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はてなキーワード: 八百屋とは

2020-08-10

職場の近くの八百屋野菜をかって職場に持って帰る生活を続けたら怒られた

なにが悪いのかわからん

2020-07-30

クラウド時代によわよわインフラエンジニアはどんな貢献ができるか?

Infra Study Meetup #4 "インフラの面白い技術とこれから"」というオンラインイベントで以下のような質問した者です。(以下のツイートは別の方が書いてくれたものです)

Q:これからますますクラウドが拡がっていく時代に、つよつよでないインフラエンジニアがどんな貢献ができると思いますでしょうか?

A:つよつよな人とそうでない人の壁を作らない方がいい。1つでいいので強みを身につければ壁がなくなるのでチャレンジするのが良い

https://twitter.com/inomasosan/status/1288437558804766721

まず、回答して頂いたのに失礼で申し訳ないのですが、今となっては、これをつよつよの人に質問してもしょうがない気もしてます

ひとまずは、正直にオブラートに包まず「よわいやつに貢献できることなどないです。不要です。」と言われなくてよかったです。

では何故質問したのかと言うと、つよつよな人が登壇するイベントで、よわよわな人のクラウドに対する気持ち質問として少し書いてみたかったのです。

なんというか、隣にイオンができた八百屋気持ちを(実際の八百屋さんの気持ちは分からないけど)。

それはともかく、本題。ツイッター上で反応してくれた方々への回答(?)です。

そもそもつよつよという言い方が大嫌いだ。つよいとかよわいとかじゃないでしょう。なんで力自慢してるの?

https://twitter.com/youchan/status/1288439352620531712

力自慢というより、市場が力あるものしか必要としないんじゃないか、と感じてるんです。

これが仕事じゃなくて趣味なだけであれば、力自慢というか力比べというか、そういうのいらないんですけどね。

自分がつよつよでないという考えは、目線として上を向いている証拠なので前向きにとらえていい気がする。

https://twitter.com/msy78/status/1288438690176364545

謙遜して、とかそんな感じじゃなく、メッシプレーを見た後、みたいな感じなんです。

絶対に届かない、けど、食べるためにはサッカーを続けるしかない、他にできることが思いつかない、という後ろ向きな感じなんです。

「壁を作らない」 これ以上は自分が手を出してはいけない、とか勝手に壁を作らない、っていうのはいい話だな。 エンジニアである以上、教育されてないからわかりません、という人はいらないと思う。

https://twitter.com/10key3/status/1288437791580229636

教育されてないからわかりません」とはちょっと違いますけど、全く勉強してないわけでもないんです。業務クラウド使ってないのに AWS資格取ったり。

ただ、プールを満たすくらいの水が必要なのに、コップで水汲みしてるような気分。

それやってどれほど意味があるの、という感じなんです。

正直上ばっか見てもキリがないし、なんでもできる人ってあんまりいないので、何か一つある程度の期間触ってみれば、少なくともその触ったものについては上の何割かに来るので、一つ一つそういうものを増やすさらに掘り下げるかでは。インフラの人増えないから割とすぐですよw

https://twitter.com/yu_s_1985/status/1288437741827395584

「上の何割か」に行けるんですかね・・・

そこそこレベルだと、クラウドマネージドサービス使った方が良いでしょう、になってしまいそうで。

AI仕事を奪われる、は実感湧かないですけど、クラウドには仕事奪われてる感じがしてます

あと、最後の「インフラの人増えない」は、本当にありそうですよね。

高いレベルインフラエンジニアしか要らない、となってしまったら、裾野が増えない気がします。

要は、つよつよじゃないって言葉は逃げにも使えちゃうと思うのです。この質問された方がそうだとは思わないですが(悩まれてる時点で頑張りたいって思われてると思います

https://twitter.com/_inductor_/status/1288437447735406594

「この質問された方がそうだとは思わないですが」って、注意書きを入れてくれているのが優しいなぁ、と思いました。

弱気発言している人に対して「なに甘いこと言ってんの?」っていうのは簡単だと思うのです。

ただ、本当に弱っている人に更に攻撃加えてしま可能性にまで頭が回る、心を配れるのは素晴らしいですね。見習いたいです。

あと、「つよつよエンジニアとは違うから」などと言って何もしない人もいるんでしょうね。

あるいは、多少は勉強しているんだろうけど、自分から見たら努力が足りない、そういう人が、つよつよエンジニアからは見えるんでしょうね。

もし自分がつよつよエンジニアだったとしたら、そういう人に強く当たらずにいられるのだろうか。

「つよつよな人との間に壁を作らない」というのは、言う側の動機はわかるんだけど、言われる側の「自分がよわよわだと思っている人」から強者理論しか聞こえない気がしている。多分、求められてるのは修行メニューというか、もっと具体的な方法論なんじゃないかな。

https://twitter.com/y_taka_23/status/1288438588145729538

この人は、いわゆる つよつよエンジニアという印象なんですけど、よわよわの人の気持ちを考えての発言ができるの、すごいですね。

ツイッター見てたら「私もよわよわなので気持ちわかります」という人より「甘ったれたこと言ってるな」的な発言する人ばかりだったので、気持ちが救われました。

(今回の質問同意(?)した人が20人近くいたので、そういう人たちを救うためにも、強い言葉ツイートしている人だけじゃないことを世間に伝えたかったのが、この記事を書いた動機です。届くかどうかわからないけど)

