はてなキーワード: オーラとは
最近、というか、もう結構前からしきりに彼女が結婚をしたいオーラを出す。
彼女との仲はすごく良いだけに、非常に悩んでいる。
でも無理だ。
だってサラリーマンにはなれないし、彼女も外で働ける程の活力はない。
鬱は(たぶん)治ったが、不眠症は治ってない。
それは嫌なので自営というかアフィとかでなんとか生活してる。
お金は無いが自由な時間は沢山あるし、昼夜逆転しても問題ないので、この生活は気に入ってる。
ただ、生活リズムがむちゃくちゃなので、半日ぐらいはボーっとしてしまい、生産性が著しく悪い。
彼女は対人恐怖症で接客業ができない。体力もないので一日5時間働くのが精一杯。
特に何のスキルも無いので事務職を探しているが見つからず、時給200円程度にしかならない在宅の仕事をやってる。
子供を諦めたら全てがうまく行く。
それか彼女はかなり可愛い(菅野美穂を小さくして幼くした感じ)ので、俺と別れて良い人を見つければうまく行く。
(俺は泣く)
俺は、俺たちはどうするのがベストなんだろうか?
無責任に子供を作ってもなんとかなるような制度かなんかあれば良いのに。
国は子供を作って欲しいらしいし。
追記:22:00
2日も跨いでしまったが、今日という記念すべき日を増田に残すことにする。
2013年8月10日は第84回コミックマーケット初日であり、第25回東京湾大華火祭当日であり、
国内で6年ぶりに40度を超えた猛暑日であり、ロリコン童貞の俺がイメクラに行った日として、後世に記したい。
俺スペック
職業:リーマン
守備範囲:3さい~35歳
ど真ん中:9さい
覚えている限り、小1の頃から近所の未就学児相手に欲情してたんだから俺も業が深い。
当然今でも「ランドセル」や「吊りスカート」、「黄色い帽子」と聞いただけでチンコは否応なく
反応するし、電車の吊革に掴まる女子小学生の腋チラでイキかけたことも1度や2度ではない。
作家名だけでも勃つ。
だからといって同年代の女が視界に入らいない訳でもなく、お姉さんキャラなら寧ろ3次元にエロスを
感じることも事実。一方、「熟女」「母親」的なカテゴリになると途端にチンコが萎びていく。
それが俺。
そんな俺がイメクラに行くことを思い立ったのには理由がある。
俺は女児と名のつくものには何にでも勃起するので、その日は女児服で画像検索しまくっていた。
そこで異様なオーラを放つ1枚の画像に目が止まる。
…これだよ!
イメクラといえば制服、体操着、スクール水着。イメクラ=女子高生。その既成概念が俺の視野を奪っていた。
これなら女児服を着た相手をペロペロしたりフニフニしたり、思う存分に欲望を吐き出すことができるではないか。
更にオプションの充実ぶりが凄い。
ランドセルや黄色い帽子は言うに及ばず、防災頭巾や給食着、どこから調達したのか○○まで用意している。
こいつ、完全に理解っていやがる。
しかも合法だ。
エロ漫画的には不可欠な催眠スプレーもクロロホルムも、キャンピングカーも必要ない。
電話一本で焦がれていた夢が買える。
俺は今までこの事実に気付かなかったことを呪い、この日この事実に気付けたことに感謝した。
嬢(風俗店で働く女性をこう呼ぶらしい。さっき知った)選びは最優先課題だ。
女児服が似合うこと。
つまり体型こそが優先される。
役人が税金で集めたデータだと思うと羨ましくて目眩がするが、情報に貴賎はない。
最悪、とんでもないクリーチャーが出てきたら麻袋でも被せとこう。
予約できた!
驚くほど簡単だった。
日にちと嬢の名前、それに自分の携帯番号を伝えるだけ。
ラスト1枠、1時間だけというのが悔やまれるが、贅沢は言えん。
ちなみに、電話に出た兄ちゃんは居酒屋もかくやの威勢の良さだった。
思わず「生一つ!」と注文したくなる。
1時間は長いようで短い。
アインシュタインを引き合いに出すまでもなく、ツマランAVを見ている時とは
全く異なる時空に支配されることを肝に銘じねばならぬ。
限られた時間の中で、女児に好き放題イタズラできるとしたら、俺はどうする?
迷うな。日々、脳内でやってることじゃないか。
30余年、アタマの中で犯し続けてきた少女たちを思い出せ。
シチュエーションNo.32:『娘(11)への愛情が天元突破したイケナイ父』だ!!
その日がやってきた。
約束の時間は夕方。
午前中、録画したプリズマ☆イリヤやガッチャマンクラウズを見て過ごすが、イマイチ頭に入らない。
コミケの深夜列が1,000人超えたとか、どうでもいい情報を眺めてるうちに、家を出る時間だ。
電車の中で、シチュエーションNo.32をダイジェスト版で何度もリピートする。
地図を頼りに、店舗に到着。電話予約の時と同様、元気な兄ちゃんが受付をしている。
先客は5~6名ほど。
オナニー鑑賞や飲尿プレイは今日はお預けだ。最もスタンダードなコースを選択。
入会金や電話指名料がモリモリ加算されていくが、性に関して俺の財布は青天井だ。
と、ここで肝心のコスチューム選択。
「女児服!ランドセル!それに○○と▲▲も!」と高らかに宣言。
先客の目が集まるのを感じたが、ここまで来て己の性癖と向き合わずにどうする?
注目は寧ろ誇らしくすらあった。
なお、このイメクラはいわゆる「ホテル型」というやつで、受付後に一人でラブホに移動し、
嬢が来るのを待つというスタイルだ。それは理解していたのだが、受付の兄ちゃんに
予算?え?なにそれ。どこでもいいんだけど。俺が選ぶの?
