はてなキーワード: 芸術作品とは
いい加減腹立ったので書いておく。
内部資料だぜ?
それを勝手にクライアントであるノーパンしゃぶしゃぶ武藤が外に出したのであって、佐野先生は内輪で使うためにあれを用意したに過ぎないわけ。
お前らだってツイッターのアイコンは適当に拾ってきた画像だろ。
コピーライトを削った?
それがどうしたんだよ。お前らが使ってるそのどこかで拾ってきたアニメ調の壁紙、画像検索にかけてみろよ。コピーライトなんか余裕で削ってるぜ? みんなやってんだよそれくらい。画像まとめサイトや壁紙配布サイトの管理人がやってることを、日本のトップデザイナーであり年収5億を誇る佐野先生が東京五輪のエンブレム選定という世界規模の大仕事のプレゼンでやっちゃいけないのかよ。なんだその差別。
大体、アートの世界ではネットで画像を拾ってくるっていうのはごく普通のことなわけ。
海外のド素人が作ったキメこなを、東浩紀先生も絶賛する梅沢先生がアートに昇華させたわけで、ありがとうございますと涙を流して感激するならともかくパクリパクリって頭どうかしてる。
画像は使います!使います!それ以上のコミュニケーションはないです。
ネットにある画像はフラットだから全部使う。使うことにごめんねはない。
その結果として体力のないコミュニティが潰れてもしょうがない。
梅沢先生はなぜか「自分はコピペでやりくりしてるから」とか卑屈なこと言ってて、黒瀬先生はノーコメントなのが残念だけれど、藤城先生は佐野先生の全面擁護を展開、ネット民は今すぐ首吊って死ねとツイートされていて本当に心強い。
アーティストってのはインターネット上の素材を自由に使い、編集する権利を持ってるわけ。どうもそれを理解してないゴミどもが多くて困る。
構図が似てたらパクリとかアホか。
コンプライアンスはマルドゥック・スクランブル外伝のパクリか?
ArialなんかaだけでHelveticaとの違いが一発で分かるし、FAIRYTAILは作家名を見れば一発で違うと分かるし、コンプライアンスは漫画であって小説じゃないから一発で違うと分かる。
永井先生もおっしゃっているとおり、教養もない大衆にはコンセプトの違いが理解できないんだろう。お前ら大衆はブルーヌードを見て「なんだこれオランピアのパクリじゃねぇか!」と喚き立てるわけだろ? あのコンセプトの違いが見て分からないとかほんと残念な目をしてんな。
メッセサンオー事件の被害者のことを考えれば鼻糞未満の被害だろうがとか考えてんだろう。人間として最低だなお前ら。
佐野先生が公開した写真を断りもなく、その引用元も明記せずに勝手によそで晒し、配布するっていうのは非常識としか言い様がない異常な行為で、まともな人間のやることじゃない。
フリー素材じゃねぇんだぞ!
ツイッターや2chで佐野先生の悪口が連日書かれている状況とか、まさに「人間として耐えられない限界状況」だと思う。カオスラウンジの黒瀬先生は何も気にすること無く今日も美術学校講師としても活躍していらっしゃるし、鳩山元首相とか元気ハツラツとしてツヤツヤしていらっしゃるけど、ネット炎上が人を確実に死に追いやる行為だということをお前らは自覚した方がいい。
魔女が他人の作ったものを剽窃して金と名誉と社会的地位を荒稼ぎしていたことが露呈したからといって、狩っていいって話にはならねぇだろ。正義ヅラしやがって。正義の反対は悪ではなくまた別の正義なんだよ。魔女の正義を理解しろよ。金のない貧乏人が僻んでんじゃねぇ。
加えて家族への攻撃とかほんと論外。嫁はミスターデザインの広報担当でトートバッグの件は部下に責任があり悪いのは全て部下です佐野は関係ありません悪いことは全て部下がやりましたと言っただけで今回の問題とは無関係な全くの善人であることは明白だろうが。
お前らだってSTAP事件の笹井先生のことを毎日思い出しては「やり過ぎてしまった、人の命は地球より重いのになんてことをしてしまったんだ」と悔やんでるだろ? それをまた繰り返したいのか?