で、そうなんですよ、具体的な方法論が知りたいんです。欲を言えば、現実的可能なやつで。

このツイートに連なって書かれている「システムプログラミング」は現実的には私にはちょっとハードル高過ぎそうですけど、まずは「Go ならわかるシステムプログラミング」を読んでみますGoからないですけど。



以上、最後まで付き合ってくださってありがとうございました。

これ書いてて思ったのですが、この質問した人(つまり自分)が「新人レベルの若人」と思っている人がほとんどだったと思います。実際はアラフォーおっさんです。

その情報があったら、また違ったツイートになってたのかもしれませんね。

あと、弱気発言が多いですけど、実際には、感覚的には、まだまだ十分必要とされてそうなので、そこまで深刻な気持ちじゃないです。ただ、10年後とかは怖い。

2020-07-06

anond:20200706174657

昔は野菜のことをヤオサイって言ったんだよ、中国のYaoっていう民族から伝わってきたものから

ヤオサイ屋がだんだん縮まってヤオ屋になり、縁起のいい漢字を当てて八百屋になった

全部ウソだけど

八百屋ってなんだよ!

野菜売ってるならそう言えよ!!!

2020-07-04

モデルハウス奇譚

最近はずいぶん蒸し暑いですね。

私は梅雨のない地域で生まれ育ったので、この季節特有空気感に慣れるのにはまだまだ時間がかかりそうです。夏の間はいつも冷たい素麺饂飩ばかり食べているのでどんどん痩せていきます。軽くなった体で往来を歩いていると、蜃気楼の中に自分が溶け込んでいくようです。

目的地まではまだ距離があります。あまり暑いので、途中で見つけたスーパーで冷たいお茶を買いました。あとは、お土産西瓜も一玉買いました。

お茶を飲んだせいか、片手にぶら下げた西瓜が重いせいか、一歩足を進めるごとに全身から汗が噴き出てきます。もう夕暮れ時だというのに、気温はまだ高いままのようでした。

ふいに私の後ろからなまぬるい風が吹いて、石けんと汗が混じった自分匂いしました。私は夕焼けを背にして歩いていたので、目の前には自分の影が長く伸びていました。私はもうこれ以上歩けない気持ちになって、シャッターが閉まった八百屋さんの前にあるベンチに座り込みました。

しばらくじっとしていると、もう何年も前のことになりますが、初めて一人暮らしをした年の夏の出来事が頭の中に蘇ってきました。

****

私が初めて一人暮らしをしたのはとても大きな街でした。

人々の歩く速度や、次の電車が来るまでのスピードは信じられないほど早く、私はよくそれらに圧倒されて駅のホームにあるベンチにただ座り込み地下鉄を何本もやり過ごしたものです。そういうとき、街全体がそこで暮らしている人々をも取り込んだ一つの巨大なシステムであるかのように感じられました。そうかと思えば、人気のない道端は吐しゃ物やごみで汚れていたり、ぼろぼろの格好をした人々が呻きながら寝転がっていたりしていたし、私が駅のホームぼんやりしていても変に思われませんでした。同じようにぼんやりしている人をあちこちで見かけました。そういった意味では暮らしやすい街だったなと思います

この街に来たばかりの頃はとにかくお金がなかったので、いつも働き口を探していました。私は学がなく、またひどい吃音緘黙症をもっていたために仕事探しは難航するかと思われましたが、幸運なことにこの大きな街においては仕事にあぶれることはありませんでした。

私はその年の夏、街の端の方に位置する治安の悪いXという地域にある建設会社で働いていました。

上司の指示を受けて色々な住宅展示場に出かけていって、モデルハウスの前のパラソルの下でお客さんが来るのを待ちます。お客さんが来たらパンフレットを渡して、モデルハウスについての簡単説明質問応対をスケッチブックパソコンを使って行います。お客さんが来ても来なくてもお給料は変わりません。そんな仕事でした。当時はほとんど話すことができなかったので、なぜ採用されたのかはよくわからないのですが。