俺が選ぶらしい。
聞くと、安いとこは2,000円、高いとこは1万円くらいとのこと。
金は幾らでも出すが、ホテルの質なんてはっきり言ってどうでもいい。
ホテルまでの地図を貰い、いざ、決戦の地へ。
あまりに普通名詞化し過ぎているせいで忘れていたが、入るのは初めてだ。
ここが、あの噂に聞く…
部屋は、まあるいベッドに、マクラが二つ。有線らしきBGM。テレビ。ソファ。洗面台。バスルーム。
それに、照明やらBGM音量やらを調整するコンパネ。
うろうろ…
うろうろ…
落ち着かない。することがない。ソファに座って、瞑想する。また立ち上がり、うろうろ。
10分は経っただろうか。
きた。
きたきたきた。
達人(★×10)の如く心臓が打ち付けられている。
「は~~い」
間の抜けた返事をする俺。
女児(11)が立っていた。
私服姿だが、そう錯覚するに足りる、完璧な体型。
細い四肢。起伏の少ない、僅かな胸の膨らみ。
枝のような腰に、ほんの少し盛り上がったお尻。
その顔の小さいことと言ったら、手のひらにすっぽり収まりそうだ。
顔立ちは彫りがやや深く、オリエンタルな造形は俺の趣味とは外れるが、十分可愛い。
そして何より、若い。
こどもの年齢なら完璧に見抜くものの、成人になると精度の落ちる俺だが、MAXに邪推して23。
素直に見れば16~7の印象だ。十分にJS変換可能。
見蕩れて硬直する俺。
と、
「はっじめましてーー!○○です!今日はヨッロシクーー!!」
ぶど子を演じる悠木碧の声にそっくりだ。
正直、かなりビックリした。
だが、悪くない。寧ろ良い。
「ほんとに…小さい…ですね…」
なぜか敬語の俺。
「エヘヘ。うりうり~」
抱きついてくる。
やべぇ。
可愛い。
「こーんなに若い人だなんて思いませんでしたー!おいくつですかー?」
女児服+ランドセルをチョイスする客は、もっと年齢が高いということか。変態どもめ。
「さ、30代、です」
自覚しているが、俺は童顔だ。それ以上に、雰囲気がガキだ。貫禄がない。
今でもたまに、新入社員と間違われる。
「エヘヘ、今日は色んなもの、いっぱい持って来ましたよー!」
お目当てのグッズがギッシリ詰まったバックを見せる嬢。
私服の時点でこんなにロリぃのに、アレを身につけてしまったらどうなるのか。
無意識のまま、今度は自分から抱きつく。
髪をクンカクンカ
腋をクンカクンカ
頭が真っ白になる。一生嗅いでいたい。
「く、くさいからやめてくださいー!今日はあっついんですから~」
先にシャワー浴びさせろ、の意味だと気付く。
他の店は知らんが、この店はまず最初にシャワーを浴びねばならんのだ。
俺自身は構わないが、嬢も身体を洗うというのだから気が利かない。
せっかく熟成されているというのに…
改めて嬢の身体に見入る。と同時に、やはり大人の身体であることも実感する。
乳首のサイズが、大人のそれだ。
他のすべてを誤魔化せても、これだけは欺けない。
と、一瞬現実に立ち戻りながらも、嬢に身体を洗ってもらう。
あ、気持ちいい。
その後、イソジンでうがいをし、先に部屋に戻る。
今から思えば、「洗いっこ」すべきだった。ちょっと後悔。
腰にバスタオルを巻き付け、ベッドに座り嬢を待つ。
とうとう、女児を抱く時が来る。
ガチャ
脱衣室の扉が開く。
「Oh……ビューリホー……」
天使がいた。
これ以上ないくらい、女児服が似合っている。
ランドセルも興奮を高める役を担ってくれてはいるものの、
ぎゅぅぅぅ~~と抱きしめる俺。
髪をクンカクンカ
あ、汗のにおい。髪は洗ってないから当然か。思わぬご褒美を貰った気分。
頭をナデナデ
顔を正面に、唇を合わせる。
俺のファーストキスは大学1年の時で、これが2度目になる。10数年振りの口付け。
唇もちっさいなぁ。
嬢を立たせたままベッドに腰掛ける。
ランドセルと背中の間に左手を通して身体を支え、右手で女児服の上から小ぶりの胸を揉む。
夢にまで見た行為。
乳首の位置を特定し、グリグリ、サスサス
時折、嬢の身体が小さくビクッとなる。
え?うそ、感じてるの?
漫画の世界だけの話ではなかったのか。この「ビクッ」を演技でこなすのは難しいと思う。
続いて、正面からスカートを捲る。
「おぉ」
白い木綿の下着。完璧だ。
右手をチョップの形状にして、太ももの間に滑りこませる。人差し指の側面で捉える、仄かな温もり。
嬢をベッドに上げ、お尻を向けたまま四つん這いにさせる。
背中の真っ赤なランドセルに、ブルーデニムのスカート、真っ白な木綿の下着のトリコロール。
「…凄い光景…」
「ウェヒヒッ これ恥ずかし過ぎるぅ~(悠木碧ボイス)」
木綿越しに、おマンコの位置に鼻をくっつけて深呼吸。
む。
においが全くしない。
この時点では俺のシナリオにはなかったのだが、プランを変更しパンティを膝まで下ろすことに。
生まれて初めて見る、本物の女性器。後ろからなのでその全貌は伺えないが、ぴったりと閉じている。
今度は直に鼻をおマンコに密着させ、クンカクンカする。
無臭。
続いて尻タブを広げ、アヌスとご対面。色素の沈着が全く無い。尻肉から*に至るまで、地続きの肌色だ。
臭…くない。
どういうことだ。漫画は所詮漫画ということか。教えてどくろさん!
やはりシャワーを浴びたせいか。
気を取り直し、下着を履き直させてランドセルを下ろす。
後ろから再度、胸をフニフニ
「バンザーイ!」
ひとしきりブラ越しの乳首を堪能し、ブラも脱がす。
手のひらで覆い、ぐるぐると円を描いたり、十字を描いたりして弄ぶ。もちろん、吸う。
嬢を仰向けに寝かせたまま、腰の下にマクラを入れる。一つでは高さが足りず、二段重ねだ。
さて、もういいだろう。
「ちっちぇ…」
バックスタイルではよく分からなかったが、この姿勢は隠しようもない。
これまでに4桁を超える数の女性器を見てきた俺(童貞)だが、ここまで小さいサイズはレアだ。
そして何より、美しい。陰毛も薄い。
これでパイパンなら、小5と言われても信じるだろう。ヘタな小6より綺麗な性器だ。
理由はひとつ。マンコがデカくてグロい。モザイクがかかっていた方がまだマシ。
だが、彼女は、こどもの身体にこどもの性器を持っていた。大人パーツは乳首くらいだ。
世の中まだまだ、捨てたもんじゃない。
両手の親首で「くぱぁ」する。
ニチャッとした音。
縦筋がキラキラと光っている。
濡れてる?
