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はてなキーワード: 私小説とは

2010-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20101127235934

アホか君は。

3~4年前というのは「はてな」の歴史の中でそうであるだけで、私小説の分野やフランス文学世界をちょっと渉猟しただけでも、数百年前から数十年前まで同じテーマは数限りなく繰り返されているのだよ。

最近はてなを見始めたなんてウソついているけど、君の頭ん中はもうずいぶん前からはてなで埋め尽くされているんじゃないのかね。

2010-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20101117110608

これは、別に男と女の語りの違いじゃないぞ?

ログインして無いから、1ページ目だけ見た感想だけど、文章構成力の違いだと思う。

下の方に違和感があるのは、

ビジネス雑誌サイトに載せる文体では無い。

私小説随筆と見ても、散文的過ぎて情景や作者の心境が読み取れない。

この2点が主だとおもう。

単に文章書きのスキル差だと思うんだけど。

2010-10-30

電子書籍についてグダグダと書き綴る

テレビ電子書籍について報道していたので、またいろいろグダグダと書いちゃうぞ~。

という軽いノリで。酒飲みながら。

つか本当に『電子』としての『書籍』という意味では、

今まで散々それに該当する商品は世に出ていたと思う。

弟切草』から始まるサウンドノベルだって、

分岐はあるけど文字であり小説でありエレクトロである点を考えると

立派な電子書籍だ。エロゲだって、フリーソフト

アドベンチャーソフトだって、その類だろう。

小説PDFにしてダウンロード販売していたサイトだってある。ボイルドエッグとか。滝本竜彦は元気かな。

でも、そういう一連の流れは無視されて、

キンドルipadと連動する書籍のみが、『電子書籍』として認知され、

黒船』として恐れられている。

その違いは一体何なのか。

いろいろ考えたけど、最終的にはやっぱり『形』かな、と。

考えてみれば、『本』は非常に優れた形状と質量を持っている。

どこへでも持ち運びできるし、いろんな体勢で文字を読むことが出来る。

寝転がりながら。椅子に座りながら。飯を食いながらでも読める。右手に箸。左手に本。

ハードカバーでは多少きついけど。

これまでの『電子』な『書籍』は、その点を考慮していなかった。

ゲーム機パソコンなどといった端末で再生され、可搬性や可読性については議論さえされていなかった。

それがキンドルの登場で変わったのだ。端末自体が変わったのだ。

そしてipad。そして、さまざまなメーカipadを真似し始めている。

これは凄いことになりますよ。出版社さんは覚悟したほうがいいですよ。

ネット上の動画展開はまだまだ先のこと」と思っていたらYouTubeの登場で慌てふためいた

テレビ局さんのようになりますよ。いやマジで

こういうパラダイムシフトは、マジで予期しなかった時期にいっきに来ますよ。

音楽業界は、もはや目も当てられない。もっとも~、これはこれで面白いけ・ど・ね!(ファッキュー!)

まぁでも、パラダイムシフト自体が悪いことではないですからね。

むしろ、新しい文学の可能性も否定できないわけですよ。

文学の可能性というか、文字の可能性ですね。

『文字の可能性』と聞いて思い出すのは、やっぱり2001年に起きたテキストサイトブームですかね。

あれは面白かったわけですよ!あれだって一種の電子書籍なわけですよ!(酔いが回ってきた)

文字ポイントを拡大して、オチが放たれる。文字の色を変える!

いやー、面白かったな。『侍魂』とか、当時は特に面白かった。

空白でページをスクロールさせて中身を稼ぐという手法は、有名人ブログで定着しましたけどね、

ありゃあひどいもんですよ。辻ちゃんテレビ番組で『スペースをあけてページに

内容があるように見せかける』というのをやっていましたけどね、ありゃあひどい。

やっぱりある程度の文章の量は必要なわけですよ!

やっぱり精度の高い文章を読むと興奮するわけですよ!

でもま、電子書籍なら電子書籍ならではの、『演出』というのも欲しいわけですよ!

たとえば、音楽が流れるとか。挿絵が美麗なアニメーションで表示されるとか。

何か、村上龍が作った電子書籍は、著名な方の音楽が流れるらしいですよ?

でも、音楽アニメーションも、出来れば文学的な演出がいいですな。

心に染みるようなやつをね、僕は望んでいるわけなんですよ。

私小説』は、『エンターテインメント小説』とは違って、やっぱり心の中で反響するような文字列であって欲しいわけなんですよ。

だったら、その電子的な演出にも、私小説性、心の中で反響するような演出が宿っていて欲しいわけなんですよ。

エンターテインメント映画と違って。

文学性というのはバズワードだと思うけど、でも、それでも、僕は『文学性』を求む!

エンターテインメント』という言葉自体に『マジョリティを拒絶する』という意味が宿っているような気がしてつらい。

そろそろ終わろうか。グダグダと書き綴っちゃって、ごめんね。ごめんね。

酔っ払っていてごめんね。

2010-07-27

近所のガキがテレビに出てたって話

近所のガキが死んだ。交通事故だった。

その子の母親が、彼の通っていた工作教室ニュースで特集されたときの録画を見せてくれた。

テレビの向こうには数年前の彼がいた。でも何か違和感があった。

その当時彼はうまくしゃべれなかった。(いや障害とかじゃなくて、単純に幼かったからね)

そこでテレビ側は声優吹き替えをさせた。

吹き替えというと、なんだか違うかもしれないが、まあ分かるだろう。

犬やサルにやるあれだ。「う~んお腹が減っちゃった」みたいなね。

テレビの彼は確かに彼であるけれども、俺の知ってる―鼻くそほじって食ってるような―あいつじゃない。

でもテレビの向こうの彼は確かに存在してる、それで「イタタタタ・・・・」なんてアニメ声で膝をさすっている。

それが不思議感覚を呼び起した。

それで何を書こうとしてるかっていうと、なんだって思想とか哲学とかの話は盛り上がらんのかということ。

実体験や、たとえ話にはえらく口を出してくるくせに、

何だってそういう類の話は避けるのだろうか、というのが不思議でたまらなかった。

んでもって、それがどうしてかっていうと、結局他人事だからだ。

ガキが鼻くそほじってくって、立ちションして、犬のウンコつついてるところなんて誰も見たくない。

これから彼がどんな風に生きていき、死んだかも見たくないだろう。

だから、誇張したり編集したりアニメ声にしたりする。彼の人生コンテクストを切り取って。

工作教室で何か作るのも、経済的原因で大学いけないのも、会社がつぶれて借金苦になるのも、

女に振られて女を恨むのも、大事な人が自殺するのも、ガキが事故死するのも、

そこだけ切り取られれば、他人にとってはエンターテイメントだ。

私小説風に書かれていればさらに最高。「自分じゃない誰かの話」ってことがはっきりする。

一方で、思想哲学は、物事の理やらなんやらについて書かれているから、自分にかかわってくることが多い。

主語は無かったり、大きかったりするし、何を言いたいのか考えるのに頭をつかわにゃいけない。

この文章だって何人がここまで読むだろうか。

こんな文章を読むより、ガキがどうやって死んだかを考えるかのほうが楽しいんだろ?