集団で個人を叩いて面白いか? どうせお前らは集団で叩かれた側の人間だろうが。いじめはダメだって習わなかったか? 不正な手段で金と地位と名誉を少々得たからって、それはいじめる理由にならねぇだろうが。とはいっても先生の財産は半端ねぇし、なんぼでもやっていけるだけのコネも持ってるし、お前らがギャーギャー喚いたって痛くも痒くもねぇけどな。東電元社長の清水さんとかあれだけお前らが槍玉に上げたけど、結局今でもバリバリ現役だからな。慶応評議員にも立候補したし。
佐野先生よりもっと悪い奴がいるはずだって意見がある。それは一面的には分かる。でもそれじゃ佐野先生も悪いみたいじゃないか。佐野先生は悪くない。コピーライトを削って100万ぽっちを稼ぎ、五輪エンブレムのデザイナーとしての地位を得ようとしたこと、それは業界の闇と陰謀によって佐野先生がやらざるをえなくなってしまったことだというのは誰が見ても一目瞭然で、佐野先生は完全に被害者なんだ。9/1付けで写真の権利者が佐野先生からコンタクトがないことを明かしたけど、その程度の不手際を責めるのは明らかに不当だと思う。佐野先生のところは担当者がいつも不在なくらい多忙なんだよ。お前ら家に引きこもってるニートとは違うんだよ。
芸術って自分たちが住んでる時代、社会がどういう価値観を持っているか。を、
だから、現代の絵とラスコーの洞窟壁画とか、昔の絵画とか比べてもあんまり意味ないと思う。
それができないよりはできる方が有利なのは確かだけど、別に必須ってわけでもない。
サッカーやるなら足が速い方が有利ぐらいのものだと思うんだよね。
ウォーホルの価値って、いち早く現代の大量消費社会、世界の均質化を表現して見せたことだと思うし、
ベラスケスを理解するのに、封建社会とキリスト教の関係を理解せずには語れないだろうし、
印象派は近代的な市民社会、個人の自由とか人権という概念抜きにはありえなかっただろう。
芸術家が時代を越えた、万人が感動できる究極の美を目指してるというのは幻想だと思うんだよ。
日本だと芸術は個々人が心の赴くままに見て、素直に感動を受け止めればいいとか、
感想なら、クソを素晴らしい香りと言おうが白地図に対して白い!と文句をつけようが自由だ。
だが、「進撃の巨人」と「Mad Max: Fury Road」を並べて批評するのは、適切だろうか?
クソリプ、という言葉がある。便利かつ端的だ。
例えば、最近の映画だと『ドラゴンボールZ 復活の「F」』がある。
「フリーザの進化形でゴールデンフリーザってダセえ!子供か!」と言うのはクソリプだろう。
作品の質を「進撃の巨人」と比較するなら、「スポンジ・ボブ 海のみんなが世界を救Woo!」とかのハズだ。
「フィニアスとファーブ ザ・ムービー」と「映画けいおん!」を比較してはいけないのだ。
どちらが偉いとか、どちらの方が優れていると言う意味では無く、分類が違うのだ。
同じ図鑑に載っていない。動物園なら違うコーナーに展示されているのだ。
似ていても「パシフィック・リム」と「巨神兵東京に現わる」を比較するのは違うというのは判るだろう。
同じように「Mad Max: Fury Road」と「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の比較もナンセンスだ。
羽生善治と町内一将棋に強い八百屋の親父の打ち筋を比べるような、傲慢でかつ無意味な比較だ。
なぜ、「ローレライ」や「日本沈没」での実績がある樋口真嗣監督を、
音痴だがタップダンスの上手いペンギンがタップでペンギンの世界を救うという
愛らしくもマッドさとは無縁な「ハッピー フィート」でアカデミーまで取ったジョージ・ミラーと比べるのだ。
(ペンギンで稼いで世紀末映画撮れるって小躍りするジョージもジョージだが)
「パシフィック・リム」は、全世界でこそ400億だが、日本に限ればわずかに15億の興行収入だった。
つまり、広報宣伝にテレビが大きく絡むキャスティングや出資者の納得するシナリオ必須など、
魑魅魍魎の跋扈する邦画界において稼げる稀有な監督が、樋口真嗣なのだ。
その意味で、「みんなの感想は面白いけど批評としてはなんか違う」というのを言語化するきっかけになった
壁から出ることを拒んだ制作者たち 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN - 小覇王の徒然はてな別館が「ハンガー・ゲーム」や「メイズ・ランナー」をあげているのは、実に慧眼だと思う。
内気な女子高生とイケメン・バンパイヤが恋をする少女漫画のような「トワイライト」とか