お客さんはあまり来なかったので、週末に図書館で上限まで本を借りて、それらを読んで時間をつぶしました。仕事が終わる時間は十八時頃まででしたが、土地勘がないのと、ときどきバスしか行けないような場所の展示場に行くことがあったために(それまでバスに乗ったことがなかったので)帰り道を間違えてしまい、ようやく家に辿りつく頃にはもうとっぷりと日が暮れているというのが常でした。

お客さんが来ない日は、モデルハウスの中に立ち入ることは禁じられていました。一日に二回、私が勝手なことをしていないか上司が見張りにきました。とはいえそれはいつも同じ時刻だったので、その時間だけ本をかばんに隠してパラソルの下で神妙にしていればよく、それ以外の時間のんびりと過ごしていました。

夏至を過ぎると一気に気温が高くなって、私はそれまで体験したことのない暑さに驚きました。外の気温が体温を超えたときなどは、時間を見計らってこっそりとモデルハウス玄関で涼んだものです。窓と玄関のドアを細く開けると気持ちのよい風が通りました。髪をほどくと、風に吹かれて私の汗と石けんが混じった匂いしました。

その日の最高気温は三十八度で、朝から晩までかんかん照りという有様でした。

お客さんは一組も来なかったのですが、あまりに暑くて読書に集中することができませんでした。仕事時間が終わって戸締りをしようとしたとき、雲のない空からまっすぐに差す夕日が、太陽を背にして玄関に立つ私の影を家の中まで長く伸ばしました。

それを見た瞬間、真新しい家の二階の窓から夕焼けを見てみたいという強い気持ちが私を襲いました。それまで、お客さんが来ないときに家の二階まで入り込んだことはなかったのに。

ここで働くようになって初めて、新築の家の匂いを知りました。それは、少し化学的な匂いと、新品の布や畳の匂いとが混ざった匂いです。

階段を静かに上りながら、この家に自分が住んでいる空想しました。ベランダが付いている部屋を見つけて、ここを私の部屋にしようと思いました。その部屋の窓は南西に向いていて、西日が差し込んでいました。この場所には学習机を置いて、ベッドの向きはどうしようか?壁の一面には大きな本棚を置きたいけど、背表紙日焼けをしないように扉が付いたものでなくてはいけないかもしれない。友達が遊びに来たときのために小さいテーブル必要かもしれないな。そんなことをつらつら考えているとなんだか少し悲しくなってきて、その気持ちを振り切るように窓を開けてベランダに出ました。

辺りはすっかりオレンジ色に染まっていて、建物木々や道を歩く人々の輪郭曖昧にしていました。

それらを見つめながらかすかな風の中に佇んでいると、少しずつ気持ちが落ち着いてきて、これからまた何だってできるような気がしてきました。何しろ私はこんなに大きな遠くの街にいるのだから

部屋を後にしようとしたときクローゼットの扉が少しだけ開いているのがふと気にかかりました。窓を開けたせいで風にあおられて開いてしまたかもしれません。二階に上がったことを上司に知られてはいけないので、扉を閉めるために私はそこに近づきました。

扉の隙間からは妙な匂いしました。新築の家には似つかわしくない匂いです。手垢で小口が汚れた古い辞典をめくったときや、寂れた地下鉄の駅のホーム列車が来たときにこんな匂いかいだような気がしました。大工さんが中に何か忘れていったのかもしれないなと思って、私はクローゼットの扉を両手で開きました。

****

初めに「それ」を見たとき、私は大きな置物や等身大人形の類かと思いました。しかし「それ」は紛れもなく本物であるようでした。

「それ」を目にするのは初めてではありませんでしたが、こんなに乾いていてさびしげな「それ」を見たことはありませんでした。ほとんどミイラのようになっていたので、いわゆる腐乱臭のようなものは感じられませんでした。ひどく痩せていて、夕日が肉の落ちた腕やあばら骨の浮いた胸に濃く影をつくっていました。眼窩は落ちくぼんで暗くなっていましたが、色々な方向からのぞき込むと、小さな白い虫が奥の方でひっそりと蠢いているのが見えました。

夕暮れどきの時が止まったような不思議雰囲気のためか、私の心は奇妙なほど落ち着いていました。あるいは、日中の暑さで頭がうまく働かなかったのかもしれません。

ここでの私の仕事は、パラソルの下でお客さんを待ち、お客さんが来たら簡単説明質問応対を行い、時間が来たら戸締りをすることです。もし家の中に「それ」があったときには上司に報告したり警察通報したりするように、などという指示は受けていません。私はクローゼットの扉を静かにぴったりと閉めました。