内臓はぶちまけたか?とか、死ぬまで時間がかかったか?とか、そのときお前はどう思ったんだ?とか。

ついでに、それにトラバするのが楽しくて仕方が無いんだろ?

その死を乗り越えてがんばって生きろ、とか、悲しいねとか。

ちょっと書きすぎた。

でも、こんなの変だ。死んだガキも、なんでだかよく分からんが、こんなアホみたいな文章書いてる俺も、

テレビの向こうの犬でもサルでもない、ついでに言えば工作教室のあの子とも違う。

なんで俺はこんなことをしてるんだろ。俺は、もしかしたら他人事にしたいのかもしれない。

それってどうなんだろうか。動物番組を何の気なしに見て、他人事にして、それってどうなんだ?

そこらへんの答えは出てないし、実は正直どうでもいいんだけれど、とにかく、なんだろうか?そういう話だ。

2009-11-25

http://anond.hatelabo.jp/20091125174702

私の場合は、症状はもっと軽度だったんだけど、アメリカにいたころ、

何回か日本人セラピストにみてもらった。ほとんど効かなかったな(笑)

すっごい高いから、罪悪感はたしかにあるよね。

自分語りしか出来ないので悪いのだけれど、

今、江戸時代古文書を読む仕事してる。

考えてみれば、セラピーみたいなもんだ。

アイデンティティを取り戻せ! みたいな。

歴史は、固い岩盤のようなもので、

掘って掘って出てくるのは、まぁ大体「モノ」であるからして、

解釈なんて余計なことをせず、解読翻刻のみに集中すれば、

人を裏切ることがない。人間の世の中が続く限り、

おそらく永遠、絶対のものだ。(もう終わってるし。)

自分結婚もして子供もいるけれども、

ナマモノの相手は、案外大変だよ。

趣味は悪いが、死人の声を聞こうとするのが、

自分にとっては最も安らぐ時間だったりする。

なにかそういう、「確かなもの」があれば、

心のanchorになるのじゃないか。

あと、水村美苗さんの『私小説』は帰国子女に絶大な癒し効果がある。

私は二ページごとに泣きながら読んだ。超オススメ

2009-07-21

暗殺しながら生きていく

フィクションです)

 大学院を修了後に上京して、大手の暗殺企業で五年間勤務していた。エキサイティングな職場だった。厳しい先輩と、ハード仕事を次々こなした。待遇は悪くなかった。三年目には年収手取りで一千万円を越えた。ただし昼夜もなければ公私もなかった。殺しても殺しても依頼は尽きなかった。この激務は終わりのない日常なのだと気付いたちょうどそのとき、仲の良い同期が死んだ。ブレインストーミング中に流れ弾が頭部を撃ち抜いたのだ。桜散る春のことだった。

 ゴールデンウィーク休みなく働き続けた僕は、翌週に四十度の熱を出した。近くの病院が出した診断結果は「ただの風邪」。それだけ体が弱っていたのだ。やりかけのプロジェクトがあったのでなんとか会社へ向かおうとしたが、体は動かなかった。動け、動いてよ、という言葉自分に呟いた。動かない。結局、東京に来てはじめて自宅で時間を過ごすことになった。一日が長かった。ワンルームにはテレビ冷蔵庫もなく、ゴミ箱さえない。がらんと広い死んだような家で、死にかかっていた。

 翌日も体調は戻らなかった。誰かと話をしたかったが、学生時代の友人とはもう長いあいだ連絡をとっていなかった。アドレス帳を開いてはみたものの大半の顔が思い出せない。仕方がないので、一日を布団にくるまって過ごした。誰の訪問もなければ、誰からの電話もなかった。恋人からの電話さえなかった。きっと僕は一日中働いていると思ったのだろう。ふだん彼女から着信があっても返事をしなかったのは僕なのだ。夜中にふと目が覚めて、さめざめと泣いた。ひとしきり泣いて、僕は退職を決意した。

 一週間かけてなんとか体調を戻した僕は、どう退職を切り出すか迷いながら出社した。待っていたのは、リストラの宣告だった。「なぜかは君も分かっているだろう」とミシガン大卒上司は言った。どうやら寝込んでいるあいだ会社からのメールに対応しなかったというのがその理由らしかった。「クライアントおかんむりだ。責任はとってもらう」上司ははっきりとそう言った。パソコン会社に置いたままだった、と言い訳する気にはなれなかった。外資系は違うな、と僕は妙に感心した。「暗殺者はともかく、外資系はやめておきなさい」と言った母の言葉を思い出した。

 僕はそのとき二十九で、違う業種に足を踏み入れるにはすこし遅かった。そして同業他社へ進むには内情を知りすぎていた。残されていたのはフリー暗殺者として独立する道だけ。僕はそうした。もちろん最初はうまくいかなかった。貯金を食い潰す毎日だった。サラリーマン時代はなぜ、あんなに高いスーツばかり買っていたのだろう。足にぴったりフィットするようオーダーしたストレートチップの革靴も。

 ほどなく恋人にも捨てられた。馘首になったことを打ち明けたら「結婚する気はあるの」と聞かれ、返答に窮したらそれっきりだった。これまでに殺してきた人達家族に明日殺されるかもしれないのに、それはそれとして「結婚しよう」と答えるのが誠実な態度だったのだろうか。僕にそんな自信はなかった。

 その時期、前職の顧客からぽつぽつと頂く仕事が僕の命綱だった。貧乏はつらい。しかしそれ以上につらいのは、暇なことだ。仕事一筋だった自分には余暇の楽しみ方など分からなかった。暇を潰そうにも相変わらず我が家にはなにもないまま。だからと言って、これまでに買ってきた恨みを思うと街をぶらぶら歩く気分にもなれなかった。夜になるたび、実家に戻ろうかと真剣に悩んだ。母にはまだ退職の話さえしていなかった。

