんな人が叩くのか?
と思っていたのだがツイートを読んでいると特定のパターンが存在した。
それは
という内容である。
特に一昔前(2000年代初頭)あたりの作品のファンに多いような気がする。
俺の読んでいるライトノベルはひと味違いますよ(ドヤッ)という考えがあちこちですけて見えるのだ。
ジョークジャンルとして暗黒ライトノベルというのが有るらしいのだが、少なくとも提唱者達は遊び半分本気半分程度でそこまで激しく主張しているわけでもないように見える。
しかし、そのファン層が酷い。
俺の読んでる作品は鬱でグロで高尚なのだ。他の萌えラノベとは一線を画するのだというような発言ばかりが次々と眼に飛び込んでくる。
他にもライトノベルの境界に存在する様な作品はそういう傾向がある。
どうもニンジャスレイヤーを崇めるあまり他の作品を貶めす傾向が端々で見受けられる。
正直この内容を書くか迷った。
ライトノベルを叩いているのがまさかライトノベルが好きな人たちだとは思わなかったからだ。
それも業界を良くしようとかそういう片鱗が見えたのならまだよかった(独善的でもその人が考えたいい方向とかでもまだ良かった)
しかし、そんな様子がちっとも見えないのだ。
自分の好きな作品は高尚で他とは違うのだということをただ言いたいがために他を貶めて持ち上げているよう見える。
誰かこの流れを止めてくれ。俺には無理だ。
男性の車に乗っていて口説かれた時に激昂されずに断るには生理でとかいえとかあったけど、断ること自体に激昂するタイプもいるよな。
自分は車中で今は嫌だと断ってるのに何度も迫られたとき、食べ過ぎてキスなんかしたら吐くよと断ったら
(普通に恥ずかし気のある女性ならこんな断り方はしないだろうが本気で嫌だった。全力でお断りが露骨なのでそんな言い方しなくてもとぼやかれたこともあるのは問題のある性質だと思う)、
介抱するよって部屋に連れ込まれそうになった。
嫌だったら嫌だ歩いて帰るから離せと掴まれた腕を引っ張りっこのように長い間抵抗し全力でお断りして車で送られて帰った自分。
今考えると警察に駆け込まれるの防止もあって送ってくれたんだろうな。
殴る蹴るなどの危害を加える系の暴力に訴えると言う意味でタチの悪い人間には当たってなかったけど、この全力でお断りの会話はすごい何回も堂々巡りしたからね。
お断りの言葉を口にすることも難しい人じゃ勇気を振り絞って断ってみたけど相手が受け入れてくれないどうしようの間に部屋に連れ込まれるんじゃないのかな。ものすごくじゃないけど自分は見た目より力があったし(50キロくらいの荷物なら持ち上げて二階に運ぶことはよくやってた)誰かに見られたら恥ずかしいとか嫌われたくないとか頭になかったから抵抗して抵抗して向こうは根負けしただけ。
もちろんその後は自分が相手に連絡しないでくれと言って終わり。
美女でもないし粘れば思うままになるような人間でもないし引くのが普通な抵抗をするとわかられたからか粘着とかはなかった。
でもこの不毛なやりとり、最初にふつうに断った時点でスマートに受け入れててくれれば、話の通じる人だと後日仲良くする機会もあったと思う。
会って話す食事をするのハードルは越えたとしても、そのあとセックスをするまでにハードルがないとかおかしいだろう。
自分に当てはめて考えられないのか。食事に行く機会がある人間は皆セックスするものとしてお互いに考えてるものなのか違うに決まってんだろう阿呆が。
増田のトラックバックもブコメも見てると女には男性と同じ様にでもそうでなくてもお互いのやりとりなど総合的に考えて付き合いのラインを選択をするというのは許されることでないと思っている(無意識も含まれる)人が今の世の中でも結構いるんだなと。
男が女に金や気持ちや時間や手間を施したら女は男の欲望(セックスに限らない。言動を肯定しろ、自分の意のままに行動せよ、いろいろある。意識的にも無意識にも)を叶えるべきであると。
押せ押せで犯罪のようなやり口で「モノにする」ことが女性に対してならおかしいことだと思ってない人(性的に大人やそれと変わらない女性になら強引にやってもよくて子供とされる年齢だと許されない保護すべきといって善い人気取りの鼻持ちならない向きもある)が、まだ案外多い多い様でそれが嫌だと思う。
でもそんなのありえないだろうと意識的には思っている人も多くなってきているとも感じるので、今は過去よりはずっと良い世の中になっていると思う。
ブログやコメントのやりとりから滲んでくる無意識で女は男に奉仕すべきと思ってる人が、非モテの称号で無駄に消耗している印象がある。
報われるべき自分が報われてない。報うべき女が何故自分に報いないのか。そう思いすぎている男性が結構いるんだなと女性差別、男性差別を巡るいろいろなテキストを読んでいて思う。
親密になった関係で女性やより女性的な役割を割り振られたほうに日常的な奉仕が担わされていると思うんだけど(自分はいまのとこヘテロでゲイやバイやアセクシャルな人の日常を直接見聞きする機会はないんだけど、映画小説漫画ブログとかから拾う情報からみてるとどうも番いになるとヘテロの差別込み男女関係を基にしている役割分担が多い気がするのでこんなことを書く)、これについて奉仕される側が問題視しないのは当たり前だろうけれども、説明されて既得権益の類であるとわからないというのが不思議でしょうがない。差別の上の成り立つ特別待遇。相手より何かをより多く得て(わかりやすいのに無視されているのは、時間。労力。すごく蔑ろにされているのは社会的行動、発言、存在することに世間から一方的にペナルティを与えられるだけの立場ではない、当人にポジティブな意味での責任をもつ事が当然のものとしてある機会。←物知らずなので適切な表現が自分には難しい。あと空間的にも精神的にも行動の自由の大きさ)差別対象から奪うことになっているが責められもせず公平に見て釣り合う程度の対価を払うこともまずないという。
人種、民族、宗教、国家、障害の差別が殆ど意識されないところにでも男女差別は厳然と残っている。
多分一番しぶとく残る差別ではあるだろうと思う。
ところで今更ライトノベルに女の子が自分がモテないのは周りのお前らが悪いとかいうのがあって読んでないんだけど、男の子でやると真面目にそう思ってて女の子に危害加える手前みたいな人が一定数いて全くシャレにならない笑えないクレームがくると女の子に仮託してるのかなとか思うのは短絡的か。それとも自明のことなのか。
2000年代前半の、
ちょうどアニメが谷間の時期で夕方から深夜へ移行しはじめた頃で、
ちょうど95年頃からのジャンプ暗黒期と2000年頃のマガジン黄金期終了が重なる頃で、
ちょうどライトノベルのスレイヤーズブームが終わってハルヒブームまで雌伏していた頃で
ちょうどネットが普及しはじめてオタクが続々とネットの情報に触れた頃で、
そういう時代だろ。