高校生になると性格診断で中二病な名前のグループに振り分けられて争う「ダイバージェント」とか
様々な欲望をストレートに発散できなかった鬱屈を青臭さでコーティングしたようなヤングアダルト映画と比較すべきなのだ。
これを外すと、クソリプになってしまう。
大金庫の奥に女性たちを大事に保護し、同時にモノとして扱っていると端的に示すシーンや、
急な方向転換にもボスの意向を確認してから迅速に隊列を組み直すウォーボーイズや
轢くまいと同乗者を無視して咄嗟にハンドルを切るイモータン・ジョーの姿など、
アレだけ判りやすく演出しながら終始ハイテンションなマッドマックスとは違うジャンルの映画なのだ。
主要なキャスティングで、手堅くまとめている。
所属事務所の調整がエクストリームなのに、比較的演技派で固められている。
演技や配役に関しては、さほど文句は出ない(観た人が納得する)キャスティングと言える。
かつ、きちんとバラエティー出演やワイドショーで取り上げられやすい人を入れていて、広報的にも万全。
日本の映画は(洋画も邦画も)「テレビで宣伝→一斉に人が来て儲かる」という流れなので、
たまに演技の素人さんが入るのもご愛嬌なんだけど、そんなことはない手堅い布陣。
はてブは、ワリと「要旨全無視で1行だけにツッコム」という日本人(主語)の減点指向を振り返る場所だが、
「面白かったね!じゃ、ご飯食べてラブホ行こっか」みたいなカップルとか、
「カッコ良かったな!キモかったし!カラオケ行こうぜ!」みたいな高校生とか
「あのシーン泣ける~とツイートしたしファミレスにお茶行こ」みたいなグループとか、
ターゲットとなる観客たちにとって、本作は微妙なラインではある。
要らないエロがある。エロならエロ、重いシーンなら重いシーンと、きちんと分けないと観客が戸惑う。
また、主役級のキャラクターの動機がフラフラすると理解できずに置いてけぼりになる観客が多くなるので、
その意味で単純に「必要のないシーンが有る」「描きたいシーンを繋ぐシナリオが甘い」という残念な出来ではある。
矛盾するようだが、シーン優先、つまり場面やある瞬間の一連のお芝居だけを覚えて帰る観客は意外に多い。
機関銃ぶっ放して快感言っとけば客が喜ぶ時代から、人間さほど進歩してないとも言える。
特撮は流石に良い出来で、その点を見に行くのであれば問題はない。
ただし、ドラマパートは監督と脚本の思想によるものか、全体を通して複数人のレビューを受けてないお芝居に見える。
動機付け、感情の流れ、イベントと対応、演出、全てがパッチワークというよりは、ツギハギになっている。
クソリプ良くない。
例えばオーストラリアのゴア映画と、ハリウッドのマイケル・ベイ映画を比較しても意味は無い。
同じように「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」と「Mad Max: Fury Road」との比較もナンセンスだ。
キチンと適切な比較対象を持ってきた上で、クソな部分をクソだと言うのが、批評だ。
儲かる、だがしかし面白くはない。ハリウッド映画とは方向性が違う。
そういう実に邦画らしい邦画で、ちゃんと儲けて実績も残ると思う。
平成ゴジラとハリウッド2回めGODZILLAの中間みたいな。
個人的には、町山智浩が文句つけながら諫山創とヘッドギアに脚本書いてもらえば良かったと思う。もう遅いけど。
総評としては、「良いキャスティング」「演技は良い」「特撮は良い」「シナリオは悪い」「演出は悪い」。
演技が良い分、邦画の特撮映画としてはマシな方だと言える。まあ夏休みの中高生~若者向けだろう。
映画には様々な見方が存在するので、ハリウッド映画やフランス映画が優れているというわけではない。
映画館内で飲み食いして踊る社交場になっているインド事情的には、フルコーラスで踊りが入っている映画が良い映画だ。
(インドも南の方は保守的なのでそこまで騒ぐわけではないみたいだけど)
話題性をテレビで宣伝して人に来てもらって稼ぐ邦画が悪いとは言わないし、そういう方向性もあると思う。
ドニー・イェン仕込みのアクションを和風に落としこんで撮り切った谷垣健治だって、ワーナーからカネ引っ張る理由に「るろうに剣心」を使ったわけで。
好きな映画は見に行く、嫌いな映画は積極的に見に行かないを徹底しないと、いつまでたっても方向性変わらないぞ。
世の中カネ稼いだものが偉い。勝てば官軍負ければ賊軍。
確かに「政策芸術」をやるうえで芸術が動員されるかもしれないとは終わりのほうに書いた。
それでも、概念としてはプロパガンダ芸術と「政策芸術」は異なる。プロパガンダ芸術は「政策芸術」のひとつの可能な手段にすぎない。
