はてなキーワード: 法則とは
我々の世界を縛り付けるあらゆる法則を飛び越え自由になる為の手段が我々には与えられていない。
すべての行動、意思、そして思考でさえも素粒子の踊り、ビンゴカードのマス目に還元され物理法則のくびきを逃れることはできない。
我々の宇宙というひとつの巨大な展開図は畳んでしまえば何の変哲も許さないひとつの点に収束する。
水を生み出す魔法ひとつとってもそれが少なくとも質量保存の法則を無視していることは分かる。
我々の宇宙の始まりの点こそがこの宇宙で最初にして最後の魔法だったのだという主張は無限の説得力を持つ。
寝ぼけ眼をこすりながら階段を降り、半分固くなったパンに手を伸ばし、
TVの電源を入れ、芸能人の不幸に衝撃を受け、歯を磨いて顔を洗ってワイシャツに袖を通し……ドアを開けたとき、
その目の前を、デッキブラシにまたがるお嬢さんがスッと横切る。風が舞い上がる。ふわりとシャンプーの香りが鼻腔を吹き抜ける。
お嬢さんが振り返る。目が合う。
本当に文章力落ちてきてる。
増田に転がってるようなしょーもない文章ばかりよんでここ20年ぐらい過ごしてきたのがボディーブローみたいに効いてきた。
エモいだの神だの草生えるだのンゴだの言ってりゃコミュニケーション取れてしまう世界に長くのは不味かったらしい。
定期的にちゃんとした文章が書かれてる物を読んで、どういう文章がまともなのかを認識し直さないとあかんね。
ラノベやエッセイレベルでもいいから、一応は校閲通過済みの文章をもうちょい読むべきだった。
あの頃は週1冊は本読んでたから、どういう文章を書けば少しはマシに見えるかがすぐにイメージ出来てた。
頭の引き出し開ければ少し前にインプットしたまともな文章のパターンがいくつも出てきたからなあ。
最近は句読点省略してるような文章やビックリマーク多用してるような文章ばかりインプットしてるから引き出しの汚染が進みすぎて使い物にならない。
ガベージインガベージアウトの法則だね。
いやいや人間やっぱ本は読んどけですよ本当。
本読んだ所で一見何の役に立たないように見えても、最低限度まともな文章はどう書けばいいのかが無意識レベルで修正されるから。
まともな文章を一行読むたびに、微粒子レベルで自分の文章構成における微妙なズレが矯正されていくんだよ。
その重要さが改めて実感できた。
――この間、家に帰ったら、妻が見慣れないスカートをはいていた。新しいのかなぁと思って、「それ、いつ買ったの?」と聞いたら、妻がむっとしたように「安かったから」と答えた。うちではよくある展開で、質問への答えが永久に返ってこないし、会話も弾まない。あれは、どうしたことでしょうか。
あらまぁ、と、私は声を上げそうになった。重要なコミュニケーションの法則を、この方は知らないのか、とかわいそうになって。ふと見ると、会場中の男子が深くうなずいている。もしや、この世の男子の多くが、この失敗をしている……?
実は、妻や娘に、いきなり5W1H系(いつ、どこ、だれ、なに、なぜ、どのように)の質問をしてはいけないのです。ご法度と言ってもいい大事なルールだ。知らなかった?
5W1H系の質問を、私は対話クラッシャー(潰し)と呼んでいる。この質問を受けると、脳は、心の対話のために使う回路を遮断し、問題解決型の回路が強く発火する。いわば、戦闘モードに入るのである。
「それ、何?」「今日、何してた?」「学校、どう?」「宿題やったのか?」「なぜ、これをやらない?」「どこに行くんだ?」「何時に帰る?」……心当たりありませんか? まさか、家族との対話を、5W1H系の質問と、指図と説教だけで進めていないですよね?
