はてなキーワード: 百科事典とは
「ワトスン、これを読んでみろよ」
「なんだいこれは、手紙か?」
「ただのいたずらじゃないのか」
「少し考えてみようじゃないか。まず雨のくだりについてだ。外で雨が降っていることと、雨が降っていないことは、はたして両立するだろうか?」
「雨が降ることと降らないことが同時に起こるなんてありえないだろう、ホームズ。これはあえて矛盾した文章にしているんじゃないのか」
「いいや違うぞ、ワトスン。雨は全世界で降るわけじゃない。ロンドンで雨が降っていても、パリでは降っていないかもしれない」
「そうか。確かにそのとおりだ。雨が降っているのと、雨が降っていないのは、両立しうるわけだな。でもそれは何を示しているんだ」
「いまはまだ分からない。焦らず次に行こうじゃないか。ワトスン、君はミスター義経を知っているかい?」
「いや、知らない」
「そうだろうな、源義経は日本の歴史的な英雄の名前だ。百科事典を取ってくれ。…ありがとう。源義経については…こう書いてある。源義経は1159年に生まれ、1189年に没した。日本の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した、源一族の将軍である。天才的な戦術家で、時の支配者を倒したが、悲劇的な最期を遂げ、そのおかげで日本では今でも非常に人気がある。…義経はさしずめジャパニーズ・ナポレオンというわけだ。よしよし、繋がってきたぞ」
「だがホームズ、地域・時代・性別という、三つの理由によって、源義経の母親がナポレオンということはありえない」
「もちろんそのとおりだが…おや、これはどういうことだ」
「どうした?」
「源義経とチンギス・ハンが同一人物だという説があるらしい」
「モンゴル帝国のか?」
「そうだ。チンギス・ハンが生まれたのは1162年頃と言われているから、少なくとも時代は一致している」
「ワトスン、こう考えてみたらどうだろう、源義経はチンギス・ハンの事績が日本に伝わったあと、遡って生み出された存在なんだ」
「まさかホームズ、君は源義経という人物が存在しなかったと言いたいのか」
「あくまで仮説だ。だが、この源義経という人物の生い立ちは、あまりはっきりしないらしい。架空の人物である可能性は高いと思う。他国の人物を自国の人物として歴史に取り込むことはよくあるんだ。マケドニアのアレキサンダー大王がペルシャでイスカンダル双角王になったりね」
「ふむ、わかった。じゃあ源義経がチンギス・ハン伝説から生み出された架空の人物だと仮定しよう、するとどうなるんだ?」
「義経とチンギス・ハンの関係と同じだと考えるんだ。チンギス・ハンはナポレオン伝説から生み出された架空の人物なんだよ」
「君がその目で見たわけじゃないだろう。チンギス・ハンも謎の多い人物だ。当時、モンゴル軍を率いた王は確かに存在しただろう。だが歴史に書き記され、後世に記憶されている、我々が抱くチンギス・ハンというイメージは、実在のチンギス・ハンとは異なるんだ。同じく天才的な将軍であり、ヨーロッパ全土に脅威をもたらし、広大な帝国を作り上げたナポレオンと混同されて、チンギス・ハンという新たなキャラクターとして生み出された。そのような可能性は否定しがたいだろう」
「いや、ありえない、それは受け入れられないよ、ホームズ」
「ワトスン、さっき君は、源義経がチンギス・ハンから生まれた架空の人物であることを、あんなにあっさりと認めたじゃないか。だったら同じ理由でこちらの説も認めるべきじゃないか」
「…わかった、わかったよ。ナポレオンからチンギス・ハンが生まれたかもしれないことは認めよう。だがそれでも、ナポレオンは女性じゃない、母親にはなれないぞ!」
「ナポレオンが男性か女性かを確かめた人間はいないよ。もしかしたら男装した女性だったかもしれない。ナポレオンを描いた肖像画はどれも髭が生えておらず色白で艶かしい」
「いや、でも、信じられないよ」
「もちろん信じる必要はない。ワトスン。ロンドンで雨が降っていても、パリでは降っていないかもしれない。我々はナポレオンが男であり、チンギス・ハンと源義経は別人だと信じているけれど、別の視点から見れば、ナポレオンは女で、彼女からチンギス・ハン、そして源義経が生まれてきたのかもしれない。この手紙の送り主はそういうことを言いたいんじゃないかな」
「いろいろな見方があるということかな」
「そうだ、別の視点から見れば、私たちも二人とも男になってしまうかもしれない。いまとは逆に二人で探偵をやっているなんて想像はどうだろう」
営業と運送土方以外いらんだろ
営業じゃないのかそれ。
公共交通機関を利用するのが嫌なのか?
コストカットを目的にしてるんなら、社用車使ってもガソリン代で結局コスト掛かってんじゃん
MT使うの何か知らねえよ
要するにアレだ。
稲荷神社で狐の好物がいなり寿司っていうけど、あれは豆腐屋と寿司屋の陰謀で何の根拠もねえんだ。
もっとも狐の好物はネズミの衣揚げだとよ。(ソースは平凡社百科事典)
それがどんな仕事であれ必要なんだって、最初にキャリコンが言うべき事なのに
そういう差別はいけませんって会社にいちゃもん付けるもんだから、会社も委縮して免許の有無を不問にしてる所が多い。
でもホントに欲しいんなら免許の有無は書いとこうよ、足切り出来るしさ。
世の中は免許持ってない奴は仕事できない奴とかシューカツする意味ないって批判的だけど、
それは世の中を包み込む閉鎖的な社会でだけであって、ホントはそんな社会すら通用しない程、
若い人ってのは免許の所持そのものに疑問を抱いてるかもしれないし、会社だって今じゃ営業とか専門職以外はホントにいらないと思ってるかもしれないぞ。
一つは、彼女は8人兄弟の長女でありながら、他の兄弟妹たちは皆身売りや奉公に出て彼女だけがキリスト教系の学校に進むようになりましたが、
その恩に報いたのかどうかです。キリスト教は「仁」や「義」、「愛」には強いと言われますが、「孝」に関してあまり聞いたことがなく余計考えてしまいます。
残念ながらWikipediaを含む百科事典系サイトには記載がなく、その後どのような生涯を送ったかは存じ上げません。
そのため、彼女を主役にするのだから当然脚色が大いになされ、その半生は偉人伝よろしく美化され過ぎるのではないかと危惧しています。
出来ればありのままの彼女を見たいのですが、どうも今度は東京スタジオさんだそうで、リアリティーよりも夢を追究してきたような性質があり、
もう一つは、太平洋戦争が始まると彼女は戦争支援を積極的に行っていました。
確かに生きづらい世の中だと思いますが、そのような女性をNHKが取り上げるとは思ってもみませんでした。
どちらかといえば反戦ドラマが多く、戦後焼野原になったわが国をどうやって立て直していくか。
苦境の中に立たされた状況をどうイキイキとまざまざと人間の生き様を描いていくか、とりわけ得意としてきたNHKにしては、大胆過ぎる試みであるのは確かです。
次回の朝ドラ「マッサン」では外国人女性が主役との事で時代背景を考えての事だと好意的に受け止める事に致します。
昨今の朝ドラは戦前と戦後を描きすぎているきらいがあり、そのため今度は戦争を支援していた側の人間像を描きたくなるのは分からなくもありません。
だからといって、彼女は戦争を生き抜いた女性翻訳家として描かれるべきでしょうから、この戦争賛美とも取れる記述(Wikipediaより)はカットした方が良いのかもしれません。
少なくともその後に不戦運動も同時に行っていたとありますので、戦争反対派として描かれた方が実像に近付くのではないかと思います。
兎角女性の権利のために戦争を支援し、その実反戦家でもあった彼女の生涯は今後とも見応えある作品に成ろうと思います。
その意味で、戦前戦後の時代を生き抜き、女性主義を貫きつつも夢を成就させていく村岡花子という赤毛のアン翻訳者の生涯をどう描くか楽しみでなりません。
君の日本語がおかしいだけ、これまでの有限回の試行結果ならただの割合
試行回数が多ければ確率の代替として扱ってもまず問題は起きないってだけ
あくまでただの代替品だよ、確率そのものじゃない。実用的な数字なら「確率」と呼んでも文句はつきませんけれども。
probability how likely sth is to happen / a ratio showing the chances that a particular thing will happen
とまあこのとおり。数学の本でもどこの辞書でも百科事典でもなんでもいいけど、
何を調べても「起こる割合」「現れる割合」となっているはずで、「起こった割合」なんて書いてるものは基地外の著作以外どこにもないと思うよ。
確率っていうのはこれからのこと、あるいは過去から未来まで全てを見た上、あるいはそれを仮定した上での話
試行が多ければ割合がそれの実用的な代替品として使えるってだけなのに、割合を確率そのものと勘違いしちゃったお馬鹿さんがキミ
コインを2回投げて表裏が出たことを、誤差表示つけようが何%ですなんて書くのもただのバカだよ。
この誤差の部分がまともな数字になるぐらいの試行で初めて「確率」と称するんだよ。
統計的に判断する確率ってのは有限の時間しか持たない人間の実用のためのものゆえ、実用にならない値は確率としては扱いません。
でだ、本筋を書けば、そもそも5回やって1回だけ成功した、とかなら、そう書けよ、って話。
「有限回の試行における全体に対する比率」と「無限回試行したときに比率が近づいていく値」は全然別物
何回やったか知らないけど、沢山やったらたまたま出来たものがありました、なんてのは意味が無い、って話。
そこ、あんたは同意してるんだけどね、すでに、「割合」とか言う言葉出して上手く逃げて。
最初のあんたの主張とは変わるんだけどねw
僕はそれに科学的な意味があるなんて最初から一言もいってないんだけどねw君が勝手に勘違いして発狂しただけ。
「奇跡が起こったら捏造が再現されちゃうかもしれない(そして捏造科学者がまかり間違って地位を得ちゃうかもしれない)」というのは
http://www.ikedahayato.com/20140110/2218423.html
この記事に至る経緯として
1. イケダハヤト氏が「区のサイトにメールをするのも、立派なロビイングですよ」とツイート
2. 楠正憲氏が「それはロビイングとは言わないのではないか」と指摘
3. イケダハヤト氏は「ではあなたはロビイングをなんと定義しているのか」と反論(?)
