はてなキーワード: メータとは
あの人は「殺人犯は報いを受けろ、生まれのせいとか時代のせいとか言い訳だろ」という確固たる信念を持つ
るろうに剣心の時はそれがわかりやすい形で爆発し、明治維新のため人殺しとなった剣心は妻子を顧みずに全国行脚で人助けの旅を繰り返し、息子はグレて家庭崩壊し、病人の世話をして梅毒に感染しボロボロになって死ぬ末路を辿った
ハンター×ハンターの時はプロデューサーに反対されてやめたものの、絵コンテまで作られてメーターに配られた末にヤフオクに売られたシナリオでは、人殺しのクラピカは人殺しのクロロと一騎討ちして両方とも惨死
人殺しを当たり前のこととして育った非道のキルアは結局その血を断ち切ることができず、ゴンを捨ててゾルディック家に帰還、やがてハンターとしての依頼を受けたゴンが正義のためにキルアを葬りに向かうところで物語は閉じる
そんでスパイファミリー、両親に先立たれた貧しい女が殺し屋をしているという設定
これは古橋倫理に触れるだろ
年を取って丸くなった可能性もあるけど
丸くなってなかったらまたやらかすんじゃないか
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
11月なのに週末暑かったので大和川を西から東へサイクリングした。
大阪鉄砲町から藤井寺まで東に進み、そこから南進して富田林の太子町を折り返し地点としました。
straviaによると80km漕いだとのことで、今までの最高記録60kmから大幅に更新できました。
トータルの時速は11km/h。川沿い漕いでる時にメーター見たときは15km/hとか出てたから、折り返し地点以降市内走ってた時は疲れも相まってかなりゆっくり漕いだんやな・・・。
次は100km目指したいけど、日没がはやくて今年中は厳しそうだなぁという感じ。
100km挑戦と同時に、大和側も横断したいという欲も芽生えた。
山越えして奈良に行く感じになるだろうか。長距離の上り坂は全く経験がないので不安要素でしかない。
最近漕いでるとチェーンがカラカラ音を立ててるし、自転車全体の清掃と油差ししないと駄目な予感。
何すれば良いのか分らんから調べないとなぁ。。
特定小型原付ってのは、最近街をビュンビュン走り回って問題になってる電動キックボードのアレね。あれの自転車っぽい形のタイプ。もの好きで買ってみたのよ。
そんで乗るからには交通ルールは守ろう!ってね。ルール通り幹線道路の車道をメインに走って、少し遠くのイオンモールまで行ってみたわけ。
そしたら覚悟はしてたけど、案の定クルマが至近距離でビュンビュン追い抜いてく。 こっちはルール上でもマシンの仕様上でも常に最大速度は20キロだから、当然車の流れなんて乗れないのでもう怖いのなんの。
そんじゃ仕方ないつって、これまたルールで定められている歩道走行モード(常に時速六キロを維持して自動運転するモード)に切り替えて、歩道をメインに行こうとしたわけ。
そしたら時速六キロってのが予想以上に遅いのなんの。ジジイかよ。 いやジジイに失礼なぐらいノロすぎる。
あまりにノロいから、試しに同じ場所から場所まで、時速六km走行と、自分で車体押して歩いたタイム、比較してみたの。そしたら車体を押したほうが断然速いというね…こんなん笑うわ。
そもそも時速6kmって二輪車だと遅すぎて逆にコケるわ。こんな実態に則してないモードいる?
そんなわけで、俺の遵法意識は砕け散りました。
──ごめん、車道には行けません。いま、歩道にいます。車道走行のモードで。
もちろん事故防止のため、問題になっているバカLUUPみたいに車道と歩道を蛇行するような危険運転はせず、自転車通行可の標識のある歩道のみを、10~15km程度で走行。
歩行者や自転車が近くに来たらしっかりブレーキをかけて、ゆっくり追い越したりすれ違う。もちろん左側の歩道を車道寄り走行ね。少なくとも俺と同じ歩道を走ってるママチャリどもより、よっぽど安全運転。あ、ちゃんと努力義務のヘルメットもかぶってるよ!