いきなりの5W1Hは、脳を戦闘モードに入れる。妻や娘は、迎撃態勢に入ってしまうのである。つまり、「(それ、新しいよね)いつ買ったの?」と尋ねたつもりが、向こうには「(俺に黙って)(こんな不必要なもの)いつ買ったの?」に聞こえてしまうのだ。攻撃されたと感じてイラッとし、身を守るために、反撃に出ることもある。
そもそも、女性があえて「それ、いつ買ったの?」という場合は、ほぼ100%「(私に黙って)いつ買ったの?」である。女性は、相手を攻撃するために意図的に「いきなり5W1H」を使うからだ。「それ、どうしてそこに置いたの?」は「それ、邪魔なんだけど」の意味。スマホのアプリを覗き込んで「それ、何?」は、「(ほかにすることあるだろうに)何してるわけ?」である。
娘とコミュニケーションを取ろうとして、「それ、何?」なんて、言ってませんか? 携帯に夢中な娘に、あるいは、見慣れないものを身に着けている娘に。それって、「勉強もしないで、何してる?」「その変なものは、何なんだ?」と聞こえちゃっているのだ。
違法アップロードされた漫画を読んでしまったのはホッテントリに来たせいなので仕方ない。
はてなでやっていきたいならこの思考回路を当然のものとして身につけなければならない。
極めて歪な思考だろうがコレを受け入れられない人間がはてなを見てもストレスが貯まるだけだ。
・俺たちは悪くない
・悪いのは俺たちに叩かれる側だ
いつかの未来で確信犯として実名が開示されニュース番組で精神異常者としてタコ殴りにされる覚悟を決めろ。
ちょうど今ニュースになっているだろ?
暴走した思い込みとチャチな逆張りを混ぜ合わせた暴言を、それが相手にどう刺さるかも考えずに吐き出したことが事件として報道されているだろう?
そういう人種として生きていく覚悟がないなら今すぐアカウントを削除してROM専になれ。
ブクマカとして日々無数の案件を雰囲気で叩き続け、スターの獲得量で他を出し抜くために強い言葉を躊躇なく繰り返すとはそういうことだ。
高年齢向け漫画にありがちな、平凡的というかのっぺりしたルックスの中年以上の登場人物が現実的な世界観で過ごす漫画。
漫画の魅力ってそれが二次元とメタファーされるように、非現実的な美少女やイケメンを出せることだろう。
あるいはシグルイみたいなアクロバティックな構図で魅せるようなことではないか。
(スナッフ映画だと偽物っぽく見えるみたいなのも漫画だと漫画として見てるからリアルに感じるという効果もある。一般化すれば物理法則とかを非現実的に描いても漫画なら漫画だからで済ませられるという効果か。普通の登場人物が普通のことをする漫画はこの効果すら活かせていない)
高年齢向け漫画にはそのどちらもない。釣りバカ日誌みたいなのが典型。あれ作者自身師事してた漫画家に下手だから漫画家の道には進むなって言われてたようだしね。
やっぱヘタウマみたいな概念でゴタク並べてみても、漫「画」としてのうまさ下手さは結局登場人物の容姿を魅力的に描き込めているか難しい構図を正確に描けているかのどっちかに尽きるわ。
高年齢向け漫画はその両方から逃げている。俺は逃げていると表現したが、作者的にはプロットで魅せたいという心意気なのだろう。
でもプロットで魅せたいならドラマでいいじゃん。っていうのが俺の考え。なんか間違ってるか?
映画監督が夢だったような奴が経済的に無理と諦めて金がなくても映像作品と同様「物語」で楽しませられる漫画という媒体に逃げたようにしか見えんのよ。
だから俺は高年齢向け漫画は読まん。青年誌かTLまで。ドラマは見るけど。
dorawiiより
「あの作品は差別だらけで許せないが、この作品は差別がないから安心して読める」
「え? どこが?」
のパターン。
の法則なんだよな。
普段そんな本読まないけど折角のGWだからユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んだ。
この本を知ったのは中田敦彦のyoutubeチャンネルに投稿されてた書籍解説動画が切っ掛け。
(URL:https://m.youtube.com/watch?v=fud4-L2lnqQ)←一時間で見れるよ。面白いから見よう!