部屋を出て階段の方に向かったとき、奥の部屋から何かの気配と殺気のようなものをふと感じました。私は子供の頃に大きな野良犬対峙したときのことを思い出しました。その犬からはまっすぐな殺意が感じられましたが、奥の部屋から漂う殺意には迷いがあるようでした。そこにいる何かが心を決める前に、私は階段下り玄関のドアを開けて戸締りをして、人通りの多い道を選んで駅まで歩きました。

****

ふと気が付くともう太陽が沈むところでした。私の目の前には誰かが立っていましたが、暗くて顔がよく見えませんでした。大丈夫ですかと尋ねられて初めて、私はその人が恋人であるとわかりました。

約束した時間を過ぎても私が家に来ないので迎えに来てくれたようでした。夏でもいつも平気そうにしているはずの恋人の額には汗が浮かんで、髪が少し乱れていました。

ぎゅっと心臓をつかまれたような気持ちになって、迷惑をかけてしまたことを謝りました。彼は私の頭のところにそっと手をやって、あまりにそこが熱くなっていたらしくびっくりしていました。こんなに暑いなのだから自分がそちらの家を訪ねればよかった、すみません恋人は言いました。そうやってベンチにすわってお互いに何度も謝り合っているうちに少し涼しくなってきたので、家に向かうことにしました。

手を繋ぐと、恋人の腕の内側の皮膚が私の腕に触れました。少し汗ばんだあたたかいその皮膚は、その下に肉や血の通った血管があることを教えてくれて、私はそれで少し安心することができたのでした。

今日晩御飯は一緒にピリ辛茄子素麺を作る約束をしています西瓜はすっかりぬるくなってしまったけど、水とたくさんの氷を浮かべたお風呂に沈めておけば、夕食の支度をして食べ終わった頃にはちょうど冷えているかもしれない。そんなことを話しながら、蒸し暑い夏の夜道を二人で歩きました。

2020-07-02

anond:20200702180435

大工左官屋でも原価と比べて報酬が高すぎるとか手間賃ぼったくりじゃねとか言う人は普通にいるだろうと思うが。

つか普通に売ってる物でも値切る人はいるし。

スーパーなんかは値切る文化なくなったけど、昔の古き良き八百屋なら値切って買ってたわけだし

電器屋とかなら今でも値切るよね。

単にクリエイタープライド高すぎなだけじゃね。

あとメルカリだと「フリマ」だからと値切る勢とただの通販・値切るなんてありえない勢がいると聞いた。

普通フリマだと値切る文化あるしね。

2020-06-27

anond:20200627123152

あそこの八百屋借金抱えてるから桃は50円で買い叩くとかならないじゃん隣町の八百屋が無借金の150円で売ってたらどうやったって100円台で売れてくだろうしでもまあこのたとえだとちょっとありそうだけど

2020-06-19

7日後死ななかったカニと2時間で死んだドジョウ

さっき増田知ったから読んできたんだけど

いや食わんのかい

鮮魚の店でドジョウを買って帰った日の事を思い出す

私は小学校2年生だった

海無し県なのにそこそこ新鮮で良い魚を揃えている魚屋

大手スーパーの隣という立地にも関わらず

八百屋肉屋が併設されておりそこそこ活気があった

スーパー駐輪場に出る焼き鳥屋鯛焼き屋目当てで買い物について行った

母は魚屋トロ箱に入っていた活きドジョウをひとすくい買った

緑色プラスチック笊ですくわれたドジョウ我が家のものになった

食べられて死ぬドジョウと生き残ったドジョウ魚屋の手の動き次第で

きっと事故死ぬのもそんな感じだろうなと思ったのを覚えている

ドジョウ不安定ビニール袋に入れられていたので私が持つ事になった

そこでわずかに責任感と、動く生き物の感触への庇護欲が芽生えた

いや嘘だ、それは大人になった自分感性であり私はもっと愚鈍小学生だった筈だ

とにかく私はドジョウを無事持ち帰った

母はドジョウを下洗いし、衣をつけ、揚げ油に入れていった

ドジョウはほんの数センチ油鍋の中を泳いでからぷかっと浮かんだ

私はその様子が恐ろしくて、母に頼んでドジョウを三匹分けてもらった

イチゴの空き容器に入れて飼おう、このドジョウを守ろうと思った

めそめそとしている私を尻目に祖父は揚げたてのドジョウを食べた

祖父っ子だった私もそれに倣って食べた

これが異様においしかった

泥臭さもなくサクサクとして塩だけでも旨味があった

もうドジョウないの?と聞くと食べきってしまったようだ

揚げ油はまだ温かく別のものを揚げている

私は床の間に置いていたイチゴの空き容器を台所に持って行って

「これも揚げて」と言った

私は小2からそういう人間

いただきますとごちそうさまは必ず言う事にしているが

それも行儀ではなくそういう自分を許すためだ

2020-06-01

年収1400万円のドケチリアル

48歳男会社員、既婚子ども二人、関東郊外在住、年収額面1400万円ほど。手取りはなんとか4ケタ乗るくらい。

たま~に本を書いたりしていて、8万部売れたときもあり、そういう時はもっと増える。

金融資産は7000万ぐらいかな。

妻が正社員で働いていたころは世帯年収2000万はあったが、今は気が向いたらバイトする位なのであまり稼いでいない。彼女いくら金融資産を持っているかはお互い秘密にしていて分からない。しか証券会社信託銀行から電話が来るのでおそらく数千万はあるのではないか

