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はてなキーワード: 小学六年生とは

2023-06-10

中学受験で失ったもの

24年間、私はずっと恵まれていた。

家族はたくさん私のことを愛してくれたし、友だちもみんな優しくて大好きな存在である。来世もまた私として生まれたい。それくらいに、幸せな日々を送っている。

でもひとつだけ、もし叶うのなら次の人生中学受験はしたくないと思っている。私の人生のなかでいちばん苦しい記憶からだ。

先に言っておくと、塾の先生たちも、両親も、みんな私のことを想ってくれていたと思う。そこに在るのは確かに愛であって、その他のなにものでもなかった。ただ、小学生の私には分からなかっただけ。すれ違ってしまっただけなのだ。だから誰も悪くないし、私は両親のことがずっと大好き。

でも、似たような気持ちを抱えている人もきっといる。だからせめて、ある程度の言葉の整理をつけられるようになった自分が残しておきたいと思う。

小学四年生わたしは、中学受験というものをあまり理解していなかった。それまでもたくさん習い事をしていたし、いずれ塾に通うことは聞かされていたからなんとなくそういうものなんだと思っていた。

そして入ったのは、某大手中学受験塾。狙うは日本屈指の名門校。そのために毎日たくさん勉強をした。テストの点数が悪かったら怒られてしまうから放課後は急いで帰ってすぐに塾に行って、テストが始まるまでずっと机に齧り付いて勉強していた。

小学校での成績はいちばんだった。先生に褒められて嬉しかったし、誇らしかった。友だちにすごいねって言われるたび、私は皆とは違うんだと思っていた。多分、周りを見下していた。世界は私を中心に回っていると思っていた。

同時に、朝学校で友人たちが「昨日は楽しかったね」って笑い合ってる会話についていけないことが悲しかった。前述の通り、当時わたしはだいぶ性格が悪かった。その自覚もそれなりにあって、だからこそ私にも屈託なく「次は一緒に遊ぼうね」と言ってくれる友人たちのことが本当に好きだった。本当に、大好きだった。当時は塾や家が(強制的に)勉強をさせられる場所だったからこそ、余計に。

そして小学六年生になった。

受験勉強が本格化していく。友だちと遊べる日なんて1日もなくて、土日は塾に12時間以上拘束されている。家に帰っても勉強息抜きといえばご飯を食べながら観るテレビアニメだけ。そんな毎日だった。

でもそれは私だけじゃない。同じ塾に通う子たちもみんなそうだった。テスト中、何度も何度も鉛筆を腕に刺し続けている同級生がいた。テスト中、ずっと髪を抜き続ける同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、大きなもみじ型の跡を頬につけてやって来る同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、当時流行っていたDSを半分に折られた同級生がいた。もう勉強したくないと言って喧嘩になって、そのときいちばん大好きだった漫画をびりびりに破られたことがあった。私の部屋の壁にいくつかの穴があいた。私の部屋の壁が私の足型にへこんだ。生徒を集めた決起集会で、先生が教壇にマイクを投げつけていた。

そのひとつひとつ、すべてが誰も悪くない。何も悪くない。いまの人生への影響なんて、何ひとつない。たぶん皆そう言う。そんなこともあったなあって、しみじみ言うだけと思う。そこに在るのは、ただ、愛だった。

それでも、それでも。たぶん、そのひとつひとつ光景死ぬまで忘れないと思う。あの時、いつも私はきっと同じ時間公園で遊んでるのであろう大好きな友人たちのことを思い浮かべていた。目の前で広がる現実を、一歩後ろに下がったような場所で見ていた。なんで私はここにいるんだろう、そんなことをぼんやり考えていた。

そして私はついに我慢ができなくなって、中学受験したくないと親に言った。受験総本山である夏を乗り越えた、11月のことだった。もちろん大喧嘩になった。このままいけば、確実に志望校に受かる。あと数ヶ月頑張れば終わるのに、ここまでやってきた努力に報いるためにも、あとちょっとだけ頑張ろうと言われた。それでも、当時のわたしはもう限界だった。いちど口に出してしまえば、止まらなかった。友人たちと同じ学校に行きたいし、少しでもみんなと遊びたい。そう思う今が大事なのであって、未来のことも過去のことも、どうだっていい。

そう泣き叫びながら家を飛び出して、塾をサボる日々が始まった。でも遠くに行くのは怖かったから、隣の家との塀の間にずっと隠れていた。屋根屋根あいから見えた突き抜けるような青い空が綺麗だったことを今でも覚えている。当時の私は、自分意思でもないのに、ここまで苦しい思いをして入る学校に何の意味があるんだろうと思っていた。それは実際、今でも思っている。

ただ昔と違うのは、今の私は、子どもの将来のためにレールを敷くことの大変さも分かるつもりでいる。朝6時に家を出て、夜11時に帰ってくる父親は、そのあと私に勉強を教えてくれていた。土日も、私が家にいるあいだはつきっきりでずっと。社会人になった今、それがどれだけ大変なことだったか、分かるようになった。母親は、塾のお弁当にいつも私が好きな食べ物をたくさん入れてくれていた。成績には厳しいけど、代わりに良い成績を取ったらたくさんたくさん褒めてくれたし、友人たちの誰よりもたくさんの物を買ってもらっていた。服も、本も、文房具も。不自由なんて何ひとつなかった。いつだって私は愛されていた。ずっと、愛しかなかった。でも当時の私は、その愛を目一杯享受して利用しながらも、見ないふりをしていた。

受験当日。結局わたしは、受験会場にいた。

名前欄に自分名前を書かないこともできたはずだった。でも、しなかった。わたし名前を書いて、見直しもして、解答用紙を提出した。結果は合格だった。それが確かに自分意思なのか、既に私の道は最初からまっすぐ一本道しかなかったのかは分からない。でも合格発表のとき母親と抱き合って泣いた。たぶん、色んな感情があったと思う。こうして私の中学受験は幕を閉じた。

この話を通じて、中学受験の是非を問いたいわけじゃない。ただ、あの日々が健全ものだったとは今も思わない。大好きだった漫画がびりびりになったときに、一緒に破れてしまった何かはきっとあったと思う。私にも、親にも。仄暗い恨みみたいなものも長年消えなくて、中高時代は嫌なことが起こるとすべて親のせいにしてしまっていた。嫌なことが起こるたび、私にレールを敷いたあなたたちのせいだ、とずっとずっと詰っていた。今から思えば、まだ親の責任下にある「子ども」に対して与えられたひとつの逃げ道だったのに。私の言葉は、親をたくさん傷付けていたと思う。その後の大学受験では、わたし100%自分自身意思で選んだ進路を一切否定されなかった。そして私は私の意思で、文学部に進学した。ずっとずっと昔はいずれ医学部に行ってほしいということを言っていた親も文学部に賛成してくれた。

中高時代わたしにとって「勉強」は、小学生時代の苦い記憶と共に在るものだった。閉塞的で、強制的な、苦しいものだった。でも大学で、自分意思で選んだ学問は楽しくて仕方なかった。そして、不意に思い出した。ずっとずっと昔、まだ塾に入る前の小学校低学年のとき図鑑百科事典を読むのが楽しかたこと。いつの間にか、そうしたものが苦しい記憶と結びついて蓋をしていたけれど、たぶんいちばん初めは、わたし勉強が好きだった。

