はてなキーワード: ぼんやりとは
やれ銅をつこうてるだの10万円しただの蘊蓄を語る人がいるが、ガス炊きで育った俺からするとそんな無駄金使うより安いガス炊飯器で炊いた方がずっとおいしい。
ご飯のおいしさの基準は人それぞれだが、コメを美味しく炊くには火力、とにかく火力が必要なのだ。米炊の研究をされている方がそう言っていたから多分間違いない。
そうなると、わざわざ電気という火力面で不利なエネルギーで美味しさ勝負をするのは些かナンセンスに感じられる。
まぁ、世の中にはガス炊飯器を設置できない事情を抱えながらもうまいご飯が食べたいッ!という執念深い人もいるだろうから、
しかし、電気ならではのコントロールし易さがあると思うので、それを活かしてそこそこの味でなんか便利な炊飯器があったらいいなと思う。
何を持って便利か、というところはこれもまた人それぞれというところだが、一人暮らしの時間に追われる社畜からはこんな意見がある。
・とにかく炊きあがるまでの時間が短い(空腹を覚えてから支度を始めるため)
・時計合わせ不要(タイマーを使うのに時計合わせ必須の炊飯器はクソ。しかもコンセントから抜けると時計はリセットされる)
・安い(社畜にも関わらず金が無いため)
・炊ける量は少しで良い(炊くと炊いただけ食べる。食べ過ぎると気分が悪くなるという人間的欠陥を持つため)
なんか色々あったけど米炊いていなばのタイカレーぶっかけて食ったら素晴らしく美味しくて満足したので忘れてしまいました。
そんなところでぼんやり探していたところ、良さそうのがあったので紹介します。
コイズミ 小型炊飯器 ライスクッカーミニ ブラウン (0.5~1.5合) KSC-1511/T
米を洗って水入れてスイッチを入れると20分ほどで炊きあがる。
本当は炊く前にしばらく放置するそうなんだが、とにかく待ちたくないからすぐにスイッチいれてる。
それでもなんだか納得できる程度の炊きあがりはできるので嬉しい。
商品名にあるように、0.5合から炊けるというのも良くて食べたい時に食べたい量を用意できる喜びがある。
あとは蓋が完全に取り外せるので、清掃も乾燥も非常に楽できれいな炊飯器を維持できる。
炊飯器をきれいにすると人間として良い行いをした気分になれるので、この炊飯器は飯以上の喜びを俺に与えてくれるのです。
あと、タイマーも時刻ではなく、時間で指定できるから簡単だ。すぐ食べられるわけでもないのに米を研ぐのが非常にバカらしいのでめったに使わないが。
近年は宮崎駿・高畑勲両監督の後継がいないことにヤキモキしていました。ゲドとアリエッティは論外。
コクリコ坂は好きだなと思っていたら脚本が宮崎駿と知って頭を抱えました。スタジオジブリが製作部門を解体のニュースを見てある意味ホッとしました。このまま有象無象の作品を作るより、ジブリはこれまでの作品の管理会社となるのが一番平和な道だと、そう思いました。毛虫映画が出来るのと宮崎駿が死ぬのとどっちが先か、そんなときに「メアリと魔女の花」ジブリかと思ったらジブリじゃない。スタジオポノック!何それ!でも予告を見て期待しました。「ジブリだ!ジブリが帰ってきた!」と思いました。
私はスタジオポノックを応援しています。良い意味でのジブリイズムを後世に伝えていって欲しいと思っています。けれど「メアリ」を周りの人にオススメ出来るかと言われたら無理。アリエッティよりは500倍面白いと思うけど、お金を出してまで観る価値ある?金ローまで待ったらいいんじゃない?レベル。
起承転結が薄い。人物像がぼんやりしてて、何の感情も動かされない原作ありきの作品で、かつ原作未読なので本当はどういう話なのか分からないけど、それにしたって全然盛り上がらない。
魔法の力を得たら猫が喋ったり、眠っていた魔女の血が目覚めるみたいな展開も欲しかった。ピーターが自ら魔法の力を望む闇落ち展開とか。
どうしてもナウシカやラピュタやもののけ姫と比べてしまって、勝手にガッカリしています。でもジブリイズムを引き継ぐならそれも覚悟の上でしょう、とまた勝手に思ってみたり。
とりあえずスタジオポノックには今後も頑張って欲しいです。2作、3作と作り続けていつか宮崎御大に負けない作品が生まれることを願っています。
世の中には一概には言えないことが多い。
いろいろなニュースを読み、一概には言えないと思いつつ他の人のコメントを見ると、「これはひどい」などのタグを使って断定的に語っている人などもいて、「この人は一概には言えないとは考えないのか」などとぼんやり思ったりする。何か自分もコメントを書こうとする。しかし一概には言えないと考えて書くのをやめる。その繰り返しだ。
一概には言えないのだから無責任な100文字コメントなどするべきではないと考える。ただし私のこうした態度についても一概に言えないところがあって、一概に言えないとはいっても態度を保留するのではなく何らかの立場から積極的にコメントしておくことも必要であるという考え方もあるだろう。しかしこれについてもやはり一概には言えず、一概には言えないということだけは私は言うことができるが、何らかの立場からのコメントは私にとってやはりどこまでいっても一概には言えないものでしかなく、私はその意見について100%の責任を持つ自信がない。そういった無責任な参加がどこまで許されるのか。
ある一概には言えない事象について断定的なコメントをしたとする。そのとき私は他の人から「一概には言えない」と批判される可能性がある。そして私はその批判が一概には言えないとは言えないだろうということを知っている。何か発言するたびに私は「一概には言えない」と他の人から批判を受けるだろう。そしてその批判は正しいだろう。一概には言えないのだ。
そこで私の選択肢は以下のとおりだ。
一般的には3番目を選ぶ人が多い。自分が考えたことをある意味で無責任に書く。もちろんその行為には「一概には言えない」という批判がつきものである。
すこし注意深い人になると4番目を選ぶ。一概には言えなさに自分は気づけるだけの知能を持っていると示すことができる。しかしこのときもまた「一概には言えないとわかっていて、さらにわざわざ〈「一概には言えない」と書く〉というアリバイ工作のごとき責任逃れをしてまで発言するべきではない」という批判を受ける可能性がある。「一概には言えない」と書いておくことによって批判をかわしつつ言いたいことを放言するというこういった手法はあまり紳士的ではないだろう。
2番目にも問題はある。「一概には言えない」というコメントにどこまで価値があるのか。多くの場面で多くの人は一概には言えないということに気づいている。仮に多くの人が一概には言えなさに気づいていない場合に「一概には言えない」というコメントをすることには価値がある。明白な真理だと思われていたことに対してそれが実は一概には言えないのだということに気づくこと自体に価値があるからだ。ただしこういった状況はかなり限られる。多くの場合「一概には言えない」にはほとんど情報としての価値がなく、そういった場合「あなたは何が言いたいのか」「あなたの意見はどういったものであるのか」と聞かれることもあるだろう。その場合「一概には言えない」という態度の保留を放棄することをせまられる。つまり「一概には言えない」とあえて書いたことによって、そこから自然なコミュニケーションの流れとして踏み込んで断定的なコメントをするように求められるという逆説的な状況が生じる可能性がある。
