はてなキーワード: 非情とは
えー本日、ガルパン最終章第2話を見たわけですが、なんていうか、これまでガルパンの魅力の一つであったスポ根的な爽やかさ、ジャイアントキリングによるカタルシスといったものが全く無くなってしまった。対戦校が王者である大洗にいかに立ち向かうかという構図になり、最終章以前以後で大洗の立ち位置が完全に入れ替わってしまっているのだ。
まず第2話はBC自由学園との戦いの途中から再開される。BC自由学園の攻撃をなんとか切り抜けた大洗女子学園は、身を潜めるBC自由学園に対して作戦を立てるのだが、それはなんとカモさんチームを犠牲にして同士討ちを誘うという非情な作戦。正直これはかなり引いた。高校生がやる作戦じゃないでしょ…もはや卑怯と言わざるを得ない作戦により、BC自由学園は統制を失い同士討ちの果てに隊長であるマリーが身を挺して争いを止める始末。しかもアニメ的演出とはいえ、アレは一歩間違えたらミンチでしょ…蛸壺屋作品だったら間違いなくマリーは惨死だったな…。閑話休題。ともあれ、体制を立て直したBC自由学園は一矢報いるべく立ち向かう。終盤で士気を上げるべく歌いだすBC自由学園の姿は悲壮感が高まり思わず涙が出そうになった。試合後はノーサイドということで敗者であるBC自由学園が勝者である大洗にスイーツを(なぜか)振る舞うが、あんな卑劣な作戦で負けた後で爽やかにノーサイドってわけにもいかんでしょ…。正直、あのシーンは薄ら寒さがあった。
続いて2回戦の相手は知波単学園。知波単学園は福田の参謀的活躍により目を見張る変化を見せる。前回王者の大洗女子学園に立ち向かう姿は「あれ、これってTV版の大洗vs黒森峰っぽさがあるぞ…」という感じ。知恵を振り絞って戦う知波単学園はまさに勇敢で、判官びいきに拍車がかかる。一方の大洗は泥濘地に知波単学園を誘い込んで上から一網打尽、一斉射撃で完膚なきまでに叩き潰すか、というところで知波単学園が勇気ある撤退を決断し、次回へ続く!というところで第2話が終わった。
うーん、なんだかなぁ。後味悪いんだよな…第2話。大洗が完全に悪役じゃねーか。西住殿はケイさんの名言「ザッツ戦車道!これは戦争じゃない。道を外れたら戦車が泣くでしょ?」を忘れてしまったんでしょうか。王者の意地としてなんとしてでも勝つ、たとえそれが卑怯卑劣であっても絶対に勝つという執念を見せている。まぁいいんだけどさ、ガルパンの魅力ってそこじゃないでしょ。あっと驚く奇襲作戦、息を止めて手に汗握る戦い、圧倒的不利からギリギリの勝利を掴むカタルシス。そういったところにガルパンのエンターテイメントがあったと思うんだよなぁ。各校がそれぞれに成長を見せている中で大洗が見せた「成長」が非情な作戦から対戦相手を徹底的に叩き潰すのだとしたら、あまりにも悲しい。
今後はどうなるんだろうか。いっそこのまま悪辣を貫いて対戦校を蹂躙して無限軌道杯で優勝、ももちゃん先輩は各校の屍を踏みにじってめでたく大学進学めでたしめでたしというほうが清々しいかもしれないな。
追記:
タイトルはややキャッチーなタイトルだが、これは茂木氏に悪意を込めて書いているわけではない。
ここ数年、茂木健一郎氏やネットで話題の天才少年に群がる大人たちに問題点があるので、このエントリーにまとめておこうと思う。
このエントリーを書くきっかけは、自称・少年革命家ゆたぼんを名乗る小学生Youtuber(以下、ゆたぼん)君が話題になったことだ。
彼の動画をいくつか見てみると、案の定、茂木健一郎氏が動画に登場していた。それを見ると、「あぁ〜またやったか・・・あのおっさん・・・」という言葉で表現するには難しい
虚無感に襲われた。なぜ、そう感じたかというと茂木健一郎氏が子供を持て囃すのは今回が初めてではないからだ。
最近では、昔に比べ大人しくなり、軌道修正に成功した感じのあるTehu君だが、彼も茂木健一郎氏の犠牲になった一人だ。
ただ、一時期の彼は彼自身も認めているように調子に乗っていたのも事実である。そして、その原因の全てではないが、茂木健一郎氏も
大きく関わっていると言えるだろう。茂木氏はTehu君を「天才少年」とラベルを貼りまくった。
そして、Tehu君と対談しては未来のスティーブ・ジョブズと言わんばかりに持ち上げた。結果、彼は自分を「天才」と本気で勘違いしてしまい、
不遜な態度をとるようになっていった。そうして、理想のTehu君と現実のTehu君のギャップはどんどん大きくなっていき、彼はネットのおもちゃに
なってしまい、イタイ発言をする意識高い系代表格になってしまった。
何度も書くが、もちろん、本人にも問題があるし、茂木氏だけのせいではない事に加えて、Tehu君を持て囃した人間は他にも数え切れないほどいるからだ。
茂木氏と距離を置くようになった現在は、昔のような不遜な態度や振る舞いは影を潜め、地道にがんばっているようだ。
同じく茂木氏に絶賛された元女子高生社長の椎木里佳についても書こうと思ったが、彼女はまだ、Tehu君のような軌道修正の兆しが見えないので、今回は書くのをやめておく。
ゆたぼんを見たときに、真っ先に思い出したのが中島芭旺君である。正直、未成年なので、名前を書くかどうか非常に迷ったが、親も含めて名前を公表しているため、
伏せ字にする意味がないと判断し、本名で書かせてもらうことにする。
この芭旺君は茂木健一郎が世に売り出したと言っても良いだろう。彼は数年前、天才哲学少年としてテレビなどに登場しており、紹介される際には、必ずといっていいほど、
「茂木健一郎さんが絶賛!」などのキャッチコピーがついていたと記憶している。
しかし、登場する番組を何本が見た記憶があるが、彼の言葉は前向きな言葉ではあるが抽象的でふんわりしたものばかりで、「今を大事にしろ!」とかそんなレベル。
加えて、彼が書いたとされる著書の語彙との差が、あまりにも激しい印象を受けた。9〜10歳にしては喋れてるような気はするけど、これは本当に本人の言葉なのか?という違和感がずっとつきまとっていた。
当時、彼を起用しているテレビ局もおそらく、その違和感を抱えながら、ゲストに迎えていたのではないかと推測するが、実際のところはわからない。
2019年現在、中島芭旺君を「天才!」だと称賛している人がどれほどいるか?言いにくい事だが、過去の人になった感は否めないだろう。
