はてなキーワード: 人種的とは
「会話を哲学する コミュニケーションとマニピュレーション」/三木那由他 を読んだ
本筋とはそこまで関係しないかもしれないが、下記の文が凄い気になってしまった
「もちろん、性的マイノリティだけでなく、女性や在日コリアン、生活保護受給者、障害者、人種的マイノリティ等、さまざまな人々にそれは向けられています。」
「女性や」ってそこに並べるのってなんか随分書き方が雑なのではと思って引っかかってしまった
人間の約半分は(生物学的に、SEXが)女性な訳だし、単純に数の面でマイノリティ度合い(?)がちょっと違くない?
私自身において相対的に上記で述べられているその他の属性に対して潜在的な差別感情があるのでは、と言われたら否定できないのかもしれないが
・
ちなみに文脈を簡単に書いておくと、上記の文は「マニピュレーション」=会話における「互いに相手の心理や行動を、自分の望む方向へと変化させようとしている」側面、中でも、「悪質なマニピュレーション」(差別を煽るような文脈で使われる)に関する記述の中に出てきます
たとえば今だと多数決ならとある宗教を「邪教」として禁止さえできそうですよね。でも、多数決でも、「内心で信仰させろ」「儀式は続けさせろ」までは侵せない理由付けが「自由」です。
反多数決主義の難点という議論がアメリカで古くからある。選挙で選ばれていない裁判官がなにゆえ選挙で選ばれた国民代表議会の法律を覆すことができるのか、というやつである。これは、単なる哲学的問題ではない。19世紀末から20世紀前半にかけて、産業資本の著しい発展の弊害が顕在化してきた。それに対して立法的対処を行ったところ、裁判所が「契約の自由」を盾にしてそれを違憲にしたところから来ている。
もう少し具体的に言おう。ニューヨーク州議会が、パン屋の労働時間を規制する法律を作った。一日10時間、週60時間までという規制である。これに反して処罰を受けたあるパン工場経営者は、労働者をどのくらい働かせるかについては、契約の自由があるのだからそのような規制は違憲であると主張した。そして連邦最高裁はその主張を認めたのである。このような判例法理が通用した時代のことを、この著名判例(Lochner v. New York, 198 U.S. 45 (1905))の名前をとってロックナー時代という。
すったもんだの末、ロックナー判決は否定されるに至る。どのように否定されたかというと、これがある意味羮に懲りて膾を吹くというようなやり方なのである。すなわち、裁判所は議会の制定した法律については、原則として合憲の推定を与える。議会制定法については、①目的が正当か、②目的と手段が合理的に関連しているか、しか裁判所は審査しない。換言すれば、手段の必要最小限度性を要求しないということであり、まことに緩い審査基準である。こうなるとまたしても困った事態が発生する。確かに、労働関係の規制については、そのくらいゆるい審査で良いかもしれない。しかし、議会に自らの利益を代表してもらうことができないような少数派の利益を押し潰すような法律を議会が作った場合も、そんな緩い審査基準を適用して良いのだろうか。連邦最高裁は、戦前の判例の中で、キャロリーヌ・プロダクツ判決(脱脂粉乳の規制に関する法律が問題になったのだが、それは措く)の脚注4で、人種的・宗教的あるいはその他の少数者の利益が問題になった場合などは、別の処理をするかもしれませんよ(この事件はそういう人が問題になっていないが)、ということを仄めかしている(United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144 (1938))。
このような戦前のアメリカの判例を取り入れて始まったのが有名な二重の基準論である。二重の基準論は、精神的自由については厳格な審査を、経済的自由については合理性審査をという図式として受容されているのだが、実際には、一般的には裁判所は合理性の基準という緩い審査しか行わないが、政治過程の中で不利になっている少数者の利益が問題になる場合は、審査基準を厳格化する、というものなのである。一般論としては合理性の審査しかしない、というのがミソなのである。
芦部説はこのような議論を巧妙に換骨奪胎(?)し、精神的自由の制限は、政治過程そのものを傷つけるおそれがあるから、原則として審査基準が厳格化する、という議論を立てた。こういった議論はアメリカにも見られる。ところが、これを逆に考えると、精神的自由の制限であっても、政治過程そのものを傷つけるおそれがない場合には、裁判所は合理性基準で審査するべきだ、ということにならないだろうか(ロバート・ボークというある意味悪名高い裁判官が直球でそういうことを言っている)。これが問題になる典型的な事例が「わいせつ」である。少なくともハード・コア・ポルノ※に関しては、その禁止が政治過程を傷つけるとは言えないだろう(アメリカの場合、猥褻obscenityに該当する言論については、第一修正によって保護されないので、合理性審査すらしなくても良いということになっているのだが、それは措く)。わいせつの規制は、精神的自由の制限ではあるが、厳格審査に服しないというのが、反多数決主義の難点に対して一般に合理性審査を行うという解決法を用意した司法審査論の帰結となる。