そういったわけで私は1番目を選ぶことが多く、一概には言えないと考えている場面では「一概には言えない」とも書かない。私は何も書かないのだ。私が何も書かないということは私がその場に参加していない、存在していないことにほとんど等しく、私は他の人から私を発見されて、一概には言えなさの放棄をせまられることはないだろう。ひとまず安心する。ただし私が思うのはこういった態度が賢明なのかどうかということである。もちろんこれ自体も一概には言えないだろう。誰にも発見されず、自分の頭の中でただ「一概には言えない」と考え続けることに価値はないと考える人もあろうし、誰にも発見されずとも一概には言えなさを貫くことによって自分が一種の偏見によって堕落することもなかろうと考えることもあるはずだ。
私はうなってしまう。一概には言えないのだ。しかし私は語るべきであるのか。「一概には言えない。しかし……ということは部分的に妥当するように思われる」などといった語り方がどこまで有用であるのか。多くのことは一概には語れず、つねに例外はあり、何かを語ることはむずかしい。「一概には言えないし、例外は無限にあるが……」
私は何かを語ろうとするとき一概には言えないということはよくわかる。私以外の多くの人もわかっているはずだ。それでも彼らは語る。そこにはリスクがある。彼らの語りが正しいかどうかは一概には言えないのだ。
「ある程度」「そういった傾向」「……の一部は」「かならずしも……というわけではないが」「何時何分何秒地球が何回回ったとき、そのときにおいてのみ」
私にはわからない。一概には言えないということだけはわかる。
ジャズの一回性というものが語られることがある。私は一種のインプロヴィゼーションに身を任せるべきなのであろうか。私はいつでもでたらめの神託をでっちあげることができる。だがやはり私はそういった風なことはやらないだろう。一概には言えないのだ。私は自己完結してしまう。むしろ自己未完結とでもいうべき状況かもしれない。私は一概には言えなさに拘束されている。私の翼は鎖で縛られている。
このところ食欲がない。何を食べても美味しく感じない。何も食べたくない。料理をするのが辛い。でも子どもには栄養をあるものを食べさせなければいけないから頑張って作るけど、イヤイヤ真っ盛りで、拒否される。その度に自分が駄目な親だと言われてる気がしてまた御飯を作るのが辛くなる。毎日手をかけて美味しい御飯を作ってるお家の子は、何でもパクパク食べてるんだって。ごめんね。私のせいだ。でも頭が働かない。何を作ればいいのか考えられない。いつも頭がぼんやりしている。絵本の読み聞かせすらちゃんとできない。言葉が頭に入ってこない。日本語を正しく読めない。仕事もなんかうまくいかない。将来に希望が持てない。何一つうまくいかない、うまくできない。ちゃんとしなきゃ。頑張らなきゃ。でも、もう気力がない。立ち上がれない。鏡を見るとやつれて疲れ切ったお化けみたいな何かが映っている。
〔一回集中して視聴した後の印象。
・
このすばのアクアを思い出した。
大きな違いは意地が悪くはないところかな。
・
・
俺はよしこに魅力を感じているので願望かもしれないけど、
集中的に勉強させたとか。
・
明らかに異常な結果が出て、
その結果の妥当性みたいなのが疑われそう。〕
・
昔『累犯障害者』を読んだだけで今はどうか知らないけど、
真面目な人はけっこう怒るかもとは思った。
現実のひどい状況を肯定したり利用したりしているように感じるからかな。
まあゲスだなあwくらいが多くの反応だと思う。
・
俺が悠木さんと比べるなら上田麗奈さんかな。
けっこう声質みたいなのが似ている役もあるけど、
・
〔さらに三回集中して視聴してネットの反応を見たあとに思ったこと。〕
・
無視とか薄い反応よりはけっこう強い刺激を好む娘なんかなあ、とか思った。
怒られたり暴力受けたりするのが嫌いな娘だったら、
これまでに活発さが失われていたと思う。
・
発達障害っていうよりはあえていえば人格障害の傾向くらいなんじゃないかなあ。
もっといえば犯罪心理学でいう生物学的なサイコパスの傾向(虚構での邪悪なやつではなく)。
苦しみを感じにくく、感じたとしても持続時間が短い(神経症傾向が低い)
一話に限れば、将来の不安を感じにくい、罰が効きにくい。
具体的にはバナナ。
本気で嫌がる人がいることを、よくは知らない人でも実行する(調和性が低い)
(恐らく本人が苦しみを感じにくいから他人も苦しまないと思うからか)
・
発達障害がいつも苦しんでいるわけではないので、
・
〔作業しながらほぼ画面を見ずに流しつつ。〕
・
泣きながらバナナ食べてるの思い浮かべたらかなり楽しくなった。
実際まがねがサディストじゃなくなれば性格はほぼよしこである。
・
あっくんは下着の寝姿を見慣れていたり
性的興奮がほぼなくて怒りになるんだと思うけど、
初めて下着の寝姿を見たときや、
さらには二人きりのときにお礼で初めて下着を見せられそうになったりしたら、
話の内側からみるとよしこが真面目なあっくんをギリギリのところで
からかって楽しんでいるのかもとか思うし、
外側からだと視聴者に強くはない性的興奮と面白さを微妙な違いで
感じさせようとしてるのかなとか思う。
・
〔第3回を三回集中して視聴した後に書いたもの。〕
・
第1回だけ視聴したあとは、よしこがあっくんのこと好きといっても、
ところどころフェイクを入れる。だいぶ長い。
すごく綺麗で"大人の女性"という雰囲気があり、いつも颯爽としていてかっこよく、紫の光沢を帯びたヒールが似合っている人だった。3年ほどお世話になった。もう6~7年ほど会っていない。
私は慕っていたけど、その空白期間に彼女に連絡する気はなかった。というのも、最後に私がちゃんと挨拶しないまま彼女がどこかへ行ってしまったので、やや気まずい雰囲気で終わった経緯があるからだ。
ある日なんとはなしに彼女の名前で検索したところ、彼女の本名ブログを見つけて驚いた。独立して仕事をしていることが容易にわかった。私が慕っていた頃とあまり変わらない様子でやっていることがわかった。
「びっくりしたなんて嘘でしょう。本当は傷ついて、怒っているんでしょう?自分の感情と向き合おうよ。」
感激していた。自分が慕うきっかけになった人生訓時を、書いてくれている。コメントもブクマも一切しなかったが、わりに彼女のブログを覗いていた方だったと思う。
しかし私もただ彼女の人生訓時を読んでいたわけではない。そこに2つの感情を抱いていた。
まず、彼女が独立をして仕事をしていることに嫉妬を覚えていた。年齢差があるとはいえ、(私から見た限り)本人の特性に合ったことで働く彼女に、憧れや羨望以上に焦りがあったのだと思う。
そして同時に疑問の感情も湧いていた。「これでどうやって稼いで、生計を立てているのだ?」、と。
ブログを読む限り集客モデルはおろか、ビジネスモデルとして成り立っていないと正直思った。仕事の詳細は触れないが、言ってしまえば『綺麗な言葉を並べて、詐欺まがいに近い』と思っていた。コンサルタントというと言葉の響きはいいかもしれないが、一歩間違えば紛れもなくフリーターだった。彼女は学歴も職歴も不確かな人間なのだ。