その大きなきっかけかどうかはわからないが、中島芭旺君がTVタックルに出演した際に、元政治家でタレントの杉村太蔵氏に論破されたことがあった。
彼はアドリブに滅法弱く、度々、言葉に詰まり、他のタレントがフォローしなくてはいけない状態になっていたのだ。
そんな中島芭旺君だが、Youtubeで世界こどもサミットでスピーチする姿を発見することができた。
この動画の感想は人それぞれ違うだろうが、自分は中島芭旺君がとても不憫で見ていられなかった。
彼の主張、彼の言葉、彼の仕草全てが虚像に見えてしまい、本当に彼はあの場でスピーチしたかったか疑問しか残らなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=rFslPQQOuBw
茂木氏が絶賛したかつての二人の少年は一人はネットのおもちゃとして苦しみ、もう一人は、貼り付けられた天才哲学少年というラベルに苦しめられているように見える。
茂木健一郎氏の一番の問題は、彼が子供が持つ無限の可能性を潰してしまっているということに彼自身が気づいていないことかもしれない。彼は普通のレールから外れてしまった子供を見つけては、
俺が育てたと言わんばかりに「天才」というラベルを無責任に貼っているのだ。そして、対談などを行い、意識高い系界隈がしっぽを振って喜びそうな会話をして話題を作りをして、ネットや雑誌の記事を書いてもらい悦に浸る。こんな事繰り返せば、誰だって自分が天才だって錯覚するだろう。実にタチが悪い。
しかし、現実問題、茂木氏が簡単に見つけられるほど、本当の天才というのはなかなか現れない。なんなら、生まれながらの天才なんていないかもしれない。
にも関わらず、茂木氏はゆたぼんのチャンネルに動画出演し、脳科学者茂木健一郎お墨付きを与えてしまったのだ。「頼むから、学習してくれ。茂木健一郎よ。」
子供に天才を背負わせるということがどれほど残酷で非情なことかなぜ理解できない?小学校の宿題ごときで反発したゆたぼんの未来に何が見える?
私とデレステの出会いは26時間も前の事です。つまり、1560分も前という昔の事です。
友人から「そろそろ楽になったらどうだ」と言われデレステを進められました。
友人曰く、
『いつまでも765ASを追っかけていてはいけない。765ASを追っかけていたいくせにミリシタもせず、「これがアイマスなんだ」とシャニマスをしている姿は見苦しい。
大丈夫、きっと好きな子が見つかる。お前が萩原雪歩が好きだろう?ほらみろ、これが三村かな子だ。声が大坪由佳というお前が艦これで聞き飽きた声だということを除けば完璧な少女だ。
おまえは過剰に巨乳化された雪歩の同人誌をあつめていたな?ほらみろ、これが十時愛梨だ。雪歩ほどの清情さはないがほぼ巨乳雪歩だ。
真くんがいない?大丈夫だよ、これが速水奏だ。見た目はイケメンだが、実際は乙女だ。真とは方向が違うがな。』
実際見た子はどれも可愛く、「参考に裸が見たい」という旨を伝えた所、何冊か貸してあげようと言われました。
その後、出社し、会社のパソコンをスマホテザリング回線につなぎ直しのchromeのウィンドウを極小にした状態でシャニマスのフェスを消費しながら考えていました。
デレステをやるべきかどうか。
友人は三村かな子Pなので、多分俺に総選挙とやらで三村かな子に票を入れさせようという算段なのはわかります。
何故気づいたかというと、ぶっちゃけ三村かな子は萩原雪歩と似ておらず、声が原因でお前は三村かな子を好きになれないといっていたが、その原因はもっと、こう、「これを言ったら友情が破壊されるな」って思い言葉を発せられない部分にあるのを隠した上でマーケティングしてきたのが怪しすぎます。
雪歩は、こう、間接的に言ってしまうことになって申し訳ないが、華奢な体に強い芯っていうのが良いのであって、やはり相容れないという事を理解した所存です。
散々悩みました。
特に十時愛梨ちゃんは見た目が非情に良く、性癖を異常に刺激してきたので、我慢できずにPixivで「R-18 十時愛梨」と検索し、「暑くないですかぁ~?」っていいながら騎乗位してる画像がクリティカルヒットしたため昨晩の行為をほぼ気絶同然の状態でおえました。
諸葛亮の強さの秘密は知謀よりも非情さにあると私は思う。凡人が道徳的にためらうような手段を平気でとり、良心の呵責を感じることはない。
別の人と間違えてない?
それでも、君主や武将、後の世の人々から絶大な支持を得ているのは、自分が属する集団の役に立っているからである。このことは古今東西の実力者にも当てはまる。
諸葛亮は道徳的な人格(フィクションによるねつ造や誇張含む)込みで親しまれてるのであって
そんなマキャベリスト的な人気じゃないぞ
やっぱりなんか別の人と間違ってるんじゃね?
諸葛亮は自分がどのような状況に置かれようと感情に流されれず、数手先を読み、敵対する相手に罠を仕掛ける。彼が感情的な態度を取るのは誰かを騙すときであり、全ては計略の一つである。
諸葛亮の強さの秘密は知謀よりも非情さにあると私は思う。凡人が道徳的にためらうような手段を平気でとり、良心の呵責を感じることはない。
それでも、君主や武将、後の世の人々から絶大な支持を得ているのは、自分が属する集団の役に立っているからである。このことは古今東西の実力者にも当てはまる。
何者であろうと全ての人を幸せにすることはできない。それならば敵対する相手を叩き、自分の周りにいる人を幸せにした方が良いのではないだろうか。
上司の無理なスケジュール進行のせいで連休が潰れるのではヒヤヒヤしたが、なんとか旅立つ前日に休日出勤は終わった。
初めて訪れる土地、初めて食う名物、初めて関わる人たち。そのすべてが温かく、荒んだ東京での暮らしから癒してくれた。
あれは旅行最終日、フェリー乗り場近くでのこと。雨模様がずっと続いていたが、最終日だけでも晴れてよかった。今しがた出た喫茶店でコーヒーを飲みすぎたせいか突如尿意に襲われた。近くに公衆トイレがあったので小便器に用を足していると、屁も一発こきたくなってきた。どれ景気づけに「ブッ」といくか、と思い力むと
「 」
音がしなかった。代わりに残ったのは、ぬるりと何かが這い出てきた感覚だけ。
しまった——いや、噓だろう?