家賃について

8000万円ぐらいで買った持ち家。住宅ローン住宅ローン減税が終わった10年目に全額繰り上げ返済したので家賃ゼロだ。

ただおととし外壁の塗り替えして120万ほどかかった。あと固定資産税が毎年25万ほど。

庭付き5LDK注文住宅だけど、2部屋納戸に使ってしまっているのでテレカンするとき子供の部屋を借りている。自分の部屋欲しくなってきた。

普段食事について

朝はトーストピーナツバター塗って食べる。以上。孫がかわいそうと親から言われる。

昼は平日は500円の弁当買って食べることが多い、外食なら牛丼とかサイゼリア多め。

マクドナルドでは基本的チキンクリスプなど100円マックしか食べない。

夜は妻か僕が作る料理を食べる。特にいいものは食べないが野菜タンパク質意識して摂るようにしている。

家族外食は月一回程度。回転寿司定番だがほとんど100円の皿しか食べない。

飲み会などの食事について

接待など仕事の付き合い以外ではあまり飲みに行かない。

自腹で飲みに行くなら鳥貴族に行きたい。

酒は家で毎日飲んでいるが、ワイン以外は全てふるさと納税の返礼品。昨年泉佐野市からもらった金麦ストロングセロがまだある。泉佐野市新ジャンルビール缶チューハイがあって良かったが、無くなってしまったので今年はどうしようか。

ワインは3リットル1000円のチリワイン最初は寂しい味だなと思ったが慣れると普通になり、たまに一本1500のワインを飲むととてもおいしく感じるので実にコスパがいい。

コンビニスーパーでの買い物について

恐ろしいことに世間では激安スーパーとされているOKストアが我が家では高い店とされていて、遠くのもっと安いスーパーまで車で行ってまとめ買いしたりしている。

あとは業務スーパーとか激安八百屋さんとか。ヨーカドーとか行くと高くて何も買えない。

和牛を買ったことはない。ふるさと納税でもらう。買うのは輸入牛のみ。お米も全てふるさと納税だ。

コンビニは高いかほとんど行かない。子供の服からコンビニレシート出てくると「もったいない」って説教するくらいのドケチ

ファッション

ユニクロ。他はロンドンスポーツ御徒町の激安スポーツ店)とか、デカトロンとか。ワークマンも何回か買ったがイマイチのものが多い印象。

シャツアウターユニクロ

クリーニングは遠いがシャツ一枚99円の激安店を愛用するほどのドケチ

散髪は当然QBハウスだ。

女性関係について

既婚でいい年なので浮ついた話はなし。第一ケチだしモテるけがない。

車について

輸入車一台保有。妻が擦ってへこませたが、直さずそのまま乗っている。

ハイオク指定だが、給油時にハイオクレギュラーを半々づつ入れ、ヨーロッパオクタン価に合わせている。これをめんどくさいと思わないのがドケチである

現金で買った。

貯蓄について

毎年300万円ぐらいは貯蓄や投資にまわる。

最近エンジェル税制使って税金を減らすためにシードのベンチャー出資したりしている。我ながらドケチである

旅行について

妻が以前航空会社CAをやっており、その関係飛行機が9割引きで乗れるのでそれを使って年1~2回位海外旅行に行く。子供たちも10か国位行ったことがある。

これはうらやましがられるが、空席がもしあれば乗れるというだけで、満席で乗れないこともありいつもヒヤヒヤである

旅先で贅沢することはほとんどなく、ホリデイインエクスプレスを愛用し、無料朝食を食べたうえ、昼食用サンドイッチを作って持ち出したりする(OKなのです)。また、日本から持ってきたお菓子カップ麺を部屋で食べたりするドケチ

子供教育について

私立学費や塾などで、一人年間100万円ぐらいかかっている。ここはドケチでもないか

もし将来子供医者になりたいとか言い出して、底辺私立医大なら何とかなるデキだったら行かせてやりたいと思うし、間違ってスタンフォードに行けるみたいなことがあれば行かせてやりたいのでそのためにお金貯めてるつもり。だけど成績文系っぽいし、そこまでの出来ではなさそうなので無駄になるかも。