そして彼女の精神面に寄り添って更に言うと、「これは彼女ではないのでは」とも感じた。言葉が綺麗でポジティブになりすぎていたのである。
彼女はどちらかといえば、ネガティブな人間臭さのある人で、けして綺麗な言葉ばかりを言う人ではなかった。
彼女が今までとは違う生き方を真に選んで生きていきたいなら、第三者の私は口出しをすべきではないだろう。
しかしそれも踏まえた上であえて書くと、「でも彼女は、そうしたポジティブな考え方を続けることができない人だ」と、直感が言っていた。
これは経験的な勘なのでこれ以上は説明できないが、私の感性はそのように告げていた。
そんな気持ちがますますふくらむころ、前触れもなく彼女のブログ更新は止まった。
彼女の近況が知れなくなったのは寂しくもあったが、「もしかしていい人でも見つけて、結婚でもしたのかな」とぼんやり考えていた。
たまに彼女の名前で検索して、やや胡散臭い文章で止まったままのブログを読みに行っていた。
しかしあるときいつもの検索ページ上位に、違う結果が表示された。
そのページを眺めたら、よくわからないイベントの主催者として表示されていたのだ。
「ああ、胡散臭いな」と思った。そう思わせるイベントだったのである。
苗字も変わっていないので結婚はしていないのだろう。そんなことを知った。
彼女の新しいブログができていた。しかし、仕事内容とは関係がないように思えた。
"何か"をエントリーしたようだったが、すでに公開を取り下げたようだった。
それからまた、転機が訪れる。彼女が更に新しく作ったブログの、最新エントリが表示された。
その記事は1日前に更新されたようだったが、やはりすでに公開取り下げをしていた。
けれどタイミングよく私はそのエントリのキャッシュを得ることができ"てしまっ"た。
そのブログはとても長い内容だった。
その書き下しで始まったのだが、本当にそれは"自己紹介"だった。
彼女の本名・生年月日・血液型から始まり、何に興味を持っているのか、何に興味を持たないのか、彼女はどんな人なのか。それはとても詳細に書かれていた。
「これは紛れもなく彼女だ。」、そんな気持ちを得たのに、文字を追うにつれて不安感が募ってきた。
・社交性が低いのではなく、社交に興味がないのかもしれない。
・うわべだけの会話が苦手。社交辞令も苦手。
・本当でないものが、嫌い。
こんな感じの、箇条書きが続いた。
そしてこう続く。
・生きる理由がわからないけど、死ぬ理由もないから、とりあえず生きている。
読んでいて、どんどん辛くなってきた。
ある友人から、「あなたは自分自身の面倒臭い部分を見つめて、それと向き合って生きていける人」と言われたエピソードが本当に嬉しかったこと。
彼女が、いかに面倒な彼女自身の人間性とどのように付き合っていくか、その哲学に人生の半分を費やしたこと。彼女が今までにどのように行動を起こしたのかということ。
いっときは変わったとも思っていたが、周りの人から「素敵な人だ」「やさしい」といった言葉を受けるたびに、内面の彼女と外面の彼女とが乖離している気持ちを受けたこと。
"自分はいかに愛されキャラポジションとは真逆で、いかに他人と付き合いにくいキャラか。客観的に自分を見て、自分と友達になりたいかと言われたら、沈黙を選ぶ。けど、そんな自分も悪くないと思っている。"
そんなことを、ひたすら綴って終わっていた。
「これが、こじらせの末路か。」
そんなことを思った。
ほとんどの人は、うわべだけの付き合いなんて望んでいないだろう。
「社交辞令は嫌い。本物の言葉が欲しい。」と彼女は言うが、彼女は他者の仮面を剥ぎ取るような努力を真に続けたのだろうか。
ほとんどの人が、いろいろな人間関係に揉まれて、切磋琢磨して、心が安らぐ人との真に揺るがない信頼や親愛を勝ち得るのである。
「こんなに面倒臭い私だが、こんな私であるという唯一事実に降伏して、生きていく。」
「こんな面倒な私だが、まんざらでもない。」
結びの言葉に、「ああ、この人は一人で生きていくしかないな」と素直に感じた。
自分の不完全を認めた上で、それを他者に補完してもらうことで、人と人は共生できる。
もちろん社会が多様化した結果、自分一人で生きていける人もいるだろう。しかし、多くの人間がそうであれば、社会は成り立たない。
自分の不完全さを自分一人で完全に受け入れて、自分を愛しては生きていけないのだ。特に、彼女のような人は。
(あるいは、彼女のような人こそ、一人で生きるべきなのかもしれない。)
昔から夢に自分の認識を頻繁に狂わされてしまうのだが、似たような仲間はいないだろうか。
何かを読んだり、考えたりしている途中でフッと瞬間的に意識を喪失して、気付かぬうちに夢でその続きを追っていることがよくある。
私の場合は意識が戻ってもまばたきをしていたかな?くらいの感覚であり、さらに戻った直後は寝起きのせいか、
ややぼんやりしているので判断力も低下しているらしく、意識を喪失していたこと自体にうまく気付くことができない。
実際に経過している時間も、数秒から長くて数分程度のようだし、下手をすると周囲の人間も私が寝ていたことに気付かない程度の時間だ。
さらに夢による疑似記憶を埋め込まれた状態なので、その間の記憶というものも自分としては明確に思い出せる状態になっている。
大抵は、続きの文章に目を走らせて、整合性が取れずにおや?となってから、今意識が飛んでいたのかなとようやく気付くことになる。
そんな調子なので、いつ自分に疑似記憶が差し込まれているかわからず、
攻殻機動隊的な感じでいくと、日々記憶や認識にランダムにハッキングを受けながら生活しているようなもので、大変に危なっかしい。
時折、夢の中で読み終えたと納得して画面を閉じてしまったりすると、
ちょっとした記事や小説なら勘違いしていても多少恥をかく程度で何の問題もないのだが、契約書やマニュアルだと高確率で後で困ったことになる。
なるべく気を付けてはいるものの、買ってきたばかりのものを組み立てながら
「次はここをひねるらしい!固いからちょっと勢いをつけるのがコツだって!」と自信満々にパーツをへし折ってしまって、
どう見ても正常ではない結果を前に、そんなバカなと慌てて説明書を見たらそんな記載はどこにもなかったとか、そういった考えられない失敗をやらかしてしまう。
結局自分の認識が信用できないので、一人で作業を進めるのはとても怖い。
なるべく説明書を開いたまま何度もチェックしながら作業を進めるとか、
少しでも異変を感じたら2秒前にチェックした項目でも行動する前に再度チェックするとか
自分を信用しないように気を付けてはいるものの、作業スペースの関係で紙に目を落としてから作業するために視線を上げたら、
もう疑似記憶が刷り込まれた状態になっていることもあるので、なかなか完璧な対策というのが見いだせない。
どうやら今ヤラれていたと気付いても、どこからどこまでが疑似記憶なのかも自分では判断がつかないのも大変恐ろしいし、その度にイチから工程を追い直す手戻りが発生する。
さらに、瞬間的な意識の喪失だけでなく、普通に寝ていたあとに寝ぼけて強烈な失態を犯すこともある。
起きるなり大慌てで支度をして、小一時間ほど鬼の形相でたこ焼きを焼いていたことがあるが、
その時は外国から久々に遊びに来る来客をたこ焼きで迎える約束をしていたのに忘れていた、もうすぐ来てしまう!