文学部卒業して、わたしはずっと夢だった仕事に就いた。他の誰でもない、わたし自身選択の果てに辿り着いた。そのことを親もずっと喜んでくれていて、今は離れて暮らしているけれど、わたし仕事を一番応援してくれている。親はめちゃめちゃわたしのことが好きなんだろうなと思う。そうやって私が自分の夢を叶えることができたのは、たぶん親がわたし選択肢をたくさん増やしてくれたから。その始まりは、中学受験だった。中学受験してなかったら今、夢は叶えられてないかもしれない。だからわたしはこれで良かった。中学受験が苦しかたことも、たくさん喧嘩したことも、その果てに自由選択肢を与えられたことも。その過程はきっと健全もので、まるごとひっくるめて正しかったと思う。でも、それでも。もしいつか自分子どもができたとしたら、わたし子ども中学受験させないと思う。もちろん、本人が自分意思中学受験をしたいと言ったらそのときは全力で一緒に頑張るけれど。

中学受験をして得たものはたくさんある。今の私の人生幸せから。でも、たくさんたくさん苦しかった中学受験記憶から救われるには、いまのわたし幸せになることでしか報われないという意地のようなものも強かった。たぶん中学受験をしていなくても、わたしわたしの力で、幸せになれてたと思う。もちろん、あくま空想しかないけれど。わたし小学生の頃のわたしが、みんなともっと沢山遊びたかった気持ちをずっと覚えていてあげたい。世間一般から見たらわたしはめちゃめちゃ恵まれていて、小学生時代の悩みなんてたぶん本当に本当にちっぽけで、贅沢すぎる悩みだったのかもしれないけれど。それでも、わたしだけは、覚えていたい。あの日々のなかで見た光景のこと。確かにしかった記憶たちのこと。そうすることでしか、あの頃、家と家の隙間で泣いていた自分をひとりぼっちにさせないことができないと思うから

2022-12-03

anond:20221202220535

『冴えない私に突然、本気で口説こうとするイケメンが』というのが一つのテンプレで、その「本気で口説く」が「モラハラ」と紙一重なんだろう。男性向けで言う『智花さん(※)』のようなもの

(※)『ロウきゅーぶ!』の湊智花。見た目と言動礼儀正しい小学六年生なのだが、深読みすると『主人公の外堀を埋めているんでは?』と思われる言動が多いためネタにされ、ニコニコ大百科にまで記事ができている

2022-11-28

フェイルセーフとかフールプルーフとか詳しい皆様に

フェイルセーフとかフールプルーフとか詳しいみなさまにシステムの構築に関して

お伺いしたいです

小学六年生プリントを渡しません

配布は毎日ではなく内容は玉石混合です

保護者子供も読まなくても困らないもの

保護者確認必要な連絡事項

保護者確認ののち学校へ提出が必要もの

一番下は教師からリマインドが入るようで期限ギリギリまたはオーバーしてから探し始めて渡してきます

おそらく子供の中で優先度が高いです

私にとって優先度が高いのは2番目ですが

子供はとにかく全て渡してくれればいいのです

ファイルを渡してあるので、

受け取った手紙は全てそこに入れる

帰宅後「お手紙出して」のリマインドで渡す

優先順位は親が決める

だけの簡単お仕事だと思うのです

現状は

ファイル手紙は入ってない(ランドセルの底や学校の机を探す必要がある)

「お手紙出して」とリマインドすると「ない」と答える

実際は手紙は数ヶ月後に置いてあったりなくしたりしている

状態です

何度もお願いしても改善されません

システム的に改善したいのですがいい方法はないでしょうか?


【以下追記です】

沢山の反応ありがとうございました

玉石混淆 ご指摘ありがとうございます。訂正して以後気をつけま

まずは呼称統一するよう気をつけま

言われてみると娘は単語に対して私と違うものイメージすることが多いです

さら先生から直接など別ルート情報を得る案が確実だと思われるので、検討いたしま

本人が嫌がると思いますので、罰的にうけとられることに多少の抵抗があります

本人に気づかれないように段取りするのが良いでしょうか

子育てめんどくさいです

ランドセルに私が干渉するのは拒否されます

気持ちはわかるのですが「じゃあ自分プリント出そう」とは娘はならないのです

後出し情報すみません

ティッシュ洗濯していたのは二年半も前なのですね

まさか覚えているかたがいらっしゃるとは

さなジップロックなど試しましたが、最終的にはハンカチティッシュも持たないようになりました

ハンカチは持ってよ

私もプリントぐちゃぐちゃにする子供でしたが、現在の私の対処法では娘に通用せず中学進学後が心配です

結局愚痴になりましたすみません

子育てめんどくさいです

沢山の反応ありがとうございました

2022-11-07

爆走ファイターズバトル!!!(3期)

裂衣荷ワタル

スピードテクニックに優れる小学六年生!冷静沈着で法律十倍守るぞ!毎回二十段階右折を遂行している。

真直ススム

曲がったことが大嫌いな小学六年生!どんな道でもアクセルエンジンブレーキだけで突き進むぞ!ハンドルを回したことがない。

2022-10-04

anond:20221004160622

1986年11月16日午後2時30分ごろ

兵庫県西宮市進学塾浜学園」で小学五年生2人が重体にその他7人重軽傷

テストを終えて4,5階から出てきた小学五年生250人が

テストを受けるため階段を上がってきた小学六年生250人と3-4階の踊り場で鉢合わせ

10数人が将棋倒しになった。

ビル階段は1カ所しかなく、幅1.2m、踊り場は約4平方メートルである

2022-06-26

児童会での思い出

私の小学校では、小学6年生が低学年の子どもたちと週一回遊びを持つ会があったのだが、その時のことをふと思い出したので書く。

秋頃になると、お世話係を六年生から五年生に引き継ぐタイミングがあり、私はその時五年生の側だった。たしか外遊びの小さな大会企画の打ち合わせを五年生主体でしており、「だるまさんが転んだ」をどのように盛り上げるかみたいな話をしていたと思う。六年生はアドバイザー的に同席していた。

「一番多く鬼から味方を解放した子供に賞を与えよう」とか「鬼の側にも賞があるといい」「参加賞もいるね」みたいなことを言ってたときに、アドバイザー役の六年生のお姉さんが発言した。

曰く、だるまさんが転んだではストップのタイミングで無理な体勢で留まることで思わぬ笑いが生まれる。から面白い体勢で止まって笑いを生み出した子供に「ユーモア賞」をあげればよいのではないか、と。

私の記憶はここで止まっていて、ユーモア賞なるものを当日用意したかどうか(多分したと思う)、当日の盛り上がりはどうだったのかなどは思い出すことができない。ただ思い出すことができるのは、理路整然として、かつ、独創的な意見を言うことのできる彼女聡明さと、美しい彼女の顔である

この話にはオチは無くて以上なのだが、いま思い出しても、彼女のその時の意見には感動を覚える。小学六年生の彼女自分経験俯瞰し、議論の中で足りていないものを他のメンバー平易な言葉で伝え共感を巻き起こしていた。自分の力で考えて結論を出すという力、リーダーとしての素養というのはあのようなものなのだと思う。

2022-03-25

anond:20220325190000

小学六年生くらいの女子は、明らかに年代男子より賢く聡明なんだけど、

18歳になるころにはすっかり幼児化してしまうんよね。

2021-04-01

内心で少女性的興味を感じるな、なんて絶対無理

男児も含めて用語としては「児童性愛」だっけ? そうした考えを持つことそれ自体が悪だと見なす人がいる。

実際、Twitterでそうした主張の人と少しだけ意見交換して、「いくらなんでも内心は自由でしょ?」と言ったところで全く聞き入れてもらえなかった。

確か、幼女ドール炎上していた頃だったかと思うけど、幼女ドール児童性愛趣味自体を認めてしまうことに繋がるからダメなんだってさ。

 

でも無茶言うな、だとしか思えなかった。

私は特になんの変哲もないような大人男性で、ロリ趣味はなく、どう説明すればいいのかわからないが、一般的AV的なところを好む程度の性的指向があるだけだった。

から、例えばまだまだ未熟な小中学生を見たところで、特になんとも思わない人間だ。……と割とずっと思っていた。

 

この冬、田舎に帰ったんだ。

この田舎には、地元では有名な温水プールがあり、冬でも楽しめる。

あんまり行かなかったんだけど、そこは大浴場もあり、ちょっとしたサウナもあって、それも目当てで半日くらいゆっくり過ごそうかとプールにも入ったわけよ。

人はあんまりいなかった、十数名程度?