4. 楠正憲氏は「Wikipediaや百科事典を読んでみたらどうだろう」と再反論
という流れがあり、上を踏まえての記事である。
氏は「そういうことじゃないんですけどね…」と結んでいる。
色々と問題の多いこの記事だが、この記事の最大の問題点は、氏が個人の解釈を定義に優先させていることである。
凡そ社会科学の大半の用語は定義と個人の解釈が混同されて、統一された定義がなされてこなかった。
定義の不統一は「役不足」「気の置けない」といった慣用句から「モラルハザード」といった学術用語にまで及び、
さらにはハイエクが「自由の条件」で指摘したように、「自由」という言葉に至っては学術レベルでその定義は大きく異なる。
論文を書くにしても、自然科学ならば定理や公式で自明となっているところが
社会科学だとまず定義を明らかにしていくところから始めていかなければならない。
議論の前提としてその場にいる全員が用語を同じ意味で認識していること重要であるが、
自然科学の用語と違い、社会科学の用語は定義が人によって大きく異なるため、
議論をするにも論点が合わず有効な議論がなされないことが多かった。
それでも現代においては抽象的な概念はともかく比較的具体的な事象については先人の努力により
ある程度統一された定義がなされ、議論の場が出来上がりつつある。
氏はロビイングを「区にメールを送ること」と定義づけた。当然辞書にはそのような定義はない。
氏がただの素人ならば間違いを指摘されて終わりである。そもそも間違いを指摘されることすらないだろう。
だが氏はある程度の影響力を持つ人間である。ファンも一定数いる。
彼らがロビイングという言葉を間違えて覚えてしまい、また彼らが社会的にある程度の影響力を
持ちはじめたら、ロビイングという言葉の定義はどうなるのだろうか。
そうやって間違えた意味で覚えた言葉を発する人間と有益な議論を進めることが出来るのだろうか。
これはロビイングに限ったことではない。
というより、個人の解釈を定義に優先させるその姿勢が問題なのである。
先達の智恵の集合により確立された知識が個人の勝手な解釈によって改竄されようとしているのだ。
標準時の変更を 与党議員が発議=韓国 聯合ニュース 11月21日(木)19時22分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131121-00000045-yonh-kr
【ソウル聯合ニュース】韓国与党セヌリ党の趙明哲(チョ・ミョンチョル)国会議員は21日、日本の標準時と同じ韓国の標準時を韓国本来の標準時に変更することを柱とする「標準時に関する法」の改正案を発議した。
韓国標準時は日本標準時子午線の東経135度を基準とするが、これを韓国の国土の中心を通る東経127.5度に変えるという内容。その場合、標準時は現在より30分遅くなる。
韓国は1908年、東経127.5度を標準時子午線に定めたが、
日本植民地時代の1912年に朝鮮総督府の指示で日本標準時にそろえた。1954年に東経127.5度に戻した後、1961年に再び135度に変更した。
趙議員は、現在の韓国標準時子午線の東経135度は韓国の領土を通っておらず、韓国最東端の独島からも278キロ離れていると指摘。「標準時の改正を通じ、領土主権と歴史を再確立し、国のアイデンティティーと国民の自尊心を回復すべき」と述べた。
mgk1202@yna.co.kr
●韓国標準時 - Wikipedia、フリー百科事典(google翻訳)
http://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C によると
1912年 1月1日:東経135°UTC +9に変更。朝鮮総督府官報第367号(告示第338号)。
1954年 3月21日:解放後、大韓民国の標準時間は、再び東京127.5°UTC +8:30へ変更。大統領令第876号(1954年3月17日)。
1961年 8月10日:国家再建最高会議の決定に基づいて東経135°UTC +9:00へ変更。法律第676号(1961年8月7日)。法律第3919号(1986年12月31日)。
となっていて、詳しいことはわからない。
少し詳しく調べてみると
●日本が奪っ朴正煕がまた奪った '韓国時間' [走る鉄道で見た世界] (17)時間をめぐるいくつかの物語 インターネット紙 「プレシアン」(Google翻訳)
http://www.pressian.com/article/article_facebook.asp?article_num=10131025141140
1945年になるとすぐ時間を取り戻してくるとは、努力があったが、韓国の統治を務めた米軍政は、操作利便性という単純な理由で東京標準時をまだ守った。韓国標準時を再訪れたのは韓国戦争が終わって遠征きた米軍の撤退が行われた後の1954年3月だった。21日午前0時30分部大統領令によって再び東京127度30分を標準子午線とする大韓民国標準を指定します。1954年3月21日、大韓民国は0時30分を二回経験することになる。一度は東京標準時に一度ソウル標準時。しかし、このソウル標準時は長続きしない。7年後にクーデターを起こした朴正熙を筆頭とした軍部勢力は国家再建最高会議で、韓国の標準時間を東京標準時に戻って変えてしまった今まで続いてきている。
もう少し詳しく調べてみると
●良い名前の研究所は標準時を韓国の基準東京127度30分を適用しています(Google翻訳)
元韓国が使っていた標準を日本が強制的に日本のものに変えたし解放が
れた後一歩遅れて1954年に韓国基準の標準に還元したこと以上にも
1961年5月16日の軍事クーデターが起きたすぐ後の1961.8.10から再度東経135度を
標準時に変更したことをご存知ですか?
東京127度30分には大韓帝国官報第3994号(勅令第5号)に基づき、1908年4月1日から
それが、日本の日韓併合策の一環として、朝鮮総督府官報第367号に基づき、1912年
光復後、1954年3月21日、李承晩政権は日帝残滓清算の一環として、標準時を
変更して、時間を30分遅らせました。 しかし、当時、米軍は、作戦指揮権を東京
米極東司令部の関係で標準時の変更に従うことができないと頑強に反対した
します。
ところが、1961年8月10日、朴正煕の軍事クーデターが起きた後席月もされていない、
軍事政権は、法律676号(標準子午線変更に関する法律)に基づいて時間を30分
繰り上げ日本と同じ東経135度基準の標準時を使用する法案を可決した。
その時の理由は、国際的に30分差が出る標準時がないことを国際的
習慣と一致させるというものでした。 (これはとんでもない論理です)
国家再建最高会議が標準時を変更したプロセスについては、これまで知られていなかったが、
最近入手した1961年8月4日、国家再建最高会議第27次常任委員会の議事録による
面が会議に参加した某人が在日米軍と在韓米軍、韓国軍との連合作戦のために
統一された時間が必要だと標準時の変更を要求してわずか数分で通過させたとされて
ています。
米軍の軍事作戦の便宜のために国の時間を無理やり日本時間に合わせるとんでも
国家再建最高会議が標準時を変更したプロセスについて、どうしてわかったのか。
[緊急提言]韓国時間30分ずらす "いい加減"風土消える 金基德 キム·ギドク 建国大研究教授·韓国史
東京127度30分採択は、「時間の光復」! (Google翻訳)
http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2005/05/25/200505250500029/200505250500029_2.html
http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2005/05/25/200505250500029/200505250500029_3.html
1961年に国家再建最高会議が標準時を変更したプロセスについて、これまで知られていることがほとんどなかった。 ところが、
2004年8月KBSがソクジェの事件ファイル "光復59年、時間は解放されなかった"という番組を放送した。 KBSは1961年8月4日、国家再建最高会議第27次常任委員会の議事録を入手して、次のように報道した。
「光復」と「不快感」の間
「この会議に出席した関係者は、米極東軍司令部(在日米軍)が、在日米軍と在韓米軍、韓国軍との連合作戦のために統一された時間が必要だと標準時の変更を要請してわずか数分で通過させたと証言した」
結局、国民の代表機関ではなく、軍事クーデターで成立した「国家再建最高会議」は、米軍の要請があろうクーデターの承認を受けるために、1954年に標準時変更後わずか7年ぶりに東経135°を基準にした時間に変更したものである。 以降の夏時間(サマータイム)の導入根拠を用意するために、1986年に「標準に関する法律」に一回変更しただけで、現在までに我々は、1961年に改正された東経135°基準の標準時をそのまま使用している。
参考資料
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=tyahnstein&logNo=100194115583
韓国語で標準時は現在より30分遅くなる利益・不利益をまとめて書いたエントリー。
