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2024-04-21

anond:20240420224125

仏の教えは合理的基本的理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事因果関係連鎖で成り立っていますってことだけ。

・絶え間ない因果関係の連なりがあるから諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。

諸行無常世界普通人間経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから人生には「四苦八苦」がつきもの

普通人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係連鎖によって一時的に立ち現れている物事しかいから。身体五感思考欲求一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我

普通人間諸行無常世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。

一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。

・この世界諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニング仏教修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。

・『私』に対する強い執着を薄める方法ヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり利他的な心を育てる瞑想利他的実践を繰り返すこと。

ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想必要集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教実践基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。

というのが、私の理解もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想ゼロポイントおすすめ

思想史的な観点ちょっとだけ補足。仏教教祖である釈迦の没後、スリランカミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウ比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教南伝仏教小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教大乗仏教とか呼ばれてる。日本仏教中国経由で伝わったもので、基本的大乗仏教輪廻転生仏教オリジナルアイデアではなくて、インドネパールあたりにもっとから根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道実践、ってのが仏教スタンス)。天国地獄アイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。

2024-04-06

anond:20240406201220

彼女奥さんなんて、自分がして貰うことを考えてばかり。

そう思ってれば、パートナー幸せ必須条件ではないって、悟れるはず。

諸法無我

2021-05-21

anond:20210521115711

まれ老い、病に臥せり、死ぬ

愛する人と別れ、恨み憎む人と出会い、求めるものは得られず、自分の肉体と精神すら思うようにならない。

人がこうして四苦八苦するのは、この世界諸行無常諸法無我であることに気付いていないから。

条件を整えて精密に観察を続ければ、やがてそのことに気付いて苦から解放される。

四苦八苦翻弄されて不自由を感じながら死ぬか、体系的なトレーニングによってそこから逃れ、自由の境地を手に入れるか。

人はそれを選べる。

と、釈迦2000年上前に思い至った。

苦に直面する人が自殺以外に取り得る、一つの根本的な解決策を釈迦は示した。

2020-10-17

仏教は単に当たり前のことを言っているに過ぎない

こないだ、増田見てたら「私は悟った」みたいなことを言っていた人がいた。

単純に、非常に失礼だが、「馬鹿だな」と思った。

悪いけど、悟るなんてことはない。悟りを開くとか、生きて仏になるとか、そんな人はいない。

それは単に、仏教思想というか古代仏教思想の説いたことを誤って理解してしまったがためにそんな解釈を生んでしまったのだろうと思っている。

 

根本的に誤っているのは、原始仏教が生まれた背景をものの見事にみんな無視するからである

考え方がまるで逆で、当時の世間に流布していた思想からの脱却を、悟りを開いたとか、覚ったとか、多分そんな風に言ったのであろう。

要するに「輪廻転生」に象徴される、人は定まった運命の中でしか生きられないという、あの現代にも続くインドカースト的な考え方からの脱却に他ならなかっだ。

一切は空なりとは、つまり輪廻転生であるとか、そんな迷妄な考え方・思想には実体などない、そういう意味なのである

そんなの言ってたら、永久に人は苦しみから逃れられないと言っているようなものじゃないか、とゴータマは覚ったのである。これこそがほんとの悟り・覚りなのだ

から釈迦牟尼世尊の超絶的な苦行の話が逸話として出てくるのである、そうした苦行には意味がないのである

 

ところが、馬鹿無知民衆は、あの四苦、すなわち生老病死の「生」を「生きる苦しみ」と解釈してしまったのである。あるいは一切皆苦という言葉をこの世には苦しみしかない、などと全くの誤解をしてしまったのだ。

生老病死は、これは「死」は別なのである。これは四つではなく三つの苦しみ説く言葉であり、生・老・病の三つとも解決不能な苦しみのことを例としてあげたのである

この言葉は、人は、生まれてはすぐ死に、病んではすぐ死に、老いてはすぐ死ぬ、ということを意味する。

考えてみたらわかる。原始仏教は今から2500年前の劣悪環境インドで生じた思想である。人は生まれたら大半がすぐ死んだのである乳児死亡率は今とは比較にならない。病んだって、その多くは治療方法すらなく死んでしまうし、老いたって病院介護など期待できる世の中ではなかったのだ。