ハード・コア・ポルノに対する規制を(も)廃止するべきだと考える者が、表現の自由論や民主主義を素朴に信奉するのも考え物である。一般論として合理性審査をもたらす反多数決主義の難点という論点それ事態を疑ってかかる、つまり、多数決によって事態が進行する議会政、多数決主義それ自体を排撃したり、あるいは、ハード・コア・ポルノの規制に対しても厳格な審査をもたらすような議論を何とかして立てるほかあるまい※。そういうことをしない表現の自由の信奉者は、表現の自由で戦死せざるを得ない。
※長谷部恭男『憲法』などを読むと、刑法175条違憲論が、単なる「表現の自由」によって支えられているわけではないということが分かる。
一食おかずに200円を出せば贅沢という環境の中でたんぱく質とビタミンと食物繊維の連合軍と日々戦っている。
当然買い物は客寄せ用だろう日々の激安品のみを狙い打つわけで、食べたいものを食べる生活とは分かれて久しい。
そんな増田にも謎の矜持があり、「玉出で買い物したら終わり」という謎の意識があった。
昔、まだ普通の生活をしていたころにネットで玉出の話題を見てその安さや惣菜のヤバい雰囲気?を語っている場面を幾度か見てきたからだと思う。あとは個人的に丸いロゴが昭和、いや平成初期っぽくて古臭い。イズミヤとかもな。さらに黄色いテーマカラーが古臭さを加速させてしかたがないという偏見。
幸い、ではないが最寄のスーパーに玉出はなく、自宅からの距離的には通うには一歩遠い距離で意識的に避ける必要がなかった。
それでも大阪を回ってみればそこそこ見かける各店舗。そんなある日、玉出の目の前で予定がキャンセルになった。
ぽっかりと空いた自由時間。目の前には謎の店玉出。増田の足は気付けば玉出へと向かっていた。
(玉出とは
https://twitter.com/ikaring63036919/status/1395281116966227970
https://twitter.com/ikaring63036919/status/1395615475376087041
増田の金銭感覚から言えば感性がバグるぐらい安いスーパー、ではなかった。
他店のチラシの特売品ばかり買っている身とすれば通常価格だっただろう品々はそれらには及ばないし、生鮮食料以外の普通の食料品、既製品も普通のお値段。他店にくらべ部分的に安かったり高かったりでごく普通だ。
ひとつ特徴的だと思ったのは、生鮮食料の産地だった。韓国産やインド産やメキシコ産の肉や魚がずらずら並んでいる光景はなんだかカルチャーショックを受けた。産地が明確なのはいいよね。
とはいえ増田の体は業務スーパーのブラジル産の鶏肉で出来ている。その体はアメリカとカナダ産の大豆。卵のサイズを選ばず(ミックス卵)。その体はきっと賃金が安い労働者たちによって支えられていた。
あまり他者を笑える生活をしていないので、玉出のそれもヤバい点というわけではなく興味をそそられる特異点として紹介ということにさせてほしい。こんなものが輸入されているのだなあと本当に新鮮な体験だった。
(魚は本当に金額的にアウト・オブ・眼中なので輸入品のそれらが安いものかすら増田にはわからなかった)
惣菜についてもほうほうこんな感じねという印象で、質・値段ともに強烈なものはなかった。お弁当は平凡そうだが、どんぶり系は見た感じ普段のスーパーより一回り大きい容器を使ってよさそうだった。ただ最近は上げ底絞り底が横行しているので実際はわからない。
焼きそばはお得感があるボリュームで、これは既知の店より勝っていたと思う。
また、寿司にも力が入っており普通の10種盛りのほかに特定のネタだけ数貫ずつバラで売っているのはうれしい。食べたいネタだけつまめるのはありがたそうだ。しかしあの魚の産地の豊富さを思い出すと食指は伸びなかった。
これで値引き率が50%を超えるならかなりサイフに優良と言えるが、時間帯が閉店までまだまだあったので残念ながら値引率はわからない。
これは値段とは別の話として、店内のいくつかの照明がおそらく意図的に高速で点滅していた。頭上のみならばさほど気に障らないが、食品のフィルムにそれぞれに反射して非常にチカチカして値段や品が見づらいわでとてつもなくうっとうしかった。これはなにかサブリミナルな催眠効果を狙っていたのだろうか?少なくとも増田の購買意欲は減少した。
最後に、韓国・中国産の生鮮食料のほか、手書きの韓国語と中国語の張り紙やおそらく人種的に黒人な店員さんが居てこれもまたなんともいえぬ異国情緒があふれていた。何か言うとうっかり差別的になりそうだから深くは語るまい。玉出があった地域的な特色だったかもしれない。外国語の張り紙が効果的で感謝されるようなグッドな施策なのだろう。しかるになんというか玉出には品や店員や客を含めてそういった層があるわけで、非常に懐が深い店なのだなと思いました。
まあちょっと暗めの照明もあいまって独特な雰囲気はあったけれど、風評はネット特有の誇張されたものなのかなと。入ったことがない人は一度入ってみるとちょっと面白いかもしれない。
というわけで増田にとって玉出は常用するスーパーにはなり得なさそうという結論に至った。
しかしこれは喜ばしいことであろうか?