でも取り締まりがいたら、そいつらより真っ先に俺が目つけられて違反取られるんだろうな。ランプとかナンバープレートとかついてるし。
でももういいです。少なくとも車道を20キロで走って死ぬよりマシ。警察に見つかって一発目の反則金とられたり、俺の安全運転でも歩道上で事故起こす確率より、車道走って轢かれる確率の方が明らかに高い。
責めるなら自転車相手にすら側方間隔も徐行もろくにとらないドライバーか、日本の道路整備状況を責めてくれ。ドライバーのほうが厳密には俺より交通違反しまくってんだし。
ちなみに普通走行モードで歩道を行くスタイルだと、当たり前だけどむちゃくちゃ快適に移動できました!もし合法でこの快適な移動を無免許でも出来るなら、かなり革命だなってレベルで快適。(まあ俺電動アシスト自転車とか乗ったことないんだけど)
でも絶対、免許持ってる=教習所で安全運転とその意識を叩き込まれた経験のあるやつ…じゃないとバカLUUPみたいなヤツでさらに溢れかえるだろうな。
予想外に反応やブクマあって驚いた!露悪的なこと書いたからやっぱ叩かれ気味だけど、正直大抵のママチャリの走り方ってこんな感じじゃね?ママチャリ乗り始めたこどもの頃から歩道走ってたし、家族も友達も、住んでる街の人みんな自転車で歩道普通に走ってるし誰も何も言わんぞ。
試しにサイクリング動画ググってみたけど、やっぱ自転車が多い住宅地はみんな歩道走ってるし…ちなみに俺は大阪の可もなく不可もないベッドタウン在住。
そんなわけでついた意見にざっくり返信してみる。
…ってかねー!まず最初に電動キックボード前提で書いてるコメント!!タイトルくらい読め!!俺が買ったのはミニベロくらいの大きさの自転車型!キックボード型よりはタイヤもでかくて段差もそこまで気にならんよ(もちろん減速もちゃんとする)。それでも六キロ走行はやっぱり安定しなくて危なっかしい。
俺も「成人の早歩きが6キロ」と買う前に聞いてたから期待して買ったのよ。でもマジで遅い。
気になってググったこの動画でも、「歩道モード六キロはフラフラして無理!」という結論。この動画のメーターと俺の車体のメーター、どっちも壊れてるってワケもないだろうし
https://www.youtube.com/watch?v=PimaIGgp-uw
>随分頑張って歩いたんすね
これは俺の書き方が悪かった!途中の道にあった電柱から電柱までの時間を六キロ走行と車体押しで比べてみたのよ。
>たぶん、もっと街中の道を走るもので、イオンモールへ行く幹線道路で乗るものではない気がする
これもよく聞くんだけど、街中っつーのは繫華街のこと?だとしたらむしろ繫華街のほうがLUUPみたいなシェアサイクル以外、自転車走ってなくね?それか街中=狭い道路しかない住宅街、ってことならそういう場所は歩道も極狭だからちゃんと車道を20キロで走るよ。ただその範囲なら普通自転車でいいかな…
「幹線道路の車道で乗るもん」じゃないってのはたしかに今回でよっくわかった。
>諦めて電動アシスト買え
まぁ明確な移動手段ってより「変わったモノ好き」で買っただけだから…それに最近電アシのママチャリもよく見かけるけど、やっぱり車道より歩道走ってるほうが断然見かけるぞ。電アシユーザーと言えばたいてい子供や買い物荷物乗せる主婦だし、なおさら車道怖くて歩道行くよね。
つかちゃんとルール通り車道走ってる自転車って速度出るロードバイクくらいじゃね?でもそんなロードバイクもネットじゃだいたい嫌われてるっていう。
あと、車道の走り方のアドバイスは次乗ってみるとき試してみますね!(でもおそらくパッパパッパクラクション鳴らされまくってメンタル死ぬよ!)
ってか電アシ買えのコメントで思ったけど、俺ママチャリを厳格にルールに従って乗ってみてもほぼ同じ事考えてただろな。「特定小型~」とか関係ない話だなコレ。
饂飩麺の奥深さに気付くクタクタメーターも計測技術が発達していなくてこれが本来の理想のクタクタ度合いなのかすらも定かではない私の今後のこのクタクタメーターの改良も気になる山脈に向かってヤッホー!って叫ぶのよ。
うどんのさ
ちょうどよく煮込んでクタクタになった頃合いの加減が超難しいんですけど。
と言うのもさ、
最近ちょっと饂飩に朝目覚めたところで食べたいと思って夜ご飯はおうどん!って思って目覚めたのよ!
で饂飩は作るは作るんだけど
クタクタに良い味が染みる加減の調整が難しいのよ。
そんでさ
クタクタになりすぎて
新しく封を開けて煮る饂飩麺は
30分そこらじゃ全然味が染みないの。
麺の種類が問題かな?って
鍋用のコシが強い饂飩麺だったから煮込みと火加減が足りないのかな難しいのかな?って思って
あれなんて言うのかしら?
蒸し麺?それ系の鍋用の耐煮込み性能が低いやつ。
その麺を投入したけれど、
それもやっぱり30分ぐらい煮たとて
私の理想のクタクタメーターの10を目指すことが難しいのよね。
ほら、
一晩超えたであろうとなかろうと
饂飩の調整のその私が美味しいと思う目指すクタクタメーターの度合いの10ぐらいはどうやって目指せば良いのか?