要約:「文化芸術懇話会」設立趣意書にある「政策芸術」は国策芸術を意味するのではなく、政策を芸術作品との類比のもとで捉えることを意味する。後者の問題性に目が向けられるためにも、前者のような誤解が本記事で少しでも訂正されることを望む。
産経新聞が2015年6月25日に伝えたところでは、自民党の有志が立ち上げ、同日に第1回会合が行われた党内勉強会「文化芸術懇話会」の設立趣意書は、会の目的として「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を掲げていた。
◇安倍首相支持の勉強会「文化芸術懇話会」が発足 - 産経ニュース http://www.sankei.com/politics/news/150625/plt1506250043-n1.html
「政策芸術」という耳慣れない言葉について、この段階ではそれ以上の情報はなかったものの、多くの人がこれを「政策によって推進される芸術」さらには「プロパガンダ芸術」を意味するものと受け止めた。
第1回の会合で、講師を務めた作家・百田尚樹氏だけでなく、出席した自民党議員からもメディア統制を提案する発言があったと伝えられたことから、このように理解されるのも無理からぬところがあった。
◇自民党:安保法案で報道批判続出…改憲派の勉強会 - 毎日新聞 http://mainichi.jp/select/news/20150626k0000m010122000c.html
ところが、翌26日の衆議院平和安全法制特別委員会で、民主党の寺田学議員がこれらの発言について追及した際、加藤勝信官房副長官から、改めて「文化芸術懇話会」の趣旨について説明する場面があった。下に引用するように、これは上述のような理解とは異なるものである。
(加藤官房副長官の発言)「文化芸術懇話会、これは政治家に求められる教養と想像力を得るため、芸術家と共通する創作手法と成果の普遍性を追及(原文ママ――引用者注)し、世界の中で輝ける日本を創造し、デザインする上で必要不可欠であり、心打つ政策技術(「心を打つ政策芸術」の誤りか――引用者注)を立案し、実行する知恵と力を習得することを目的として開催されたものでありまして(後略)」
◇【安保審議詳報(1)】百田氏「沖縄2紙潰せ」発言で紛糾 民主・寺田氏「由々しき発言だ。党総裁として処分すべき」 - 産経ニュース http://www.sankei.com/politics/news/150626/plt1506260020-n1.html
つまり、設立趣意書にあった「政策芸術」とは、政策そのものを芸術作品になぞらえる考え方を示していたのだ。
これは政策の国民の心理に訴える面を強化しようという動きであり、注意して見ていく必要があるだろう。(追記:「プロパガンダ」という言葉を使って言い直せば、「政策芸術」とは、手法レベルで芸術を利用しながら、政策の実行過程そのものをプロパガンダとして機能させる動きだといえるだろう。そうした動きの一部として、政策を具体的に表現するために普通の意味での芸術作品が利用されることも大いにありうる(そうなれば「プロパガンダ芸術」だ)。「政策芸術」=プロパガンダ芸術という理解は起こりうる現象の一部を捉えていた。しかし、「政策芸術」はそのような狭義の芸術作品の利用よりも幅広く、〈芸術作品〉のように政策を立案・実行する現象の総体を指しうる概念だと考える。このように広くとった場合、「芸術家と共通する創作手法と成果の普遍性」の政策への転用は、表面的には芸術が関係しているとは思えないような、見えにくい形で行われることもあるだろう。)
さらに、いまのところはっきり表明されているわけではないが、政策に〈美〉の観念が持ち込まれるとすれば、より一層警戒されるべきだろう。〈美しい〉政策を打ち出すことと、〈美しい〉国家をデザインするという発想は親和的である。(そうした〈美しい〉政策は、現在誤解に基づいて警戒されているように統制的な芸術政策という形をとることも考えられるが、対象は必ずしも文化・芸術に限られない。その点では、単なる国策芸術の推進よりもたちが悪いかもしれない。)
「政策芸術」=政策によって推進される芸術という誤解は、時間の経過とともに少しずつ訂正されつつあるものの、まだまだ残っているようだ。こうした状況では、上述のような問題性に目が向けられづらくなる。本記事は簡単なまとめにすぎないが、誤解の訂正に少しでも役立てばいいと思う。
時は201X年、巷では誰が作ったのか分からないアニメが動画サイトを中心にカルト的な人気を博していた。
