「私小説」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 私小説とは

2016-03-07

http://anond.hatelabo.jp/20160307110511

自体は,ふつう自然科学系の新書私小説っぽい)で,そんなに似非ってわけでもなかったです。身バレしたくないので詳細は御勘弁。

でも,貸されるに至る話の流れがちょっとよく理解できなかったのですよ。たぶん,医師の方の脳内では,理屈がついてるんでしょうけど,いろいろ尋ねても,話題が飛躍してて,話してて疲れてしまいました。疲労感ばかりが頭に残って,ここで具体的に説明できるほどの材料も今あまりないのです。

2016-01-28

本読んでて「お前のことはどうだっていいから、知識だけよこせ」って気分になることがある

お前ってのはもちろん著者に対して。

私小説とか随筆読んでるわけじゃねーんだぞっていう。なーんでどうでもいい箇所で「私は私は」って自己アピールしたがるかね?

「あぁまたこのタイプ人種か」ってなったらその手の著者の本は二度と買わないことにしてる

2016-01-07

http://b.hatena.ne.jp/entry/topisyu.hatenablog.com/entry/Kindle_self_publishing_part1

cyberglass KDP使うと簡単に自著を出せますよね(その分Amazonにけっこうマージンを取られますが)。topisyuさんの電子書籍も買いました。自分も昔一冊出しただけなので、本格私小説でも書こうかな。

ってあったから調べた。

amazonリンクはるのもあれなんで本名でググッて。

★☆☆☆☆ 写真の質が・・・2012/12/21

100円と言えど有料で配布する質のドキュメントではありません。

ブログの1ページを100円で買わされたような気分です。

★☆☆☆☆ 無料で見られるブログを有料にしても買う人はいません 2014/1/20

要は、そのブログインターネットアクセスして、

見ればいいだけで、無料で見られるものを、いくら100円とはいえ、有料で買う人はいません

いろんな意味でひどすぎワロタ

2015-12-31

2015年 増田文学傑作選

傑作選とは言ってみたもの増田文学収集し始めたのは4月からだし見落としも多いと思う。とりあえず気になった作品を並べてみる。

葬式饅頭

http://anond.hatelabo.jp/20090409060156

いじさしさと少しの明るさと。作風は似てるとは言えないのに大友克洋短編のようだと感じた。

カルピス

http://anond.hatelabo.jp/20150812123845

言葉選びとテンポが心地よい性春ストーリー。少しだけ気持ち悪さの残る文末は増田が飽きてしまったが故だろうか。だがそこがいいという意見もある。

ポルポト美男美女という理由容姿のいい人間を殺したというのは嘘かもしれない

http://anond.hatelabo.jp/20150819024858

世界自分への分析。冷静な劣等感と小さな狂気

ひよこ

http://anond.hatelabo.jp/20150828134931

ノンフィクション私小説系。特に事件があったわけでもないのにこのタイミングでひよこについて書こうと思った増田気持ちも気になる。

ビンの蓋の話を読んで、思い出したこと

http://anond.hatelabo.jp/20150828140105

視点だけどメルヘンでも色キチガイでもない甘酸っぱい恋物語

保っ点取の夕暮れ

http://anond.hatelabo.jp/20150901093147

増田SFホラーかもしれない。

うんこ我慢道

http://anond.hatelabo.jp/20150904150916

みんな大好きなうんこネタ。一生をかけて戦う増田の苦労と覚悟と前向きさが伝わってくる。

BL老師と俺 -BL暴力-

http://anond.hatelabo.jp/20151006022118

これを文学扱いしていいのかは悩んだが十分な文章力構成を備えているため問題なしとした。

とあるチ○コの話

http://anond.hatelabo.jp/20151008002416

これも増田文学扱いすることにやや抵抗のある作品だが簡潔かつストレートな心情、状況の描写はなかなか悪くない。

おにぎり食べる増田は海の味あの美海は出す丸下手着にお(回文

http://anond.hatelabo.jp/20151021083147

すいようびの増田はまだ生きてるのか?2016年にはプロになれるのだろうか。

オタクから娘を守った

http://anond.hatelabo.jp/20151027084358

プリキュア世界

自分は鮎が好きな気がする。

http://anond.hatelabo.jp/20151118213435

にじみ出る鮎愛

妻の元彼に頼み事をされた

http://anond.hatelabo.jp/20151120141725

村上春樹作品に出てくるような機能的かつ無意味な会話

川本くんが生まれ理由

http://anond.hatelabo.jp/20151125231008

やや技巧に走ろうとしている気はある。今後の作品に期待したい。

ブクマカおにいちゃんと増田の私

http://anond.hatelabo.jp/20151204143158

増田メルヘン

2015-12-13

http://anond.hatelabo.jp/20151213002258

古風な短篇私小説。話としては、悪くない。

あらすじ

大学生の「自分」は文学部からの転部を考えている。

事務室に行くと、特に証明も求められないまま、

自分名前が入った書類」を手渡される。

しかし、転部先は「微塵も決まっていない」し、

書店でも「微塵も読みたい本がない」ことに気づく。

自身容姿コンプレックスから

源氏物語の末摘花に親しみを感じているが、

店内で現実の「醜い女を見て苦しく」なる。

「志願先の学部を決めなければ」と思いながら、

本屋から出てバスに乗るのであった。

解説

劣等感」という主題が興味ある変奏によって描かれる。

まず事務室の件で、特徴的な人間であることがわかる。

その特徴とは容姿であるが、そのために周囲との折合いは悪く、

劣等感を抱く原因にもなっている。

末摘花への共感は、現実の醜い女との対比になっており、

空想で得られた共感も、現実では醜さでしかないことを示す。

「読みたい本」と「志望先の学部」の符合関係は、

そんな「自分」の先行きの不透明さを明らかにしている。

センスはあるので、引き続き努力するように。

2015-11-22

"シャルリー・エブドの漫画家" はテロイスラムについて何を書いたか

フランス漫画家ジョアンスファール Joann Sfar は、シャルリー・エブドに2004年から2005年9月まで"Mon cahier d'éveil"(僕の情操教育ノート)という作品を連載していた。


その後、今年1月のシャルリー・エブド襲撃事件を受けて、ハフィントン・ポスト フランスブログに"Si Dieu existe" というイラストエッセイを発表。以下はその連載第2回、"Un concert pour Cabu"の日本語訳である

イラスト部分は実際にハフィントン・ポスト フランス版でご覧いただきたい。

http://www.huffingtonpost.fr/joann-sfar/dessins-sfar-cabu-hommage_b_6658718.html


なお、ページ番号は連載第1回からの通し番号となっている。


12

これはお葬式じゃない


テンポを下げないで!くれぐれもテンポを下げないで!」


「さあ!」  フレッドマヌーキアン

13

カブっていう大した奴


カブのためのビッグバンドだ!

そしてファンファーレは彼の仲間たちの演奏だ。

いま君は泣いていないけど、それは君が砂漠みたいに乾いちまったからなんだ!」


カブ兄弟ウォッシュボード演奏した

14

それは本物のイスラム教じゃない。


みんなが正しい、そしてみんなが間違っている。

というのもイスラム教徒信者とりまとめる最高機関を持ってないからだ。イスラム教教皇はいないんだ!

