はてなキーワード: 弓道とは
今日は金曜日なのでいつもだったら週末に向けて気が抜けてダラッとしていたが、エイヤッ(IT業界語)と公園に行ってきた。
そもそものきっかけは、はてなブックマークでラジオ体操の話題を見ていたのが記憶に残っていたという点は大きいと思う。
ただ、常駐先で一挙手一投足を監視されながら定時まで嵐のように仕事をするとヘトヘトだし、緊張状態が続くので体が
凝り始めたというのが大きな理由だった。「追い込まれてもヘラヘラ笑っているIT超人」みたいな人がたまにいるが、
なるほどああいうタイプはしぶといだろうなとようやく理解出来た所もある。
本当ならば、夏休みの小学生のように朝日を浴びながら体操すれば心にも体にも良いんだろうが、現状でも基本定時帰り
とは言え6時起きで通勤しているので、現実的には厳しい。では帰ってきてから、リラックスモードに入る前にパパッと
着替えて3:16の体操をこなしてくればいい。
音源は落ちていたが、自分の逃げ道を防ぐためにiTunesStoreで購入。200円。
一日目。体操を終えてみると「なぜこんな事に?」という疑問点が出てきた。ウルトラマンである。
二日目。ある程度一日目の疑問が解けた。
三日目。かなり腑に落ちた。
アニメ刀語の主人公の姉であり、「天才」「化物」の鑢七美(やすりななみ)の特技は「見稽古」である。
大抵の技は一回見れば覚える。二回見れば盤石。
もちろん筆者は単なる凡人であってフィクションの天才とは比較にならないが、経験とは馬鹿にならない物で宮本武蔵の
五輪の書における「観の目」的な物が自動的に整理される。パターンの見切りが早くなる。おそらくゲームをあまり
やらなくなったのもその辺が原因だと思う。
まずかなりの人はラジオ体操を学生時代以来やっていないと思うし学生時代に苦になった人は余りいないと思う。
筆者も運動神経は鈍い方だったが、特に苦にはならなかった。ただ、中年の身では余裕だと思っていたが、結構しんどかった。
思い出したのは、小学校時代の運動会で保護者のやっていたラジオ体操だったのだが、それがなんだか子供心に無様に見えた。
早送り気味のチャップリンの映画のように、挙動がせっかちで芝居がかっているように見えたし、テンポも遅れている。
それから昔テレビで見た芸人のラジオ体操。余裕綽々で始めるが体操が終わってみると、半ヤケ気味に満員電車の中で
揉まれたように髪は乱れメガネがズレてシャツがズボンから出ている。オーバーアクションでもなかなか面白かったのを
記憶している。
おそらく原因は二点あって、一つは「年を取ると感情の抑制が甘くなる」という点があると思う。
動作に感情を込めると間違いなく「力む」のだが、その力みがぎこちなさや無駄な動きに繋がっている。
だから感情が豊富なオタクの言動は芝居がかっているし、機械的動きが必要な楽器演奏で情感を作り出す音楽を
やっている人は動作が軽やかで年を感じさせない。多分ラジオ体操もうまくこなすと思う。ただ、オタクも
例えば弓道のような精度を高めてくスポーツにハマれば感情を込めない動きがマスター出来るだろうし、
作品を作る方の漫画家も反復作業が膨大に発生するので技は磨かれるだろうが。
それで連想したのは「料理は愛情」と言うけれど愛情は感情だから品質にムラがあるのでは?
プロとしてそれはどうなのかな?古来からの言葉なのかな?と軽くググると、起源は
『1980年代にオールナイトフジの「結城先生の真夜中のお料理教室」や料理番組「夕食ばんざい」などに
出演していた料理研究家の結城貢のキャッチフレーズ』とある。最近の言葉だった。
どうも、どこかで「愛情を込めて歌う」という文章もあった気がするが、「心を込めて歌う」という表現の方が一般的だし、
理にかなっているような感じがある。感情を込めて歌うとロックのように力んでがなり立てるような歌い方になるか
まともに歌えなくなるだろうし、心を込めるというのは丁寧にやるということでクラシックのオペラ的な歌い方とまでは
行かないまでももっと純粋な歌唱力の問題になるのでは、とここまで考えて、筆者自身「心を込める」という言葉が
どういうことかということを厳密に理解していないなと思い、またもやググってみたが、「いかに相手に真剣に向かい合うか」
それから整理してみると、どうも感情量を増やすような構造に嵌められている気もするが、穿ち過ぎかも知れない。
閑話休題。二点目。
3日目で詳細まで分かったがラジオ体操は「前半は緩いが、ドンドンしんどくなる」ということだった。
一番始めの「腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動」。これは緩い。ここで大抵のおっさんは油断してしまう。
粛々とこなして、「前下に曲げます!柔らかく弾みをつけて3回そして、うしろそりぃぃ」。ここで「あれ?俺テンポ少し
遅れてね?」。
クライマックスはその後の「身体を回しましょ~(`・ω・´)!!」からのコンボ。上半身をグルグル回す。クラクラする。
漫画のキャラクターを笑えなくなった。三半規管が弱まっているな……。動作も遅れ気味だ。
続けて「足を戻して両足飛びぃ~」。クラクラしている中、暗い空間をジャンプする。なるほど。これが目眩か。
SFのセンスオブワンダーが目指している領域。ゲームデザインに興味のある人ならおなじみのカイヨワの
「遊びと人間」における「眩暈(イリンクス)」。4分類(他は「競争(アゴン)」「偶然(アレア)」
前に読んだことのあるノンフィクション作家。
以下、本人のtwitterプロフィールからひとつずつ突っ込んでいく。
作家。
死にかけ体験8回。
→前は3回くらいだったから数年で5回も死にかけたのか。
趣味兼仕事は旅と冒険。弓道、ジョグ、ジェットスキー、スノボ。
→前から旅好きな人だったようなきもするが、スノボしてたのは初耳。
懸垂毎日100回等。
→見るからにひ弱そうなんですがね…。
カジノと株はほぼ常勝。
→「ほぼ常勝」って日本語生まれてはじめてみた。たまに負けるってこと?
世界紀行120カ国余。
→紀行って旅行中の体験・見聞・感想などを書きつづった文章じゃないの?出版されてるんだろうか。
単著は約100点余。
→アマゾンで調べても100も出てこない。国会図書館でも100も出てこない。
→電子書籍は題名変えたり、章ごとにわけるなどして冊数稼ぎ。そしてどれも売れてない模様。
不定期有料マガジン1万7500部。
→Twitterのフォロワー数が17,200人くらい。メルマガ購読者数のほうが多いという謎。
著書累計725万部。
→調べようはないけど多分嘘。
→調べても全く出てこない。
という感じ。なんだか残念な人になっていた。
この他にも、ネット界隈を見てみると、
艦これアニメがつまらなかったのは、弓道警察が一役買った可能性はないだろうか?