噂では完全な個人製作で、作者は作品の完成と同時に、貧困にあえいで自殺したらしい。
商業的には失敗したが、内容は素晴らしく、社会現象にまでなるほど。
秋葉原の一角にファン達が集結し、この作品の同人活動だけで生活する集団が現れる。
彼らの熱心な布教活動のおかげで、世代も性別も、趣味趣向も超えて広く愛される作品となった。
クールジャパンで一山当てたい政府も、海外に輸出しようと企んでいたりする。
だがどうにも、おかしい。
このアニメのファンには、ただの熱狂的なファンでは説明のつかない異常な行動が目立ちすぎる。
同人活動をやっているのは、始めこそコアなオタクしかいなかったが、
やがてそれまでオタク趣味とは一切無縁だった中年男性やらヤンキーやらフェミニストやらまでこぞって同人活動を始める。
しかも彼らのスキル上達も異常な速度で、すぐさま商用になるような作品を量産するようになる。
そして何かに取り憑かれたように作品を作って、寝食もおろそかにして死者が出るようになる。
世間はそれをキモオタ怖いなぁ、なんて冷ややかな目で見ているが、実は彼らは芸術作品を通して感染するウィルスのような物にやられている。
アニメ、音楽、小説、歌、イラスト、漫才、ジョーク、ありとあらゆる物が感染源になる。
これは生物的なウィルスではなくて、ある種の感動を味わうと人間の脳の神経回路の一部が変化してしまうことが原因で発症する。
この神経回路が脳内にできあがると、同じような感動をもう一度味わいたいという中毒症状が出る。
例えば件のアニメ動画を不眠不休で24時間見続ける生活を送ってしまうとか。
すると彼らは自然に同人活動を始め、感動の再生産を始めるというわけ。
これに気づいた人々が警告を発するが、そんなバカなと政府含め世間は取り合わない。
そして感染は広がり続け、いくらなんでもおかしいと、政府が件のアニメおよび周辺作品を取り締まろうとする。
だが、時既に遅く、感染者達はアニメ動画やそのスピンオフ作品に頼らずに感染者を増やす芸術表現を編み出していた。
もはや感染経路はアニメや同人誌だけではなく、小説や音楽、果ては世間話のついでに交わされるダジャレにも及んでいた。
政府関係者にも発病が相次ぎ、政府機能がマヒしかかる危機に見まわれる中、
消防、警察、自衛隊、総力を上げて感染者と思しき人物を逮捕、拘束していく。
素人集団が自警団を立ち上げて、さらに状況は混乱を極めていく。
もちろんネット、テレビ、ラジオ、新聞などのメディアは検閲されるかシャットダウンされる。
人々はおよそ娯楽と呼ばれる全ての娯楽を捨てていく。
文字を書くことはおろか、鼻歌を歌う事も冗談を言うことも危険視される社会ができあがる。
それでも感染は止まらず、事態を重く見た米政府は日本の主要都市50箇所を核攻撃し、約8000万人が死亡する。
海外に住んでいる日本人は無条件で隔離され、リンチに遭い、日本産の絵や日本語で書かれた文章が徹底的に焚書される。
そこまでやっても感染は止まらず、やがて人々はあらゆる文明活動を捨て、人類は滅びる。
どうよ?
面白くね?
香山リカと小林よしのりの対談の話題を見てからどうにも我慢がならなかったのでここに書きたい。
小林よしのりはアイヌは既に血が薄くなっていて民族と言えないというようなことを言っていたらしい。
中国はチベット侵攻からしばらくの間はともかく、現在はその土地へ漢民族を移住させ経済的に支配する事で困窮するチベット族の女性が漢民族の男性と結婚するという類いの同化政策が主だと思う。
中国があと100年、世界の声を無視して、今のアイヌと同じ程度に混血が進めば、小林よしのりと同じ事を言えば許されることになる。
小林よしのりは確か九州出身だから、現実感というか関心が今まで無かったためにこんな矛盾した事を言うのだと思う。
かつて日本人がアイヌの民族的特徴を研究する為に勝手に墓を掘り返したり、祭や儀式は宗教的な意味合いのあることは日本文化でも同じはずだが、観光目的で毎日その儀式をさせ、その意味を失わせるようなことをしてきた事。
それに怒りを覚えて活動し、議員になってアイヌ新法が制定される原動力となった萱野茂の存在を知っている北海道民としては、小林氏の発言はとんちんかんで無責任としか感じない。
アイヌの人たちは昔ほどではないにしろ、今も差別を受けていて、中にはそれがきっかけでアイヌのアイデンティティを意識し活動している人もいる。
彼らはそもそも差別の原因が民族の違いに基づくものだから、差別がある事そのものがアイヌが民族として確かに存在している事を示している、ということを皆も素直に受け入れられるのではないか?