流石に書籍の内容は難しく、読了までに丸5日はかかったけれどその価値はある体験だった。結構難解かつグロテスクな内容なので余裕があるときにおすすめ。
読了後、内容の復習も兼ねて前に見た中田敦彦の書籍解説動画をもう一度視聴した。
俺はあれだけの濃密で膨大な内容を3本1時間の動画にまとめた中田の手腕に感心したし、YOUTUBE大学のファンなのでこのチャンネルやオンラインサロンを否定するつもりではないと予め記しておく。
また今回見たのが上の動画だっただけでこれからする主張は他のチャンネルの動画にも当てはまる。
その上で、解説動画を見ることは読書をすることとは別物、言ってしまえば別格の体験だと感じた。
以下その理由。
なお『サピエンス全史』読んでない人には伝わらないところが多々あると思うがご容赦を。読んでくれ。
中田敦彦の動画も話に出すから見てない人は下に行く前に見てくれると嬉しい。
それでは。
動画内で解説されていた本の内容をものすごく短くまとめると次のようになる。
20万年前に東アフリカで誕生したホモサピエンスは、認知革命で得た「想像上のものを実際にあるかのように扱う」能力を以て他人類を絶滅させ地球の覇権を握った。
その後、得た認知能力を基盤として農業革命と科学革命に至り飛躍的に文明を発展させていった。
しかし発達した文明がもたらした幸福と自由は人間以外の生物の膨大な犠牲の上に成り立っている。
また生化学や工学等の科学の進歩によって人間はいつか人間以上の存在を創り出し、地球の頂点の座を取って変わられるかもしれない。
とこのようになる。
以下は動画内では触れられていなかった内容の一部殴り書き。(再三になるが読んでない人はマジで意味分からないので注意)
・狩猟採集時代のサピエンスが世界に進出することで他生態系に与えた破滅的影響
・食糧の増加とそれに伴って増える食い扶持を満たす農業の無限地獄
・脳の記憶能力を凌駕する膨大な生産物を管理するための記憶媒体、文字。
・認知革命の虚構によって成り立った団結と秩序、そして差別とヒエラルキー。
・”貨幣”という概念のヤバさ(普遍的な転換性と信頼性及び浸透力)
・帝国の拡張と科学の発展によって人類史上初めて築かれた将来への信頼
・国家と市場経済が個人を支配する過程で奪い、与えたもの。時間、地域コミュニティ、人権、職業、想像上のコミュニティ、平和。
・神になった動物が問われる「我々は何を望みたいのか?」
軽く書き連ねるだけでもこれだけの内容が動画の中では触れられていなかった。
繰り返しになるが認知革命を軸としてサピエンス全史をまとめきったこの動画のセンスには脱帽するし、この動画を見ることで俺の中で新しい発見も生まれた。
だがしかし、これは認知革命一本だけでまとめられる程度の内容ではなく、認知革命も一つとして含めた様々な要素が複雑に積み重なった壮大な本なのだ。
”帝国”についての事前の理解がなければ、その後に続く科学×帝国×資本主義の最強コンボの強さが分からない。
狩猟採集時代のサピエンスの生態系破壊を知らなければ、環境破壊は産業革命以後だけの近代の現象と勘違いしてしまう。
中田敦彦はサピエンス全史が読まれない理由として「話が長く、脱線するから」と言っていたがその脱線は後の章への伏線であり、その長さは意味のある長さなのだ。(中田自身はそのことを百も承知だろう、とは思うけど)
膨大な内容を動画に納めようとすると、どうしても内容に影響のある圧縮をしなければならない
だからその動画を見ることは読書にはなりえない。これが理由のひとつ。
どういうことか、俺の読書を例に取る。
まず俺は本を読んでいた5日間の中で50回以上google検索をした。
話についていく上でどうしても必要だった知識もあれば、本筋に関係ないけど興味本位で調べた単語もある。
前者は誰でも分かる平易な言葉に言い換えられていた。後者についてはそもそも出てこなかった。
ヒトラーやキリスト教の話は出てきても古代シュメール人や16世紀オランダの話が動画内になかったのは我々視聴者がそれを聞いてもピンと来ないからだろう。
シュメール人やオランダのことを知らなくても本の粗筋を頭に入れることはできる。
そういった”無駄”を削ぎ落とすことはは”わかりやすさ”への親切な最適化なのだ。
だがそれは同時に新たな知識との出会いの鍵を失うことを忘れてはならない。
だから解説動画を視聴者することは読書したことにはならない。理由のふたつめ。
俺は読書の途中で考えごとに耽ること度々があった。
食糧が増えることで人口が増加したのであれば(マルサスの人口法則というらしい)、食糧含め最低限度の生活が保証されている筈の先進国の少子化は何が原因なのか。教育コストや生活レベルの上昇によって現代人の考える”食い扶持”は昔のそれより遥かに大きくなったのか?