 好転の契機は価格を見直したことだった。それまで用いていた大企業譲りの価格体系は、プランオプション、割引制度が複雑怪奇で、一般顧客には理解が難しい。そんな当たり前のことに気付くのに半年かかった。ゼロに近付いていく預金通帳を眺めて、ふと分かった。実際のところゴールドプランだろうとプラチナプランだろうと、顧客にはどうでも良いのだと。殺して欲しいから暗殺者を頼む。それだけの話。そこで原則、一人につき二十万円と改めた。コンサルティング・フィーはなし。メンタルサポートオプションもなし。分割払い不可。にこにこ前金一括払い。失敗したら全額キャッシュバック。失敗などしたことなかったので、なんの問題もなかった。

 ネット系の暗殺企業CFOを勤める後輩の薦めに従い、なけなしのお金で簡単なネット広告も始めた。「これからは暗殺ネットで依頼する時代ですよ」と後輩は言っていた。正直に言って半信半疑だったが、ほどなく新規顧客を獲得できるようになった。暗殺企業は大手顧客ばかりに目を向けていて、リテール向けのネット進出に出遅れていたのだ。ネット系の暗殺企業はいずれもベンチャーだが、急速に顧客の支持を集めている。僕はその波に乗った。

 すこしづつではあったが、充実した忙しい毎日が戻ってきた。殺して、殺して、殺す毎日。正直に言って、サラリーマン時代は企業闘争に関わるプロジェクトばかりだったので、個人から依頼される仕事の大半が痴情のもつれであることには閉口した。それでも、大事なお客さんであることに変わりはない。ある時は依頼者の夫を殺し、ある時は依頼者の夫の浮気相手を殺し、ある時は依頼者の本妻を殺した。

 独立して一年が過ぎた。流れは上向きだった。そこに不景気がやってきた。

 仕事はもちろん減った。不景気で依頼人が減ったのはもちろんのこと。しかしそれ以上に、不景気暗殺者になろうとする輩が大勢現れたのが問題だった。仕事が減るという結果は同じかもしれないが、なお受け入れがたかった。なんでもどこかの週刊誌資格がなくてもできるフリーランス仕事として大々的に紹介したらしい。誰でも簡単、いますぐ暗殺者! というわけ。「一にも二にもコストカット。これからは自分で殺す時代」なんてことを言うコメンテーターまで現れた。

 自分の腕は鈍っていなかった。一年を通して失敗は一度もなかった。評判だって悪くなかった。だからこそ仕事が減るのは堪えた。後輩が連絡をとってきたのはそんな時だった。場所は青山の隠れ家風フレンチレストラン。「安くないけど、いい店でしょう?」後輩は最初にそう言った。彼の働くベンチャー企業は今や暗殺系で一番の成長株。週刊誌にそそのかされて始めた素人暗殺者を大量に抱え、コミッションで稼ぐビジネスモデル。飛ぶ鳥を落とす勢いだ。

「それで、景気はどうですか?」後輩はそう続けた。もちろんこちらの景気を理解しての発言である。「今日はなんだい」と僕は言った。それから後輩は休みなく喋りまくった。要約すると:これからは暗殺にも無料の時代がやってくる。クリス・アンダーソンという人が「フリー」という本を書いているそうだ。「無料暗殺世界を変えるんです。嫌な人間のいない世界になりますよ」彼は言った。

無料でどうやって生活するんだ」僕が言った。後輩は待ってましたとばかりに答える。「広告ですよ。殺害現場広告にするんです。ちょうど三億円事件カローラが有名になったみたいに」「面白い話だとは思うが、そんな広告を出稿するクライアントがいるか」「いますよ」後輩は笑った。「有名になれば勝ちなんです。有名になるためなら、どんな広告でも売る企業ばかりですよ。だいたい、クライアント以外はそれが広告であるかどうか分からないんですからね。たまたま殺人事件を通じてなにかの商品が有名になるだけです」

無料で殺される人間は不憫だな」僕は言った。「殺されればなんだって同じですよ」後輩は答えた。「そうか」僕は頷き、彼の心臓ナイフを突き刺した。いつもどおりの手口。失敗するはずがなかった。入念にナイフをえぐると、後輩は一言も発さずに死んだ。僕は後輩をテーブルクロスに包み、店主に一言言い残して店を出た。景気が良かったときによく使った店だった。後輩はこの世界で生きるには目立ちすぎた。

 翌日、コンビニATMで二十万円を引き出した。趣味のひとつもないので、家賃と食費以外には使うあてもない。とりあえず向こう二ヶ月は暮らして行けそうだ。僕は家に戻り、布団にくるまって寝た。明日はなんの仕事もない。

追記

ブクマコメントなどありがとうございます。PC故障中なので自分サイトではなく増田に投稿しましたが、いつもより反響があって嬉しいやら切ないやらです。http://youkoseki.com/text/ にその他の短編小説をあれこれ掲載していますので、良ければどうぞ。また三十路から小説家デビューする方策や、いまどき短編私小説募集している媒体情報などご存知でしたらご教授下さい)

2009-05-02

http://anond.hatelabo.jp/20090502132030

いや、知らないよ、そこで急に避妊中絶の話を持ってこられても。

それが当たり前なのだったら当たり前なんだろう、それが良いことだとも思わないけど。

その上で創作物にそこまでの社会的責任を求めるのは俺は反対、キリないしね。

影響を受ける人間がいるからというのを理由に表現行為にそんな制限がかかる社会を良い社会だとは決して思わない。

お前が反対するのは当然自由だけど。

あとお前は私小説ってものを何か勘違いしてないか?あれはジャンルであって責任の有無は関係ないぞ。

延長って言葉はどこから出てきたの?

http://anond.hatelabo.jp/20090502124926

当たり前、ねえ・・・。

「愛しているから」避妊もせず猿のようにセックスして、んで子ども出来て「堕ろそう」「産む!」ってのも

当たり前なのかしらね

何というか、ケータイ小説に足りないのは作品の質でも文章力でもなく「社会的責任」だと思うよ。

メインターゲット中高生というなら尚更。

現実に「望まない妊娠」をしている中高生が大勢いることを踏まえたら、ケータイ小説の作者および編集者

そういった社会的責任を果たしているとは到底思えないのだけれど。

中の人アマチュアだかプロだかは知らないけど、いつまでも私小説の延長で作品が書けると思ったら大間違いだ。

2009-04-20

http://anond.hatelabo.jp/20090420042153

政治評論では歪んだ自意識が行間から漂ってきてどうにも気持ち悪かったが

私小説になると逆にその気持ち悪さがリアルで面白いな。

2009-01-23

ターゲット設定とリアリティと宣伝効果の兼ね合い

http://anond.hatelabo.jp/20090123014440

これについて3ヶ月くらい前に書いた(はてな外で)ことがあるんですが、丸ごと転載してみます。

立場的には元増田とは違って作者&編集者出版社)側に対する視点でのものですが。

迷い猫オーバーラン、というライトノベルがあるらしい。

スーパーダッシュ文庫から出ているそうだが、なんとも面白いこと(あーやっちまった的な意味で)をしているようだ。

簡単に言うと、ネットに実在する有名サイト名前などを作品中に登場させているとのこと。

ここまで書けば、あとはタイトルと合わせてなんとなく想像がついただろうが、ライトノベルを扱うBlogニュースサイトで話題になった。

当然ながらそれだけで広告効果というのはかなりのものが見込めると思う。

登場している有名サイトというのもニュースサイトであるあたり、狙っていた部分もありそうだ。

アキバBlogかーずSPカトゆー家断絶、と言えば割とネット歴が長かったりオタクといった属性持ちであれば知っている人は多いだろう)