その中に一人、ど偉い美少女がいたわけよ。

個人的には、かの国民的美少女コンテスト全国大会最終選考レベルだと思った。

歳の頃はどうやら小学六年生のようだった。その子友達となんかそんな話をしていたのが聞こえたからわかった。

 

そこそこ広めの温水・室内プールに十数名程度しかいないんだから、どうしたってその少女視線がいってしまう。

私は、田舎に来ていた親戚の子供を連れてプールに来ていたんだけど、親戚の子供なんか半ばほったらかし。

で、その少女が割と目の前のプールサイドに来て、ワンピース水着の肩紐?を、その手でちょっと直すような感じで触れた時に、一瞬だけど胸が見えてしまったわけ。

 

勃起するな、なんて無理だった。

プールサイドの椅子に座っていた私は、慌てて近くの子供用プールの中に逃げ込んで、下半身を隠すようにして座るしかなかった。

その直後だったかと思うけど、ほんの一瞬だけその美少女視線が合った。

彼女が私のえっち視線に気づいたのかどうかは知らないが、それ以降は遠くの方へ離れていってしまったし、勃起してしまった私は恥ずかし過ぎて、もはやその美少女を見ることは出来なかった。

 

田舎から帰ってもしばらくはあの一瞬がどうしても記憶から呼び起こされてしまい、勃起こそ我慢できたものの、股間に熱いものを感じざるを得ない日々が数日続いた。

それくらい衝撃的だったんだと思う。

しかもそれ以来、街中で可愛めの小学生高学年くらいの女子を見かけてしまうと、どうしても意識がそっちにいってしまうようになった。

エロい想像まではしないように、別のことを考えるように努力はしているけど、一度そうなってしまうとこれがなかなか・・・

 

から、男が全員そうだとは、自分自身の一例で断定はしないけど、「内心で少女性的興味を感じるな」は不可能だと思うぞ。

2020-07-13

アイカツ!に戻ってきたことを後悔したオタクの話

突然だが、私はアイカツ!という作品の出戻り勢である。そして、戻ってきたことを後悔したオタクでもある。

アイカツ!放送当時、私は小学三年生だった。ちょうど声優、逢来りんの一つ下にあたる。大した理解力もなかった私は、3話にして純粋神崎美月にハマった。レッスンする姿がカッコ良かった、それだけだった。

1年目は純粋に楽しんでいたが、2年目の終盤。最高のパートナーいちごセイラであると明言されたとき、幼心に感じたのは「あおいは?」だった

しかしまあ、その後もきちんと完結編まで見た。

時が経ち、あかりジェネレーションになった。さくらの薄紅デイトリッパーはうっすらと覚えているから、恐らくそこまでは見ていたのだと思う。しか放送開始当時の私は小学五年生になっていた。周りにはもうアイカツ!を見ている友人はおらず、曲が好きだと誤魔化しても苦笑いされるばかりだった。アイカツ!は幼稚だと、友人は思っているようだった。

私はあかりジェネレーション開始のすぐあと、ジャンルを後にした。

さらに時が経ち、私が小学六年生三月アイカツ!は完結した。最終話と聞いて、一年半ぶりに見てみようと思った。

あかりいちごより早く崖のてっぺんに登ったところで思い浮かんだ当時の感想は「は?」と静かな怒りだった。もちろん私は出戻り勢。あかりジェネレーションはその時見てもいなかった立場だ。その回はカレンダーガールなども流れたようだが全く記憶にない。悲しいことである

それからすっかりアイカツ!から離れ、高校一年生になったある日、Twitterを見ていた私はふと、幼少期の推し神崎美月について検索してみた。

そうしたらなんとびっくり。アイカツオンパレード!なるものをやっているのだ。

びっくりした。小さい頃の推しにまた会えるんだ。そう思った。

こうして私はアイカツ!というジャンルにまた戻ってきた。

そして深く後悔することになる。

まず、私は大空あかりについて色々調べてみることにした。

そしたらなんとびっくり。いちご美月が出せなかった、私も名前を知らない新しいアピールヲ出せたと書いてあった。

は?が正直な感想だった。そりゃ彼女たち、つまり私が応援していた時には無かったものから2人とも出せなくて当たり前だよね。そう思った。

しかアニメを見ないことにはなにも始まらない。

とりあえず、あまり見ていなかったあかりジェネレーションDアニメストアで全部みてみることにした。

大変申し訳ないが氷上スミレ、新条ひなきのことは一切記憶になかった。しかあかりがドリーミーレイクに行く場面などは記憶の奥底にうっすらと残っていた。さくらデイトリッパーも懐かしい気持ちでみていたが、大空お天気やスミレの歌の話も一切覚えていなかった。

さくらスターライトクイーンになる話やあかりのBlooming♡Bloomingから先も記憶にないので、おそらく当時の私はこのあたりで視聴をやめたのだろう。そう思った。

そして見始めること151話ファンの間でも意見割れるであろう大スターライト学園祭。私は当然のように否定意見しか出なかった。

ルミナス推し(美月)に勝ったことではない。見えないところでも頑張っていたという関係者ツイートを目にしたかである

なんだそれは。あかり努力するキャラ、少なくとも私が見ていた2期ではそうだったはずだ。見えないところでも頑張っていたから出来た、それは天才として作られたキャラには通じる言い分だが、なぜ努力として作った大空あかりでそれをやってしまったのか。

彼女は見えないところでも頑張っていてはいけなかった。頑張りを余すところなく見せないとダメキャラだった。

そしてまあ、その後4期も見た。アピールはしっかりと新時代アピールと明言されていたので一先ずそこの誤解は解けた。

とりあえず推しがいるのだから繋がりたいと思うのが世の摂理推し名前検索すると出てくるのは罵詈雑言

うーん地獄かな。小さい頃好きなキャラBBA呼ばわりされているのをみて戻ってきてよかったと思うファンっているのだろうか。少なくとも私はよかったと思えなかった。

あかりジェネレーションでいいと思った曲も聞いてみた。そしてYouTubeコメント欄で見るのは必ずと言って良いほどあかり努力賞賛。ここまではまだいい、しかしそれと同時に他のキャラ努力していないみたいな書かれ方だった。

とある動画で「美月いちご天才だったかあんまり努力はしてなかった。でもあかりは沢山努力した」というコメントをみて「は!?」となった。私が見てた1期と2期ってなんだったのだろう。幻覚