未来は好転するという思い込みが経済の好循環を創るのであれば悲観論が多数を占める日本の今後は?
↑これは悲観論を根拠に悲観論を唱えるマトリョーシカになって面白かった。
↑これを考えて結構自分なりに納得のいく結論が出たのでここに投稿している。
等々、本に関係のあることないこと色々なところに思考が飛んだ。
読破に5日もかかったのは難しかったのもあるが、この考える作業に時間を取られたのも大きい。
先ほど挙げた上2つはググったら同じことを言ってる人がいたし、多分これも探せば既出なのだろう。
というか当たり前のことをアホがドヤ顔でエウレカ!と叫んでいるだけなのかもしれない。恥ずかしくなってきた。
でも思索自体が楽しく脳味噌を鍛えられる体験だったし、その過程で更に洗練された他人の思考に出会うことができた。
何故なら動画は自分の思考が情報を受信することで一杯になってしまうからだ。
本を圧縮した密な情報を、語り部という他人のペースで受け取らなければいけないので脳の処理がそれ以外に使えなくなる。
文字という情報媒体は自分の読む速度に合わせて情報が入るので動画よりも、脳のメモリに余裕ができるのだ。
youtubeにも一時停止機能はあるが、手間で面倒なので考え事をするためにわざわざ動画を止める人は殆どいないのではないだろうか。
第一、書籍よりも情報が少ないのでそれを土台として思考するにも限られてしまう。
話は脱線するが中田のこの動画は「生物学」+「歴史」+「科学」をまとめた本書の外から見た独自性を動画の最初で触れたところが凄いと感じた。これのお陰で内容を理解する下地ができて、話がわかりやすくなっている。
持論になるが解説動画の価値、求められている「わかりやすさ」とは本の内容をいかに単純化するか、ではない。
その本に書かれていない情報を本の中身に追加し、不足を補うことで視聴者の理解の手助けをすることにあると思う。
またyoutubeの動画が視聴者と本の架け橋となるのは素晴らしいことだ。俺自身サピエンス全史を知ったのはこの動画が切っ掛けだ。
だから中田敦彦の動画は最高だ。それは揺るがない。あっちゃんありがとう。
ただコメント欄に動画を見ただけで終わってしまう人がいて、それが俺には物凄く勿体ないことだと感じた。
今回改めて気づいたのは読書という体験の複雑さと楽しさだ。作業ではなく体験として読書にはそこへ時間を注ぐだけの価値がある。
時間があったので、
レシィピ通りの火加減の時間を手加減なしでプライパンで調理と思ったんだけど、
いまいちだったわ。
要研究というか、
これは完成させたい簡単レシィピよね。
フライパンに水張ってそこにホイルで包んでやつを入れて蒸し焼きにする感じかしら。
結構思い切って火加減手加減なしで中火の強火でいいのかも知れないわ。
焦げ焦げになるかと思っていたけど、
案外ふんわりしっとり仕上がっているのは仕上がっていたので、
要研究よね。
こればかりだと味気ないし特徴的な味に慣れてしまうと、
慣れてくるとお総菜も美味しいね!って感じ無くなっちゃうじゃない。
だからたまには普通に自炊的な自炊レシィピの簡単あんまり汚れ物も出ない簡単ホイル包み焼きを堤さんに教えてもらったのよ。
でもレシィピ斜め読みで火加減のところしかよく見てなくて適当に作っちゃったのが一番の敗因かも知れないわ。
今度はちゃんとレシィピみて、
やってみるわ。
最初はさ
ホイル焼きこそ簡単に私レヴェルならできちゃう!って思っていたんだけど、
昼間日頃見れない夕方頃のEテレの子ども番組をながらで流していると
あと久しぶりに朝ドラ再開『ちむどんどん』は欠かさず見ているんだけど
録り貯めていたあれよあれ、
前回どこからだったっけ?ってもうすっかり忘れちゃってしまっていたから、
もう何となくモネが地元に帰ってラジオ局やって結婚したりするってのはもう全部ネタバレで見聞きしてしまったけど、
避けていたのよ避けていたんだけど、
挙げ句の果てには俳句番組の人がネタバレ大いにしゃべくりまくってしまっていて、
ネタバレになぞって同ストーリーが展開していくかなぞるだけになっちゃうのよね。
もちろんなぞるからって倍速では見ない派なので
情報バラエティーとか系なら倍速で見ちゃいがちだけど料理番組とかもね、
あれはあれで倍速というか一瞬で調理済みのものが出てくるじゃない!