ただ、差別が受ける側の人間は、差別する側にとって自分達とは違うグループの人間だという考えがあるとすれば、差別されるグループはある意味民族の要素を持っているのではないかとも思う。
例えばオタク。
脱オタが必要とされる服装は民族衣装と同じでやっぱりそれを理由に差別される。
差別される要因となる考えに基づく文学、芸術作品がある、つまり文化。
専門的にはどうかわからないが、少なくともより大きな枠、或いは別の視点で民族、部落(東北あたりから北だけかも知れないが集落の意味でこの言葉を使う。差別的な意味ではないが、結局、差別の原因となる多数派とは異なるグループと言う意味では同じだと思うのであえて使ってみた)をとらえなおしては?と言う問題提起としては悪くないし、議論の余地はあると思う。
今この増田を読んでるあなたは、「ジャズ」、と聞いたとき、何を思い浮かべますか。
十中八九、そこらへんのファーストフード店や喫茶店で流れている、”おしゃれ”な音楽を思い浮かべるでしょう。あるいは、スウィングガールズ効果で、吹奏楽界隈でも一時期流行ったSing Sing Singのような曲も、頭の中で流れるかもしれません。
これは、まさにそうした人々のための増田です。広いジャズ世界の中でも極々一部の曲を聴いてジャズを知った気になる、あるいはジャズはどこか古いものだと思ってしまう、これほどもったいないことはありません。
前置きが長くなりますが、以下から本題です。動画サイトへのリンクも張っておいたので、気に入った方は今後のジャズ界の振興のためにもAmazonなりiTunesなりなんなりで高音質のものを買ってください。
最高。何も考えずに聴きに行くべし。
これだけだとあまりにも不親切だからもう少し何か書くと、Anthony Jacksonのベースラインを聴くだけでも絶頂できます。
二発目は稀代のコンポーザー/アレンジャーVince Mendozaを擁するメトロポールによるバルセロナ。聴けば分かるように、オーケストラとビッグバンドのコラボレーションが、一昔前の映画音楽でよく見られたような、ストリングスはストリングスで独立していて、前でなんかジャズの奴らがごちゃごちゃ遊んでいるというものではなく、不可分のものとして一つの芸術作品を作り上げています。はい、意味が分からないという人は、ぜひ一度だまされたと思って聴きに行っていましょう。
演奏は慶應義塾大学Light Music Society、通称慶応ライト。恐らくこれを聞いた人は、これがジャズなの!?と驚くでしょう。ジャズです。心が洗われるような、美しいその音楽性には涙を流すほかありません――大自然の息吹を感じるのです。Maria Schneiderはこの他にも多くの曲を出していますが、初期のアルバムはもっとジャズ色が強めな一方、最近のアルバムはクラシックにかなり傾倒しているので、この曲が収録されているSky Blue前後の作風が好きです。
ちなみに、この演奏は生で聴いていました。
これもまたきれいな曲です。前曲よりもフュージョン寄りですが、ドンキーコング2のとげとげタル迷路と、どことなく似た雰囲気を持っていると思いませんか?独特なソプラノサックスの音色と共に歌い上げられるメロディ、ミニマルな雰囲気を生み出しているバック。気分は海の中に漂っているようです。少なくとも私は広大な海原に一人放り出されて息を止めたまま海流に流されるままの自分を夢想しながら聴いています。
http://www.nicozon.net/watch/sm9452541
北欧系ビッグバンドでは有名どころの一つです。ディスコ音楽とジャズの融合という、見た目だけだとゲテモノ間違いなしですが、いざ聴いてみると違和感はありません。まあ、もともとジャズもみんなで楽しく歌って演奏して踊るものだったのですから、親和性は元々高かったのでしょう。映像からも分かるように、踊っています。というか、思いっきりディスコです。ちなみに、このバージョンはショート版で、アルバムにはロング版が収録されており、ロング版のテナーサックスソロは必聴です。
Yellow Jacketsのナンバーはどれもかっこいいのですが、今回はこの「ウサギとカメ」をチョイスしました。ピアノの美しいイントロ、ドラムによって加速するドライブ感、そしてサックスのどこかゆったりとしたフレーズと絡み合うせわしないピアノ――ここに、ウサギとカメの名称の由来が来ているのだと私は勝手に思い込んでいます。これはかっこいい曲だ。