何かの間違いではと祈りつつ個室に入り、パンツを下ろしたが、現実は非情だ。チューブからパレットに出した絵の具のよう形状で、ブツが俺の下着を染めあげていた。
咄嗟にジーンズも確認する。黒のスキニーにはうっすら丸く濡れた跡が見えた。顔に近づけて鼻を鳴らしてみる。
不幸中の幸いであるのはこれが一人旅であること。当然待たせる相手もいないし、替えの下着や服はすべてバックパックに詰め込まれている。
クソ漏らしの達人たる増田諸氏には「なんだ、その程度で」と鼻で笑われるかもしれない。だがそれでも、つい開放感あふれる青空とどこまでも続くような大海に囲まれて清々しい空気を吸っていた5分前までの俺が、ゴキブリが今にも壁を走ってきそうな狭く汚い便所で自分のクソの始末をしている。
浮かれた気分を一瞬で茶色に塗りつぶされてしまったのだ。その絶望は、脱糞ビギナーの俺には耐えきれない。
ケツだのパンツだのを拭いている最中、俺は5年前に別れた彼女のことを思い出していた。偶然にも、その日の朝に彼女の夢を見たのだ。
ホテルで目が覚めたときは「令和の初夢がこれだなんて、未練がましい」と自嘲気味に笑っていたのだが、そんなセンチメンタルに酔う俺はとっくにどこかへ行ってしまった。
昔の女を引きずるよりも情けない、うんこ漏らしマンがここにいる。
久しぶりの旅行だったものだから持ち物リストをネットで調べていたのだが、あるページに「ビニール袋は何枚あっても便利!」と書かれていた。なるほどここまで想定されていたのかと感心しながら、俺はズボンとパンツをドンキのレジ袋に詰め、固く口を縛った。
ひと仕事終えたので扉を開け外に出る。太陽が眩しい。忌々しい気分だ。
トイレからフェリー乗り場に歩いていると、道端の立て看板に「合図を出そう」という交通標語が書いてあった。これを先に見ておけば肛門もあんな事故は起こさなかったのかもしれない。
近くに置いてあった燃えるゴミ箱にうんこパンツとお気に入りだったジーンズ、すなわち旅の恥をかき捨てる。今思えばファスナーやボタンを分けて出さなければならなかったかもしれない。
とても申し訳ない。あのときの俺は、そこに気をやれないほどに傷ついていたんだ。
喫煙所があったからタバコをふかそうと100円ライターを取り出したが、オイルも切れかかっていたため全然火がつかない。やっとついたと思えば、潮風に吹き消され、その繰り返しだ。
カチカチカチカチ何度も音をたてていると、情けなさが苛立ちを経て怒りに変わってきた。
どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ。
俺がいったい何をしたんだ。
もうこの土地に来ることはよそう。
きっと俺はここに来るたび「俺はここでうんこを漏らしたんだ」と悲哀に暮れる羽目になる。
あんなに楽しかったのに、たった一度の過ちのせいで辛い思い出しか残らない。
こっちも観光客なのに道を聞いてきて互いにカタコト英語で交流を試みながら一緒に地図を回し見たアジア人家族も、
オススメの地元グルメを聞いたら俺そっちのけで論争を始めた居酒屋の店主と常連のおっさんも、
予約の日付を間違えてホテルが取れず夜を明かしたバーでの酒の味も、
カチカチカチカチ。
「ありますよ」
60から70くらいの人の良さそうな爺さんが、俺を見かねたのかにこやかに話しかけてきた。
「風、強いですからねぇ」
「ええ、本当に」
会話はそれだけで、あとはふたりとも無言でタバコを吸っていた。人の優しさに触れて少しだけ落ち着くと、自分の思い違いに気付かされた。
被害者は脱糞した自分ではなく、勝手に脱糞されてその汚物を公共のゴミ箱に捨てられたこの土地ではないか。
——俺、ここでさっき、うんこを漏らしたんです。
結局言い出せないまま、彼はタバコを消して、近くで遊んでいた孫らしき子どもと手を繋いで行ってしまった。
言わなくてよかった。あの人の一日まで汚してしまうところだった。自分は余計なことまで口走ってしまいがちだ。
そういえば、彼女ともそれが原因だった。平成も終わったのだ、もう少し上手に生きよう。上の口だろうと下の口だろうと、滑らせて取り返しのつかない過ちを犯すのは、もうゴメンだ。
また来よう。
今度も、ビニール袋だけは忘れない。
彼は無能だ。周りの彼に対する人物評という相対的な評価、生み出した数字という絶対的な評価、どちらの評価軸で考えても無能言って差し支えないだろう。
おまけに外見もあまりいい方とはいい難い。清潔感を損なっているわけではないが、なんとなく自分が異性だったら避けて通るような雰囲気だと思う(もっと具体的に説明できるが、この場にはふさわしくないだろう)。
で、ホントによくイジられている。職場の会話は多い方だと思うが、仕事の話を除いた彼の会話は、ほぼ彼をイジる話題が発端だ。
彼はというと、時に場の空気を読んでたどたどしくも三枚目に徹し、時に聞こえなかったフリのような生返事を返し、時に無視していた。
彼が居ないとき、盛り上がる話題があった。彼がいかにダメかという話題である。
「○○君、成長どころか退化しているくさくな~い?」
「○○、そんなことも知らないの? 子供じゃないんだからさ……」
「書類を読んで一発でわかるって、○○には別の才能があるんじゃないか?」
そして締めの言葉が、
「まぁ、○○だからな……」
僕はいつも、この会話へ普通に参加しつつ、でもなにかモヤモヤしたものを感じる。
できるだけポジティブに考えるなら、「まぁ、○○だからな……」で終わらせず、会社として、無能を有能へ教育するために「じゃあどうするか」と続けるべきではないのか。
そんな事を考えて、僕は頭を振る。
「思いついたプランを何個か列挙して、良かったものを試してみよう。もちろん仕掛けるのは君だ」
そんなことを言われたならたまったものではない。
いや、本当にたまったものではないのは、一番地位の低い人間を失うことだ。そして、順位が変動した結果、自分がその地位へ落ちてしまうことだ。
分かっている、周りの非情な連中と僕、根本で考えていることは同じだって。