魔法のように!
倍速どころの速度ではないから端からもう私は倍速で見ちゃうけどね。
倍速でその間を楽しめなければ倍速じゃない!って思うのよ。
倍速でもさ
倍速に気付かないぐらいの倍速1.1倍ぐらいの速度だったら、
政治家みたいに倍増とは言ったが2倍とは言っていない!って謎の屁理屈を楽しめるほど、
気付かないぐらいの速度の変化の倍速1.1倍ならまあ許せる範囲内の倍速だと思うの、
私も倍速と言いながら2倍とは言っていないわよ。
私のレコーダーだと実際には1.3倍なのよ!
スーパーカップのアイスじゃない方のラーメンの方の1.5倍より劣ってしまうわ。
倍速で見ちゃっても文字通り2倍の速さで丁度いいのかもね。
私のレコーダーも倍速だと思っていたのが実は実際は1.3倍だったのに今気付いちゃったぐらいだし、
もしかしたら世の中は倍速って言いたいだけなのかも知れない風潮で
例のカレー味のなんとかかなんとかのカレー味かっていう風になっちゃうじゃない。
私もそうだ!
って思って検索してみても藤井風味風の藤井風カレーのレシィピが1件もグーグルサジェストさえもされない検索結果がゼロ件だったのよ!
グーグルで検索結果ゼロ件のキーワード探しゲームをしている人には
もってこい待ったなし!よね!
藤井風味風の藤井風ホワイトシチューとかも美味しそうじゃない?
そもそもとして、
まだ世の中に浸透していないのかも知れないわね。
一致する検索結果はありません!って
これを機に機まくって、
この増田が初になりますように!って夜空の星空の流れ星に願うばかりよ!
うふふ。
どうやら、
でもそれいつものタマゴサンドを発注してしまった後に気が付いたのよ。
バーガーキングの絵をAIの人工知能に描かせたらもの凄い文字通りのバーガーキングが描かれて笑っちゃうけど、
タマゴサンドキングの絵を描いてね!ってAIの人工知能にいったらどんなのを描いてくれるのかしらん?って
鉄火巻きもゲームの最中で手軽に食べられるように!って開発された経緯があるから
片手で食べられる
あのバーガーキングの絵を見てそう思ったわ。
額縁に入れて飾りたいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
物書きの人とかどうしてるのかしら?物理キーボードに勝るもの敵なし!って思ってるんだけど、
敵は物理キーボードでぶん殴る方が手っ取り早いのよね。
だってさキーボードだったら見なくても入力してて間違ったら手でわかるけど、
フリック入力は入力してても画面見るまでは入力ミスに気付かないのよね。
それとももしかして私のフリック入力の最適解を知らないだけなのかしら?
だからなんか、
この環境でしか書けない!って縛りになっちゃうとデスクでしか書けなくなっちゃうから困ったものよね。
それに慣れすぎてしまって他のキーボードではいまいち調子が出ないとか、
しかもよ、
私の愛用しているキーボードはもう売って無くて廃番なのよ。
超ショックじゃない?
売ってるは売ってるんだけど値段が3倍もするのよ。
きっとそのメーカーもこのキーボードがいいって売れてることに気付いちゃって
少しでも高く売ろう!って商魂たくましいのは重いコンダラだけにして欲しいわ!
世の中何かに気付いちゃった人が
儲かる仕組みになってるのよね。
同じキーボードが255と持てる最大の数を買い集めて、
もうこれで一生一緒にいてくれや!ってあの三木道三さんの歌みたいに
このキーボードでずっと打ち続けられるっ!って思うのよ。
たぶん1年に1つキーボードを使い潰していても一生使い切れない量のキーボードで
ライブステージでやたらいっぱい並んでいるキーボードを使いこなす小室哲哉さんを凌ぐほどのキーボードを並べられる自身はあるんだから!