去年11月に加賀さんの弓を構えるポーズが全然弓道やってないと話題になったやつ。
伊達や酔狂であんなポーズになるわけないんだから、あのポーズで弓を射る必然性のあるシーンがあったはずで、
例えば足元に着弾した砲弾を避けながら反撃する、といったダイナミックなシーンが予定されていたのではないか?
空母がそういったダイナミックな攻撃をするシーンは一切なかった。
全部、中途半端に本物の弓道を意識した、地味なポーズで弓を射っていた。
話題になったのが去年の11月なのだから、修正する時間はなんとか捻出できただろう。
あの騒ぎを敏感に察知した艦これ製作陣が、本来あったはずの、ダイナミックで爽快な発艦シーンを消した可能性がある。
もちろん、修正にかかった時間は、他のシーンのクオリティを下げることで取り返すしかない。
最終話に艦娘が戦闘中なのに棒立ち会議しているのは、このためだったのではないか?
どうにも、今回の艦これアニメの製作陣は、視聴者の反感を買うことを異常なまでに恐れているように見えた。
それも変な所で。
例えば提督を出すと、「男を出すな!」って荒れると思って、不自然なまでに提督の姿が出てこないのがそれだ。
如月轟沈の大バッシングを受けて、史実通りなら祥鳳は轟沈するはずなのに、大破炎上で済まされた。
海中に沈みゆくシーンを無理やり改変した物だと思えばしっくりくる)
製作陣は異常なまでに、「これはダメだ」というメッセージを受け取ったのではないか?
艦これアニメ弓道問題の本質は、やる気のないアニメートに尽きる
http://anond.hatelabo.jp/20150113233602
を書いた増田です。
巷では第3話の内容が取りざたされるなか、今さら第2話に言及するのかよ、ってツッコミはごもっともですが、ニコニコ配信で視聴してる人へのネタバレ回避のためのこのタイミングの投稿ということでご理解いただきたく。
さて本題。
艦これアニメ第2話における如月のセリフによって「足柄が合コンに行って失敗した」ことがほのめかされており、そのことに反発が集まっているという経緯がある。ツイッター上での感想などはtoggetterにもまとめられていたりして、ちょっとした騒ぎに。
よくある演出じゃないかと擁護する向きもあるけど、そもそも足柄というキャラに男漁り的な属性を付加しているのは二次創作でしばしば見受けられる描写であり、しかし今まで公式の媒体でそのような扱いを受けたことはない、という事情がある。つまり問題のセリフは、単によくあるテンプレ描写という位置づけではなく、公式にはもともと無かった属性が二次創作で盛んに用いられているからという理由でアニメに輸入されたという構図に見えてしまう。これは原作ゲームの足柄のファン(かつ、二次創作での描写に不満を持っている層)にとってはキャラ改変・改悪にも映るわけで、荒れるのもむべなるかな。過去にも赤城の大食い属性が二次創作から原作ゲームに逆輸入されたという前例もあって(そのときも一部の赤城ファンを中心に荒れていた)、二次創作ネタが公式に採用されることを嫌う提督が少なからずいるということがあらかじめわかっていたのに。
本筋に関係ない枝葉末節なのだからスルーしろという向きもあるけど、枝葉末節ならなおのことこのような描写をする必要性がないはずで、なんでこんな描写を入れたのかと、よりいっそう制作側のセンスが問われる話になる。こういう点について鈍感な制作陣は、そもそもキャラクター人気に支えられている原作のアニメ化になど携わるべきではないのでは?
KADOKAWAアニメでいうと、キディ・ガーランドにおいてニコニコネタをふんだんに突っ込んだエピソードを放送して視聴者の顰蹙を買ったという事例が思い出されるけど、二次創作との距離の取り方がわかってないアニメスタッフ(それも上流工程)がぼちぼち現れてきているのではないか、という気もする。
ここまでが前振り。
今回の問題も、第1話における弓道描写の問題と同様に、単なる一描写の巧拙の問題にとどまらず、制作全体に潜んでいる本質的な問題の氷山の一角であり、駄作化の兆候なのではないか、というのがここからの主張。
まず1つ言えるのは、作品の方向性がスタッフ間で共有・統制されていないのではないか、ということ。
アニメでは提督の姿の直接的な描写が避けられているが、提督を具体的に描かないことで男の影を排除している、あるいは提督=視聴者というニュアンスを込めていることは、様々なスタッフインタビューでもほのめかされている。いずれにせよ、いわゆる美少女動物園型の作品が志向されていることになるが、ならばなぜ合コンなどという男の影ちらつきまくりの要素を出してしまったのか。提督の描写を避けるというかなり強い枷(実際にそれによって作劇が不自由になっている部分は多かろうと思う)を自分たちでハメておきながら、その意義をスポイルするような要素を、まったく本筋に関係のない枝葉末節のところで触れてしまう、というのは、自分たちがどういう方向性で作品を作り上げていこうとしているのかコンセンサスが取れていない、または誰一人として自覚していないか、あるいはわかっていながら実務がコントロールしきれていないか、いずれかである。
もう1つは、原作のキャラ描写を読解し理解したうえでアニメという媒体ならではキャラ描写をしていく努力を放棄しているのではないか、ということ。
この点については、「ハラショー」しか言わない響、という例もあるが、もう少し議論しやすい例として暁を挙げたほうがわかりやすいだろう。アニメにおける暁もまた、レディーに絡めた発言ばかりしている。これは一見すると原作通りであるかのようにも思えるが、ではなぜ原作ではそのような描写になっているのかを考えてみると、その大元には背伸びをする女の子像を描きたいという動機があると容易に想像でき、しかし原作は立ち絵が静止画ゆえ動きが表現できず、また提督と艦娘の会話どころか艦娘どうしの会話すらない造りとなっていて、モノローグ的なセリフによってのみ背伸びしがちな女の子のキャラ性を描かなければならないため、その条件に最適化した結果が、ある種テンプレ化したようなあのセリフ群になっているのだろうと思い至る。その点、アニメという媒体ならば動きもあるし会話もさせられるから、個々の場面に合わせてキャラ描写をもっと柔軟に行うことができるし、むしろ原作通りのセリフ回しをそのままアニメでやってしまうとテンプレ臭が強すぎて場面から浮きかねずかえって不自然になるだろう・・・にもかかわらずアニメでは愚直に原作のセリフを真似てばかりいるのである。
公式コミカライズやそれこそ同人誌などでも、場面とセリフとをきちんとすりあわせて、テンプレ臭くならないような、それでいて暁が背伸びしようとしている感じを醸し出し、その可愛らしさをうまく表現している例は多々ある。そういった例と比べると、アニメでのキャラ描写は練り込みが足りてないし、そもそも練り込もうという意欲もなくただわかりやすいレディーというキーワードを振り回しているだけの、ひどく雑に記号化された描写にしか見えない。
足柄に合コンを匂わせる描写も全く同根で、原作における足柄がいったいどんなキャラなのかということを掘り下げて考えることをせず、ただただわかりやすい記号として男漁りという要素が二次創作界隈に流通していたから、それを拝借してきて一丁あがり、という安直な脚本になっているのである。
以上2つ、艦これアニメにおける足柄の合コン言及から垣間見える問題点を述べた。前者は制作全体がきちんとまとめきれていないことを示唆しており、後者は脚本家の技量不足を示唆している。このような事態に陥っている制作体制から良作が生まれてくるなどとは、全く期待できないだろう。
「この業界周りで働く人たちは、皆、総じて、"愛"に弱い。」(辻村深月 ハケンアニメ!)
