はてなキーワード: 労働運動とは
韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督の2020年の作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である。
描かれる時代は、アジア太平洋戦争で日本帝国が敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争の責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去を清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。
その標的はまず、戦前は絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前・戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。
戦後日本を象徴する言葉は、長いこと、「平和と民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。
天皇の戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年→1945年)アジア太平洋地域で戦争を続けた近代日本の実像を覆い隠し、この戦争の全体像を、最後のわずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島・長崎の「悲劇」を前面に押し出し、米軍占領下の沖縄は辺境ゆえに無視して、日本全体があたかも戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦・平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。
1960年の安保闘争の時にも、1965年の日韓条約反対闘争の時にも、戦前の日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在を分析する言動はほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会は総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。
1960年代後半、この社会・思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長の過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長の最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。
時代はあたかも米国のベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島に輸送される米軍物資の調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジアの民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。
加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人や先住民族(インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配が人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。
「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本の近代史と現在が孕む問題群に、「民族・植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。
「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み
「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計』から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。
「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係な一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーションで流れる。
多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。
その責任の一端が、「反日」そのものの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。
画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊の大道寺将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係も自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶と悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。
映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えのなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。
「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画を制作したのは、韓国の映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画を制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議=編『支援連ニュース』420号、2021年3月6日)。社会的正義のために、加害国=日本に搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日」メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。
だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品の制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場用パンフレット所収)。
74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本の自分たちが戦後の「平和と民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本の植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。
そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現と言論の自由を獲得した韓国の新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画が日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本も韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援連ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。
最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性の存在だと思われる。
刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たちの闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。
キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。
死刑囚の獄中書簡集を読んで、あんな事件を引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつうの青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑囚である義兄とは、媚びへつらいのない、上下の関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。
そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督も女性だ。弱い立場にある労働者の現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規の女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこの作品に脈打っていたフェミニズムの視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。
ツイッターなどを見ていると、
菅官房長官を新しい首相に推薦している「経済政策に詳しい」人たちが多くてげんなりしている。
栗原裕一郎、田中秀臣、斉藤淳、山崎元、菊地誠、高橋洋一など。
言うまでもなく菅官房長官は、安倍政権における民主主義破壊の元凶である。
党内反対派を締め上げ、マスコミに圧力をかけ、記者の質問にはまともに答えようという姿勢もない。
記者会見での愚にもつかない詭弁の数々はいちいち取り上げるまでもない。
少しでも「リベラル」を自認している人であれば、支持を明言することなど自殺に等しい。
世界的に反グローバル経済のポピュリズムが吹き荒れているように、
社会主義体制が崩壊して30年がたち、資本主義経済と自由民主主義が対立する時代になってしまった。
香港の現状も、以前から財界や富裕層が中国共産党への全面支持に回っていることが主因である。
日本でも「経済政策の意識高い」人たちが、これまで安倍政権を気持ち悪いほど擁護し、
また左派・リベラル派の中にも、驚くべきことに「左派やリベラルも経済政策を勉強しろ」と説教して
再分配や社会保障を求める労働運動や社会運動を軽視する人たちが出てきた。
もはやツイッター炎上芸人と化した藤田孝典と風俗業界当事者との激しい論争が二週間ほど続いていて、目が離せない。セックスワーク論には詳しくないが、藤田氏の主張に対する自分の感想をメモ。
1. 風俗業はそれ自体が女性への心身のダメージが大きく、普通の労働とは言えない
→これは概ね藤田氏の言う通りだと思う。風俗業は40過ぎても可能な仕事ではない。風俗業関係者が、風俗業の特殊性を無視して「普通の仕事」と強弁していることは問題。風俗業に対する偏見や差別についても、もちろんなくすべきという運動を強く支持するが、親戚や同級生に気軽に話せるようになるような、楽観的な未来を思い描くのは正直なところ難しいだろう。
2. 風俗業の経営は現実には暴力的・搾取的なものばかりで、健全な経営など期待できない
→当事者から散々批判されているように、これには根拠がない。藤田氏が見ている、相談支援に来る「誰の目にもわかりやすくひどい目に遭った風俗嬢」を基準にして全体を語れば、説得力が落ちるだけである。彼に限らず、貧困者相談支援事業の人たちは、悪質な事例を過度の一般化する傾向がある。
3. セックスワークを「普通の仕事」にしてしまうと、「生活保護の前に風俗にでも行けば」という現在も存在する物言いを正当化させる
→これも批判されている通り、風俗業ではなく生活保護制度の問題である。不本意に風俗業に従事する女性たちが多数存在するとしたら、雇用が劣悪で社会福祉が無力であるからである。労働運動の活動家および社会福祉士として、藤田氏は自分の無力さについて責任を感じてもいいはずだが、逆に風俗業当事者を乱暴に叱りつけている。これはひどすぎる。
→かえって闇に潜って悪質化するとか、代替のないまま生計手段を奪って貧困問題を悪化させるとか、様々な批判があるが、なかでも一番の問題は、たださえ偏見や差別の目にさられている風俗嬢が藤田氏の議論を目にすれば、「私の仕事はやっぱり社会にとって無価値で害悪なんだ…」と、自己否定的な感情を募らせてしまう可能性が高いことである。そうした想像力のない人間に、果たして貧困者や被差別者の置かれた現実が本当に見えているのか、非常に疑問を感じる。
(追記)
おいおい藤田氏、まだ続けてんのかよ……。
不特定多数の人たちが普通にドン引きしている点で社会運動の戦略として大失敗だし。貧困運動のお仲間たちも沈黙しているが決して賛同していないことは(Twitterで藤田氏をフォローしていない河添誠氏のみ真正面から批判)、一連の記事をRTしていないことからも明らかでしょ。