先述のスーパー一覧表で「お値段異常」と呼ばれるサンディすら特売や数点の地域最安値のメーカー品しか買わない増田だ。生鮮食料はサンディでは買わない。
増田が常用しているのは業務スーパーと表にも載っていない地域型スーパーや障碍者支援だろう八百屋などだ。
一ヶ月半をだいたい1.5万円の食費で暮らしている。辛い。値上がりの波も来ている。家計簿を振り返ると10種類以下の品目しか買っていない月が多い。
増田がするべきは「玉出で気兼ねなく買い物できる程度の生活」への脱出なのである。玉出を笑ったり恐れている場合ではないのだ。ああ、しかし、そのための道筋はいずこ…。
次はサンディと同じく「お値段異常」と呼ばれ惣菜が特徴的らしいラ・ムーに機会があったら寄ってみたいと思う。こちらも「行ったら終わり」だと勝手に思っている店なのでいろいろ不安だ。もしそこで安すぎる食べ物があったら増田はその誘惑に勝つことが出来るだろうか。嗚呼しかし、金は命より重いのだ。
本来のアジア人は古モンゴロイドつまりインディアン、アイヌ、琉球人のように二重で目がぱっちりして、顔の彫りが深く、輪郭もくっきりした美しい顔立ちをしていた。
しかし、ある日朝鮮人、弥生人のように一重、目が細く吊り目、面長、鼻が低く、アデノイド顔貌の醜い集団が発生した。
新モンゴロイドだ。
純粋なアジア人の一部はアメリカに渡り、インディアンとして高度な文明を気づいた。
一方、旧大陸では本来の美しいアジア人が新モンゴロイドの遺伝子に汚染されてしまい、醜い顔になってしまった。
日本人も本来はアイヌのような顔の彫りが深い美しい民族だったのが、朝鮮からの渡来人に汚染され、今日に至る。
温厚で心優しい一方、好戦的で勇敢という一見相反する基質を兼ね備える
彼らは敵対しない者に対してはお人好しとも言えるレベルで優しいが、一度敵対すれば極めて攻撃的で恐ろしい相手となる。その例はいくつかある。
・東北の蝦夷安倍氏は、一度朝廷との対立関係に陥ったが、すぐに恭順の意を示し、争いを避けた。しかし、陸奥守が口実をつけて、蝦夷を挑発すると恐ろしい敵となり、その鎮圧に12年を要した(前九年の役)
・アステカの王はスペインの征服者コルテスを神の化身と考え丁重にもてなした。しかし、スペイン人がそれをいいことに破壊・略奪・虐殺に走ると、怒り狂いスペイン人を一度撃退した(悲しい夜)。更にスペイン人は大軍でアステカの首都テノチティトランを包囲するが、激しい抵抗に遭い陥落に3ヶ月を要し、コルテス自身も危うく死にかけた。
・スペインの征服者ピサロはインカの皇帝アタワルパを殺し、その弟マンコ・ユパンキを擁立する。しかし、スペイン人の残虐行為に堪忍袋の緒が切れ、スペイン軍に蜂起を起こした。その後36年間にも及ぶ激しい抵抗を続けた。マンコ皇帝自身は度々和平を申出たが、スペイン人の不当な要求を飲めず抵抗を続けた。ピサロが仲間割れで暗殺されると、マンコは寛容にもその暗殺者たちを庇ったが、裏切られた暗殺された。インカの王族たちはスペイン人に虐殺され、抵抗は終わりを告げたが、アンデスの先住民たちはその後も幾度かスペインに対して反乱を起こした。
・ワンパノアグ族は飢え、寒さ、病気に苦しむ白人を助けた。しかし、白人が彼らの土地や命を奪ったため、白人と激しく闘った。(フィリップ王戦争)
・アイヌ人は松前藩と平和に取引をしていたが、不当な為替に激怒し、シャクシャインの元で蜂起した。
・アパッチ族の戦士ジェロニモは本来は心優しい性格であったが、白人に家族を虐殺され、その後は好戦的な戦士として恐れられた。
・スー族の勇者シッティング・ブルは心優しく非常にモテた。その一方で勇敢な戦士として誉れ高く、リトルビッグホーンの戦いでは米軍の騎兵部隊を全滅させた。最後まで白人に屈することを拒み、射殺された。
・日露戦争の名将、東郷平八郎、乃木希典、秋山好古、秋山真之と太平洋戦争の名将、本間雅晴、牛島満、樋口季一郎はいずれも縄文人顔の美形である。白人との戦いで活躍した一方、平時は温和な人格者であった。
以上の例の通りアジア人とは本来顔が美しいだけで無く、勇敢と温和という美徳を備えた優秀な人種なのだ。
一方、新モンゴロイドはどうか。
・弥生人顔の香淳皇后は陰湿な性格で美人であった美智子様に冷たく接した。
・悠仁も両親がお辞儀しているのに、自分だけ頭を下げなかったり、女子生徒から水筒を奪ったりした。
・東名高速煽り運転の犯人も、名古屋アベック殺害事件、市川一家殺人事件、光市母子殺害事件、コンクリ殺人事件の犯人弥生人顔だ。
しかし、東南アジアの人々は朝鮮人よりも更に残虐なことを日本軍にもされたにもかかわらず、それを許し現代は親日的だ。これは宗教も一つの原因だろう。
だが、それだけでは仏教国のビルマ・ベトナム、イスラム教国のマレー、インドネシアが日本を許したことは説明できるが、キリスト教国のフィリピンが日本を許したことは説明できない。
朝鮮人は純粋な新モンゴロイドだ。一方、東南アジアの人々は一部新モンゴロイドの遺伝子の汚染されているが、本来のアジア人としての性質も持っている。
これもアデノイド=弥生人顔が害悪な遺伝子である証明だ。勿論発達障害だから口呼吸してアデノイド顔貌になりやすいという事実を考慮してもだ。
本来は美しい民族だったアジア人が新モンゴロイドに汚染され醜くなってしまったのは嘆かわしい。
これからのアジアの繁栄のためにはそういった醜い遺伝子を少しでも減らし、アジア人の優秀な遺伝子を後世に残すことが大切だ。