でね、
もちろん、
そのキーボードがたくさん並んでいて
いろいろと使いこなしているんだけど、
これが実際に打ち込みなのか即興で演奏しているのかよく分からないぐらい巧みな演奏のパフォーマンスで
でさもちろんグランドピアノも弾くんだけど、
いまのグランドピアノって超アナログだけのテクノロジーだと思ってたけど
壊れかけのレイディオとは違うぐらいなんか
グランドピアノにもLEDの小さな明かりが灯っていてなんだか、
それはともかく、
ビルボードは会員入ってると、
ワンドリンクサービスになるからすぐに元が取れるから音楽シーンが好きな人はオススメかも知れないわ。
でね、
ビルボード会員の方でチケット取った方がいい席取れる必勝法とか、
どっちで撮っても一緒じゃん!って思ってた時期が私にもあったけど、
あれは
ファンクラブで取るより
ビルボードでさらに先に先行予約もしてしまうほど優遇されていて草だわ。
もう笑いすぎて大草原の小さな家よ。
あ、言っとくけど小室哲哉さんのファンクラブに入っているって言うわけではないTKだから。
つまり厨房からお料理運んでくる人たちが出てくる頃から大抵は演者は登場するから、
その横を取るのが楽しかったりするわよ。
まあ何の話しだったっけ?
今回は一生使っても使い切れないキーボードじゃなくて
外出先でのキーボードライフをいかにみっちみちの満タンに過ごすか!ってことよね。
だから快適に打てて静寂せいもあってしかも入力しててカタカタ五月蝿くないやつが理想だわー。
そんなキーボードないって?
あーあ
外出時のキーボードの最適解は出ないわ。
カフェーの窓際でラップトップパソコンを開いている人見るけど、
何かに取り憑かれたようにキーボードを打ち込んでいる人を今まで見たことないんだけど
そのぐらい
あれみんな何してるのかしら?って思うし、
窓際で何かが捗るのかしら?って思うし
私はせいぜいジーフォーのかつてのぱわーぴーしーのマックを今じゃ電源が付くだけ!って事しかできないインテリア以下の骨董品になってしまっているけど、
もう一周して、
あの窓際でアップルのラップトップパソコンを開いている人は逆にダサいわ!って風潮にならないと
あの窓際は一生空席にならないわよね。
窓際で今一番オシャレなラップトップパソコンはクロームブック待ったなし!って私は思うんだけど、
あの爆安さ加減なのに世の中に広がっていないのはきっと
スプレッドシートで良いじゃん!ってみんな気付いてないのよ。
だからあの窓際で猛烈にキーボードに向き合って打ち込んでいる人はいまだかつて見たことがないってことなのかしら?
あと窓際もしかりだけど、
データクラウドにしちゃえばスマホでも見られて便利じゃないってマリーアントワネットさんみたいな事言いがちだけど、
いやーうちの会社のセキュウリテーが厳しくてネットにデータ上げられないんですよ!って言うより
端末持ちだしている方が迂闊に荷物棚に置き忘れるリスク200パーセントよね。
忘れ物センターに届いていたモノを持って帰るときにまた電車の中で忘れておいてしまっているという、
往復で忘れてしまうってことで、
200パーセントなのよ。
サンシャイン池田さんが山手線にサンシャインブレードを電車内に忘れて無事にと忘れ物センターに届いていたアットホーミングな話しとは訳が違うのよ。
だから
ネットに上げたらダメなデータを端末ごと持ち出してしまうと言う
謎が謎を呼ぶ現象よね。
光る鍵盤のお子さま向けのキーボードを買ってみたけど
キラキラ星の左手で断念してしまったぐらい何も成し遂げることが出来なかったその光るキーボードは姪っ子の元に嫁がれて
明日嫁ぐ私に苦労はしても笑い話に時が変えるよって
やかましーわーい!って
思わず山口百恵さんばりのコスモスでツッコんでしまいそうだけど、
その後嫁いだ光る鍵盤のキーボードは元気なのかな?って思うわ。
カーネギーホールに行きたくて道に迷って見知らぬ人にカーネギーホールの行き方を尋ねたら
サントリーホールを探しているときにスマホをかざしてマップを開いていたら、
あの周辺のアメリカ大使館はピリピリしているのか
お巡りさんにここら辺でスマホを大地から抜いたソードのように掲げないでください!って怒られた思い出を同時に思い出すぐらい、
鍵盤のキーボードも一長一短じゃなくて
うふふ。
なんだか声を聞いていると地元じゃない人もちらほら寄られるみたいで、
聞き耳を立てていると
なんだか面白いわよ。
別に聞き入ってる訳じゃないけど、
耳に入ってくるのよね。
休日の朝って感じで、
ここに寄れるときは寄ってタマゴサンドを頂くのが休日の楽しみだわ。
調子狂ってくんので、
ちゃんと朝起き今日もレモン果汁炭酸ウォーラーがうまうまだわ。
朝起きて、
なんだかここのところ肌寒いから夜中に目覚めちゃいがちだったけど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ラジオを聴きながら、というか例えば芸人のエピソードトークとかの内容をある程度理解しながらプログラミングってできるもんかな?