元々どっちかというと藤田氏寄りの考え方だったのが、今回の藤田氏の一連の雑で乱暴かつ不勉強きわまりない言動で、考え方を変えることことにした。
個人的には高橋さんとお話しするのは楽しそうだけど、北村さんは無理だなあ、という印象。高橋さんは、言葉を信頼して人と人とを繋ごうとしている人、北村さんは言葉で人を殴ってくタイプの人。味方にするなら北村さん、て思う人が多いのかな。でも私はこういう、始終自ら争いを呼ぶようなマッチョな人とはできれば距離を置きたい。だから増田で言及する。
大本のツイ
「フェミニストのイメージってどうしたらよくなるの?(1)」に対する
「一部の過激派を自浄したらええんやで。昔のフェミニズムはもう少しマシやった(2)」というツッコミツイに対して
北村(saebou)「昔のフェミニストに比べたら今の人はマシやで?(3)今のフェミニストはサフラジェット(昔の過激なフェミニスト)より平和的(4)」とコメントした。これに対して
高橋(Shogo_tkhs)「いや、サフラジェットは一部の過激派です。それをもって当時のフェミニズムを過激とするのは誤解を招くでしょう。(5)」と突っ込んだ。で、議論ならぬ言い合いがスタート。
まず注意なんやけど、北村は(3)で昔の「フェミニスト」と言ってる。これは(4)を見れば「サフラジェット」のことを指していることは分かるけど(3)だけを切り離してみれば、当時のフェミニストは今のフェミニストより過激だと主張しているように見える。そもそも(4)でも、サフラジェットといまのフェミニスト全体とを比べているように読めるわけだから、「北村の主張は、サフラジェットを当時の一般的フェミニストのように誤読させかねない」という批判は確かに成立する。従って、高橋(5)の主張自体は特におかしくない。
これに対して北村は「一部と切り捨てられてきた過激派を再評価するのが現在の研究の流れ(6)」と返した。ここまでは実は比較的真っ当な会話ではある。「それは一部の過激派でしょ?」というツッコミに対して「一部の過激派だけど重要な存在」と返したわけだから。まだ会話が成立する余地があった。ここでたとえば高橋が「なるほど、そういう流れもあるんですね」としていれば、おそらく終わってた。
ただ、ここで両者には想定外のそれぞれの文脈が存在した。これがここから両者の会話を泥沼化させていく。
そもそも北村は現代の過激に切り込むフェミニストたちのポジションを守るという趣旨の下に、(2)の発言を、先鋭的な人たちと「穏当な」フェミニストたちを政治的に切り離すタイプの発言と取って、両者が一体であることを印象づけたいという意図があっただろう。いわば政治的な発言である。(2)の発言者にそういう意図があるかないかはともかく、ああいう発言はそういう結果をもたらす可能性がないわけではない。ただし、「フェミニズム」がただの「女権(しかも一部の)獲得運動」になるならそれは反発を招くよ、という指摘自体はおかしくないし、どちらかと言えば「昔の方が過激やったで?(3)、(4)」というのはただの感想であって、元の指摘に対する何らの反論でもない。そういう粗雑な反応をしたことが北村のミス。
一方、高橋の側で言うと、まさにその「フェミニズム」をより広範な運動にするべき、という意図があって、「現在の研究の流れ」がどうであれ「一部過激派をもってフェミニズム正統であるかのように発言すること」自体が容認しがたい。そういう立場からみれば、(2)に対する雑な(3)(4)の発言は、まさに「先鋭化して穏健派との溝を深める悪しき現代フェミニスト過激派の自己正当化」と感じられただろう。(5)の後で高橋が、当時の過激派以外の人たちへの目配りはあるか、と指摘しているのは、そういう文脈。
これに対して上のような意図をもつ北村は、「そういうふうに」一部の過激派と切り離すのがダメ、と切って捨てる。ここで、北村も研究者なら、相手のツッコミをみて「ああ、またそういう人が絡んできたわー」みたいな受け答え(これも粗雑だ)をするのでなく、きちんと「確かに一部ですが…」と返せばよかった。だが、「そういう人」扱いしたせいで、雑に「現在の研究」を振りかざしてマウントしてしまう。これが最初の間違い。まず、北村がマウントを取った。この件、マンスプレイニングとか揶揄してる人は、都合良くこの部分を読み飛ばしている。
そこで高橋は(相手が研究者とは知らないので)、ちゃんと穏健派(サフラジスト)の名前もあげて、過激派(サフラジェット)は一部ですよ、と指摘したのにこの人に無視されたぞ? あれ? この人、本当にフェミニズムの歴史を知ってるの? と素朴に考えてしまった。そのため「ご存じないのでしょうか?」とやってしまった(このこと自体は仕方ない)。まあ、いちいち相手のプロフィールを見るいわれはないし、フェミニズムを語るからといっていちいち研究者のIDを知っておかなくてはいけないわけでもない。この「ご存じない?」は、「ぼくの言ったこと、ちゃんと聞いてる?」くらいの意味に過ぎない。素朴な発言だ。
ただ、これに北村は相当カチンと来たようで、ここから暴走する。そして相手の言ってないことに絡み始めて咎められ、しまいに
みたいな肥だめ同然の罵り合いになって、無事沼化した。
この話の滑稽な点は、おそらく、登場人物が全て「フェミニズムをどうしたらいいか」真剣に考えてる、フェミニズム寄りの人々ばかりってことなのね。最初の(1)(2)も、そして北村も高橋も。それが、相手の話も聞かず自分の立場に固執して煽り合い罵り合い……。とりあえず、運動が先鋭化して大衆から離反し、挙げ句の果てに内ゲバを始めるという、わが国の運動史の悪しき伝統を見事に引き継いでくれていますね。100年経っても何も進歩していないこの現状に、労働運動史をかじった人間としては涙を禁じ得ないよ。
はあ…。
少子化なのは男女不平等のせいだから、女のために○○の制度を作れ!みたいなのやめろ
日本が他の先進国より出生率低いのは差別のせい!言うけど、台湾、韓国、シンガポールみたいな
アジア地域でそこそこの所得がある国、で見るとむしろ日本の出生率は結構マシな方に入るのが現実
別に自分たちが働きやすくしたいから!とか自分たちが満足したいから!ならそれでいいけれど
例えば育休の年数なんて、むしろ復職率とは負の相関があるようなものを
女性の社会進出の一環として前に押し出してると、そういう矛盾はどこかで広まるだろうし
関係がないものも何でも少子化対策!でゴリ押せばいいみたいなのは単純に狂っている
フェミニズム的なこういう制度を作ってくれ!みたいなのについて、少子化がどうとか盾にせず
単純に労働運動みたいな一環としてやるべきだと思わない?