と慌てていたのだが、よく考えたら外国人の知人自体が私にはいなかった。
またこれは家族にも相談出来ていないが、パンデミックや戦争や異星人の侵攻など、世紀末な感じの夢を見て、社会が崩壊した状況にあると勘違いしてしまい、
「もうダメだ、こうなってしまった以上私が殺すしかない」と寝起きに武器になりそうなものの物色をし始めたことも実は数回ある。
パンデミックの夢を見た時に、家族が助からない病気にかかってしまっていて、
政府の出した命令によれば世帯主は責任をもって感染者を殺処分し、その後感染拡大を防ぐため自死しなければならなくなったと思い込んでいた時などは、
幸運にも家に一人の時だったので途中で違和感に気付いて正気に戻ったために実行に移すことはなかったが、正直かなり危なかったと思う。
昼間に瞬間的に寝てしまうということでナルコプレシーなどの何かの病気なんかを疑ったこともあるが、
どうも文章の先を予測出来てしまって脳が一瞬退屈を感じると瞬間的に落ちやすくなる傾向があるようなので、もしかすると私の場合はADHDがあるので、そっち由来のものなのかもしれない。
ADHDの薬で昼間の眠気が無くなったみたいな話も見かけるので試してみたいけれど、主治医はあまり重症だと思っていないようなので投薬はまだ受けられていない。
そういえば、読んでいるときだけでなく、書いているときでも頭の中に続きが思い浮かんでいると途中で寝てしまうことがよくある。
タイピングが極端に遅いということはないと思うのだが、思考速度にタイピングが追いつかない限り、待っている間にダレて寝てしまう感じというか。
なのでどなたか紹介してください。
ネタバレでもかまいません。むしろネタバレ見て面白そうなら借りてくるすらある。
超好き。年3回は観てる。自分の中ではオールタイムベストに入る。嘘だけでなく共犯関係要素にも弱い。お母さんが……ぁあー!!
これも好き。改心パターンは嘘自体を否定されるから微妙だけど、それを差し引いても! 親友っぽさが!
前半ダレてんなーと思ったけど後半の畳み掛けは素晴らしかった。嘘から出たまことパターンも好き。
これはあんまりハマらなかった…。前半をぼんやり見すぎて主人公に肩入れできなかったせいかも。
『僕らのミライへ逆回転!』
嘘の映画を作る話なので。すっごい好き。おもしろうてやがてかなしき。あと邦題つけたやつ死ね。
すごい気になってるけどまだ見てない。あとで見ます。
『エイプリルフールズ』
なんで死にたいなんて思うんだろう。一人夜中にポツンと何もない自室で椅子に座ってぼんやりとしている時、朝目覚めて外に出るまでの三十分間等々。どうしてか死にたいと思う。どうしてかなんて言っているけれど本当はその原因が分かっているような気もしていて、それでも夢みたいになんだかぼんやりとしていて時間が経てば晴天で、低気圧がやってくればまた雨が降ってそんなことを考えての繰り返し。本当はいつも曇りみたいにどんよりしてるけど、何だか仮面を被っていろんな風に頑張ってる。そういう生きづらさがあるのかな。きっとそうだ。
どうして死にたいんだろう。世の中には恵まれているのに死にたいと感じる人が多い。日本では特にそういう人が多いと聞くけど、どうしてだろう。何が不満なんだろう。何が怖いんだろう。何をしたくないんだろう。きっと何かを拒んでいるけど、それを受け入れないといけない環境にいて、そして誰もその気持ちを汲んではくれないんだろう。そして苦しい。認めてもらえない苦しさ。分ってもらう前に順応を指示される暗黙の日本。典型的な善と悪と英雄を作り上げてそれを祭り上げる世界。そしてそれを自分のみならず他者に望む世界。そういう望みあいに疲れてしまったのかもしれない。往々にして人に対して感じる不満は自分への不満だったりする。人に対しての希望もまた自分への希望で。人はそうして互いに自分を押し付けあって、押し売りして生きていかなくちゃいけない。それは特に日本では共通の認識、常識のように何か目に見えない糸でもあるのか、なにか集団的に抱いている希望のようなものがある。それが古き良きと称される至言たるものなのかは分からないが、そこに違和を感じた人間は生きづらい。この際何も正しくなくて何も間違ってないと言えれば、堂々と言えればいいのに。何も区別などしなくて、徳のあるなし、善と悪、あるべき姿あってはならない姿、対立軸なんてなければいいのに。せめてそれを共通の何かではっきりと示すのならそれは法律でもうお腹いっぱいだ。
何だか時々ここにいると具合が悪くなる時がある。ひどく自分が醜く、他が美しく、そこに向かって努力する美徳が目の前にいつもちらついているような、そんな世界を他者から映しだされ垣間見るとき、すごく気分が悪くなり、悲しいようなやるせないような、とてもとても深い深い気持ちになる。
そういう時決まって、久しぶりにつけたテレビのニュースで、なんてことのない交通事故のニュースを見て、「すごい。」と車の衝突による損壊状況に驚く父のわきで、なんだか画面に目を向けるのが苦しくなって、右耳から入ってくる死亡という文字で何だか視線を変に泳がせながら僕はご飯を食べていて、何だかそんなよくある話を急に想像してみたりして、胸の奥がぎゅっと縮んで苦しくなる。いつもロボットみたいに淡々としているくせに。
結局のところ何を置いて生きていけばいいのか僕は分からないのだ。だから僕はいつも当たり障りのない生き方を演じている内に、いつのまにか体のいたるところがオートマチックへと化して、そして最後には正真正銘のロボットになる。
この先の途方もなく長い人生のことを考えると頭が痛くなる。運の悪いことに100歳まで生きてしまったらどうしようか。あと80年も生きなくてはいけないではないか。少なくとも長寿は全く持って僕に健康的じゃない。どうやって人生をやり過ごしていこうかと考えてしまう。
ただ僕にはまだ家族がいて、この世に存命している。そして僕はいつかその恩を返したいが、どう返せばいいだろうか。母や祖母は「あなたが自立して幸せに暮らしてくれればいい」と言ってくれるが、僕には到底、少なくとも後者の部分は主観的には難しいかもしれない。ごめんなさい。でも、お母さんやおばあちゃんたちが生きている間は僕はなるべく恩を返したい。そうなれるように努力してみるよ。
何ができるだろうか。こんなどうしようもない人間に何が出来るんだろうか。それを探すのが生きるということなら、僕にはとても難しい。