『生野区連続通り魔事件』の削除について 該記事は特筆性無しとの主張により数度の削除を経て、現在削除(白紙保護)という状態に陥っています。 経緯 ①(初版作成) ②Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130526(削除5、存続4)、管理者Muyo(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ③Wikipedia:削除の復帰依頼/生野区連続通り魔事件(復帰26、削除15)、管理者Freetrashbox(ノート/履歴/ログ)氏により復帰 ④Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件 20130618(削除31、存続26)、管理者Triglav(ノート/履歴/ログ)氏により削除 ⑤(復帰強行) ⑥Wikipedia:削除依頼/生野区連続通り魔事件20130629(削除8、存続1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時削除、白紙保護 ⑦Wikipedia:削除の復帰依頼#生野区連続通り魔事件 - ノート(復帰1、反対1)、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下 ②③④ の段階では削除、存続意見が拮抗している状況が伺えます。つまり、特筆性無しでコミュニティでコンセンサスが得られている状況ではありません。しかし、④ の段階で削除が実施され、⑤にて手続きによらず復帰強行、⑥にて即時削除(白紙保護)がなされています。そこで、⑦にてわたしのほうから手続きに則り復帰 依頼をかけましたが、管理者Bellcricket(ノート/履歴/ログ)氏により即時却下されてしまいました。事由としては<同じことを繰り返すな>ということですが、そもそもわたしの理解ではコンセンサスなき削除状態をただす依頼であったため、<同じこと>という認識は誤りだと考えています。 本件につきまして皆様のご意見、果たして特筆性無しというコンセンサスが得られているのかどうか、をお聞かせください。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月29日 (土) 14:54 (UTC) コメント ④の削除は、②の削除で合意不十分として③で復帰した経緯を全く無視したものに見える。よって⑦が提案されたものと考える。しかし、この経緯が理解されなかったらしく、⑦が即時却下されたため、まずここで認識の違いを埋める作業が必要だと考える。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月29日 (土) 16:23 (UTC) コメント この中で一番問題なのは⑤ですね。なので⑥は当然の処置、⑦は却下されて当然です。一方、②から④の判断が適切だったかどうかは削除依頼を隅から隅まで熟読していないので、判断は控えます。--JapaneseA(会話) 2013年6月30日 (日) 01:11 (UTC) コメント ②および④では、「特筆性あり。存続すべき」ということの妥当性を保証できるような情報がついに提示されなかった、ということでしょう。ですから、少なくとも④については、それぞれの経緯を踏まえた上での、問題のない判断だったと言えます。(個人的には、③では「復帰すべき」とするコンセンサスが得られていない状況だったので、復帰が適切だったのか、少々疑問に感じています。結果論ですが、あのまま「復帰せず」でも良かったのではないかと・・・)⑤は行為として最悪なので論外、⑥は当然の処置、⑦は却下されても仕方がないでしょう。⑦は、削除状態を「正す」のではなく「質す・糾す」依頼であったというふうに私の目には映っています。--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 02:26 (UTC) コメント 各依頼について、 ②の時点では存続意見より削除意見のほうが妥当(この時点から資料にニュースでは不十分、以後の経過次第では復帰可能と示唆されています)。 ③については削除依頼で不参加の利用者が多く参加した(何故最初の削除依頼で意見を言わなかった方々がこれほど参加したか原因は予想できますが)ため、意見の合意が出来てないという理由。 ④については意見が十分に出尽くしWP:DP#CLOSEで言うところの『審議がまとまった』(自分は削除意見と存続意見の大勢が出揃ったと解釈しております、意見がまとまったという意味ですと『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあります』と相反するものになるので)ところで、削除意見のほうが理にかなうという判断。 ⑥はGFDL違反が絡む案件。 ⑦は新たな材料が無いため③,④の焼き直しとなることは自明。 現状ではこういう解釈をしており、どの管理者の行為についても問題は無いものと考えます。そもそも特筆性を問題にされている案件なのに二次資料の提示がされないことが現状での特筆性の無さを示していると考えます。よそでも言ったのですが『現状では確認できる資料が新聞レベルでありその域を越える資料が提示されていないため、特筆性(WP:GNG)を担保する二次資料(WP:PSTS)がないためウィキニュースか最近の出来事止まりということです』。 ④において無効撤回も含め賛否コメントの内容を大分すると 削除意見「現状特筆性が無い、特筆性を裏付ける資料が無い、特筆性を担保する資料が出てきてからでも遅くは無い」27「ウィキニュースの範疇,報道量の不足」4「雑報である、単なる嫌韓感情」1 存続意見「犯行理由等が特異,人種にまつわる事件」10「特筆性の理由は不適」1「特筆性はある、資料は十分」11「ネットニュース,削除依頼などで多く関心を持たれている事が特筆性の証紙」3「発展性がある」3「削除に足る要件を満たさない」2「議論不十分」1「事件の大小は問題無く十分百科事典的」1--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) 分量が多いので若干見落としがある可能性などは否めませんが、だいたいこんなところです。加えて一度コメント入れて議論しない方もいますので編集者間の審議の合意は無理です、審議の内容であるコメントや議論に基づき管理者・削除者が削除の提案に合意をすることはあるでしょうが。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 03:35 (UTC) コメント 大勢という文言を使ってらっしゃる方がいますが、基本的にWikipediaは多数決ではないと思っています。ですので、④の時点で「削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています。この間違いを糺そうとしたのが⑦の当方依頼および今次の議論提起です。削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です。多数決ではないんです、コンセンサスが取れているかどうかなんです。何回も書いているんですが、ここの観点でのご意見を伺っているのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:21 (UTC) コメント ヒートアップしすぎです。お茶でも飲みましょう。いま、生野の件の参加者を平等に招集したところでありますから、皆さんの意見を聞きましょう。 もう一点。返信を乱発するのはよくないので、私のコメントの一部を撤回しました。--Shigeru-a24(会話) 2013年6月30日 (日) 05:30 (UTC) 仰ることはわからないでもないのですが、本議論を提起したことによりこちらWikipedia:投稿ブロック依頼/BlueSkyWhiteSunでわたしにブロック依頼がかけられています。わたしがブロックと決したならば、本議論も自動的にクローズとされてしまうでしょう。あまり時間は残っていません。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 05:37 (UTC) 『大勢』は『たいせい』であり大体の状況という意味です。すなわち削除意見、存続意見が大方出揃いコメントの傾向が定まったということです。 元々の英語版の『Wikipedia:Deletion policy』にある『Deletion discussion』によると「削除依頼に参加する編集者は削除するか否か見解を出せる」「可否は多数決により決まるわけではない」「参加者は各々が自分の見解について説明し方針を参照する」といった内容であり、利用者の間で合意形成をするのではなく、利用者各自が見解を述べ管理者・削除者に対し合意を得るというのが本義であると考えます。そういった意味ではWikipedia:削除の方針の削除依頼のところは主語が省略されており誤解を招きやすい表現です。 自分は削除依頼は利用者の間で合意形成をするものでは無く、個々人の意見が集まったところで管理者・削除者が判断し閉じるものであると解釈しております。今回の件に関しては存続方の見解が削除方の見解に比べ具体的な証左に欠けていたのではないかと考えます(特に資料が新聞・ニュース止まりで特筆性を押し出すには力不足であったと見ております)。--210.141.54.34 2013年6月30日 (日) 08:03 (UTC) すべての合意は利用者間でなされるものと理解しています。管理者等は利用者間の合意に背くことはできないと存じます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 09:47 (UTC) 特筆性という『弱い』制約にしたがって削除するには合意のレベルが低い。合意が取れているのか自体も明瞭でない。--60.34.102.131 2013年6月30日 (日) 07:46 (UTC) コメント 「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当」という解釈は間違っています」とおっしゃられている方がいらっしゃるのでコメントします。そもそも、④の時点で「削除票が存続票より5票多いから削除しました」などという低レベルな判断・処置が行なわれたのではなく、削除票、存続票の中身をよく吟味し、検討して、総合的な判断の結果として、④で対処なさった管理者の方は「それぞれの投票時のコメント内容を見る限り、削除が妥当」と判断なさった、ということです。ですから、「④の時点で『削除票が多い→削除が妥当』という解釈」があったかどうかということは問題になりませんし、④の時点での管理者の方の判断には「糾す・糺す」必要のあるような間違いもありません。「削除されるのであれば、削除票が相当な大勢を占めねばなりません。相当な大勢であれば、それはコミュニティのコンセンサスが得られていると考えてもいいでしょう。しかしながら、そうではない。であれば、削除ということでコミュニティのコンセンサスが取れていない状況であると考えるのが妥当です」とのご意見については、結局のところ、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは多数決主義ではありませんから見た場合に、意地悪な言い方をすれば「全有効投票数における削除票の占める割合がある一定量以上でないと『削除』という判断を下せない」ということになってしまいます。そもそも、「削除票が相当な大勢を占めねばならない」とする根拠が不明です。ウィキペディアでは票の数でコミュニティのコンセンサスが得られたかどうかが決まるわけではありません。投票の際に、どのような理由を述べるか、が重要なのです。ぶっちゃけた話、仮定の話として「方針文書・ガイドライン文書と照合した上で、具体的に理由を述べた削除票5票」と「個人的・主観的な理由を述べているだけの、適当な理由付けの存続票5票」があったとした場合、表面的には「票が同数」ですが、これは「存続」以外では判断できないということなのでしょうか。そういう事ではないと思うのですが・・・。