贅沢

贅沢した記憶はあまりない。強いて言えば東京マラソンチャリティー枠(11万円)で2回走ったことがあるとか、東北震災の時に日赤10寄付した位かな。あと、月3000円だけどプランジャパンスポンサーになっている。

寄付する気はあるが、ドケチなので寄付金控除が効かないところには寄付意欲がわかない。医療従事支援もどこか寄付金控除が効くところにヒカキン1000分の1位寄付したい。

結論

生活レベルってのは使う金の額で決まるので、ここらへんだと収入との相関は弱いかも。もっと少なかったり、もっと稼いでる人のほうが相関強いのかもしれない。

anond:20200531081711

2020-05-30

もしこの世からスーパーマーケットがなくなったら、

お前たちはお肉屋さんとか八百屋さんとかお米屋さんとかパン屋さんとか乾物屋さんとか卵屋さんとか雑貨屋さんとか洋菓子屋さんとか和菓子屋さんとか豆腐屋さんとか佃煮屋さんとか行くんですか? 魚屋さんにも行けよ? 

2020-05-16

小さい頃の思い出の場所が次々と駐車場になっていく

自粛中ではあるけどフラット散歩してみると、思い出の場所がどんどん無くなっていることを痛感する。

かつての思い出の場所は次々と駐車場になっている。

先頃の不景気では店を閉めようにも、物件をどうしようもないから、駐車場にしちゃった方がいいって判断なのかな。

かに一軒は店主が◯吊りで死んでたって聞いた。

そうなると次入れないもんなあ。

見事に後がコンビニになったり飲食チェーンが入った場所もあるけど。

俺が子供だった頃とはかなり様変わりしてるが、たった数十数年でこんなに明暗別れるか。

魚屋スーパーになった後駐車場になった。

八百屋飲み物屋になった後駐車場になった。

カメラ屋はそのまま駐車場になっていった。

カメラ屋は店主のお爺さんがうちの死んだほうの祖母ちゃんと昔恋人感覚だったなんて話も聞いたことあるから他人事では無かった。

まあ、元はと言えば俺が中学時代に初めて童貞を失った場所でもあるのだが・・・その話は勘弁してくれ。

まあそんな話は置いといて、本当に悩んだんだろうな。

悩みに悩み抜いて悩んだ結果。

本当は孫の代まで続かせようとも思ってただろう。

でも高齢化社会では後継者も到底OKしてくれないだろうし。

結局月極駐車場にするのが鉄則なのかな。

2020-05-08

anond:20200508051230

漫画アニメに出てくる父親キャラって作者の世代による父親像が反映されてると思うんですよ。

波平さんは「ザ・頑固オヤジ」だし、ちびまる子ちゃんの父はいつもヘラヘラして何の仕事してるかわかんないし(実際は八百屋だったらしいけど変えてしまたから作者が「父親仕事姿」を想像できなかったんではないかと思う)野原ひろしは平日は毎日クタクタ。土日は家でゴロゴロ

