はてなキーワード: m9とは
批判覚悟で言いたいことを先に言うと、
「貸す方と借りるほうが納得してるのに、部外者がグダグダ言うのは気持ち悪い」ってことだな。
それを言ったら消費者金融の問題もヤミ金の問題とかも全部問題なしになっちまうけどさ。
貸す側の責任とか、借りる側の責任とか、そういうのはそれぞれが負えばいい。
もともと、銀行業っていうのは、借りたい人間と貸したい人間を結びつける仕事、金を貸す相手の返済能力を査定する仕事だと思ってる。
銀行が企業の返済能力を査定することに関してどれだけ秀でてるかなんてのは、怪しい。
財務表の読み方くらいなら、そりゃ金融業が誕生したバビロンの時代ならとにかく、識字率が2割だった中世ならとにかく、そんなに特殊技能とは言えないし。
そもそも、そういうことに秀でていたら、不良債権を抱えたりしねぇ。
給料は銀行に貸して利息をもらって、銀行は企業に貸して、利息をもらって、っていうのはもう前時代的で、個人が好きなところ、信用してる会社、個人と好きに取引すればいい。
話が脱線したので戻るが、日本育英会がどれだけ学生の優秀さを判断できるかなんてものも怪しい。
そもそも、学生を値踏みする力があるなら、踏み倒されたりしねぇ。
A銀行の融資を切られたから、B銀行の融資を受けた、それとなにが違う?
育英会から資金を調達しようが、マネーの虎で資金を調達しようが、study giftとやらで調達しようが、なんで部外者が騒ぐのかね?
自分が金を出したわけでもないのに。
ソーシャルネットワークとかいうものが気持ち悪いと思ってる人間だから、google+で人気者ってのを俺は評価しないけど、
ソーシャルネットワークでもてはやされるのが気持ち悪いっていうことで言うなら、facebook上場と、公募価格で必死に買い支えるモルガン・スタンレーとゴールドマンサックスのほうがずっと気持ち悪い。
また話がズレた。
もう一回ふりだしに戻す。
あの騒ぎはただの嫉妬。
奨学金なんてのはオワコンで代替えのサービスが出てくるのは自明。
ってことだ。
とはいえ、炎上させた、加害者は嫉妬に狂ったバカだけど、炎上必至のシステムを作って、一人の人生を狂わせたのはちょっとひでぇなと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20120329033439
MBAホルダーの俺が答えるよ
模範解答
最終通告して電気を切る
淡々と事務作業をすること
温情は絶対にかけてはいけない
相手を甘やかすと値上げも出来ず、要求は高くなる
さっさと送電停止する
それがルール
客先が潰れようが構わん
東京電力の20%アップの値段に対応できないなら、PPS,東北電力にお願いする方法がある。
(中部電力は周波数変換でコストがかかり、北海道電力は直流交流変換の託送料が論外)
では東北電力はどうか。
託送料がかかっても、実は、東北電力の方が安い。
ただし、肝心な東北電力は電気が作れない 東北電力管内でさえ足りない。
反原発派はどんな根拠で女川原発は危険だと言っているのだろうか。
ぶっちゃけ、女川は安全審査以前に実地試験(東日本大震災M9)に耐え安全だということが証明されたわけだが。
俺は脱原発派だけど、全国の他の原発はどうかわからんが、女川は稼働してもいいと思う。
全く安全かどうかはわからんが、大地震に耐えたことは証明されている。あとは、東北電力の力を信じるかどうかだな。
東京電力に虐げられた中小企業の製造業は、電気を購入するために2者択一を迫られる。
それはお客様自身で決めること。
・補足
東京電力管内のお客様からの要望に東北電力はどう出るんだろうな。
信用できない国の後押しより、東京電力管内のお客様自身の女川稼働の署名活動でもすりゃ動きやすいんじゃね?
九州、来いよ カマン
Life is beautiful: なぜ1000年に一度の天災を考慮する必要があるのか
上記のブログは何がしたいのか。
そもそも「1000年に一度の天災」というもの定義が当初書いてすらなかったわけだが、何か珍妙な「これは百歩譲って、それぞれの原発に、1000年に一度程度、原発の設計で想定している以上の天災が起こり、それがシビアアクシデントに繋がると仮定した場合の計算である。」という定義が追記されている。
「東日本大震災」の被害の及ぶ範囲は広く、程度は違ったが、女川も襲っている。あえてこの2立地の原発に限定しても、やはり1000年に一度の災害がそれぞれ別々に襲ってくると言いたいのだろうか?