それゆえに独裁者達や過激派は、論破されることもなく、イスラム教を不当にも自分のものにすることができてしまう。

フランスでは、人道的なイスラム教徒代表する人たちがテロリズムに対して抗議したけれど、その抗議の正当性は、世界的に認められたどれかのイスラム教機関から来ているわけではなかった。

このところ僕は、「"イスラム教改革する"必要があるんじゃないか」とみんなが口にするのを聞いている。

だけど「一つのイスラム教存在しているわけじゃない。

数え切れない程のイスラム教徒はいるけれど、彼らが信奉する戒律について、正当性があるのか無いのかを一刀両断で決めてしまえる「誰か」は存在しない。

それが現在構造からイスラム教イスラム教徒のための"バチカンII"を作ることはできないんだ。

15

「"バチカンII”ってアラビア語でどう言えばいいんだろう?」


目下のところ、僕は神経過敏になっている。

ジョアンメイクしなきゃいけないんじゃない?」

「もうしたよ」

16

僕たちがその姿を絵に描く権利があるにせよないにせよ、ムハンマドは剣を持ったただ一人の預言者だ。これは圧倒的大多数のムスリムの、寛大で平和な日々からとても隔たりがある。

逸脱した暴力は、この独特なイメージ武器を持った神の使者のイメージの下に結集しようとしている。

そうだね、改革必要だ。でも改革をもたらすのは誰だろう?フランスにはそのための充分な手立てがない。イスラム教を和らげるためにムスリムが声を上げるなら、その運動ペルシャ湾から起こらなければならないだろうし、そうすれば豊かなオイルマネー活用できるに違いない。

17

もちろん、敵は原理主義者だ。そして今日、僕たちの言うことを聞いてもらうには、とてつもないイマジネーションと力強い声が必要だ。

僕はムスリムに心から敬意を表する。今日暴力の第一の犠牲者ムスリムだ。そして、「コーランが推奨する聖戦は、何よりもまず心の中の悪魔と戦うことだと考えなければならない」と発言する勇気ムスリムは持っている。


ムスリムは敵じゃない、第一の犠牲者なのだ

それでも自己批判しろという声がムスリムには突きつけられている。


スタジオ105 カブのためにフィリップバルはトレネの歌を歌う

18

僕は、夜明けの光に照らされた雨の中のカブ夫婦の姿を思い出す。シャルリー・エブドの訴訟中のことだった。最後カブ挨拶したのは僕の映画撮影の直前だった。僕たちはオデオンのそばのイタリアンレストラン居合わせたのだった。

僕が最後にヴォランスキと食事をしたのは半年前、サン・ジェルマンだった。 

3週間前、僕はおばと会いにリュニベルシテ通りへ行ったのだけど、その時、サン・ペール通りの角で、20メートル離れたところにヴォランスキを見た。彼は僕を見ていなかった。僕は急いでいたので、彼を抱擁しには行かなかった。

19

カブを見る時はいつも連想的に、トレネの歌を聞かなければいけないぞ、と思ったものだ。僕はトレネのシャンソン全集を持っている。フレモー版だ。

でも僕にはもうそれを手渡す手段がない。カブはもういない。いつもの連想から、ぼくは同じ事を思う。トレネを聞かなきゃ。

20

「君はこんな時にも自分について話そうとしてるのか」って?

そうさ。ストレスを感じたワンコ自分キンタマをなめて安心しようとするように、僕は自分スタイルにしがみついて、昔の手帳に書いた話を自分に繰り返してみなければならない。そこに一つの意味を見つけるために。立っているために。僕はシャルリーをやめた。ハリケーンカトリーナの日だ。ロマンチック自己防衛的な理由だった。洪水に沈んだニューオーリンズ、それはもう僕にはひどすぎる出来事だった。

そして僕は私小説的なものフィクション避難しようとして、時事ネタときっぱり別れようとしたが、やり損ねた。

ニューオーリンズ音楽が死んだカブのために演奏されている。それは僕の記憶を呼び起こす。僕は洪水の泥に埋まったファッツ・ドミノのピアノのことを考えている。

21

シャンソンが好きなのかカブに聞いた。カブは答えた。トレネが好きなのだと。」


カブの友人達ブラッサンスの仲間達に似ている。ヒゲを生やし、肘に革をあてたコーデュロイを着ている。もちろん、彼らは涙で目を赤くしている。彼らは反レイシストの、反狩猟の、反闘牛の、古株の活動家だ。気のいい男子たちで、勇敢な女子たちだ。移民の為に、書類の無い入国者のために、そして誰もがこの国が立派だと感じられるように、彼らはずっと暴れ回っている。


今日、僕は、このとても優しくとても過激な人たちが、警察活動のおかげで安心させられてしまっているのを見る。

ラジオで一人のアルジェリア漫画家が言った。「現在のところ、私はフランス漫画家でなくて良かったと思っている」

僕は悲しい。トレネ、その歌は人生のどんな時でもご機嫌だ。カブが殺されてしまったこの時でさえも。

22

マダムカブは僕に語る。カブはなんでも引き受けて、絵でもポスターでも描いたし本も書いた。ある日彼が罪悪感を感じたのは、フライドポテト移動販売トラックの店先に絵を描く時間が無いことだったそうだ。


カブが不機嫌だった所は見たことが無い。ただ一つの欠点は、酒を飲まなかったことだ」

23

レッドマヌーキアンと楽団は続けてキャブ・キャロウェイの「ミニー・ザ・ムーチャー」を演奏する。


「死んでしまうとしても、どうせならニューオーリンズに埋めてほしい」

24

この絵はスーザフォンだ!オフクレイドじゃないよ!


僕に起きる可能性のあること、僕を守ってくれるかもしれないことの中で一番美しいもの――

聴衆に挨拶するや、カブ兄弟ファンファーレを鳴らし、僕はマヌーキアンの楽団ファンファーレサンドイッチみたいに挟まれているのに気付く。僕が描いているのは、オフクレイド音色が僕の真っ正面で鳴った時のエモーションだ。すまない、僕はずっと泣いている。オーケストラのおかげで泣き顔は隠れたから、僕は運が良かった。



P13. カブ Cabu(1938ー2015)、P18. ヴォランスキ Wolinski(1934-2015) いずれもシャルリー・エブド襲撃で殺害された漫画家

シャルリー・エブドの漫画家達については鵜野孝紀氏のコラムが詳しい。http://books.shopro.co.jp/bdfile/2015/01/bd-19.html

P12.フレッドマヌーキアン Frédéric Manoukian Big Band のリーダー

P13.カブ兄弟 Michel Cabut氏。 https://youtu.be/ZX7rZCpl0x4?t=2m23s

P18.「僕の映画撮影スファールの2本目の実写監督作"La Dame dans l'auto avec des lunettes et un fusil"と思われる。2015年夏公開。

P20.「手帳スファールはcarnet(手帳)というイラストエッセイシリーズ刊行している。"Si Dieu existe"は11冊目の"carnet"となった。

P21. ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens(1921-1981) フランス歌手https://youtu.be/84SMQ4Gyz5o


なお、このコンサートテレビラジオ放送され、ラジオ音源France Interサイトで聞くことができる。

http://www.franceinter.fr/emission-un-cabu-extraordinaire-soiree-speciale

2015-10-25

精神病院に6回入院した話を基に私小説書いてるんだけど最近はてなとか2ch自分より頭のおかしな人(文才もある)が登場して、文才も経験中途半端な俺は話を盛るしかないな、と決意している

2015-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20150901234525

「作者の気持ちを答えよ」ってネットミームの一種で実在しない問題でしょ。

私小説主人公気持ちを問うたり、評論で筆者の主張を問うたりする問題はあるけど。

2015-03-09

孤独に耐えられなくなって増田に話を聞いてもらいにきたんだが、増田達もそれぞれ大変そうだな。

増田達の話を聞いていたら、大学時代に傾倒していたマンガの影響を受け私小説を書いてみようとしたことを思い出した。

フィクション的に書き起こしてみると、それまでの18年ずっと自分に重くのしかかっていた事象がすっげーちゃちに思えてさ、

悩んで抱えてること自体が恥ずかしくなって、悩めなくなったことがあるんだ。

それで放り投げた結果が、10年経っても拗らせたまんまの現状なのかもしれないが。

今、自分がよろしくない状態だとは思えるのに、改善する方法がわからなくて困っている。

自分に自信が持てなくて疑心暗鬼人間不信が酷いようで、孤独拗らせて心身が疲弊してループにハマってる。

まずは自分自分から心離れしないように整える時間必要なのだろうとあたりをつけているが、

そのために仕事を辞めると再就職活動しなきゃならないことが苦痛で、辞めるのも躊躇われてさ。

でも朝から終電まで毎日仕事で、職場では会話が一切無く、プライベートでも会話できる家族彼氏友達も居なく、数週間誰とも会話ができなかったなんてこともあり、

仕事の影響で心身は悪い方向に向いているように思うけど、辞めて改善させる自信も無いから、困っている。

とりあえず頭から私を否定しない人と会話をしたい。

昔のトーク力が嘘みたいにすっかりコミュ障が馴染んじゃったけど、本当はくだらない雑談がしたいんだ。

2014-10-01

ラノベ馬鹿にしている奴らは馬鹿なのではないか

http://anond.hatelabo.jp/20141001193557

ジャンル小説判断する奴は馬鹿だ。

ライトノベルと言うと、表紙と挿絵アニメ風の美少女イラストが入った内容の軽い低俗な本、がすぐ思い浮かぶだろう。

雰囲気としては合っている気がする。僕の読んできたライトノベルもだいたいそんな感じだった。

でもとりあえずは、無用な誤解をさけるために定義付けをしっかりしよう。

ラノベというジャンル定義はなんだろうか。

ラノベ定義イラストが入っていることだろうか?