「多数決ではないんです、コミュニティのコンセンサスが得られているかどうかなんです」との仰せですが、一連のコメントを拝見する限り、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めねばならない。大勢を占めていなければ「削除が妥当」とするコンセンサスが得られたことにならない」という意見は、削除票を不当に軽く扱うものであると思います。その理屈ですと、「票の中身を検討する必要性」が度外視されているように感じますし、何よりもまず、「削除票と存続票の扱いや重さに極端な差をつけている」ように感じますが、ウィキペディアにおける「票」の重みは、「投票時のコメントの中身」によって決まるのであって、「削除票だから軽い」「存続票だから重い」というわけではありません。削除票が相当な大勢を占めていたわけではないことをもってコミュニティのコンセンサスが得られていないとするのはかなり無理があるのではないでしょうか。投票時のコメントの中身や説得力次第では、表面上の票数とは関係なしに、票数が少ない側(④のケースだと、「削除」側)の主張が通るケースもあるでしょう。しかし、④のケースでは残念ながらそうではなかった、ということでしょう。長文失礼いたしました。(結局のところ、「④の判断は誰が何と言おうと間違っていた。④の削除処置を糺し、正すために、記事を復帰すべきだ」ということなのでしょうか)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 08:18 (UTC) コメント そういうあなた自身が存続票の存在を不当に軽くみているとしか思えません。中身中身と仰いますが、一体どこで削除票には中身があり、存続票には中身がないということがあきらかになったのでしょうか。存続票に中身がないといっているのはあなた個人であってコミュニティはそのような判断はくだしていません。くだしていない以上、双方の見解票は同等の重みをもって扱われるべきでしょう。なお、「正す」「糺す」論については本論とは無関係なため割愛させていただきます。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) 返信 (BlueSkyWhiteSunさん宛) 票の「中身」は管理者の方が判断材料としてよく読むわけです。そして、その結果として、記事は削除になったり存続になったりする、ということです。私は「存続票に中身がない」とは一言も申し上げておりません。強いて言うならば、存続票が削除審議に与えた影響力の結果は、管理者の方々のご判断(処置)に現れているのではないでしょうか。なお、「(存続票の中身についての判断をコミュニティが下していない以上)双方の見解は同等の重みを持って扱われるべき」とおっしゃられていますが、そうであれば「(削除票の中身についてもコミュニティが判断を下していない以上)存続票と削除票は同等の重みをもって扱われるべき」ということです。ということは、「削除されるのであれば、削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という意見は説得力を失います。なぜなら、票の重みについていかなる予断もないはずの状況で、最初から「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」(語釈に忠実に言うならば「削除票は議論において相当な力を持つ中心勢力・メインストリームとならねばならない」となるでしょうか)とすることは妥当性がないからです。「相当な大勢を占めない限り、『削除票』を投じても記事は削除にならない」ということであれば、存続票に比して、削除票がクリアすべきハードルが高い(「相当な大勢」を占めねば考慮されない)という状況を招きます。しかしながら、「双方の見解は同等の重みをもって扱われるべき」であるおっしゃれたということは、「削除票は相当な大勢を占めていなければならない」という見解は撤回又は否定されたものと考えられます。なぜなら、「削除票の側だけ、クリアすべきハードルが高い」ということはなくなるからです。(翻って、存続票について考えた場合、存続票も「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」とお考えなのであれば、まだ話はわかりますが、一連のコメントを拝見する限りはそのようなお考えは読み取れませんでした)--Rienzi(会話) 2013年6月30日 (日) 11:06 (UTC) あー、ごめんなさい。同等に扱われなければいけないのは「双方の見解」ではなく、「双方の票」ですね。これはわたしの2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC)のコメントを読んでもらえればわかると思います。それと作成された記事はWikipediaでは存続が基本です(誰でも勝手に記事作成はできますが、誰でも勝手に記事削除はできませんよね)。記事に対して削除すべきというのであればそれ相応の根拠がなければいけない。その根拠をまとめたのが削除の方針です。削除の方針を適用するためには根拠を述べて審議を通さなければいけないのです。なかでも削除方針ケースE(特筆性)は立証が難しい、というかほぼ不可能。であるならば、コミュニティの大勢を以って判断するしかないわけです。それが最前から繰り返しているコミュニティのコンセンサスです。もし、コミュニティの大勢が一致していない場合、つまりはコンセンサスがない場合、ケースEについては削除主張者は根拠立証不可であり、作成された記事は基本存続の原則に立ち戻るわけです。つまり、「存続の為には、存続票は相当な大勢を占めねばならない」ということはないのです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 11:36 (UTC) コメント 私はもう、この事件に関連する議論はもう疲れたのであまり参加したくないのですが、会話ページにお知らせがありましたので、お知らせがあったら必ずコメントする義務はないのですが、一応コメント残しておきます。あと機種依存文字である丸囲み数字は代替できる時には使用を控えるべきかと思いますが・・・。 まず私からすれば、②の削除措置は私個人としては問題のない事だと思っていましたが、まぁ仮に合意が取れていなかったとしましょう。そのための③があり、現に復帰しました。私からすれば、復帰する合意も取れていないので、削除の合意が得られていないとする意見に対して復帰の合意が得られていない意見が出なかったの不思議なのですが、復帰依頼で十分な人数と期間を持って議論をすべきという意味合いがあったのかもしれません。では、その間で特筆性を有する資料をどなたか提示したでしょうか?私は無かったと考えています。特筆性が「ない」の証明は複数の状況から総合的に判断するしかないですが、特筆性が「ある」と証明するのは、たった1つの資料を提示すれば済むことです。それを悪魔の証明というかヘンペルのカラスというかは分かりませんが、そういうことです。 なお、⑤に関しては論外です。仮に前の復帰依頼で削除の合意が得られていなかったとしても、それは復帰の合意が得られている事と同義ではありません。議論を無視した復帰は方針に反します。したがって⑥の削除は全く問題ありません。 そして⑦についても問題ありません。というか、この議論もほぼ同義かと思います。④の削除でも言われていますが、記事の復帰にはこれまでに挙げられたもの以外の、全員とは言わずとも10人中8人くらいが「この事件には特筆性がある」と言える資料を提示すべきです。私はこの議論に対して最初から削除派を貫いていますが、そのような資料が提示されれば考えを変えますし、提示されても尚考えを変える気がないと判断するのでしたらいつまでも納得しない人としてコメント依頼を提出するなどの事は構いません。ですが現状では、はっきり言ってしまえばそういう現状を変えるような客観的な根拠を提示せずに復帰に固執する方が納得しない人に該当するのではないでしょうか?そして、各議論で「削除票と存続票は拮抗している」という意見が散見されますが、多数決主義ではないという方針は何度も述べられていますが、仮に票数を数えるとして、存続票のどの程度が中身の濃い、具体的な意見を述べていたでしょうか?依然出た意見とかぶるものもありますが、存続票が多いのに削除を断ずるのは不当だという意見は、中身の濃さを見ずに存続票と削除票のそれぞれの重さをないがしろにする意見かと思います。 --Kiruria281(会話) 2013年6月30日 (日) 08:33 (UTC) コメント 票の中身論については上にコメントしましたので割愛します。特筆性においての削除(削除ケースE)やその他の削除ケースは、削除要件によって削除を行うものです。そして、そのケースに該当しない場合、多くの記事同様、存続が適用されるわけです。削除を訴える側は自らの主張にともない、削除要件を立証する必要があると理解します。立証が不可能であれば削除を申請することは不可能です。ケースEについてはもっとも立証が難しいものでしょうが、コミュニティとして記事の特筆性がないという判断がくだれば、立証に代えることも可能でしょう。コミュニティとしての特筆性がないという判断、すなわち、コミュニティのコンセンサスが得られるかどうかが、ケースEの適用是非を決定するということになると考えます。しかるに本件の数次にわたる投票がなされている現況を顧みれば、コミュニティのコンセンサスが得られていないのはあきらかです。それを問うているのが本議論です。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 私は②には参加してませんが、読み返すと④の時以上に、②の存続票が酷過ぎるなと感じました。5対4と言ってもスピード違反の論理な意見が二つにそれと同調する意見だけでは、他の削除票と同価値と呼べるものではないでしょう。②の時点で削除で決着ついたと言わざる得ないでしょう。その後状況の変化があったわけでも、加筆されたわけでもない④の削除が正当か不当かなんて論じるまでも有りません。⑤⑦に至っては問題外でしょう。加筆さえされて充分量の内容になったのであれば、復帰に協力でもしますが、現時点ではあり得ない話です。--あな34(須魔寺横行)(会話) 2013年6月30日 (日) 09:25 (UTC) コメント 票の中身論については上に述べましたので割愛します。充分量の内容というのはどの程度の量か、具体的にご提示いただけますか。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:09 (UTC) コメント 論点を整理します。ケースE(特筆性)による削除は立証は難しい(これは削除側にとっても存続側にとっても同様)、したがってコミュニティのコンセンサスを以ってその有無を判断せざるを得ない。本件については長期にわたってその特筆性の有無が審議されており、直近の正常審議の行われた④の投票においてもコミュニティとしてのコンセンサスが得られている状況ではない。票の中身云々については立場によってお互いが相手の票の中身を判断して良いものではなく、基本的にその票の重さはいずれのものであっても同等に扱うべきである。なお、わたし自身の特筆性を有りとする論拠は日本では稀有(初?)なヘイトクライムであること、外部のニュース媒体からWikipedia編集に関して報道があった、こちらも稀有(初?)なケースであることです。--BlueSkyWhiteSun(会話) 2013年6月30日 (日) 10:54 (UTC) コメント 二度同じことを言うのもなんですが、削除の方針について日本語版のベースとなっている英語版では利用者各自が方針に則り削除すべきか存続すべきか意見しその審議内容から削除者・管理者が判断するようです。日本語版でもWP:DP#CLOSEに『意見が拮抗している、その他技術的な理由等により、終了判定と削除実施が遅れることがあり