どこぞのいちごやゆめと違ってあかり努力しているというツイートも見かけた。私が小さい頃応援していたいちごはなんだったのだろうか。

ダイヤモンドハッピーはかえでの曲だった話を耳にした。楽しんで見ていた1期の裏にそんな事情があるとは知らなかった。知りたくなかった。

トライスター編で蘭の役は本当はあおいの立場だったが、あおいに嫌な印象をつけたくないから蘭にかえた、という噂も聞いた。あくまでも噂だがショックだった。

しかしこれでも戻ってきた身。文句ばかり言っているが、美月のLPR自力で揃えたし、ドリームストーリー第1弾のPRも揃えるつもりでいた。

ここでやって来るのがコロナ騒ぎ、そして緊急事態宣言に伴うゲームセンターの閉鎖。これはもう仕方の無いことだろう。だから私は、きっと第1弾の延長が告知されると思い、定期的にDCDの公式Twitter確認していた。

結果、ファンの「第1弾延長だって!よかった!」というツイートで知った。

なんなんだろう、これは。その公式Twitterは何のためにあるのだろうか。情報発信目的のはずなのにどうしてそんな大事な話を発信していないのだろうか。

小さい頃好きだったものは、こんなひどいものだったんだろうか。

小さい頃楽しんでいたものの裏に、愛など無かったのだろうか。

小学生の頃の思い出を踏みにじられた気分だった。

公式にも、ファンにも。

私の推しは確かにTwitterをやっている層からはあまり人気はなかったのだろう。それは分かる。ここに来て見返してみると、確かに美月の行動はかなりおかしい、そう感じた。

しかしだからって、なぜBBAとか言われなきゃいけない。小さい頃好きだったオーラ演出をフケとか言われなきゃいけない。

こうなるのなら戻ってこない方が幸せだった。

推しのことも、ファンのことも、トライスター編やかえでのことも、知らないままで思い出にしておけば良かった。

そう思った。思ってしまった。

推し新規CG楽曲を聴きながら、今日アンチスレを開く。しかしこれからも私は、追い続けてしまうのだろう。アイカツ!というコンテンツを、小さい頃見た楽しい世界を追いかけて。

2020-06-21

私の父は優しい人だと私は知っている

私の父は世界一不器用でだめで、それでも脆いほどに優しい人だと私は知っている。

物心ついた頃から親父が苦手で苦手で、喋るのが苦痛だった。

眼力が強く、冗談も言わない、笑わない、話しかけても会話は返ってこない、それから1度怒ると暴れ出し、弟と私をよく殴った。社会で上手く馴染めず仕事から帰る度に私たち八つ当たりはザラで

とにかく触ってはいけない人間なのだと、小学一年生で悟った。

自身の父ながら、父の家族兄弟に友人、父の昔話や人となりの話も聞かされたことはなく、親父の趣味や好みも年齢もどこ出身であるかも小学六年生になるまで知らない、そんな未知な父親であったように思う。

仕事で家に帰ってくる事が少なく、また学校行事には来た事がない。親子の関係は冷え切っていた。

だが小学六年生のある日、とうとう母親父親ってどんな人って思い切って聞いてみた。

父親=触れてはいけないもの、と思っていた私としてはかなり思い切った問い掛けである

「おまえの父さんはな、親に捨てられて学校にも行かせてもらえず、橋の下生活してた野生児やった」

と今ではありえない、漫画のような事を聞かされた。

最終学歴は中卒だが、厳密に言うと小卒レベル学力大人になってしまった子供だった、と母親は物思いに耽りながら答えてくれた。

借金を苦にした実の母親に捨てられ、近所の人に助けてもらうまで

アパートの一室で1人、それから大量のウサギ、犬、ネコニワトリ、虫また、動物の腐乱死体(なぜ動物に囲まれていたかについては謎らしい)と共に糞尿にまみれ、

非常に飢えた状態で救出された後、施設から逃走し橋の下で半ば野生児のように生きたと父親談。

だがその後また施設保護され、やがて青年になり父親作業員として働いていた中今の母親出会う。

母親は当時の親父とデートしてびっくりしたことが、まず服のセンスが壊滅的だったこと、また箸の持ち方やテーブルマナーが人並み以下だったこと、自分名前すら書けず足し算レベル計算もできず、学が無いため給料もちょろまかされている、感情の起伏が激しく癇癪をすぐ起こし警察沙汰になる といった親父の境遇環境に、こいつを人間らしくしなければいけない と母親は強く感じたらしい。

いままで学と無縁だった親父の躾に苦労しながら、なんとか識字や計算一般常識を覚えさせる事ができた所で、私が生まれたとの事。

私が産まれた時、滅多に泣かない(感情が乏しい)親父が泣いて私を抱き上げたのだ、と母親に聞かされた時、あの親父があの親父が泣いて喜んだのか、とかなりショックを受けた事を思い出す。

懸命に親父が母親スパルタ指導で様々な事を覚える中、どうしても親父が理解できなかったものがある。

いままで誰にも愛されたことも無く、実の親に育てられず、人を愛せたことも無い人間であったため、私が生まれて嬉しいことは嬉しいがどう愛していいかが分からないままであったとのこと。

小さい赤子を触れることさえも怖くなり、ある日とうとう赤子の私を床に落としてしまった事から、私が小学生になるまで私に触れることも話すことも、関わることもできなくなったのではないか母親が打ち明けてくれた事で、いままでの親父の素っ気なさと距離に対する違和感が繋がったような気がした。

親父の社会に馴染めなさ、おぼつかない字の書き方、下手な話し方、魚を食べるのが下手なところ、情緒不安定なところ、すぐ殴るところ 全てが親父の生い立ちに起因するもので、それらは未だに勉強であるものだと分かった瞬間、親父にもっと関わろうと思えたのだ。

ある日親父に授業参観きてよ、って言うと親父の元々大きい眼が更に開き、びっくりしたように「行ってもええんか」と呟いた。

授業参観の日、仕事抜け出して泥だらけの作業着で見に来てくれた時は泣きそうになった。おやじも照れてて泣きそうになってた。

元々絵が得意な私に、普段の拙い落書きでも絵で賞を取っても「お父さん才能ないからなぁ、おまえ凄いな」と手放しで褒めてくれたこと。

繰り返していた自殺未遂と、シンナー吸引をやめて前向きになってくれたこ

「おまえ、これ好きやろ」と、好きな漫画キャラが使う武器木材で本物同様に作ってくれたこと。(親父は不器用だが、手先や工作に関しては神がかり)