ポリティカルコレクトネスだって「それを理解しない人」からすればただただ自分の意見や言動、はては表現活動までも規制しかねないモノでしかないけど、
それを推進する人にとって「それは個人の嗜好ではなく善悪の問題だから」社会全体に普及させようとするのと同じように
ヴィーガンもまた(彼らの信ずる)「個人の嗜好ではなく善悪の問題」としてるだけでしょ
多分ここでアホなはてなーは「他人の権利を侵害するからー」とか思うんだろうけど
その理屈だと「これまでやってきたことを規制したり禁止しよう」って運動は何もかもどこかの誰かの利権の侵害だぞ
大好きなフェミニズムだとか労働運動も「俺たち私たちはそれで今までやってきたんだから余計な口出しはやめろよ」って言われて「はいそうですね止めます」ってならないだろ
別に恨んでなどいませんよ。
非正規に何もしない労組という事実が確認出来て、今では良かったと考えています。
あなたは「企業側の理屈に配慮している」と言いますが、配慮しない方が問題です。それこそ大昔の共産党系闘争を望んでいるということですか?
無理な賃上げ要求の結果会社の体力を削いで赤字や倒産になれば、正規非正規関係なく、元も子もありません。健全な労使関係のもと適切な要求をすることが大事なんです。
残業代未払いや労働基準法違反は労組が戦う必要など無く、普通に弁護士案件です。
だいたい労組に戦わせたら、後に解決金と運動の協力で吸われ続けるじゃないですか。
金額が小さければ運動協力でこき使われ、金額が大きくなると弁護士の方が安いという誰得ですよ。
私が労組に行ってしまった時は何も知らなかったのですが、今思えば断ってくれて本当に良かったです。
最低賃金をあげる権限が政府にあると言うのは誤解です。最低賃金審議会において決定されています。
最低賃金に関しては連合もまだまだ低いと考えていて大幅な引き上げを主張していますが、交易代表と使用者代表が賛同しないことで上がっていないんですよ。
知っていますよ。で、その最低賃金審議会で安倍首相が音頭を取る前後の伸び率見てみましたか?
都心でプチバブルが発生していた時にも大して伸びなかった最低賃金がいい勢いで伸びていますよ。
企業側の理屈に阿る労組が無駄に遠慮していたのを、音頭を取る事で加速させた功績は間違いなく有るでしょうね。
加えて非正規の賃上げですがまさに批判されているトヨタでは実施されていますがご存知ないでしょうか?上に載せたリンクにも書かれています。
もちろん他にも非正規、期間雇用の賃金改善を実施している会社はあります。
このような形でちゃんとしている組合は活動しています。その状況で勝手に定めた3%の目標値を指標にして活動を批判されることをどう思いますか?
当職はフリーランスとして働いていますが、どこの会社も数年前から同程度のスキルで月20万UPが当たり前です。
採用担当者と顔を合わせると「誰かいい人いない?単価上げたから紹介してよ」というのが挨拶ですね。
組合費を巻き上げて専従置いたトヨタ労組クラスが、元々安値でこき使われていた非正規の賃金を月数万程度UPで誇られても何を言うのやらといった感想ですね。
ましてや今年の正社員の伸び率は目を覆う惨状と言っても過言ではありませんね。
無駄に企業に配慮して伸び代を食いきれなかった労組はどう見ても怠慢ですよ。
労働分配率が低いことも言われてますが、それが労組要員ならリーマンショック時に労働分配率が急激に高くなったことも労組要員でしょうか?