 

ブッダ達が言ったのは、古代インド思想輪廻転生などのそれ以前の問題として、解決不能の苦しみ(生老病死)があるってみんな知ってるじゃないか、だったらせめて解決可能な苦しみをどうにか解決していこうではないか、というコロンブス的な発想の大転換だったのである

 

このように考えれば、仏教はアホほど簡単なことしか言っていないことがわかる。

一切皆苦とは、修行者らに対するテーマのようなものである現実問題のみを解決していこうという超現実志向を表す言葉である

一切皆空とは、この世には実体みたいな、どうにも出来ないものなどないと見よ、という極めて強い教えなのである

諸行無常とは、輪廻転生みたいな、永久に変わらぬ事柄などない、という希望を与える言葉なのである

諸法無我とは、神のような存在意思に頼るのではなく、物事に対する法を見出し、その法に従って問題解決していこうじゃないかという、当たり前のことなである

 

こんなの、実際はすでに現代社会常識しかない。

みんな世の中に出て、例えば大人仕事という問題解決にあたっているはずであろう。

例え、どうにもならん問題があっても、ストレス発散くらいするはずだ。

少なくとも人権主義思想は、すべての人にとって平等社会の実現の根本思想になっている。

そして、私たちは、法律であったり、科学であれば法則であったり、マナーだったり、様々なルールだったり、あらゆる物事に対して法を実際に使っている。

 

まり、とっくの昔に、仏教など不要社会になってしまっているのだ。

私たちにとって、仏教は本当に単なる当たり前のことを言っていただけなのである、2500年も前に、だ。

から、悟った・覚ったとか無意味なことを言っても何の意味もないのである

 

但し、変な思想とか妄想に取り憑かれていてそこから脱出したのなら別だけどなw

2020-02-07

女装はしないけどオートガイフィリア自己女性化愛好症)だ

とあるサイトに書き込もうと思ったけど上手く行かなくて、どこかに吐き出したくてここに書く。

幼少から「人の気持ちを察しろ」「他人立場になれ」と過剰に厳しく母に育てられてきました。

実際、一般社会でもそうあることは正しいと流布されているのですが、どうも自分はそういう思考に強く囚われてしま自分を置き去りにする傾向があるようです。

覚えたての頃の自慰は単純に女性に興奮して行っていたのですが、徐々にこの女性はどんなに気持ちいかばかり考えるようになりました。

今ではどれ程理想的な女体でも、快感を感じてない(ように見える)女性には興奮し辛いです

AVフィクションだという言説に支配され、女性向けAVランキング上位や、演技のなさそうな露出性癖カップルポルノとき違法性のありそうなリベンジポルノ)、女性作家女性向けノマカポルノティーンズラブ等)で迫真に迫った女性オーガズムを知ることに熱中し続けました。

ただ、パートナー出会い女性の性欲にも波があってどう刺激しても快感がない日もあること、それでも性欲のある自分、性欲があるのに何に興奮していいかからモヤモヤする状態がありました。

結局、仕事でも自分がない状態疲弊し、悩んだ果に興奮しているのは自分なんだから初めから世の全てはフィクションなんだというような、色即是空諸法無我に少し近付いた感覚を経て、今の性癖AGなのだという結論に至りました。

AGに傾倒しがちなときは、身体感覚と脳感覚乖離している感覚があります

パートナーセックスについて話し合い、互いに気持ちよくなって欲しいと思い過ぎていたこと、気持ちよくなっている自分自身を見せつけることで相手を誘惑し、愛を表現することが大切だと話し合いました。

よくある勘違いセックスの逆説です。性を愉しむ前に「間違ったセックスの例」について過剰に学びすぎていたのではないかと考えています

2019-06-11

気を抜くと解脱しそうになる

いやほんと諸行無常じゃん。

どうにか執着しようとアニメとかゲームとかやってみてるけど、結局一切行苦でもあるわけじゃん。

そう考えると本当に諸法無我だよな。

よくみんないろいろ執着できるよなって思う。俺は気をつけないと解脱しちゃいそうになるもん。

正直解脱してもいいかなって思ってる。でも解脱した後がわかんないじゃん。

釈尊解脱した後なぜか教えを広めてたけど、あれは意味分かんないよな。世俗に執着しちゃってない?