饂飩がちょうどいいぐらいに染み美味なのかしら?って
日常でそんなに饂飩麺を研究している時間がないのでこれは手間がかかる壮大な研究テーマだな!って
饂飩麺なのよね。
饂飩もなんだって饂飩よ!って思っていた季節や時期やシーズンがあったけれど、
短時間じゃ煮染み込まないし
長時間一晩超えるともうクタクタを越えてふにゃふにゃになっているし
あれさー
1回お店の饂飩、
そうよ煮込み鍋饂飩の鍋の饂飩麺を体験してみるべきだわ!って思ったのよね。
一体どういう仕組みなのかしら?って思うのよね。
それも含めて
1回適当なおうどん屋さんのそう言った煮込み系の饂飩系を賞味してみるのがいいのかしら?って思うわ。
饂飩を煮込んでクタクタにするのは素人が手を出したら行けない領域なのかしら?
なんか味噌とか練り込んであるのかしらねってそれなんて練る練る練ってるの?って。
急に訪れた私の饂飩の季節が
飽きるまでしばらくは饂飩麺と向き合って行きそうって
そう秋が私を呼んでいる感じもするわ。
うふふ。
昨日の研究結果の饂飩麺一晩超えたものを煮込みうどんを食べてみたのが朝食。
ご覧の通り
理想の染み美味具合は達成出来なかったのよねー。
それを食べた朝ね。
赤羽の日本酒をおでんのルーシーで割るのとは違うわって思ったし
白湯味よ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
と、このエントリで主張したい訳ではありません。本当に容認しているといえるかどうかは、増田を読んでから、ご自身で考えていただきたいと思っています。
どうも、「山道を制限速度でチンタラ走り続けるドライバーは運転が下手」(https://anond.hatelabo.jp/20230912211531)で炎上した増田です。先日は大変お世話になりました。山道の走り方を指南する増田(https://anond.hatelabo.jp/20230913120412)を寄稿していただくなど、大変勉強になりました。
さて、本日は校則違反にまつわる増田(https://anond.hatelabo.jp/20230916165514)が人気エントリに上がっています。炎上した増田に引き続き、ルールを守ることと破ること、そして、その程度と倫理にまつわる話題が、最近の増田では絶えません。ルールを守ることが絶対であるという意見に対し、ある程度柔軟な対応も必要だという意見がぶつかり合っています。
スピード違反に対する警察や企業、そして行政の対応について紹介することを通じ、この問題提起を行うことが、この増田の目的です。
なお、スピード違反の程度や罪の重さについて、この増田で個人的に主張するつもりはありません。私はこの増田で、スピード違反を断罪しないし、擁護もしません。警察、行政、そして自動車やオートバイメーカーの対応をこの増田で紹介しますから、それを踏まえてご自身で考えていただきたいと思います。
なお、コメントやブコメの際は、本文を最後まで、よく読んでからお願いいたします。本文が長く分かりづらい場合は、せめて最後の章だけ読んでほしいです。
スピード違反についてですが、先日炎上した増田(https://anond.hatelabo.jp/20230912211531)でさんざん炎上していたとおり、「1km/hたりともスピード違反をしてはならない」という意見が多く寄せられていました。しかし、炎上していた増田でも触れたとおり、警察は15km/h以下のスピード超過をほとんど取り締まっていません。令和4年の結果では、15〜20km/hの取締が約28万件に対し、〜15km/hの速度超過は200件以下と非常に少ない件数に収まっています。
ちなみに、2017年ごろは100件にも満たない件数でしたが、2020年に入ってから増加傾向にあります。それは、移動式オービスによるゾーン30(通学路などに指定されているような非常に狭い道路で30km/h制限)での取締が行われるようになったからです。おそらく、制限速度40km/h以上の道路では、15km/h未満の速度超過は全く行われていないと思われます。
また、全国の公道では、10km/h程度の速度超過が常態化している道路が非常に多くあります。自動車の運転を少しでもする方なら、この現状をお分かりいただけるのではないかと思います。
スピード違反の話題では、自動で規制速度にリミッターが効かないようにするべき、という意見をネットなどでたびたび目にします。
トラックの場合、大型トラックと一部の中型トラックで90km/hのスピードメーターの装着が法的に義務付けられています。しかし、乗用車やオートバイは、法的な規制はなく、メーカーの自主規制として規制が行われているのが現状です。ただし、自主規制は行政側からの要請で始まる場合が多く、メーカー独自の規制というより、行政とメーカーが一体となった規制であると言えるでしょう。