違います。不況時に分配率が上がるのは利益が少なくなるのだから当然です。逆に好況時には下がります。
問題は分配率が下がり続けている(会社は儲かっている)のにまともなベアが取れない労組ですね。
政府の実績に3者協議している最低賃金が含まれて、ベアや年休の増加等々が労働組合の実績にならない理由が本当にわかりません。
増加の幅の問題です。1円でもベアがあれば俺たちの実績だとでも言うつもりですか?
最後に行動に移せよですが、やっぱり他人に丸投げじゃないですか。
自分も労働者ですし、自分はもう行動に移しています。自社の賃上げも実施していますし休日日数、有給の増加や各種手当の増額など達成しています。
それを知らない人からごっこ遊びしていると謗られる理由はありません。
凄い特権意識ですね。やってる俺は偉い、お前は何もしていないに違いないですか。
一つ前にも凄いこと書いてましたよね。
労働貴族にお願いすると解決金や運動協力等で高くつくので仲間内の定期的な交流会でやってますね。
数人のシロウトの無料の集まりで普通に成果は出ますが、プロで法的にも保護されている労組の皆さんは何をされているのでしょうね。
決算の読み方は人それぞれとお逃げになられるならまぁいいや。
他のことで書きましょうか。
単年度が増収増益ならベアが上がるのかって言ったらそうじゃない。
トヨタみたいな日本型大企業が単年の業績良かったからってベアも過去最高なんてやらないように、赤字転落したから大幅賃金カットなんてしないでしょ?
単年度増収増益どころか過去最高レベルの営業利益ですね。来年は更に増収増益の見込みです。
なお、赤字転落しても大幅賃金カットのない正社員の方はご存じないかもしれませんが、非正規は賃金カットどころかクビ切りですね。
「官製春闘に何の拘束力も無いと言うのなら、組合の春闘にも拘束力なんて無いだろ。ちょっとは考えてから書けばいいのに(笑)」
その理屈ならば政府には最低賃金を上げる権限があり、その権限を存分に使って毎年2~3%上げていますね。
で、労働組合はスト権とやらを存分に使って賃上げを勝ち取っていますか?
労組は非正規を人と思っていないような雰囲気を感じていましたが、非正規の賃上げなど興味無いですか?
労働組合が企業側の理屈に配慮してどうするの?御用組合の幹部か何かかな?
その適当な指標での3%とやらを批判したにもかかわらず、適当な発言以下の成果しか取れないのが悪いと言ってます。
もっと上げられるところとの話ですが、「もっと上げた」企業はそんなに有りましたか?
もう一度言いますが、単年度増収増益どころか過去最高レベルの営業利益で、翌年は更に増収増益予定です。
日本企業の労働分配率は欧米諸国と比較するとかなり低いのですが、企業の理屈を重視する御用組合の存在が原因の一つではないですか?
官製春闘に不快感を表明しながら春闘不調だった労組を尻目に、政府は今年も最低賃金を3%上げましたね。
労組がベアを取れなかったのは世界情勢の悪化が原因ですか?世界情勢とやらが悪化しているのなら、政府が3%も最低賃金を上げる余地など無いのでは?