もしかしたらリアリティを出す(作品に読者を移入させやすくする)ため、というのが元の狙いの一つだったのかもしれない。

しかし、とあるサイトで紹介されていた本編中の一節を見るとやはり頭を捻らざるをえない。(実際に私は読んでいないので、紹介されている一部だけを見て判断するなというお叱りを受けそうではあるが)

例えば、同人誌を作ってコミケデビューして有名になるとか、気の利いたMADを作ってニコ動に投稿して世界を狙うとか。この情報化時代、何が幸いするか判らない。たまたま漫画好きだったことに端を発して日本宰相に上り詰める人だっているのだ。

確かに読者層の大きなオトモダチの比率は上がっているだろう。

ライトノベルを嗜好の一つに持つ人間ネット環境を持たない人間は少なそうだというのも分かる。

だとしても、結局のところこの作品中で登場させた「サイト名」「MADといった用語」「ニコ動というサービス名」「現総理を取り巻くネット上の反応」は一部方面での認知でしかないというのを作者には(編集者には)分からなかったのだろうか。

自分のすぐそばまでの視界でしかない現実世界アイテムを登場させてリアリティを演出しようとする手法は諸刃どころか、読者おいてけぼりになりやすいんだけども。

確かに創作活動であるのと同時に商行為なわけだから「売れればいい(売れなければいけない)」とはいえ、さすがにこれはない。

どれだけピンポイントなところにターゲット絞ってんだよ、と。


内容はもはや典型とされるようなお決まりのパターンであるようだ。

だからといってこういった形で注目されるものを埋め込むと、自分作品そのものではなく、その埋め込んだもの一点にしか話題がいかずに終わってしまいかねない。

確かにまずは手にとってもらわなければ読んでもらう(売れる)ことにも、続刊が出ることにも繋がらないだろう。

続刊さえ出てある程度続き、シリーズとして確立してしまえばメディアミックスという次の段階に移る事ができる。

そうすればそれが更に宣伝となって原作の売り上げに繋がる、というパターンにする布石としては「もしかしたら」いいのかもしれない。

しかし、上記のようなことが予想される上に、実際そのとおりになっているらしい状況を見るに、結果的に手にとって貰える率というのはそれほど高くもなくなってしまっているのではないだろうか。

こんな紹介のされかたするくらいだもの。

 ちなみに肝心の本の内容はというと、大河とルイズを足して2で割ったような女の子と、お嬢さま属性が追加されたハルヒ主人公を巡って火花を散らし、そこに猫属性を付加された綾波が絡むという話です(ぉぃ

 いや、そんな間違ったことは言ってないはず。


アキバBlog、また実名ラノベに登場! そして「あの」サイトも――「迷い猫オーバーラン!」(HarfMoonDiary)

http://ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=274

これで「ラノベにウチのサイトが登場したぜいえー!」とか喜んで紹介するようなことが暫く続いた場合、同じ真似をする作品が出てきそうだ。

正確にはそれを狙って指示を出す編集者が、だろうか。


ネットで話題になれば売り上げに結びつきやすい。

それはハルヒが十分すぎるほどに示して見せた。

しかし、これは話題性意味が違うだろう。

むしろ当たり屋に近い。


元増田内のリンク先も読みましたが、ただの内輪ネタというのは非常に危険です。

一部の人間に向けた」作品となってしまいかねない。

私小説」ではないわけですから「商品私物化」は非常に拙い。

恐らくは担当がある程度のところでブレーキをかけるとは思いますが。

遊び心は大いに結構、でも、手段が目的にならないようにしてくれよ、といったところ。

2008-12-16

http://anond.hatelabo.jp/20081216211254

小六病中二病高二病大二病も全部ダメだと

いっそ、各主要登場人物が一人一要素を持たせて絡ませるのはどうだろうか

ごくごく平凡でも私小説足りえるだろうし、それが読みたいと思わせるかは別としてね


こんな感じでどうだろうか?

2008-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20081117224035

でなくて、自然科学はあなたが思ってるほど立派でないし限界はあるじゃないかと。分かってるつもりかもしれないけど、分かってない人、結構いそうだよ。

と、そういう一見ごもっともそうな(しかし誰でもいえる)一般論を言っておきながら、思い切りその「限界」の範囲内で話を始める連中が大勢いるから批判されてるわけなんだが。はてなだとどっちかというと「似非科学批判批判」(笑)ではなく反経済学的な方に行くんだけどね。「全体最適ナチ」(爆笑)とか。

話が逸れたが、「シンクロニシティ」とかそういう文学的表現を文学的表現とわかった上で使うのはそりゃ勝手だよ。でも、もしそれが「文学的表現」の領域を踏み越えたらそりゃ叩かれて当然だぜ?例の「日本語が亡びるとき」と同じ話で、あれも「私小説」なら「それなりに面白い本」と言ってもらえるものを、言語論であり教育論であるとか言ってしまうからトンデモ扱いされてしまうんだよ。そういうことだ。

2008-11-15

ケータイ小説(笑)が許し難い理由-水村実苗氏の『本格小説』より-

水村実苗氏の小説本格小説』の副産物で、図らずも「ケータイ小説(笑)が許し難い理由」を得たので紹介したい。

小説を読まない私が水村氏の著作を読んで見ようと思い至ったのは、梅田氏のトピhttp://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1に因る)

p173-174『本格小説水村美苗,2002,新潮社

もちろん小説家が自分の人生を書いた小説、あるいは、書いたように見える小説は、どの言葉にも存在する。そしてそのような小説は、どの言葉で書かれていようと、もっともたやすく「真実の力」をもつであろう。なにしろそこには一人の人間の一人の人生そのものがある。だからこそ、小説家はどの言葉で書こうと、自分の文章を売るよりも自分の人生を売りたいという誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならないのである。しかも私たち人間は例外なく他人の幸福よりも他人の不幸に興味を持つ。小説家が、自分の不幸を売りたいという何よりも大きな誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならない所以である。ゆえに、小説家にとって真の不幸とは、自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書くということにある。「私小説」的なものが日本語で栄えるということは、日本語で書くことが、小説家が自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書く不幸を意味することにほかならないのであろう。