寒いやろ」と手袋を無けなしの小遣いで買ってくれたが、もう中学生なのにどれみちゃんの小さくダサい手袋を買ってきたこと、

夏休み工作を手伝ってくれるが、完成度が高すぎて親父が作ったという事がバレバレなこと、

私が生まれからも勉学でかなりつまづいていたが、とうとう一級建築士資格を取得できるまでに努力してきたこと、

自分の育ちが悪く、また貧困いじめられていたからこそ

子供の私達にはしつけを厳しくしてくれたこと、またどんな人にも優しくするようにおしえてくれたこと、

冗談が言えるようになり、人付き合いも上手く行き部下に慕われるようになったこと、

箸の使い方も魚の食べ方も綺麗になったこと、穏やかになったこ

私が大学に行き、一人暮らしすることになった時、涙を堪えようとするけど鼻水垂らしながら号泣して見送ってくれたこと、

バイクの修理まで手伝ってくれること、

私が世界一可愛いと素直に褒めてくれること

あの頃歩み寄って親父の事を聞いてよかったなって思います

あの頃逃げてばっかだったおやじも、私と向き合ってくれたからここまで分かり合えたのかなっておもう。

たまにバカで雑でアホだけど、努力してきた親父は不器用だけど世界一優しいと私は知っている。

本当の大人になれるまで、懸命に生きてきたそんな親父は世界一強いと私は知っている。

そんな親父をしばきながら根気良く育てた母親世界一強いと私は知っている。

2020-05-28

子宮頸がんワクチン無料の期間過ぎて打ったけど筋肉注射から普段打つインフルエンザワクチンより痛かった。けど1日で痛みが引いたから良かった。

自費だと5万以上するけど実際癌になったらもっとお金かかるんだろうな。

副反応とかは事前に調べて自分で納得して打った。

筋肉注射は痛いか小学六年生とかだと本当に辛いと思う。打ったあとは力入れるとすごい痛いし。

2020-01-10

過敏性腸症候群わたし

からお腹が弱く、今思えば物心ついた時から過敏性腸症候群だったのではないかと思う。

小さい頃、小学校5年生くらいまで外食をするのが怖かった。なぜなら落ち着いてトイレへ行けないから。

から(2.3歳の頃から)便秘下痢を繰り返し、お腹を壊すとなると1時間以上はトイレで苦しんでいた。

もし出先でお腹が痛くなったらどうしよう、という不安が余計に腹痛を煽る。お店へ着くや否やトイレへ駆け込み、一回の外食で3.4回はトイレへこもっていた。(だが、そういう時はお腹は痛くなるのに便は全く出ない)

トイレへ行くたび両親からはまたか大人しくしろと怒られる。それも相まってさらに私のお腹は痛くなるばかりだった。

だが、小学六年生からは親へ口答えもできるようになったり、自律神経が整ったのか外食へ出かけても腹痛を起こすことがほとんどなくなった。相変わらず便秘下痢は繰り返していたが、昔ほど酷くはなくなった。

だが、中学3年生の冬。卒業間近に悪夢が襲った。

ある授業を受けている時、突然強烈な腹痛が私を襲った。我慢しようとしたがシャーペンを握る手が汗でビチャビチャになりノートが濡れた。これはやばいと思い恥を忍んでトイレへ向かった。

だが、トイレへ向かっている途中で腹痛はすっと治った。

あれ?と思い再度教室へ戻り席へついた瞬間また猛烈な腹痛。

全身尋常じゃない汗が流れた。少しでも気を緩めば屁も身もでる、全身をガッチガチに硬直させ奥歯が割れるほど食いしばった。

だが、十数分も待たずして再度トイレへ。またしても廊下を歩いている途中で嘘みたいに便意がなくなっていく。

その日から地獄の日々が始まった。

幸い、卒業間近だったこともあり登校日も少なくなっていたのだが、試練は終わらない。

友人とバスで出かけようものなら1人だけ途中離脱。親と車に乗ってどこかへ行くこともできない。静かな場所や人が大勢いてなおかつトイレはすぐ行けない場所密室にいると強烈な腹痛に襲われた。

そのくせトイレへ向かう途中やトイレに座った途端すっと腹痛が何処かへいってしまう。

私は発狂しそうだった。というか発狂した、泣いた、わめいた。

ご飯を食べなくなり下剤を多用した。整腸剤も飲みまくった。

出すもの出せば仮にお腹が痛くなってもでるものがないと思ったし、食べ物を食べなければ便が作り出せないからだ。

そんなある日、私はこの腹痛の病名と出会った。

過敏性腸症候群

お前か!!!!!お前だったのか!!!とめちゃくちゃ感動した。

その頃はおそらくあまりメジャーものではなかったが、いろいろな情報ネットから手に入った。心療内科へ行き診断もしてもらった。

からお腹が弱いというのも原因だったのもあるが、私の場合は厳しい親も原因の1つだったようだ。

怒るとなるとかなり厳しく、また、小さい頃は虐待じみた教育を受けていたこともありよくお腹が痛くなっていた。

成長するにつれ親も私が手がかからなくなり昔より穏やかに接するようになり、私も生意気にも口答えができるようになったのでストレスが少しずつなくなってきたから腹痛の症状が出なくなったのかなと思う。

だが、受験シーズンになり、推薦で高校が決まっていた私は勉強をしていなかった。仲のいい友人は勉強に追われていたが私はのんびり過ごしていた。そんな私に友人は八つ当たりをよくしてきていた。

今思えば自分が行きたいと選んで塾へ行き、自分が行きたいと選んだ高校なのだから黙って勉強しろよとは思ったのだが当時の私はその子八つ当たりを頑張って受け止めていた。

また、入学予定の高校では部活で進学したのだが、今じゃあり得ないくらいの暴力蔓延している部活で、これからそういう環境に身を置くことに対しても強いストレスがあった。いくら覚悟を決めていても無意識に心に負担があったのかもしれない。

いろいろなストレスが少しずつ私を蝕んでいき、一番弱いお腹負担がかかったのだと思う。

卒業式の日は前日から絶食、お守りがわりに整腸剤を持って挑んだ。隣の席の友人には病気のことを話し、式中はずっと小声で話し合っていたおかげでなんとか乗り切ることができた。

高校入学後も、事前に学校側へ事情を話しており、なおかつ校風自由で友人みんなに病気のことを話したり、テストは別室でうけたり、本当に申し訳ないが授業中は寝ることによってお腹から意識を逸らした。(教室にいることもとても辛かったが、皆んなが病気を受け入れてくれているという安心感や、申告なしでトイレへ行ってもいいと学校から許しをもらっていたので、安心感が大きく眠りにつくこともできた)

高校一年生の夏、期末試験の時、初めて教室テストを受けた。

担任から「受けてみないか」と提案があり、無理ならすぐ保健室へ行ってもいいと言ってくれた。

テストが始まった直後、教室は一気に静まり返った。

心臓が痛いくらバクバク鳴っていた。手汗が出た。お腹も痛くなった。

だが、我慢できる。

それどころか、少しずつ、少しずつ腹痛が治まっていく。

気づいたらテストが終わっていた。

その日から私は腹痛で保健室へ行くことは無くなった。

あれ以来、普通の人よりもお腹が痛くなることはやはり多い。映画館で腹痛になり、楽しみにしていたメリーポピン●は1時間しか見れなかった。居酒屋へ行きすぐにトイレから出れなくなることもあった。

けれど、昔より悲観的じゃない。大人になるってこういう時とても便利で楽だなって思う。

昔みたいにビクビクしながら外へ出ることがなくなったのはとても心地いい。もちろん痛くなったら絶望的にはなるが。

あの高1の期末試験体験が私の勇気となっている。あの日、目の前がとてもキラキラして見え、あ、もう大丈夫だと心から安心したことは忘れない。

2019-08-29

何者にもなれなかった私の生存戦略

初めてアニメイトに入ったのは小学六年生頃だったと思う。見事中二病発症した私は、そこから思春期を終える高校卒業まで、見事に「自分特別」だと心の深いところで信じていた。とても強く信じていた。
封神演義からオタクに目覚めた私は、テニスマンキンDグレ、笛!、ミスフル…と、WJ系のキャラクターに恋する夢女となり、書き手になった。
作品内に出てくるキャラクター髪型を真似たり、「私は〇〇と付き合ってる」と言い始めたりと、暗黒の中二病時代を送っていた。部屋の片づけをして当時のノートなどが出てくると目も当てられないような落書きや、謎のポエムが書かれていて、居た堪れない。
中学二年生の頃に夢サイトを持ち、同盟リングリンクを貼ったり、ランキングサイト登録して集客数を伸ばしたり、コンテンツとして夢小説だけでなく、キャラレス掲示板を用意してマメに返信をしたり、キャラレスメルマガ配信して何通か夢女達に夢を見させたりと、自分妄想をしながら、更に他のオタク女の夢脳を拗らせさせるという、欲の渦の真ん中近くにいた。
高校生に上がる頃には、今でいうところの特定の「推し」を作り、その推し自分のロングログラブストーリーを頭の中で練って「いつかサイト掲載するぞ」と考えていた。

