この記事について。ブコメで嫌煙家が上記記事を叩く→記事を叩いている嫌煙家を叩く人が出てくる。なんかタバコ関係の話題が出るといつもこう。ブコメを見ていてもやもやしていたので思った事を書いて行く。
前提として私はタバコ吸いませんが、上記記事が釣りでないのであれば半分くらいは同情しています。マナーさえ守れば喫煙は問題ないと思っていて、マナーというのは時と場合を考える事。例えば歩きタバコはNGだが喫煙所で吸うのはOK。その結果臭いがするのは仕方ない。食事の場はちと面倒になるのですが、飲み会なら仕方ないけどランチ中は近くで吸ってほしく無い。ってな感じ。基本タバコは嫌いだけど吸う事に対してとやかく言うつもりは無い。
ブコメで嫌煙厨が過激な意見を出していますが、正直仕方ないと思うのですよ。逆に嫌煙厨を叩くのはどうかなと思っています。気になったブコメに対する意見を書いて行く。
id:hiragumo おやおや。コメントだけ読んでると、どこぞのレイシストや反原発活動家と似たようなご意見ばかりで。「共存」なんてハナから眼中にない方々ばかりなんですね…
そりゃそうでしょうよ。タバコって明確に体に悪い物だし、吸わなければ死ぬ訳でもないでしょう。なぜ共存する必要がある? 吸わない人が煙を吸わされるのって結構辛くて、喉が痛いときなんかは特に嫌。放射脳と一緒にするのは筋違いではないでしょうか。
id:Mattyan タバコ吸わないんで別にいくら禁煙が進んでも一切困らないのだが、これとかつての禁酒法との違いはいったい何だろうと考えるとよくわからなくなってくる。
これは耳が痛い意見。でも酒で他人に迷惑かける確率と、タバコで迷惑かける確率で言えば、タバコが圧倒的じゃないかなぁ。
id:Talgo 人のニオイにまで文句つけるようじゃ人間おしまいだな。タバコだけが特別ってことはない。「あなたの○○のニオイが我慢ならない」とか言い出したら世の中メチャクチャだぜ。
全部の臭いを一緒には出来ないでしょう。他のブコメにもあったけど、おならを許容できるのですか?
id:k71360274 濃いコーヒー飲んだ人の匂いの方がきつい
気をつけます。いやほんとに。
臭い・健康への被害等、明確に害のあるタバコと、害がないと言われているのに騒ぐ放射脳と一緒にしないでほしい。
個人的にはタバコの方が数倍臭いし、仮に線香と変わらなかったとしても、日常生活で線香炊いてる人に出会う事ないから。
id:zeromoon0 デブも汗臭いから入店禁止。コスプレはイベント会場でやっても目に入ってキモいから自分の部屋だけでしろ。ヲタクはバカだからアニメをとりあげろ。
全面的に同意。
そこまでは言ってないでしょ。
これって凄く難しい話で、嫌煙家の権利もあるわけ。自分は冒頭でも行った通り、臭いくらいは我慢している。喫煙家に対して分煙を強いているかわりに臭いくらいは強いられても我慢しようかなと。ただこれに健康被害が出てくるのがタバコだから、ここまで叩かれるんだろうね。
それが元増田さんの感じていることと同じかどうかはわからないけど。
>恋愛ができないのが悲しい
ただひたすらに悲しい。
でももっと悲しいのは、今だかつて(と言ってもまだたかだか50年に満たない人生だが)そう言った時に同意してくれた人が一人もいない、つまりはこの感情を共有してくれる人に会ったことがないこと。
「別にできなくても困らないじゃん」か「今からでも練習して努力を重ねればできるよ」かどちらかの答えしかなかったから。
「別に困ってるわけじゃないけど、そういうことじゃないんだよ」「その、「自分は努力に努力を重ねないと恋愛ができるようにならない」ということが耐え難く悲しいんだよ」
っていうのが、自分が説明が下手くそなせいもあってどうしても人に伝えられない。