マジか。おい、マジか。俺の、30代クソ童貞のクソロリコンが見様見真似で挑んだ前戯に、
濡れてくれたのか。
プレイ開始以来、最も感動した瞬間だった。
おマンコの蜜を掬い、舐めてみる。
…味がしない。
もっとこう、精液のような生臭さを想像していたが、違うらしい。
蜜をクリトリスに擦り付け、皮を剥いたり戻したりして遊ぶ。
…分かってる。
早くマンコに突っ込みたい。俺の全身のパーツの中で、どこよりも早く童貞卒業したいと、
そう言っている。
よっしゃ。
意を決し、俺の指の直径ほどの長さしか無い腟口に、爪先を沈める。
ツプププ…
這入る。
這入っていく。
と、
「おおぅ!?」
なんだこれ。
すっげぇウネってる。
まっすぐに直進していく気でいたら、下にカーブし上にカーブし、先がどうなるか全く分からない。
これが、女性器…
ネットでは得られない、生でしか味わえない経験。
感動しつつも、前進と後退を小刻みに繰り返し、徐々に奥へと指を進めていく。
「ンッ…ヒッ…イッ…(悠木碧ボイス)」
嬢の身体のビクビクが激しくなる。
だが、AVのようにガシガシと手マンする気は全く起きない。
そのたびに嬢の身体が痙攣する。嬉しい。
次いで膣口に挿入。
当然、舌の長さなどたかが知れている。
俺がベノムだったら子宮の奥まで嘗め回せるのだろうが、精々指の第二関節くらいが限度だ。
と、ここで改めて気づく。
…なんの味もしない。
”こどもの性器を舐め回しても、こどもの味はしなかった。自分の二の腕を舐めるのと、何も変わらない”
…あぁ、そうか。
知ってはいたが、識らなかった。(きのこ風に)
かるいショックを受けつつ、クンニを続ける。
マンコだけでは足らず、今度はアヌスに狙いを移し、前戯なしで一気に舌を捩じ込んだ。
「アヒョッ!…○○さんっ…!(悠木碧ボイス)」
やはり味はしなかった。
いっそ中指を根本まで突っ込んで、便を掻きだして食ってやろうかと思ったが、
「え、もう終わり?」
しまった。夢中になりすぎた。
「あと…フゥ…じゅっぷん…フゥ…ありまふ…(悠木碧ボイス)」
ほっとする俺。
「わたひ…ばっかりして貰って…フゥ…○○さんに、何にもしてないから…(悠木碧ボイス)」
いい加減俺も疲れてきたので、ベッドに大の字になり、ご奉仕して貰うことに。
…だが。
チンコはギンギンなのに。
全く気持ちよくない。
射精感が持ち上がってこない。
アレか。
足先ピーンしてオナニーし過ぎたせいか。
「あとごふん…ごめんなさい…へたくそで…(悠木碧ボイス)」
ここでイかなきゃ男が廃る。
とっくに捨てたプライドを、今この時だけ取り戻す。
しかしこのままではイけそうにない。
自分ですることにした。
いつも独りでするように、ベッドに座り直す。
俺の両ももを跨ぐように、向かい合わせで嬢を座らせる。
座ったまま正面から抱きあう格好だ。
はっきりと、汗の匂いがした。
…イける。これなら。
射精感が鎌首をもたげるのが分かる。
あ、
あ、
あ、
「イく…(蚊の鳴くような声)」
右手はまだ止めない。
左手で更にきつく嬢を抱きしめる。
最高に、気持ちいい。
「行け…ました…」
右手の動きを止め、嬢を抱いたまま暫し余韻に浸る。
そのまま10分は過ぎたか、はたまた30秒も経っていないのか。
ぼけーっとしたまま身体を洗ってもらい、イソジンでうがい。
洗いっことか、思いつきもしない。
先に出て、着替えを済ませ、ソファに座る。
…ようやく、現実感が戻ってきた。
ぐるぐるしていると、私服に戻った嬢が出てくる。
それじゃあ、と部屋を出ようとすると、
「あの。ちょっと、ぴとっとして、いいですか?(///)(悠木碧ボイス)」
もちろんいいけど、時間はもう…
「ホントはいけないんですけど、○○さん、紳士だったから(///)(悠木碧ボイス)」
ぴとっ
くっつく嬢。
そういう台詞も、台本に書かれているのかな…そんな冷たい想像をなんとか払いのけ、
抱き締め返す俺。
「○○ちゃんに決めて、良かったよ」
本心。
またも、どれだけ経ったのか分からない時間が過ぎる。
アインシュタインも、アテにならんな。
フロントで鍵を返し、出口へ向かう。
ここを出れば、正真正銘、二人は何でもなくなる。時間制限付彼女。
手を繋いだまま、ホテルの外へ。
茹だるような、熔けるような熱さ。西日がキツい。
二言三言、何か言葉を交わした気がする。
マジで覚えていない。
俺が何一つ、気の利いた台詞を言えなかったことは確かだけど。
繋いだ手が、徐々に離れていく。
今や中指の第一関節同士で辛うじて保たれる、一瞬の関係。
つい数十分前まで、彼女の膣に這入っていた指。
やがて音もなく、当然に、離れる。
二人が、一人と独りになる。
それを確認するのが嫌で、俺は真っ直ぐ、駅に向かって歩いて行った。
彼女の汗の匂いで肺を満たしながら、人生最高のオナニーをした。
書き記すに値する、記念すべき一日だ。
明日は丸一日かけて、日記を書くことにしよう。
麻生氏のナチス発言がやばい。いつもの通り左翼が都合の良いように解釈をし、非難しているが、ナチスという国際的にセンシティブなワードであっため国外からも批判され始めた。
橋下慰安婦発言のように、国内問題とは異なる国際問題についての発言は致命傷と成り得るので、今後の麻生氏や安倍政権の行方が気がかりである。
だが、今回の発言は決してナチスを肯定したり賛美したりしているわけではないし、本気でナチスの手口とやらに学べよとは思っていないことは自明である。
政治家の発言が問題となるたびに、「全文出せ」「文脈を読まなければ」という声が聞こえる。今回は文脈が出てきたが、それでも左翼の怒りは収まらない。
今回は講演という、オーラルな形であっただめ、本当に真意とやらを理解するためには音声が不可欠だ。
実際、音声で聞かないとその真意とやらが分かりかねるような内容であることが追い打ちをかけている。
音声を聞くと、「手口学んだらどうかね」と言った時に、笑いが起きたわけである。つまりこれは皮肉や悪い冗談の一種であって、「誰も本気で聞いていない」ということだ。
より正しくテキストに起こしたら「手口学んだらどうかね(笑)」である。
例えば、オーラルな発言から全てビックリマークや(笑)を取り除いてしまったら、ニュアンスが全く別物になってしまう発言も多くあるように、今回もそれに当てはまるのだ。
(同時に、「反面教師として学ばなければならない」という極めて好意的な解釈も成り立たなくなる)
それなのに、本気でナチスを賛美しているというのはいくらなんでも無理がある話だ。左翼はそう考えたくてしょうがないようだが。
この発言は批判を受けるべきだが、その対象は不適切な形でナチスを引き合いに出したということであるべきで、ナチスを賛美した!麻生は政治家失格だ!というのはあまりにも頭が残念だ。
さらに残念なのは、そういう残念な解釈をしたくてたまらない左翼メディアがそのような内容で報道を繰り返したことだ。左翼政治家も同様だ。
そのように伝われば、当然海外はびっくりだ。国民もびっくりだ。単に「ナチスを賛美した政治家」というのと、「不適切な形でナチスを例示した政治家」では全く意味が異なる。
http://anond.hatelabo.jp/20130725160028
自分磨きを今すぐやめ、賢ぶらず、男性の自尊心を守り、ゆるふわな感じで、若さで男に取り入れ、というけど
するする。
お前はそういう男の知り合いが居ないんだね。
あとお前の書き方は悪し様過ぎてアンフェアだよな。
「うるさくない」女というのは頭ゆるいバカに出来ることじゃない。
誰にでも出来るようなことじゃないから出来てる人はもてたり選ばれたりするんだ。
実践者というのは凄みがあるよ。
俺は強い男じゃないから逆にあそこまで”出来てる”嫁さんじゃ息が詰まると思う。
もう少しだらしない女や変な女でいいや。
モテカーストの上位にいるような男性は、まあそりゃ若いに越したことはないと思うけど、自分磨いてないやつとか賢さとか
そういうのがない奴は「ベッドのおとも」にもなれないんじゃないかな。
繰り返しになるけど
”強い男”の自尊心を尊重しつつ自分が楽しむための取り分をたっぷりと家庭に確保できる女、
というのはすげータフだし賢い。
(男にへつらうだけの女中さんになるなら忍耐力さえあれば出来るかもしれないがそれじゃ意味ないよな)
モテ権化女は武道の達人みたいなオーラで、強くない男である俺は気が休まらなかった。
同性か異性かということではないねあれは。
なんか「アラ、いいですね?」と思った文章だったので俺専用コピペメモ
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勘違いしている奴があまりに多いのでいわせてもらう。白ブリーフは孤高。突然スマン。
だがもう我慢ならねえ。
白ブリーフしかもグンゼを穿いてまだ3年の俺だが、いわずにはいられなかった。
スパ銭やジムのロッカーで、よく「ブリーフいいっすねぇ」などといわれる。
俺のはグンゼだし白ブリーフだし、別にそうでもないっしょ。でもなんかいわれる頻度が高い。
なんでよ?謎だった。
しかし、この間気付いた。声をかけてくる奴はほぼ100%カラーブリーフ穿いてるんだよ。
白ブリーフじゃない。その他のブリーフな。グレーとか紺色とか。黒とか。
ひでえ奴になると緑とか赤とか。あえて「その他のブリーフ」と呼ばせてもらう。
「同じブリーフ仲間ですね」ってニュアンスを感じることに気付いたんだよ。
冗談じゃねえって。仲間じゃねえよ。
みたいなオーラも感じる。つながってねーよ。
完璧に気のせいだ。ふざけんな。
白ブリーフと他を比べてどっちがいいかなんてことはいうつもりはない。
ボクサー穿いてる奴もそうだろう。
褌やトランクス派でも同じだ。
その下着が好きで穿いてる奴は他を認めつつも他を羨まない。自分の選択に自信を持ってる。
「その他のブリーフ」穿いてる奴はそうじゃない。
「その他」のブリーフを穿いてる奴らだよ。