さて、その自主規制の内容ですが、普通自動車は180km/h、軽自動車は140km/hのスピードリミッターが自主規制で装着されています。現在、制限速度の最高速度は新東名などの120km/h区間なので、スピードリミッターは制限速度に対しかなり余裕がある値となっています。なお、改造によりリミッターを解除することは合法です。
一方、スピード違反につながる過剰なパワーを抑えるための規制については、23年9月現在、軽自動車以外には行われていません。しかし、過去には自動車とオートバイの両方で、自主規制による馬力制限が掛けられていました。
自動車の場合、馬力競争の激化を受け、1989年ごろから280馬力に出力を抑える規制が行われました。オートバイの場合は80年代の走り屋ブームが問題視され、排気量により細かく馬力規制が敷かれました。オートバイの3ない運動もこの頃です。
しかし、自動車は2004年ごろに、オートバイは2007年ごろに規制が撤廃され、現在は軽自動車以外に馬力規制は存在しない状況になっています。
また、オートバイに関しては1996年に、免許制度の規制緩和が行われています。大型二輪免許を教習所で取得できるようになり、取得難易度が大幅に易しくなりました。その結果、大型二輪免許の保有率が急増し、高性能な大型バイクの販売台数が大きく増加しました。
最後に、自動車メーカーや、オートバイメーカーの対応についてお話したいと思います。前述の自主規制を各メーカーは行っていますが、実際にどのような製品を作っているのか見てみましょう。
スピード違反を助長すると批判されがちなスポーツカーですが、最近はスポーツカーのラインナップが充実しています。トヨタはスポーツカーを5車種ラインナップしているほか、日産は「フェアレディZ」を、ホンダは「シビックタイプR」を新たに発表したことが記憶に新しいですね。いずれも、かつての馬力規制(280馬力)に近い、もしくはそれを越える性能を誇ります。
さらに、高出力化はスポーツカー以外の場合でも最近のトレンドになっています。
例えば、今年発表された新型のトヨタ・プリウスはのPHEVモデルの場合、最高出力は223馬力、0→100km/h加速は6.7秒です。これはスポーツカーである、先代のトヨタ・86/スバル・BRZを上回るスペックです。日産スカイラインの特別グレードである「スカイライン400R」に関しては最高出力405馬力を誇り、これはランボルギーニ・カウンタック(4.8Lモデル、377馬力)を優に越える出力です。スーパーカーでもなんでも無いオヤジセダンなのにですよ。
さらに、オートバイに関してはこういった点がさらに顕著になります。
1990年代、ヤマハ発動機は「ツイスティーロード(=峠)最速」のキャッチコピーを引っさげ150馬力のスーパースポーツバイク「YZF-R1」を発売。カワサキとスズキは市販車最高速バイクの名をほしいままにするべく、熾烈な性能争いを繰り広げました。スズキが送り出した「GSX1300R Hayabusa」のスピードメータは350km/hまで刻まれていましたが欧州で問題視され、300km/h以上出せないようにすることと、スピードメーターは300km/hまで、という自主規制が敷かれることに。ホンダも似たようなもので、「CBR900RR FireBrade」や、「CBR1100XX SuperBlackbird」など、前述のヤマハ・YZF-R1やスズキ・ハヤブサと同じようなコンセプト、性能のオートバイを販売していました。
しかし、こういった出来事はあくまで90年代で昔の出来事。企業の社会的責任が重く問われる令和の時代になり、だいぶ様相が変わりました。オートバイメーカー各社は、「高性能なスポーツバイクは、サーキットを走るために買ってね」という方針にシフトし、カタログにはサーキットを走行するイメージ写真ばかりが並びます。しかし、サーキットを走るためのオートバイにも関わらず、依然としてナンバーを取得し公道を走行できる仕様で販売されています。
私がこのエントリを書いた理由は、速度超過を容認しろ、と主張したいからではありません。スピード違反というルールを破る行為について、それを取り締まるべき警察や行政、そして社会的責任を負うべき企業が、なぜある程度ルーズな対応をしているのか。それを考えてほしいのです。
「ルールは厳しく守るべきだ」と考える人にとって、警察や行政、メーカーの対応は生ぬるいと言わざるおえないでしょう。警察は15km/h以下のスピード違反もバンバン取り締まるべきだし、自主規制のスピードリミッターは義務化して規制速度を下げるべきだし、メーカーは高出力で過激な製品を作るべきではない。そう思うのではないかと思います。
では、なぜ警察は15km/h以下の速度取締を行わないのでしょうか。自動車メーカーやオートバイメーカーは、なぜ過激な製品を作り続けるのでしょうか。そして、それに対して行政は規制をかけるどころか、なぜ規制緩和を行うのでしょうか。