例えばテトリスしながらラジオの内容理解するのは多分余裕だし、筋トレしながら、運動しながらもまあ大丈夫。
でも例えば目で小説を読みながら別軸で別の小説を音声で聞く、は多分大多数の人間には無理な気がする。
文章書きながら~もちょっと自分には難しい、複雑な構成を書いていて頭のリソースが書く方に使われている場合は音声で言っている内容の理解度はめちゃくちゃ下がると思う。
例えばプログラミングと言っても「リファクタリングとして○○クラスのメソッドをXXクラスに移して決まった法則に従ってメソッド名を変更する作業を100回繰り返す」というようなあんまり知的労働を伴わないような単純作業ならまあ多分できる。
100回くらい同じ仕組みを作ったことあるシステムの構築、とかでもできなくはない気がする。
ただゼロイチでアーキテクチャを構築するとか、調査を含めた不具合解消とか、英語のドキュメント読みながらの検証作業とか、これはもう小説読みながら別の小説を聴く、に近いものを求められる気がする。
ただ俺の脳のスペックだと難しい気がする、ってだけで他の人はどうなのかなってのもよくわからん。
在宅ワークが増えて「音声で何かを聞きながら仕事をする」ことって昔に比べると増えたと思うんだけど、「プログラマーがラジオを聞きながら仕事をする」ってできるものかね?
久しぶりに松任谷由実の曲を聴きながらこれを書いている。明け方の夢のなかに松任谷由実が出てきたからだ。
ゆうべ私は、エイジングとアンチエイジングについて書籍や文献を整理していた。だから寝しなまで、健全に年を取ってゆくとは何か、思春期が終わって中年期が始まって、それから老年期に至るとはどういった変化なのか、自分自身のことや家族のことや友人のことを考え続けていた。そうしていたら、今朝、悲しい夢を見て目が醒めたのだった。
夢は、どんなに意味不明な内容でも、夢を見た本人には意味が直観されることがよくある。今朝の夢もそうで、とりとめない日常生活の連続からなるシーンの最後に、私は無意識からメッセージを叩きつけられた。
古いスケジュール帳と、今は亡きはてなダイアリーの画面が夢のなかに現れて、そのとき、松任谷由実『リフレインが叫んでいる』が頭のなかに響いた。その瞬間、私は今という時間が過去になりつつあることを悲しく思っていること、今を手放したくないけれども時間が押し流していってしまうことを直観してブルーな気持ちになった。
今が終わりに向かっていること、時間が流れていくことを、私は怖いと思う。
たぶん私は幸福な中年だ。私が、今の私でいられることをうれしく思っている。仕事はそれなり充実し、長く連れ添った嫁さんとの仲も良いほうだと思う。日本人の夫婦はセックスレスになっていくというけれども自分たちはそんなことはない。回数は減ったけれども、若い頃よりお互いのことをよく知っているから幸せな時間を過ごせていると思う。そして嫁さんはまだまだ綺麗だとも思う。
けれども、そんな夫婦の今さえ永遠のものではない。時間が押し流していく。
10代や20代の頃は無尽蔵に思えた性欲と精液が30代にはそうとも言いきれなくなり、40代になって更年期の足音が聞こえてきた。インポテンツには遠いけれども、自分の性欲や精液を慈しむように、丁寧に取り扱わなければならなくなった。性欲や精液をどこに差し向けるのか、宛先が嫁さんなのか、アドマイヤベガなのか、かわいすぎる涼宮ハルヒなのか、ともかく、貴重な資源として分配しなければならないものになってしまった。性欲はもう、川から汲んでこれる水のようなものじゃない。いつか枯れる化石燃料のような資源だ。昔どこかの本に書いてあった「精液をケチる中年男性」というフレーズの意味が今は実感を伴ってわかる。若かった頃は、そんなバカなと思っていたものだが。