いや、信じてる。心の底まで信じきってる。
ありえねえ。同列なわけねえだろ。いっしょにするな。死ね。
誤解のないように言っておくが、ビキニ派には敬意を表してる。
もう一度いうが、白ブリーフは孤高。
その他のブリーフとは違うこと、
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というわけで一本何か書いてみようという安易な意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。
さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪と嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。
さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評において人気を博した、ネットの出身の新鋭ライター・ブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。
ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からのライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしまう塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。
さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います。
自分をアッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きからの視点において、批判対象(アッパーな雰囲気を纏うものや、ハイソな雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております。
こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラでエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイ・カルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。
ドリー氏がamazonにて村上春樹を批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります。
ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。
そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要なものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり、「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実の事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。
ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。
これは、私が主観的な立場において評している事柄ではありません。
というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。
つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。
アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。
というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。
ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。
『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。
アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」
こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています。
なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通の社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミは面白い(笑)
ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります。
しかしです。
実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミに果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています。
と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――
――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――
――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性と結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚後自分の性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。
その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております。
ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?
つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当なものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。
ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。
「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい」
しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミはぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろ「アカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪が存在しているということなのです。
付け加えるならば
この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学の経済学部で教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われています。しかし、多崎つくるが生きている現代の世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営やスピーチにおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。
ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブ・グリーンのバスローブ」について批判しております。
曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。
しかしです。このような緑の色、というのは、西洋においてはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。
主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性の浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイルや生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬の感情を表す「オリーブ・グリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。
しかし、ドリー氏はこの「オリーブ・グリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩や文学的比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にのみ視点をおいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。
ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。
さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力や文学的表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と
増田ではこの記法が使えないようなのだがリンクとしては機能するようなのでこのままにして本題に移る。