誰でも編集できる百科事典ウィキペディアの登場によって、学術論文ないし研究報告書の考証の必要性がなくなってきた。
どんな知識でもウィキペディアで一検索をすれば、いかなる疑問もすぐさま解消できるからだ。
昔は、図書館とか郷土資料館に通い詰めてやっと現地の情報を手に入れる事が出来た。
しかしながら、現在は書物の急進的な電子化に伴って図書館要らずの世の中になって、わざわざそういった公共機関を利用せずとも労せず手に入れられる情報ならば、
公共機関を利用するよりもずっと早く研究が出来るし、疑問の都度いちいち調べるよりも検索でパッと判明する方が便利である。
ただ、論文の電子書籍化が進むようになって、研究というのが研究過程をあまり重視しない、端的に言えば研究論文が簡略化したり、あるいはペラペラの内容に留まってしまいがちだ。
すなわちこれまでは自力で研究していたから、論文もそれなりの精度を高めることが出来たが、現在は電子化の影響でそれを怠るようになり、文章もどこかからのコピーペーストになってしまって、まるでどこかで見たかのような、本当にこの人が書いたのだろうかと疑問を投げ掛けたくなる位正確性だとか信憑性だとか整合性だとかといった当り前の確認でさえ、怠ってしまいがちだ。
学術論文の未来は、こうした電子化の煽りを受けて衰退しかけている。
誰も彼もネットの影響を受けてしまい、現地でしか手に入らないはずであろう知識とか体験を以って研究報告になるものが、どこへも行かずただネットの情報を切り貼りするだけに留まって個々のアイデンティティーないし達成感がないために論文そのものが陳腐化してしまっている。
要はネット百科事典や電子書籍に頼らない論文作りが必須なのだが、今となってはこの衰退を食い止めるのは困難なのではないか。
好きな物を好きな時に行う事が、いかに手っ取り早く楽でかつ安心して利用できるか、この手段を得てしまってはもはや無くす事など到底叶わないのではないか、と思わざるを得ない。
なんだか最近、Fateのヘイト創作(語呂がいいなオイ)が話題なんだそうだ。私自身はFateでは二次創作はやってはいないので、ネットでの騒ぎを眺めているだけだが、なんだか大変そうだ。まあ二次創作同人って、ジャンルのピークが過ぎて衰退期や晩期に差し掛かると、二次がガラパゴス化して大抵ごたつくよね。Fate自体は歴史の長い作品だが、Zeroアニメ化に端を発する特需はそろそろ晩期なんだろう。わかるわ。
だがpixiv百科事典を初めとした加熱した議論にはなんだか危険なものを感じる。
冬木ちゃんねる (ふゆきちゃんねる)とは【ピクシブ百科事典】
http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%AC%E6%9C%A8%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B
前置きしておくが、別にヘイト創作というものをマンセーしたいわけではない。だがそう開けっぴろげに否定したものではないと思う。
ただ、棲み分けには賛成だ。そうあるべきだと思う。
というか、当事者たる二次創作関係者"以外"にとっては、ヘイト創作だろうがボーイズラブだろうがエロ漫画だろうが大差ないだろうと思うわけだ。
原作のキャラクターを自由に動かし、行間を脚色し、あるいは改変し、自分の欲求を満たすもの。
それこそが二次創作の本質である。勘違いしてはならない。ヘイト創作がだめなんじゃない。二次創作全般が、そもそも隠匿されるべきものなのだ。
隠匿というと大げさだが、少なくとも内輪ネタである。原則として、原作者の眼の届かないところでやるべきだ。まあ実際は完全に隠すことは難しいだろうから、"形式的に"ということになる。例えば伏せ字や隠語を使う・検索避けをする、などだ。
これはヘイト創作に限らず、二次創作全般で本来徹底されるべきことだ。
今回はFateが槍玉に挙げられているけれど、"二次創作意識の肥大化"とも言うべき現象はここ数年で際立ってきた気がする。その諸悪の根源は間違いなく、ニコニコ動画とpixivである。まあ、前者はここ数年権利者削除が増えてきたから、どちらかといえば土壌はpixivだろう。さらにtwitterが加速剤となっている。
作品名をGoogle検索すると、当たり前のようにpixivが検索上位に表示される。"腐向け"タグなんかは最近整備されてきているけれど、未だに作品名そのまんまのタグでホモすれすれの絵を描いているひとだっている。増してやエロ絵なんてまるで検索避けされていない(一応18歳未満は閲覧できないが、作品名そのまんまタグだ)。いや、そもそも、エロでなくても、ホモでなくても、ヘイトでなくても、結局のところ二次創作は"路地裏文化"だ。表通りでダンスするにはあまりにあんまりなんだよ。
二次創作を垂れ流すのと同一のtwitterアカウントで、平然と原作者にコンタクトを取る人間の心理が私には理解できない。
正しい二次創作なんてない。原作者にとって"嬉しい"二次創作なんて、同人側が自己の行為に正当性を求める行為だ。結局、我々二次創作者がやっているのは、その内容如何に関わらず、違法行為すれすれの、虎の威を借る狐じみた、他人の褌で相撲を取る、自己満足行為だ。そのことを、ゆめゆめ忘れてはならない。
後ろ指を差されたくない人生を送りたいなら簡単だ。今までの二次創作を全て燃やしてオリジナルを描けばいい。あるいは筆を折ればいい。でもそれができないのが二次創作者だ。だって楽しいんだもの。
旬ジャンルの勢いもあって、投稿した二次小説がPixivの「小説デイリーランキング」に何度かお邪魔している。
Pixivは「評価」が可視化されやすく、ブクマされた数も評価回数も総合点も一目でわかる仕組みですよね。
この評価の可視化の仕組みもタグも、ものすごく良し悪しだと思う。
何度かランキングに入っていると、作品を投稿してからの1時間から2時間程度で、
「これは明日のランキングに入るな」とか、逆に「今回はランキング外か」とかが漠然とわかってくる。
相対的なものだから当然その日によって多少の変動はあるだろうけど、
個人の経験則から行くと、Pixivのランキングの集計時間である0:00~24:00の間に、
ブクマ数100前後、評価数50回(総合点50くらい)いけばランキングに滑り込めてる気がする。
(参照:ランキング (らんきんぐ)とは【ピクシブ百科事典】)
というのを、把握している時点で「なんだかなぁ…」と自分では思うわけです。
そりゃ書いたものが「評価」されるのは嬉しいし、多くの人に読んでもらいたいとか、
タグやコメントが付けられたら嬉しい!と思うのはごく当たり前だと思うわけです。
思うんですが、それが行き過ぎて読み手の評価ばかりを気にし始めるとドツボなんですよね。
「自分が書きたいもの」を書いていたはずが、「書きたいもの」ではなく「評価されるもの」を書き始めたりする。
「このジャンルならこういう作風のを書けば評価されるだろう」と、無意識に探し始めている。
自分でも心底めんどくせぇなって思うんですが、自分はそれに気付くと、
妙な自己嫌悪に陥って、すごく嫌になるというか妙に疲れてくるというか。
そして一度ランキングに入ると、次も入らなきゃという妙な強迫観念に駆られて以下無限ループ。
Pixivで「○○ちゃんねる」風の作品が叩かれる一因には、
「私の小説が評価されないのに、なんであんな文章でも何でもないのが評価されるんだよ」
という書き手の負の感情が少なからずあるんじゃないかなと思っています。私が思ってるだけかもですが。
なにがめんどくさいって、趣味で息抜きに書いたはずの作品のPixivでの評価に一喜一憂している自分が心底めんどくさい。
ならPixivに投稿すんのやめろよって言われたら正論過ぎて反論の余地もないんですが、
オンラインのみで活動してると体感的にPixivが一番わかりやすく手っ取り早く「評価」が得られる場所だとも思うわけです。
読んでもらって評価されることで「自己顕示欲」と「承認欲求」が満たされるというか。
「○○ちゃんねる」(2ch風小説)は創作SNS「pixiv」で流行している、匿名掲示板のスレッドの流れを模したチャット形式の読み物です。
台本形式のように手軽に読み物が書け、手軽に読めるため、pixiv小説で絶大な支持を集めています。
2ch風小説 (にちゃんふうしょうせつ)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/2ch%E9%A2%A8%E5%B0%8F%E8%AA%AC
その「○○ちゃんねる」作品のうち、商業ゲームブランド「TYPE-MOON」の『Fateシリーズ』を題材にしたものが、「冬木ちゃんねる」です。
「Fateシリーズ」は2004年に発売された男性向け長編ノベルゲーム「fate/staynight」からはじまる作品群です。
美少女キャラだけでなく個性のある男性キャラクターも多数登場し、熱いバトルやドラマチックな展開が繰り広げられるため、昔から女性層にもファンが多いゲームでした。
それが2011年のアニメ化でヒットした派生作品「Fate/Zero」という外伝ライトノベルと、女主人公・男主人公が選べるPSP用RPGゲーム「Fate/EXTRA」で、小中学生・高校生~の若いファンが沢山流入し、SNS「pixiv」でも、2011年秋期以降、女性ユーザーメインの「Fateシリーズ」二次創作が一気に増加し、支持を集めるようになりました。
そこに、2011年当時pixiv小説で爆発的に流行していた「○○ちゃんねる」形式の読み物のFateシリーズ版「冬木ちゃんねる」が出現しました。
初期は他の「○○ちゃんねる」小説が流行するジャンル(「黒子のバスケ」のくろちゃんねる、「タイガーアンドバニー」のシュテルンちゃんねるなど)のように、原作キャラクター主体のものが主で、