でも反面、周りの「私は○○よりは優れた人間だ」とふんぞり返っている人間より僕は優れている、という自負もある。
無能を積極的に攻撃する人間より、僕のほうが断然マシな人間である。
そんな自負によって、結局僕も彼をダシに心の安定をはかる。
なんて醜いのだろう。
僕が欲しいのは弱者からの信頼よりも会社や業界からの信頼だってはっきりしているが、彼がイジりに対して言葉に詰まっているとき、彼だけミスを許されず当然のように残業しているとき、彼に話しかけられた時だけ変わる態度を見たとき、もし僕が彼だったら、と考えると泣いてしまいたくなるような罪悪感を感じる。
彼は何事についても、努めて考えないようにしているふうに見える。多分、考えすぎると鬱になってしまうのが分かっているのだろう。だから、僕が代わりに彼について考える。まるでダメな人間から這い上がっていく漫画の主人公みたいに。どうすれば彼をバカにしている彼女を黙らせられるか。どうすれば彼を荷物と考える上司に計算間違えを認めさせられるか。
でも、いくら考えても現実的なビジョンは描けない。彼は単純に、全く成長しない無能だった。
「思いついたプランを何個か列挙して、良かったものを試してみよう。でも、彼はきっとどのプランも半笑いでごまかして、手を付けないだろうね……」
有能に見える有能にお願いがある。あなたの支配しているコミュニティのパワーバランスを揃える努力をして欲しい。力に差があるのはお互いに辛い。
有能に見える無能にお願いがある。無能を使って自分の相対評価を上げないで欲しい。その場では笑っていても、誰かはきっとあなたから離れる事を考えている。
無能に見える有能にお願いがある。謙虚に振舞うのは美徳だし、静かに暮らしたいのも理解ができる。ただ、あなたが有能を示すだけで救われる存在がきっといる。
無能に見える無能にお願いがある。自分の力で、周りとの力量差を埋めて欲しい。できないならば、自分に合った環境へ静かに去って欲しい。
なーに変なことを考えてるんだろう。それで片付けられない日々が、また来週から始まる。
anond:20180903115144 の続き。
NHKで全マクロス大投票(https://www.nhk.or.jp/anime/macross/)が開始されましたね。えっご存知ない?そんなあなたはこんな文章を読む暇があるなら今すぐ回れ右して魂の一票を投じましょう。ちなみに増田は複数票なら初代とプラスも入れるのにと作品はフロンティア、キャラクターは真っ先にシェリルに投票してその後に悩み抜いた末、もっとも印象的だった人たちであるカムジン(文化の負の側面を体現してみせた)と熱気バサラ(歌の力のみで世界を救った)に投票しました。
以下ネタバレ全開の感想。なお、三角関係の項が相当気持ち悪いので注意。
追記。視聴環境はバンダイチャンネル「劇場版マクロスF 〜イツワリノウタヒメ〜(HDクオリティ)」(https://www.b-ch.com/titles/3414/)の7日間視聴コース。540円なり。
冒頭の新曲ライブでいきなり劇場版クオリティを見せつけられたのだが、正直前半はTV版からの流用が多かったので、間違い探しをしている気分だった。しかしそのせいで新規カットは圧倒的にシェリル関連であることに気がついてしまった。後半に入ったら新しい映像がほとんどになったのだが、TV版と展開の違いは無かった。一番大きなTV版の違いはアルトに託したシェリルのイヤリングが無くならなかったことかな。イヤリングはシェリルの手元に一つアルトの手元に一つ……つまり……。
個人的には人間関係を積み上げる日常パートも好きなのだが、劇場版でやっている暇ないよな。ちなみに一番好きなシーンは、自由落下中にシェリルの髪が風圧で直毛になるところと、オズマがガウォーク変形で地上回避をやってみせるところと、事故でアルトにのしかかられたシェリルが焦って思いっきりグーパンチをアルトに叩き込むところ。
VF-25は相変わらず超かっこいい。そしてTV版の感想で不満点として挙げた待望の地上戦が最高の演出で追加された!フロンティアの街という市街地を舞台に重力異常というフレーバーを加えたことで、ビルの合間を漂う瓦礫を回避しながらバジュラを撃墜するというものすごく映える状況が生まれた。高速で移動をするバルキリーが浮遊する瓦礫をマニューバやガウォーク変形で回避しながらピンポイントで射撃を行い再びファイターで加速する。すなわちバルキリーの様式美。そしてその高速機動を行うバルキリーに追従するカメラワーク。最高アンド堪能である。
前回のマクロスプラスの感想で、現代の戦闘機マニューバはプラスやゼロで濃密に描かれているので、それらを超えるドッグファイトを描くのは難しいのではないかと書いてしまったが、完全に誤りだった。疑ったことを深く反省する。シチュエーションさえ違えば十分に新鮮なドッグファイトを作れるのだ!それから戦闘中に操縦桿やペダル操作をしている部分を描写するのはリアルさを感じてグッド。
まず最初にこれだけは書いておく。 (祝)シェリルさまがメインヒロイン! いやもうデート・日常パートの新規カット追加や、劇場版でのランカとシェリルのポジション変更(ランカは初対面から後輩に、シェリルはトップアイドルから怪しいトップアイドルへ)、失われなかったイヤリングにより名実ともにメインヒロインと言って良いだろう。特にシェリルがデートパートを新規に書き起こされたのに対して、ランカは歌の道へ歩む大事なきっかけであるアルトの紙飛行機が幻視に変更された。TV版と同じくランカがフォルマで what 'bout my star を歌い出すきっかけとなるのはアルトの紙飛行機なのだが、劇場版ではアルトは紙飛行機を飛ばしていない。だからランカの見た紙飛行機は空へと溶け込み、(今後を暗示して悲しいが)幻想だったことが分かるのだ。