このアイキャッチにした理由は2つある。
・物事の大きさを見誤るような見方をしているからこそ「ネットの人」という虚構の存在が生まれたということへの皮肉。350mlカンを4本重ねて、ただ下から撮影しただけでも、これだけ大きく「見える」という写真(撮影は旧自宅)だけど…ウルトラマンと同じです。実際は中の人がいても背景が空でしたにミニチュアの街が並んでると、それは人ではなくウルトラマンに「見える」という原理と同じ。
・空き缶を1本目から順番に撮影しているように「物事には順番がある」というメッセージ性。4本目の一番上が見えにくく、一番下の1本目を支える地面も見えない。政治に対する議論によく起こる失敗がこれのように感じる。見えるところばかり見ているか、見えない敵とばかり戦ってるか、それは人それぞれだ。しかし、共通してるのは「全体が見えてない・見ようとしないまま安直な発言するとボタンの掛け違いにしかならないよ」ということ。
むごい。
むごすぎる。
こんな4歳児みたいな大発見をしながら、
死ぬまでのあと四、五十年を、
ワンショット見ただけであふれる実家オーラにおぼれてしまいそうな内装の、
両親の庇護を受けて過ごさねばならないのか。
おそらくはまだ幼い頃から、彼に与えられてきたはずの、この土壁の部屋で。
缶チューハイを四本、縦に並べながら。
四本縦に並べた缶チューハイを液晶画面越しにドキドキしつつ見上げながら。
そもそも「アイキャッチ」ってこんなふうにいちいち解説を入れたりするものなのか。
「アイキャッチ」の意味を知らないか、本物を見たことがないのではないか。
そんな人生があっていいのか。
非道すぎる。
そもそも「ネットの人」なるものが存在するの? - とある青二才の斜方前進
http://tm2501.hatenablog.com/entry/2013/06/21/204353
朝から晩まで頭が痛くて働く気がしないと言ってパソコンに向かってばっかりいる人間は間違いなく「ネットの人」だろう。
別に悪いことでも恥ずかしいことでもない。
でも、そんな人生があっていいのか。
むごい。むごすぎる。
このケースで言うと、すんげぇ要件定義がしっかりしてて、
もうこれ以上工夫の余地が無いようなワイヤーを、今まで一緒に仕事した事が無いWebデザイナーに送りつけたんだろうぜ。
そういう依頼を受けた際に、Webデザイナーは多分
俺ほとんどやる事ねーじゃん。提案しようにもここまで要件定義しっかりしてんなら、
ここまでいろんな経緯があっての事だろうから、俺が提案した所で無駄骨っぽいってか、
これを覆して提案するなら相当がんばんないと厳しいから報酬の割に合わないしなぁ。。どうしよ。。
あの人言うとおり作んないとOK出さなそうだし、とりあえずワイヤーにちょっと装飾施したもの出しとくか。。シンプルにって言われてるし。。
って思うと思うんだよ。
お前多分そういう風に思われてんじゃねーか。
自分の提案を受け入れてくれるような状況でもなさそうで、
お前に自分の提案を受け入れてくれそうとか、期待してそうな空気がないの。
まぁ、ホントはWebデザイナーが何とか信頼してもらおうと、割に合わないながらもがんばんないと、
相手も自分も不幸なだけになっちゃうからがんばらんといかんとは思うが、
まだ3年のペーペーだろ。中々難しいんじゃねーか。
さっそくこのカップルがやっているというお店に行って来ました。今を逃したら行けなくなると思ったので。ちょっとお高いワインのあるお店で、とても雰囲気が素敵でした。反町さんに会うやいなや全力で謝られて、やっぱり酔ってただけみたいです。なんか悪いことしてしまったなあ。。カウンターに案内してもらって、贅沢にも食事を小分けにして出してもらって種類を堪能したり、シェフの方とお話したり、貴重な体験をさせてもらいました。
それからみなさん、読んでいただいて、コメントもありがとうございました。全部読みました。反応を伝えたいのですが、ここではidコールっていう通知機能が使えないのですね。。
危険なことになるかもよ / 適度な距離をとって
はっとさせられました。この反町さんについては記述以外の情報も含めて判断し大丈夫な方です。それでもまだ出会って日も浅いので油断はしませんが。ただ、自分の書いた日記をきっかけに行動する人にはこの観点を持っていてほしいなと思います。
いやなんか、逆に酒ぐらい好きに飲ませろよ感
自分の言ったお店は、お酒を飲みにだけ行く場所というよりは、人と交流する場所と感じました。周りの人が(好意で)気にかけるんです。雰囲気のある場所で静かに飲みたい人は、それをマスターに覚えてもらうか、もしくは上記のバーテンダーのいるようなかっちりしたところがおすすめです。連れ回されてこうなったのも、自分は交流したいオーラを出してました結果だと思っています。
お会計3万円?
ごめんなさい、きっとバーテンダーの冗談です。雰囲気から真に受けてしまいました。あとで食べログでチェックして気づきました。。
ひとり飲みの醍醐味は、その場限りの付き合いで自分の知らない世間や意見が知れること。人間関係を続けるかどうかは実際あまり重要ではない、と私は思う。なのでその瞬間の出会いや偶然を楽しめばいいと思うんだ。
素敵なコメントありがとうございます。その瞬間を忘れないために、日記にしました。いつか読み返したくて詰め込み過ぎましたが。。
うざいと一蹴するのは簡単。年を取ればとるほど、説教してくれるひと、諭してくれる人がまわりにいなくなることに、30代半ばになってやっと気づき始めた。大事にしないと。そういう人。
本当にその通りだと思います。自分はすぐ面倒がって安全で平坦な道を歩んできました。そうすると、波風立つこともなくつまらない人生になりました。僕はそれを自覚して、行動を起こしました。どうすればいいかわからないけど、このままじゃいけない。思いついたできる限りのことをできるだけすぐにやっていきたいです。
人々は
「幸せとは何か」と自分に問い続けながら死んでいく、なんていうことはない。
答えはとてもシンプルだ。
幸せとは、
(A)喜怒哀楽のうち「喜/楽」に属する種類の感情が、長期的に発生しつづけている状態
のことである。
世の中には幸せな人と、不幸な人が居る。
しかし、たとえば大金や権力を得ても、不幸と感じる人がいれば、
人によって違いはあるが…(A)が幸せと感じる、ということには全く違いが無い。
「怒/哀」が長期的に発生していることを幸せと思う人は居ないのである。
(B)大金を得る・異性を獲得する・結婚する・見た目が美しくなる・権力を得る・皆から尊敬される・頭脳明晰になる・友達が1000人出来る・可愛い子供が生まれる・ペットを飼う…………。
これらの例のような、一般的には幸せになるかもしれない、と思われている事、それは、幸せ "そのもの" ではない。
つまり、(B)は、(A)を発生させるための、「手段」である。
あなたたちの、「目的」が、幸せになること、である場合、(B)が目的であると勘違いしていないだろうか。(B)は「手段」である。目的ではない。目的は(A)である。
目的が(A)であると理解できたとき、実はちょっとした悟りが得られる。
(悟り)(A)を得られるならば、手段(B)は何でもいい。
いま特に、自分が不幸だと思っているタイプの人に問いたいが…(B)手段 を妙に、難易度が高いものに設定していないだろうか。たとえば以下のような。
・いまFランク大学の学生だが、勉強しなおして東大に入りなおせば幸せになれるだろう。
・いま年収200万のワーキングプアで不幸だが、転職して年収1000万円になったら幸せになれるだろう。
・いま童貞の魔法使いだが、10代の可愛い女の子を口説いて結婚できたら幸せになれるだろう。
・いま浮気ばかりする旦那と結婚してしまい後悔しているが、離婚してもっといい男と結婚しなおせば幸せになれるだろう。
発想の転換をしてほしい。(A)を得られるならば、手段は何でもいい。「御大層な事を達成」しなくてもいい。
「喜/楽」に属する種類の感情が、連続的に発生しさえすれば幸せになる。
・むかしから読みたいと思って先送りしていた面白い小説を読む。
・すきな食べ物を食べる。
上記のような手段は、
(a)「喜/楽」に属する種類の感情が、短 期 的 に発生
する手段だが、これを、いくつも行えば、つまり(A)に変化する。(同種のことを連続、って意味じゃない。)
格闘ゲーム的に言えば、小キックだけ延々と当て続けて勝つ、みたいな方法。
(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+.......=(A)
となるのだ。
■それでは成功者になるにはどうすればいいのか
ここまでの説明を読んだだけでは、「惨めなのを我慢しろというのか」という因縁つけをしたくなっている人がいるだろうが、まだ続きがある。いわゆる「成功者」になれば幸せになれますよね、と思っている人向け。
ストレスがなく、体が健康で、太りすぎても痩せすぎても居ない。(b)
(A)になっている。
勿論、成功者の定義はいろいろあると思うが、歴史の教科書に載るレベルになりたい場合は、時代背景などの変えようがない設定も必要で、結局は「生まれ直す」しか手がないので、手が届く範囲ということで上記の定義としておく。
また、著名人有名人の成功者について思い浮かべている人は、「単に周囲に祭り上げられただけで、当人は(A)状態ではなかった」人は除外してほしい。ヤク漬けになった芸能人とか、自殺した作家とか。
(b)をいくつも手に入れたら(A)が発生して成功者として完成した
(A)状態になったら、そのあと徐々に、(b)も発生した。
ハア?って思ってるでしょ。でも、これが分からないと成功者には成れないの。
人間社会の中で、成功者になるためには、どうしても人と人とのネットワーク、繋がりを無視することはできないが、あなたが「繋がりたい」と思う人とはどんな人だろうか?