当時の私は、何の疑いもなく「自分特別だ」と思い込んでいた。
流石に魔法とか魔術とか、そういうもの中学生のうちに卒業したけれど、高校に上がって尚、私は自分特別存在だと信じ込んでいた。それが、作風にも出ていたし、好んで読んでいた夢サイトの連載もそういう体で書かれていた。

特別』な私は、学校でも人気の仁王雅治君と『たまたま』隣の席となり、そのおかげで『話しかけられる』ようになって、『距離が縮まって』いく。彼は話しているうちにだんだんと『私は他の女子と違う』と思い始めて『興味を持つ』けれど、私の気持ちは他の人に向いていると思い込む。『二人きりの帰り道』に、仁王君はたまらず「俺は自分を騙すのも上手いぜよ」と言って私を困らせ、言及すれば「ピョ」と言ってはぐらかしてしまう。<< 大体こんなストーリーだったと思う。あんまり詳しくは覚えていないのだけれど、このまま何やかやあって大団円に向かっていく。大人になれば『』内のことは概ね起こらない事だと分かる。そもそも自分がそういう意味で意中の相手から持て囃されるような存在でないことは、流石に25を過ぎる頃に完全に腹落ちしていた。
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結局私は30を過ぎた今も「特別」な存在ではない。中二病を爆発させていた高校生の頃「平凡な日常なんていらない」なんて宣っていた私は今、平凡な日常をこよなく愛している。
私は結局、何者にもなれなかった。
私の書いた小説の中で言えば、名前も出て来ず、一言喋るクラスメイトAくらいの役割で、今日常を送っている。
そんな私が「特別存在じゃなくてもいいかな」と、今の自分を認められたのは、趣味があったから。そして、それを通じて知り合った同じコンテンツに熱と愛と金を注ぐ友人を何人も得たから。

趣味の中で、私は作り手の立場でいる事が多い。小説は夢からNLBL,オリジナルと内容の幅が広がり、コスプレは(上がってしまったけれど)衣装や小物作り、被写体になったり、カメラマンになったりもした。友達と何時間撮影場所の選定や、撮りたいイメージを語り合い、ラフを描き、カメラマンさんにインプットして撮って頂いた。アクセサリー作りをしてイベント頒布するようになった。編み物をしてイベント頒布するようになった。同人小説本をネットだけでなく、紙にして、イベント頒布するようになった。
途中まで、他人から評価が気になっていた。ちゃんと私は、私の作品は、「正しく」評価されるのだろうか。皆、これを見て私を好いてくれるのだろうか。そんな事ばかりを考えていた。
けれど、作品の傾向などから自分の好みが万人受けするものではないと気付いた。

そこで私は、他の誰でもない、自分の為に書く事が増えていった。正直、いいねなどの評価はそう多い方ではない。
何なら「なんでこのCPなのに不幸にするんですか?」「顔カプやめてください」なんて批判をいただくこともある。
だけど、確実に心のこもった、手の込んだ感想を頂くようになった。数は本当に本当に少ない。片手で足りる。それでも、どうしようもなく満たされていく。
私は、誰から特別扱いされるような美貌を持つ訳でも、センスを持っている訳でも、才能がある訳でもない。どこにでもいる、ありふれたアラサーオタク女だ。

結婚は一度した。仕事もある。そして、趣味もある。 皆の特別にはなれなかったけれど、その時々の恋人にとって、その時は「特別」で、家族にとっても私は「特別」。職場でも私の能力尊重される。
どれも、「何者かになりたかった私」の望む特別とは少し違う。それは持続性だったり、熱量だったり、関係性だったり。だけど、そういう小さな特別」を膚で感じて、積み重ねていくと、なりたかった「特別」とは違う、もっとレイヤーの多い、沢山の色を持った自分が見える気がする。

これが、何者にもなれなかった私の生存戦略

2019-08-07

私の一生

私は子供の頃から記憶力が良かった。初めての記憶は一歳の頃で新しい家を見て期待に胸を膨らませていたものだった。

新しい家は何もかもが新しくとても興奮したのを覚えている。

ところが、この記憶力がのちに私を悩ませることになるのだった。

私が8歳の頃、兄が私のベットに入ってくるようになった。そして私の体を舐め回すのだ。私はこれはおかしいと感じてはいたが、なにしろ私は母親に愛された記憶がないのだ。とても親に言えることはできなかった。父親母親に逆らうことはできないようだった。そんな父は何の助けにもならないのは明らかであった。

私はそれから毎日、兄の虐待を耐えるしかなかった。それは私が中学になるまで続く事になる。私は小学六年生の頃に生理が始まり性教育も受け、どうしたら子供ができるかもわかるようになった。

その頃兄の虐待エスカレートし、もはや子供ができても何らおかしくないものとなっていた。

はいざとなれば都会に出て子供おろしてもらうしかないだろうと思い悩んでいた。この時の孤独感は今でも忘れることができない。

私のできる抵抗と言えば、ジャージを履いてその紐をきつく締める事ぐらいであった。

やがてその事は突然父親に知られる事となった。私はやっと解放されたのだ。

この時の気持ちは何ともぼんやりしたものだった。ただただ、あぁ終わったのだなと言う思いしかなかった。

散々夜中に目が覚めて知らないふりをするだとか、私の毛布に精液が付着しているのをもう我慢する必要はなくなったのだと思ったのだった。

から謝罪される事はなかった。それはやはり私の勘が正しかったのだ。私は誰にも顧みられる事のない子供であったのだった。

それからは何もなかったかのような日常が続いた。私は普通を装い普通高校へと進学した。

私が高校3年の頃に制服を盗まれると言う事が起きた。私は困って母親制服を盗まれた旨を伝えたのだが、母親は「へぇ」と言っただけで何もする事はなかった。

仕方なく皆が冬服で登校する中一人夏服で登校する羽目になった。その時の羞恥は今でも忘れられない。私は制服を盗まれた上に親に放置されていると言う事を宣伝して歩いている気分だった。普通なら怒られる様な事態なのに先生も何も言わない。どこかから聞いたのかもしれない、関わるのが面倒くさかったのだろう。誰も何も言わない。私はまたしても顧みられる事のない子供となった。

しばらくして私を不憫に思った同級生が私に制服をくれるまで私は夏服で登校し続けた。

2019-03-27

女子大の女

 キモオタク女性蔑視について、侃々諤々の議論が交わされている昨今ですが、キモオタクな僕はご多分に漏れミソジニー的な気質があります

 僕は中学受験をして東大にいっぱい入る中高一貫男子校入学しました。そこで中高時代を楽しく過ごし、浪人することな東大合格大学では体育会系、いわゆる運動会部活に入りました。就職活動では首尾よく第一志望の企業に通り、学部卒で就職。今は一流企業サラリーマンをやっております現在社会人にも関わらず、童貞として日々粛々と生きております。振り返ると中高時代には全く女性蔑視などしていた記憶はありません。しかし、今は完全に一定女性蔑視していると思います