「アイドルマスターシンデレラガールズ」の第3話を見てこの一文を思い出さずにはいられなかった。思い返せば第1話冒頭。ニュージェネレーションから漏れた彼女たちをすでにデビューしたアイドルとして見せた「お願い!シンデレラ」。画面からあふれでる愛におぼれるようだった。それからはじまった物語も素晴らしく、決め台詞が差し込まれる話運びにただただ溺れるしかなかった。そして第2話の宣材の撮影。たとえ短くともまた漏れてしまった彼女たちが出演している絵に心が震えた。
そこからの第3話。ついにはじまるシンデレラストーリー。ゲーム本編をプレイしていないため彼女たちの衣装がどのイベント、レアリティのそれなのか判らないことが残念でならない。
ここまでアニメデレマスは漠然としていた「見たいもの」が予想以上の物語と絵をもって与えられる、天啓の甘露のようだ。まぶしいばかりの愛が散りばめられ、あふれている。まさにスターだ。
そして光が強ければ強いほどに闇が色濃く見える。
アニメ「艦これ」である。アニメ企画が発表された当時に当然の展開と受け止めていた。そして同時に口にはしなかったが漠然とした不安が芽吹いたのも事実だった。
時がたち発表されたPV第1弾。動く彼女たちを見て真っ先に感じたのは違和感だった。重い曇天、鈍色の海。それらを従えたなによりも黒い深海棲艦。立ち向かう艦娘たちにもどこか闇がつきまとう。戦争が舞台であることは承知していたが、これはあまりに暗すぎる。その色遣いは先立って感じた不安に塗り込められた胸の内を投影したかのように見えた。
そして第2弾PV。不安を拭い去るかのような明るい場面……の果てにでてくる秘書官長門。参戦本部なのだろうか、その色遣いはセピア色。軍楽隊が奏でるBGM。夕日の中飛行する戦闘機(九七式艦攻? というところに目が行ってしまう)。当然であるが戦争だと思い知らされる。美少女動物園の日常アニメではないと見せつけられる。
それが見たいわけじゃない。
そんな不安の中はじまったアニメ艦これ。なぜか舞台は現代でも未来でもない。過去だ。太平洋戦争当時なのだろうか。その説明はない。不安ばかりが募る始まりだった。
そして第3話。不安は形になり、姿を見せた。これは戦争なのだ。生きるか死ぬかの物語なのだ、と。轟沈と隣り合わせの青春なのだ、と。
艦これは強烈にデレマスとの対を感じさせる。
女の子が戦う世界を見せつけることで、全提督に冷や水を浴びせ続けるかのように。世界は絶望に満ちていると押さえつけるかのように。誰もが死ぬんだと殴るかのように。目をそらすなと睨むように。
ここに期待はないんだと叫ぶように。
俺は木曜に冷や水を浴び、金曜夜には愛を浴びる(BSは異なる、と入れておけばいいのか)。
艦これは物語世界にあまりに従いすぎている。物語の下に艦娘たちを配置している。だから戦争の影から逃れられない。すべてを支配する。
いっぽうデレマスは女の子たちが物語を従える。彼女たちの意思が物語を拓いていくのだと共感できる。
ただそれだけだと虚構のにおいが強いのだが、竹内Pとその上司たちがしっかりと世界を支えている。第3話で楽屋に現れた部長に川島瑞樹が挨拶をする場面などその真骨頂だろう。リハーサルでの音響さんのセリフ(ここの芝居がとりわけ印象的だ)、ステージ下のスタッフ。そしてライブ終了後の挨拶でスタッフの労をねぎらうセリフ。そういった細かいところがこれは「仕事」だと伝えてくる。言ってしまえば彼女たちだって戦っているのだ。みくにゃんの繰り返しの挑戦だって彼女なりの戦いだ。負けるけど。
デレマスのこの「愛し方」が判っている背景は突然のことではなく、これまでに連綿と繰り返されてきたアニメ化によって制作側に培われた技術なのだろう。つまり、もし艦これと同時期に「ゼノグラシア」が放送されいたらと思わないでもないのだ。
アイマスは愛し方が確立している。その頂点が先の劇場版であり、Febriの特殊号だろう。最新号は艦これ特集なのもなにか運命めいた存在を感じさせる。
小山高生がタイムボカンについて語った際に「天地人がそろった」と述べていた。同じことをデレマスに感じるし、いけないほうの天地人がそろったことを艦これに感じる。これまた偶然であり、運命の綾であろう思いたいが、第3話放映翌日から艦これアーケードのロケテストが始まった。三国志大戦撤去直後に発表されただけにその知らせに触れたプレイヤーが何を期待したのかは想像がつくし、その結果がどうなったかはご覧のありさまである。
「艦これではなく艦これ人気が好きだった」という増田には深く同意できる。残念だがいまのところ、艦これはすべて期待を裏切り続けていると言わざるを得ない。これから目をそらし、褒めそやすことは大本営発表を報道し続けた太平洋戦争末期の報道各社と変わりがないだろう。連想するなら艦これへの弓道からの批判は、本来であれば物語全体に向けられるべき「コレジャナイ」を局所的に言語化した結果なのだろうか。
竹内Pと提督の造形の違い、二次設定の使い方、ゲーム中の素材の扱い、表現……。あまりにデレマスと艦これは対をなしすぎる。恐ろしいほどだ。同時期に放送したのは両者の意地なのか、運命なのか、それとも他の何かか。私の心境としては、見届けるデレマスと看取る艦これ、というところだ。
「人為的に誘発された知能は,その増大量に比例する速度で低下する」(ダニエル・キイス 「アルジャーノンに花束を」)
まず念のために言っとくが、アニメイトじゃないぞ。
事の経緯を改めて確認しておくと、
詳細はTogetter↓参照