ではないだろうか。勿論、引き籠もり属性の人は、そういう人をリア充認定して、忌み嫌うもの、と考える人も居るだろうが、そこまで捻くれている人まで扱ってると、切りがないので、横においておく。
【第一段階】(C)になることによって、周囲に自分の手助けをしてくれる人を引き寄せる
まずはこれ。こうなるためには、
(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+(a)+.......=(A) →(C)的な人物像
となる。「喜/楽」に属する種類の感情が、長期的に発生しつづけていれば、自然と顔はニコニコとし、他人から好まれるキャラになっているはずだ。
【第二段階】自分の感情の(A)を守るため、人間関係を整理する
人が集まってくると、どうしても、不快な思いをさせるタイプの人間も寄ってくる。これらから離れる。これは無理やり離れようとするのではなく、自分の周囲に集まってきた人々の中で、(C)属性の人とつきあう時間をなるべく長くするという方法を使う。
【第三段階】自分も(C)属性、周囲も(C)属性、という人間関係を構築したら、あとは流れるに任せる
あとは「船のオールから手を離すように」流れにまかせる。但し、「こういう人物になりたい、こういうモノ、コトが欲しい」というのは明確にしておくこと。
■それでは能力を高めるにはどうしたらいいのか
ここまでの説明を読んだだけでは、「自分の能力が低ければ成功できねえよ」という因縁つけをしたくなっている人がいるだろうが、まだ続きがある。いわゆる「成功者」になれば幸せになれますよね、と思っている人向け。
【何らかの能力が高い人は、どうやってそれを手に入れたのか】
努力ではありません。以上。
というと無慈悲だが、努力の努という文字、「奴の力」つまり「奴隷の力」という文字を書く。
努力=奴隷の力が2つも。なんとも馬鹿らしい。やってられるか。
あなたがアニメが好きだとしたら、色々な作品に出てくるキャラクターの名前を100人程度言える、という人は居ると思う。
アニメに全く興味がない人から見たら、ものすごい努力をして暗記をしたように見えているが、当の本人は、なんの努力もしていないはずだ。楽しくアニメを見ていたら、いつのまにか名前を覚えていた。それだけのはずだ。
何らかの能力が高い人は、これと同じ仕組を使っただけだ。対象が、アニメではなく、英語であるとか、数学や科学であるとか、野球やサッカーであるとか。それだけである。
たとえば野球選手になって成功した人には、子供の頃、親が野球が好きで、しょっちゅう見に行ったり、親と一緒にキャッチボールをしたりした…という人は全く珍しくもない。その人が野球が好きになり、成功したのは、単純接触効果によるものだ。何かを好きになりたいなら、単純接触効果を使えばいい。ググる→http://goo.gl/HDv9C
好きになってしまえば、あとは手法を細かく説明してもらうまでもないだろう。
さらに、その対象を好きになると、それを学習するような行為を行うと、(a)が発生するようになっていく。
高めたい能力に関係する行為をする → (a)発生 → (a)+(a)+(a)+(a)+(a)+.......=(A)
驚くよね。
いわゆる、「自己能力が高い成功者」というのは、その能力を磨く過程自体が、(A)になりうる=幸せなのだ。
◆
…と、ここまで書いてネタバラシするが、これらは、「引き寄せの法則(ロンダ・バーン系、ヒックス系)」の"本来"言いたいことである。よくよく読むとだんだん理解できていくのであるが、ロンダ系もヒックス系も、最大に重要視していることとは、「よい気分で居ること」である。つまり(a)や(A)であると。願えば物品を手に入れることができる、というのは全く本筋ではなく、本を売り込むためのストーリー作りとしての肉付けにすぎない。まあ、あながち嘘というわけでもないのだが。やってみればわかる。
また、引き寄せの法則だけでなく、いくつかの複数の宗教、もしくは単なる公衆道徳としても、「感謝」という行為を重視しているが、これは、(a)のために非常に有効な手段だからである。
感謝という感情とは、自分の周囲から、なんらかの物品や、行為などを受け取ったときに発生する、「喜/楽」に属する種類の感情である、と説明すると、感謝とは本来的には何なのか?と理解できるだろう。
ちなみに私は「「成功者」になれば幸せになれますよね」とは全然思ってない。どのみち(A)が幸せ本体なので、成功者になるなんていうのは、どうでもいいと思ってる。他人から尊敬されるなんていう手法を使わなくても、(A)は得られる。それに、人生なんて、死ぬまでの暇つぶしである。
■最後に
(a)を得るために、他人に迷惑をかける行為をしないように。それをやると、後日何らかの形で、「反撃を食らう」ため、けっきょく後日、不快な思いをしてしまうことになるので、元の木阿弥である。「喜/楽」を得ても、後日「怒/哀」で相殺されるのでは意味がない。
説明会もすぐにキャンセルする、エントリーシートが通過しても面接をブッチしてしまう、
馬鹿だねえ、勿体ないよと皆に言われる。
当たり前ができない。
当たり前ができないなら、新しい事をやってやろう!という気概もなく、常識に嫌悪感を持ちながらもレールに乗っかるしか発想がない。
最終までたどり着けたのが本当に奇跡のようなもので、そこはエントリーだけで1万人くらいのいわゆる大手企業。
12月から今まで就活をしてきて面接が通過したのはベンチャー企業1社のみ(しかも二次選考ブッチした)だった。(そもそもそんなに数受けてないんだけど)
ESには自信があったのだが、破滅的に頭が悪いのにテストセンターを通過できたのが第一の奇跡。
グループディスカッションでは、就活始めて以来初のメガンテ君に遭遇しイライラしつつも通過。これは第二の奇跡。
一次面接は、面接後に好きな人に会う約束があったので初めてウキウキしながら会場に向かった。嬉しそうなオーラが伝わったのか通過。第三の奇跡。
二次面接は、自分なりに頑張って業界やら企業やら研究したり、色んな人に話を聞いた。その結果面接の手応えばっちりで、案の定通過。
記念受験のつもりでエントリーしていた企業なのに気がつけば最終まで来ていた。
最終は全く手応えがなかった。
面接官3人のうち、いちばん偉いのかなーと思われるおっさんは一言も言葉を発する事はなかった。
私と同日に受けた人には内定の連絡はとっくに来ているらしいし(byみんしゅう)
けど、こんなクズな私でもここまで選考に残る事ってできるんだというのは発見だったので
最後の最後にチャンスをものにできない自分にとっても嫌になるけどね。
私ってどこまでも馬鹿で、勿体ない。
わかるよ。大人になると確かに幸福感が変わる。子供の頃目指していた大人になれていないし。
子供の幸福感の正体ってなにかな?自由に夢を描いたり、欲しいものが手に入ることなんじゃないかな?