だけど、すぐに反証が見つかる。

例えばここに、さっき本棚を一分漁って見つけた佐々木マキイラストが入った村上春樹の『カンガルー日和』がある。

この本が刊行された時、日本文壇は春樹は文学ではないと言っていたかもしれないけど、少なくともラノベとは言えない。

よって、イラストが入っていることはラノベ定義ではない。

それに、児童文学イラストが入っているのが一般的からイラストラノベはいえないんじゃないだろうか。

じゃあ内容が低俗だとか軽いのがラノベだ、ということだろうか?

いやそれはおかしい。シドニィ・シェルダンの『空が落ちる』は一般小説の棚に置いてある。

入っているイラストアニメ絵からか?

だけど今度はラノベの方に反証がいくつか見つかる。

紅玉いづきの『ミミズクと夜の王』のイラストはどう見てもアニメ絵じゃないが、ライトノベルを名乗っている。

(表紙がアニメ絵の一般小説ちょっと名前は挙がらないけど、本屋でたまに見かける)

こんな感じで、ラノベラノベである理由はおよそはっきりしない。

はっきりしているのは、ラノベであると名乗っている出版レーベルが幾つかあり、それについて一般的ラノベであると認められているという状況のみである

こんなわけなので、定義ラノベレーベルから出ている本がラノベだ、ということにしておくのが妥当だろう。

から筒井康隆ラノベレーベルから小説を出したらラノベになるし、『百瀬、こっちを向いて。』の中田永一ラノベを書いたらラノベになるし、中島梓ラノベレーベルから本を出したらラノベになる。

大江健三郎児童文学だと言いはって『二百年の子供』を書いたら児童文学になったように、大江健三郎ラノベレーベルから小説を出したらラノベになるだろう。

ラノベゴミの山だと皆は言う。

その通りだ。

しかしそういう人は、日本文学が垂れ流した私小説という肥やしにもならない糞の山のことはどう考えているのか。

僕が言いたいのはつまり未来ノーベル文学賞作家ラノベから出ないと誰が言い切れるのか、ということだ。

いや言い切れるはずがない。

さっき書いたように、ラノベラノベであるのはレーベル問題であって、その内容だったり作者には関係が無いからだ。

だとするとどこにラノベ馬鹿にする論理的必然性があるのか。

そんなものはない。

ラノベ馬鹿にしている人は、ハリーポッター児童書版で出たら恥ずかしくて買えないのに一般書版で出たら買う人たちだ。

そういう人は自分の力で、自分だけの「ハリーポッター」を発見することは絶対にできない。

そういう人は本当に面白いものを見つけることも、それを評価することもできない。

周りの価値観ではなく、自分価値観で何かを判断することができない。

そういう人間を僕は馬鹿だと定義している。

2014-08-29

学際情報学府文化人間情報学コース) 2015年筆記試験問題

来年度以降の受験生向けに、記憶が新しいうちに。

http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/admissions/master_questions

来年の5月くらいには一般公開されるはずだけど。

こういうのは早く入手できるに然る。

問1…「芸術」について、2つの課題文を読んで論述

出展A:小林秀雄『xへの手紙私小説論』

出展B:鶴見俊輔限界芸術論』

問2…20行(500字)以内で用語説明(6問中2問選択、順不同)

・「正義倫理」と「ケア倫理

・「メディアリテラシー」と「情報倫理

・「物語歴史性」と「歴史物語性」

・「ブレンド型学習」と「完全習得学習

・「ソシュール記号学」と「パース記号論

・「表意文字」と「表音文字

2014-08-15

増田漁業組合辞職します。あと、釣りエントリ晒します

増田釣り師を続けて随分長くなりました。

前回暴露をやろうとしたときは慰留されて踏みとどまりましたが

やっぱり色々めんどくさくなったので、全部晒して消えますお疲れ様でした。

増田漁業組合の連中もうざったくなってきたし、増田13人委員会からも除名で結構です。

最後報酬だけ振り込んどいてください。毎度毎度遅れすぎです。

500ブクマ越え全部晒そうかと思ったけど、膨大な数過ぎてクソめんどいので1000越えと

お気に入りだけ晒します

就職王と呼ばれた俺が新卒どもにアドバイスしたい。

http://anond.hatelabo.jp/20110107214632

1567ブクマ

不動産管理会社人間だが、おまえらに言いたいことがある

http://anond.hatelabo.jp/20140623213254

1532ブクマ

ベンチャー企業あるあるにハマった。

http://anond.hatelabo.jp/20130811212721

1355ブクマ

就職王が贈る、新入社員が覚えておくべき10の事柄

http://anond.hatelabo.jp/20110429004257

1243ブクマ

新人教育

http://anond.hatelabo.jp/20100914181445

1116ブクマ

東京都心の求人状況がヤバイ。はよ移民入れろ、もしくはニート本気出せ。

http://anond.hatelabo.jp/20140406161839

1069ブクマ

一人暮らしにおける食い物について

http://anond.hatelabo.jp/20120319033827

1156ブクマ

1000越えは計7つですね。

現在の1000越えエントリ総数が67本くらいであることを考えると、

増田の1000越えエントリの1割は僕が書いたことになります

増田漁業組合全員で8割くらいですかね…。増田にはほとんど一般参加者で大量ブクマを稼いでいる人はいないと思います

大半が、報酬を貰って書くプロ増田なんじゃないですかね。いや、他の組合員がどれくらい結果出してるか詳しくは知らないですが。

多分僕が、1000越えエントリの数ではトップだと思うけど、僕と大差ないくらい1000越え出してる人は複数いると思います

ブクマ数上位300で考えると、僕の書いたの30どころか40くらいあるし、なんつーか増田ブクマ稼ぎってコツなんですよね。

方法論は幾つかあって、まぁざっくりわけると「私小説系」「ライフハック系」「専門知識系」「リライト系」「煽り系」って感じなんですが。

最近組合では、リライト技能の人がよく稼いでますね。増田に限らず、ネットからネタは良いけど書き方がクソ」って文章探して

リライトして自分のものにしちゃうタイプの人です。このタイプは腕自慢が多いので、こないだもネタバラシして遊んでる人いましたね。組合でも問題になってましたよ。

一桁ブコメエントリリライトして1000越えに持ってくんだから大したもんです。

僕は、基本的に「私小説」「ライフハック」「専門知識」「煽り」なんかを組み合わせて釣ってました。まぁ、エントリ見れば分かるとおり

わりと文体ネタワンパターンでもそうそうバレやしないんですよ。実際のところ。

増田漁業組合はクソみたいな集団ですが、まぁ色んな意味経験にはなりました。文章を書いてウケを狙うってのは要するに技術論だけの問題だと確信できましたし。

遣り残したことがあるとすれば「増田文学」で1000越えを出せなかったことですね。

http://anond.hatelabo.jp/20100721204944

このエントリとか割と、O・ヘンリーっぽくて短いながらも良く書けたと思ったんですが、やっぱ1000いかない。

まぁ、増田文学で1000取れた人いまのとこいないですしね。僕は増田文学系もそこそこの数投稿したけど、結局500くらいで全部打ち止めになってしまった。

結局、経験の切り売りじゃないとブクマ稼げないんですよね。純粋創作で稼ぐ方がしてやったり感あるんですが、難しい。

まー、それでも増田釣りすることももうないと思うので、皆様良い増田ライフをお楽しみください。

みなさんがブクマしてるものの中では、むしろ釣りではない」エントリの方が少数派なんですよ。実際のところ。

ほとんどがプロ増田の書いたものですから

あ、この釣り事実僕の作品である証明として、各エントリの末尾に(証明)とかそういうのつけときました。ご確認ください。

トピシュの人とかハゲの人とか、わりと「釣り」は全然認識出来てないと思います

2014-05-25

ツイッター私小説みたいな自分語り繰り返してる女の人

って言えば、「あーいうのね」って想像つくと思う。

自分や他人の捻くれた自意識やそれ故の行動を140字ギリギリに書いている人たち。web漫画の『独身OLのすべて』みたいなツイットばっかりしている人たち。

かねてより低質だと思っていたのだが、とんでもなくレベルが低いのを見つけてしまった。ライターということで一応プロだし本も出しているんだけどレベルが本当に低い。

例えばこんなの。なんだかはてな記法が上手くいかねえや。


http://www.cyzowoman.com/2014/05/post_12176.html

(引用始)

