ところどころフェイクを入れる。だいぶ長い。
すごく綺麗で"大人の女性"という雰囲気があり、いつも颯爽としていてかっこよく、紫の光沢を帯びたヒールが似合っている人だった。3年ほどお世話になった。もう6~7年ほど会っていない。
私は慕っていたけど、その空白期間に彼女に連絡する気はなかった。というのも、最後に私がちゃんと挨拶しないまま彼女がどこかへ行ってしまったので、やや気まずい雰囲気で終わった経緯があるからだ。
ある日なんとはなしに彼女の名前で検索したところ、彼女の本名ブログを見つけて驚いた。独立して仕事をしていることが容易にわかった。私が慕っていた頃とあまり変わらない様子でやっていることがわかった。
「びっくりしたなんて嘘でしょう。本当は傷ついて、怒っているんでしょう?自分の感情と向き合おうよ。」
感激していた。自分が慕うきっかけになった人生訓時を、書いてくれている。コメントもブクマも一切しなかったが、わりに彼女のブログを覗いていた方だったと思う。
しかし私もただ彼女の人生訓時を読んでいたわけではない。そこに2つの感情を抱いていた。
まず、彼女が独立をして仕事をしていることに嫉妬を覚えていた。年齢差があるとはいえ、(私から見た限り)本人の特性に合ったことで働く彼女に、憧れや羨望以上に焦りがあったのだと思う。
そして同時に疑問の感情も湧いていた。「これでどうやって稼いで、生計を立てているのだ?」、と。
ブログを読む限り集客モデルはおろか、ビジネスモデルとして成り立っていないと正直思った。仕事の詳細は触れないが、言ってしまえば『綺麗な言葉を並べて、詐欺まがいに近い』と思っていた。コンサルタントというと言葉の響きはいいかもしれないが、一歩間違えば紛れもなくフリーターだった。彼女は学歴も職歴も不確かな人間なのだ。
そして彼女の精神面に寄り添って更に言うと、「これは彼女ではないのでは」とも感じた。言葉が綺麗でポジティブになりすぎていたのである。
彼女はどちらかといえば、ネガティブな人間臭さのある人で、けして綺麗な言葉ばかりを言う人ではなかった。
彼女が今までとは違う生き方を真に選んで生きていきたいなら、第三者の私は口出しをすべきではないだろう。
しかしそれも踏まえた上であえて書くと、「でも彼女は、そうしたポジティブな考え方を続けることができない人だ」と、直感が言っていた。
これは経験的な勘なのでこれ以上は説明できないが、私の感性はそのように告げていた。
そんな気持ちがますますふくらむころ、前触れもなく彼女のブログ更新は止まった。
彼女の近況が知れなくなったのは寂しくもあったが、「もしかしていい人でも見つけて、結婚でもしたのかな」とぼんやり考えていた。
たまに彼女の名前で検索して、やや胡散臭い文章で止まったままのブログを読みに行っていた。
しかしあるときいつもの検索ページ上位に、違う結果が表示された。
そのページを眺めたら、よくわからないイベントの主催者として表示されていたのだ。
「ああ、胡散臭いな」と思った。そう思わせるイベントだったのである。
苗字も変わっていないので結婚はしていないのだろう。そんなことを知った。
彼女の新しいブログができていた。しかし、仕事内容とは関係がないように思えた。
"何か"をエントリーしたようだったが、すでに公開を取り下げたようだった。
それからまた、転機が訪れる。彼女が更に新しく作ったブログの、最新エントリが表示された。
その記事は1日前に更新されたようだったが、やはりすでに公開取り下げをしていた。
けれどタイミングよく私はそのエントリのキャッシュを得ることができ"てしまっ"た。
そのブログはとても長い内容だった。
その書き下しで始まったのだが、本当にそれは"自己紹介"だった。
彼女の本名・生年月日・血液型から始まり、何に興味を持っているのか、何に興味を持たないのか、彼女はどんな人なのか。それはとても詳細に書かれていた。
「これは紛れもなく彼女だ。」、そんな気持ちを得たのに、文字を追うにつれて不安感が募ってきた。
・社交性が低いのではなく、社交に興味がないのかもしれない。
・うわべだけの会話が苦手。社交辞令も苦手。
・本当でないものが、嫌い。
こんな感じの、箇条書きが続いた。
そしてこう続く。
・生きる理由がわからないけど、死ぬ理由もないから、とりあえず生きている。
読んでいて、どんどん辛くなってきた。
ある友人から、「あなたは自分自身の面倒臭い部分を見つめて、それと向き合って生きていける人」と言われたエピソードが本当に嬉しかったこと。
彼女が、いかに面倒な彼女自身の人間性とどのように付き合っていくか、その哲学に人生の半分を費やしたこと。彼女が今までにどのように行動を起こしたのかということ。
いっときは変わったとも思っていたが、周りの人から「素敵な人だ」「やさしい」といった言葉を受けるたびに、内面の彼女と外面の彼女とが乖離している気持ちを受けたこと。
"自分はいかに愛されキャラポジションとは真逆で、いかに他人と付き合いにくいキャラか。客観的に自分を見て、自分と友達になりたいかと言われたら、沈黙を選ぶ。けど、そんな自分も悪くないと思っている。"
そんなことを、ひたすら綴って終わっていた。
「これが、こじらせの末路か。」
そんなことを思った。
ほとんどの人は、うわべだけの付き合いなんて望んでいないだろう。
「社交辞令は嫌い。本物の言葉が欲しい。」と彼女は言うが、彼女は他者の仮面を剥ぎ取るような努力を真に続けたのだろうか。
ほとんどの人が、いろいろな人間関係に揉まれて、切磋琢磨して、心が安らぐ人との真に揺るがない信頼や親愛を勝ち得るのである。
「こんなに面倒臭い私だが、こんな私であるという唯一事実に降伏して、生きていく。」
「こんな面倒な私だが、まんざらでもない。」
結びの言葉に、「ああ、この人は一人で生きていくしかないな」と素直に感じた。
自分の不完全を認めた上で、それを他者に補完してもらうことで、人と人は共生できる。
もちろん社会が多様化した結果、自分一人で生きていける人もいるだろう。しかし、多くの人間がそうであれば、社会は成り立たない。
自分の不完全さを自分一人で完全に受け入れて、自分を愛しては生きていけないのだ。特に、彼女のような人は。
(あるいは、彼女のような人こそ、一人で生きるべきなのかもしれない。)