だけど大人になると、根拠がない幸せには不安が芽生えてきてしまう。
これは、棚ボタの幸せに一喜一憂することのバカらしさを学んだからじゃないでしょうか?
“何のために”欲しい物を手に入れるのか、手に入れて何ができるのかを考えだした。それは決してネガティブではないと思います。
例えば、子供は「うんこ」とかのリアクションで笑える。ハラハラドキドキの、ワンパターンな映画でも素直に楽しめる。意味やテーマを咀嚼せず、反応しているだけだから。
でも大人になるにつれて(頭が良くなるにつれて)「うんこの何がおもしろいの?」「あの映画と同じテーマだよね」って気づきはじめる。裏側の意味を楽しむようになる。
ワンランク上がるって言い方は語弊を招くかもしれないけど、意味のないものに楽しさや幸せを見いだせなくなった。ただそれだけじゃないかな?
そして、それを受け入れてみるのはどうでしょう。
と言うのは、幸せになろうとするんじゃなくて
ってこと。
大人の幸せは「今の自分を肯定すること」だと思います。今の自分が未来に繋がってるから。今の自分にしっくりきてないのに、バラ色の未来を描くのは難しい。
あなたはそれがわかっているから、バラ色の未来が描けないでいる。頭がいいんだよ。根拠もなくハッピーな未来を夢見るのは、子供だからできること。
だけど不幸だとは思っていない。自己実現はともかく、ある程度の欲求は満ちている。
可もなく不可もなく幸せです。
とか、そこらへんの考え方の根本的な部分が知りたいのかもです。
「諦め」って言葉はネガティブに使われがちだけど、元来は「明らかにする」って意味だし、悟り。明らかなうえで受け入れる。
妥協は受け入れないで、擦り合わせること。
自分の場合は、暗→明のほうへ人生が180度変わる出来事があった。とは言っても、精神的な変化だから、きっかけらしいきっかけはないけど。
ただ、それ以前が底辺すぎたから平穏を手に入れて嬉しいと感じた。
「幸せって精神的なものなんだ」って気づくと同時に欲が消えた。煩悩が消えた感じ?冒頭の例のように、奥行きが必要になってしまった。
あ、欲がなくなったと言っても食欲と睡眠欲はあるよ。性欲はなくても困らない。
時々「鬱なのかな?」って心配にはなるけど、死のうとは思ってないから大丈夫なんだと思う。
で、気とかオーラとか占いとかスピリチュアルとか、なぜか周囲にそういう人たちが増えて、一般的にあやしいと思われている分野へ足を突っ込んだ。
最初は、あなたと同じで疑り深くて苦手でした。今でも信じてないです。
でも「なぜそう言えるのか?」を調べていくのは楽しい。いずれも元を辿ると西洋哲学や東洋思想にたどり着く。
すると、人が人であるがゆえの悩みは普遍的で、それを整理する方法も大昔から研究され尽くしていて、それなのに未だに人は悩み多き生き物なんだってわかった。
ハードは進化してるけどソフトはあまり進化していないって。だから生きてるんだなって思えました。考える葦なんです。
前者は「内なる子供」で、後者は「高次の自分」と訳されるけど、適当にアレンジして「子供性」と「大人性」で解釈するとわかりやすいかな?
そのバランスを意識しなきゃいけない時期に差し掛かっているのかもしれませんね。
二十歳になったら成人式やって法的に大人になるけど、本当に大人になる瞬間は、経験によって人それぞれにバラバラで、
あなたが今置かれている状態は通過儀礼ではないかと思います。自分は20~24歳までモラトリアムになって、24の時に脱皮した。
大人性というのは、いつも自分を律したり、自分に指図している自分。
一方の子供性は、ありのままでいようとする自分そのもの。子供は「快・不快」に敏感。
ハイヤーセルフは、自分をあるべき姿へと導いている。だけどインナーチャイルドが時々「私って幸せなの?」と問いかけてくる。
心をないがしろにして自分を律しすぎている時には「素直に泣いてもいいよ」って子供が出てきていて、
ウダウダが長く続けば「あんた、ヤバイんじゃないの?」って大人が出てくる。
ややスピった考えを言いますが、
と考えてみてはいかがでしょう?律している自分も必要だし、駄々っ子の自分も必要。
「よくわからないけど、幸せじゃない。おかしいな」って感じている。今、そういう状態だよね?
今は心の中にいる子供がグズグズしている。そう考えると、啓発より癒やしかなぁと思います。
自分だって考えたら自分を上手く癒せないけど、自分の子供だって考えたら少し優しくなれませんか?
子供だと思ったら「泣くな、元気出せ」って言えないでしょ?
「無邪気に幸せを感じていた子供の自分」を否定しちゃうと辛いです。
それはそれ、仕切り直しの気持ちで「子供の頃はこうだったけど、今の自分はこう」って考える。
今が充たされないと、未来は見えないです。
あちこちのサイトを見るとわかると思いますが、インナーチャイルドとかハイヤーセルフが出てくるサイトには
天使やら偉大なるマスターやら、神秘的に説明されていて、知性面から捉えると「あやしい」ですw
でも、
これも持論だけど、啓発って「気づき」を得ることだから、人に教えてもらうもんじゃないと思います。
啓発本は「こうしたらイケてる奴になれるぜ」ってやつだから、すでに前向きな意志が持てて、契機づけたい時にのみ有効。
「教えやがれ!この野郎」って思える時に読むのがおすすめで、やる気が落ちている時にはあまり意味がない。
啓発本には啓蒙的なものが多すぎるし、意識だけやたら高くなっても、肉体がついていかないと使えないです。
スピ用語を使わずに伝えるにはどうしたらいいかな?と思っているうちに、長文になっちゃいました。
上手くまとめられていないと思うので、わかりにくいところはまた質問ください。参考になれば幸いです。
外を見回してると、最近の女子中高生はAKBの影響か、黒髪ロングの子が増えてて、個人的にはすごく嬉しい。
高校生に限らないが、若い女の子はスカートも短すぎず、着崩さず、きちっとしてる。
ぱっと見は清楚だ。ぱっと見は。
でも恥じらいみたいなものがなくなってきているように思う。
正確に言うと「自分に商品価値があることを知っている」かんじ。
清楚とか無垢とかとは違って、こうすれば「価値を最大限につりあげられる」と知っててやってるよう。
清楚というと定義が難しいけど、ここでは「女の子らしいが、男ウケを狙ってのものじゃない」ということにする。
清楚系ブームなのに乗っかって、昔は派手目だった層も外見を清楚っぽくしてるからそう見えるのかもしれない。
けれども、あきらかにオタ系の子もやっぱりそういうところがある。これみよがしにニーソや縞パンをはいたりしている。
よく見ると、微妙にだらしない。隙がある。そこがなんだかエロいというのも知っていてそのまま垂れ流している。