縄文人顔の諸君は同じく縄文人顔の同士と結婚し、その遺伝子を残して欲しい。
そして弥生人顔の諸君はもし僅かでも良心があるなら、子作りは辞めて頂きたい。
縄文人と結婚すれば、その美しい遺伝子を汚染してしまう。だから頼む。
これを青メガネ界隈のなりすましだと思ってる向きもあるようだけど、そんなものとは一緒にしないで欲しいね。
大学で長年研究・実証されてきた「特権」理論というのがあるんだよ。
中野アナ:出口さんは、“特権”について研究されていますね。“特権”とはどんな概念ですか。
出口さん:私の定義は、アメリカのいわゆる社会公正教育(social justice education)の文脈での“特権”(privilege)で、「マジョリティー側の属性を持っていることで、労なくして得ることができる優位性」というものです。
大学の授業で学生たちに聞くと、特権という言葉は「学割が使えるのは学生の特権」「ディズニーランドが近いのは地元住民の特権」「女性専用車両って女性の特権」という風に使うことが多いです。でも、それらは“特権”ではない、というのが私の立場です。
自分の努力ではなく、たまたまマジョリティー性を持った側に属していることで、下駄を履かされていることはないでしょうかという視点です。
男性は女性に対して、シス女性はトランス女性に対して、日本人は外国人に対して、白人は黒人・アジア人に対して、それぞれ特権を持っている。
中野アナ:ちょっと自分も点検してみたいと思います。まず人種は、僕は日本国籍なので日本人です。次に、出生時に割り当てられた性は、男性です。
画像(出口さんが示した特権チェックの図。「アイデンティティ」について、マジョリティーかマイノリティーをチェック。「人種」は日本人と、外国人、在日韓国・朝鮮人、アイヌなど。「出生時にわりあてられた性」は、男性と女性、他。「性的指向」は、ヘテロセクシュアルに対して、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、アセクシュアル等。「性自認」は、シスジェンダー(身体と性自認が一致)に対して、トランスジェンダー、エックスジェンダー等。「学歴」は、高学歴と低学歴。「社会的階級」は、高所得と低所得。「身体・精神」は、健康に対して、病気、障害を抱える。「居住地域」は、大都市圏在住と地方在住)
ひとつずつチェックしてみると、中野アナウンサーは、すべての項目でマジョリティー側にあてはまりました。“特権”を多く有しているということになります。
マジョリティが特権を自覚して、やがて成長し、マイノリティのために立ち上がり、特権を捨てるという理論。
正しいことが科学的に実証されており、既に実践に移すフェーズになっている。
出口さんのアドバイスは、差別に触れたときのマジョリティーの心理は6段階で推移するという、アメリカの心理学者・ヘルムズの「白人の人種的アイデンティティ発達理論」に基づいています。
これは、アメリカで圧倒的特権をもつ白人が、みずからの特権に向き合うことで、マイノリティーに対してどう変わっていくかを示したものです。
それによると、最初、マジョリティーは「①“特権”に無自覚な段階」にありますが、“特権”に気づくと「②罪悪感を抱く段階」や「③周囲のプレッシャーに負けてマイノリティーを避ける段階」に移り、その後「④マイノリティーのことを知ろうと、一歩を踏み出す段階」へ進みます。
しかし④の段階は、まだ確固とした信念があるわけではなく、迷いや不安から、前の段階に戻ってしまうことも少なくありません。中野アナウンサーのように、相手に関心を持ち取材しながらも葛藤を抱えるのは、この段階にあたります。さらに進んで「⑤自身を見つめ直し、現状を知ることに没頭する」や「⑥抑圧のない社会を実現するため、自主的に行動する段階」に進むためには、仲間が必要だというのです。
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3428s
57:08~1:05:19
抑圧側と被抑圧側との逆転の構図
抑圧側と被抑圧側とのこのような逆転の構図というのは、2010年代にはオルト・ライトと呼ばれる新興右派、
あるいはそれとも重なるミソジニーに満ちたオンラインの男性主義の主張などにおいて、幅広く利用されるようになっていきます。
もちろんマイノリティを、かぎかっこ付きの「私たち」の外部にある敵というふうに認定する、
その敵の攻撃から身を守らなくてはいけないという形で、当該のマイノリティへの抑圧や暴力を正当化していくっていう、
その形というのはもちろんその以前から、
例えば排外主義において、あるいはモラル・パニックにおいて広く見られてきたものではあります。
9.11の同時多発テロの後、対テロ戦争期の欧米各国におけるイスラムフォビアの暴力っていうのはこういうものだったわけですし、
あるいは70年代80年代に、同性愛者とりわけゲイ・バイセクシャル男性というのを、
当時は性的捕食者、セクシャル・プレデターっていうんですけれども、性的捕食者あるいはHIVウイルスの拡散元として、
非常に激しくバッシングしたのが英米のモラル・パニックっていうのになるんですが、これなんかがすぐ念頭に浮かぶと。
じゃあそのオルト・ライト勢力やオンライン・ミソジニー・アカウント群を巻き込んだ、2010年代の特徴っていうのは何かっていうと、