「1000年に一度の天災」という言葉が一人歩きしているが、東日本大震災をきっかけに言われている所から考えて、これってぶっちゃげ「貞観地震(869年)から1100年以上ぶりだったっぽいのでだいたい1000年に一度に当たったねと言われてるだけのこと(※学術的にそうでないもっと別の定義で使っている専門家の存在は排除しないが、大抵のマスコミ、一般人等にこれ以上の明確な定義が共有されている気配は感じない)で、これがそれ以前も今後も1000年に一度程度起こるという計算は一体誰がした。
地層型だろうとプレート型だろうと、百数十年前以前の過去の地震についてのデータは少ないため震源・規模・被害に不明点は多いし、1500年以上前に至っては資料はさらに激減する。また、地震は周期性がある時期あったとしても大地の性質上変わっていくものなので、地震リスクが1000年に一度程度などと一定の根拠を持って算出されたものがあるだろうか?ちなみにいえば、東日本大震災について「1000年に一度の天災」とある程度確率が認められたとしてもその分布は一様ではなかろう(プレート型であるか、少なくともプレート型との関連は指摘されている。プレート地震の翌年は、大きな余震等はあるかもしれないが、M9クラスの翌年はM9クラスの確率は下がりはしないだろうか?)。断層型にしたって、同一断層で1000年に一度クラスの大地震が2年連続で発生する確率が毎年独立の1/1000の確率で計算できるというのだろうか。分布が偏った確率だと考える方が普通ではないか。
これに対して、「1000年に一度とは日本全土である」などという批判(I田のぶのぶ他)も見かけたが、それはそれでおかしい。
「東海東南海南海連動大地震」がM9級で来る可能性が東日本大震災と合わせて1000年に一回?どういう計算なのかさっぱりわからない。実のところ1000年に一度と言っているが、東日本大震災と同程度のリスクを抱えているかもしれないところとして、私は少なくとも「東海東南海南海連動大地震」を挙げることができる。他にもあるかもしれない、しかし、そんなものが数えきれないほど日本に眠っているかというとそんなことはあるまい。山ほどあったら「ある地域が東日本大震災級の地震系災害にあう」確率は跳ね上がって1000年に一度どころではなくなる。
だから、そもそも「1000年に一度ってなんやねん」。上記ブログに従うと「1000年に一度の天災」は「(日本全体で見れば、100年に2〜3度は起こると覚悟しておいた方が良い」って確率なので来ない時には来ないのだが、それを加味したって日本史をひも解いて「1000年に一度の災害が100年に2~3度起こることはよくある」と読むと正直に何をいっているかわからない。「1000年に一度の天災でも偶然集中すれば100年に2〜3度は起こることがありうる」という話ではないようだ(文脈よりそう読解)。日本史をひも解いて「1000年に一度の天災が日本全土でみれば100年に2〜3度程度発生している」のか?正直何を言っているかわからないというか、それが「東日本大震災」級のことだとすればどういうデータに基づいているかわらかない。そうではなく「日本全土でみれば100年に2〜3度程度発生してきた災害」を指すなら多分世間一般には1000年に一度とは言われないんじゃないだろうか。
#東日本大震災級未満の「日本全土でみれば100年に2〜3度程度発生してきた災害」でも「原発にシビルアクシデントが起こる」可能性の話をしたいならそのようになさればよろしいかと。実際には原発毎に耐震想定には差はあるし、福島第一が他のもっと軽い災害でもこのようになった可能性を私は否定するつもりはない。
実際問題、三陸海岸に限定してみれば、明治三陸地震や昭和三陸地震の津波等見ると1000年に一度ってわけでもないという評価もあろうかと思う。しかし、福島にそんなにしょっちゅう同規模の揺れ・津波が来ていたという記録はまだないはずだ(実は全然知られていないだけで今後明らかになるという可能性は否定はしない。もっと低い津波ならもちろん記録があると公表されている)。地震は震源地によって被害が変わるのでマグニチュードだけで単純計算はできないのだが、
1000年に一度の災害、というキーワードが出回っているからといって、1/1000という数字で確率を計算するのがそもそも無謀である。
確かに、「それぞれの原発に、1000年に一度程度、原発の設計で想定している以上の天災が起こり、それがシビアアクシデントに繋がると仮定した場合の計算である。」という前提の話なら、その確率分布に一定の条件を加えることでこのような計算は可能とならないことはないのだが、どのような根拠をもってそのようなことを言っているのかさっぱりわからなない。
ともかく、正直なところ前述のブロガーが何を言っているかわからないので、「日本全体で見れば、100年に2〜3度は起こると覚悟しておいた方が良い」というのが、過去200年に日本史では具体的にどの災害にあたってどれぐらいに頻度・被害だったと想定しているのか教えてもらいたい。この200年が確率による偶然の空白期だというならもっとさかのぼってもらっても構わないので、「日本全体で見れば、100年に2〜3度は起こると覚悟しておいた方が良い」というのは具体的に過去のどれなのかぜひ教えてもらいたい。
その説明が学問的に正しかろうとそうでなかろうと、そこを説明してもらえば何を言いたいかは少しは理解できる気はする。その内容次第では誰か別の式の導出を提案してくれるかもしれない。
先日の(はてブも何もしなかったからタイトル忘れた)、女子サッカー優勝の件で、お前ら騒ぎすぎなんだよm9(^Д^)プギャーな人が居たような気がするから書いてみる。
といっても、私が書くわけじゃなくて某所で見た沢選手のインタビュー記事なんだけどな
澤選手のあるコメント
アメリカでは美談として流れているものの
何故か日本では報道や掲載されないのだ
日本語コメントの英訳を再び和訳する事に違和感ながら
日本のマスゴミが報道しない為にあえて和訳する
http://sports.yahoo.com/soccer/news;_ylt=AmArrRdFEVrJjWgo3hlE1WA5nYcB?slug=ro-rogers_japan_win_pay_tribute_tsunami_071711
澤選手のコメント:
“We knew that what we were doing here could be about a little more than just a football tournament. If winning this makes one person, someone who lost something or someone or was hurt or damaged by the events that touched our country, feel better for even one moment, then we have really achieved a most special thing. If it makes everyone happy and joyful and gives them a reason to cheer after such difficult times, then we have been successful. Japan has been hurt and so many lives have been affected. We can not change that but Japan is coming back and this was our chance to represent our nation and show that we never stop working. This is like a dream to us and we hope our country shares it with us.”