平成に入ってからは、作者が「父親仕事でいつも家にいなかった」世代が増えてきたからなのか父親不在の家族も出てきた。これは高橋留美子作風の影響が大きいけど。

もちろんどれも魅力的な父親キャラではあるけど、現代父親を見てるとギャップを感じてしまうのは無理ないかなと思う。

共働きの親に育てられた作者が増えてくれば仕事家事もするし空気にならない父親も増えてくるんじゃないでしょうか。

2020-05-04

anond:20200504111423

一回の人生毎日好きなもの食べていいというとすご自由なように思えるけど、

実際、よく出来た八百屋魚屋肉屋、輸入食品店、農産物ショップなんかがそばにないと、

あんまり代わり映えしないものしか食べられないよね

2020-04-22

anond:20200422073239

用意できた売り物が3000個だし、八百屋の軒先でも販売できるなと思ってたら、東京オリンピックくらい人が来てしまったでござる。

って感じだったのかなぁ。

2020-04-17

anond:20200417111417

この前八百屋さんで教えてもらった。

刃物里芋の皮剥くと身が結構持ってかれちゃうけど、スプーンだといい感じなんだよね。包丁の背もいいよね。

2020-03-09

最寄り駅の再開発で何もかも不便になった

金沢八景という駅の近くに住んでるんだけど

何年も前からやっていた駅前再開発がやっとほぼ完了した

その結果、何もかもが不便になってしまった

駅はキレイになり駅ビルが出来たが

今までは改札入って階段を上がるだけだったのが、3階まで上がって2階まで下がらなければならなくなった

駅前には本屋八百屋があったが、そこは綺麗なバスロータリーになり店は帰ってこなかった

肉屋魚屋が併設されていたスーパー駅ビルに帰ってきたが、肉屋魚屋は帰ってこなかった

ついでにホームセンターマツキヨも無くなった

路線シーサイドライン)との乗り換えは簡単になったみたい。利用者は助かってると思う

ただ私はもとの駅の近くに家があったので、これも不便になった

あーあ、前のままが良かったなー

2020-03-05

anond:20200305002405

まあわかってると思うけど、

君のは一般論で、現実個別具体的な理由とはカテゴリが違うわけよ。

「オレの抽象的な疑問を解決するためにお前らの個人的な話をしろ

ってのは、算数計算問題の答えがわからなくて八百屋店頭りんごミカンの数をリサーチするようなもんよ。

答えない。無駄から。君には聞く資格がまだない

2020-02-25

anond:20200225212607

東京いたときコープさんで牛乳、冷食、野菜買ってたなぁ。

徒歩1分以内においしい八百屋さんがあったので時々そこで運んでもらってた

週末頑張ってSEYUとオリンピックマルイの地下に行くんだけど

冷蔵庫が小さかったので。

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-02-03

宇崎ちゃんポスター問題赤十字ガイドライン予想

件の献血ポスター

俺はどっちも問題ないと思っているけど、もしガイドライン制定担当者になったらどうするか?

第一https://urbanlife.tokyo/post/22892/

第二弾 https://www.huffingtonpost.jp/entry/uzaki-chan_jp_5e366317c5b69a19a4b084b7

俺が見たかぎり、批判者が言いたいのは「表情」と「ピチピチの服」だろ。

1つめ、「表情」についてはかなり難しい。

批判者が第一弾の表情を「アヘ顔」と呼んでいるのを見たが、これは断じてアヘ顔」ではない。

wikipediaによれば

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E9%A1%94

アヘ顔とは「性行為最中における架空キャラクターの表情を表現した日本ポルノ用語

なのだ。つまり、性行為というコンテクストがないと成立しない表現なワケだ。

宇崎ちゃんの顔は「先輩を煽るウザい顔」である、というコンテクスト理解していれば

全く性的表現では無いと言えるので、「アヘ顔」論者は「アヘ顔」の意味を誤解していないか

コンテクスト理解不足と考えられる。

しか問題もある。

A. 批判者は、コンテクスト理解しないと批判してはいけないのか?

B. コンテクストを誤魔化した性的表現は許されるのか?

AについてはYES批判者はコンテクスト理解すべきだ。

BについてはNO、ただし「明文化および規制はできない」だと考える。

まずAについて。

悪意なきコンテクスト理解しないことによる解釈の違いとは「勘違い」と言い換えることができる。

人間感性は本当に様々で、勘違いが発生しない表現など不可能だ。

これを突き詰めると、女体の下半身に見える根菜を売っている八百屋猥褻物陳列罪にあたるか?

という話にさえ及びかねない。

まりコンテクスト理解すれば問題無い表現に関しては、素直に矛を収めるべきだ。

Bについて。

「悪意なきコンテクスト」と書いたが、実際には脱法的ハイコンテクスト悪用している2次元作品存在する。

例を挙げると、アンサイクロペディアにさえネタにされる「エロゲー登場人物18以上」問題だ。

https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AF18%E6%AD%B3%E4%BB%A5%E4%B8%8A

(断っておくと、俺はそもそも非実在児童ポルノ規制には反対だが、分かりやすいので例示する)

これは18歳未満との性交を避ける業界自主規制に関するエクスキューズなのだが、

ランドセルしょって成年です」はねぇよと思いつつ、設定次第でどうとでもなるので

コンテクストに基づく明確な判断不可能

かといって、見た目で判断となると「この絵は幼く見える」という絵柄魔女狩りが始まるのは目に見えているので規制すべきではない。

それでも、「悪意ある脱法」だと確信するなら、根拠を示して堂々と批判すべきだ。

極端な例として、エロ漫画コマを寄せ集めた「アヘ顔Tシャツ」なるものちょっと前に話題になった。

エロ大丈夫な人は検索してね)

これを街中で着ていたら、紛うことな環境セクハラだと思うが、

着ている人に「別に裸が写っているわけじゃないし表情だけで判断できないよね?」と言われたら?

