2017-06-30

なんとなく死にたいのわけ

なんで死にたいなんて思うんだろう。一人夜中にポツンと何もない自室で椅子に座ってぼんやりとしている時、朝目覚めて外に出るまでの三十分間等々。どうしてか死にたいと思う。どうしてかなんて言っているけれど本当はその原因が分かっているような気もしていて、それでも夢みたいになんだかぼんやりとしていて時間が経てば晴天で、低気圧がやってくればまた雨が降ってそんなことを考えての繰り返し。本当はいつも曇りみたいにどんよりしてるけど、何だか仮面を被っていろんな風に頑張ってる。そういう生きづらさがあるのかな。きっとそうだ。

どうして死にたいんだろう。世の中には恵まれているのに死にたいと感じる人が多い。日本では特にそういう人が多いと聞くけど、どうしてだろう。何が不満なんだろう。何が怖いんだろう。何をしたくないんだろう。きっと何かを拒んでいるけど、それを受け入れないといけない環境にいて、そして誰もその気持ちを汲んではくれないんだろう。そして苦しい。認めてもらえない苦しさ。分ってもらう前に順応を指示される暗黙の日本典型的な善と悪と英雄を作り上げてそれを祭り上げる世界。そしてそれを自分のみならず他者に望む世界。そういう望みあいに疲れてしまったのかもしれない。往々にして人に対して感じる不満は自分への不満だったりする。人に対しての希望もまた自分への希望で。人はそうして互いに自分押し付けあって、押し売りして生きていかなくちゃいけない。それは特に日本では共通認識常識のように何か目に見えない糸でもあるのか、なにか集団的に抱いている希望のようなものがある。それが古き良きと称される至言たるものなのかは分からないが、そこに違和を感じた人間は生きづらい。この際何も正しくなくて何も間違ってないと言えれば、堂々と言えればいいのに。何も区別などしなくて、徳のあるなし、善と悪、あるべき姿あってはならない姿、対立軸なんてなければいいのに。せめてそれを共通の何かではっきりと示すのならそれは法律でもうお腹いっぱいだ。

何だか時々ここにいると具合が悪くなる時がある。ひどく自分が醜く、他が美しく、そこに向かって努力する美徳が目の前にいつもちらついているような、そんな世界他者から映しだされ垣間見るとき、すごく気分が悪くなり、悲しいようなやるせないような、とてもとても深い深い気持ちになる。

そういう時決まって、久しぶりにつけたテレビニュースで、なんてことのない交通事故ニュースを見て、「すごい。」と車の衝突による損壊状況に驚く父のわきで、なんだか画面に目を向けるのが苦しくなって、右耳から入ってくる死亡という文字何だか視線を変に泳がせながら僕はご飯を食べていて、何だかそんなよくある話を急に想像してみたりして、胸の奥がぎゅっと縮んで苦しくなる。いつもロボットみたいに淡々としているくせに。

結局のところ何を置いて生きていけばいいのか僕は分からないのだ。だからはいつも当たり障りのない生き方を演じている内に、いつのまにか体のいたるところがオートマチックへと化して、そして最後には正真正銘のロボットになる。

この先の途方もなく長い人生のことを考えると頭が痛くなる。運の悪いことに100歳まで生きてしまったらどうしようか。あと80年も生きなくてはいけないではないか。少なくとも長寿は全く持って僕に健康的じゃない。どうやって人生をやり過ごしていこうかと考えてしまう。

ただ僕にはまだ家族がいて、この世に存命している。そして僕はいつかその恩を返したいが、どう返せばいいだろうか。母や祖母は「あなたが自立して幸せ暮らしてくれればいい」と言ってくれるが、僕には到底、少なくとも後者の部分は主観的には難しいかもしれない。ごめんなさい。でも、お母さんやおばあちゃんたちが生きている間は僕はなるべく恩を返したい。そうなれるように努力してみるよ。