以前より私は、ケータイ小説(笑)に対して朧気ながら嫌悪感をもよおしていた。

未成年の著者による自己中な世界観が我慢できない

・そもそもビッチの生態が気にくわない

・ページをめくる作業もめんどくさい

だが、理由のどれもこれも個人的の嗜好で、ケータイ小説根本的に駄目な理由としては弱い。

が、水村実苗氏の『本格小説』の上記引用部分に触発され、ケータイ小説(笑)に決定的に欠けている点が良く分かった(と私は感じた)。

自分の文章を売るよりも自分の人生を売りたいという誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならない

まさしく、これだ。ケータイ小説(笑)の著者(笑)は、たやすく誘惑に屈する。

自分の人生を切り売りして描くことは、水村氏が言うように、「真実の力」を得やすい。故に、並の小説家が「真実の力」を小説に込めたいがために己の人生を己の視点のまま書いてみようという安易な姿勢に堕するのは想像に難くない。

こうした誘惑に踏みとどまり<何故この小説でなくてはならないのか?>と自問し続けることができるかどうかが、小説家の値打ちを決める。

蹴りたい背中綿矢りさ等々(例が古くてゴメン)、若年の著者による小説が隔年間隔で大々的にプロモーション展開がなされている。

が、彼らは少なくとも<己の部分>をそのまま表出していては、選者の評価を得られなかったであろう。

小説家が自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書く不幸

まさしく、そう。

感情の垂れ流しを嬉々として受け入れる読者層も不幸ならば、己の姿勢を問い続けることのできないケータイ小説(笑)の著者も不幸。

2008-10-21

外国古典を気軽に話題にする難しさ

http://anond.hatelabo.jp/20081020231740

シェイクスピアヘッセトルストイヘミングウェイホメロス ドストエフスキー

この中だとヘッセ以外ならだいたい読んだよ。

ホメロスって長くて面倒だけど結構おもしろいよな。

神様につく枕詞がいちいちかっこいい。物語自体の意味なんてわからなかったけど、ホメロス読んでると現代文学がおもしろくなる。ジョイスだったり。

たしかに自分のまわりにもほとんどいないな。文系だけど。

でも、もし語れたとしても語る内容が重くなるから気軽にはなせないんだよね。

それだけじゃなくて、少々わかりにくいし意味だってどうとでも取れるから、適当なことを言ったらバカにされそうだし、背伸びしてこむずかしいこと言ったら相手が「うーん」とか言って黙り込むし。たまに原典厨がいて(帰国子女外国語が得意な人に多い)、日本語訳しか読んでないくせに偉そうに語るなと陰で言われることもある。ある意味間違いではないけど、そういうこと言い始めたらなにも始まらない。

本当はドストエフスキーは笑えるほどおもしろいらしいね、大学先生が言ってた。それなのに、私小説あがりの陰気な日本文学史の態度で読むのが(インテリの)マナーみたいになってるからみんな難しい顔して読まないといけないようになってしまってると僕は思う。たとえばアメリカビートあたりはもっと楽しく読めるけど、そういう明るいのは正当に評価されないし。実験作品でも笑えない言葉遊びだけが文学的に評価されて笑える言葉遊びは評価されてないと思う。

それから、読んだことの見栄や既得権意識邪魔してる。今でも憶えてるけど、僕が高校生の頃ライ麦畑でつかまえて学校図書館で借りたら「おっ、ライ麦か、ふーん」と読書家の友達からちょっと上から目線コメントされたことがある。

似たような感じだとドストエフスキーだったら3作読むだけでも大仕事なのに、「地下室読んでないの?あれは基本だろ!」とか「死の家の記録は彼の転換点なんだから、読んでないなら彼を語るな」とか「ニーチェも読んだ?バフチンは?読まないとダメだよ」なんていくらでも言われる。読んでることが既得利益になってる、情報ならなんでもそうだけど。そうやって見栄を張るための道具になってて、さらにはプロ批評家同士が勉強不足をなじることで議論に打ち勝って原稿料をせしめるというシステムすらあるから、なかなか声に出しずらいんじゃないかと思っている。別にアホな感想でもいいから気軽に楽しく読んで話せたらいいのにと思うけれど、そういうつっこみが怖くて誰も語らないからどこに行っても話題にならない。

結局読書自己完結なんだから良いのかもしれないけど、読書は上からありがたく拝見させていただくだけ、という図式になってるのが問題なのかなと思う。この形式は読書感想文なんて最たるものかもしれない。一人で静かに書いて先生にみてもらう。そして先生が採点する。そういうのより、みんなで3冊ほど読んで、昼ご飯食べながら2時間くらいしゃべったりしたほうが、活字離れはなくなるはず。逆にマンガみたいなのは下からの支持があって成立するからみんながわんさか話し合って業界全体が盛り上がれる。ただし、みんなにみてもらわないと成立しないというのは弊害もあって、萌えなんかの要素に頼ったり、似通った感動パターン作品を量産してしまう欠点はある。そういうのがあって深みがないだとか他の分野から言われることもあると思う。ライトノベル携帯小説の強みは楽に読めて楽に人に勧められる点にあるのかもしれない。

殴り書きしてみたけど、こんな感じかな。

もしかしたら、こういう風にきまじめな分析をしてみたがること自体が気楽に話せなくなる理由の一つかもしれないけれど。

とりあえず、ここで気楽に話してみたらどうよ?