元のツイートにはガチ批判の意図は無かったにせよ、このアニメのデキがなぜビミョーなのかという核心に近いところを、この指摘は突いているように思う。その理由を以下に述べる。
問題の画像に反発する意見として「キャプテン翼やテニスの王子様は、題材となった実在の競技と比較するとメチャクチャなことをやっているのに、多くのファンから支持されている。したがって題材へ忠実でないことがただちに悪いわけではない」というものがある。この主張は確かに頷けるものであるが、それはあくまでも、あえて題材に忠実でない表現をすることによってのみ描き出されるものがあるから、という創作の意図があってこそである。例に挙げられた2作品について言えば、題材に忠実な表現によっては不可能なほどダイナミックなシーンを描写したい、という意図があってあのような内容になっているのは明白だろう。
翻って、問題となった艦これのシーンはどうだろうか。赤城・加賀の所作のところどころ、あるいは施設や的など、実在の弓道を意識して真似ている部分が多々見受けられるが、しかし赤城が弓を射るシーンそのものは、問題の画像が指摘するように、実在の弓道に忠実となるような描写が徹底されていない。あえて徹底していないのだとすれば、それによって何かが描き出されているだろうか?新しい価値がその徹底しない表現から生まれているだろうか?答えは否、だろう。
たかが1シーンではないか、と思うかもしれない。不作為の不徹底が1シーン見えたから何だと言うのだ、と。
しかし問題のシーンは、たかが1シーンなどではないのだ。着任したての吹雪が一航戦の練習風景をこっそり覗き、赤城の弓を射る姿を初めて見て感心するシーンである。吹雪が赤城に憧れを抱くという、いわゆるフラグが立つ場面であり、ここで吹雪の感心っぷりを視聴者にも共有させなければ、その後の吹雪の心の動きを視聴者に共感させることができなくなる、非常に重要なシーンなのだ。したがってこのシーンの演出における最優先の目的は、いかに赤城をカッコよく美しく描き、吹雪同様に視聴者をも見惚れさせるか、というところに重点が置かれなければならないはずだ。
それがどうだね?不作為の不徹底だ?真面目に演出するつもりが無いのかと言いたくなる。赤城をカッコよく美しく描くために、あえて実在の弓道に忠実な描写から外れました、ならわかるよ。でも実際の描かれ方は、ただ漫然と、脚本・コンテに「赤城が矢を放つ」と指定されてたからそのとおりに描きましたーというだけの、なんら創意工夫のない描写じゃないか。
艦これと弓道にまつわる話題を見聞きしてきた御仁なら既に承知のことと思うが、実在の弓道は型にこだわる武道だ。だからそれを忠実に再現するだけでもある程度の美しさを描き出せるはずなのだ。なのにそれをせず、かといって自前で創意工夫した描写でもない。こんなの、赤城をカッコよく美しく描こうという意図がそもそもありませんよーとしか見えないではないか。アニメ的ウソに塗れながらもカッコいいポーズを決めようとした、片足立ち射法の加賀のほうが百倍マシだ。
こんな調子で演出意図スカスカの作画をしたら、いくらセリフで「すごい集中力」などと吹雪に言わせようが、そのセリフに納得のいく作画が伴っていないのだから視聴者は白けるだけだ。そしてこのシーンで吹雪に共感し損ねた視聴者は、直後の甘味処のシーンで赤城を思い出し惚ける吹雪が、どうしようもなく浮ついて見えてしまうだろう。惚ける吹雪にキラキラエフェクトを使うくらいなら、直前の赤城の描写こそ(吹雪主観でエフェクトかけまくるなど)ベタベタに演出して視聴者を引き込むべきはずなのに。
つまり実在の弓道に忠実でないことが問題なのではない。実在の弓道を真似た描写をいろいろしておきながら、肝心のところで忠実でなく、しかもその不徹底が演出意図によらない単なる怠慢に見える、ということが問題なのであり、突き詰めれば、この重要なシーンにおいて赤城をカッコよく美しく描かねばならない、という意志の不在が感じ取れてしまうのがダメなのだ。
そもそも我々がアニメーションに期待するのは、まさしく物語に沿って絵が動く=アニメートすることだろう。プロット上カッコいいと定められたシーンはカッコいいアニメートとして見たいし、美しいと定められたシーンは美しいアニメートとして見たい。それが叶わないならアニメーションを見る理由などない。ビジュアルノベルやCDドラマで十分だ。すなわちアニメートの気持ちよさを追求しないアニメーションに、存在価値などない。
艦これアニメのダメさは、つまるところそれに尽きる。このシーンはこういう意味があるからこういうアニメートで見せなければならない、という演出意図をきちんと持って1シーン1シーンを丁寧に描写していく、そういう意志に欠けているように感じられるのだ。それをもっとも象徴するのが問題のシーンなのである。
社会復帰してだいぶ経つけど、
ニートやってる時は1日中2chのとあるスレにだけ住み着いて、
その話題ってのは「スレの居心地が以前と比べて悪くなった」ってのと、
それを3年くらい。
反対してくる人や無視して別の話題する人を敵と思って攻撃しまくってた。
要するにまともな精神状態じゃない。
異物混入とか弓道の話ずっとしている人らもそういう状態だから、
何を言っても無駄だと思う。
アニメ1話が放送されて、また弓がおかしいと言い出す糞が現れた。
それはいい。5日経ってもまだ同じ話をしている。アニメの弓に突っ込むのはやめましょう!なんて。アニメの弓の話を毎日熱心に拡散しているのは、大喜利でいつまでも正義感に浸っている一般市民だ。不快な情報を一生懸命拡散して楽しい?何十万人も視聴者がいて、一人でも基地外が発掘されれば、毎週こんなことする?