「我々のしていることは、ただサッカーをするだけではないことを、意識してきた。我々が勝つことにより、何かを失った人、誰かを失った人、怪我をした人、傷ついた人、彼らの気持ちが一瞬でも楽になってくれたら、私達は真に特別な事を成し遂げた事になる。こんな辛い時期だからこそ、みんなに少しでも元気や喜びを与える事が出来たら、それこそが我々の成功となる。日本は困難に立ち向かい、多くの人々の生活は困窮している。我々は、それ自体を変えることは出来ないものの、日本は今復興を頑張っているのだから、そんな日本の代表として、復興を決して諦めない気持ちをプレイで見せたかった。今日、我々にとってはまさに夢のようで有り、我々の国が我々と一緒に喜んでくれるとしたら幸いです」
http://yanashu.tumblr.com/post/7801129614
サッカーが好きな人が、サッカーで勝つこと以上の何かを望むことは傲慢なのかもしれない。
だけど、私も(日本代表のしたことに比べると些細なものだが)自分の仕事をするとき、この仕事がクライアント、そのお客さん、そのまたお客さん…といった大勢の人に「いいな!」と言ってもらえるものを…と、いつも考えてる。
スポーツで自国の選手が勝った・負けたで一喜一憂するのは、そりゃチームが国ごと編成で戦ってるからで、
ソレを「ナショナリズムどうのこうの!」と不快に感じてしまうなら、国別やめようぜ・とFIFA辺りに送ることができるような提案書・というかアイディアを本気だして考えたら、なかなか面白いかもしれない。
で、表題のとおり、スポーツで「日本代表」の人達が頑張る事を、日本の人が応援したり・喜んだりすることってのは、そんな変なことじゃないと思うんだ。
でも環境っていうのはすごく大事で、女の子がサッカーすること自体珍しい国では世界を目指す!とか、なかなか期待できないだろうし
もっとスポーツのエリート教育ガンガンやってる国だったら逆に、物心ついた頃には既に差はできてて、夢見るレンジも狭まってたかもしれない。
「もしかしたら同級生の●●ちゃん」が、そこで頑張ってるかもしれない事実、
自分と同じ条件下、そういう子達が夢を掴んだ事実、こういうのも「自国を応援する理由」の一つとしてあるんじゃないかなぁと思う。
スポーツで偉業を為した人に自己投影するなよ、って事なんだろうが。
尊敬したり・目標にしたり…彼らの歓びを我がごとのように喜んだり、ってそんなに悪いことなんかいな。
私も「好きなことしてるんだから!」ってバイト掛け持ちしてた下積み期間があった人間なんで、普通に我が事のように嬉しいよ。
つまり何が言いたいのかって言うと、
DQ7はシナリオがクソ ├シナリオが長すぎる | ├訪れる町多すぎ | └長い上にテンポが悪い | ├無駄にお使いイベント多すぎ(一度行った場所に何度も行くことに) | └石版探しに時間がかかる ├全般的に話が暗い | └後味が悪い話が多い(レブレサックなど) ├シナリオがぶつ切り、一貫性が無い | ├シナリオを進めるのではなく、単なる作業になっている | ├話の主体がプレイヤーではなく村人になっている | └登場人物が毎回変わるからキャラもボスも印象が薄い └キャラがクソ ├キャラのクセが強すぎる | ├独特なキャラデザイン | ├マリベルうざい | └キーファ途中で離脱すんなクソ └キャラの印象が薄すぎる ├マリベルとキーファ以外印象に残らない ├会話システムが↑の2人以外生かされていない ├途中参加組(ガボ・メルビン・アイラ)の印象が薄い ├そもそも↑こいつらがいる意味あんの? └ダーマ神殿のNPCのほうがキャラ立ってる
―DQ7はシステムがクソ ├プログラムの失敗 | ├フリーズが多い | └ムービーの出来が非常に悪い └ゲームバランス調整の失敗 ├転職システムがクソ | ├熟練度稼ぎが面倒 | ├熟練度稼ぎをやりまくるとヌルゲー化 | ├使える職業と使えない職業の差が大きい | └モンスター職が総じて地雷 └レベルの崩壊 ├ドラクエ特有の「レベルが少し上がるだけで難易度がまるで違う」という絶妙なゲームバランスの崩壊 └レベルが上がりにくい
実際プレイしてみるとわかるが、DQ7は敵を倒して入る経験値が低い
熟練度稼ぎやダンジョンの数が原因だと思われるが、その結果他のDQの何倍も雑魚敵と戦わなければならない
熟練度稼ぎで必要な戦闘数が、これまた異常に多い
例えば賢者をマスターするためには魔法使い(170)+僧侶(180)+賢者(250)=600回(!)