安心してほしいが、ネットを見る限りほとんどのオタクはこのTシャツドン引きしてたし、

エロ漫画家が描いたエロ漫画の1コマ」というコンテクストを考えれば客観的批判正統性が保たれる。

つまるところ、ハイコンテクストコンテンツガイドラインによって規制するのは困難である

本当に問題のある表現赤十字のような公的組織採用した場合

その根拠も添えて批判すべきであり、根拠が正統ならオタク含めて大衆批判に晒されるであろう、と俺は思う。

2つめ、「ピチピチの服」は理解できるし、まだシンプルだが基準を作るとなると話は別だ。

第一弾のイラストを見ると、確かに乳房付近は他の上半身部分に比べて

シワひとつない、ぱっつんぱっつんだ。

漫画コンテクストを考えても胸の大きさがキャラクター性の1つとなっており

女性的な胸部を強調した表現であることは否定し難い。

巨乳から隠せない、仕方ない」という意見もあるだろうが

漫画公共ポスターという性質の違いを考えると、確かに適切な表現は変わってくるだろう。

例えるなら、同じ巨乳女性でもパーティ葬式では着る服が変わってくるようなものだ。

ここで俺は、ガイドライン担当者として、その線引きを考える。

「ピチピチはダメ」「乳袋ダメ

これでは曖昧すぎる。

第二弾を見るに「上着羽織っていること」?

巨乳がわからないようなデザインにすること」?

これでは巨乳女性ファッション社会通念的に制限することに繋がらないか

まだ水着とかなら非日常的だし、「肌の露出度が」「局部の際どさが」と言えるだろうが

そもそも「ピチピチの服」=「性的」と定義して良いのか?個人性癖では?という問題にさえいきつく。

これは俺個人の予想だが、カフェバイトウェイトレス制服である

= 宇崎ちゃん個人ファッションではなく着せられている

= ステレオタイプ女性店員に対する性的消費表現

批判者は捉えているのではないだろうか。

興味深いことに、コンテクスト理解していない批判者がいる一方で、

そのコンテクスト批判材料にしているようにも見える。

さて、俺は悩みつつも、仕事なのであえて明文化するなら

女性の胸部を過度に強調した表現を控える」とだけ書くだろう。

前述したように明確な基準を作るのは不可能なので、このように曖昧表現をするしかない。

おそらくすぐに形骸化するだろうがやむを得ない。

また可能ならば「女性の体型自体問題としない」と併記すべきだ。

筋肉を強調した表現」と「マッチョ表現」を描きわける難しさを考えて欲しい。

いろいろ書き殴ったが、批判者の目線に立つとやはり「何か言いたいが曖昧批判せざるを得ない」気持ちはわかる。

批判者、反論者双方とも、「こんな意見もある」と捉えてお互いの領分を犯さない程度で収めるべき問題だと感じた。

批判者はこれだけ反論が出るのは「セクハラに対する男性の不理解」だけが原因ではないと考え、安易規制論に走るべきではないし

反論者は見慣れた表現でも見る人によっては不快になるデリケート問題だと理解すべきだろう。

2020-01-31

個人経営模型店とかの話

Amazonヨドバシの方が安いのは分かっているけど、やはり模型店で育てて貰った義理もあるので極力近所の模型店お金を使っている

ただ、お願いだから常連レジでダベるのはやめて欲しい。確かにレジに行けば店員会計してくれるし、常連も一歩くらい後ろに下がるけどさ

が居るレジに「ちょっと会話途切れさせちゃってすまないね」って気持ちになりながら行くのって面倒よ

常連同士がダベるのも良いし、レジ以外のスペースでダベるのも良いと思う。客が常連だけならレジで話したって良い

でも客が入ってきたら少しは遠慮しようよ。そりゃそこに居る常連の方が落とす金多いかもしれないけどよ

ただ、変わんなきゃいけないのは常連な。居酒屋でもバーでも八百屋や魚やでも、常連がダベるのは多いけど大体空気読んで常連から帰っていく

プラモ屋の常連は違う。レジが終わったら戻って再び話し始める。帰れよ。お前が居て良いのは平日17時まで。それ以降は子供会社帰りの大人が来るの。週末はむしろ17時以降に来い。開店から夕方普通の客が来るんだ

と言うか、模型店にたむろする時間あるなら家帰ってプラモ作れ。空気読め。お前の唯一居場所とか知らないわ。そんなんだから上みたいな見た目なのか、上みたいな見た目だからそんなのになったのか

どうせなら結婚して子供作って新しい模型世代を育成しろよ。良いか常連ってのは金落とすのも大事だが、新しい顧客が居着きやす雰囲気を作るのも大事だぞ。金落とすだけが正義じゃない

2020-01-11

[]2020年1月10日金曜日増田

時間記事文字数文字数平均文字数中央値
00447465169.731.5
0142231255.028
02182893160.781.5
03373926106.140
0492201244.675
051089689.666.5
061462644.734
0730168256.145.5
081261061584.240.5
091861051556.535.5
101891126359.625
111701035760.929.5
12135894266.228
138712385142.450
14125748359.937
15150954963.731
16182910350.021
17119803567.530
18134826861.721
1989527259.232
201541203878.235
21149832855.926
2290743182.635
2315019398129.357
1日243918098374.232

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