頭悪いというより、急激に成長したためコミュニティの成熟度が足りず、少しでも否定されると顔を真っ赤にしてしまう。アフィブログのいいカモ。今は弓道なら全叩きで良い風潮があるのでそれが使われているが、探せば他分野の叩き台も見つかり、いくらでも同じ手口が使えるだろう。
熟れたコミュニティだといちいち釣られはしない。熟れていく過程は基本的にゆっくりだが、アイマスではアイマス2発売直後に興味深い事件があった。真美のセリフの断片を抜き出した中傷記事をはちまが書き、たいして興味のない人間がアイマスは糞だなと釣られてた件である。いちいち不快な情報に言及して嘘だと熱弁しても全く終わらないので、スルー力を上げないわけにはいかなかった。
もっといろんな艦これを経験したほうがゲームにとってプラスじゃないのか、と
そう、アニメの一話を見て思いました。
端的に言えば満足できない、この先満足するのは難しいかと思ったのです。
とはいっても、アニメスタッフが手を抜いているとか、まじめに作ってないんじゃないかと
非難したいわけではありません。
私が艦これアニメ1話を見た時の印象は、下記のようなものでした。
@ham1975: 艦これアニメ、めんどくさい顧客相手に慎重に書かれたパワーポイントのプレゼンのようだった
https://twitter.com/ham1975/status/552972215201718273
ただその頑張りの方向が『最大多数の最小不幸』を目指している感じであり、
かつそれが視聴者にも伝わるがために、「あ、うんまあ悪くなかった……んじゃないかな」
と褒めることもできないが文句を言うには忍びなく、
結局出た出ないを話題にする授業参観アニメになっちゃったのかなあと思います。
まあ、5W1Hすら設定しないというのはどうかと思うんですが、いろいろあったんでしょうね。
What(何を) 敵の深海棲艦を(ただし何者かよく解らない)
ノベライズやTRPGでは、艦娘が人ベースなのか転生なのか、どちらかに決めた上でやっていますが
コミカライズだとボカしているものもあり、誤魔化せる表現が可能なら曖昧にしていくという指針でもあるのかもしれません。
ただ、ぼかさずに済むHow、戦闘手段もアニメに落とし込めていないのは大変気にかかります。
水上スキーはまだしも、あのサイズあの形態で戦うのであれば、艦の戦闘に準拠する必然性はありません。
だからこそ、水雷戦隊クロニクルの天龍は剣を振るいヲ級はその頭部で噛み千切ろうとし、side金剛の金剛は敵戦艦を投げ飛ばすという表現になったのでしょう。
言ってしまえば、魚雷の有効性だって人型であることと相反しちゃうんですよねえ。
巷でどうこう言われてる弓の話も、どちらかというとなんで矢が艦載機になるのか、
弓の鍛錬をする意味がどの辺にあるのかをアニメ世界の中できちんと説明できるか、理由づけられるか、の方が大事だと思うんですけどね。
現状初見さんが素朴な疑問を抱きそうな点はいくつかあるんですが、その殆どがゲームユーザーも慣れただけで説明できないわけで、
アニメでその辺の説明がされることを期待していた向きもあるんですが、こうも「そういうものだから」で流していくのをみると、
むしろ「設定に触る部分は説明しない(できない)」という意思表示にも思えます。
説明しないことによるメリット、というよりすることによるデメリット、というものに心当たりがなわけではありませんが
そこまで厳しく語ることを制限されていると、何のためにアニメを作ってるのかよくわかりませんし、
配慮もうれしいのですが、まず面白くするために考えて、そのあとで可能限り配慮を尽していく形であればなあ、と
ところで、本当に巷でいわれてるんですかね弓の話。
指摘された! 弓道やってるやつはめんどくさい! と範囲を限定しない中傷はざらなんですが、肝心の指摘はあまり見ません。
おそらく今回の発端はこのツイート
https://twitter.com/shockn55/status/553844214698504192
の画像だと思うんですが、わざわざ掲示板あたりで使われていた画像を引っ張り出してきて、
面倒な人たちに目をつけられたと主張、拡散されていくのを見ると「面倒ってなんだろう」と考えてします。
しかも、(別の方ではありますが)「キービジュアルに対する指摘を受けて直しても(註:但し指摘を受け入れてたという根拠はない)、結局突っ込まれる。テロリストに譲歩しちゃダメってことだ」
という主旨の呟きも目に入ってしまい、比叡カレー吹いてしまいました。テロリストってお前。
と思ったら、2か月前の時点ですでにテロリストに準えるコメントがあるまとめブログ記事があり、
http://kantama.net/archives/16344385.html#comment
指摘が入ると「仏の提督さんでもキレました」と闘争に入るスタイルの確立、
および艦これへの言論によるテロに対する、高い意識の存在が伺えます。
また、件の記事自体が今日を予期した念入りなシャドーボクシングであり、
どちら側が原因かはさっぱりわかりませんが、元々開戦の機運が高まっていたのだなあと感じ取れます。どちらが原因かはさっぱりわかりませんが。
長くなりましたが、あくまでアニメに対する懸念は一話時点での懸念であり、今後の十一話で払拭してくれることを期待していますし、
不惑に至って尚、新しいことであるシナリオライディングや作詞に手を出す挑戦心を忘れない、
柔道の危険性はデータを持って示されているが、武道は柔道を含んだままいまだ必修として続いている。
たとえ必修でなくても部活動としての柔道は変わることなく続いていくだろう。
しかし、柔道と言うのはデータを示されるまでもなく、それどころか部活動としてやるものとしても危険すぎる競技である。
主にそれは、近代までに日本で発展した人を打ち倒すための技術を競技化したものを指し、剣道を筆頭に、柔道、空手道、弓道、居合道、合気道、相撲道などを含む。
武道は、特に二つのカテゴリーに別れ、一つは演舞を持って競い合うもの、相手を敵とせずに的もしくは協力者を持って自分の技術を示し合う競技である。これには弓道や居合道、剣道や柔道の型などが含まれる。
もう一つは実際に敵を相手とし技を仕掛ける格闘技に類する競技である。剣道、柔道、空手、相撲などが含まれる。
前者の安全性は比較的高いものである。当然武器の目指す先が人ではない、もしくは打ち倒す目的ではないため、人を打ち倒すための技術を用いても危険性は低い。
一方で後者の危険性は高い。人を打ち倒す技術を人を打ち倒すために使うため、当然のことである。
後者の中で、柔道と相撲は主要武道の中でも特に危険な競技である。
その理由は、この二つの競技にはプロテクターが存在していない、ということに尽きる。