2008-07-27

悲観するな、BUSAIK or BUSども。

わたしはそんなブサイクではないし、ブスでもなかったが、イケメンでもなく、ゆるふわ愛されギャルでもなかった。

「こんなエントリを書くお前のことだから、どうせブサイク専かブス専なんだろ」

とか言うアナタもいることだと思うが、やはりわたしは玉木宏を愛し、田代さやかおっぱいを揉み、それを田代さやか罵倒されたいと常々思うほどの普通人間なのであった。

とある知人の女性に、私が「恋愛とか結婚とかもう第二次性徴期が始まる前に自然と諦めてたお」と思っている事を見抜かれ、説教されてしまった。諦めちゃダメ!せっかく女性に生まれてきたんだから恋を楽しまないと。子供だって産みたいでしょ?いい男性を探さないと!と背中を叩かれた。うーん。別に「私の劣悪な遺伝子を残したくない」とかいうわけじゃないが、特に子供産みたくないし、恋愛も、とくにしたくないのだがなぁ。これを言うと「全ての男性がそうではない、そんな事言うな」と言われちゃいそうだが、正直男性に何の希望も抱いていないのである……まともな男性というのが存在するのなら、これは誠に失礼な物言いなのだが……如何せん私が会ってきた男性というのは上のような人たちばかりなために、いくら人から「そうじゃない人もいるよ!ポロリもあるよ!」と言われても、「でもどうせ君達に優しいその男性たちも、私を見ると「ブースw」ってなるんちゃうかねぇ…」としか思えないのだ。知人の女性は「どうしてそんな哀れな思考しかできないの」と言う。まあ確かにそうなんだろうけどね。困ったね。はぁ。

http://anond.hatelabo.jp/20080622033714


この方は、自らがブスであることを悲観している。

しかし、それは決して真実ではなく、性欲と言う観点からすればたしかにブスであったりブサイクであったりすることは悲しいことであるが

やはり、恋愛という観点からはそれは決して致命的と言うほどではないのであった。

致命的、についての反証をひとつだけ述べたいと思い、わたしはここに筆をとった。

ようは、いま、わたしの愛するひとはブスなのである。

いや、愛しているのかは定かではないが、親愛の情という観点からは、以前わたしが愛したひとたちよりも深い、と言って相違ない。

外見上では、彼女はさまざまな点で、以前わたしの愛したひとたちに比べ劣っている。

初めて愛した女性ほどセクシーロリータフェイスなわけでもないし、殆どの女性に比べて体形は大慶ともいえるほどの大形なのである。

おっぱいはおおきいが、やはりそれは腰の太さと関連するものであるらしい。それも、以前付き合っていた女と比べれば雲泥の差であった。

また、彼女ゴシックロリータな服装を愛する。はっきり言って、似合っていない。それ以前にわたしにゴス趣味はない。

だが、私は彼女のことが好きなのである。

なぜ、彼女が好きなのか?

至極単純な理由である。彼女論理と直観力にわたしは惚れたのだ。

彼女は決して、一般に言われているように論理的なわけではない。

だが、彼女なりの、直感に裏づけされた、レトリック的――もとい、文藝的な論理が、非常に快い。

純粋理系学問組合の徒弟であったわたしの論理と、一見はかみ合わないように見えるが、彼女の直観力は非常に優れており、常に私を理解し、同意し、ときに叱咤する。

また、音楽趣味、という点でも彼女と私は一致をみるところがあった。

決して、それは単一のカテゴリにだけとどまるものではなく、

様々なカテゴリの中から、自分の気に入るものを探そうとする姿勢、そして、探しているものがなければ、自分で作ろうとする姿勢も私と一致した。

わたしは、彼女にしてあげられることはたくさんあったし、彼女がわたしにしてくれたこともたくさんあった。

彼女は、今までのわたしの、わたし自身に釣り合わぬほどの美しさとセクシーさを備えた彼女達よりも、ずっと、直截にわたしを見てくれた。

わたしもできれば同様でありたいと思っているし(そのために本人に向かってブスといったこともままある)、その視線は何よりもわたしを癒してくれるものであったから、

できるかぎり彼女自身を直截に愛したいと思っている。

ここで、これ以上わたしは自分の恋愛私小説を語ることはしない。

そこには、いくつもの物語があったし、いくつもの困難はあったが、わたしたちの愛情が途絶えることはなかった。

それだけを述べて、違う話に移ろうと思う。

だが、これだけは覚えておいて欲しい。

自分がブサイクorブスだということで、決して、悲観してはいけないということと、

稀に、あなたの中のあなた自身を愛したいと(決してわたしがそうだとは思わないし言うつもりもないが)思う人間存在するのだということを。

そして、あなたには十分に愛される価値が、あなたがあなた自身であり、回りの他人を真摯に見ようとする態度をとっている以上、

幾度誰に笑われても、何度誰が笑おうとも、あなたに愛情を抱く異性は、現れることがあるのだ、ということである。

わたしが子供のころに通っていた英会話学校の講師に、およそ100kgはあろうかという巨漢のカナダ人の女先生がいた。

彼女は、ほんとうに太っていて、指はまるまるとして、肌は炊きたてのごはんつぶのようにつやつやとして、

彼女は非常にモテていた。

それは、彼女の優しい声のせいもあったと思うが、彼女の立ち居振る舞いがとても美しく、

また、誰に対しても彼女が心から表現する思いやりと優しさが、ほんとうに深すぎたためであった。

わたしたち生徒も彼女が好きで、彼女の授業を奪い合ったし、先生にも、あとで聞いたところによると、告白したりして断られた人が多かったらしい。

彼女は、今、ネパール人の男性と、恋愛結婚をして、とてもとても幸せそうに、わたしの町を歩いている姿を見かける。

男性はとても真摯な人だったし、彼女をほんとうに愛して、気遣っているオーラが出ていて、見るたびに幸せになる。

なにも、ブス専ブサイク専が存在するからそれを狙えという話が言いたかったのではない。

ブスであっても、ブサイクであっても、それを凌駕するだけの魅力(決して特別なスキルが必要だったわけではない)をもち、

それでたくさんの異性を惹きつけて来たひとたちが存在するのだ、ということが言いたかったのである。

……また、言いたかったことはもうひとつある。

玉木宏ヴォイスは素晴らしく中性的で、田代さやかおっぱい唯一神である、ということだ。

また、語弊があるといけないので、記そうと思うが、田代さやか自身も神である。

余り誰もが気にかけないが、彼女負けん気の強さはほんとうに至高である。

その神の谷間から、あなたたちの心の中に、異性を惹き付ける新しい玉木宏が生まれんことを祈って、私はここにキーボードを置く。ガシャン。

2008-06-24

自分の文系蔑視感の根源を考えると

とにかく国語が嫌いだというところに落ち着く

特に文学文学好きの教師が嫌いだ

小学校のある夏の宿題

元素の本

エジソンの伝記

ローマ帝国歴史

を読んで「世の中不思議な物質や、もの凄いアイデア、壮大な戦争がある(あった)んですね」的な感想を書いたら

もう少し人間味のある本を読めと怒られた。

文学作品には人間味とかそう言うものが多く含まれていると言う感性が全く理解できない

特に国語教師がお勧めする純文学私小説のたぐいは

クズな作者が自己正当化するための詭弁の塊か、開き直って悪露趣味を発露しているだけにしか見えない

こんなものから何を学べと言うのだ

なんで他人の中二病オナニー読まないといけないんだよ

どうしても読むならハンターハンター読むって

ただでさえキモいんだから最低限エンターテイメントとして成立させろよ

大人になればわかるパターンうんざりさせられる

30過ぎたけど不倫浮気する人の神経は理解できないよ

人間は複雑じゃねーよ

快楽に流されやすく利己的なだけだろ

繊細なんじゃなくて被害妄想なだけだろ

そしたら話しはつまらなくていい

文章が美しければ良いんだとくる

世の中にはこんなに美しいものに溢れているのに

それらから目を塞いだ奴に言われたくないよ

いや、これでも本は読む方なんだけどね。

国語は古文、文法、論説文だけ教えれば十分じゃね

2008-04-20

おれの言うことをうのみにするなよっ!(創作する人の屈託)