最後に1番思うところだけど、もしあなたがどこかの会社の労働組合に属してるのなら、
リーマンショックの時に組合に助けを求めて見捨てられ、今はフリーランスの者ですが。
労働運動に参画しようとしたら門前払いくらって、派遣は俺らと違うのでと捨て台詞までいただきました。
御用組合内で企業の理屈を尊重してごっこ遊びしている方に「行動に移せよ!」と説教食らうとは思いませんでした。
お前が労働者の為に「行動に移せよ」
こんなところであなたと議論しても意味ないだろうし、その理屈を自労組に持ち込むなりしたら良いのにと思うけど、思ったところを書きます。
トヨタの決算報告読めば単純に過去最高売上だって喜べる話じゃないってわかるよ。
為替だって110円の楽観予想だし、来期営業利益は減価償却方式変更の1500億足してようやく増益じゃないすか。
決算読んでの感じ方なんて人それぞれだと思うけど、決算発表して大幅に下げてるトヨタと、決算発表して大幅に上げてるソニーとの違いを考えれば決算内容に喜んでる人の方が少数じゃないかな?
あと、前にも書いたけど単年度が増収増益ならベアが上がるのかって言ったらそうじゃない。
トヨタみたいな日本型大企業が単年の業績良かったからってベアも過去最高なんてやらないように、赤字転落したから大幅賃金カットなんてしないでしょ?
で、
「官製春闘に何の拘束力も無いと言うのなら、組合の春闘にも拘束力なんて無いだろ。ちょっとは考えてから書けばいいのに(笑)」
っていう煽りだけど、春闘にはスト権あるから。政府には何があるの?
強いて言うなら法人税減税してその分労働者に回してって話でしょ。その状況で消費税増税するんだからわけないよ。
政府の賃上げ発言がウザいのは各社の状況がまったく反映されずに適当な指標での3%だから。
もっと上げれるとこもあるし、そんな上げれないとこもあって当たり前なのに言ってるからだよ。
官製春闘開始前に出来てたらとか、世界情勢にのって伸びてるタイミングで勝手に言いだしただけで手柄になるのがおかしいだろ。
最後に1番思うところだけど、もしあなたがどこかの会社の労働組合に属してるのなら、
元増田です。沢山のブコメありがとうございます、ご覧になってくれた方全てに感謝申し上げます。
何名かの方が指摘をしてくれているように、書いた内容はスタートラインを揃えるような意味合いのものが多く、踏み込みが足りない!と感じる方が多いのも当然かと思いますが、まずはそのレベルの内容が共有できたことに非常な嬉しさを覚えております。
コメント全て読ませてもらってます、全レスしたいですが無理そうなので、人気コメから話題をピックアップして数点、補足という形で本稿をアップします。
これは、私が単組に関する記述に注釈をつけなかったのが悪かったかもしれません。単組もサイズ感や出自で色々と性格があり、政治活動まで手を出しているところがあると聞いています。穏当な活動をしているところについては、大組織で、自分達の労働環境維持改善をしっかりやりつつ、余力で政治活動をしているのだと理解していますし、知ってる実例はこのケースぐらいです(知見が狭い、という批判は甘んじて受けます)。
一方、革マル派などの新左翼系の組織と関係のある組織については、噂レベルでしか知りませんので、その実体について語ることができません。存在を否定するわけでは無いですが。名前が挙がってるほどの大規模単組であれば、特定思想の活動家が浸透して、政治活動に割くリソースを乗っ取ることで自分達の益とすることができるかもしれませんね。当然、それは労働運動からすると害悪でしかないかと思います。そういった単組で労働運動の維持改善など、労働者の為の活動がどうなっているか?など、むしろ知りたいので誰か書いて下さい。
ただ、大多数の単組はそんな余力がないので、浸透するだけ無駄というか、イデオロギーなんか捨てて実務しないとまわんねーよみたいな執行部の苦しさを味わうだけなんじゃないかと思います。
だいたい書きようから推察いただけたと思いますが、産別はともかく、連合については「正直もっと実のある活動して欲しいな…」と思うとこはあります。