剣道であれば、慣れ親しんだ防具が思い浮かぶことだろう。
空手は、生徒であれば直接殴りあうフルコンタクト式ならプロテクターは必須であるし、寸止めであってもプロテクターをつけるのが普通だ。
武道でなくとも同じ格闘技のアマチュアボクシングは、ヘッドギアと大きなグローブの義務がある。
一方で、柔道と相撲にはプロテクターと呼べるものは存在しない。申し訳程度、柔道にはたたみがあるだけである。
しかし、中学高校で一般的な、スプリングの入っていない、床に敷いた畳と言うものは当然硬く、危険性が大きい。
締め技関節技等の制限が行われたとはいえ、戦前から一切変わらない安全基準で行われるスポーツと言って良い。
敵の攻撃から体を守るのは基本的に自らの習得した防御技術だけと言う競技だ。
ところが、その柔道、相撲の部活で競い合うのは、お互いに未熟な児童生徒学生たちである。
運動で体が熱くなり、試合や乱捕りで敵対すれば興奮し、普段よりも無茶な状態で無茶な技をかけることが多くなる。
プロテクターが存在しない柔道や相撲は、失敗した時に守ってくれるものは何一つなく、その時点で怪我が確定するといって良い。
柔道は投げ技で、相手の体を畳みにたたきつける打撃を行い、関節技で骨を痛め、締め技で意識を奪う競技。
相撲は張り手で叩き、投げ技で土にたたきつけ、押し出して土俵から落とす競技。
体験的な話で不正確だが、中学高校の柔道の試合では、1つの大会で必ず1人以上のけが人を目撃する。
大相撲で怪我をしていない力士だけでとった場所が近年存在しただろうか。
考慮すべき安全と言うものが、武道の伝統という言葉で覆い隠されている。
剣道は竹刀を作り、防具を作った。空手はプロテクターを取り入れた。柔道は本来着ていた防具を脱ぎ捨てて、身を危険に晒した。相撲は裸である。
当然プロやオリンピックといったレベルのものを変えるべきではないかもしれない。
しかし、そのアマチュアもしくは学校レベルの段階において有効に使えるプロテクターを考案すべきだ。
一部の空母娘が使っている弓から、弓道に興味を持った人が読んでくれればなーという感じです。
さて、艦これはDMMのゲームである以上、18歳以上しかプレイできないのですが、同人から興味持った学生もいると思うので(あと大学生もいるだろうし)、まず学生向けのお話。
結論から言うと、もし学校に弓道部があるなら、そこに入るのが一番。
弓は教えられたことを身につけるために、ある程度の回数は反復練習しないとなかなか上達しないので、毎日放課後すぐに弓を引ける環境が最高なのです。
ちなみに道場はアメリカ空母も真っ青の開放型格納庫状態なので、防暑・防寒に注意して快適な弓道ライフを送ってください。
若いからといって、何でもかんでも気合いと根性だけでどうにかなるほど現実は甘くないので、「努力より工夫」をキーワードにするといいかもしれません。
あとは「意味もなく年長ぶる間抜けな先輩には気をつけろ」「先輩になったからって小天狗になるな」というのも重要ですが、これはまあ部活全般に言えることなので。
次に学校に弓道部がない人や学生じゃなくなった人向けの話。むしろこっちが本題。
学校で弓道が出来ないとなると、社会人向けの弓道サークルに入ることになるのですが、「生意気だと思われないよう年長者は敬え、できれば可愛がられろ」だけでは済まない、ちょっと初心者が入りにくい所を解説。
弓道というのは、弓を引く技術である「射法」と、弓を持った時の立ち振る舞い全般を規定した「礼法」によって成り立っています。
それで問題になるのが礼法。
社会人弓道は一般的に礼法偏重で、初心者に教える場合も礼法から入る傾向があります。
初心者にしてみると
「弓を習いに来たのに、今日は弓も持たずに座り方と立ち方・歩き方しかやらなかった」
「弓は持ったけど、取り回し方ばっかりで、いつまで経っても矢を放つところを教えてくれない」
とはいえ、これを習得しないと先に進ませてくれないと思うので、ひたすら覚えてしまうしかないのが現実。
もちろん全く使わないかと言えばそんなことはなく、昇段審査とかでは覚えているのが前提ですが。
では何故そこまで礼法にうるさいのか?
そもそも弓道は明治年間に生まれた歴史の浅い武道で、女子の礼法に至っては戦後に作られた新しいもの。
そんな弓道の成立時に問題になったのが
「鉄砲が登場し武器としての歴史を終えて久しい弓を、武道として続ける意義は?」
というもので、その回答が今の弓道の、あらゆる流派のごった煮状態に近い「射法と礼法の融合」だったと。
とはいえ、そんな哲学的命題に興味を持って入門する初心者はまずいないと思うので(オイゲン・ヘリゲルでも読んでいれば別ですが)、最初は
「的に当てるスポーツだもん、当たらなかったら面白くないじゃん」
くらいのノリでいいと思います。
それにいくら礼法偏重だって、いざ試合になれば的中数が全てだし、審査にしたってある程度段位が上がれば「当たって当たり前」が要求されるわけで。
まあ礼法は、歳を取って思うように当たらなくなった時でも、ライフワークとして弓を続けるための予習くらいのつもりで学べばいいんじゃないですかね。
これは竹弓といって、弓が武器として活用されていた頃からあるというか、弓も矢も元はといえば竹製なんです。
しかし現代弓道では、安くて壊れにくいグラスファイバーの弓にジュラルミン製の矢が主流で、竹弓竹矢を若いうちから使っている人は殆どいなかったり。
射撃やボウガンやダーツ、吹き矢等を想像した人はごめんなさい。
いわゆる人力で弓を引いて的に当てる、言うなれば弓系スポーツネタです。
弓系スポーツでは、数百人に一人くらいの割合で、必要な技術をあっという間に吸収する、まさに弓を引くために生まれてきたんじゃないかみたいな人に出くわす。
ではそのまま試合や審査でみるみる結果を残すのか・・・と思いきや、そうなる前にあっさりやめてしまう。
彼らに言わせれば
「弓なんて単純、というかグーッと伸びていってピッと離すだけの動作の、何が面白いのか理解できない。そんな簡単な動作に他の人が苦労しているのが信じられない。しかも苦労しているのに入れ込むのはもっと分からない」
確かに弓の引き方は、相手の出方による駆け引きも絡んでくる他のスポーツに比べたら、動作的には決まり切っている。
むしろどんな場所、どんな体勢からでも同じ動作をこなし的中させる技術と言っていい。
普通に立った状態、野山を駆けたりスキーで滑走した直後の心拍上がりまくり状態、競馬の追い込み並に疾走する馬を駆る状態、座った状態、伏せた状態、色々あるけど。
その核になる部分を苦もなく体得できてしまえば、あとは何もないと思うのも無理はない。
なので、そのまま行けば国体やオリンピックを目指せそうな、天才的人材が居着かないと。