昔、村上龍の小説(女子高生が援助交際してまで物が、いやお金が欲しいのか、って事に悩んでみる小説)の中で
「**ができるようになりたい、と思い続けることはとても難しい。それは「**ができない」ということをずっと思い続けるのと同じだから」
恋愛観は、近代化の流れで刷り込まれてきたという話をしましたが、
いくら話しても「ホモソーシャル=男性の恋愛観は同性愛回避」と思い込んでいて話が通じないので、参考URLをお知らせします。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1
恋愛=ロマンチックラブってのは、西欧社会で生まれた特殊な概念で、明治期の日本には「輸入」された概念なんだそーです。これは、近代産業社会において不可欠な「個の労働者」を「再生産」させるために作られた「核家族」というものを支えるイデオロギー装置だったことは、ほぼ解き明かされている
http://www.geek.sc/archives/34
恋(性的自由な状態で明確な恋愛観はない)→恋愛結婚の啓蒙を説明しています。以下、引用。
このサイトでは、日本の見合い婚→恋愛婚の流れまでは書かれていませんが、見合い婚→恋愛婚の流れは別途資料を御覧ください。
日本で「恋愛」という言葉が使われるようになったのは、実は明治時代になってからのことです。当時、『女性雑誌』という雑誌の主宰者をしていた巌本善治が、英語の「love」に「恋愛」という言葉を当てはめた最初の人物であると言われています。彼は、「恋愛」とは「清く正しく」「深く魂(ソウル)より愛する」ことであり、「恋」のような「不潔の連感に富める日本通俗の文字」とは異なって、非常に崇高で価値あるものであると説きました。彼の恋愛論をきっかけとして、「恋愛」という言葉や感情・行為が広く社会に浸透していくことになります。
男女の恋愛観は、近代化の流れで刷り込まれたことは理解いただけたでしょうか?恋愛結婚が啓蒙されて(一般市民も)恋愛するようになったのです。
「男性の恋愛観は、ホモソーシャルだから同性愛にならないために体目的」ではありません。勝手にアッー!にしないでください。
「恋愛って何?」「何のために恋愛するのか」をきちんと調べてください。
戦前には約7割を占めていた見合い結婚は、その後一貫して減少し、1965 ~69 年頃に恋愛結婚と比率が逆転した後、1995 年以降の結婚では1 割を下回っている。
マスコミがマダニから感染する病気を宣伝してくれたおかげで、母が見事なダニ恐怖症になった。
小さな黒いもの(ゴマとか砂粒とか)を見つけるたび、大声をあげて助けを呼ぶ。
嫁が俺の実家について
「ほんっとに何もないけど、どうやって生活してたの?子育てとかどうしてるの?」
と聞いてきたことがある。
コンビニがないとか言われても、なきゃないでなんとかなったし。
公園がないとか言われても、まあ、不便さすら感じたことがなかった。
公園はなかったけど、家の隣に横穴式古墳があったので、子ども(というか俺)を遊ばせることくらいはする気になれば出来たかもと思うんだが、そこで遊んだ記憶とか、そういう話は聞いたことない。
本読んだり、テレビゲームして育った。
本屋はないけど、百科事典とか文学全集とかあって、活字には困らなかった。
どっかからか貰ってきたり家のどこかから出てきたりもあったし。
沖縄の、さらに大きな島から離れた小島出身のやつの生活を聞いたら、そんなに田舎には住めないと思った。
テレビのチャンネルがNHK総合とNHK教育しかなかったとか、台風が来るたびに朝昼晩缶詰で食いつなぐとか、信号の意味を理解したのは中学だが原付は小学校から乗ってたとか、etc...