何ができるだろうか。こんなどうしようもない人間に何が出来るんだろうか。それを探すのが生きるということなら、僕にはとても難しい。

死にたい」と希死念慮もつひとたちを理解できないという人がいる。そして自殺絶対悪だと言う人がいる。うちの兄はそうで、実際に自殺をした同僚の葬儀に出席し、泣き崩れる母の姿を見てそう思ったみたいだ。僕の母もまたそれには賛同しているようだった。むしろ僕がそのことを、それだけがすべてではないと言った時に、ものすごい反発を受けてそれ以上は僕も何も言えなかった。母が言った、「自殺してそのあと取り残された人に対して想う気持ちあんたにはないの?」という言葉に対して、なんと言っても屁理屈になりそうで、伝えられなさそうで、何も言えなかったのだが。僕の中でこういうものの考え方は正直決着をつけたり答えを求めるのはあまり必要だとは思っていないからかもしれない。だからこそ、それを否定する人にたいして、もっと弛緩してと訴えるのもこの件においては難しいことも分かっている。だが、敢えて考えるなら、僕は死にたいと思って自殺をする人に対して想う気持ちも持ってほしいと思った。それは自分がそっち側の人間からということかもしれない。あるいはまだ他人事想像の域を出ていないからかもしれない。だが、どうか、自殺した息子に取り残された遺族に対して同情と憐憫の念を持ち、ともに泣き、想像することができるのなら、自殺した本人のことも想像してほしい。何故やめる。なぜみんなそこで思考をやめてしまうのか。いや、そうやってストップをどこかで価値観によって歯止めを聞かせなければ際限がないという不安は分かる。だから人は決めたがる。答えを見つけたがる。だが、それもいいとしても、ただそれはそれとして、そうじゃない、もっと想像をしてほしい。思考をしてほしい。毎日のように流れる死亡者ニュースも、想像も出来ないような場所で起こる悲惨実態を、綺麗に見えるものの側面を。もっとよく想像してほしい。そしてどうか決めつけないでほしい。そうしたうえで答えが見つかったと思えばそれは運のいいことかもしれないし、悪いことかもしれない。何故ならそれを証明することが恐らく叶わないからだ。自分という人間人生正当化してもそれは答えと思っている本人とってしか答えにはならないからだ。

思うに人生はやっぱり苦しむことだと思った。それは僕にとっての人生の形で恐らくこれからも昔から抱いてきたようにこの印象は変わらないと思う。どんなに幸運で、幸福で、満たされたと感じてもそれは、一時のものでまたすぐに欲しくなるのが人間だと思っているからだ。結局のところ僕は任げがよく分からないのだ。僕は僕という一人の人間を通してしか人間を語ることはできない。そしてこれは先入観とも価値観ともいってこれは絶対的に取り払うことの出来ない壁だと思っている。一方でこう生きることを運命づけられているという粋な言い方もできるだろうか。つまりいくら推論をかざしたところで無駄に終わる可能性の方が高いのだ。この手の考えは特にそうだ。企業会計監査のように正確さを求めるような類ではない。

からある程度僕は僕として生きていくことを開き直って、仕方ないにしても認めていかなくてはいけない。僕が僕と言う人間の醜さから世界の醜さを見出すような愚かな人間であっても、僕は己を巣食う愚かな人間を自らが救ってやり、時には救われる覚悟も持たくてはいけない。決して足元をすくわれないように。

初めから愚かな人間からこそ、僕はこう愚かなことを考えているのだと認めてやるのだ。

セカイだとかタシャだとか、ほかのものに何かを求めることははなからやめて、自分愚か者だということを認めて、いっそ認めず自分だけを頼りに生きたっていい。

生きれれば何よりではないのだろうか。もし、生きれるならそれは何よりだろう。そう言い聞かせていくしかないのだから。僕らには生きていくしか道は残されていないのだから。そうだろう。そうだろう。

僕らは生憎生きることを許された身分で、愚か者であっても決して罪人ではないのだ。だから、。

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