TV版では、シェリルとランカの歌うことに対する気持ちというのは、シェリルはただ一つだけの自己表現手段であり、ランカはみんなに歌を届けたいと思っていたけど実はアルトに聞いてほしいというものだった。TV版でランカが三角関係の一角を占めていたのは、この気持ちが育つ段階があったからに思う。だからランカが以前からアルトに淡い気持ちを抱いていたという劇場版の変更は、ランカのフラグにしか見えなかったよ。劇場版の関係性の中でアルトとランカを引っ付けようとするなら、シェリルを強制退場するしかないよなーなんて思っていたら……サヨナラノツバサへ続く。
新曲を含め劇場版でも好きな曲はいっぱいある。OPから鮮烈なビートを叩きつけてくる「what 'bout my star」、を耐えたと思ったらいきなりの新曲アンドグリグリ動く劇場版クオリティの3Dモデルに言葉も出なかった「ユニバーサル・バニー」、悲しすぎるニンジン再びの「スターライト納豆」とランカの変形(とキメ顔)含めてメロディアスな名曲である「ダイナム超合金」、雪降るシティに寄り添うような歌声の「そうだよ。」などなど語りたいことは大量にある(そうだよ。の歌詞、サヨナラの伏線だったのかな)。
しかしながら劇場版で増田が一番好きな曲は「pink monsoon」。この曲はアルトとシェリルのデートで流れるメロウな曲調かつ大人っぽい歌詞の曲なのだが、個人的にこの曲以上にフロンティアの街角に流れるのにふさわしい曲は無いと思っている(次点でwhat 'bout my star)。シェリル・ノームがトップアイドルでアルトやランカが学校やバイトに毎日過ごしている、そんな平和な街の日常にテレビやラジオからこの曲が流れている。そんな感覚を呼び起こすような曲だ。pink monsoonを聞いていたら、マクロスフロンティアという作品が好きな理由には魅力的なキャラクターや歌があるけれど、坂と路面電車、街中のSFガジェット、中華飯店娘々やゼントラモール、そんな近未来感とノスタルジーに溢れたフロンティアの街そのものがすごく好きなんだなって思った。魅力的なフロンティアがあるからこそキャラクターたちも生きてくるのだな、と。
ところで「pink monsoon」の歌詞があまりにも曲調にマッチしているから、作詞家のGabriela Robinって誰なのか気になって調べたら、菅野よう子さんの変名だと知った。菅野さん、作曲センスだけでも才気爆発しているのに加えてアレンジまで手がける超人だと思っていたら、さらに歌詞まで書けるのか。もしかして菅野よう子さんって天才では?
それから音楽演出で感心したことがあったのでメモ。後半の「ライオン」の時に気がついたのだが、歌ありの曲は全て劇中に音源があり、しかも音源の状態が音に反映されている。例えば「ライオン」であれば、ランカがセリフを喋るのはシェリルが歌っている間で、シェリルが喋るのはその逆。そして二人が喋るときは間奏など歌詞が無い時。また、サヨナラノツバサになるけど、ビルの壁スクリーンから「ダイアモンドクレバス」が流れる時はスピーカーの品質が良くないので音が割れる(ひび割れた歌がギャラクシーの非情な作戦を象徴するという演出効果)。気にする人はそれほど多くないかもしれないが、このような劇中歌の整合性に対する細かい演出は非常に好感が持てる。歌が作品の柱というだけのこだわりであると思う。というか自前の歌でストーリーを回せてしまうのって冷静に考えたらすごいな。
サヨナラノツバサまで入らなかったので次:anond:20190315022241
題名にある通り私は某旧帝大で特任助教(バイオ系)をしており、今年の3月末で任期が切れます。アラフォーです。
ここ二年の間アカデミア、民間企業等多岐にわたって職探しをずいぶんやりましたが、結局就職先は一つも見つかりませんでした。
アカデミアに関しては南は沖縄から北は北海道まで日本全国で様々な大学のバイオ系研究職に手当たり次第に応募しましたが、全て落ちました。面接では練に練った研究計画を余すことなく熱意を持って伝え、面接官からもお褒めの言葉を頂いた事も何度がありましたが、結局全滅しました。
民間企業に関しても軽く30社は応募しましたが、面接に辿り着けたのが数社で、全て不採用でした。
もうここまで来ると職探しをする気力は消え失せてしまいました。
もうアカデミアも民間企業も持ち駒は一つもなく、今はただ来月末の任期満了日を怯えながら待つのみです。
4月からどうすればいいんだろう。。。どうしよう。。。私は独身で、頼れる身内も一人もいません。人生つみました。
世間では研究者はすごく大変だけどやりがいのあるかっこいい仕事だと思われてるようです。昨今の日本人ノーベル賞受賞者の影響もあるでしょう。しかし、研究者は能力がなければ目も当てられないくらいに悲惨です。(私です。。)素質に恵まれた極少数の研究者は非常に良いですが、大半の研究者はそうではなく、早晩窮地に追い込まれることになります。(私です。。)
思い返せば、私は小さい時から研究者に憧れていました。高校では必死に勉強して、現役で東大理一に合格し、その後も理学部を経て理学系研究科で博士号を取得し、自分は将来東大教授になるんだと信じて疑いませんでした。しかし、今思うと、理学系研究科で大学院生をやってた時既に自分は研究者に向いてないという事に気付くべきタイミングが少なからずあったように思えてなりません。詳細は省きますが、当時の指導教諭や先輩(今は某旧帝大の准教授です。。)から私が研究者を目指すことをやんわりと否定するようなことがあったことを思い出します。結局研究者としてやっていけなくなっていまこのようなにっちもさっちもいかない状況になってしまったので、やはり彼ら(研究者としての素質を持ってる人たち)の指摘は正しかったし、素直に彼らの指摘を受け入れて、大学院生時代にキャリアチェンジを図るべきだった(就職、医学部編入とか)と意味のない反省をしてます。博士時代の同期は何人かいましたが、途中で中退して、医学部に編入したり、民間企業や官公庁にでていった人が結構いました。今思えば彼らの選択が正しかった思います。素直さのなさと視野の狭さが私の欠点であり、その欠点のせいで人生がこうなるとは予想してませんでした。