天地雷鳴士になるには更に踊り子(120)+吟遊詩人(140)+笑わせ師(133)+スーパースター(180)+天地雷鳴士(250)
なんと1300回以上戦わなければならない
しかし、プレイ時間が異常に長く、話が暗く、戦闘テンポが悪い作品でも名作と言われている作品は多々ある
同じPSならゼノギアスやアークザラッド2 これらのゲームとの違いはなんなのか
・山あり谷ありのシナリオ(⇔DQ7のぶつ切りで、単調なシナリオ)
・「最初からクライマックス」(⇔最初の2時間、敵と戦うことすらない)
・演出が上手い(⇔般若の面が踊ってたムービーを見させられた)
・魅力的な味方キャラ(⇔キャラ立ってるのはマリベル・キーファだけ しかもマリベルは人を選ぶし、キーファは途中で離脱する)
・魅力的な敵キャラ(⇔DQ7で印象に残ってる敵として挙げられるのは「強いボス」だけ)
・↑の敵との戦いでの盛り上がりは最高潮(⇔ダーマ神殿解放は盛り上がった?んじゃダーマ神殿の最後のボスの名前覚えてんのかよ)
シナリオもレールに乗ってるような水戸黄門形式で世界を駆け巡ってる感が無い
・石版システム
壺やら宝箱やらに石版を配置するのはプレイヤーだけじゃなく、製作者にとっても大変だったはず
どうしてこんなシステムにしたのか なんでこんなに不親切なのか
①DQ7が「散策型」のゲームだから 自分で会話して、調べて、話を進めていく DQ5やFFのように勝手に話が進むわけじゃない
次の話に進むフラグが「街の中にいる全員に話しかける」という面倒なのが頻発するのもこのため 余計にプレイ時間は長くなった
②解放した街へ行かせるため
しかしこのシステムでは散策が強制されてしまい、全て探し出すまで次に進めない
この欠点は非常に大きく、DQ7のプレイ時間の長時間化・テンポの悪化に繋がった
何しろ戦闘ではなく、街中のタンスを開けて、壺を割るだけだからつまらないことこの上ない
「散策しない」という自由度は極限まで制約されてしまった ヒントも占いババアぐらいで、少ない
わざと不親切に作られた、DQ5やFF7や10とは対極、DQ2に近いゲーム
44 :名前が無い@ただの名無しのようだ:2011/05/29(日) 23:47:42.73 ID:BGa2qTi40
FCの1と2も経験値が少なくて、今からするとやってられんぞw
45 :名前が無い@ただの名無しのようだ:2011/05/29(日) 23:52:02.29 ID:DnigVQj10
>44
FCの2って今からやればクソゲーもいいところ 不親切だし、ゲームバランスも狂ってる
63 : 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2011/05/30(月) 14:02:26.34 ID:G433+BXf0
フリーズどうにかしろよ
64 :名前が無い@ただの名無しのようだ:2011/05/30(月) 18:57:30.24 ID:IH7a2inH0
シリーズ一痛いドラクエ7信者の実態 ( 'A` ) 「感性に優れた人間にしかDQ7の面白さはわからないからwwwwwww (m9 つ 楽しめない奴ら低学歴確定wwwwwwwwwwww」 .人 Y し'〈_) ⊂( '∀` )つ-、 「暗いストーリーとハッピーエンドにならない話が素晴らしい /// /_/:::::/ このゲームのよさが分からない人達は人生の8割を損してる」 |:::|/⊂ヽノ|:::| /」 (´c_,` )へ 「DSリメイクされたらバカ売れ間違いなし。 ∩,, ⌒つっ 初週ミリオンはいくだろうな やらんとかいってるアンチもやらざるを得ない」 ∩ _, ,_ ⊂⌒(´<_,` ) 「糞とか言ってる奴は、どうせ最初の神殿で詰んだクチだろw `ヽ_つ ⊂ノ やりはじめて直ぐに投げ出すようなゆとりに 7を評価する資格なんてあると思ってんの?w」
7が駄目なところ。
・シナリオがぶつ切りすぎてラスボスの存在意義がわかりにくい。
・そもそもシナリオが悪い。
・育成システムが6の駄目なところをさらに駄目にした感じ。
・フリーズ
・ムービー
・鳥山の絵──個人的に一番痛い
・馬車無し──モンスター職とパークじゃなくて普通に仲間になれば、極めた後のモンスター姿も、パークもモンスターの預け場所なんかで兼ねれるだろう
・キーファ離脱から転職、メルビン加入の時期のバランス悪さ──転職前後の三人旅時は特技や呪文が増えず代わり映えしない
熟・練度のテンポの悪さ──特技次第で楽になるから仕方ないかも知れんが、なら長い開発期間の中で特技のバランスの方を練ってくれよ
・過去の海底神殿のシナリオで現代に戻れないどころか満足な装備屋すら無い
・多分、チビィの伝説がめちゃめちゃになって現代で語られてるって話をやりたいが為の、チビィのシナリオの半端無いお使い感
・マリベル離脱時に多くの人が回復面でパーティーバランスを崩す事。しかもその後に鬼門ヘルクラウダー。最悪の場合、長い熟練度上げしなきゃならないかも知れない事
何でそうなのかっていう最低限の理由付けもないから
導入部の長さとか色々と無駄な部分が多くて全体的に水増ししてるような作り
SSの繋ぎ合わせで徐々に話が出来上がるストーリーはいいとして本題までが長過ぎる
LOMみたいにある程度の自由とシナリオ選択(順番変えられる程度でいい)があれば良かった
鬱ストーリーが多いのは構わんけど、笑える話とかくだらない話も用意しろよ
あなたがその枠内で書いてないことを補足する。
・「万が一」の備えすらタブー
なんでそうなったかわかる?