久々にAndroidアプリを作成したくなって、汚部屋の隅、ガジェットの産廃場から
Nexus 7を掘り出したのはいいけれど、半年放置したせいか電源キーが長押し、短押し、全く反応しない。
これは、と思いPC-USBケーブルに差してみたもののやはり反応しない。
Asus純正のACアダプターがなかったのでソニエリ時代のMW600用ACアダプターを
ここで、ようやく電池が深放電を起こして起動電圧に達していない可能性に気づいた。
Nexus 7にはLEDなんてしゃれたものはないので、Bootingの状態で充電してようが
分からないんだった。銀河はこの辺に関しては抜かりなかったっけ。
辛抱強く、じれったい心を殺して待つことしばし、画面が点灯したという感動は
見慣れたメイドさん演舞(charger.cの読み込み画像ファイルを入れ替えてます)、OFF充電を飛ばして
いきなり起動した衝撃に押し流された。そして速攻で落ちるw
Androidの標準フレームワークのBatteryServiceには確か電池残量を見て
というか何でOFF充電に入んないんだっ。
充電器の種別判定が甘いのかなとPC、ドコモFOMA用、ジャンクショップで買ったいわくつきと
試すも、全て起動→速攻で落ちるを繰り返している。
4月からの異動。
どうして世の中には、まず怒らないと行動できない人がいて、上司・幹部社員になるんだろう。そしてどうして大勢の前で怒ることに恥じ入らないんだろう。怒られるのも厭だけど、怒っているのを見るのも同じくらい嫌なんだと気づいてもらえないんだろう。その人も怒られてそこまで行ったから、同じようにしかできないのだろうか。不幸だ。不幸の連鎖だ。
自分は不安症である。物心ついた頃から、不安症である。理由は特にない、多分。器質的なものである。
で、昔からお金を使うのが怖い。お金が足りなくなるのが怖いのだ。今ここで使ったらいつかの時に足りなくなるかもしれない、とお金の概念を理解したくらいから思ってる。それでちょくちょく使えないことがある。
なお今は加齢のせいか、あるいは貯金がそれなりの額に達して調子こいてるせいか、時々ポンと使う。普段はケチだと思う。他人に対しては常識的な額より少し多めくらいに使うが、自分に対してはドケチである。人に迷惑をかけないドケチと呼んでいただきたい。いや呼ばなくていいです。
前置きが長くなったが、まだ前置きである。
姉と妹は金遣いが荒い。といっても、姉はしたたかなところがありきっちり自分の欲しいものは手に入れた上で、絶妙に足りなくなる(子供の頃は10円20円、おとなになったら100~2000円くらい)ので、大人からうまいこと援助を引き出す、という術に長けている。あれも器質的なものである。たぶん。
逆に妹はバカで、欲しいものから順にてにいれていき、どうしても欲しい物を見つけた時には全く金がない。で、大人に泣きつくがあしらわれる。そういうバカである。甘い大人がいると泣きつくたびにほしいものを買ってもらえるタイプである。
自分はひたすらなにも手に入れない。ケチだと怒られる始末である。
上記のような性質により、姉はこれまた絶妙に人に喜ばれて自分が損だと感じない土産をチョイスする。出して良いと判定しているらしい金額で、見栄えと量が最大化する組み合わせを選ぶのがうまいのである。
妹はバカであるため、出して良いと判定する金額が設定されていない。あとは見栄と自分が食いたいものorほしいものである。そしてその時に持っている金額しだいで土産が決まる。したがってしばしば買いすぎるか、少なすぎる(たぶん有り金がつきたと思われる)。最近は年食ったせいか身内に対しては見栄をはろうという気概が無くなったのか、質<量でやたら安いものをたくさん買ってくる。そしてまずい。
さて、そして自分だが、昔は土産を買うのが非常に苦手だった。頭のなかに最悪のケースが浮かぶのである。たとえば修学旅行の観光バスが何らかの事情で使えなくなるか置き去りにされ、自力で家に帰らねばならなくなるかもしれないというどう考えてもありえないケースを最悪ケースとして考えてしまう。そうすると自力で帰るために手元にまとまった金を残しておかねばならないので、土産にも自分に対してもほとんどなにも使えない。食事も即決一番安いものである。水もできるかぎり飲まない。どれだけケチかというと、筋金入りのケチである。というか不安神経症である。それも病的な。
で、まぁどうしても土産は買っていかねばならないという意識はあり、あまりにもしょぼいと母親が切れて家を叩き出される可能性がある(家を叩きだされたあとにどうやって生活するかと考えると息が苦しくなるタイプである)ため、保険をかけて少なくとも母親が怒らない最低ラインの土産を買ってかえる。要するにしょぼい。まぁでも母親がしょうがないわねぇという人だとたぶん未だに土産を買うという習慣がなかったので、母やありがたしであるが、しかししょぼいことにはかわりないのだった。で、帰ってくるとたいてい説教をされる。