なぜそう思うかと言うと、亀井女性の失礼な質問に対して、「出会いがない」「夜中にドンキ(のような庶民的な店で)騒いでくれる人はいない」と、率先して「格下」をアピールしていたからだ。女が自ら「格下」アピールをする時、そこには「本当は自分の方が格上だけど、女同士の関係を良好に保つには、平等なふりをしなければならない。だから、私がわざわざ下に下りてあげる」という思惑が介在するものである。やはり亀井には、自分達は業界ではマイナーであっても、一般人と比べると遥かに「格上」なのだという自意識があるのだろう。

(引用終)


これ凄い文章だと思う。最初の一文は事実を列挙しているだけ。二文目は一般論で、この亀井さん適用できるかどうかは分からない。それなのにも関わらず、「やはり亀井には、~」と結論がくる。見事な三段論法

時間がなくてこんな低質な記事書いているのかと思って、ほかの記事がブログも確認したが全て同レベル。全て自分妄想を開陳しているだけ。根拠のない悪口みたいなもんだ。

この人は多分リアル世界でも、こういう妄想現実と混同して、悪口とか言っているんだろうなと。女性男性に隠している所の自意識なんて、こんなもんじゃねえかと。


それで思ったのが、このライターみたいなこと書いてるアルファツイッタラーって一杯いるよなあと。女性性的であったりプロレス的な自意識暴露する系(犬山紙子とか峰なゆかとかあーいうの)のツイッタラー

この仁科っていうライターの得意技みたく一般論勝手適用すれば、ツイッターっていう140字だから隠せているけど、実は皆、このライターと同レベル妄想を開陳しているだけなんじゃないかと思い始めた。

2013-10-18

id:topisyu釣り認定って冤罪作る警察みたいに杜撰だよね

いくら積み重ねたところで根拠とするには弱すぎるものをあげつらいすぎ。

たとえば次の記事。この人の得意技、小説言葉認定だ。

元トピ職人釣り解説 • [コラム]釣り分析"「歌い手」だった私にかけられた魔法が解けた

http://topisyu.tumblr.com/post/48442003797

この、”全身が震えた”も小説表現です。日常では使いません。

不安げな顔”“血の気が引いた”も普通の人はあまり使いません。創作しようとすると、こういう小説言葉がつい出ちゃう

なお、”私の子供でもおかしくないぐらい”という表現も、小説表現ですね。

ということらしいが、体験記は私小説みたいなもんなんだから小説言葉を使ってもおかしくないはずだ。この人の理屈だと2ch創作文化に影響を受けた文体で本当のことを書いたとしても創作認定されてしまうことになる。小説っぽい文体の人なんていくらでもいると思うんだが。そもそも「血の気が引いた」や「私の子供でもおかしくないぐらい」なんていう普通強調表現小説表現と断ずるところも納得出来ない。

元トピ職人釣り解説 • [コラム]Facebookで大人気"バスの中で言葉暴力を喰らった"の釣り解説

http://topisyu.tumblr.com/post/45845841112/facebook

なお、”ムカついたらしく”という相手の感情表現しているのは、その後の言葉暴力からすればその人に不快感があったのは明らかに分かるわけで、事実ならばあえて書く必要はありません。小説のように状況を説明する必要がある創作物で見られる、相手の心象を読者に理解させるための表現です。

ここでもまた小説論法だが、この程度の冗語は普通表現であって釣り事実かと関係があるようには思えない。

http://topisyu.tumblr.com/post/52563449748

“恐る恐る聞いてみた”が小説表現

もはや言いがかりしか思えない。釣りの証拠として何の足しにもならない。よっぽど砕けた口語じゃない限りいくらでも小説表現認定されそうだ。

元トピ職人釣り解説 • [コラム]Yahoo!知恵袋ママ友相談釣りフェイク?

http://topisyu.tumblr.com/post/49272532068/yahoo

この記事では、「フェイクによって釣りと同じような矛盾が出てくるのでフェイクと釣りの判別は慣れていないと難しい」という旨のことが書かれているが、自分釣りだと認定した読み物についてはちょっとした矛盾も突付いて印象操作するので中々のダブルスタンダードだ。

ミシュランの星がついたレストラン同棲中で婚約中の彼女と食事をした

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20131015001328

これはとぴしゅじゃないけど、ちょっと前話題になったこの記事には、ただのパークアンドライドかも知れないのに「電車で運転?釣り?」みたいな反応をしてる人がブコメ増田共にいる。この人たちはとぴしゅよりも杜撰

2013-08-22

文春よ、『風立ちぬ』に芥川賞を与えよ

映画風立ちぬ』を観た。

これは映像で語られる新しい文学の形だと思った。今後映像作品の制作に携わる人すべてが観なくてはならない。それだけの業を見せてくれる映画だ。

何をしたい映画なのか

この作品を読み解く上でもっと重要キーワードは『風立ちぬである。私は前情報として、この作品はゼロ戦設計者・堀越次郎の半生と堀辰雄小説風立ちぬ』を組み合わせたものであること、および本筋は堀越の側から採られていることまでは把握していた。そこで抱くのは「ならばなぜタイトルが『風立ちぬ』なのか」という問いであった。

商業立場に基づいたパッケージング広報が随所で誤解を誘発させている映画であるが、それでもタイトルとオープニングは主題に正直だった。はじめにフランス語交じりのエピグラフを見せられれば戸惑いつつもやはり「この映画で私は文学をやりますよ」という表明と受け止めるほかない。ヒロインとの出会いのシーンではなんと——技師の卵・堀越次郎としては不自然まりない——仏文学生のようなやり取りをみせられる。……オーケーだ。心を決めよう。わざわざ飛行機大地震という刺激的なシーンの合間に配置したのはかえって本気が感じられる。こちらもそのつもりで観ることにした。

はいえ、映像作品と文芸作品——殊に私小説とでは観る/読む姿勢質的な隔たりがある。作者はこれをどう翻案してくるのか? ここでもキーワードは『文学』と『風立ちぬである

多くの人が指摘しているように、劇中には『風立ちぬ』以外にも旧約聖書や『魔の山』といった西洋文学の中心作品から引用がちりばめられている。しかしおそらくそ意味や出典を理解することは求められていない。これは作者からシグナルとして受け取るべきだろう。——あっ、今なんか文学っぽいこと言った。そして風が吹いた。そう感じた瞬間、我々は観客から読者へと推移する。実際、そのために尽くされた工夫こそが本作をこれまでにない映画として成り立たせている。

日本文学伝統たる私小説とは一般には作者の個人的な体験を語ったもの定義されるが、その実は読み手が(多くは情緒面に欠陥を抱えた)〝私〟の情動を追いかけながらその文脈に自己を編み込んでゆくことで成り立つ極めて対話的な芸術形態である。ゆえにこれを映画で実行するためには観客からどうにかして主体性を引き出さねばならない。一体どうするつもりなのか。

語るな、見せるな、考えさせろ

一番にあるのは人物の造形と描写である。だいたい主人公からしておかしい。はっきりいってこんな身勝手な男には作者自身を除いて誰も共感などできまい。そのくせ彼の心情を伺えるのは原点である飛行機作りへの衝動のみであり、主題の一つに思える恋愛さえ観客からすればずいぶんな距離感をもって描かれている。この映画をいわゆる娯楽作品として楽しむのは大変な難行であろう。しかしそうした人物の〝得体の知れなさ〟と突き放した映像表現こそが観客を読者に変える上で重要機能果たしている。——いざ事件が起きた。けれども主人公がどんなリアクションをするのか、我々には予想もつかない。そこでその人物の行動と周囲の出来事だけが語られ、心理も感情も置き去りにされればどうなるか。我々は残る最後の手——自力でそれを補うことを選ぶほかない。振り返れば人物もまた文学を行う道具にさえ見えてくる。