広瀬とか小出とかみたいな職業的デマゴーグ、あるいは坂本龍一みたいなナイーブ文化人が「原子力=核=悪」という単純素朴な図式に乗っかって(太陽光だって核エネルギーなのにね)煽りまくった結果、原子力関係ではどんな些細なミスすらも許されなくなったからだよ。
原子力産業の従事者は「狼の番人」みたいなものだ。村に狼(放射性物質)が入ってこないように周囲の狼を退治するのが仕事の、ね。ところが村には「狼少年」が沢山いて、「犬が村の外を歩いていた」程度のことを報告しただけでも「狼だ!狼だ!」と騒がれてしまう。あるいは報告しなければ「隠蔽だ!」と騒がれる。そのせいで番人は「こいつら本当に頼りになるのか」と段々白い目で見られるようになる。「万が一のために村の入口に罠を仕掛けよう」なんて言った日には「お前は万が一にも、狼が村に入ってくることがあるというのか!そんな頼りない番人はクビだ!」と騒がれてしまう(保安院は長期電源喪失事故は「起こらないので対策不要」としたし事故対策用ロボットの開発を打ち切った。要するに批判を恐れた事なかれ主義的対応)。
そうなりゃ、もうどうなるかは目に見えてるだろ。番人だって村人を信用できなくなるんだよ。お前らのために一生懸命やってるのになんだその扱いは、狼のいそうなところは徹底的に駆除したのにその努力を認めてもくれないなんてやってられるか、となる。どういう場合に狼が現れるか、という検討事項とか、犬が村の中を歩いてた、なんて話はできるだけ隠す。そしてなんだかんだで自分たちの腕に自信はあるものだから、自分たちを批判する連中は全て無知な素人か、自分たちを嫌っている連中に見える(実際、多くの反原発団体は一部政治団体と結びついてイデオロギーありきであることないこと煽り立てていた)。
つまり、無知半分面白半分、あるいは私利私欲で「狼だ!狼だ!」と煽り立てていた「反原発村」の連中が「原子力村」の連中をわざわざそうなるように誘導したということはよく弁えてもらいたい。なんでも批判するのがインテリでリベラルだ、なんてのは大間違いなんだよ。
それでも「安全神話に騙されていた」なんて信じがたいけどね。少なくとも俺は心情的に原発に肯定的だった(今でもそう。自然エネルギーが「これから」の技術である現状、チェルノブイリよりずっと恐ろしい温暖化を確実に引き起こす火力よりマシだという考えは変わらん)が、それを口にするのがはばかられる雰囲気はもんじゅのナトリウム漏れやJCOのはるか以前からあったし、「原発は危険」というのがリベラルがかったインテリの「常識」で(イラク戦争は悪、とか小泉・ブッシュは最低のネオコン・ネオリベ、というのと同レベルの)、マスコミの報道、特に朝日・岩波・NHKはそれに沿った線だった。それに反対することは「愚民」扱いされることを覚悟するしかなかった。嘘だと思うならはてブを震災以前に遡ってみろ。
だいたい「絶対安全」なんて一度も聞いたことないぞ。「有史以来の自然災害でも起こらなければ事故リスクは天文学的に低い」とは聞いていたが。そして今回の地震が起こる前に「M9.0の地震が起こったらどうするんだ」と言われたら「そこまで極端なことが起こればそもそも原発どころの騒ぎではないはずだ、運が悪かったと思って諦めるしかないだろう」と言っていなかった自信は、正直言ってない。「推進派」が信じていた「安全神話」なんてその程度だ。
これは嘘。「危険を唱える科学者」の多くは原子力の専門家ではない、要するに素人だし、原子力畑の小出や今中が「排斥」されたのは単に査読付き論文書いてないから。平たく言えば「仕事しない給料泥棒」だから。しかもその給料の出所は税金だから。
民間企業の研究所なら論文も特許も出さない技術者なんてよくて左遷、悪くてクビ。それが定年までいられるんだからむしろどんな「お手盛り厚遇」だって話だぜ。国の金で自分のやりたい政治活動できるんだから、三日やったらやめられないよ、あの立場は。
民族性に還元?なにその本質主義?そういうこというからお前らが信用なくすってわかってる?だいたいどの民族よ?日本は大和民族だけの国じゃないしそもそも東北はアイヌ系民族の土地だったってわかって言ってる?あんたそれでも左翼なの?