とはいえ、この得体のしれない不安感は加齢とともに軽減している(図々しくなったともいう)ため、大学に入る頃にはだいたい普通くらいの土産をチョイスできるようになった。
で、ある時バイトでためた金で友達とディズニーランドへ行った。大学にいったら小遣いはなくなる方針の家のため、決して軍資金は多くなかったが、出来る範囲で飲み食いをし、大いに楽しんだ。
高校生の時もやはりバイトでためた金で友達とディズニーランドに行って、金がないなりに大いに楽しんだことはある。この時はマジで金がなかったので土産はしょぼかった。カネがないことは両親も承知していたので、母はぶつくさとやはり文句はいったが、小中学生の頃ほどは怒らなかった。まぁ自分で稼いだ金であそびに行ったわけだし、文句言われるのは筋違いだと思うが。
で、大学生になってバイトで稼げる金が格段に増えた(とはいえ社会人ほどではない)し、友だちときゃっきゃしながら土産を買って、あぁ土産買うのって楽しいんだなぁ!と思いながら家路についた。これははじめての経験だった。友人たちに比べればやはり金遣いは控えめであるが、帰れなくなるかもしれない、路頭に迷うかもなどと考えながら半泣きで買う土産とは次元を異にしていた。普通の人はこうやって買ってるんだと本当に目からうろこだった。そりゃ、土産屋が繁盛するわけである。ディズニーのゲートの外にも販売店があるわけだ。
で、実家の最寄りの駅につく。母は迎えに来てくれていた。どうだった? 楽しかった? と当たり障りのないことを聞かれて、テンションの上がっていた自分は楽しかったよ! おみやげもいっぱい買った! などと答えた。車中は和やかな雰囲気だった。母が眉間にしわを寄せずに私を迎え入れたのはあの時がはじめてだったかもしれないと思うくらい和やかだった。
が。
やはり母は母である。というかうちの家族はやっぱ世間一般からは少しずれていると思う。母は言った。妹が、もししょぼい土産しかかってこなかったら家の中入れないとか息巻いていた、と。良かったねぇ、家に入れてもらえて、と。
それから十年たった今、思い出してブチギレている。当時はむっとしただけで、あぁ、そう、で流したが、時が経つにつれ腹が立つ。
十年間色々とあったが、妹とはほぼ絶縁状態である。母はたしかに変わり者であり、私とも相性が悪かった(自分は非常に扱いにくい子どもであったので仕方ないが)のでよくきつく私にあたったが、妹はその母の尻馬に乗って私をよくバカにしていた。土産の話もその一つだ。そして母は妹を咎めなかった。
確かに自分はドケチである。だが、そういう性格なのはしかたがないのだ。不安症には長く苦しめられているし、鍵を閉め忘れたと言っては何度も家に戻りそれだけで疲れて出かけられなかったり、ストーブを消し忘れた気がするといって家に戻り約束の時間に遅れたり、新しい服がすぐにダメになってしまうのを恐れてなかなか買えなかったり、首になることを恐れてバイトのシフトに入りまくったり、単位落として留年すること恐れて(授業料が恐ろしい)試験前になると眠れなかったり、私だって苦しんでいる。なにも他人の土産をもらうことは期待するくせに、自分は出し惜しみするというようなケチではない。どちらかといえばもらった土産さえも非常時のための食料として取っておきかねない、そういう人間なのである。
その恐怖を超えて、ようやく楽しいと思えるようになった気持ちを踏みにじられたような気がした。バカが。なにも考えずに頭から使うだけのバカが。不安も感じたことがない上に家主でもないくせに、家の中に入れないだなんて偉そうに、バカが。
たぶん今、もし今の気持ちをもったまま十年前に帰ったら、きっとそう罵ってるだろう。
あの時買ったプーさんのお菓子の空き箱は、今もペン立てになっている。今はもう古い絵柄をなぞりながら、私はまた腹を立てている。だけどこの腹立ちを無神経な誰かに向けずにいられたらいいと思う。同じように不安で仕方ないだれかに、そうだよね、こわいね、でも本当は怖くないし、自分の足で立てるという確信が持てればきっと楽しくなるよ、大丈夫といって寄り添いたい。
このご時世にありがたいことに、正採用だ。
新人の私にも責任ある仕事をたくさん任せてもらえて、悩みながらもやりぬいた時にはちょっとした自信になった。
本気で怒ることもあったり、呆れてしまうような言動もあったりして、
向き合うのはいつも全力だったけれど、そういうところも全部ひっくるめてかわいかった。
ある日、授業を終え、職員室に戻ってコーヒーを淹れていると、突然涙が止まらなくなった。
ちょうど行事前で忙しいな、疲れているな、という自覚はあった。
悲しいわけでもないのになぜだか後から後から涙が出てきて止まらない。