オリキャラが登場してもモブの域を出ない、あるいは原作キャラクターを活かすためにオリキャラを投入する作品、多くのキャラクターが亡くなる原作の結末を、オリキャラの介入によりなんとかハッピーエンドにできないかという内容のものが大多数でした。
オリキャラ介入による、全員生き残る「Fate/zero」世界への介入ものに人気が出るうちに、そのうち、だんだん特定キャラへの過激な暴力や制裁の描写が含まれる、ヘイト創作としか言えないものが増えてきました。
ヘイト創作とは、キャラクターの思想やあり方を否定したり責めたりすることを目的として作成された二次創作物の総称です。
ヘイト創作 (へいとそうさく)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88%E5%89%B5%E4%BD%9C
キャラヘイト/ ヘイト表現/ 同人用語用語の基礎知識 http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_chara_hate.htm
これらの投稿作品が一定数の支持を集めてしまったことにより、「冬木ちゃんねる」の様相は一気に変わって行きました。
「Fateシリーズ」「冬木ちゃんねる」や「ヘイト創作」なら人気が取れると考えたユーザー達が集まり、題材作品を読むことすらなく、流行に乗ってこぞってヘイト創作を発表しました。
「冬木ちゃんねる」ならオリキャラ主人公物を書いてもいいと考えたユーザー達も、こぞって夢小説や転生憑依オリキャラ作品(現実世界に住む作者自身のアバターが題材作品の世界に転生・トリップし、主人公として振る舞うもの)を「冬木ちゃんねる」で発表しました。
彼らの多くは「Fateシリーズ」という作品には興味をもたず、原作をプレイしたりアニメを見たこともない、今後見るつもりも無いという方々でした。Wikipediaやプレイ動画などのネット情報で見た目と設定だけ把握して、二次創作と点数評価と、交流だけ楽しめればそれでよいという方々です。
Fateシリーズの原作キャラクター達は冬木ちゃんねるの中でオリキャラや書き手の最愛キャラの添え物として、悪役や下衆、引き立て役、説教対象、断罪対象や、オリキャラに味方する騎士役、オリキャラを溺愛する彼氏役や逆ハーレム要員として扱われました。
「(キャラ名)ざまぁwww」「(キャラ名)フルボッコ」などのコメントタグが多用されたので、作品の中身を読まなくてもわかるキャラdisや原作者様方への中傷が可視化されてしまいました。
好きな作品やキャラクターの名前でpixivを検索しただけで、罵声と嘲笑・ヤジが多用されたコメントタグや、常軌を逸したタイトルを目にするようになりました。
クロスオーバーに利用された作品や、その作品のキャラクターが好きな人達の目にも、嫌でも目に入ってしまうようになりました。
原作のファンは、「冬木ちゃんねる」自体を避けるようになりました。
原作沿いの「冬木ちゃんねる」を投稿する事を止めてしまった投稿者も、沢山居ます。
Fateシリーズを知らない、クロスオーバー先の版権作品タグやキャラ名等を検索した人達は、Fateシリーズとファンそのものを「他所の作品を巻き込んだヘイト創作が流行し、不快なタグが並ぶマナーの悪いジャンル」と白眼視するようになりました。
これまでの過程で、これらの投稿作品群の作者さんたちに注意をする方々が居なかったわけではありません。
「FateSSについての提案」という、注意喚起を行う人も居ました。直接投稿者へ注意をする人も居ました。でも逆切れされてしまい、注意喚起のために閲覧者が付けた「ヘイト描写あり」「原作未プレイ」「オリキャラ」「転生憑依」等のタグを削除されてしまったり、注意メールを晒しものにされてしまう事例も続出しました。
抗議メールを晒して、ひどい内容に書き換えて笑い者にする人も居ました。
そのうち、原作厨という言葉ができ始めました。作中内では「物語を原作通りに進めることを目的としてオリキャラや原作キャラに干渉する人々」という定義です。中にはこの「原作厨」を、間違った設定を諌めたり、ヘイトに反発している原作ファンと重ねて、作品内で悪役に仕立て制裁するという作品もありました。
また「原作厨」という言葉自体が、冬木ちゃんねるの言葉を知らない人たちからみれば原作ファンを攻撃するものに見え、さらに外から見えるタグ内において「原作厨」が敵として叩かれ断罪されていることで、「冬木ちゃんねるの人たちは原作ファンでないのだ」という思いがfateの二次創作を検索している人達に広がりました。
投稿者へ注意をする人はどんどん減り、「冬木ちゃんねる」は投稿者も読者も、題材作品であるはずの「Fateシリーズ」の内容すら知らず、原作を三次創作のための土台や、オリキャラの引き立て役のように扱う人が大多数を占めるようになりました。
すると三次創作される中で、多くの原作キャラクターがとんでもない誤解のもとに歪められ、原作中には本来ありもしない過失や落ち度・下衆な行動・言動を捏造され、それがさも事実であるかのように冬木ちゃんねる外部でも語られるようになりました。
原作のキャラクター達は、投稿者の贔屓キャラクターやクロスオーバー先キャラクター、「最強」で「チート」で「周囲から愛され、守られ、崇拝される」オリキャラ主人公などによって「当たり前のように」作品の中で断罪、中傷、説教、暴行、殺害されるようになりました。
それらの二次創作物・三次創作物やウィキペディアの斜め読み、違法動画だけで「Fateシリーズ」の知識を得た読者達が、実際の匿名掲示板やTwitter、ニコニコ動画などでヘイト発言を行うようになりました。
そのうちpixivでは、ちゃんねる形式以外のFateシリーズ関連投稿作品にも、「○○未視聴」「プレイ動画を見ました」「Wikipediaと二次創作でFateシリーズの知識を把握しました、公式作品は一切読んでいません」「パラレルワールドを舞台にした作品A "以外" はWikiでしか知りませんが、(正史の作品Bにしか登場しない)キャラの話を書きました」「原作乖離」「原作はお外にポイしました」などと、さも免罪符であるかのように自己申告してFateシリーズの三次創作やヘイト創作を行う投稿者が続出するようになりました。
pixiv小説内で「ヘイト創作」タグが付いている600件以上の投稿作品のうち、91%が「冬木ちゃんねる」関連投稿物です。
つまり、pixiv小説で「ヘイト創作」タグが付いている作品のうち、99%がFateシリーズを題材にして書かれた作品です。
「ヘイト創作」タグや注意書きが付いているならまだいいほうです。
閲覧数稼ぎや悪評の回避、ファンへの嫌がらせ目的で、キャラクタータグやカップリングタグを付けてファンアートに偽装したヘイト創作も、少なくはありません。
1年以上続く、これらの状況を見かねた方々が、「冬木ちゃんねる」のpixiv百科事典に、「冬木ちゃんねる」内でのヘイト創作の現状と、「冬木ちゃんねる」内で歪められ貶められたFateキャラクター達の現状や、原作者様方や原作ファンすら悪役として中傷され作中で殺害される扱いの酷さを、pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」に書き記しました。
【「冬木ちゃんねる」作者さんへ】という注意喚起も行われました。
冬木ちゃんねる (ふゆきちゃんねる)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%AC%E6%9C%A8%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B
pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」のコメント欄には、この記事の内容は言いがかりだと主張する方も現れたため、1週間分の投稿作品の統計を行い、それらのデータを公表する人も現れました。
すると、ゲーム「Fate/staynight」(全年齢対象版含む)をプレイしたことがある人は10%以下、ライトノベル「Fate/Zero」を読んだことがある投稿者は20%以下だったことがわかりました。ステイナイトやZeroのアニメだけは見たことがある」という人も、30パーセント未満です。
「冬木ちゃんねる」は「Fate/Zero」「Fate/staynight」の世界"冬木市"を舞台にしたものが大半を占めるにもかかわらず、です。
冬木ちゃんねる内の実情が明るみに出ると、投稿者達はこぞって「お知らせ」を「冬木ちゃんねる」タグで投稿しました。
「マイピク」(限定公開)へ誘導をかけたり、「冬ちゃん派生」などの回避タグを使用して、またはヘイト創作タグや「ヘイト描写あり」などの注意書きのみ削除して一般のファンアートに偽装するなどして、今まで通りヘイト創作とオリキャラ物を発表しようとする投稿者も続出しました。
2013年5月初頭には8500件ほど有った「冬木ちゃんねる」投稿物のうち、2500件以上がタグ移動、マイピク移動等で分散しました。1400件以上が「冬ちゃん派生作品」というタグへ移りました。
今、pixiv小説で「冬木ちゃんねる」を新着検索しても、「お知らせ」と書かれた投稿物が大量に並ぶばかりです。Twitterや匿名掲示板などで、不満を漏らす人も沢山居ます。
「冬木ちゃんねる」タグで投稿された沢山の「お知らせ」の中には、pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」の内容に反論の声明を出す投稿者も少なくありません。
pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」のコメント欄には、現在400件近くのコメントが付いています。
そのうち、130件近くは百科事典の内容に抗議する方々からの連投荒らし行為です。
これが「冬木ちゃんねる」タグと、pixivのFateシリーズ二次創作コミュニティの中で、私が見てきた限りの一連の流れです。
知らない作品のキャラクターやファンを貶めて楽しむ事や、愛情もなく一次創作物を利用する事は、二次創作コミュニティの中で受けいれられるべき行為なのか、この現状を悲しんでいる一人のファンとして、沢山の人の意見が聞きたくて、この文を書きました。
この文章が多くの人の目に触れることを願っています。
魚の方じゃないよ。
1題材を決める
・まずは大きな題材から(笑える、感動、恋愛、SF、イミフ、怒り、恐怖)
簡単な物は感動系の物、恋愛と>>1がアスペっぽくてイミフなスレです
SFと怒りは下調べがめんどくさい
怖いやつと笑えるやつはやんないほうがいいです
2おおまかに話を考える
・起承転結は考えなくてもいい
・起承転結を考えるんだったら、一つのレス毎に転の要素を入れる
3登場人物を考える
ラノベじゃないんだし。
その人の武勇伝を考えておく
嫌いな人は無理に公言しなくてもいいです