http://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110530-00000046-jij-soci
http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/jiken/news/20110530k0000e040080000c.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/affairs/news/110530/trl11053017440005-n1.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/national/update/0530/TKY201105300242.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/national/news/20110530-OYT1T00682.htm
大阪まとめ速報
http://b.hatena.ne.jp/entry/furyouzuki.blog18.fc2.com/blog-entry-3361.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/tokuteisuta.blog24.fc2.com/blog-entry-5002.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/alfalfalfa.com/archives/3429020.html
東電の免責については不可能だと思う。あの地震と津波が想定外の天変地異に相当するかどうかだけど、実際に自然現象として発生したからには想定外とは言えないわけで。
フランスとか、オーストラリアとか安定的な地塊でM9.0レベルの地震が起きることを予知するのは不可能だろうけど、日本のあの地域でそういう地震が起きるのは構造的に可能なのね。
重要なのは、今回の地震はこれでもまだ、人類史上、最大のものではないということ。
チリ大地震級の地震が日本沿岸で発生するのは地質的に不可能であったのかどうかってこと。起きる可能性は低いと考えられていたけど、それを引き起こす構造的な環境はあったわけ。
たとえばプロの鳶職の人が高層ビル建築の工事現場で、ナットやら金槌やらを下に落とすことは可能性としては低いけど、起こり得る可能性はあるわけ。
落下防止柵などを事前に手当していなくて、通行人がけがした場合、予測不能であったと言えるかどうかってことよ。
政府の地震予知はこの地域であれほど大規模な地震が起きるとは予想していなかったけど、それは地震予知の問題であって、それに沿って見通しを立てていたから東電には責任はないなんてことはないのよね。
原子力損害の賠償に関する法律第3条 (無過失責任、責任の集中等)
1 原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
2 略
福島第一原発の事故による損害ついて、原則として東電は無過失で賠償責任を負う。(無限の、という形容詞を付ける者がいるが、損害賠償責任が無限なのは当たり前の話だ。ただ東電が無一文になれば事実上、支払えないと言うにすぎない。この支払能力の問題は別稿とする。)
もっとも上の条文から明らかなように、その損害が異常に巨大な天災地変…によつて生じたものであるときは
賠償責任を負わない。
これはAll or Nothingの話なので、このただし書きが適用されるならば、東電は一銭たりとも賠償責任を負わない。(枝野氏が「免責はあり得ない」と言ったのは、このただし書きの適用があるとは思われない、という感想である。司法の判断領域なので、この発言は法的には無意味な、政治的発言である。)
さて、今回の東北地方太平洋沖地震及び大津波は、異常な天災地変
であることは明らかだ(千年に一度の天災地変が含まれないなら、ただし書は無意味も同然だ)。そうすると、東電は賠償責任を負わないとも思える。
しかし、同条は責任の範囲を通常よりも拡大したものであるから、通常でも賠償責任が生ずる場合にまでただし書が適用されるものではない(と考えられる)。即ち、東電に過失があった場合には、ただし書は適用されず、東電は賠償責任を負うことになる。
それでは東電には過失はあるか。想定すべきを想定しなかった場合には過失が認められよう。
ここでM9地震や14m津波は、3.11以前の科学技術の水準に照らし、予見すべきものとはされていなかった(っぽい)。そうすると過失は無かったとも思える。
しかし、3.11以前の科学技術の水準に照らしても、例えばM8地震や7m津波は予見すべきものだったと言える(かもしれない)。そうであれば、これを想定せず、M8地震や7m津波への対策が不十分であれば、過失は認められる。つまり、過失の有無の判断においては、東電がM9地震,14m津波を想定できたかは問題とならない。
もっともこの場合にも、過失と損害との因果関係が問題となる。因果関係の無い損害を賠償するいわれは無い。
ここに来て初めて「想定外」が問題となる。つまり、想定すべきM8地震や7m津波への対策をしていても事故が発生していたならば、事故と災害対策不備という過失とは因果関係がなく、損害賠償責任は認められない。(だから「想定外」の主語は東電ではなく「現在の科学技術水準」だ。)