みなさんもグラミー賞を取ったということでご存知の上原ひろみ。ですが、この人の曲を実際に聴いたことがある人ってどれくらいいますか?ということで、数ある曲の中から、変わり種に入りそうな、シンセサイザーがかわいらしくピコピコ鳴っていて、どことなく8ビットの香りも漂ってくる、ただでさえ聴いていると体力が奪われるのに、ライブだから余計に疲れる、カロリーの高い曲をチョイスしました。目まぐるしく変化していく曲調にあなたは目を回すこと間違いなし。
ジョジョのエンディングテーマを演奏していることでネット界でにわかに脚光を浴びているPat Methenyによるナンバー。この人も良い曲をたくさん持っているのですが、今回はメセニーらしさがぞんぶんに出ている曲を選びました。よくわからない拍子、男声ヴォーカル、爽やかな雰囲気。はい、メセニーですね。ただ、こだわりのエレキギターの音を聴けないのが残念です。
本当はメセニーの世界を余すところなく堪能できるOrchestrionを紹介しようと思ったのですが、長すぎるのでやめました。
名前からして古臭さを一切感じさせないですね。フォボスとか、宇宙にまで行っちゃいましたよ。そしてこのバンド名も厨二病溢れる名称。曲も退廃的な雰囲気を漂わせちゃって、なんか厨二病っぽいです。テナーサックスソロも厨二病っぽいです。
曲調がしょっちゅう変わる曲その2。とにかくにぎやかで豪華で壮大で荘厳でいかめしくていかつくて以下省略。とにかく聴いていて飽きません。疲れません。おなか一杯になりにくいです。上原ひろみのものと比べたら、耳にやさしいです。あえて無駄にでかい虚栄心を張ったスケールの曲なので、ラストにふさわしいでしょう。
いかがでしたでしょうか。
ぼちぼち来春の就業を控えている学生さん達が、社会人装備を揃える時期に近づいているし、
クリスマスだの年末年始の実家だのでもプレゼントで貰ったりするかもしれないので、
リア充爆発しろ。じゃなかった、装備品でも特に高めの腕時計についてちょっと言っとこう。
高いから良いものではないし、その装備品はオプションだよ、という点についてね。
まず、「これは高かった」という話が下品だっていう感覚は、持っておこう。
次に「高いから良いものだ」という発想は、骨董品でダマされる爺さんと同じだと言うのも基礎になる。
tpro business
腕時計はもはや実用品ではない。宝飾品は値札に価値があるのであって、安くしたらダメ。
qESstTkj
機械式腕時計なんてもんはもはや高いから意味があるもんであって、安くなったからといって需要が増えるとは思えんねえ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/ascii.jp/elem/000/000/939/939920/
この手の「宝飾品は値札に価値がある」という価値観は、セールストークであって「売る側の都合」というのは抑えておこう。
例えば、ダイヤモンド。
3.0カラットのカラーがHで、VS2クラリティとなると、おおよそ200万程度の価値がある。
これが、4.0カラットになると、400万ぐらいだ。
(VS2は、一般人がお目にかかれる最高レベル程度。I3なんかだと4.0ctでも150万くらいだったりする)
つまるところ、金の延べ棒なんかと同じでインフレ・デフレと無関係な、一定の価値を持つ資産としての意味合いだ。
突如政変が起こりました中央銀行の都合でインフレします、みたいなのに影響を受けないための、防衛的な意味合いの資産。
一般人にはあまり関係がないが、客観的な価値は知っておいても良いかもしれない。
有名なところで言えば、シータが身に付けていた飛行石のペンダントだろう。
魔除けであり、王家の証としても意味を持っている。(劇中ではもっと他の価値があるけど)
例えば軍人は略章・略綬として、「勲章を持っている」事を示す小さなリボンをつける習慣がある。
大抵の軍隊では左胸に付けているが、これには金銭的な価値は無いしファッションでもない。
アメリカにおけるパープルハート章の様に、その授与歴は名誉を示すものだ。
まあ、十字架のネックレスやミサンガ等なら、馴染みもあるだろう。
簪や櫛、カフリンクスからネクタイピン、メガネマフラーベルトに手袋と、
そのカテゴリーとして宝飾品がある。
これは権威を示すのでも魔除けでもなく、センスを示したり何かを表現する為に身につける。
腕時計がもはや実用品ではない、というのは一定の説得力がある。
まあ、メッカの方角を示すクォーツ時計なんていうヒットした実用品もあるし、
スポーツウォッチなんかの実用品として使われている分野もあるけど、
腕時計というのは、宝飾品として位置づけられていると言って良い。
では、先の3分類のうち、どれだろうか?