もちろんこれは射法の先にある、弓を引くことの意義まで、うまく教えていくことが出来ていない、指導側の問題も大きいとは思う。
元来、弓は非常に強力な武器ではあったが、鉄砲が登場した数百年前に武器としての歴史は終わってしまった。
そこでスポーツとして再定義・再構築された弓をやることの意味は・・・という話に向き合っていくことになるんだけど、ちゃんと教えられてますか?みたいな。
私「うちの会社の先輩のAさんね、弓道のなんかの大会で入賞したらしいんだ。4年くらい前から始めて、それで今そこまで極めたんだから凄いよね。仕事も出来るし、それで趣味の方もそこまで上達できちゃうんだから、流石だよね。私は何をやっても中途半端だから羨ましいよ」
知人「それって羨ましい話? むしろやるせない話じゃないの?」
私「え? どこが?」
知人「女が趣味を始めたり、サークルに入ったりするのって、出会いのためじゃないの? それで4年もやってて、結局成果無くて、趣味だけが無駄に上達しちゃったってことでしょ? その先輩が射止めるべきは的じゃなくて男の心だったんだよ」
私「いやいや、確かにAさんも『付き合いを広げたくて始めた、いい出会いがあるといいな』とか言ってたけど、続けてるうちにすごい嵌まったみたいよ。ていうか元々興味有ったんでしょ。でなきゃわざわざ弓道なんてやろうと思わないよ。もともと多趣味な人だしね」
知人「プロになれるわけでもないのに、女が趣味を極めてどうするんだよ。そんな趣味にのめり込んでる暇があったら婚活始めとかないとやぱいんじゃないの、年齢的にも」
私「いや、Aさんはただ自分が好きでやりたいからやってるわけで……それに仕事だってちゃんとやってるんだし。それに、出会いだってこれからあるかもしれないでしょ。入賞までして、業界でも有名人になっただろうし」
知人「趣味で始めて賞まで取っちゃう女なんて、男からは余計敬遠されるに決まってるじゃん。まして仕事も出来るなんて言ったら、尚更だよ。女がすべき努力はそういうことじゃないよ」
私「なんで? 私が男だったらAさんみたいな人は喜んで奥さんにしたいけどな。仕事も趣味もそれだけ出来る人なら、主婦業だって完璧でしょ。実際家事もできるっぽいし」
知人「趣味なんて嵌まれば嵌まるほど金も時間も食うし、その時点で旦那に負担かけるんだよ。いくら家事や育児と両立します、って言ってもさ。そんな暇があったらパートでもしろってことだよ、いや、家事育児だって真面目にやろうと思えばやることはいくらだってあるはずだよ。趣味に使うエネルギーがあればそっちに集中するべきだよ」
私「女が趣味にのめり込んじゃいけないの? 自分は一緒になるなら趣味の合う女がいい、って言ってるくせに。『これが理解できないバカな女はダメだね!』って」
知人「まあ、自分に話題を合わせて付き合ってくれるなら勿論いいんだけどね。下手に真面目に勉強し出しちゃって、俺以上にマニアっぽくなっちゃったら引くよね。それで食うわけじゃないんだから、他に努力すべきことややるべきことは優先しないと」
私「いや、自分だって、別にそれで仕事するわけじゃないのに、ずいぶん趣味に注ぎ込んでるよね?」
知人「男と女とは違うよ。さっきも言ったけど、女が趣味やら仕事やらに入れ込んでるうちに年だけ食っちゃったら悲惨だからね。そういや君だって、最近、英語の勉強始めたそうだけど、それで外人男をゲットするつもりなの? 留学でもする気? でなきゃ今更意味あるの?」
私「いや、これは仕事で必要になってきたから。英語は実用でしょ、将来のこと考えたら、使えるに越したことないっていうか、むしろ必須じゃない! Aさんなんか中国語も出来るしね。結婚して家庭に入っても、旅行にだって使えるし、映画も洋楽も訳無しで意味分かれば楽しいだろうし、単純に世界広がるし……」
知人「くだらねー。女のキャリアアップとか自己実現とか、今更そういう時代じゃないよ。本気で将来を考えて幸せになりたいなら、他にやるべきことはあると思うよ。とりあえず、そのAさんは反面教師にした方が良いよ。だいいち、君はAさんほど仕事も出来るわけじゃないんだろ? 下手に真似したら将来死ぬほど後悔すると思うよ」
私「他にやるべきこと……ね……たとえば?」
知人「それが分かってる、本当に出来る女はとっくにいい男をつかまえて、幸せな結婚生活送ってるよ」
私「……」
母親が若いころから仲良くしていた女性は、いつも誰かの愛人であることで生計を立てていた女性だった。
40年以上前から整形にエステに、と今の美魔女(笑)もビックリの努力を重ねていた。
実際、まったく年に見えなかった。
そりゃそうだ、美しくないと、相手に飽きられて、捨てられて、路頭に迷うからだ。
わたしが生まれて、わたしより何歳か上の彼女の娘とよく遊んでいたときは、ある医療関係者とちゃんと結婚していたが、覚えている限りちゃんと婚姻関係を結んでいたのはそれだけだ。
わたしのいえの何駅か先に開業していて、4階建ての豪邸(一階は病院)で、家具はすべて日本じゃ見たこともないようなすばらしいものだった。
料理もとても上手で、美しい母親、子供たち、医者の父親、とすべてが素晴らしく見えた。
だが、子供は一番上の子はたしか父親が違うのだけれども、兄弟みなグレるか歪んでいた。
わたしが仲良くしていた少し年上の少女は、早熟であったためか精神を病んでしまい、不登校になった。
わたしが中学生ぐらいになるころ、彼女たちは引っ越した。離婚したのだ。
引っ越した後、すぐに後釜の既婚者の金持ちを捕まえ都内の1フロアに一部屋しかないようなマンションに家族と、その金持ちと住んでいた。
遊びに行ったら、すごくおしゃれだったので今でも覚えている。
中学生だから込み入った事情は知らなかったし知ろうともしなかったが、その金持ちは奥さんと愛人の間を交互に行き来し、それを奥さんも容認していたようだった。
少し年上の少女は、学校になじめず、弓道と油絵とヴァイオリンを習っていたようだった。
一緒に銀座三越に行って、いろいろきれいなものを一緒に見て回って、少女が化粧品を買って、千疋屋でフルーツパーラーを食べて帰ったのを覚えている。
その時のわたしは一切意識していなかったが、そのお金も金持ちからいただいていたものなのだろう。
母親は、学が無いながらも、自分で商売をおこし、わたしたち兄弟を立派に育ててくれた。
愛人の彼女は、今はまた違う金持ちの愛人として生きている、らしい。3年に一回ぐらいは母親のところに電話が来るそうだ。
それぞれが、それぞれの思うように生きればいいと思う。
不登校になって、そのあと専門学校に入りなおした愛人の彼女の娘のことだけはいまだに思い出す。どうしているだろうか。