しかしたくらみどおりに人を動かす要はやはり映像にある。シグナルである文学っぽい〟セリフに続くのは決まって突風と変事だ。さあっと吹く風に引きずられてカメラが空へ向かい、これまで観客が寄り添っていた主人公が突如フレームアウトする。視点人物の喪失自然不安をもたらし、そこでさらに思いもよらぬ出来事や主人公の行動を目にした観客は解決を求めて必死で事態を追うよう仕向けられる。こうして観客は気づかぬうちに主人公の心理を己の内に抱え込む。かくして映像言語による小説的描写が果たされる。みごとである

そうして状況が収まり不安が解消された次に訪れるのは〝平常〟である。正常にせよ異常にせよしばらくは事態の変化はなく、そうである限りは主人公の行動も我々の予想の範囲に収まる。主人公はどんな状況に置かれても自分の夢につながる道を一途に辿り、時には常識によって非難される。「だいじょうぶです。あなたの頭の中にある人物像はそれほど間違っていません。そのまま続けてください」そういう作者からの配慮を感じるひとときでもある。

繰り返される風景

このように、物語の進行は事件とそれに続く平常との繰り返しによって綴られている(それがふさわしい時代でもある)。

そして繰り返しの合間は主人公の夢を再確認する時間だ。飛行機への憧れを描くこのシーンは物語区分けすると同時に、現実との対比を描く場でもある。印象的なのは、夢の中では誰もが等しく飛行機に乗り、笑顔でいるということ。理想が、道徳が語るもの主人公は明確に認めている。にも関わらず現実の彼はためらいを見せることがない。風は——? 空を飛んでいるかぎり、止むことはない。

先の見えない時代戦前文学匂い。そして変事の前触れたる風。それこそが物語を支えるビートである。そのためにこの作品は『風立ちぬ』を必要とし、ゆえにこの映画タイトルに『風立ちぬ』以外の選択肢はありえなかった。

(続く)

2013-05-30

まねして本の紹介 その2

http://anond.hatelabo.jp/20130529230131 の続きです。長くて途中で途切れるため分けました。このエントリで紹介するのは以下の本です。

名人に香車を引いた男、八十歳のアリア―四十五年かけてつくったバイオリン物語記憶の切繪図, 弁護士、闘う―宇都宮健児の事件帖

影響を受けたブログは20冊の本を取り上げていた訳だが、自分で真似をしてまとめていく内に20冊よりもずいぶん多くなってしまった。なので、上記4冊は似たテーマなのでまとめて紹介することにする。この節は日本人自伝だ。

「名人に香車を引いた男」は昭和将棋指し(棋士)の升田幸三名人の自伝羽生善治さんがもし生きていたら是非将棋を指してみたい棋士の方だと聞いたことがある。

生き方はなんとも痛快。昔の人のバンカラな感じというか、そういう感じが良く出ている。この人のように、どんな人にも自分の本音を話せる人は今日本の中にいるだろうか。そして、名人になった時の一言が心に残る。

「八十歳のアリア―四十五年かけてつくったバイオリン物語」は糸川英夫さんの自伝だ。この方はロケットが専門の研究者で、戦時中戦闘機設計に関わっていたり、戦後もロケット開発に関わっていたりする方だ。戦後間もない時期は失意に沈んだ時期で自殺も考えるほどの状況だったが、バイオリン製作きっかけで少しずつだが自分を取り戻していく。そのバイオリン製作には完成までに40年以上もかかった。そのバイオリンとは――。

升田幸三名人、糸川英夫さんの両氏とも戦争の影響が人生に大きくのしかかる。その点でまとめさせてもらった。それと、両氏の著作とも読んでもらえばわかるが、自由だ。それ以外はあまり共通項はないけれど、読んで楽しい本だ。重い話はないし、読みやすい本なので手に取ってみてほしい。

記憶の切繪図」は「フェルマーの最終定理」の中で登場する志村五郎博士自伝。「フェルマーの最終定理」の中でサイモン・シンさんは志村さんにいろいろインタビューしている。その中で数学における「良さ」とは何なのか、それに答えるシーンがある。その答えが簡潔なのだけれど、それ以上無いくらい志村さんの数学のとらえ方を表しているように思え、興味があって読んだ。

この方も上記二人に劣らないくらい自由だ。Amazonレビューには高木貞治さんを愚弄しているという指摘がある。しかし、だからといって謙遜して書いてもらっても一読者としてはおもしろくも何ともない。むしろそのまま出版してもらって良かった。

こう書くと志村博士はずいぶん口の悪い人で、ある種の暴露本に思えるかもしれないが、そうではなくて、要所要所に意図して書かないことがあったり、感情を押し殺した表現がちらちらあるのだ。それがあるから志村さんの人となりがわかった。良い自伝だ。

弁護士、闘う―宇都宮健児の事件帖」は少し前に東京都知事選立候補されたり、弁護士会の会長をされていた宇都宮健児さんの自伝だ。まだ自伝を出すには早いと思うので、半生を綴った本としておいた方がよいか

決して飾らないその人柄は文章にもそのまま表れている。豊田商事事件、オウム真理教の一連の事件、カード破産の話など、弁護士として関わった事件の数々。それらを振り返りながら、今されている仕事にも言及している。自分法律のことは全くわからないが、こんなに多様な類型、しかもその事件が発生した時点では立法のものが不整備だったり、法解釈が分かれていたりといった、未開拓の問題に対処するのは並大抵の法律家にはできないように思える。それをまるで飄々とこなしているような姿は、武道の達人のようだ。

気負いのなさと実直さ、そして執念を感じる本だ。宇都宮健児さんへのインタビューが下のURLにある。興味のある方は見てほしい。

からくり民主主義

この本は学生時代に講義で先生おすすめされていて読んだ本だ。著者は高橋秀実さん。

高橋秀実さんはルポライターで、自分の体験を元に本を書く方だ。ただ、ルポライターではあるけど、少しほかのルポライターと毛色が違う。本来ルポライターは事件や事故が起きたら素早く現場に赴き、当事者インタビューをして、それらを記事や本にする。高橋さんはそれらの事件や事故が起こって、ほとぼりが冷めたあたりでインタビューに出向く。時期がかなり遅いのだ。

元のブログでは物事には多様な見方解釈があって、一元的に判断することは危険なことを理解するための本として「バカの壁」を挙げていた。その点では、この本も内容は似ている。面白いのは、この本ではそれが「実例」でいくつも挙げてある所だ。

ニュース番組新聞では、大きく取り上げられていた事件・事故が、実際に現場に行ってみると「あれ?」と思えるくらい当事者たちは冷めていたり、むしろその状況が続くことを望んでいたり――。読み進めていくうちに、不謹慎かもしれないが笑ってしまうような話になっていったりするのだ。某映画台詞の反対で、むしろ事件は会議室しか起きていないんじゃないか?、という気持ちにもなる。

自分単行本ハードカバー)で読んだ。解説を村上春樹さんが書かれていた。(はずだ。確か)

堅苦しい話ではないので、気楽に読んで、何度かたまに読み返すとその度に不思議な気持ちになる本だ。

冬のデナリ

著者は西前四郎さん。半分が小説で半分がノンフィクションといった感じの本だ。

デナリというのはアラスカにある山の名前で、日本では「マッキンリー山」と言った方が通りがよいと思う。この山を登る登山家チームの話だ。ちなみに、植村直己さんはこの山で行方不明になった。(この本のチームとは無関係だろう)

厳寒期の冬山を登る人の気持ちは自分には想像もつかない。だけれども、そんな自分にも山を登るチームワークの大切さと難しさ、軽く見積もった事象が後にやっかいな出来事にふくらんでいくその状況判断の危うさや過酷さ、そして生きることへの執念といったもろもろが、響いてくるような本だ。

今の登山の装備と比べると、重かったりかさばったりしてその面でも大変だったはずだ。写真のページを見ると、そんなところも気にかかった。

この本も最後一言(だと思ったけど)が良い。

この本のあと、山登りの本は植村さんの本(「青春を山に賭けて」)も読んだけれど、こちらの方が山について全く知らない自分には印象に残った。所々で登山の道具の名前ハーケンとかザイルとか)が出てきて、イメージができない自分のような人は、出てきたところで、ググったり辞書で調べて簡単な絵を紙に描いておいて、再度出たときにその絵を眺めたりしながら読むとより読みやすいと思う。