「死にたい」と希死念慮をもつひとたちを理解できないという人がいる。そして自殺は絶対悪だと言う人がいる。うちの兄はそうで、実際に自殺をした同僚の葬儀に出席し、泣き崩れる母の姿を見てそう思ったみたいだ。僕の母もまたそれには賛同しているようだった。むしろ僕がそのことを、それだけがすべてではないと言った時に、ものすごい反発を受けてそれ以上は僕も何も言えなかった。母が言った、「自殺してそのあと取り残された人に対して想う気持ちはあんたにはないの?」という言葉に対して、なんと言っても屁理屈になりそうで、伝えられなさそうで、何も言えなかったのだが。僕の中でこういうものの考え方は正直決着をつけたり答えを求めるのはあまり必要だとは思っていないからかもしれない。だからこそ、それを否定する人にたいして、もっと弛緩してと訴えるのもこの件においては難しいことも分かっている。だが、敢えて考えるなら、僕は死にたいと思って自殺をする人に対して想う気持ちも持ってほしいと思った。それは自分がそっち側の人間だからということかもしれない。あるいはまだ他人事で想像の域を出ていないからかもしれない。だが、どうか、自殺した息子に取り残された遺族に対して同情と憐憫の念を持ち、ともに泣き、想像することができるのなら、自殺した本人のことも想像してほしい。何故やめる。なぜみんなそこで思考をやめてしまうのか。いや、そうやってストップをどこかで価値観によって歯止めを聞かせなければ際限がないという不安は分かる。だから人は決めたがる。答えを見つけたがる。だが、それもいいとしても、ただそれはそれとして、そうじゃない、もっと想像をしてほしい。思考をしてほしい。毎日のように流れる死亡者のニュースも、想像も出来ないような場所で起こる悲惨な実態を、綺麗に見えるものの側面を。もっとよく想像してほしい。そしてどうか決めつけないでほしい。そうしたうえで答えが見つかったと思えばそれは運のいいことかもしれないし、悪いことかもしれない。何故ならそれを証明することが恐らく叶わないからだ。自分という人間の人生で正当化してもそれは答えと思っている本人とってしか答えにはならないからだ。
思うに人生はやっぱり苦しむことだと思った。それは僕にとっての人生の形で恐らくこれからも昔から抱いてきたようにこの印象は変わらないと思う。どんなに幸運で、幸福で、満たされたと感じてもそれは、一時のものでまたすぐに欲しくなるのが人間だと思っているからだ。結局のところ僕は任げがよく分からないのだ。僕は僕という一人の人間を通してしか人間を語ることはできない。そしてこれは先入観とも価値観ともいってこれは絶対的に取り払うことの出来ない壁だと思っている。一方でこう生きることを運命づけられているという粋な言い方もできるだろうか。つまり、いくら推論をかざしたところで無駄に終わる可能性の方が高いのだ。この手の考えは特にそうだ。企業の会計監査のように正確さを求めるような類ではない。
だからある程度僕は僕として生きていくことを開き直って、仕方ないにしても認めていかなくてはいけない。僕が僕と言う人間の醜さから世界の醜さを見出すような愚かな人間であっても、僕は己を巣食う愚かな人間を自らが救ってやり、時には救われる覚悟も持たくてはいけない。決して足元をすくわれないように。
初めから愚かな人間だからこそ、僕はこう愚かなことを考えているのだと認めてやるのだ。
セカイだとかタシャだとか、ほかのものに何かを求めることははなからやめて、自分が愚か者だということを認めて、いっそ認めず自分だけを頼りに生きたっていい。
生きれれば何よりではないのだろうか。もし、生きれるならそれは何よりだろう。そう言い聞かせていくしかないのだから。僕らには生きていくしか道は残されていないのだから。そうだろう。そうだろう。
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Ⅰ
幼稚園児の頃。横浜のデパートで両親とはぐれて迷子になった時、黒ギャルに助けてもらった。
黒ギャルは泣いてる俺の手を引いて、お客様案内所まで連れて行ってくれた。
両親が迎えに来るまでの間、黒ギャルが俺の隣に座って一緒に待ってくれた。
黒ギャルは俺にノートとペンを貸してくれた。俺はそれに絵を描いた。
黒ギャルがその絵をやたらと褒めるもんだから、俺はうれしくなって、すっかり泣き止んで、得意気に絵の解説をした。
別れ際に黒ギャルが俺の頭を撫でた。とてもいい香りがしたのをはっきりおぼえてる。ココナッツオイルの匂いだったのかな。
Ⅱ
11年飼ってた猫が行方不明になったり、父親の会社が傾いたり、いろんな不幸が重なって、最低な時期だった。受験勉強なんて一切してなかった。
あまりに金が無かったから、短期のアルバイトをすることにした。夏だった。高田馬場でチラシ配り。資格の専門学校のチラシだった。
現地で学校の職員と待ち合わせて、ペアで仕事をするんだけど、そこに現れた職員が黒ギャルだった。一応スーツは着てたけど、どう見ても黒ギャル。学校の職員なのに黒ギャル。意外過ぎた。
もっと意外なことに、黒ギャルは始業後すぐに郵便局に行って、大量のチラシを自分の家に郵送してしまった。
そのまま黒ギャルが運転する社用車で湘南の海に行った。黒ギャルは私服に着替えた。ふたりで浜辺にビニールシートを敷いて、寝転がりながらいろんな話をした。
あの日は一体何だったんだろう。思い返すと、まるで現実感が無い。
もちろん黒ギャルがやったことは最低だ。それに従った俺も同罪。そんなことはわかってる。でも、めちゃくちゃ楽しかった。どん底の時期だったけど、すごく気分が上がった。
翌日からは猪瀬直樹みたいな不機嫌そうな顔の職員に見張られながら、炎天下、ひたすらチラシを配った。地獄だった。
黒ギャルとは二度と会えなかった。あんな調子だったから、とっくにクビになってるかも。いや、意外とうまくやってるのかな。
俺はあの日を境に真面目に受験勉強をするようになった。大学生になれば、もっと楽しいことがたくさんありそうな気がしたのだ。あの黒ギャルは俺にとって希望の象徴だった。とにかく輝いて見えたのだ。やってることは最低だったけど。
Ⅲ
これはけっこう最近の話。どうにか大学生になった俺はネットカフェでバイトしてるんだけど、うちの店、夜勤はワンオペなんだ。
狭い店だから普段はひとりで充分なんだけど、その日は急に体調が悪くなり、窮地に陥った。
まともに立ってられないほどつらかった。午前3時過ぎ。真夜中だ。代わってくれるスタッフもいない。
吐き気はするし、なんだか視界も歪んできた。頭が割れそうに痛い。これ、なんかヤバイ病気なんじゃねえか?