4深めていく作業(設定
・場所
もし場所を聞かれたら困るのでグーグルマップで適当に場所を探して下調べする
場所が決まったら、その場所の日没日の入り、月の形位置、過去の天気(温度、降水確率)を調べておくとリアルになります
未来から来たんだったらジョンタイターは必須。他の有名じゃないスレも確実に目を通してメモ
SFは小説を読みまくったり百科事典を読んだりしないといけない
これは大事です。絶対に浅はかな知識でスレを立ててはいけません。
・証拠をつくる
写真は効果絶大です。しかしネットで拾った画像を使わないでください
5文章に起こしていく
・独り言を入れながら
共感してもらうためだけです
・おおまかな話だけでいい。
下に書きます
6質問を想定する
・質問されながら話は進んでいくので、反応を見ながら慎重に話を変えたりする。
4の内容がここで役に立ちます
7一緒にスレを伸ばしてくれる3人を探す
・とりあえず質問してもらう
・3人と話し合いながら進めていく。バクマンの七峰透みたいなやり方って言えばわかりやすい
まとめブログもスレを伸ばすために色々頑張ってるので、盛り上がりやすいです。
9スレを立てる
・「書き置きしてないから待って」的なことを言う
本当は書き置きしている
俺はしないでニヤニヤしてます
http://anond.hatelabo.jp/20130518135025 の続き。
はてなキーワード「慰安婦制度」における、id:barnumkoukaとid:dj19のやりとりの追記
barnumkouka 2013/05/18 15:19 「2.の百科事典的側面」の点についてですが、「百科事典的側面」という項目は、様々な情報に接触できる「有益性」と私は理解しております。インターネットに流れる情報は著作者不明のものが多く、「有益性」の中に「正確性」は含まれません。「正確性」とは著作責任者が保証した主張であり、著作主体が明示されない記述は、完結的な正解には成りえません。無名の編集者が関わるキーワードは、完結的な正解記述ではなく、オープンな集約記述を目指すべきだと思います。過剰な「リダイレクト」処理は、オープンな集約記述を疎外するだけでなく、ユーザーの情報探索に不便さをもたらすと思います。
dj19 2013/05/18 15:44 「百科事典的側面」とありますので、「有益性」の中に一定の「正確性」は含まれます。「デジタル大辞泉の解説ひゃっか‐じてん 〔ヒヤククワ‐〕 【百科事典】人類の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物。」とあります。「完結的な正解記述」は難しでしょうが、ある程度そのように近づけて記述することは誰にでも出来ることですし、不正確な解説は有益ではありません。
barnumkouka 2013/05/18 16:19 私が言っているのは、「著作者明記の百科事典」と「ネット上の百科事典的側面」は同義ではないということです。それと、正解を決定できるのは誰でしょうか? 正解とは責任者が完結的に保証するものです。はてなキーワードは、正解記述を委任するような仕組みではありません。ユーザーが多様な記事にアクセスできるように、オープンな集約記述が有益なのではないでしょうか?
dj19 2013/05/19 14:35 慰安婦制度の解説として「慰安婦という職業が公認されていること。慰安所などを設けること。」は百科事典的側面を満たしていません。不正確な解説は有益でもありません。よって削除しておきます。
barnumkouka 2013/05/19 16:08 繰り返しますが、ここであなたが唯一の正解を記述できるという根拠は何なのですか? 正解はあなた名義の著作であるブログで主張するものです。それに、削除するならば何が間違っているか具体的に指摘するべきだし、説明に不備があるならば書き足せば済むことです。「百科事典的側面」や「不正確な解説」などの抽象的な理由で全削除する権限があなたにあるのですか?
barnumkouka 2013/05/18 15:19 「2.の百科事典的側面」の点についてですが、「百科事典的側面」という項目は、様々な情報に接触できる「有益性」と私は理解しております。インターネットに流れる情報は著作者不明のものが多く、「有益性」の中に「正確性」は含まれません。「正確性」とは著作責任者が保証した主張であり、著作主体が明示されない記述は、完結的な正解には成りえません。無名の編集者が関わるキーワードは、完結的な正解記述ではなく、オープンな集約記述を目指すべきだと思います。過剰な「リダイレクト」処理は、オープンな集約記述を疎外するだけでなく、ユーザーの情報探索に不便さをもたらすと思います。
より正確な情報はより有益であるのは自明です。また、著作者不明であること自体が正確性を毀損するものでもありません。
barnumkouka 2013/05/19 16:08 繰り返しますが、ここであなたが唯一の正解を記述できるという根拠は何なのですか? 正解はあなた名義の著作であるブログで主張するものです。それに、削除するならば何が間違っているか具体的に指摘するべきだし、説明に不備があるならば書き足せば済むことです。「百科事典的側面」や「不正確な解説」などの抽象的な理由で全削除する権限があなたにあるのですか?
キーワードの編集ははてな市民であれば誰でもできます。また、はてなユーザーは、削除申請フォーム、お問い合わせフォームなどより申請することでキーワード削除を依頼することができます。間接的ではありますが削除権限を持っています。これらはガイドラインに書いてあるとおりです。
削除申請フォームでは、削除理由として「第三者から言及される可能性が特に低い(造語、私的な内容など)」を選択することができます。現時点での「慰安婦制度」の内容「慰安婦という職業が公認されていること。慰安所などを設けること。」は、「慰安婦」という言葉と「制度」という言葉を足した以上の意味を持たないため、造語とみなされ、前述の削除理由になりえます。
はてなキーワード「慰安婦制度」における、id:barnumkoukaとid:dj19のやりとり。id:barnumkouka氏の作成した「従軍慰安婦」関連のキーワードにチェックを入れる必要がありそう。
barnumkouka 2013/05/17 22:23 このキーワードは十分なリンクを獲得していますし、「従軍慰安婦」と同じ内容ではありません。橋下氏の発言を見れば、慰安婦という職業を認めた制度というニュアンスだと思いますが。
dj19 2013/05/18 12:29 id:barnumkouka氏、「[[慰安婦]]という職業を認める制度。[[慰安所]]などを設けること。」「橋下氏の発言を見れば、慰安婦という職業を認めた制度というニュアンスだと思いますが。」それはbarnumkouka氏の考えた橋下氏の個人的な意見であり、そもそも慰安婦制度に無理解な橋下氏の意見を解説文として載せる意味がわかりません。正確でないものはキーワードの解説文として不適切です。慰安婦制度の解説であるなら、慰安婦制度は誰が創設したのか、なぜ必要とされたのか、といった基本的なことを最低限解説してください。いったん削除しておきます。もし一定期間経っても記述されない場合はキーワード従軍慰安婦へのリダイレクトとして対応させていただきます。
dj19 2013/05/18 12:29 ところで、barnumkouka氏の作成したキーワード、慰安婦利権、いわゆる従軍慰安婦、慰安婦発言、公募慰安婦、追軍売春婦、等々ここに書き切れませんが、これらのキーワードのほとんどは一行や二行程度のあなたの考えたことを書いてあるだけです。内容の誤りも目立ちます。出典が明記されているものはほとんどがありません。以降このような無意味なキーワードを乱立させる行為は控えるべきでしょう。
barnumkouka 2013/05/18 13:24 キーワードは情報をつなげるものであり、キーワードの利用実態が説明できれば十分なのではないでしょうか?「慰安婦制度は誰が創設したのか」みたいな記述内容は必要ないと思いますし、それが「従軍慰安婦へのリダイレクト」という処理になるのかも全く理解できません。キーワードは話題状況を調べるためのもので、安易にリダイレクトを増やすと利便性が疎外されると思います。
dj19 2013/05/18 13:35 barnumkouka氏、「キーワードは話題状況を調べるためのもので、」だけでは、「キーワードにできる言葉」の「意義」を満たしておりません。「はてなキーワード作成・編集ガイドライン」には次のように書かれています。よくお読み下さい。「キーワードの意義としては:1.同じキーワードを使っている記事を探しだすことができる(自動リンクシステム的側面)、2.キーワードについての有益な情報を得ることができる(百科事典的側面)、この2点があります。その言葉がこの2点の意義を満たし、自分だけでなく他のはてなユーザーにとっても有益である場合、はてなキーワードとして新たに登録することができます。」
id:barnumkoukaが作成。「慰安婦問題をネタにした利権があるという疑惑」と記しているのみ。
id:barnumkoukaが作成。「造語の一つであるという意味を込めた「[[従軍慰安婦]]」のこと。」と記し、さらに、「従軍慰安婦」へのリダイレクトをはかっている。従軍慰安婦否定論の立ち居地で編集しているらしい。この言葉がなぜ「従軍慰安婦」と分けられているかというと、こういうページがあるからです。
googleで検索してみたのですが、これは否定論者が使う言葉のようです。
id:barnumkoukaが作成。「[[慰安婦]]に関する発言。[[従軍慰安婦]]だけに限らず、[[慰安婦制度]]全般に関する内容も含まれる。」とある。慰安婦発言「日本人は読解力不足」 橋下氏反論、取材も限定などから、橋下徹の発言と考えられる。
id:barnumkoukaが作成。「[[公募]]によって集められた[[慰安婦]]のこと」とあるが、どの層が使っているのかわかりません。はてなキーワードにもはてなダイアリーの記事へのリンクは見つかりませんでした。
id:barnumkoukaが作成。「[[従軍慰安婦]]を否定する人による言い換え。[[元慰安婦]]の証言の曖昧さから、[[売春婦]]が軍を追いかける構図に見えることから。」
このキーワードの使用者としては極右団体の「維新政党・新風」(<維新政党・新風>お知らせ: 追軍売春婦像に竹島の碑を贈呈)などが挙げられます。いわゆる否定論者。
従軍慰安婦に対して否定的な立場での編集が見られる。特に橋下徹の発言に由来すると思われるはてなキーワード「慰安婦発言」などから、橋下徹の支持者であるとも推測される。はてなキーワードの内容に出典を記さないことが多い。
あと、お店とか少ないところに住んでる、とくに大人たちはどこで気晴らしするの?