パタゴニア―あるいは風とタンポポ物語

この本は椎名誠さんが著者だ。椎名誠さんは今はエッセイ世界各地を回った紀行文を書いたり、写真家であったりとマルチ作家だけれど、この本が出たのはそうなり始めてすこし経った頃だ。

冒頭から危機的な状況である。にもかかわらず出発するのだ。この判断は本当だとしたらすごいことだ。何が危機的なのかはここでは言わないけれど、読めばすぐわかる。

全体として、椎名さんが書く紀行文自分で感じたことをズバズバわかりやすく書いていく方法なのだが、この本はそこまでズバズバ書くと言うよりも、なんとなく「岳物語」につながるような、私小説風の書き方をしている。その書き方もあるし、パタゴニアという場所のせいもあるからか、行き止まりに向かって進んでいくようなやり場のの無さを感じる。それが途中ですっと消えて静かな感じで終わるのだ。自分はそこがとても好きだ。精神的な閉塞感がふと消えて、やさしさが残る本だ。

から春にかけて寝る前に少し読むのが似合う本だろう。この本は文庫版もあるけれど、ハードカバー装幀自分にはしっくりくる。

カヌー犬・ガクの生涯

カヌー犬・ガクというのは、前に挙げた椎名誠さんの飼っている犬の名前だ。その犬は手こぎボートの船頭に座って川下りをするのが得意という、ちょっと変わった特技を持つ。

その犬と椎名誠さんの友人の野田知佑さんが、日本世界の各地を巡ったときの話をまとめたのがこの本だ。著者は野田知佑さんご自身。

カナダユーコン川を下ったり、北極(か、南極か忘れてしまったけれど)に行ったり、といろんな所に行って危険な目に遭ったり……、南国に行ってのんびり過ごしたり。少し羨ましいけれど、いざ自分が行くとなるとそんなところはとても怖くていけないようなところに行く。

犬を人間と同じように扱うという著者なので、犬が好きな人はより楽しめるだろう。元のブログとの対応としては「深夜特急」にあたるかな?(やや無理矢理だけど)

ピアノ調律師

著者はM.B. ゴフスタインさん。翻訳は末盛千枝子さん。絵本だ。(やや字が多いけれど)

小さな女の子主人公。おじいさんがピアノの調律を仕事にしていて、おじいさんとしては女の子ピアニストになってもらいたいのだけれど、女の子はおじいさんのようにピアノの調律をしたくてたまらない。そんなときに、ピアノの調律を頼まれるのだ。

あらすじで書くとそんなに心惹かれる感じは無いかもしれないが、絵の良さ、そして言葉の良さ。二人を取り巻く登場人物の面々もすばらしい。

「謎のギャラリー」のところで言及した「私のノアの箱舟」も同じゴフスタインさんの絵本だ。こちらもすばらしい。ゴフスタインさんの本はほかにも何冊か読んだけれど、この本が一番絵本らしい絵本だと思う。絵の良さはいくら文章にしたところで伝わるものではないので、図書館で借りたりして手に取ってみてほしい。もちろんM.B. ゴフスタインさんのほかの本を読むのも楽しい

数学ワンダーランド

中学校で習う数学を、苦手な人も得意な人もできるかぎり楽しく考えていこう。それがこの本のテーマだ。中学生向けの数学月刊誌で連載していた読み物をまとめた本で、著者は小島寛之さん。はてなダイアリーを利用されている( http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/ さん)ようだ。

数学は、学習が進むにつれてどんどん(指数関数的に?)難しくなっていき、小学校中学校では好きだった人もだんだんと距離を置いて離れて行ってしまう……、そんな科目だ。なかなかずーっと数学が好きで好きで……、という方はいないのではないかと思う。おそらく数学プロの方(数学者のような)でも、そのキャリアのところどころで難問にぶち当たり、歯がゆい思いをするのだろう。(そういう話は前に挙げた「フェルマーの最終定理」にちらっと出てくる)

そんな風にだんだん一般人数学から身を引いていきがちになるわけだけれど、この本は、わりと数学算数を学び始めた頃に不思議に思えたことを延長して話をすすめようとしていく。こういう書き方はやろうと思ってもとても難しいはずだ。著者は数学が好きな気持ちと、一方で嫌いな気持ちの両方を持ち続けているような、そんな状態になるだろうから。嫌いな人の気持ちになって、そしてそのどこが嫌いなのかを共感した上で話を進めつつ、好きな人も読めるようにする配慮を怠らない。そんな書き方がされている。

この本が持つ数学へのアンビバレントな思いは、いわゆる数学(の歴史を中心とした)解説本でもなく、かといってとっても難しい数学ドリルみたいな本でもなく、わかりそうでわからない絶妙な問題の難しさと相まってなかなか類書がないと思う。くわえて、ところどころに経済学の話とかもでてきたりする。好きな人もそうでない人も読んでみてほしい。なんとなくわかりそうで手が出ないあの「数学の感じ」を思い出すはずだ。

同じ著者の「解法のスーパーテクニック」も良い本だ。ただ、一冊にしろと言われたら「数学ワンダーランド」かな。ほかにも小島寛之さんの著作はいくつかあるのだけれど、自分が読んだのはこの2冊だ。なのでほかにも良い本はあるだろう。

元のブログとの対応としては細野さんの数学の本としておく。(その本を読んでないのでどこが?といわれると、単に数学つながりなだけだ)

心地よく秘密めいたところ

この本は幻想小説というのだろうか。ファンタジーだ。著者はピーター・S・ビーグルさん。翻訳山崎淳さん。

この本はとても雰囲気がよい。あらすじはそんなにたいしたものは無いんだけど、夏の早朝のような爽快な感じがある一方で、なんか少しじめっとした感じもするのだ。

Amazonレビューがこの文章を書いている段階で4つある。で、そのどれもが作品の魅力を的確に紹介しているのだけれど、なんだかそれらのレビューだけではこの本の良さを伝えきれない感じが残る。言葉を連ねてもなかなか伝わらない感じがする本だ。

この本を自分は夏の終わりの頃に読んだのだが、その頃の陽気にとてもよく合う本だった。光の強さと日の入りの早さがこの本の主題に合ったものからだろうか。「リプレイ」が動くSF小説に対して、この「心地よく秘密めいたところ」は静かにじっとしている感じだ。でも、どちらを読んでも同じ思いに至るはず。不思議だけれど。

東チモール県知事日記

著者は伊勢崎賢治さん。この方は日本大学卒業されたあとにインド民衆グループリーダーをされて、その実績を買われ、国連の要請東ティモールに赴任する。(下のURLに伊勢崎賢治さんへのインタビューがあるので詳しいことを知りたい人は読んでみてほしい。)

こういう日本人って(自分不勉強なせいかもしれないが)あまりいないと思うのだ。杢尾雪絵さんくらいしか自分はほかに知らない。

ずいぶん前に読んだので細かい記述は忘れてしまったけれど、この本の良さは著者が見たこと、感じたこと、やったことが率直に書かれたところ。そして日本に住んでいる限り想像できない「危険」な東ティモールでも、危険な所もある一方で、そうでないところがあるといったような、現実の姿が伝わってくるところだ。

外見はなんかどこにでもいそうな感じのおじさん(もし本人や関係者がこの文を読んでいたら失礼で申し訳ない。すみません。)だ。だが、インフォーマルな組織における統率の方法や、戦争犯罪者をどのレベルまで処罰するのか、など、繊細な問題への対処。こういうのは前者は経営学とかで少し研究されているようだけれど、じゃあそれが実地で適用すれば問題は解決するのかというと、そうでも無いと思う。そういった「答えが見えない問題」へどうやって取り組むのか――。しかも異国の地で。

そういうことを知りたいときに読むとよいかもしれない。自分も詳細を忘れていることに気がついたのでもう一度読むことにする。それにしても久しぶりに上のインタビュー記事を読んだけれど、タフな人だ。

ニッポン貧乏旅行

著者は藤本研さん。この本は、藤本研さんがおよそ半年をかけて日本を歩いて一周をした旅行記。旅行記というよりも生活記録といった方が良いかもしれない。

生活記録なので、朝は何時に起きたとか、午前中はどうしていた、お昼は何を食べた、などなどそっけない記述が中心だ。でも、そのそっけなく感じる記述が妙なリアルさを出していて、読んでいると日本ってこんなに広いんだと思わせてくれる。それと歩いてたどり着いた各地の景勝地を見るとか、そういうことも無くて、そこもこの本の特徴だ。タイトルに「大貧乏」と付くのは、宿泊ほとんどを野宿やお寺の本堂の隅を借りたりして無料でまかなうことによる。食事もとても簡素ものだ。