http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080419/p1

本題とは関係ない所で恐縮、なおかつinumash氏の論旨に言及というよりは単に一部分をダシにしてるだけで申し訳ないです。

しかもお読みになる方には今熱いパフュームとは何の関係もない話題だということを先にお断りしておきます。すみません。

中田ヤスタカ本人は「自分は音楽の人ではない」と明言してる。『ファッションの方が面白い。“音楽の人”はつまらない』とまで言ってる。


僕は上記の発言を直接見た(聞いた)わけではないんですが、中田ヤスタカ氏に限らず創作家でこのような発言をする人たちは結構いますよね。そんな本気じゃないっすよ、みたいな。あとよくあるのは「自分は単なる職人」みたいなね。決して彼等が嘘を言ってるわけじゃないんですが、根っからの本心というわけでもない場合が多々あると思います。もちろん人の本心なんてテレパシーでも無ければ分かりませんがね。

なんらかの創作する人は自分の作品を何から何まで屈託なく誇らしげに思っているわけじゃないし、よく悪口でオナニーに例えられる創作も実際にはそんなに気持ちよいもんじゃない。そしてポップミュージックみたいにシンプルなものでも思いのほか自分の作品は自分では批評しにくく価値の見定めが難しいものなんです。これは知識豊富批評的な作り手でも多分同様です。(2ちゃんねらぁ辺りのギャラリーに「プロとして無責任だ!」とか糾弾されそうですね(笑)。)

でも本気じゃないみたいな発言もふざけたり逃げたりしてるわけでもないんです。多かれ少なかれ色々照れとか恥とかこんなんでえんやろかとか創作に対する屈託があって結構これデカイものなんです。

だからといって創作家の発言を過剰に裏読みしたり、創作する人と対する時に気を使いすぎる事もないんだけど、評論っぽいものを書く人はこの事を頭の隅にでも置いててもらえるといいかもしれないです。

ただちと誤解を受けそうなんだが上記に書いた屈託に付いて情念系の私小説作家創作地獄の苦しみ(笑)みたいなやたら暗いものにとらないで下さい。たぶんそういうのとも違うんだなこれが。

ちなみに余談ですが、underworld引用ってのは僕もなんなのか分からないが、Daft Punk引用というのはリニアモーターガールのイントロのフレーズ

Daft PunkのDigital Loveサンプリングフレーズにやや似ている事を指すのかな?もうちょっとそっくりなら孫引きってことになるが。

ま、いずれにしてもそこはinumash氏の言うようにたいした問題じゃない。

2007-12-25

創作ができなくなった。

俺には好きな人がいる。いや、いた。いたんだけど、そいつにはずっと前から彼氏がいて、ついにそいつと結婚することになったらしい。

そいつは本当に魅力的な奴で、一年半くらい前かな?最初に会ったときは何だよ彼氏いるのかよーとか思いながらも普通に遊んでたんだけど、何回か会ってるうちにいつの間にかマジ惚れしちゃってて、何とかして寝取ってやろうと画策した。でも、俺自身は大した奴じゃなかったし、彼氏との結びつきもヤケクソに強くて、どうしようもなかった。で、まあしつこく付きまとって(今思うとよく拒絶されなかったもんだ)、微妙な友人として遊んでるうちに運良くお鉢が回ってこないかなーとか思ってた。

彼氏どんなやつかってのは結局わからなくて、どうやらなんか物書きらしいってくらいしか情報がなかった。彼女も、物書きじゃないけどクリエイター側の人で。コンシューマーにはあんま興味ないとか言ってたから、対抗して、って言ったらばからしいけど、俺もいっちょクリエイトしてみるかと思って創作を始めたんだ。

元々俺は本読むのが好きだったから、書いてみるのも楽勝楽勝とか思ってたんだけど、やっぱり世の中そんな甘くなくてこれがすごい難しい。難しいんだけど、すげー面白かった。「小説 書き方」とかでぐぐってみたりとか。村上春樹好きだったから風の歌を聞けを全部書き写してみたりとかやった。楽しかったんだ。これが。書いてると読むときも何か色んな視点で注意深く見てやろうって感じになって、それをフィードバックしてまた書く。

で、こういうの書いてみた読んでよとか言って彼女に送ってみたりするんだけどやっぱ評価は散々で。描写が足りねえとか生きてる気がしないとかすげえ言われるの。でも落ち込まずにそっかそっか言って全部取り込んでずっとずっと読書創作の日々を続けてた。さっさと別れねえかなあとか思いながら。何だかんだで満足してた。

結婚ニュースを聞いて、俺が最初に感じたのは驚きじゃなくて、困惑でもなくて、何て言ったらいいのかなあ。来るべき時が来たなあ、間に合わなかったなあ、てだけだった。あんまり実感わかなくて。遊びに誘っておめでとーって言ってやろうとか思ってたんだけど、会ってみたら、今までつけてなかったのに薬指に何か光っててさ。そんときやっと実感した。絶望した。彼氏のこと全然知らなくて良かったよ。

それが一週間くらい前なんだけど、それから全く何も書けないんだ。あれだけ面白い楽しいって毎日アホみたいに書いてたのに、もう全然。

俺は本当は創作なんてどうでもよかったのかな。単に彼女の気を惹きたかっただけで。何か書こうと思っても全然面白くないの。今までも面白いって思い込もうとしてただけなのかな。あれだけ好きだったのに。本当は好きじゃなかったのかな。もう、ほんとわかんない。嫌なことがあったらそれを創作につくりかえて私小説風のなんかに仕上げてみたりとかさ。やってたのに今回はそれもできない。本当のことしか書けない。

混乱してるだけかもしれない。でももう意欲がなくなっちゃった。今まで書いたやつも全部ゴミ箱突っ込んで消した。俺しばらくしたらまた書くようになるのかな。でもわかんない。もう書くことはないような気もする。俺どうしたいんだろう。なんで俺創作なんてやってたのかな。俺はどうしたらいいんだよ……