 僕は中高時代、塾でプリントを回す時以外女性との関係がありませんでした。というか、そもそも塾でプリントを回すことは果たして女性関係する事なのでしょうかね。要するに、僕は大学入学直後に小学6年生女子以来の女性との衝撃的再会を果たすのです。それが女子大の女です。新歓のために東大の中には大量の女子大の女があふれていました。想像できますか。小学六年生女子東大に入るためにゴリゴリ勉強している制服姿の女性しか知らなかった人間の目の前にめちゃくちゃマブい女子大の女がいるんですよ。しかもマブい女子大の女たちは嬌声をあげてイケてない東大生と楽しそうにしている。僕はもちろんそんなイケてない東大生よりイケてない新入生だったわけでありますけども、本当に、グロテスク気持ち悪いなと感じました。小学6年生の頃は「友達」だった女性という存在が、「女子大の女」になっていた感覚分かりますかね。

 突然ですけどインカレサークルっておかしくないですか。いやもちろん色々な大学から同じ志を持つ人が集まってきているインカレサークルもあるんだという主張はあると思いますが、ここで僕が言いたいのは男余りの高偏差値大学と女しかいない女子大との間で作られる、本質的にはセックスサークルしかないインカレサークルの話です。おかしいですよね。大学生活で入るサークルセックスサークルって気持ち悪いですよね。しか女子大の女は慶應とのインカレじゃなくて東大とのインカレを選んでるんですよね。慶應生はイケてて自分とは釣り合わないけど、東大生くらいのキモオタクだったらちょうどいいかなって選んでるんですよね。しか日大とかのインカレサークルじゃなくて将来的にそこそこ稼ぐであろう東大生とのインカレサークルを選んでるんですよね。テニスサークルとかフットサルって分かりやすいというか、陽にセックスサークルでもうそはいいんですけど、インカレボランティアサークルみたいなの。マジで、なんで東大女子大でインカレしてボランティアするの?東大ボランティアサークルに入ってそうな男ならイケるかなみたいな。いや本当に俺の頭がぶち壊れてるのは十分承知だけどもそう感じてしまったものはもう無理。18歳の女の子若い女性性の持つ魅力をフルに活用して将来にわたる安定を得ようとしているのって、世間から純粋性交遊と目される建前の整った、実質風俗じゃないですか。いや本当にそうじゃないことは理性的には分かってます。そこには男女ではなく人間的な交感があった上でのやり取りがあり、東大生ならだれでもOKみたいな事ではない難しい男女関係があり、その上で交際が成立して素晴らしい愛が育まれていることなんかわかってるんですけど。

結局僕は部活に入ったのでその後女子大の女との本質的交流があったわけではないです。女子大の女どころか東大に在学している女性さんともほとんど交流はなかったです。ただ上記女子大の女に対する嫌悪感けがブクブクと膨らんでいき、女性全般にかけて低く見るようになりました。

社会に出て世間女の子尊敬に値すべきで皆さん人間として優れていらっしゃるという事をはっきりと感じるようになりました。もちろんそうでない女性もいますが、それは男性とて同じことです。

しか女子大の女に対する気持ち悪さだけは消えることがなく、先日女性を紹介されて、その子女子出身だと知ったときに吐きそうになってしまった自分の壊れた頭は今後どうなるのか不安になったので駄文を書き連ねました。案外書いて見ると気持ち悪くない気もしてきました。人間は素晴らしいですね。

2018-08-28

小学六年生ぐらいの時に歯医者に行ってて

お姉さんのおっぱいめっちゃ当たってたな

今思えば結構若かった気がする

性の目覚め……

2018-07-10

私のオナニーの話

女。20代結婚して妊娠中だ。オナニーが止められない。何故ならとにかく気持ちがいいかである

物心ついた時には既にオナニーしていた。ポ○モンを、コ○ンを、こ○亀を見ながら適当オナニーする癖がついていた。母親にめちゃくちゃ怒られた記憶があるが何が悪いのか当時わかっていなかった。今ならわかる。母よ、こんな娘でごめん。

何が辛いって、具体的なオカズがなくても抜ける(もちろん女なので「抜く」はおかしいが、便宜上これを使う)ことだ。秘部に意識を集中させれば、もう既に一人前戯が始まっている。後は絶頂目指して指で秘部をマッサージするだけで抜ける。オカズがあれば、もっと抜ける。あればいいが、なくても抜けるのだ。

小学生時代は三度ほど連続で抜けば疲れて眠った。年齢が上がるごとに、疲れずに連続何度でも抜ける。本当にオナニー麻薬であるとつくづく実感させられる。

小学六年生の時にエッチ自販機で購入したピンクローターは、改革にも等しい刺激を与えてくれたが、なにせ壊れやすく、その度にお小遣いも減るので素早く抜きたい時のみ使うようになった。やはり指はエコノミーである

手で抜くのにもマンネリ化してきた中学時代、私のオナニーライフは劇的に変わった。まず、私はアニメオタクになった。そのアニメオタク御用達ショップの近くには、たいてい大人オモチャ屋が存在している。当時は色々ユルユルだったので、バイブと催淫ローションを購入できた。エロ本もいくつか持っていた。

ローションはイランイランの甘い匂いがするだけだったが、催淫という二文字があるだけで最高に抜けた。バイブは、ローターより作りがしっかりしているのだが、全く気持ち良くなく残念だった。膣から出している時は元気に時計回りをしているが、挿入した瞬間動かなくなる。傍若無人なその動きに快楽があると信じていたので、本当にショックだった。

うそう、ご想像通り、ピンクローターあたりから膣に異物を挿入し始めた。出血はなかったのでいつ処女膜を失ったかはわからないが、きっと何年もかけて穴を拡張していったのだろう。初体験は今の主人とで、社会人になってからだったが、ついぞ本物でも破瓜経験は得られなかった。

高校時代は、バイブに失望し、挿入と刺激を分けた。コンビニに届くように設定したアマゾンで購入したディルドと電マで、さらに後戻り出来なくなる。ディルドは全く気持ちよくない。やはり膣より陰核である。私は陰核に直に触られると痛みを感じるが、布をかませるとオーケーな体質で、それで挿入しながら刺激できるという一石二鳥バイブとは相性がよくなかった。電マ。電マは最高だった。バイブより出力も高い。面積も広い。持ちやすい。

私の愛用の電マはフェアリー。壊れづらく、無線・有線と選べる上にサイズも揃っている。オッサンがニヤニヤしながら考えたとしか思えない謎のパターンブルブルも存在しない。出力も申し分なく、ダイヤル式で強弱が変えられて、細かい調整に良い。電マで迷っているなら、今すぐフェアリーを勧める。本当に。無線は有線より壊れやすい傾向があると感じたが、どちらもあると捗る。今は私は有線しか持っていないが。

そう、電マの導入で私はオナニーを極めた。10回、20回真顔でオカズ無しで抜けるようになった。それが毎日。365日。自宅でオナニーしない日はない。旅行などがあって他人眠る時だけはオナニーをしないこともある。していることもある。

書いていて思い出したが、私は中学時代教室で授業中にオナニーしていた。誰か気づいていたと思う。恥ずかしいくらオナニーに弱いが、オナニー中毒なのだ

オナニー麻薬であると前述したが、私はタバコクスリも酒も博打もやらない代わりにオナニーをする。猿のごとくする。しないとイライラするから。本当に中毒なのだ。この先老いた時、オナニーを連れてはいけない。いつやめられるのか恐怖を伴って。お腹の子に影響はないのか心配しながら。この文章を書き終わるまでに三度のオナニーを済ませ、今四度目のオナニーを始めようとしているのである

2018-05-04

山口を許してあげてほしいと思う自分がいる

私は女性だし、小学六年生ときおっさんからわいせつな声掛けをされる被害にあったことがあるし、高校生ときに、26歳の男に性的な内容のメル友時代を感じる言葉だよね)をさせられていたことがある。ずっと、子供を食い物にする大人に激しい怒りを感じていた。とくに高校ときの方は、自分の愚かさを責めて髄分と苦しんだし、正直、今も苦しんでいる。