なぜ、世の中ではルールを軽視するかのようなルーズな対応が取られているのか。それを考えることは、盲目的にルールを守ること以上に価値があることだと私は考えます。ルールを守ることこそが絶対の正しさだと考える方が一定数いらっしゃると思いますが、なぜ世の中は、その絶対的な正しさにまっすぐ向かっていかないのか。その理由を考えた先に、ルールと倫理の本質が見えてくるのではないでしょうか。
みんな4年ぶりのW杯を楽しんでくれているだろうか。
見ているだけでエキサイティングなラグビーだが、このスポーツは試合後にすぐスタッツが発表され、これをもとに議論が交わされるという特徴があり、この統計を見ると、感覚で見ていた試合の姿が詳細に浮かび上がってくる。
各チームの開幕戦となった先週の試合から2試合をピックアップして、スタッツから試合を振り返ってみよう。
W杯の開幕戦は南アフリカと並ぶ最多3回の優勝を誇るニュージーランドと開催国フランスの対戦となった。
テストマッチで調子が上がらない上、キャプテンのFLサム・ケインを出場停止で欠くニュージーランドに対し、直近のテストマッチでオーストラリアを41-17で降し、好調を維持して自国開催W杯の初戦を迎えたフランス。
地の利を活かし優勝候補にも挙げられるフランスを、それでもオールブラックスが上回るのかとの注目が集まった。
アーロン・スミスがリードするハカ、カパ・オ・パンゴの後に始まった前半、マーク・テレアのトライで早々にリードしたニュージーランドだが、その後はトライを取れないまま、PGで刻むフランスとシーソーゲームを演じることとなる。
後半もテレアがトライを奪ったが、その後はフランスの猛攻にさらされる。
印象でいうと、フランスのデフェンスが冴え渡り、フィジカルでも押されたニュージーランドが攻めあぐねている感が強かった。
という数字は、押し込まれたニュージーランドが自陣からよく走ったということだ。
もともと切り返しからボールを動かしていくオールブラックスにとって、このスタッツは特別なものではないが、結果としてトライがついてきていない。
という数字を見ると、フランスがキックで陣地を押し込んだ上でタックルを決め、ニュージーランドの前進をよく防いだと言うことになるだろう。
自陣でのターンオーバー
に対し
敵陣でのターンオーバー
というのも、フランスほうがより押し込んだところから切り返せていたことを示している。
試合中、ずっと感じていたのが、ニュージーランドがラックで食い込めていないと言う印象で、この身体ひとつ分の前進ができるかできないかが、相手のディフェンスのしやすさに大きく影響する。
NO8、アーディー・サヴェアのチップキックなど、個々の引き出しの多さは随所に見られるのだが、フランスをパニックに陥れるような状況で技を繰り出せていたのかと言うと、そうではなかったように思う。
サム・ケインを欠いていたことが、地上戦で多少なり影響していたのかもしれない。
フィジカルのぶつかり合いで利が相手にあるなら、ハイボール後の混乱状況などで打開したいところだが、キャッチの役割を担うウィル・ジョーダンまた当たってなく、イエローカードで一時退出したあとも、あわや2枚目という場面があった。
結果、ニュージーランドにPGつけたリードを維持したまま、試合を決定づけるジャミネのトライでフランスが開幕戦を制した。
開幕戦を落としたとはいえ今日の試合でナミビアを71 - 3 で降したニュージーランドは、プールAを突破する公算が強いが、残り2試合で修正をかけ、決勝でフランスにリベンジとなるだろうか。
ウェールズ、オーストラリア、フィジー、ジョージアが同居し混戦の予想されるプールCでは、伝統国の一角、ウェールズと、台風の目と噂されるフィジーが対戦した。
今まで国内に大きなリーグがなかったため、個々の力は強かったものの、才能あふれる選手の寄せ集め感という感が強かったフィジーだが、2年前から国内の選手で結成した「フィジアン・ドゥルア」でスーパーラグビーに参戦。
スコッドにも多くの選手を送り込んで、外国で活躍する主力選手とミックスしたことにより、大人のチームへと変貌。
強化策は功を奏して「フライング・フィジアンズ」とも呼ばれる魔法のようなパスとランはそのまま、しっかりとラックでもファイトする安定感で、直近のテストマッチでは日本代表を圧倒した。
対するウェールズは、3度目のW杯で今大会を最後に国際レベルから引退を表明しているSO、ダン・ビガー、前大会に続きビガーとコンビを組むSHガレス・デービス、前大会トライ王のジョシュ・アダムズ、鋭いランとハイボ処理に抜群の安定感を見せるリアム・ウィリアムズといった歴戦のベテランを揃え、屈強なFWと共に赤い壁となってフィジーを迎え撃った。
試合は、ゲームの大半の時間をフィジーが攻め立てて、ウェールズが守って切り返す展開となる。