本のはじめに藤本研さんの歩行ルート日本地図と一緒に図示されていて、その後にスケジュール表があって、それをみるのも楽しいたんたんと書いてある中の楽しさ、と言って伝わるだろうか。

たまにアクシデントに見舞われるのだが、そのアクシデントがなんとなくユーモアがあるというか、おだやかな感じだ。日本一周するからと言って、気張らず、藤本研さんはたんたんと歩いて行く。歩いている途中で同士がいたりする。そういう記述もなんだか一緒に日本一周しているような気持ちにさせてくれる要因だろうか。

自分は今まで挙げた本はだいたいは図書館で借りて読んでいる。この本もそうだ。再度読みたいのだが、図書館で借りようとしたらいつの間にか消えてしまっていた。残念だ。




(まだつづく、かも。)

2013-05-01

村上春樹ほど商業的に成功している小説家はいないのに…。

http://anond.hatelabo.jp/20130428211703

村上春樹の作品が一般には受け入れられていないと言ってしまっているのは、どういうことなんだろう?

思うに、ちょうど自分しか理解できない、こんなヘンテコリン物語自分しか受け入れることができないんじゃないかな?と思わせるようなバランス絶妙なのだろうと思う。

ゲームの謎解きで、この宝箱は俺にしか見つけられないのでは?と思っていても、8割くらいのひとは同じように思いながら見つけているというあのバランス

それも彼の小説ある意味で、あくまでも個人の思索の幅を出ておらず(いわゆる私小説)、かつそれについて解説を加えるようなことをしないからなのでしょう。

2013-02-24

http://anond.hatelabo.jp/20130223145513

自分が書いたものおもしろいかどうかはお前や書いた本人だけが決めることじゃない。だから、「おもしろいかどうかで書くのをやめる」というのはむずかしい。

世の中には俺自身はちっともおもしろいと思わないような本でも出版されているし、案外そういうのが受けてたりする。村上春樹なんて俺は大嫌いだ。でもそれを読んで何らかの発想を受ける人もたくさんいるんだろうし、おもしろいと思って何度も読み返す人も大勢いるんだろう。だから存在してていいもの。逆に俺がすげーおもしろいと思って何度も読み返した本がちまたではさほどだったりする。だけど俺がおもしろいと思ったことなんて誰も知らないし何万のうちの一人の意見など聞きもしないから、「つまんねー文章書くのやめろ」という一般意見で書くのをやめられると悲しい。

あとはたとえクズ文章だとしても、それで書くことをやめてしまうのはもったいない。なぜなら、そうやって書いていくうちにうまくなっていく人もいるし、「おもしろくないかも」と思って投稿しなかった文章が本当はすごくおもしろいということもあるからだ。

たいていお金からいからね。ネットに文章投稿するの。読む方もロハだし、いろんな人に読んでもらえる可能性もあるよね。まあ多すぎて無名だとほとんど読んでもらえないんだけどさ。そういう気軽なきっかけで文章を書き始めてくれて、おもしろものの種ができるというのなら俺はつまらない自分語りなどいっこうに構わん。


そもそもその意見を言うのならば、お前自身のくだらない自分語りをやめるのが態度で示すと言うことではないだろうか。といちゃもんつけようと思ったら追記になんか書いてあった。

3 これを書いている事自体が自分語りだという批判について。まずこれを書いてネットに上げるだけでは自分語りだろう。しかしそれに対して反応があった。これは読者が良いかいかは問わず何かしらの面白味を感じたという事だ。そうすると自分がここで言っている、つまらない自分語り定義からは外れるだろう。

俺はお前の文章おもしろいと思わない。関心を持つこと自体がおもしろであるという屁理屈もこねられるかもしれないが、俺はお前のクソな書き込みを見なければこんなクソ増田書いて時間を浪費する必要もなかったのだから本当につまらん。読んで損したと思う。でも書くこと自体は良いことだと思うんだよ。じゃないとこういう風に生きてる人間がいるってことは誰の目にも触れないからね。

ネット上には私生活を赤裸々に書いちゃうお花畑もいっぱいいるけど、本人がそれで良いと思うのなら別に構わないだろ。いわば私小説のようなものだ。Web私小説

それにそういうの読んで楽しんでる人たちもそれについて声に出さないだけでいっぱいいるだろう。目に見える反応があるものけが人に見られているわけではない。

何より著者という「人が」書いたり読んだりしておもしろいと思っているのだからお前にはつまらなくても価値はある。「なぜそういうことするのか」っていうのも書いてて楽しいからじゃないのかね。

非公開日記でなくて公開するのは、たとえ読まれていなくても公開されていること自体が他人への語りかけという形式になるからだ。だから、明らかには他者が関わっていない場合でも他者に対してのものでけして疎外はしていない。日記自分語りするのはあまり気分のいいものではないが、他人に対して自分語りするのは気持ちいいものからね。それを読んでいる人がいようがいまいが、外に対して書いている以上他人に読んで欲しいと思って書いているはずだよ。

もし検索結果に糞の役にも立たない自分語りというノイズが入るのが嫌、とか言うのなら「俺の気に入らない自分語りフィルター」でも作るしかいね

2013-02-15

青二才体罰論は一行で語れる

なぜか消されていたので再掲

http://anond.hatelabo.jp/20130212203411

文化系は頭いいから殴っちゃダメ。頭の悪い体育会系だけ殴れ

というのが彼の主張の全部。

青二才体育会系に対して抱くコンプレックス教育論の皮を被った、偏見とルサンチの垂れ流し。

自分が万が一にも体罰の対象にならなくて自分が嫌いな奴にだけ体罰が行く」理屈を構築した上での空想的体罰論。

自分が嫌いなものを、自分じゃなくて他の人が殴っておとなしくさせてくれって、ヘタレな上に厚かましい欲望。

経済学は全く関係ないというか彼は経済学についていくつかの単語以外について完全に無知

自分ゲスい欲望をなんとか正当化しようとした試行錯誤の結果が全部垂れ流しになったのが今回の文章。

1行で語れるシンプルな結論と99%の自己弁護。それだけのためにこれだけの長文を書けるという驚異の精神構造

文章さえ読みやすくなれば将来の優れた私小説作家候補。

2012-11-24

ヱヴァンゲリヲン疾走する。情弱は追いつけない。

音楽評論家宇野功芳に「メータ(注:インド出身指揮者)のブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」という言葉がある。

その言葉にならうのであれば、本作を過剰に批判する側にも、称揚する側にも、「ヱヴァンゲリヲンはそういうものなのだ。知らなかったとは言ってほしくない」の言葉を添えたい。

「Q」はアップデートされた「エヴァであるから「旧作の狂気が帰ってきた」と称揚する評は間違っている。「意味がわからない、映画としての書法をなしていない」との評価も間違っている。

見る側を常に裏切るのが「エヴァなのだ

庵野新劇場版を作る前の宣言文でいった。

「この 12年間エヴァより新しいアニメはなかった」と。

その言葉伊達ではなかったと、冒頭シーンで感じないものがいればそれは不感症なのだ

あの冒頭シーンを見てこの作品を全否定するその神経が分からない。

そう、まずはヴィジュアルの評価から入ろう。

状況の分からない空間戦闘からノーチラス号の発艦シーンまでの息詰まる緊張感と圧倒的なヴィジュアルにため息をつかないものがいるとすれば、それはブーレースの演奏するマーラーを前に「精緻にすぎる」などと見当外れの批判をする童貞ラヲタのようなものだ。

圧倒的な美しさ、スタイリッシュさ、その疾走にはに頭を垂れるしかない。涙は追いつけない。

参照される古今東西映像作品の断片に庵野の美意識が振るわれ、結晶として屹立するその様はベルント・アロイス・ツィンマーマン音楽を思わせる。

ネットにもビジュアルに対する批判は少ない。

あるとすれば、脚本、演出による。

しかし、どれも的外れものに過ぎない。

いくつか代表的なものあげてみよう。面倒なので3点に絞る。

1.いみがわからない

私も意味がわからなかった。もう自己パロディしか思えないほどのとっちらかった謎、伏線、設定に呆然とする気持ちはわからないでもない。

しかし、こうした要素は「わからない」ことも含めて、自らを「サービス業者」と規定する庵野の「サービス」であり、そのインタビューにもあるように「酒のツマミ」として楽しむべきものなのだ。すでに2ちゃんには解釈をめぐりいくつもの「名解釈」が登場している。そこにエヴァ本質はないのでその解釈論争の成立自体「そういうもんだ」と楽しむのが正解だ。「しらなかったとは言ってほしくない」