博士号取得後は別の研究室に移りポスドク(激務薄給労働者)として一日も休むくことなく馬車馬のように働きました。ポスドクをしてた時にも今思うとやはり研究者としての限界を思い知らされる様な出来事がありました。(ご想像のとおりです。)この時も現実を受け入れる事なく、そのままポスドクとして残ってしまいました。ひょっとしたらくだらない自尊心のせいで、自分が研究者としてやっていくのは無理だという残酷な事実から無意識的に逃避していたのかも知れません。
数年に渡るポスドク生活の後、運良く(今思うとここで自分の人生の運を全て使い果たしのかも知れません。)今の特任助教の職にありつく事ができました。しかし、研究の世界は非情なもので、才能のない人がいくら努力しても上手く行くことは決して無く在任中にたいした成果も出せずに気が付けば任期満了まで一ヶ月というところまで来てしまいました。
昨今大学の研究者を取り巻く環境は悪化の一途を辿っており、任期無しの研究職がどんどん少なくなり、その一方で任期付きの研究職の割合が日に日に高まっています。このような状況のせいで自分は研究者になれなかったのだと不平不満を述べる人が多数いますが、私はそうだとは思いません。やはり研究者になれない人(私も含めて)には素質がないのです。素質が何なのかは難しいところですが、結局任期無し大学教員という職を巡る椅子取りゲームで勝つのはやはりふさわしい人なのです。終わりのない椅子取りゲームに見えますが、研究者として生き残る人はなんとなく決まっているように思います。(ここらへんは私自身の勝手な想像です。自分は研究者になれなかった脱落組なので。。)
繰り返しますが、研究者は素質がないともうほんとに悲惨です。自分に素質があるかどうかは割と早い段階で分かるはずなので、いま大学院等で研究者を目指して奮闘している方達(特にバイオ系)には時期を逃すことのないよう気をつけてほしいと思います。
また、アカデミアのよろしくないところは、成功者の経験ばかり語られて、落伍者の声は闇に葬り去られてしまうところだと思います。成功談も大事ですが、それ以上に失敗談にこそ学ぶべきところがあるのだと悟っています。
ああ、4月からどうすればいいのやら。今後の人生はどうなることやら。任期満了日が過ぎたら、その後は社会の底辺を彷徨いつついつか年老いて死ぬ日をひっそりと待ち続けるのみです。
ツー…ツー…ツー……
名前すら名乗らない彼は一体何者だったんだろうか。
彼は一体何に了解したんだろうか。
そして、彼はそうして了解したことをこちらに伝えて何がしたかったんだろうか。
電話先を間違えたことに気づいたのなら、それを謝るかせめて伝えるべきではないだろうか。
自分さえ納得できればよく、それを相手にも伝えるために「了解」という言葉を選んだのだろうか。
それとも、この電話番号が増田商事であることを確かめたくて、それを確かめることが出来たことを伝えたかったのだろうか。
私がお昼ごろにかかってきた間違い電話の事を今なお気にかけているのは、その言い方が独り言ではなく、私に「了解」をはっきりと伝える口調であったことだ。
私が増田商事の打須摩であることに「了解した」と彼が私に伝えることには、きっと彼の中では大きな意味があり、それさえ伝えれば失礼しますも言わずに電話を切ることにも何の問題も無かったのであろう事がその声色から読み取れたのだ。
非常に気になる。
もしかしたら、彼は未来の私だったのではないだろうか、それとも死神……。
この物語にはどんな結末が待っているのか、きっとなんの結末も待っていないのだろう。
ただ単に私に電話をした人がひどく自己中心的で、「俺が電話先を間違えたことに、俺が納得できたなら、それでお前も満足だよな?」と考えるジャイアン人間だったのだろう。
こんなにも頭を悩ませてたどり着いた結論が、クソ野郎のクソみたいな間違い電話について半日の間悶々としていたいというクソのような現実だったとは。
N氏が羨ましい。
彼の人生にはもういくばくかのセンス・オブ・ワンダーが込められている。
私の人生にあるのは、人間の薄汚さや他人に対してかける思いやりの無さ、そしてそんな事に対してすらこんなにも繊細になるほどの余裕の無さばかり。
辛い。
この人生が辛い。
ただの間違え電話1つですらこんなにも揺れ動いてしまうような器の狭い人間として生きていく事にもういい加減疲れた。
死にたい。
……やはり彼は、死神だったのだろうか。
そこそこ終わりなき混沌です。
鋼の教えと闇を司る魔が支配する前、とある超自由戯画高等儀式に行った。
よくある世界を救いし少年少女たちの伝説を顕現せし改変兵器(アーティファクト)であったが、そこそこ戦闘兵器としての完成度が高くて面白かったからだ。
高等儀式の内容は、名時の狭間で蒼穹の彼方に追い求めたり、衝動の解放に関する叡智の試練など、まぁ表向きは帝国式な感じではあったが、大陸全土に広がる程に混沌より蠢き吹き出ていたとは思う。
暗黒と同調せし吾輩も、こういった高等儀式は久しぶりであり、而るに純粋に面白かった。
これも帝国式の文言だとは思うが、口々に「真実(トゥルシズム)にみんな旧知の仲で~」とほざいていて、預言書の記述どおり言霊使い同士の間合いは近かったように思う。
黒ミサコーナーで、意思なき者たちに魂を吹き込む異世界の神々が若干スベったり、どうしていいかわからない殺意にフォームチェンジした刹那、老獪なる業師の流し斬りが完全に入ったりしているのを見て、≪詩片≫にできない程この身を焦がす気持ちにトランスしたものだ。
そして、終焉の刻。修羅のエレジーと魔物のレクイエムを詩人がソウルボイスし、滅びの運命を逃れるべく人類絶滅への終曲を断ち斬ったところで、最後にキャスターの詠唱となった。
「終焉なき途の果てに、繰り返す過ちのように運命の歯車が動き始めれば、次は例えこの命尽きようとも悦しい……そう言ってアイツは戻ってこなかった……!」
楽しげに平行世界の過ぎ去りし思い出を蒼穹の彼方に追い求め、不適な笑みを浮かべつつ、最後の言ノ葉は大体暗黒が支配する感じであったが、それなる時の鏡の向こうの見知らぬ姿には、闇の世界があったと想う。
何故だろう───そしてその疑惑は、確信へと変わる───嗚呼、と一人で合点した。