ただ、わたしは愛人の彼女のような生き方は不可能だなぁと平凡な顔と体型を見ながら思う。
最初に結婚した医者の元旦那さんがTVに出ているのを見て、久しぶりに思い出したので。
もう、これからの人生であのレベルの金持ちとけっこう密接に付き合うことなんかなかなかないだろうなぁ。
いろいろいい体験をさせていただいた。
教師の一人として、桜宮高校のバスケ部顧問を擁護すべき点はまったくないと思います。
「児童生徒への指導に当たり、学校教育法第11条ただし書にいう体罰は、いかなる場合においても行ってはならない。」に逆らっている訳だし。
しかし、なぜ体罰が容認される「顧問王国」が出来てしまったのか、触れるマスコミがまったくなくてげんなりしています。
これは、部活動が非常に曖昧な位置に置かれ続けていることによるものです。
部活動の指導は我々教員の正当な業務ではありません。正当な業務なら時間外に勤務させられた場合、残業代を支払わなければなりませんが、土日に部活動の指導をして支払われているお金は4時間以上指導して手当はわずかに1800円(うちの自治体の場合。練習試合の引率等で10時間以上拘束されても1800円)です。
部活動は建前上「教育職員が自らの意思に基づいて決定したところに基づくもの,すなわち自主的に行ったもの」であり、形式上校長はじめとした管理職は部活動の「部活動の顧問をしてもらうこと」を教師に「お願い」する形となっています。
「命令」した訳ではなく、「お願い」した訳ですから、その指導内容について細かに指導できるわけがないですよね。
「顧問王国」ができた理由は、部活動がこういった「グレーゾーン」に置かれ続けたことが原因です。
抜本的な解決策としては欧州のように学校単位での部活動をなくして社会体育化するか、アメリカのように学校単位で部活動はかかえつつコーチ(指導)はプロがするという形しかありませんが、どっちも無理でしょうね。
小手先の対策として部活動の顧問の監視を厳しくするということが検討されるでしょうが、そもそもそんな人員いませんし、そんなことすれば部活(特に運動部)の顧問をする教師は激減するでしょう。
「顧問したくありません」って言っても管理職は「お願い」している立場なので何も言えませんし。
人事異動も(基本的には)部活動のことなんて考慮せずにされてますから、自分は弓道で国体入賞して大学でもやっていたにも関わらず、赴任校に弓道部がないのでしたこともないサッカー部の顧問をさせられています。
やったこともない部活の顧問をさせられて部員からは軽んぜられて、顧問会でも低く見られて、土日も連休も無しで生徒に付き合ってやってるのに、外部からぐちゃぐちゃ言われたらやってられないですよ。
スポーツの底辺を「ボランティア」というあやふやなものに任せ続けていたツケなんですよ。
酔ってるので支離滅裂かもしれません。すみません。
高校や大学の部活動で弓道に入門した人が、一般の社会人弓道で弓を継続した時、高確率で言われる台詞だ。
そしてこういうことを言われ続けるのが面倒で弓をやめてしまった人の話が、至る所に転がっている。
これ、言ってる内容が抽象的過ぎて揶揄にしか聞こえないし、なんか学生弓道に妬みとか侮蔑の感情でもあるのかと思ってしまう。
もし指導のつもりなら問題点を絞った上でもっと具体的に指摘して克服法まできちんと説明するべきだし、そうじゃないなら嫌味でしかない。
それにそういう言い方は、その人のそれまでの経験の否定に繋がりかねないので慎むべきだろう。
ついでに書くと、今の射手は全日本弓道連盟が教本にまとめた、正面打ち起しの射法しか知らない射手が殆どということもあり、他流派、特に斜面の射手に対するハラスメントが常態化しているらしい。
「お前なんだその引き方は。○○流だかなんだか知らねーけど我流じゃねーかそんなの。弓は正面に構えるもんだろ」
「その引き方だと年取ってから辛いわよー」
これらは、正面の射手しかいない道場に自主練に行った斜面の射手が、実際に言われたことだ。
しかしながら、徒歩での射法は古来から斜面だったし、世界的に見ても斜面の構えが主流なわけで。
それが正面一辺倒になり、さらに「射法と体配が渾然一体となった、品のある射」なんて声高に言われ始めたのは明治からの話なのだ。
その成立の経緯にも諸説あり、少なくとも現代の正面打ち起しが文句なしに最も優れているわけではない。
こんなの、今の時代ちょっと勉強すればすぐに分かるはずなんだけど。
その程度の知識もないし、さらに学生だ何だとケチを付ける物言い、こんなので何が「真善美の追求」だ、ふざけるな。
単純に弓を引きたいだけなのに、要らん面倒が振りかかるとかうんざり。
先日、生まれて初めてやった弓道で、弦がメガネに引っかかり、左右両方のつがいが豪快に死んだ。
デザインもなかなか、掛け心地もとても気に入っていたので、たかがメガネと思わずに修理したいなと思った。
zoffとかalockみたいな全国チェーンではなく、街のメガネ屋で買ったメガネ。
かなり変わったメガネが多かったけれども、黒のセルフレーム、いわゆる黒縁メガネだ。
そのメガネ屋の話も語りたいことはたくさんあるのだが、それはさておき修理の話を進める。
Googleでブランド名を調べると、取り扱い店舗を知ることが出来た。
軽く1時間はかかるが、迷ったが駅に向かった。
ギリギリだったが、まあなんとか、営業時間内に間に合うだろう。
そしてまた、駅から遠い。
家を出た時のテンションも平常に戻りかけたころ、店に着く。
存在感を隠しきれない言葉に出来ないメガネをかけた店主がいた。
なんていうか、スタンド使いっぽい感じ。
そういえば、買ったお店の店主もそんなんだったななんて思い出す。
そこからだ
「うちでも取り次げますけれども、どうせなら製作者のお店がここからちょっと遠いですが、小一時間ほどのところにありますので行ってみてはどうでしょうか?」
なんかすげぇ、ジョジョっぽいなと思いつつ、「いえ、いまもう19時ですから、着く頃にはあちらも閉店時間になるでしょうし。」
と電話を取る店主。
えぇっ?!と思うも、なりゆきに任せる俺。
「19時閉店だそうですけどッ、来店まで待ってるとのことだそうですッ!どうしますかッ?」
もう行くしかないような気がして、勧めに従うこととした。
「この道を真っ直ぐですッ!そうすれば駅につきますッ!」
そんなこんなで、それから小一時間ほどかけて、小さなメガネ屋にたどり着いて、その店で修理に出すことが出来た。
僕の人生で、店舗で買った品物から、その製作者にたどりつくような経験というのは、はじめてなんじゃないだろうか。
なんとなく掛け心地がいいなくらいにしか思わなかったけれど、きっと、目に見えないたくさんの工夫と、溢れる情熱で出来た眼鏡なんだろう。
ちょっとした感動だった。