だいたい、我々が生きているこの世界自体、意味がわからないだろう。

2.登場人物の行動に整合性がない

そうだろうか。ある程度登場人物のおかれた状況に寄り添って、「補完」すれば整合性は保たれてはいいか?たとえば「破」で「行きなさいシンジくん」と煽ったミサトが「Q」で別人のように冷淡だというのも「ミサトの14年間の辛苦」といったもの忖度すればあながち整合性がとれないわけでもない。

だいたい、我々が生きているこの世界の人物自体、行動に整合性がないだろう。

3.リアリティにかける

ゲンドウと冬月の「二人のネルフ」はどんな金で動いてるんだとか、吹きっさらしのグランドピアノがなんであんなに綺麗なんだよ普通さびるだろとか、まぁ分からないでもない。

しかし、エヴァとは「私小説なのだプライベートフィルムにおいて、美意識表現される「わたくし」の前に「世界」のリアリティはある程度犠牲になるのだ。

つーか、あの廃墟、ぐっとくるじゃん。それでいいんだよ。

だいたい、我々が生きているこの世界の自体、リアリティがないだろう。

同様に依存症にも似た称揚にも目が当てられない。

4.狂ったエヴァが帰ってきた。俺たちのエヴァだ。

どこ見てんのかね。この「狂気」は完全に「作った狂気」だ。綺麗にまとまりすぎているし、旧劇場版アドリブ奏法のようなどこに行くのかわからない狂気ではなく、計算された狂気だ。

「序」と「破」をいったんたたき壊すための仕掛けであり、旧劇場版の「狂気」に魅せられて未だに90年代から一歩も動けていないものへの「釣り針」だ。

から、この「狂気」に「狂喜」するものは救いようがない。

この作品は「シン」へのかけ橋である以上、注意すべき点は以下の3点に絞られる

・旧劇場版とほぼ同じ立ち位置にいる「無限に後退していくシンジ」をQで再度設定しながら、決定的に違うのは旧劇場版シンジの周りにはダメな大人と壊れたアスカしかいなかったのに、新劇では導き手としてのアスカとマリが設定されていること。

・旧劇場版で「鬱シンジ」を否定し、「序」、「破」で設定した、ポジティブな「シンジさん」(セカイよりもポカ波を選んだシンジ)も「Q」で全否定したこと。

・露悪的な破壊の中で、通奏低音のように「やり直し」「成長と大人になること」「社会とつながること」を流していること。

上記を踏まえると、庵野<旧劇場版で引導を渡したはずの「エヴァ」に依存するヲタク>をもう一回、別のアプローチ説教しようとしているように見えて仕方ない。ヒントは同時上映された「巨神兵東京に現る」に流れていたようにも思える。

我々は上記3点の「伏線」に「シン」でどうオトシマエが付けられるのかを見守るべきであり、やはりつまらぬ結論ではあるが、それまで判断を留保すべきなのだ

つーか、こういう厨二病全壊な文章をかかせるエヴァさいこうって話ですよ。

2011-01-18

みつばとに対して規制反対派ができること

流れはここで把握できるが、

この世の不条理(都条例)に悩んだ小学六年生少女が出した結論

http://togetter.com/li/90180

一度は彼女のホームを見ることをお勧めする。

当然のことながら、都条例改正案成立によって死すべき運命なのは、実在青少年はなく、非実在青少年である

それも、規制そのものよりも、自主規制による影響が大きいと言われる。

その、自主規制による死者(=自殺者)第一号が、なんとTwitter上で出た。それが「みつばと」である

今回の騒ぎは要するに「作:mituba_To、主人公:みつばと、語り手:みつばとの兄」という(おそらくは自作自演の)狂言であろうが、

死の舞台が、Twitterアカウント、つまりパーソナリティキャラクターの狭間であったからこそ、

フィクションへの影響をリアルに働きかけることに成功した

〜というような感じの「芝居」についての批評まがいのことは、どうせネットで誰かがやるだろうから略。

閑話休題

みつばとは死んだ!(なぜだ!?←坊や(=非実在青少年)だからさ)

しかし、キャラクターは新たに語られる度に、別の生を生きることができる。

それならば、規制反対派として、規制による犠牲者第一号であるみつばとを死んだままにはしておけまい。

俺の主張はこれだけ。

二次創作による救済を!

そもそも、みつばとの一連のツイート私小説のようなものだと捉えるならば、

「みつばとの兄」の行為は二次創作に他ならないわけだが

2011-01-15

ライトノベル業界変調

一時的に文庫本業者をにぎわしていたライトノベルであるが、ついに力尽きたようである

ライトノベルハッピーエンドの読み捨て娯楽小説であり、男性向けハーレクインロマンスというコンセプトであった筈なのだが、どうも、このコンセプトを理解していない人が増えた結果、読者に対する訴求が弱くなってしまったようである

書き手や編集勘違いして、少しでも売れている作品は、続編をいつまでもだらだらと続けさせるという、少年漫画雑誌のような引き延ばしが始まり、ぜんぜんライトじゃなくなってしまっているのである

メディアミックスも、問題を大きくしている。小説は小資本実験ができるジャンルであり、ここで成功したら、コミックアニメといった、コストのかかるメディアに進出していくという考え方自体は間違っていないのだが、問題は、その元ネタが読み捨ての娯楽小説であるという点にある。読み捨ての娯楽小説の筈が、メディアミックス中は新作を発表し続ける事で相乗効果を期待することから、長大なサーガたいになってしまって、全然ライトじゃなくなってしまう。おまけに、それだけの長編・大作になってしまうと、新規の読者はついてこれなくなる。惰性で買っていた古馴染みの読者がもういいやと買わなくなると、尻すぼみになって、売れ行きが落ちる事になる。しかも、業界トップを張っている有名作品の売れ行きが伸びず、平台に積まれたままとなると、他の本の売り上げにも響くのである。あのジャンル全然売れていないのではないかと、新規の読者が入ってこなくなる。

相乗効果によって消費者からお金を絞り取るというのは、理解はできるが、モノには限度があるし、旬の時期を意識して切り替えていかないと、ライトノベル業界全体のイメージが翳ってしまうのである

ハーレムで俺Tueeeというのが、ライトノベル王道であるとされているが、これは、まさに男性向けハーレクインロマンスそのものの構造であり、異論は無い。しかし、それゆえに底が浅く、ハッピーエンドにするしかないのだからパターンはあっというまに消費し尽くす。だから、文体や筆名を変えてという芸と量産の能力のある書き手でなければ通用しないコンセプトだった筈なのだが作家性やら文芸のお作法やらで、そういった芸や能力はなく、面白いのが書けるか否かという、私小説作家のような書き手しかいなくなってしまっているのであった。

私小説もどきのアマチュアライターと、僥倖で面白い作品が転がり込んでくるのを待つ編集では、先が無い。メディアミックスという資本の物量作戦を考える能力はあっても商品適性を判断できていないわけであるジャンルそのものを企めるような編集者とまでは言わないが、せめて、コンセプトを理解して、それに適した売り方やタイミングといった判断能力ぐらいは、あって欲しいものである

2010-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20101128000451

3~4年前というのは「はてな」の歴史の中でそうであるだけで、

私小説の分野やフランス文学世界をちょっと渉猟しただけでも、

数百年前から数十年前まで同じテーマは数限りなく繰り返されているのだよ。

反論の意味がわからない。

元増田の「非モテ」の誤用非モテの含意を理解していないこと)に突っ込んだだけで

そのようなテーマが広義にもっとずーっと前からあるのは当たり前。

全く大威張りするようなことではないし

尚更今自分が思いついたみたいな風の元増田の滑稽さが理解出来るだろう。


最近はてなを見始めたなんてウソついているけど、

君の頭ん中はもうずいぶん前からはてなで埋め尽くされているんじゃないのかね。

勘繰りの動機がわからない。

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