これ単にマイノリティ側を、自分たちを脅かす敵なんだというふうに認定するだけではなくって、
マジョリティ側が力のある側が、自分たちを「差別されている」「抑圧されている」、あるいは「自由を侵害されている」という形で、
はっきりと、私たちこそが「被害者である」「被抑圧者である」という形で、語り始める点にあると言えるかもしれません。
そういう語りのこの後もいろいろ出てくると思うんですが、
今のところ最新の形がいわゆる「キャンセル・カルチャー批判」というものになります。
- CAMBRIDGE DICTIONARY
- MERRIAM-WEBSTER
キャンセル・カルチャーという語が急激に知られるようになってきたのは、
2010年代後半のことで、したがってだから、数年なんですよね、
キャンセル・カルチャーの意味とか語法も、現時点で完全に固まってるとは言い難いところがあります。
実際、例えば辞書の定義を見ても、Cambridge Dictionaryだと、
「社会あるいは集団、とりわけソーシャルメディアにおいて、自分を傷つけ侮辱すること」、offendという言葉ですが、
「自分を傷つけたり侮辱したりするようなことを言った人を完全に拒絶したりとか、
あるいはその人への支持をやめたりする振る舞い方」、いうふうに定義している。
それに対して、もう一つ別の有名な辞書でMerriam-Websterなんかを見ると、
「不同意を表明したり社会的に圧力をかけたりする手段として、集団でキャンセル行為」、
このキャンセル行為というのは「公に、とりわけソーシャルメディアにおいて、特定の人や組織への支持を撤回すること」なんですが、
「集団でキャンセル行為を行う実践」っていうふうにしていて、だから重点がちょっと異なってるんですね。
またピュー・リサーチ・センターによる2020年時点の調査では、
リベラル寄りの人々は、
キャンセル・カルチャーというのは、ある人に自分の言動に対する責任を取らせるためのアクションと捉える傾向が強い。
それに対して保守派に寄っていく人ほど、
同じキャンセル・カルチャーを検閲であるというふうに捉える傾向があるということが明らかになってます。
つまりある人々が、差別的だったり暴力的だったりするなど社会的・文化的に問題があると思われる言動を、
放置しないために取るアクションだ、ってふうに考えているものが、
より保守的な別の人々にとっては、これがつまり「キャンセル・カルチャー批判」の文脈になるわけですけど、
そちらの人々にとっては、それが集団での圧力とか検閲とかっていう形で理解されている。
言い換えれば、「キャンセル・カルチャー批判」という形でのキャンセル・カルチャーってのは、そもそもの最初から、
しばしば多数派である鉤括弧付きの「私たち」の言動を、差別的とか抑圧的などと非難することで、
「私たち」の言動を検閲する抑圧する、あるいは「私たち」を差別する圧力というふうに定義することができる。
だから先ほどからお話ししている逆転の構図を含み込んだ用語っていうのが、キャンセル・カルチャーだと言えると思います。
「正義と開かれた議論についての書簡」(通称「ハーパーズ・レター」2020)
153の署名: ノーム・チョムスキー、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど
「人種的、社会的正義を求める強力な抗議運動」や「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような「必要な過去の清算(reckoning)が、同時に、開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」
保守派による「キャンセル・カルチャー批判」の事例というのは、とりわけ2020年代になってからはほとんど枚挙にいとまがない。
毎月のように何か出てくるんですが、ただ時間がないので、
ここでは学問の自由に関わる、そして最も知られた例の一つを挙げておきたいと思います。
何かというと、2020年に公開された「正義と開かれた議論についての書簡」というものです。
一般的にはハーパーズ・レターと呼ばれるんですが、その公開書簡なんですけども、
この公開書簡は、当時のトランプ大統領に代表される右派の動きというのは民主主義の脅威であるというふうに位置付ける一方で、
同時に右派はまずいと、だけど同時に左派の間にも異なる見解に対する不寛容がまん延しつつあるというふうにして、
ここの何か不寛容とかそういう表現が、先ほどちょっとお示ししたブッシュ・シニアのポリコレ評価と、
用語としてこう微妙に近似しているのは非常に興味深いところなんですが、
とにかくただこれだけ見ると何でもない主張に見えるんですけれども、
この公開書簡、例えばノーム・チョムスキーとか、サルマン・ラシュディ、マーガレット・アトウッドなど、
非常に有名な人たちを含む153名の研究者・作家・ジャーナリストが署名しているんですけども、
この公開書簡、何でもない、割とこう、どうでもいいというか普通のこと言ってるように見えるにもかかわらず、
公開されるとすぐに「キャンセル・カルチャー自体をキャンセルしようとする公開書簡である」っていう形で、
人種的・性的マイノリティを中心とする若い左派層から大きな批判を受けることになります。