フィジーは前評判通り、ラックでしっかりボールを落ち着かせながらも、一度ラインを突破すれば魔法のようなランやオフロードに次々と湧き出てくるフォローでこれぞフィジーというトライを決める。
しかし、立て続けに2本トライを決めると、その後は赤い壁の向こうのゴールラインが遠くなる。
気がつくと、ほとんどボールを渡していないはずのウェールズにリードを広げられていた。
試合後のスタッツを見てみよう。
獲得したテリトリー
これらの数字を見ると、ゲームのほとんどでフィジーがボールをもって前進し、ウェールズは自陣に侵入してくる敵に3倍ものタックル数を強いられていたことになり、ウェールズがまるで防戦一方にみえる。
フィジーの6割ほどしか走る機会のなかったウェールズだが、走れば4割に迫る確率でフィジーにタックルを外させ、キックではフィジーの倍に迫る距離を前進したことになる。
後半に印象的だったのが、出入りの激しい展開のなか、ノータイムで蹴ったダン・ビガーのキックが50:22になり、その後のセットプレーできっちりトライをあげていた事で、これに限らず、ウェールズは機会こそ少ないものの、攻めに出れば、確実にトライして帰ってくる。
まさに一撃必殺。
対するフィジーは圧倒的に攻めているのにウェールズのタックルに次々と捕まってしまう。
こんな言い方は変だが「相手がウェールズじゃなかったら」という言葉が頭に浮かぶ。
成長を見せたフィジーを高く分厚い赤壁が跳ね返すという結果に。
荒れると見られたプールCでも、伝統国は甘くないと言うことだろう。
最後にスコアやスタッツとあまり関係ないが、プレーが止まる度いちいち文句を言うウェールズの大男たちに対し、レフェリーが「喋りすぎ」と注意を与えていたシーンがこの試合の増田のお気に入りだ。
ラグビーW杯公式サイトでは試合後のスタッツが公開されている。
気になった試合のスタッツを確認して分析して感想戦に興じるのも面白い。
https://www.rugbyworldcup.com/2023
ラグビーW杯は2週目となり、1週目に試合がなかったチームも登場、いよいよ勝ち点争いも本格的にスタートしている。
日曜未明にはいよいよ日本代表はイングランドと戦うこととなる。
チリを破って勝ち点5で暫定トップに立つ日本は、追う勝ち点4の強豪イングランドに、どのようなディティールで差を生みだすことができるだろうか。
「この先ドラゴンが暴れているから近づかないほうが良いぞ(本当に近づかない方がいい)」
「崖を越える時はオーバーブーストを一瞬だけ吹かしてからすぐに止めると慣性で効率よく向こうに行けるぞ」
「ここから先はソウルレベル50ぐらいになってから来た方がいいな。村に戻って城の方に行けばちょうどいい難易度のステージだ」
「今回のミッションは縦方向に長いから縦方向に強いレーダーを持っていくといい。オススメを教えてやるからあとは財布と相談しろ」
「あいつは遠くから狙って攻撃すれば何とかなりそうだな。魔法が使えないなら弓でチクチク倒すという手もあるんじゃないか?」
「ミッション依頼者の情報を解析しましたが、彼らは貴方への裏切りを企んでいるようです。対AC戦の準備を推奨します」
みたいにイチイチ全部教えてもらいてえのか????
俺はぜってー嫌だぜ?
無理な時は攻略サイトを見るかも知れないけど、そのタイミングはゲームの側じゃなくて自分の意志で決めさせて欲しいよ。
お前ら、本当にフロムゲーに丁寧に手取り足取り何をすれば良いのか教えてもらいたいか?
剣の振り方もメーターの見方も全部手探りで身につけていくから達成感があるんだと俺は思うがね。
詰まってどうしても助けが欲しいなら攻略サイト見ればいいわけじゃん今の時代はまさに。
なんでそこで「ゲームの側が教えてくれればいいのに」ってなるんだ?
自力で攻略したという名誉は欲しいけど、自力で攻略はできないから、ゲーム側のお節介で仕方なく攻略情報をネタバレさせられてしまったという設定が欲しいのか?
ガキみてーなメンタルだなあ……
しばらくSwitchのファイアーエムブレムの話しが続いて恐縮なんだけど、
行商団からはぐれて一人で商いをしていて危ないところをひょんな事から一緒に神竜軍に合流することになったキャラがいるの。
打たれ弱くて絶妙に弱いの!
このパラメーターの妙というか、
デフォルトではアックスファイターみたいで斧を振り回して手斧を投げていたんだけど、
これもどうも命中しないの、
私のこと言葉の意味は何を言っているかよく分からないと思うけど
これ主人公とかだったら
強くするってのは比較的簡単なのかしら?って数字を中の設定を調整しておけば上げておけば強くできんじゃない。
でもあの絶妙な弱さを設定するって
作った人には感心するわ!
いやこれ私嫌味じゃないのよ。
今はアーチャーになって
ガンガン攻撃当ててっからアンナさんは最初よりはもの凄く強くなった活躍してんのよね。
クラスチェンジしたら真っ当に使えるように活躍出来るようになったので
もう泣くことは無いわ!