やっぱり解脱したくないな。

解脱したくない執着があるわ。これでしばらく解脱しなさそう。

でも別に解脱してもいいよなー。

2018-09-07

anond:20180907070626

結論は難しいね。一方で商売人にお金払えばそれなりにやってくれるから、思いどおりに近いことを他人にさせている事実もある。釈迦さまはもっと深いレベルを悟って諸行無常色即是空諸法無我洞察を得たのだろうか…

2018-08-08

anond:20180808205741

×欲望を捨てる

◯執着をやめる

×無の境地を目指す

諸行無常諸法無我を悟る

仏教はこのように悟ることを目指すわけだけど、最終的には悟ることに執着することもやめる。というか、修行過程でやむとされる。

2013-08-14

努力 * 才能 = 成功 という大嘘をつくな!!!!!!!!!!!!

あのねえ成功方程式を正しく描けるか田舎それこそが成功への片道切符なのだ

だいたい努力 * 才能 = 成功 などというチンケな俗流成功哲学を信じているようでは駄目でありますww

なぜかならば、才能は生まれつきの不変であるから努力しかないことになってしまう。ところが努力では人と差がつかないんよ。

厳密には一つのことに継続は力なりで差はつくけどな。後述。じゃが全体量としてはヒトの体力で決まるんですわ。いくら室伏でも18時間毎日円盤投げできません。山口真由は19.5時間やってたけどさw

から大真面目に語るのもバカらしいことであるが、世直しのために我らは正しい方程式を広めねばならないのだ。わかるね?正しい方程式とはこうである

 努力 + 才能 + ノウハウ = 成功

 才能 + ノウハウ = 努力

 才能 + 努力 = ノウハウ

わかった?w ノウハウが追加されてるな? そして才能は生まれつきで不変であるから不定項、じゃあ変項は?変項は言わず喪がな、努力ノウハウなんです。よろしい。

では、よく努力の方向が間違ってるという言い方をするな?あの言い方は非常に有害危険なの。まるでベクトルのように方向と大きさで決まるかのように、そういうふうにできている?そんな単純な話じゃあない。

がむしゃらにやって良いのはエロ画像掲示板だけ。ソフトタッチしないと。アダムタッチじゃないけど!雑にガッシャアとやってしまうなよ。

いくらでも可能性が転がっているのに単純化してチャンスを逃すのはバカですよ。そのバカだと思える視点を是非とも今日身につけてほしい。

その優しい愛撫のやうな、微細な心で1つ1つ確かめながら組み立てていく。それは単純に努力の方向じゃないですよ。何をやるか、どれだけやるかの二分法よ、さらば!ちょっとそれはディジタル過ぎる。

例えば努力をするということはそこでひずみが生まれる。観測問題じゃないけど努力するという行為自体が努力隊商を変えてしまう、さらに言えば努力の主体たる私自身もまた変貌をとげる。

これを物の哀れの分かる人が「諸行無常諸法無我」と言ったであろう。その変わりゆく有様を確かめるようにソフトに愛撫するわけです。それがノウハウなんですね。

ノウハウというとマニュアルイメージするでしょうが全く違うんですね。それは努力と才能という二分法の古い考え方です。いまは努力と才能とノウハウです。努力でもなく才能でもないノウハウという