ただ、政策や制度を作る以外に、彼等が労働運動を前進させる方法って思いつかんな、とも思うので、なかなか苦しいところです。いっそ、労働政策におけるシンクタンクを自認する勢いでがっつり政策提言をするのがいいのかもしれませんね。ただし、それができる人がたくさん集まる組織になっているのか?とか、まぁ自分が思いつく範囲のアイデアはだいたい絵に描いた餅レベル止まりかな…と諦めてます。
かといって、解体するのは本当に影響力を失ってしまうので良くないと思います。うーん、と言う感じですね。
反戦平和などの活動は、まあ正直リソース配分やアピール比率について一考の余地があると思います。あくまで、労働者のための組織なので、軸を誤解させるような見え方になってるのは是正しないと、良くないですよね。
(末端で組合員と接する立場からすると、「労組」と言う言葉に否定的な色が付くのはマジで勘弁なので、ポピュリズムに走れとは言いませんが、もう少しイメージに自覚的であって欲しいですね…)
ひとまずこれぐらいで。
学生だった1990年代中盤、ウィンドウズ95フィーバーの中、マッキントッシュ・パフォーマをパソコン通信(NIFTY-Serve)に繋いでネットワークを体験する。
ワープロに過ぎなかったデスクトップコンピュータが、コミュニケーションの道具になった瞬間だ。パソ通にのめりこみ、PowerBookを購入した。
当時、インターネットの定額接続はまだ普及しておらず、高くて繋がりにくいもの。パソ通では、投稿やログのダウンロード時に最小限だけ回線に接続し、読み書きはオフラインで行っていた。
90年代末になり、常時接続の値段がこなれてきて自宅でもインターネットを使うようになる。
ハマったのは2ちゃんねる。ニフティには無かった、匿名ゆえの過激な本音が楽しかった。とは言え、当時常駐していた地方板では、コテハン宅でオフ会をするなど、牧歌的な付き合いがあった。
2000年代半ば、転勤先で出来た友人に勧められmixiを使うようになる。実名や社会的属性もある程度分かり、友達の友達に繋がりが広がっていくSNS時代の到来。
ネットの人間関係は転勤先での仕事にも役立ったし、今でも付き合いが続いている。
また、趣味のコミュニティでは2ちゃんのような煽り合い抜きで情報交換を楽しめた。
ただ、mixiも度重なる機能改悪で迷走。コミュニティでもルールにこだわるタイプのデリケートな人が増えて疲れを感じてきた。
ブログのようでもあり、ハッシュタグを使えばbbs的にも機能し、全ての発言を時系列で把握できる。自分が求めていたのはこれだ!と、のめり込んだ。
最初は実名でツィートしていたが、Twitter絡みのトラブルがニュースになるのを見聞きするうち、ハンドルネームに移行して今も続けている。
この頃、フェイスブックを始めた。
FBは完全実名の世界。同僚や同窓生から始まった友達付き合いは、研究者や作家、地方議員といった、普通にしていたら知り合わなかった方々まで広がった。
その一方で、シガラミも発生してきた。エコーチャンバーという言葉もあるように、SNSのタイムラインは自分に近い考え方の人が集まり、意見が増幅されてしまう。
自分は元々リベラル寄りだったが、FBで繋がった方はガチの活動家も居る。呑気な発言にご指摘を受けてしまうこともあり、段々と慎重にせざるを得なくなった。
気が付くと、FBで建前を書く一方で、5ちゃんねると名前を変えた巨大掲示板群で趣味のスレで伸び伸びと本音を書くことが増えた。
また、Twitterのまとめサイト・togetterにもちょくちょく書き込んでいるんだが、こちらは今の若者の無邪気な本音なんだろうが、無意識的な保守傾向というか、与党や大企業的なものに盲従する一方、労働運動や権力に疑義を持つ人たちへの冷笑的な姿勢が増えてきて、ちょっと疑問を感じることが増えてきた。
そんな流れから、きょう、アノニマス・ダイアリーを始めてみた。
匿名と記名を行ったり来たりして辿り着いたここが、自分にとってどんな遊び場になるかな、とワクワクしている。
まあ、FBで溜まった心の澱みたいなものを流し込む場になるのかもしれないけれど。
じゃ、よろしくね。
時流に乗るべく書きます。