でも今の段階で
隠密で忍んで遠くから撃てば簡単!って思ってる時代もこれから苦戦しそうなのでちょっとそれを考えると今から怖いわそんな今12章ぐらいの物語の進め進行っぷりよ。
そんでさ、
本編すすめるより、
拠点である道具屋や武器屋やいわゆる街のソラネルでの暮らしが忙しすぎるのよ。
またそれはそれで。
最近はさ
説明書ないじゃない?
マジこれから気にしていかないといけない季節になってきそうで、
しかも
一応親切にも最初に出てくる機能とか役割とかの案内説明は出てくるけど、
それその瞬間でしかでなくって見逃したらもう見れないところが切ないわ。
あれいま見逃しちゃった!って
会議室でお弁当を食べていても見逃してくれないぐらい見逃しちゃったわ。
なんかいろいろ行けるところが多くなって
なんかメニューを押し進めていくといろいろ出来ることが増えて、
私知らなかった気付かなかったんだけど、
絆レヴェルを戦闘であげなくとも
知らなかったし!
あとさー
作ってる人と食べる人の故郷が同じだったら懐かしさがあるみたいでなんかパワーが上がり具合がなんか違うくて
芸が細かいなぁーって思うわ。
あとだんだんと支援会話もCからAへ到達する仲間もゾクゾク出てきて、
でもまだ大半の仲間たちは絡みがないとか
そりゃー夢中になっちゃうわよね。
前も言ったけれども拠点の街のソラネルでの強さアップに勤しむ時間も膨大なのよ。
やることがいっぱいあるわ!
おかげで
スプラトゥーン3の
意気消沈で、
早々にもう次シーズンで頑張る!って思うけど
やることがいっぱいよ!
うふふ。
いけないいけないと思いながら夜更かししてしまって
朝起きてもくたーっとなっていたので良くないわね、
朝ご飯食べたいという気力もなく
お昼にはお腹が空くはずよ!
水はよく飲んでいるわよ!
まだまだ暑いしね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
脳内ホルモンの影響で夫を仲間だと認識しないと攻撃するようになるって見たことあるけどどうだったんだろ
育児に主体的に参加するようになったら奥さんの態度が急に軟化するっていうのを研究者のアドバイスを交えてテレビでやってたのも見たことある
長時間労働の仕事でどうしても関わる時間に制限があるせいでそう認識してしまうとかでない限り産後に内に入れてるか否かってメーターがはっきりあると思うなあ
私の妹は産む前は義弟に対して不安がってたのに産んだらそんなのなかったみたいに信頼をビシバシ感じるようになったし、子育てに対してあれやってくれたこれやってくれたって訊かなくてもたまに漏れ話してくれる、世の配偶者が冷たいって嘆く男性の多さってほとんどがこの逆ってことだよね
今年、娘が小学生になった。都内の公立小学校に通っている。そんな娘に「パパは小学校楽しかった?」と聞かれて、僕は「楽しかったよ」と答えたけど、これはハッキリ言って嘘だ。
娘に変な先入観を持ってほしくないから、ポジティブに答えたけれどパパは小学校が大嫌いだった。正確には学年が上がるとともに制度と先生が嫌いになっていった。
平成初期に生まれた僕は小学校3年生まで80年代に開発された所謂ニュータウンに住んでいた。比較的若い住民が多く、大きな電機メーカーの工場などが集積していたので、所得や教育水準もそれなりに高かったのだと思う。小学校も開校20年程度だったと思う。好きな先生もいたし、友達ともよく遊んだ。指の皮が剥けるまでスマブラ64をしていたと思う。
その後、両親の離婚を経て、僕は母方の祖父母の家に住み、かつて祖母や母が通ったという小学校に転校した。明治時代からある古い学校だった。
この学校に転校した時は激しいカルチャーショックに見舞われたので一部ご紹介する。
1.男女でトイレが分かれていなかった。壁際に小便器がずらっと並び、その後ろには個室が並ぶ。要するに男子便所と同じ構造だ。そして、この個室には男子も女子も関係なく入る。ジェンダーレストイレが話題になった今となっては時代の最先端なのかもしれないが、当時は本当に驚いた。
2.自転車に乗っていいのは小学4年生から自転車の解禁が小学4年生以降だった。何も知らずに毎日自転車乗っていたら、ある日学年集会でいきなり晒し上げられてルールを知った。
こういう一つ一つ、当時の自分が嫌なポイントが増えていったのだが、決定的だったのは先生の質の低さだ。