やっぱり誰か呼ぼう。それしかない。そんなことをぼんやり考えながらカウンターでしゃがみこんでたら、客が来た。
黒ギャルだった。たまに来る客だ。たぶん近くのガールズバーに勤めてるんだと思う。仕事終わりに店に寄り、始発を待って帰ってるんじゃないかな。
俺はこの黒ギャルが苦手だった。いつも不機嫌そうだし、金の払い方も乱暴。たまにめちゃくちゃイカツイ男と一緒に来ることもあって、単純に恐いというのもあった。
でもその日の黒ギャルはいつもと違った。俺を見るなり「なんか顔色やばくない?」と話しかけてきたのだ。それまで会話なんてしたことなかったのに。
「いやあ、かなり具合悪くて」と俺が言うと「休んだ方がいいよ」と心配してくれた。
代わりのスタッフがいないからどうすることもできない、俺は黒ギャルにそう説明した。
そしたら黒ギャルが言ったんだ。
「私が店番しようか?」
一瞬、耳を疑った。何を言ってるんだ。冗談にもほどがある。でも、黒ギャルは真顔だった。どうやら本気みたいだ。恥ずかしいけど、ちょっと泣きそうになった。
とはいえ、バレたら一発でクビだ。カウンターの様子は防犯カメラに録画されてる。万が一、店長にチェックされたら終わり。
「体調が悪かったので、お客さんにレジを代わってもらいました」
でも俺はあまりにしんどくて、朦朧としていて、まともな判断力を失ってた。
われながらどうかしてたとしか思えないんだけど、俺は黒ギャルに店番を代わってもらった。つらすぎて半ばやけくそになってたのかもしれない。とにかく少しでも横になりたかった。
俺は黒ギャルにレジの操作を説明して、入店と退店のやり方を教えて、空いてるフラットルームで寝かせてもらった。
それから朝まで、黒ギャルが店番をしてくれた。平日の深夜だから客の動きなんてほとんど無かったけど、それでもありがたかった。三時間ぐらい寝たら、頭痛も吐き気も治まった。
俺は黒ギャルに何度も礼を言い、どうして助けてくれたのかたずねた。なんか死にそうな顔してたし、この店よく使うし。黒ギャルはそう言って笑った。
黒ギャルが帰って、交代のスタッフが来て、俺は退勤後すぐに病院へ行った。ただの風邪だった。
後日、知人にこの話をしたら、窃盗のリスクを考えた方がいいと言われた。それは大丈夫と俺は応えた。根拠は無いんだけど。
とりあえず黒ギャルに何かお礼がしたいんだけど、あれからいちども店に来ない。
拙者新卒、就職活動を行っているでござる。はっきり申してまったくうまくいっていないでござる。
書類で落ちるの巻、ESは選考に進むも面接になるとからきしの巻、そもそもまるきりテストができないの巻と
日々精進しているつもりであったが、ついに心が折れてしまったみたいでござる。
なにもうまくゆかない、一般的な新卒忍者のように立ち回れないそんな毎日が続いているせいで
今月に入ってからというもの生活も就活もなにも手につかず、ただただパソコンの画面を何もせずぼんやりと眺めたり
床に寝てみたりするばかりの毎日をおくっているでござる。
これでは両親に見せる顔もないため里にも帰れず、友人忍者にみせる立場もなくただただ情けないでござる。
こんな状態な拙者はどうしたらいいでござるか、情けなくて崖から身を投げたい気分でござる。
ニンニン
お婆ちゃんが突然寝たきりになった。
もともと軽度の認知症、歩行器ありで何とか1人で歩けるレベルで、デイサービスにも通えていた。
それがある日突然、関節の痛みで全く動けなくなり入院。そうしたら入院してたった2日で、ほぼ寝たきり状態の別人のようになってしまった。
目は虚ろで生気がなく、ぽかんとした顔で焦点も定まらない。話しかけても以前の半分も理解できず、年齢も答えられない。
自力で起き上がれないし、何より意欲がない。意思疎通もぐっと難しくなっている。常にぼんやりしていて、眠っている時間がとても多い。排泄も紙パンツからおしめになった。
要支援2から一気に要介護4くらいになった様子で、その変わりように私はただただショックを受けた。
私と母のことは分かるようで、また見舞いに来るよと言うとウンウンと頷く。手を握る。確かに私のお婆ちゃんなんだけど、目の前にいるお婆ちゃんは以前亡くなる少し前に見舞ったひいお婆ちゃんの風貌にとても似ていた。
私は手を握られたところで色々な感情が込み上げて来て、一気に涙が込み上げてきたが笑って何とか誤魔化した。
きっともうすぐ在宅介護が始まる。でもほんの数日前までとは変わり果ててしまったお婆ちゃんの姿を、その老いを、私はまだ受け入れられずにいる。
たぶん、ここ数十年で幾度となく繰り返されてきたであろう話題。そして、これからも何度となく同じ話をして行くであろう話題。だけど、この先に幾星霜の年月を重ねようとも、決して人類が回答を得ることはかなわないであろう話題。
「このような増田を書く際には適度な自分語りが必要である」との先人の教えに倣い、私も自身の人生を少し顧みる。
とは言え、特にこれといって語れるような、起承転結、栄枯盛衰の激しいエピソードはない。期待に沿えず申し訳ない。
私は、凡庸な働き者である両親の下に産まれ、大学まですべて可もなく不可もなしと言ったレベルの国公立で通し、東証一部ではないが倒産寸前でもないと言ったどこにでもある企業に就職し、今に至る。要は平和を謳歌していたわけで、「幸せかどうか」という尺度で測れば、私は十二分に幸せなのだろうと思う。
先日、同級生の友人らと一席設ける機会があった。私の交友範囲は、狭いようでいて結構広い、まあ所謂「普通」の範囲内だ。私ほどの年齢になると、このような場でだいたい出てくる話題と言えば、増田諸氏にもお馴染みの「子供の話」である。
子供の習い事は何がいいか、今どきは中学受験をさせるべきか、保育園になかなか受からない、・・・語らいの場を彩るには事欠かない。
私自身は独り身だが、そう言う話題は端的に言えば好きである。同級生の、愚痴のような自慢のような我が子の話を聞くのも好きだし、独りやもめが一丁前に進言することも吝かではない。
だが、そう言う話題をしていると避けて通れないのが「増田は結婚しないの?」「増田の子供、見てみたいよ」等の友人の無邪気な言動である。
もう何度となく聞かれたので回答が半ばトークスクリプト化しているが、私自身は結婚する気が全くない。子供を作る気もない。