もっとも、M8地震や7m津波向けの対策をしていれば、今回の「想定外」にあってもより軽微な損害で済んだ可能性がある(例えば今回の地震と津波は女川原発にとっても想定外だったが、女川原発は正常に動作停止した)。制御不能に陥ったのが、M8,7m津波すら対策を怠ったためであると言えるならば、過失と損害との因果関係は肯定でき、東電は賠償責任を負う。
なお、東電の「政治判断」として、そもそもただし書を主張しない、という可能性もある。その場合には過失を云々せずに、損害賠償が認められる。
また、仮に東電の賠償責任が認められない場合はどうするか。天変地異と同じく、国が支援するか、被害者が諦めるかである。この場合は、どの程度の支援を受けられるかは基本的には国の胸先三寸であり、全額を請求できる賠償の場合とは全く違ってくることになる(東電にすら過失が認められないなら、国家賠償請求も過失(や瑕疵)が無く認められないだろう)。菅氏等が全額の「補償」を宣言しているのは、主にこのケースについての対応を提示しているものといえる。
http://www.47news.jp/CN/201104/CN2011041301001002.html
「(常に)日本全土が地震の危険にさらされており、特定の地域のリスクを評価できない」とし、国民や政府に「想定外」に備えるよう求めた。
「今こそ(政府は)地震を予知できないことを国民に率直に伝えるとき」とも提言しており、世界的な学術誌への掲載は地震多発国・日本の予知政策に影響を与える可能性もある。
論文では、予知の根拠とされる地震の前兆現象について「近代的な測定技術では見つかっていない」と指摘し、「国内で1979年以降10人以上の死者が出た地震は、予知では確率が低いとされていた地域で発生」と分析。マグニチュード8クラスの東海・東南海・南海地震を想定した地震予知は、方法論に欠陥がある
つまり、
ただし、東北新幹線は事前の微細動の検知のおかげで脱線せずに済んだのである。注意すべきは
である。
1:に関してはご存じの方も多いと思う。今の科学では、比較的大きな地震が来たら「これはプレスリップかもしれないから、次にもっと大きな地震が来ることもありえるので注意してね」というぐらいの周知と備えへの啓蒙しかできないのだ。これまでは経験的に「こんなでっかい地震来たら次はしばらくこないやろ~」という人が多かったと思う。しかし、そんなものは思い込みでしかないことが、今回でおわかりいただけたかと。
2:に関してもそう。統計的に地震を予測するにしても、圧倒的にコーパスが足りない。1000年に1度の規模の地震が起こったとして、それがほんとうに1000年に1度の頻度であるかというのは、また話が違うのだ。
これは先の経験的な件と重なるが、一度の巨大地震が歪みをリセット(ゼロになる)するわけではない。「1000年に1度の地震が起こったのだから、次は1000年後までないに決まってる」わけがないのだ。そもそもその「1000年に1度」を疑う必要があるということ。
3:に関しても同じ。私たちが生きている間にその技術が確立することはないだろうが、「その研究は無駄だから仕分けしましょう」などとは話が違う。
また、これを「緊急地震速報は無駄」だと話をすり替えられても困る。緊急地震速報はP波である可能性が高いものを検知して、速報している。実際今回の本震においても速報は機能した。ただ、今の技術では「それがどの程度の規模の地震か」という予測まではできない。できるのは「地震が来るか来ないか」であり、「これから宮城県沖でM9.0の地震が来ます」ではない。地震が来ることがわかるならそれに越したことはないのだ。「あの音が嫌だからやめろ」なら音を作った人の努力も浮かばれるというもの。
とにかく、今の地震観測技術は、岩だけの離島に鳥の糞で植物のタネが落とされた程度だし、それをひとつの植物に育て上げるにはこれまた長い年月が必要だということ。
今使いものにならないからイラネ、という態度だけはやめていただきたいし、この教授もそういう意味で言っているわけではないということを理解してほしい。
http://anond.hatelabo.jp/20110410174816
なんか、違う国に来ちゃったみたいだね
なんだかまるで、知らない人たちの中にいるみたい
あたしたちは知ってて他のみんなは何も知らない
それってもう違う世界で違うものを見て暮らしているようなもんじゃない
さやかちゃん
とっくの昔に変わっちゃってたんだ
もっと早くに気づくべきだったんだよ、わたしたちも
ううん
そうだよね、うん仕方ないよ
ずるいって分かってるの。今更虫が良すぎだよね。
でも無理、あたしあんな死に方
怖いよ、やだよ
原発のためにどういう覚悟がいるのか、私たちに思い知らせるために、あの人は
マミさんの代わりにこれから誰がみんなを放射能から守ってくれるんだろう
長らくここはマミの管轄だったけど、空席になれば他の職員が黙ってないよ
すぐにも他の職員が、原発増設のためにやってくる
じゃあ
でもそれを非難できるとしたら、それはおなじ原発を誘致してる自治体だけじゃないかな
ふー、君たちの気持ちは分かった
残念だけど、僕だって無理強いはできない
お別れだね
ごめんね東電
こっちこそ巻き込んですまなかった
ごめんね
え?
なんで今でもまだ、原発の危険性を煽るんだ。嫌がらせのつもりなのかい
もう聞きたくなんかないんだよ!