とにかくヒステリーをよく起こす人で、どうでもいいことで一々叫び散らす先生だった。クラスで少し問題があるとなんでもかんでも集団責任と言い、一々放課後に全員で居残りさせられて迷惑だった。クラスでいじめられている子がいて、僕は転校生でクラスのヒエラルキーの外にいたので、助けようとして喧嘩になったら怒られたり、その放課後に、このクラスにいじめはありません!とか宣言しててこの人もうダメだと思った。毎日上履きに泥を詰められたりして、◯◯菌とか言われてる奴がいじめられてなかったらなんなんだろう。
この先生はかなり変なおじさんだったが、好きだった。いつも扇子を持ち歩き、教室に畳を敷いて、カーテンを簾に変えていた。将棋が趣味で将棋を教えていた。その先生から将棋を教わって将棋を始めたクラスメイトはその後、当時史上最年少で女流棋士としてプロになったのでその一点だけでも凄い人だと思う。
30代半ば/男性
この人はマッチョな見た目そのままの脳筋だった。子供ながらこんなに頭悪いのに学校の先生になれるんだなぁ、と思ったものだ。悪気があるのか無いのかわからないが、事ある毎にうちが母子家庭であることをクラスで話し、当時は今ほどシングルマザーに理解も無かった時代、そして土地柄。そのせいでクラスメイトやその親から「お父さんいないってどんな気持ち?」と聞かれたり、煽ってくる奴がいた。
決定的におかしいと思ったのが、成績の評価だった。大前提として、僕は公立小学校程度のテストならばどの科目も殆ど100点以外取ったことが無かった。年に1回の県統一の学力テストでも成績は学年1位だった。そういうわけで国語、算数、理科、社会の通信簿は常に5段階中の5以外もらったことがない。
ところが、僕はこの先生に「3」を付けられたのだ。そして、自分より頭の悪い子が5を取っていた。この成績を見た母は「1学年1位の息子が何故3なのか?」と学校に問い合せた。実は当時、通信簿の評価がそれまでの相対評価から絶対評価に切り替わった。先生曰く、生徒一人ひとりの成長を元に点数を付けることになったが、100点しか取らない僕は成長が見られないので中評価だという説明だった。
それに加えて、各科目の課題や授業に対する態度が悪いということ。具体的にはドリルとか問題集とか、その学期を通して行うべき課題を最初の1週間で全部終わらせて提出したことが悪い、授業中騒いだり他のことをしたりするわけではないが、かと言って授業も真面目に聞いていないことも理由であったと。
学校の簡単なテストは100点以外取りようが無いのに、どうやって成長を示せばいいのか。簡単な宿題を早く終わらせて一体何が悪いというのか。教科書を読めば一瞬でわかることを延々と説明する授業の一体なにを聞けばいいのか。僕は授業の邪魔することもなく、ただただ黙って大人しく時間が過ぎるのを待っていたのに。
ちなみに結局その後、試しに中学受験に向けた全国模試を受けたら偏差値は55~60くらいしかなくて、中学受験組の中では精々中の上程度だとわかった。そして日能研の「シカクいアタマをマルくする」とかいう広告の問題は全然解けなかった。別に自分が頭が良いわけではないことを理解出来た。そして実際に市川という上の下くらいの中学校になんとか滑り込んだ、というのが僕の実際の実力だ。開成?筑駒?渋幕?全然無理、って感じ。
当時を振り返ると嫌いになった要素がいくつかあると思う。
まず第一に、制度の問題。日本の公教育は、基本的に出来ない子に合わせざるを得ない環境であり、そもそも人間としての最低限の指導しかしてもらえない。加えてその基準は非常に低い所にありすぎて、子どもたちの学力すらもまともに測れない。物差しすら用意していない。当たり前のことが出来るだけでメーターを振り切ってしまう。そして相対評価の謎運用で無駄な不平等を生み出している。
そして先生の問題。先生の魅力というのは、学力だけでなく教育への熱意や広く言えば人間力など様々な観点があると思う。そしてその仕事の過酷さが度々話題になるように大変な仕事なのもわかる。
しかし僕が出会った先生は今思い出してもヒステリーなオバさんや脳筋が多く、学歴的にも大凡、他人に物を教える事ができるようなレベルではない。人間力含めたって精々小学生くらいにしか教えを説けるレベルになかったと思う。
考えてみれば、そこそこの学歴を持つ友人を見渡した時、高校の教員や大学教員になった奴はいても小学生の相手をしている奴なんて殆どいない。
そんなことを考えると、子供を私立の小学校に入れる選択肢を考える親の気持ちもわかる。ただ、個人的には小学校の時に悪かった友達が大人になって逮捕されたりしてるのを見ていると、人種の坩堝に身を投じて色々な人がいるということを理解するのも大事な気がする。
娘よ、そういうわけでパパは小学校が嫌いだった。お前が思ってるよりしょうもない大人が先生をやっているからな。そういうことにも一つ一つ気づいていきながら人生を歩んで欲しい。