キャンセル・カルチャーという用語は、それどころかキャンセルっていう用語も1回も使われてないんですね。
じゃ何で批判が来るのかっていうと、ここ(=スライド)にあるんですけども、
「とりわけ高等教育、報道、慈善事業、そして芸術活動など、社会におけるより一層の平等と包摂を求める声」というような
「必要な過去の清算」、この清算というのはReckoningという言葉を使うんですが、これが同時にそれは必要だと、
だけど同時にそれが「開かれた討議と差異に対する寛容さという規範を弱体化させ、それよりもイデオロギーの一致を求めるような、
一連の新しい道徳的態度と政治的コミットメントを強化してしまっている」というふうに言うと、
この表現が、とりわけBlack Lives Matterを通じて、
Racial Reckoningって人種的な過去の清算の盛り上がりを迎えていた英米両国においては、
人種主義への批判そのものを不寛容だと見なす「キャンセル・カルチャー批判」の文脈につながる書簡だというふうに受け止められた。
同時に、キャンパスにおけるポリティカル・コレクトネスの批判者として知られていた、
ハーヴェイ・ワインスタインの弁護を引き受けたことで、学生から抗議を受けてハーバード・ロースクールの学部長職を退くことになった、
この公開書簡の公開時にはトランス排除言説の支持者として知られていて、その言動に批判が集まっていた、
この公開書簡が「キャンセル・カルチャー批判」の一翼をなすものと受け取られた一因ではあったと思います。
この書簡は、先ほどもちょっと申し上げたように、例えば左派の代表的知識人と見られてきたチョムスキーが署名をしている。
同時に、ネオコンサバティブの論者である、例えばフランシス・フクヤマみたいな人も署名してるんですね。
つまり従来の分け方で言えば、まさに右も左もなく同意できる原則を語っているように見える。
にもかかわらず先ほどから申し上げているように、
実際には、より若手のマイノリティのライターとか研究者から強い批判が出る結果になった。何でか。
恐らくこれは、後者に当たるより若いマイノリティの人たちというのは、
近年では力のある地位にある人々が、自分たちの差別的・抑圧的な言説の責任を問われたときに、
その批判や糾弾を振り払うために使う枠組みになってしまっている、ということを感じ取っているのに対して、
フクヤマにしてもチョムスキーにしても、ある程度は地位が固まった偉い人たちっていうのは、
その事実をあまりきちんと把握できてなかった、いうことではないかと思います。
見た目じゃ無理だろ。人種的にはほぼ同じ。
正直疲れませんか。
連日の報道が、「どちらかについて」「なにか行動を起こしなさい」と言われているようで。
私は非常に疲れました。連日、眠れない日々が続きます。
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正しさとそのあり方を問われることも疲れの原因ですが、
何より一番疲れたのは、命の重みが問われなくなっていること。
これが一番つらいです。
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■1:情報の正しさを問うことについて
プロパガンダ、フェイクニュース、デマゴーグ、印象操作、いずれにしてもありえることでしょう。
人種的にルーツが似通う彼らですから、被害にあった人がロ人かウ人かなど見分けが付きません。
でも、そんなことより大事なことって、いずれかの国の人が、国益のために命を奪われていることじゃないですか?
国を直接コントロールしてもいない、無辜の市民が銃弾を浴びたり、爆散したりしていることが正しいのですか?
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義勇兵に70人の日本人が志願したとあります。義のために命がけで行動できること、それは素晴らしいことだと思います。
でも、両手を挙げて讃えるのは恐ろしいことに思えるのです。
だって、「玉砕覚悟」がベストである、みたいな論調にすり替わりそうじゃありませんか。現に、一部の人はそう捉えています。
志願した彼らは現状を鑑みて、とにかくそうせざるを得なかったのだと思いますし、
自衛隊経験から「自分にできること」として旅立とうとするその行動力も讃えますが、
私は誰かが命のやり取りをしにいく、ということを思うだけでキツいです。
彼らが可能な限り人を殺さず、人に殺されずに帰ってくることを願います。
プラカードを掲げる人、復興に募金する人、SNSで反戦を訴える人、それぞれ自分のできることをやってるじゃないですか。
なぜ、命をなげうつことが偉いのですか?
なぜ、人を殺すことを正当化できるのですか?
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■3:核爆弾について
この手の話もSNS上では盛り上がりますね。とても寒気がします。
核が放たれることは、おぞましい結果を生むことです。
爆心地半径3kmに被害が及び、半径1.2km圏内の人々はほぼ死にます。
これは広島の時の話で、現代ではもっと広範囲に及ぶかもしれません。
国益のために14万人以上が消えることは正しいですか?
持っていたら、投下されないのですか?投下されたら、報復に投下するのですか?
消える人々は、消えるだけの罪を抱えたひとびとなのですか?