大学進学と同時に実家を出てしまったので正しい回答が出来る自信はないが、個人的な意見で答える。
「お店とか少ないところ」の「お店」ってのは、スーパーじゃないよな?
とりあえず、実家にあったお店というのは、こんなだよ。
スーパーはある。
ドラッグストアはない。
小さな薬局があった。
コンビニは、高校に入った頃に出来た。
お菓子屋はあった。
服屋というのは、高校指定の制服とかジャージとか売ってる店を指すならばあった。
雑貨屋に相当する店というと、文房具とプラモデルを売っている店があった。
食器を店頭販売もしている窯元があった。
スナックもあった。(入ったことがないので詳しくはわからない)
そして、それらは点在していて、モールや駅前商店街という一角に集まってるわけじゃない。
言い忘れたが、駅はない。
パチンコ屋があった。
あとは、神社とか、寺とか?
大学進学と同時に実家を出てしまったので、成人男性成人女性がどこでどう気晴らしをしてるかはよくわからない。
田舎はパチンコくらいしかとよくいわれるが、当時高校生だった自分には経験がなかった。
パチンコ屋もどんどん潰れてたので、田舎の娯楽を独占してるというわけでもない気がする。
で、どこでといわれると、圧倒的に「家で」だ。
「だれだれんち行こーよ」
だった。
都会っ子でも小学生とかはそれだろ?
高校くらいになると、原付乗って出かけるということを覚えたりだけど、基本は「誰々の家に行く」が遊びの基本だった。
そんなノリで異性を連れ込んじゃうし、ホイホイやってくるもんだから、デキ婚率が高い。
出かけるとなると、ミニバンに乗って、今で言えばイオンがあるような大きな街まで。
アメリカじゃバーベキューセットが、日本の田舎ではホットプレートになり、フローリングの広い部屋が、畳に布団で引き戸に代わる感じ。
オープンカーにタンクトップとキャミソールの男女が4人乗ってヒャッハーのアメリカの風景が、スウェットのガキどもがミニバンでNHKFM聞きながらで田んぼ道。
当たり前だけど、田舎にも一定の割合で他人と遊ぶのが嫌いなやつがいる。
一人でテレビゲームしたりとか。
俺もそっち側の人間だった。
慣れだよ慣れ。
言うまでもなく都会の方が便利。
ピザが食べたけりゃピザ屋に電話一つ、セックスがしたかったらデリヘルに電話一つ。
でも、休日はゲームして、明るいうちから風呂に入って腹いっぱい飯食って、ちょっとだけ飲んで、寝て、それで幸せだし。
わざわざ、映画行きたいとか、ディズニーランド行きたいとか、そういう願望が湧いたことがないのでちょっとわからん。
(ディズニーランドは行ったことがないのでなんともいえんが)
嫁が俺の実家について
「ほんっとに何もないけど、どうやって生活してたの?子育てとかどうしてるの?」
と聞いてきたことがある。
コンビニがないとか言われても、なきゃないでなんとかなったし。
公園がないとか言われても、まあ、不便さすら感じたことがなかった。
公園はなかったけど、家の隣に横穴式古墳があったので、子ども(というか俺)を遊ばせることくらいはする気になれば出来たかもと思うんだが、そこで遊んだ記憶とか、そういう話は聞いたことない。
本読んだり、テレビゲームして育った。
本屋はないけど、百科事典とか文学全集とかあって、活字には困らなかった。
どっかからか貰ってきたり家のどこかから出てきたりもあったし。
沖縄の、さらに大きな島から離れた小島出身のやつの生活を聞いたら、そんなに田舎には住めないと思った。
テレビのチャンネルがNHK総合とNHK教育しかなかったとか、台風が来るたびに朝昼晩缶詰で食いつなぐとか、信号の意味を理解したのは中学だが原付は小学校から乗ってたとか、etc...
昔なら個人サイトに検索避けタグ入れたり、厳しいジャンルだとパス制にして上げてたホモ絵を、ログインしなくても見れるSNSに堂々と上げるなんて考えられない。
子どもの頃、好きな漫画(少女漫画)のキャラ名を検索したらエロ絵が出てきたのが未だに忘れられないトラウマなんだけど
そういう被害を昔以上にたくさん出しているはず。
あとは個人サイトが廃れてSNS一辺倒になったのが単純に寂しい。
みんなが個人サイトを持っていた頃は管理人さんごとにサイトカラーがあって個性が出てて楽しかった。
web拍手があったお陰で憧れの人にも匿名でコソッと感想を伝えられた。
今は「頑張らない」感じが流行りなとこもあってpixivの個人ページすらあんまり弄ってない人が多い気がする。
相互お気に入りになっていない人はツイッターもフォローできない。
個人サイト主流の頃はただの落書きも、趣味に走りまくってちょっと見せづらいような作品も
自分のテリトリーに置いておく分には特に抵抗も無く、琴線に触れた人が数人いてくれたらそれでいいやくらいに思えてた。
直接の感想がなくてもアクセス解析でお気に入りから日参してくれてる人がいたり、無言の拍手があったりで支えられていた。
一方pixivに上げるとなるとどの作品も数字で評価されてしまう。
作品をうpしてしばらくはうさぎ(ブクマや評価が一定数を超えるとうさ耳が動くアイコン)とにらめっこ。
うさぎが元気ないとどん底に凹む。
あぁこの作品は上げない方がよかったのかもしれない。自分では上手く描けたと思ったんだけどセルフ補正入ってたんだ。増えないブクマを見ているくらいなら非公開にしてしまおう。
他人の作品を見てるときは、特にブクマや評価をしなくても感銘を受けている作品なんていくらでもある。ローカル保存して見返す作品もある。好きすぎて公開ブクマできなくて日参するような作品もある。
でも自分の作品となると、そこまで想像力働かせる前に心が折れる。
分かりやすく見える評価が思ったよりされないとどんどん萎縮していく。
他人のブクマ数を見ると欝になるから意図して目を逸らすようにしている。
作品を創るときも、自分が単純に描きたいものじゃなくて、どんなのが受けているのか研究して描くようになってしまった。
描くのが楽しくて楽しくて、評価なんて気にせずに紙と鉛筆をただただ消費していた頃に戻りたい。
pixiv主流になってから何度絵を描くのをやめようと思ったか知れない。
上手い人って本当に掃いて捨てるほどいるんだもん。日本人怖い。
そんな中で自分が絵を描き続ける意味なんてないんじゃないかって毎日思う。
ROM専なら気楽に便利に使えるし。
でもランキングに入ったり、自分の憧れの人にブクマしてもらえたりといった餌に釣られてまたうpしてしまう。
pixiv事務局からのメールを見た瞬間の脳内物質の量は半端ない。
それに、やっぱり絵を描くのが好きだからやめられないんだと思う。