2007-12-04

http://anond.hatelabo.jp/20071204143836

お、ちゃんと読んでくれた。邪険にしてゴメン。

フィクションだったんだな。

俺がそう感じたってだけね。ノンフィクションかどうかはわからないけどね。

フィクションであることを前提として話を進めてる。

増田に書き込まれる記事の中には創作も実話もある」が、「一般的なブックマーカーはそれにリアリティを感じるからブクマする」が、「フィクションなら俺はブクマしなかった」。

…この時点で、元増田が何を言いたいのかわからなくなっている俺がいる。

フィクションだか何だかわからない作品にはリアリティを感じるが、それがフィクションだと断言された瞬間にリアリティが消失する」と言いたいのだろうか。

シュレディンガーの猫っぽいな。

そんな難しい話じゃないよ。

「リアリティを匂わせて多くのブックマークを集めたけれど、それは果たして他の(明らかに創作とわかる)創作作品と同列に評価されたのだろうか?」

言い換えるとこういうことを考えていた。

で、それについてはxx-internet(ry

私小説風のフィクション小説にはフィクションという前提がある。しかるに『個人史は終焉しない。続く。』にはフィクションという前提もノンフィクションという前提もない。よって『個人史は終焉しない。続く。』は文芸作品ではない。ゆえに、ファック文芸資格もない。」と。

こういう解釈でよろしいか?

大方合ってます。

文芸作品ではない、とは言わないけれど、

「リアリティを匂わせて多くのブックマークを集めたけれど、それは果たして他の(明らかに創作とわかる)創作作品と同列に評価されたのだろうか?」

ってとこは疑問だなーと。

http://anond.hatelabo.jp/20071204142029

オーケー、ちょっと待ってろ。

第二回ファック文芸部杯参加作品まとめ

を見ていて不思議に思った。

これらのエントリの中で最も多くブクマを集めているのは、「個人史は終焉しない。続く。」だけど、これってフィクションだったんだ。

フィクションだったんだな。

もちろん増田には創作も、おそらく真実の話も入り交じっている。だけどブックマーカー真実の話として受け止め(ときに「ネタっぽい」と疑いつつ)、自分の意見を言いたいがために、あるいはリアリティを感じたがためにブクマする。ていうか俺もブクマしたけど、フィクションならブクマしなかったな。

増田に書き込まれる記事の中には創作も実話もある」が、「一般的なブックマーカーはそれにリアリティを感じるからブクマする」が、「フィクションなら俺はブクマしなかった」。

…この時点で、元増田が何を言いたいのかわからなくなっている俺がいる。

フィクションだか何だかわからない作品にはリアリティを感じるが、それがフィクションだと断言された瞬間にリアリティが消失する」と言いたいのだろうか。

シュレディンガーの猫っぽいな。

「それだけの人が勘違いするのは文芸作品としてリアリティがあるってことでしょ」という人がいるかもしれないけど、どうかなあ。

いきなり架空の人物が持ち出される。混乱。

前の段落には「リアリティがあるからブクマされた」と書かれてあったはずだが、なぜ「リアリティがあるかどうか」の話になっているんだろう。

戻ってるよ、話が戻ってるよ。

たとえば私小説風のフィクション作品は世の中に腐るほどあるけれど、あれは皆フィクションを前提として読んでいる。創作真実の境界線が曖昧増田で書いて、「これが文芸部杯参加作品です」と言われても腑に落ちない。xx-internetが「個々人の良識に任せる」というようなことを言っていたから、彼ら的にはまあいいのだろうけど。

私小説風のフィクション小説にはフィクションという前提がある。しかるに『個人史は終焉しない。続く。』にはフィクションという前提もノンフィクションという前提もない。よって『個人史は終焉しない。続く。』は文芸作品ではない。ゆえに、ファック文芸資格もない。」と。

こういう解釈でよろしいか?

http://anond.hatelabo.jp/20071204122407

レスありがとう

ええと、まず

増田には、増田への偏った信頼が、リアリズムあるっぽさが、ここはよく人が本音をポロルする場所なんだっぽさが、あるんだなあと思った。そうでなければこんな文章は書かれない。

「お前は偏っている!」って言われるとけっこう傷つくな・・・。

それはさておき「個人史は終焉しない。続く。」のブクマコメントを読めば、かのエントリノンフィクションと捉えてコメントしている人が多いことに気づくと思うよ。

私小説風のフィクション作品を、皆フィクションを前提として読んでいるとは思えない。反例ではなく、まったく同じケース。リアリティがあること=読まれる理由になる、勘違いする理由になる

ごめん、こっちは言ってることが理解できなかった。「この作品はフィクションです。実際の人物・団体とは〜〜」って書かれていても、「いやいやこれは本当のことかもしれないぞ!」って読んでる人がいるってこと?あまり多いとは思えないけど。

それから何と全く同じケースなのか。みんな勘違いしながら読んでいるのか?説明希望。

創作真実の境界線が曖昧でない場所なんて、どこにもないですよ。

ネット上では特にね。でも、増田はあくまで日記創作であることを前提としたエントリ日記として書かれたエントリでは、読む方の姿勢も随分違うと思うんだけど。

文芸」の冠

第二回ファック文芸部杯参加作品まとめ

http://anond.hatelabo.jp/20071204075102

を見ていて不思議に思った。

これらのエントリの中で最も多くブクマを集めているのは、「個人史は終焉しない。続く。」だけど、これってフィクションだったんだ。

もちろん増田には創作も、おそらく真実の話も入り交じっている。だけどブックマーカー真実の話として受け止め(ときに「ネタっぽい」と疑いつつ)、自分の意見を言いたいがために、あるいはリアリティを感じたがためにブクマする。ていうか俺もブクマしたけど、フィクションならブクマしなかったな。

「それだけの人が勘違いするのは文芸作品としてリアリティがあるってことでしょ」という人がいるかもしれないけど、どうかなあ。たとえば私小説風のフィクション作品は世の中に腐るほどあるけれど、あれは皆フィクションを前提として読んでいる。創作真実の境界線が曖昧増田で書いて、「これが文芸部杯参加作品です」と言われても腑に落ちない。xx-internetが「個々人の良識に任せる」というようなことを言っていたから、彼ら的にはまあいいのだろうけど。

2007-11-06

ま、ブンガクの線でしょうな

忌まわしき私小説ゾンビですわ。

賭けてもいいが、次に来るのはケータイショーセツ家同士のドロドロ恋愛ノヴェライズだね。

http://anond.hatelabo.jp/20071106193208

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