友人らの結婚式に持参した祝儀袋は50枚ではきかないし、友人らの華燭の典の末席に私の椅子を加えてもらえるのは悪くない。幸せのおすそ分けがあった数年後に、友人らの間に生まれた新しい命に触れる栄誉に浴した機会も両手両足では足りないだろう。
そんな友人達の子供の相手をするのも、また楽しい。先日も友人宅で友人の子供たちとゲームで盛り上がった。そういった私の姿を見てきている友人達はいつも怪訝そうな顔をして、お決まりの言葉を投げかけてくる。
しかし、残念ながらそんな姿を友人たちに見せる機会は、永遠に実現する事はないだろう。なんだかこちらが申し訳なくなってくるが、こればかりはどうしようもない。
結婚出産をしない事の仔細については伏せさせていただくが、私自身はLGBTという訳でもないし、病気等によって子供が作れない身体という訳でもない。過去に交際した異性がいない訳でもないが、結婚するというビジョンは当初から皆無だった。
・・・さて、長々と私の宴席話を綴ってしまったが、ここまでが枕詞である。以下より表題の件となる。
最近発生したとある些事によって、私は自身の今後の人生を考える機会を得た。それは老後の事であったり、貯蓄の事であったり、人間関係の事であったりする。
不思議と不安はない。「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」と言ったのは太宰だったか芥川だったか。或いは川端だったかも知れない。
老後を一人で支えていく貯蓄は作れる。今現在のところは十分な資産が無い為「ある」とは胸を張って言えないが、仮に70歳定年制度が導入されようとも、食べていけるだけの資産を形成するだけの資力はあるものと自負している。
加齢による孤独との付き合いも、それなりにこなしていくつもりだ。とは言え、老境に達した事もない若輩が悟ったような事を口にするのも軽々しい。鋭意努めるといった表現に留めておこう。
そのような事を独りごちること数日、ようやっと私は「自身に生きている理由がない」と言う平々凡々な結論に至った。
却説そうなると困ってしまう。理由もないのに生きていくには、あと数十年という年月は些か長すぎる。排泄物を生産する装置として延々と過ごしていくには動機づけが心許ない。
人生に対しての意味を考えるのは、数多く存在する宗教という団体が約二千年ほど前から継続して取り組んでいるようだ。詳しくは知らない。
彼の団体が世に出している成果物を拝見したこともあるが、私には意味を見出すだけのものはなかった。
理由も無い、意味もない。そうなると次の段階として「可及的速やかに、かつ周囲の迷惑を最小限にとどめる形で自殺する方法を考察する」ということになるが、私にはそれを実行するだけの胆力が備わっていなかったようである。自ら命を絶つという行動を想像するとき、自身の玉袋が萎びていく感覚が如実にそれを証明している。
安田講堂で演説をぶった後に割腹して果てたのは誰だったか。筋骨隆々とした当時の写真を見るに、グラビアモデルか何を生業としていた人だと推察しているが、どうだろうか。職業はともかく、その胆の据わりようはまさに驚嘆に値するが、私には到底真似のできない所業である。
理由も無く、勇気も無い。理想も無かった。願望もこれといって無かった。意味のある無しは私自身が決定するものではない。後世の人間が理由付けしたものが意味だ。
かと言って「無い」状態を維持していくのも据わりが悪い。回答でも解答でも一向に構わないのであるが、「ある」状態にしたい。ふとそう思い至って有休申請をしたのが昨日の午後、目の前のキーボードを叩いては嘆息する作業に飽きてきたのがつい先ほどの話だ。
先人の知恵を生かす事こそが人類であり、その事を辞書で引くと即ち「英知」である。ならば私も人類の英知の恩恵に与ろうと「はてな匿名ダイアリー」なるサイトの中に設置されている検索窓で「人生 理由」と入力してENTERキーを叩いたところ、検索結果は0件だった。平日の昼間から「人生 理由」や「人生 意味」といったワードで検索をかけている中年男性という絵面も大変に珍妙ではあるのだが、ここで膝を折るわけにもいかない。
Google検索で「人生、宇宙、すべての答え」で検索すると「42」という解が得られるというのは割合に有名な話ではあるが、できれば証明過程のほうも見せていただきたいので、「人生 理由」や「人生 意味」などのワードでGoogle検索をかけても、有象無象が多くて選り分けるのに四苦八苦しているうちに時間だけが過ぎ去っていく。回顧するに到底建設的な所作とは言えない。
※ちなみに、「人生 理由 anond」等とGoogle検索すると、先人への英知に到達する作業が捗ったという事実も申し添えておく。
・・・結局、特段の進歩もなく、たまっていた有休を消化して終わるだけの一日となりそうだが、髪の毛一本分、まさに寸毫ほどの厚さだけでも遺物があれば、後進増田諸氏の灯台となり得る可能性はあると考えた。
可能性に賭けることは好きではない。そもそも賭け事が嫌いだ。だが、この愚かな人間がしたためた理由も意味もない駄文が、誰かにとっての灯火となれば幸甚である。
大海原の中のマッチ一本分にも満たない、本当に小さな灯り火であるが。
ここまでお付き合い頂き、かつ増田諸氏の人生の貴重な時間をも少々頂けた事に深謝する。増田諸氏の人生に幸多からん事を祈念して、ここで筆をおく。
とりあえずWindowsから培ってきたマルチタスク癖で精神的に死ぬというものの恨み節は置いておくとして、10年ぶり2回目の体験である金縛りの詳細は軽躁状態であるうちに記載しておこう。
10年前はあんまり公にしたくないオイタをしでかしてしまい非常に頭がハイテンションになりすぎ脳が疲弊してしまったあとに金縛りが起きたわけです。ベッドで目が覚めると全く体が動かない、そうすると凶器を持った人間が玄関側からのっそりとやってくる。おれは動けない。恐怖が絶頂に達したときにわっと起き上がる。部屋にはは何もない、誰もいない。ただのマンションの一室がある。
研究で解明されているようなのだが、金縛りというのは非常にリアリティのある夢を見ている状態らしい。自分の部屋で寝ており、そこで動けないという現実を脳が作り出しているに過ぎないということ。だから実際は起きて動けていないわけではなく、浅く眠り続けたまま現実をトレースした夢を見ているだけらしい。そんなのは当人にとって知ったことではないけど。