核を持つ、持たないという手前に、そのことを念頭に入れてほしいのです。
分かってるよそんなこと、と言う人には、
自分が爆撃機に登場し、投下のスイッチを押したあとの数十年のことを考えて欲しいのです。
罪のないひとびとを、平和な暮らしを、街を、半径3km圏内で消し去ってしまったことを背負い続けて。
平気でいられるはずがない。
核爆弾を研究開発する予算があるなら、いざというときに核にも耐えうる地下シェルターを作ってください。
唯一核を放たれた経験があるのであれば、国益よりも人命を優先する国家であって欲しいと思います。
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■4:国防について
専守防衛にしろ、攻撃可能な状態にしろ、日本の軍備はアメリカに頼らずとも充分なのでしょうか。
日本の軍事力は世界上位に入ると聞いていますが、重要なのは狂気とも言える士気と、マンパワーでしょう。
日本のトリガーが自由になったとき、どの程度安全でいられるかには安心していません。
総動員令が出てからではもう遅いと思うのです。
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■5:あなたが引鉄をひくことについて
前項でも少し触れましたが、なにより人が人を殺すことが正当化されていることがおぞましいのです。
多くの人に、人の命を奪ってほしくないのです。
あなたが万が一にと思って持ち歩いた銃で警戒を続けるとき、誰かが同じように銃を持っていると思います。
関係の無かった二人が銃口を向け合い、引鉄に手をかけるでしょう。
殺すかもしれないし、殺されるかもしれない。
そんな緊迫感のなかで、ひとの命の重さよりも、大義や英雄像で頭をいっぱいにして、麻痺していくのです。
何人もを手に掛け、「平和」を勝ち取って帰り、讃えられ、そして家庭のなかで平穏を味わうとき、
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■6:民族について
〇〇人は、△△の国民は、そうひとまとめで語ることはなんと簡単なのでしょう。
同じように平和を願う人を無視して、国の方針や何十年と過去の話をとりあげて、
「ぽさ」だけで攻撃するのです。
国の政府はそれぞれの方針があるかもしれませんが、そこに暮らす人々をまとめて語ることはどうなんでしょうか。
一人ひとりに焦点を合わせていたらキリがない?そうですね。
でも、その慎重さが失われていると、簡単に「核を〇〇に撃てよ」みたいなことが言えるようになってくるのです。
ポリコレは増田の言うような多様性を重んじる面も、元増田の言うような排外主義的な面もどちらも持っている。
というか、自分達の好嫌次第で都合良く使い分けているのがポリコレの正体でしょ。
だから、伝統を重んじる人々にも、自由を重んじる人々にも、双方から叩かれているんだよ。
あと、目指しているところは保守とは違うけど、精神性はやっぱり保守に近い
人種的多様性の話で言えば、「色んな人種の人を好きに起用して良いですよ」ではなく
と、規範を作って人々の選択肢を奪い、義務を負わせ、自分達の理想のために人々を動員するようやり方は、掲げる『規範』が異なるだけで保守となんら変わらない。
「貧乳女性のAV出演禁止」などオーストラリアがやたらと性規範に厳しい事情理由について説明する
オーストラリアは8年前から連続で自由党率いる保守連合が与党。
まず政教分離の危機が起こってて学校教育に宗教思想が介入するようになっている 。
オーストラリアは年々若年層を中心に無宗教者・無神論者の自由主義者が増えてるけど、
まだまだ国民の過半数がなんらかの宗教を信仰し、その大部分がキリスト教徒。
さらに国民の10人に一人が白人至上主義で、異人種(有色人種)や移民、先住民への嫌悪感があると回答してる。
近年の若者に増える無宗教、無神論に危機感を覚えてて、『伝統』とやらを守るために保守化し保守連合を支持してる。
2019年の選挙でも勝敗を左右する鍵として注目されていたのがキリスト教徒票。
この取り込みに成功した保守連合が勝利し、結果としてますます宗教的保守化がオーストラリアでは進行してる。
かつては移民や難民の受け入れにも積極的だったオーストラリアだけど、
近年はこの影響により急速に排外色が強くなっている。
若者の間ではコロナ前は毎年日本のアニメキャラクターのコスプレをするアニメイベントが開催されていた。
けどそれをずっと快く思わない連中(宗教的保守性と、人種的排他性が由来)が強くなってきている。
そして後者の排外側の意見、主張が年々保守連合の長く続く政権運営によって日増しに強くなっている。
オーストラリアは近年中国と積極的に対立的だけど、あれもキリスト教徒の反共感情と反アジア感情に裏打ちされたもの
まあポリコレの正体がなんなのか、ってことがオーストラリアの保守化、宗教国家化を見てるとよくわかる。
近代化によって忘れ去られかけていたキリスト教的禁欲主義や保守主義を形を変えて復活させたものに過ぎない。
そしてその背後には反移民、反多文化感情が本音として巧妙に隠されている。
ぶっちゃけ有色人種を見たくない、有色人種の文化から影響を受けたくない、排除したいという本音。
『政治的正しさ』を設定して、政治的正しさでウォッシュする方向なわけだ。
ちょうど日本でもVTuberや二次元美少女を公共機関のPRや広告に使ってほしくない連中が目立っている。
しかしただの嫌悪感・フォビア感情で何かをバッシングして差別してることを堂々と認めるわけにもいかないから、
『政治的正しさ』を持ち出して自分の嫌悪感をイデオロギーにすり替える。
「多様性の重視」が全然多様性の重視になっていないのはすでにバレバレだが
漢字文化圏で英語ではなく漢字で筆談してコミュニケーションをとることはできないか?
昔みたいに文字通り筆を使って筆談をする必要はなく、時代はデジタル筆談。
スマホやタブレットの画面に伝えたい言葉を入力して表示させ、相手に見せる。
なぜ文化的地理的人種的に近く歴史的にも深い関係にあった隣人と、わざわざ遠くにいる白人の言葉を使って意思疎通しなければならない?