そうでなくても、私も、家族も友人や知人も諸共に年を取ってゆく。体力や思考力にも限界がやって来る。時代だって変わってゆく。それが定めだ。時間に逆らうのは無駄だ。すべてを変えてゆき、すべてを押し流していく時間法則には絶対性が伴う。私たちは変化する存在で、変化する存在だから、変わっていかなければならない:真実としてのそれを、私は学習と経験と文献をとおして理解はしている。
けれどもその理解に対して、私の無意識はそんなのは悲しいと叫び声をあげた。夢に松任谷由実を登場させる、というかたちで。ああ、本当は変わりたくないし、今がいとおしくてたまらないんだなとわかった。これまでの人生でずっと変わり続けてきたし、変わり続けることを良しとしてきたけれども、変わり続けることに不安や辛さを覚えながら、少し無理をして人生のモードを切り替えてきていたのかもしれない。それでうまくいっているつもりだった。客観的にはうまくいっているほうだろう。これからだってそうするしかないことを知っているつもりだった。知っている。それでも無意識は、本能は、年を取って変わっていくことを悲しんでいる。
そういう気持ちで松任谷由実を久しぶりに聴いているなかで、今という季節が失われても、その思い出は甘く残るという予感が得られたのは小さな救いだった。今のこの幸福を、二十年後の私が松任谷由実を聴くような気持ちで思い出せるとしたら、それ以上を望むのは欲深に違いない。だけどああ、今朝は、若さが失われて老いにとってかわる過程に痛みをおぼえる。10年や20年なんてあっという間だ。その頃の私は、もう今の私ではなくなっているだろう。
まだしばらく、このままでいられたらいいのにな。いられないのだけど。
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。
男性は男女平等であればそれで構わないので。わけのわからない謎理論で、女を優遇することが無ければ、そこにあるのはただの競争社会なので、競争社会が駄目ならばまた違ったレイヤーの主張になる。
簡単に言えば、女は「男女雇用機会均等法」による調整済みの状況を男女平等と捉えているが、男は本来の男女平等は、そういう調整の無い、自然の需給法則が働く状況を指している。この認識の差が、どちらがゲタを履かされているのか、の認識差になっている。
何の規制も無い男女平等な社会ならば、男が圧倒的に有利であるので、男はそれを自然状態、デフォルト状態と捉えている。女の不利は「能力の欠落」だ。女はそれを「男がゲタをはかされている」と言うが、それは実際にはかなり無理がある。法制度的な優遇があるわけではないし、慣習的な優遇もそれは男性の優位性の結果であって、原因ではないからだ。ありとあらゆる歴史、国において結果的には男性優位社会に帰結していったと言うのは、それが恣意的な作用によるものではない根拠の一例だろう。
例えば社会が女性医師ではなく男性医師が欲しいと言う状況に関しても、医師国家試験に、体力(耐久力)、持続可能性を能力としてカウントする要素があればおのずと収斂するはずだが、そうならないのは、座学でのお勉強だけを「」付きの能力とすると言う、女性側の操作が入るためである。それだけではなく、女性医科大学などの制度的な優遇措置もあり、このゆがめられた状況下で、女性がゲタを履かされていないと言う見方はかなり難しい。
要はデマンドサイドの理屈に沿って、市場原理に従って処理すれば、能力の結果によっておのずと女性は排除されてゆくので、男性にとって男性優遇措置は必要ない。「優遇措置全般」を排除すればいいのであって、スタートラインで男性と女性が同等であると見なすこと自体、それは女性の傲慢であり、いかに女性が優遇されているのかを無視する鈍感である。