どう足掻こうが次はあり得ない事を自我の管外から悟っている――預言書にはそうあるからだ、と。
スフィア盤は1500枚も売れず、元老院の議題にもなっていない。
原典グリモアやエミグレ文書は粛々と異世界の穢れし魔物を召喚するだろうが、それ以外の魔道媒体展開は預言書の記述によれば望めない。
『器』は1000人程度の小さいオーファンズ・クレイドルだが、莫大な量に見積もっても700人程度よりほかにいなかったと我が魂(プシュケー)が申しておる。
真の姿を見せて現実と情念の狭間の叙事詩を語るのが謙遜なる神々や預言書『偽典』だが、空想に対する実在は非情だ。人々を惑わす邪悪なる影を生み出さなければ抹消。天地万物は灰燼と化して封印を施す。
未だ見ぬ明日はない。時は残酷な運命を告げる。導かれし者たちが一堂に会して世界を光で満たす事は二度とない。
預言書にもそう書かれていながら、それでもあいつは友達だった! 「また次の冒険があったら」と剣を交わす。
嗚呼、と想った。この“力”が人界に留まることを許される僅かな間だ、と。
呪われしタンイに縛られし者達が言う「運命の星の交わる刻、飲もうぜ……」
悠遠の彼方に在る世界に輪廻転生する、かつて闘った強敵(とも)の魂に囁く「絶対___きっとまた、会える。終わりは始まりなのだから今夜、夢で会おうね。定められし月の傾く刻、手紙物語を紡ぐからね」
オメガとカオスと同等の能力を持つ存在だ。天啓に従いて怜悧なる場を収めるための世界を形なすものだ。
真実(アレテイア)にそう思って語り継がれる人もいる……だが、その裏ではそれを欲さんとする各国の策謀戦が行われていた。如何なる場合においても因果律の一篇、その信仰やオーラは俺が目を離した一瞬の隙に闇に陥ってしまう。春の訪れを告げる聖霊のように、エオルゼアの世界へと消えていってしまうものではないか。
これほどまでに楽しい革命であったのに、不可視世界はあんなにも強大せしめたのに。
もう二度と、冷厳なる時間は襲来しない。もう二度と、英雄の魂達がライブクリスタルの幻想の果てで活躍する心新たな貌を見ることはできない。
そう到達し……誰もが勝利を確信したその時、なんとも言えない切なさと悲しさに、アトモスフィアが詰まりそうになった。
慟哭(な)き魂葬に志を遂げた。
螺旋の内を廻り、大地駆ける鋼鉄の巨大竜に揺られている時、オメガとカオスの事実に如何ともしがたい寂しさが込み上げた。
過ぎ去っていく血塗られた過去や、花は咲き乱れ、果実は甘く、そして乙女たちは美しかった永久の時にいくらすがっても、時は進む。罪なき人々を殺め続けた日々は永久に。
全ての世界を救うため、きっと獣たちの戦いが世に終わりをもたらす時「___また、会える。終わりは始まりなのだから、こうして運命の交わる一瞬があれば」などという≪詩片≫は消し去られて封印を施すかもしれない。
俺のこの心の叫びもきっと一週間もすれば――いや、三日……いや、何千年、何万年も経た弗る〈ざる〉深淵に忘れてしまうかもしれぬ。
繰り返される悲劇――いつの世の日か神の声に導かれるままに、超自由戯画を見返して革命の事を思い返し、「浮世の静かなる支配者は終わりを迎えるのが心苦しかったな」と思い出せる――だが、我らには関係のない事であろう。
神に見放されたこの世界の無情さも、人間界の非情さも、帝王統治学の残酷さも関係なく、純粋な一万年の夢の終わりとして澄んだ魂の記憶として俺の胸で生き続けてくれる。
その程度は何者にも奪えないものだ。
その程度は、この鬼哭の都の民が住む場所で、空想に対する実在で、混沌渦巻くものの奥底で、なんとかもがいて生き続けている俺たちへの、人生、つまり『記憶の再生の眠り』からの神が与えし大罪なのかもしれない。
そこそこ長いです。
よくある中2病ハーレムラノベをアニメ化したものだったが、そこそこクオリティが高く、面白かったので、イベントに行った。
イベントは、アニメの名場面振り返りや、アニメに関するクイズ大会など、まぁ定番な感じではあったが、それなりに盛り上がっていたとは思う。
自分も、こういうイベント自体は久しぶりだったので純粋に面白かった。
これも定番かも知れないが、口々に「本当にみんな仲が良くて~」と言っていて、実際声優同士の会話の距離感は近かったと思う。
バラエティコーナーで、若手の声優が若干スベったり、どうしていいかわからない空気になった時、ベテランの声優が助けに入ったりしているのを見て、なんとも言えない温かい気持ちになったものだ。
そして、最後。OPとEDを声優が熱唱し、一通り盛り上がり切ったところで、キャストの最後のあいさつの時間になった。
「もし、またこうやって集まれる機会があれば、次はもっと楽しいイベントに……!」
楽しげにアニメの思い出を振り返りつつ、最後の言葉は大体こんな感じであったが、その時の顔には、どこか陰があったと思う。
何故だろうと思った時、ああ、と一人で合点した。
原作やコミカライズは粛々と進行するだろうが、それ以外のメディア展開は恐らく望めない。
キャパは1000人くらいの小さい会場だが、多めに見積もっても700人くらいしかいなかったと思う。
そして、二期の発表はなかった。
夢を見せて幻想の物語を売るのがアニメや漫画だが、現実は非情だ。金を生み出さなければ消える。消えてしまう。
次はない。もう二度とこのメンバーで集まって何かする事はない。
それが分かっていながら、それでも「また次があったら」と言う。
ああ、と思った。これが人生だ、と。
大学生が言う「今度飲もうぜw」
遠い所に転校してしまう友達に言う「絶対また会おうね。毎月手紙書くからね」
それらと同じだ。とりあえずその場を収めるための言葉だ。
本当にそう思って言う人もいるかも知れない。ただ大体の場合、その思いや熱は、いつの間にか散ってしまう桜のように、どこかへと消えていってしまうものではないか。
こんなに楽しいイベントだったのに、アニメはあんなに面白かったというのに。
もう二度と、この時間は訪れない。もう二度と、キャラクター達が画面の向こうで活躍する新たな姿を見ることはできない。