しか山口の件について、私の本心は「許してあげてほしい」であり、戸惑っている。なぜか私は少女ではなく、山口気持ち同調している。なぜなのかはわからない。トキオ結構好きだったというのは無関係ではとないと思う。理由はわからないが、とにかく、そのことがまた私を苦しめている。私もまた、子供を食い物にする大人なのだ

2018-02-18

今までの罪を懺悔しようと思う

私は今、高校2年生の男子高校生だ。

小学生の頃から、人が隠しているものを除き見るという事に強い性的な興奮を覚えていた。

1番古い記憶だと、小学六年生の時、水泳の小さな大会に出たとき、ちょうど1人になったので、4個も下の女の子カバンをバレないように漁り、水着を触ったこともあった。あと、これはみんなやっていることだろうが、クラス全員のリコーダーを舐めた。

中学に入ってから、私は生理用品を漁ったり、女子カバンを漁ったり、女子スマホを盗んだり、体操服を漁ったり、1番ひどいのは放課後残されていた女の子水泳カバンを持って帰り、水着を堪能して、そして、胸のところに入っているパッドを切り取り、翌日休み学校に何食わぬ顔で返したこともあった。

一度生理用品漁りがバレかけて、親を巻き込んだ大変なことになったが、私は嘘泣きをして、親や先生に信じてもらい、なんとかその場を切り抜けた。それ以降私の心はもうほとんど壊れているように感じる。

そして、高校生になって私のその異常性癖は抑えられていたのだが、高校一年の終わりの方に、スマートフォンによる盗撮に目覚めてしまった。

私はクラスメイト全員のスカートの中を撮った。バレなかった。また何食わぬ顔で過ごしていた。

私は他のクラス女の子に手を出した。バレたらしい。しかし、あくまで噂、というレベルでとどまっている。

私はこの性癖を、本当に心から捨てたい。嘘をつかなくて良い人生を歩みたい。こんなことを自分で言うのもおかしいが、私はこの性癖以外、ほかに社会的に異常な部分はないと思っている。

彼女もいれば、友達もいる。ただ、この隠している部分を見たいという欲求が異常に強いだけなのだ

この性癖を捨てたい。何度も努力した。でも捨てられない。どうすればいい。誰がわかってくれるというのだ。どうすればいい。

2018-01-06

3.11

当時小学六年生

初めて経験する地面がうねる感覚、そこら中から鳴り響く地震速報の音。

全てが得体の知れないものだった。

そしてそこから毎日、毎時間、絶え間無くTV流れ続ける被害情報映像

瓦礫の山、押し寄せる津波、その後ろには大勢の1人の死の瞬間が確実に映っていた。

数年経ってから3.11に限らず地震関する全てに強い恐怖を覚える自分に気づいた。

地震速報の音、地面から感じるかすかな揺れ、全てに異様なほど不安を感じる、手の震えが止まらない。トラウマのものだ。

その恐怖の根底はやはり当時見たあの映像数々にあったと思う。

話は逸れるが、シン・ゴジラ映画を1人の死が大げさに描かれないからこそ感じる現実らしい恐怖があると評価している人がいた。その通りだと思った。

災害の中でも1人の死が大きく取り上げられるのは創作世界だけ、現実もっと淡々と一瞬ですべてが奪われていく。

そこに確かにあったものが一瞬出なくなる恐怖。

この恐怖感はきっと一生消えない。

しかしたらその一生は自分大勢の一人になる瞬間に終わるのかもしれない。

2017-10-05

人間になりたい

から手の掛かる子供でした。

すぐ泣いて癇癪を起こすし、学校には行きたがらないし、勉強にも全くついていけません、漢字も全く書けませんでした。でも文字は読めるので図書室で本ばかり読んでました。

文字を見ても字が書けるようにはなりませんでした。

いつも親に怒られていました。

面倒を見きれないから、祖母に預けるぞと言われましたが預けられはしませんでした。

そのうち地域活動しているいわゆる「障害児」の支援をしている人に精神科を勧められ、アスペルガーの診断を受け、投薬を始めました。

診断されると、田舎学校ですから“そういう教室”は無かったので専門の教員が外部から来て空き教室に通い始めました。

同級生から教室に来ない変な奴」扱いを受け始めました。

普通教室同級生が大嫌いになりました。

はいつも怒っていてたまに殴られました。

小学六年生の時学校統合しました。するとそこには“そういう教室”があったので通うようになりました。

先生は優しかったし、比較的“普通”であった私はクラスリーダーでした。

普通教室にも少しだけ顔を出せるようになりました。

普通クラスでは漢字がわからないと隣の子に聞けば困った顔をしながらも教えてくれました。

まだ漢字は書けませんでした。

親がとても怖かったです。

中学校に進学すると同時にほとんど普通教室で過ごすようになりました。

一応勉強にはある程度ついていけたような気がしていましたが、期末の漢字テストで2点を取り、職員室に呼び出されました。

夏休みが明けると学校に行かなくなりました。

しばらくしてからたまに“そういう教室”にお昼を食べに行くようになりました。

お昼が終わって帰ろうと外に出ると同級生から罵声を浴びせられました。

先生はそんなこと言ってた子はいないと言っていました。

親にも気のせいだと言われました。

名前を書けば入れる通信高校に進学しました。

電車で30分くらいかかる場所で、通学は大変でしたが知り合いもいないし、単位制なのでマークシートを埋めるだけで単位が貰えました。

漢字が書けないのですごくありがたかったです。

私学でしたので親はお金にうるさくなりました。団らんが怖くて拒食症になりました。

ネット上で知り合った人にも会うようになって、それが癖になりました。

体の関係を求められてお金を貰ったりもしました。

停学を経験したりしましたが無事に卒業できました。

漢字はまだ書けませんでした。

進学や就職活動しませんでしたが、高校卒業前にやり始めたコンビニアルバイトを続けることにしました。

漢字を書くことは少なかったのであまり困りませんでした。

親には調子に乗るなと前よりも言われるようになりました。

親の前に出るのを極力避けるようになりました。

半年くらいして突然アルバイトに行けなくなりました。

行こうとすると体が動かなくなって涙が止まらなくなりました。

その日に車に乗せられてアルバイト先に頭を下げに行きその場で辞めて、精神病院に連れて行かれました。

鬱とかではなかったようなので、軽い抗不安材と、同時に不眠症になったので睡眠薬をもらい定期的なカウンセリングを受けるようになりました。

カウンセリングはすぐに行くのを止めました。

親は少しだけ優しくしてくれるようになりました。

貯金はしていましたが病院に通ったり保険料を払ったりしていたのですぐにお金が無くなりました。

思いつきで援助交際を始めました。

好きな人ができました。

わず今もセフレのままです。

漢字もまだ全然書けません。

性病になったのがきっかけで怖くなって援助交際は辞めました。

代わりに年齢を偽って20歳といいながら水商売をしています

人と初めて付き合うことになりました。

遠距離でなかなか会えないけど、今度こそ幸せが続いてほしい。

セフレ依存するのも、知らないおじさん相手気持ちよくも無いのに喘いだりするのも、親が起きていると怖くてトイレにも行けない生活も、リストカットオーバードーズ自殺未遂も全部全部全部忘れるくらい幸せにさせてほしい。

漢字は書けないままでいいです。だから神様どうかお願いします。

少しくらい幸せにさせてください。

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