でもそれも当たり前だと思う。
ネット見てると「女は18まで」「JK最高!」などの言葉があふれていて、ちょっとネットやる層なら確実に見ているはず。
いまどきは派手目の子もオタ系の子もスマホでネットをやるから、本当に触れないのはごく一部だろう。
自己表現も一昔前のネットでは文字の書き込みやイラスト描いたりして創作物で発散していたのと違って、ニコ生とか、本人の外見が重要な要素になるようになってきた。
顔が見えない職業であったはずの声優も、今では演技よりビジュアル重視の傾向にある。
そんな環境にあって、自分を「女として最高の時期」と思うのはしょうがないと思う。
女子高生を狙った性犯罪もあるから、自分を女と自覚するのは悪いことでは全然ない。自衛は自覚からはじまる。
でも性的強者としてそれを売り込む、自分を世界の中心のように感じるのはなんだか違和感がある。
秋葉原に行くと、女1対男3のような不思議に男女比が偏ったグループに出くわす。しかもけっこういる。
その中で女の子は姫のように丁重に扱われ、ちやほやされている。
だいたい声優の私服みたいなちょっと可愛くてフリルなんかついた服を着ている。
女の子は萌えアニメやエロゲなんかにも通じていて「私はあなたのことキモがったりしないよ、理解あるよ」というオーラを出している。
しかし、なんだかこの取り巻きの男の子たちを下僕にしているようにも見える。
あくまで「か弱い女の子」というポジションにいるのだが、なんというか、ちょっとえらそうだ。
精神的に対等な付き合いをする前に「性的魅力」というエサで従えてしまっているような気がする。
彼ら、彼女らはそれでいいんだろうか。
性的強者や恋愛強者が、すなわち世の中の強者という構図になっているのが見える。
萌えアニメやエロゲが露骨に出す「性的さ」を、現実の若い女の子が間に受けすぎている気がする。
あれはフィクションだからいいのであって、三次元がやったら痴女か馬鹿女だ。
ましてや「こういうの好きなんでしょ?」みたいにされても困る。
現実のオタク(男女含む)にはそんなこと考えないで天真爛漫に、もっとストイックに興味の対象だけを追いかけ続けてほしい。対象は二次元に限らず電車でもなんでもいい。性的なことをふりきるくらいオタ趣味につっこんでほしい。完全に願望だけど。
でも、今の若い男子はそのくらい露骨な女の子が好きなのかもしれないな。
この前知り合いと飲み屋で、その知り合いの女性が4万もする個人セラピーをやってるのは如何なものかというお話になった。私もホメオパシーなど半信半疑に思っている。歌手のUAがホメオパシーを好きだがUAの音楽は大好きだがそういう部分に関しては疑問がある、例えばこういう事件もあった。
2009年8月、山口市在住の女性が助産師の指導のもと長女を自宅出産した。同年10月、長女は生後2ヶ月でビタミンK欠乏性出血症による硬膜下血腫が原因で死亡した。
死亡した新生児は、ビタミンK欠乏症によって出血死(新生児メレナ)したと考えられる。母子を担当した助産師は、ビタミンKの「記憶」や「波動」、「オーラ」を持ち「ビタミンK」と同程度の効果を持つと彼女や彼女が所属していた団体が主張している砂糖(いわゆる「レメディー」)をビタミンKの代わりに新生児に舐めさせた。担当医師に気づかれないよう母子手帳には「ビタミンK投与」と偽って記載されていたことがわかっている。
精神世界は否定はしないけど(むしろ興味が有るくらいだが)、それが個人の心の逃げ場や役立つものと思われるならそれこそ自己啓発のビジネスミナーや詐欺まがいの新興宗教と変わりないんじゃないかと思う。
昨年夏にも精神世界に精通してる高齢女性の集会に行ったが、テーマは次世代エネルギーについてだったがこの方の集会では必ず泣き出す人がいるそうだ。
EMというやつも口蹄疫や震災や放射能の不安から疑似科学化して元々用途は農業用だったが子供の風呂に使ったりと少しカルト化して付和雷同している面がある。昔EMを土壌使った野菜を食べた事はあるが活き活きとして美味しかった。
結局精神世界や疑似科学に行く人はナチュラリストの人が多いが人間関係(既婚者なら旦那との不仲など)や資本主義の嫌悪で自然に逃避している風に思える。(大学時代、馬術部のお手伝いをした事があるが動物や自然に逃避して大学に馴染めない人の集まりという感じだった)
ようやくAdsenseを復活していただいた。
突然「アダルトコンテンツが入ってるからお前のブログへの広告配信止めるわ」と言われたのが約1ヶ月前。
それからというもの、毎日のように自ブログ内を「おっぱい」だの「エロ」だの「セックス」だので検索して、該当する記事を直し、Google様にお伺いメールを出し、けど「まだエロだね。ダメ」とつきかえされる日々。
内容がアダルトかどうかとか関係なし。例えば「壇蜜にカフェで会った」みたいな記事もNG。何故だろう何故だろうと悩んだ末、ブログ記事内に、壇蜜の写真集のサムネイルを貼ってたのと、本文に「悩殺オーラが云々」と書いていたのが原因ではないか、つまりNG単語が入ってるかとNG画像(とアルゴリズムが判断する画像)が入ってたらダメみたいな感じなんだろうな、と想像。
「ちゃんと読めよ! この記事アダルトじゃないだろ!?」とクレームのメールをしようとも思った。「もういいや、Adsenseいらないわ」と投げようとも考えた。
しかし、ふと考え直した。
今回のことをポジティブにとらえてみてはどうか、と。
将来、自分の子供に私のブログを見られたときに恥ずかしくないよう、今からアダルト臭のするコンテンツは全て直すか消す、という作業をしているのだ、Google様はその作業を手助けしてくださっているのだ、と、思い直したのだ。
考えてみれば、確かに近々、そういう大掃除をするつもりではいたのだ。私のブログにはアダルト記事はないですが、確かにジョークとして、そういう下ネタっぽいことを書いたことはある。そういう記事を、我が子が大きくなる前に消しとこう、とは思っていたのだ。でも面倒くさいから伸び伸びになっていたのだ。
それを今、やろう。
しかも作業に漏れがないかどうかは、Google様が調べてくれる。
それからは、Google様とのやりとりが、俄然楽しくなった。
Google様からまだNGメールが返ってきたときは、憤らず自らを反省し、またエロワードをあれこれと考えて、「そっか! 『ちんぽ』かも!?」と思い当たり、検索し、該当した記事を直すか消す。
ありがたい、Google様ありがたい、と、感謝の気持ちをもって作業に励む日々が続いた。
そして、とうとう先週、Google様より、お許しのメールをいただいた。
「もうお前のサイトはエロくないよ」と、お墨付きをいただいたのだ。
広告配信は復活した。
そして、私も浄化されたのである。