そう思い至った時、なんとも言えない切なさと悲しさに、息が詰まりそうになった。
泣きそうになった。
帰りの電車に揺られている時、それらの事実にどうしようもなく寂しくなった。
ただ、ただだ。
過ぎ去っていく過去や、楽しかった時間にいくらすがっても、時は進む。日々は続く。
きっといつか「またこうやって集まれる機会があれば」なんて言葉は忘れてしまうかもしれない。
俺のこの気持もきっと一週間もすれば――いや、3日も経たない内に忘れてしまうかもしれない。
ただいつの日かふと、アニメを見返してイベントの事を思い返し、「あの時は楽しかったな」と思い出せる事だろう。
世界の無情さも、現実の非情さも、社会の残酷さも関係なく、純粋な思い出として俺の胸で生き続けてくれる。
それだけは誰にも奪えないものだ。
それだけは、この世界で、現実で、社会の中で、なんとかもがいて生き続けている俺たちへの、人生からのご褒美なのかもしれない。
生きたい という気持ちに 死にたい という気持ちが上回った時、私ならどうするか想像もできません。
どうしようもなく辛いことが重なって冗談じゃなく本気で死にたいとおもうことがある、と友人に相談した時もお母さんに死にたいと伝えたときも、死にたくてたまらなくて一晩中泣いたときでさえも、私は心のどこかでは死にたくありませんでした。というか生きていたかったのだと思います。私は死にたいという言葉を何度も吐いた自分に嫌悪感を抱きました。
私は主人公の幸乃に同情をしながら非情もしました。死にたいという感情を抱いて生き続けていた彼女は無罪ながら「元恋人の家に放火し、妻と双子を殺人した」という容疑に問われました。そんな彼女はそれを否定せず、死刑囚になりました。とても複雑ですが、一言で表すと「悲しい」が最適でしょう。彼女が親身に存在していたと想像してもかける言葉がわからないほど、気持ちの矛盾が私自身の胸の中で駆け巡ります。普通の人なら冤罪で死刑判決を下されれば、どんな術であろうとも死ぬ気で否認し事実を伝えようとするはずです。でも私は生きたいという気持ちには勝らない程度で死にたいという感情を抱いたことがありますし、今も全くないと言ったら嘘になります。本気で死にたかったと共に周りへ迷惑をかけることを異常に嫌った彼女にとっては最も良い機会が訪れ、それを逃すわけにはいかなかったのかもしれない。という部分ではそれでよかったとも思ってしまいます。しかし例え死刑でなくても他人の罪をかぶるというのは決して良いことではないですし、結局本当の犯人もその事実を知って罪悪感で事故を装った自殺をしてしまったという事実も兼ねて本当にそれでいいのかとも思ってしまいます。自らの選択によって死を選んだ彼女のせいで私は死刑という制度を少し否定する気持ちまで持ってしまいました。今までそんなこと考えたことすらなかったのに。
彼女の微かな生きたいという感情に死にたいという感情が勝ってしまったのは、彼女の過去にありました。17歳で自分を産んだ母と義父、義姉と共に暮らしていた彼女でしたがたったひとつの希望であった母が事故で亡くなってから彼女にとって地獄がはじまりました。その日から死刑判決の日まで、確かに彼女は多くの人に見下され人じゃないような扱いも受けていました。だれかに必要とされたい、と彼女は何度も思ったといいます。私はそんな彼女については、馬鹿だと思います。沢山の人からの罵倒のなかで、自分を受け入れている人もいたはずです。何年にもわたり、彼女の無罪を突き止めた彼女の過去の友人がとても可哀想に思います。自分のことを思ってくれる人に気付こうとしなかったこと、これが彼女の欠点です。自分の人生において自己嫌悪しかしてこなかった彼女は愚かともいえる、と私は思いました。
私はこの本を読み終えたとき、幸せとはなんなのか考えさせられました。彼女と私の価値観は恐らく全く違います。家族ででかけたとき、おいしいものを食べたとき、私は単純に幸せだなと思いますが、幸せな人生といわれてみると心の底から考えても「わからない」という言葉しかでてきませんでした。でも、それでいいのかもしれません。たぶん「幸せ」に概念なんてないんだと思います。というかないですよね。個々それぞれで全然ちがうのです。
正直に言おう。メンバーが明るく笑ってあげるのと、ファンが笑いにするのは全く違うだろう。
雲の上のキラキラした存在、というよりも、高校のクラスに一人はいるような奴、みたいな距離感を目指すグループだとしても。
自分の好きなメンバーが他のメンバーのファンから酷い扱いを受けることが多いように思うから尚更。普段からいじられキャラ的なポジションだからって自分らも同じような扱いしていいって勘違いしてない?
脱線した。それはそうとして。
生で色々と起こしがちなグループではあるけど、メンバーのミスとスタッフ側のミスを同列にして笑うのも違うだろう?
別に悲観しろってんじゃないし、ポジティブシンキングに越したことはないが。自分の好きなメンバーがメインの曲でこんな事故が起こったら少なからず番組を恨んでしまうだろうし、ファンのノリにちょっと引いた話。
それと、あの時の他メンバーの対応について色々な反応を見て思ったことも。
せめてハンドマイクだったらなあ……咄嗟にヘッドセット貸すのも難しいだろうなあ……とは思ったが、あの場で何も出来なかったことを非情だとは思わなかった。
自分はグループ全体が好きなファンだから、他メンバーの対応については多少は色眼鏡になる。
それぞれに移動があって他に気を配りきれなかったのだろうし、落ちサビ前の時点では気付いていなかったのかもしれない。
他メンバーが代わりに歌うなどという選択肢は、彼らの中になかったのか、最善ではないと判断したのか。
分からないけど、あの時点ではあの対応こそが最善だったのだろう。
あの笑いは、嘲笑などではなかった。
会場を明るくしてくれる笑いだった。
テレビにこそ映らなかったものの、曲が終わってから他メンバーが駆け寄って励ましていたようだし、少なくとも冷たく見捨てたわけではなかった、と自分は思う。