遠回りだし、アジア人自らがアジアの文化、ひいてはアジア人としてのアイデンティティを否定し、白人の文化やひいては白人を崇拝していることの象徴だ。
大陸中国は大胆に漢字を簡略化したがはっきり言って形状が単純簡素化されるほど記憶しにくいし識別しにくくなる。
コロナの流行第5波の只中で行われたこの大会は流行をある程度加速した というのはある程度事実だろう。
ただし、それを差し引いてもなお、オリンピック/パラリンピックの開催は日本人の命を救ったと考えている。
周知のとおり第5波は4派に比べて感染者は激増しているにも関わらず、死者数は下回っている。
死亡率を大きく下げているのはワクチンであることに異論はないはずだ。
例えば、5月の時点ではOECD加盟37国で最低水準との記事があった。
https://www.sankei.com/world/news/210520/wor2105200020-n1.html
確かに単純な順位としては低い。ただし忘れてはならないのが、OECD 加盟国はほとんどが日本よりコロナ感染者及び死亡者が人口比で圧倒的に高い。
人道的な観点からいうと、感染者及び死亡者が多い国を優先して供給するのは当然ではないのか。
https://forbesjapan.com/articles/detail/40837
この記事にはカナダも人口当たり感染者数/死者数はOECDで最も低い水準とある(さらに言えば日本はカナダより低い)。
そしてカナダも同様にワクチン接種がなかなか進んでいないことに悩んでいる。
韓国も人口当たり感染者数は日本と面白いほどにシンクロしており、ワクチン供給に悩んでいることが報じられている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021052701299&g=int
五輪支援の「力強いサイン」 日本向けワクチン輸出―欧州委員長
【ブリュッセル時事】欧州連合(EU)のフォンデアライエン欧州委員長は27日、菅義偉首相との首脳協議後の記者会見で、EUはこれまでに1億回分以上の新型コロナウイルスワクチンの日本向け輸出を承認していると指摘し、「(東京)五輪の準備と安全を支援するという力強いサインだ」と述べた。
オリンピック/パラリンピックを理由にワクチンの輸出を承認したと欧州委員長自らが述べている。
つまりオリンピック/パラリンピックを更に延期していた場合、供給がさらに遅れた可能性が十分にあった。
結論としては、オリンピック/パラリンピックは感染者を増やす原因ともなったが、ワクチン供給の理由ともなった結果第5波での死亡者数を大きく減らす要因となった。
オリンピック/パラリンピックの開催費用は借金として大きく国民にのしかかることになるが、それで金に換えられない大勢の人命を救えたのであれば協力して返済していこうではないか。
この論に異論が出るのは当然だと思うが、それならば教えてほしい。
なぜ韓国へのワクチン供給は日本より遅れているのか。簡単に箇条書きとして記載しておくので、選択肢に理由をつけて教えていただきたい。
[[ 追記]]
韓国を比較として挙げた点はOECD加盟国トップクラスという他にアジア国家だからという理由だ。
デルタ株が出てくる前までは、アジア国家は押しなべて感染者数は低く、人種的差異ではないかとも言われた。
また書くワクチンがEUで生産される中、人種差別的意図で供給を後回しにされるのではないかという懸念もある。
誤解しないでほしいが、筆者は韓国のコロナ対応を非常に高く評価している。
返信の増田が貼ってくれたが、人口あたり感染者/死亡者は日本の半分弱だ。
(ただし、他国と比べた場合せいぜい2倍程度ということもできる)
韓国のコロナ対策を評価しているからこそ、ワクチン供給が遅れた原因は何かと考えるとオリンピック以外には考えられないというのがこの記事の意図だ。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/vaccine/world_progress/
今日時点の接種率をみると
との差が出ている。
これはここにきて日本のデイリー接種回数が落ちてきたことにより追いつかれたのではと思う。
一時期140万回/日は当たり前で、多い日は160万回/日のこともあったが、今は100万回/日がやっとという印象だ。
その中でようやく韓国の本格接種が始まったといえる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c9cf5b0bdb7dbacb385a1e80c84ebecc8291f233
韓国は全人口比で新型コロナワクチンを2回目まで完全に接種した国民の割合が30.7%だ。先月8日にはこの割合が15%にとどまり38加盟国のうち38位だったが、接種に速度が出て順位が5段階上昇した。
日本が15%の接種完了7月上旬なので、だいたい1か月程度のビハインドと考えられる。
もう一点、韓国では相当数がアストラゼネカ製ワクチンを使用しているとみられる。
韓国のメーカー別接種率が見つけられなかったので、参考とはなるが比較的早期からアストラゼネカを接種しているのがわかる。
(日本は特別の事情がない限りはアストラゼネカは使用していない)
https://japanese.joins.com/JArticle/280331?sectcode=400&servcode=400
筆者はアストラゼネカでも性能的には必要十分とは思っているが、やはりファイザー、モデルナの効果には及ばないと思う。
OECD 加盟国と比べてコロナ感染者及び死亡者が人口比で圧倒的に少ない日本に、五輪を理由にワクチンが大量供給されたのは増田の中ではOKなんだ?
矛盾してない?
筆者は正当な交渉を経て供給を受けたのであれば引け目は感じない。
これが裏金を渡してであれば別であるが、ワクチンを優先してでもオリンピックを開催したいというのがEUの意思であればありがたく受け取るまでとなる。
加えて言えば、ファイザー、モデルナのmRNAワクチンは管理が難しく、インフラが整備されていない途上国では大量に廃棄されることになるだろう。
その意味で途上国には管理しやすいアストラゼネカを供給すべきと考えているし、日本で生産したアストラゼネカを海外に輸出することにも違和感はない。