こんなんじゃ生徒の前にも出られないので、時間休をもらって病院に行ってみた。
すると、しばらく休養が必要だと言われた。
なんだか納得行かなかったけれど、まーそんなもんか、疲れてたのかな、と思いつつじっくり休んだ。
2週間ほどして、気持ちも落ち着いた(と感じた)ので、病院に行った。
ちょうどその頃は大きな学校行事の直前だったので「どうしても仕事に戻りたいんです」と先生にお願いした。
先生は渋い顔をしていたが、強く頼み込んでなんとか復帰の許可をもらった。
その帰り道、喫茶店でコーヒーを飲みながら「ああ、今頃生徒たちはどうしているんだろう」と考えた瞬間、また涙が止まらなくなった。
繰り返すけれど、悲しいという気持ちはない。
これはおかしい。
そう思って私は、その足で再び病院へ引き返した。
それから暫くお休みをもらってしまったけれど、結果的に自ら退職を選んだ。
もう続けられないと思った。
派遣社員は楽だ。
周りの人達は忙しいだとか給料安いだとか、いろいろ言っているけれど、
教員の頃のように、週7日勤務なんてことはありえない。
今までの生活では、平日は10時間、土日は8時間勤務が普通だったので、
決められた時間に帰ることが出来ることが新鮮だ。
そして何より、家に帰って仕事のことを考えなくていい。
教員との一番の違いはここだと思う。
手取りは月6万減、ボーナスも入れると年収は100万近く減ったことになる。
責任の大きさと給料というのは比例するのだ、ということを、私はこの経験を通して初めて知った。
どちらが良いのかは、今はまだわからない。
元記事に対するレスではなくて、もっとなんか、広めの話なんだが
「就活がこんなに辛いものだなんて思わなかった」ってのはずいぶん変な言葉だな、違和感があるな、って最初に思ったわけだ。
でよくよく考えてみたんだが、生きるのってのは、全部それくらい辛いよ。
今までお父さんとお母さんに丁寧に守ってもらってたんだね。
ということで納得した。
「おさ」でも「osa」でもいいから入力するとずらっと攻殻が並んで出てくる。
それも、元の「おさ」の字とのAND検索ではなく攻殻機動隊が単体でだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130424151739
http://blogs.yahoo.co.jp/sckkx802/9199089.html
何が言いたいんだろう。
仕事の関係で都心まで1時間弱のところで一人暮らししてるんだけどね、俺自身はぜんぜん不満はないんだ。
ところで、同じようにこの町に一人暮らしをしていて、休みの度に都心に出たがる同僚がいる。
自分がそうあるように、彼女もまた職場近くに部屋を借りて、徒歩で通っているので、バスや電車の定期などは持ち合わせていない。
彼女がいうには、「この街には本屋とかもないし」とかなんとかで。
正しくは、本屋はある。
すべての商業施設がそこにある。
それ以外の土地には、誰も足を踏み入れたことのない空白地帯が広がっていると思っているようだ。
アマゾンで買えって言ってるんだけど、中身をパラパラと少し読んでから買いたいとかなんとかで。
5千円くらいする本ならとにかくとして、聞けば普通に1000円くらいで買える本ばかりだし、古本屋で発掘するような本でもない。
明らかに交通費のほうがかかっている。
駅を基本に動く彼女には、この町はすごくすごく不便なようだ。
ローソンを探し(ロッピーを使いたかったらしい)に、バスに乗り駅に行き、電車に乗って出掛けたり、不思議な行動をしてる。
仕事を終えてからバスに乗って駅前、食料品を一日二日分買いに行き、休日は都心に出て、たかだか1000円、2000円くらい散財して帰ってくる。
遊び人というわけじゃない。
むしろ、チャーシューメンを食べたいが、給料日前だから我慢我慢、とか考えるような地味な女だ。
効率悪すぎだから、肉なんて数キロドカッと買って、冷凍しとけ。
本なんてアマゾンでいいじゃん。
って言っても、なかなか聞き入れる様子はない。
それは、いいんだけどね。
俺が育った街は駅なんかなかったし、コンビニもなかった。
本を売っている場所といえば、スーパーの一角の雑誌コーナーくらいだった。
当然宅配ピザも届かない。
そんな街で、今みたいに通販でなんでも買える時代ではなかったし、さすがに、困ったことはある。
でもさ、この時代にここに住んでて、なんでそう不満があるんだろうな?
病院と、食料品店と、ドラッグストアが自宅から10km圏内にあって、ケータイ電話の電波が3キャリアともはいれば、十分だろ。
紀伊国屋もロフトもハンズもヤマダ電機も、生きる上でそんなに必要か?
毎日足を運ばなきゃいけないとこでもないだろうし。
田舎暮らし(都心まで1時間が田舎というべきかでいつも荒れるけど)のストレスなんて、今はそんなにないように思うんですが、みなさまどんなもんでしょう?