今年起きた理由は、普段やっている仕事の範疇とは大きくかけ離れたテンションを上げざるを得ない作業に従事を命じられたためだった。別に嫌ではなかったが、仕事を終えたあとは憔悴しきっていたものの、それとは別の企画書を一気に作るくらいのテンションで作業をしてしまった。
今回はそれほど大きなクライシスが起こったわけではないのだが、10年もの年令を重ねたこともあり自分の限界を超えたテンションに身を包まれ眠れなくなり、無理やりアルコールで寝たことが最大の原因だと思われる。また、朝の起き抜けに神経痛を穏やかにする鎮痛剤を飲んでふわふわしたことも大きい。
朝6時半頃起床。家を出るのは8時半頃。7時までにシャワーを浴びて換気のために窓を開ける。胃の調子が悪いので野菜ジュースのみの朝食。その後、頚椎ヘルニアの痛みを抑える神経痛の薬を飲む。出勤まで時間が少しあるので布団で横になりながらスマートフォンでネットニュースを読む。痛み止めのせいでぼんやりとしており眠るか眠らないかの浅い睡眠状態でいきなり幻聴が始まる。
NHKのラジオを想像してもらえればいいのだけど、あの淡々としたニュースの語りが突然頭の後ろから聞こえ始める。もちろんラジオなんてつけていないから、それは幻聴だとすぐに分かる。しかも、日本語であると認識できているにも関わらず内容の理解は全くできない。何かしらの言語を喋る、聞き覚えのある声が頭の後ろからAMラジオの音質で聞こえてくる。あーこれは幻聴だ。体も動かないし完全に金縛りだ。一度経験はあるのでそれはわかる。どうせ大したことはないし目が覚めればそれまでだろうと思っていたのだが、突然首や胸に見覚えの痛みが走る。シェアハウスに住んでいたとき、猫に噛まれた同様の痛みがチクッとする。見えない猫がおれを襲っている。大した痛みはない。大したことはないがそれはそれで。あれ。
その直後に誰かが体をまさぐり始める。腹を、胸を、手のひらが性欲を掻き立てるように優しくなでつける。気持ち悪い。はじめは交際相手かとも思ったが、こういうことをする人間ではない。痛みは何もないが見えない人間と見えない猫がおれを噛み、まさぐっている。
感じたことのない恐怖が浮かび上がる。おれの体を犯そうとするやつが居る。
10年前の金縛りも、殺人への恐怖が布団をはねのける動力源だった。
体をまさぐられながら吐息のような唸り声を聞いた瞬間、布団をめくり上げて初めて金縛りから解き放たれる。
金縛りに合いながら同時に聞こえていた音が聞こえる。道を走る車の音、冷蔵庫の駆動音。布団の感触がする。毛玉でざらついたシーツの感触。自分の臭がする枕。
明確に死をもたらしに来た殺人鬼の妄想から10年、何故か反抗するペットやいやらしく体をまさぐる何かの手が脳に宿っていた。わかりやすくおれは快楽を求めているのか、それとも人間に対する意識が変容しているのかはわからないんだけど、とりあえず知らない人間に体をベタベタ触られるのは怖いよ! 痴漢も痴女もだめ! マジで気持ち悪いからやめろ! 男だって怖いからな、変な人間にベタベタ触られるの!
そんなことを今回の金縛りで思いました。
私はそんなに深刻なうつ病ではないが、いつだって「あー死にたいな」とマイルドに感じながら生きている。
ときどき口に出して「死にてぇ〜」と口癖のように言ってしまう。
辛いことがなくても、仮に嬉しいことがあっても死にたいという気分が消えることはない。
実はこどももいるが、抱っこをして「かわいいなあ」と思っても、それとは関係なく「あー死にたいな」と思ってしまう。
それは自殺未遂をするという激しいものではなくてただ自然な欲求としてある。
たとえるなら、三大欲求のひとつに死にたい欲があるという感じだ。
あまり健全ではないとわかっている。ただ、どうすれば死にたいと考えずにいられるのかわからない。(薬は飲んでいる)
思い返せば小学生の頃からぼんやりと「死にたいな」と思いながら生きてきた。
先日、会社がつらくて転職をした。労働時間も減り、やりがいもあり成功した転職だと思うが、やっぱり死にたいというおだやかな考えは日々ついて回り続ける。
60歳とかで処女のまま死ぬ人だって100年前から普通にいたわけでそういう科学的に処女と言わざるを得ないのに童貞の好きな処女から無言ではぶかれて寂しくなる人のことも考えてください。
多様化を認めるなら多種多様な「○○な処女しか好きじゃない」をまとめて「処女好き」って称するの「女好き」「金持ち好き」っていうのと同じくらい意味ないことに気付こう。
気づいていてしかるべき大主語を気付かずわざわざ口に出すってことは、ぼんやりとした処女イメージへのあこがれ(うらがえせば処女でありながら60とか不細工とか耳年増などイメージ外処女なら嫌いというダブスタのおしつけ)しか表出してないわけで、自動的に、現実みろよ、って叩かれる。
「自分と同程度かそれ以下の性知識しかない処女が好き」これならまあ良いけどなんかロリくせえしそうでなくてもセクハラがしたいだけにも見える。ここのメインユーザー層30代男性なんだよな。年下狙いすぎて犯罪くさい。
「自分高校生ですが自分と同年齢かそれ以下の清潔そうな女性が好き」これならまあ言い換えとしてはベストかも。じゃあなんでそれを省略して処女好きっていっちゃ悪いかっていうと現実世界で女子高校生にあなた処女ですかってきける男子高校生はたぶんいない(先生にぶっとばされる)。ネットで匿名で構ってちゃんしてる男子高校生なんてどうかまってもゴネるだけじゃん。
http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AD%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA
処女好きとかいって許されるの○○生までだとおもうよ。まあ現実みろってこった。青少年育成法条例違反な。児ポ法もあるし。
http://www.royalnaught.com/entry/virgin-japan
なおこの文章で処女は目的語だがとかいいだすやつは「主語がでかすぎる」といいながら目的語をあげつらう事件が多発したため「主語がでかすぎ」だけで集団の定義がおかしい場合を指すジャーゴンとして扱えるのだと理解しておいてくれ。