ものがあるのだと厳しくそれはそれは厳しく峻別している。このときノウハウはもはやマニュアルではないことを知ってください。確かめてください。何事も敬虔ですから

ノウハウを今ひとつの角度から見るとそれは無数のツマミスライダースイッチのある機器を考えてください。使わないツマミは忘れるんです。でもそれはじっちゅうはっく使わないのではなく使えない。使いこなせないわけ。

PS Vitaも使いこなせない機能はどんどん忘れていくのと一緒。使ってないとメンテナンスも疎かになって故障も早くなります。そうiphoneでもね。そうなると本当に必要ときもつかえなくなっちゃう。

必要に迫られマニュアル見て使おうとするも半分故障してるわ操作もぎこちないわでもういいやって投げ出してしまう。で、もっと乱暴な手段にでてしまう。優しい愛撫を放棄して荒々しい前戯になる。

それがノウハウということなんですよ。マニュアルが全てじゃない。マニュアルに書いてあるとおりやっても、故障してたり、うまく操作できなかったりする。そういう生身の現象を扱っているのですからよ。

柔らかく接していなければ全て無駄になるのが分かるでしょう。いくらマニュアルに繊細なこと書いてあっても、ユーザーが荒っぽい人だと草臥れ損の骨折り儲けですよ。、

逆に言うなら、柔らかければマニュアルに書いてないことも臨機応変に捌けるのです。これを頓知と言います今日覚えて帰ってください。頓に(とみに)知る(しる)これ。

これを試すために面接官は突拍子もない質問をぶつけるのです。盤根錯節に遇いて利器を知る(後漢書)です。面白いことに柔らかさもまた諸行無常で、時々刻々とめまぐるしく変化してますよ。

柔らかいときに頓知が利くなら柔らかいときに得た学びを硬いときにも活用できれば擬似的に常時やわらかな対処できますね?これが一休さんのしくみです。ノウハウ特化型です。

エジソンのようにコツコツ煮詰めるタイプとはまた違う俊英なのです。ただ、忘れてはいけません才能とノウハウだけでなく努力もあるんです方程式に。

エジソンのような努力型はなんといっても積み重ねが凄いんです。積み重ねは何が凄いか分かります継続は力なりと空念仏を唱えるだけでは全く何も分かっちゃいない。継続は何故力なのかメカニズムを理解してますか?

例えば、簡単のため受験生毎日10時間、時速4ページで学んでいるとします。毎日40pです。で全国平均が20pとしますわな。分散10p。そしたら40pやるだけで偏差値70なんです。分かります

これは学力偏差値ではなくあくまでその日の努力偏差値です。でな?これを続けるとどうなると思う?40pを10日間続けるとどうなる?偏差値70のままだと思うそこのお前は統計学を分かってない。

偏差値70よりずっと上がるんだよ阿呆陀羅。これが継続の魔力その1なんです。つまり偏差値70の努力をする日を何日も続けていくと全体では偏差値75にも80にも、いやもっとそれ以上にもなりうるのです。

しかもじゃ、時速4pが慣れとともにスピーダップして時速6pや8pにもなるかもしれない。俺の過去経験から言っても初日の2倍速なんて当たり前にありますねえ。その意味でも継続すれば努力偏差値は跳ね上がる。分かった?

ただこれは単純化した話。実際には努力にはバランス必要です。アンバランスだといつかしわ寄せが来ますバランスとりながらローテーション回していく計画性が必要です。

そこで先ほどのノウハウ型が不可欠なんですよ。努力しか眼中にないとここで頭打ちになる。伸びない原因は硬さにあった。チンポは硬くなると伸びるのにおかしいじゃないか。でもそれが現実

結局バランスバランス言うけどその系の拘束条件がどんどん変わっているわけですからマニュアル式に機械的にバランスをとろうなんざ甘いんです。ちゃんと直接指でソフトに触れないと駄目。

頭の硬い人ほど皮膚感覚をバカにするのはそういうわけ。努力とかそういうことは一切合切承知の助で忘れるくらいでないといけない。とにかくソフトに、ソフトに。休日などに数時間まったりするとよいです。

 
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