現代の一般的な日本人は、ファッションアイテムか、権威の誇示のどちらかだろう。
(私は魔除けとして水晶の腕時計を身に付けている!と言う人は少数派だろう)
ここに不幸な逆転があって、特に日本の男性社会人にとって、権威を価格に求めることがある。
腕時計には宝飾品としてではなく、芸術作品としての側面もある。
美しい機構があり、それを組み立てる職人が居て、その作品性を買う、というパトロンがいる。
これは、布に塗料を塗りたくった「絵画」に価値を見出す人間がいるのと同じだ。
みんな大好き『なんでも鑑定団』の中島誠之助さんは、値段が低かった壷や皿に対しても、大事にしてねと言う事がある。
粗悪なコピーや露骨な偽物には嫌な顔をするが、数が多い人気がない市場で売れないものに対しては愛を持って接する。
これは、「良いもの」と「市場価値があるもの」とに差があることが解っているからだ。
同じように、本来「良い腕時計」と「高価な腕時計」とは、独立の概念のハズなのだ。
ファッションアイテムとして、スーツに似合うベルトや盤面を選び、他の装身具(カフリンクスやネクタイピン)との調和が大切であって、
品質が良く手入れが頼みやすく、好みの形があるからという理由で「結果的に」高価であることがある、というだけのハズなのだ。
湿度が高く夏暑いから皮ベルトでなくメタルにしようと考えた時点で、それは実用品なのだ。
同じように「社会人なら10万円以上の腕時計は付けないと」みたいなバブルを引きずる親父の意見は無視して良い。
さっき、ファッションアイテムとして選ぶと結果的に高くなるという話をしたが、実はファッションは外見なので、クォーツで良い。
なぜ「機械式」なのかという理由は、それが「嗜好品」だからだ。
チチチと着実に動き、秒針がスムーズに流れ、週に数分ズレたとしても、その歯車の塊を腕につけることが楽しい。
冠婚葬祭と接待の時に、古い知り合いからもらった昔のオメガを付けることがあるが、やはり場にすんなりと馴染む。
油を挿そうが調整しようが日に3分はズレる時計だし、中古でも大した値段じゃないが、自己満足できる。
その意味で、実用的な品質で、つけていて楽しくなるような機械式腕時計が手頃な価格で手に入るのであれば、それは喜ばしいことだ。
(複合遺産:文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるもの。)
(1) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(2) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
分からん。
(3) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスだ!!なんせうんこが出るんだからな!!アナルは日々進化している!!
(4) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。
アナルは芸術だーー!!逆さに盛り上がったアナルは人類の創造的才能を表現している!!
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
建築物とかではないな。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
知らん。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
関係なさそうだ。
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
これも関係ない。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
顕著で普遍的なアナル思想、アナル信仰だ!!さらにAVという芸術作品と直接関連している!!
前ほど真面目に聞いてないけど
気に食わない。
それはクリエイションなのか。
ただの伝統芸能の再演じゃないか。
なんであんな堂々と
ストーリーを作って
大々的に宣伝してるんだろう。
お客さんとして聞きに行ってもいい加減なバイブスを感じ取ってしまって
気分が下がる。
(音楽が好きな人ってのは曲名/アーティストを知ってる人じゃないけど)
音楽に対して情熱のあるプロモーターがいいShow Caseを作っていくと思っている。
(当たり前だけど)
新しいことをしたり、新しいものを見つけるのは
努力しないのか?努力じゃなくても好きという気持ちがあれば自然と
いろんなものを聞いたり作りたくなったりするんじゃないか?
センスが無いことを認めているのか。
下の世代への影響を考えないのか?
音楽が好きだからこそ常にUpdateして欲しいと私は思っている。
を見つけた瞬間のわくわく感が欲しい。
シーンを引っ張りたい。
前ほど真面目に聞いてないけど
気に食わない。
それはクリエイションなのか。
ただの伝統芸能の再演じゃないか。
なんであんな堂々と
ストーリーを作って
大々的に宣伝してるんだろう。
お客さんとして聞きに行ってもいい加減なバイブスを感じ取ってしまって
気分が下がる。
(音楽が好きな人ってのは曲名/アーティストを知ってる人じゃないけど)
音楽に対して情熱のあるプロモーターがいいShow Caseを作っていくと思っている。
(当たり前だけど)
新しいことをしたり、新しいものを見つけるのは
努力しないのか?努力じゃなくても好きという気持ちがあれば自然と
いろんなものを聞いたり作りたくなったりするんじゃないか?
センスが無いことを認めているのか。
下の世代への影響を考えないのか?
音楽が好きだからこそ常にUpdateして欲しいと私は思っている。
を見つけた瞬間のわくわく感が欲しい。
シーンを引っ張りたい。