自分で使えもしない電力ただ発電してるだけなんて
ぼくはぼくは
仕事が無いんだ、もう履歴書すら受け取ってくれない。こんな町なんて
大丈夫だよきっとなんとかなるよ、諦めなければきっといつか
安全だって言われたのさ
くるよ
まーこれ読めば狂ったように批判する人が多いだろうなっていう内容を雑に書き殴る。その内気が向けば、徐々に加筆するかも。特定の人が見れば誰が書いたか分かりそうな・・・。
デマは不安を煽るものが多いが、中途半端にインテリな奴が根拠薄弱な安全情報を流したりする例も。原発に対する非科学的な恐怖感に対する反動化だろう。無闇に恐れることはないという主張が勢い余って無闇に安全だというデマに繋がるのだろう。どっちにしてもデマは大迷惑なので止めて欲しい。
切込隊長こと山本一郎までその中に入ってしまったのが、人間の能力の限界を感じさせる。彼は結構賢い部類に入ると思ったんだけど、それでも人間の能力は個人レベルでは限界値も低いようだ。知能や倫理のネットワーク化が人類の課題。相互に補完・訂正し合って相乗効果を高められるか否か。
国同士が協力できずに地球規模でまとまれないのは、人類にとって地球が最大単位だから。それ以下の単位では、争いはあっても、学習によって視野を広げればまとまることも可能。そう言う意味でも宇宙開発は意味がある。地球よりも広い範囲を自然な意識内に収められれば、地球規模で人類がまとまれるだろう。
あと、デマに関しては、どこそこの教授が言ったからとか、米軍情報だからとか、そういう理由で信じた人が多かったが、やっぱりそういうのに弱いんだなと。 MITの教授だけど実は原子炉や原子力工学は専門外で物理の先生ですらなくマーケティングだか何だかの先生だと後で分かったりということがあった。デマに対する方策として、「信頼できるソース」というのがあるけど、これは肩書きとか機関名の権威に盲従しろってことではない。あくまで、自分の頭で総合的に情報分析・判断する際に、どういった情報を取捨選択するかという際の目安でしかない。取捨選択の判断基準としては、学問的手法によるのが適切。仮に優秀な学者が唱えた説でも、それは学説に過ぎないという当たり前の事実。あと学者の情報と現場を知ってるエンジニアの情報を組み合わせることも考えて欲しい。
これは私のような存在、中の人の気持ちも知ってるし、外の人の立場でもあるので書いておこうかと。もっとも中の人、外の人にも色々いるんだが。
絶賛する声が大きすぎて怖い。もちろん、気持ちは分かる。だから絶賛を非難する気はない。
しかし、まず第一に彼らはそれが仕事であること。つまり平時より課せられた使命であること。特に自衛官は我が身を顧みないことを宣誓し署名している。だから義務を果たしているに過ぎない。
念のためにもう一度書いておくが、それでも彼らに感謝するという気持ちは充分分かる。そうした過酷な義務を大阪市バスの運転手よりはるかに安い給料で遂行してくれるのは確かに有り難い。
が、しかし、彼らには宣誓に応じた義務を給料と引き替えに果たすというのが役割だということを忘れないで欲しい。
度を超えた絶賛は、自衛官らにとっても国民にとっても不幸なことだ。彼らは超人ではない。肉体的・精神的に被災者以上に過酷な状況の中で作業を続けることは、自衛官などなら平気だという訳ではない。
精神的に余裕のない被災者から容赦ない罵声を浴びせられることもある。自己完結型の組織として自前で用意した環境を享受すれば非難される。自分の家族も行方不明のまま。大量の遺体が腐り始める。理不尽なことが山ほど降りかかってくる。
そんな現場にいる人達をヒーロー扱いするというのはやや失礼なことだとさえ言っても良い。もっとも彼ら自身は何とも思う余裕もないだろうが。彼らに報いる方法は、彼らが充分能力を発揮できるような環境を平時の間に整えることだ。はっきり言ってしまえば、毎年の予算を増やすこと。そしてそれが有効に使われているか、官僚の都合が優先されていないかチェックすること。彼らに感謝すると言いながら、予算には関心を持たない人は多いのではないか。年々減っていく予算をどう思っていたのか聞いてみたい。いや聞きたくないわ。予算に関しては全体の額だけではなく、内訳も非常に重要。イージス艦とか支援戦闘機とかMDとかも大事だけど、もっと地味なところは蔑ろにされがち。柱の浮いた廃墟のような倉庫とか、すぐちぎれるペラペラの個人装備とか、歩いてるだけですぐ部品がなくなる小銃とか。今や第三世界と呼ばれた国々の軍隊の装備にも劣る点が多々ある。ハイテク装備にだけ目を奪われるとこうなる。
自衛官らを超人扱いして有り難がるのはやめよう。頑張ってくれてる同じ日本人として感謝しよう。
コンプレックスの強い人がそれを軍隊のロマンへの心酔という形で発散したがるというのはよくあることなんだが、今の日本では主にネトウヨがこれに該当する。極端な国粋主義というのは軍隊の内部よりも、外部から内部に浸透してくるものだと考えている。三島由紀夫が自衛官に冷笑されたのは当然。軍隊ではああいう人は一番浮く。井上和彦とか話にならん。ああいう人はヒーローを語ってその尻馬に乗ろうとしてるだけ。
連日の過酷な状況を伝える暗いニュースの連続で、自分自身は直接被災していないにも関わらず、心が参ってしまう人が続出。見なきゃ良いんだけど気になるから見てしまうんだろうね。そういう人はなるべく民放のセンセーショナルな番組を見ないようにした方がいいと思う。とかく人の不安や恐怖やらを煽りがちなので。情報は1日1回、NHKのニュースを見て、後は新聞の一面でもざっと眺めれば充分でしょう。
ネットの情報は読み解くのに相当のリテラシーと時間が要求されるのでこういうときは実はあんまり実用的でない。
んで、自主規制とか自粛とかいわれる物が行きすぎというのも分かるが、わざわざ話題を逸らすこともないとも言える。そういう訳でこの文章を書いている。
遺体を映すべきだという声をよく聞くけど、それは要らないと思う。それを見てたらどうなるの?慣れるの?そんな場面を見なくても震災から学ぶことは十分出来ると思う。
以下加筆するかも・・・・多分しない
日本の先駆的研究者、松浦祥次郎氏も再考を迫られたことを明かした
不可欠であっても数は減らせる
M9レベルを基準にすることについての国民の合意を確認しておく必要
数十兆のダメージか→国民皆でかなりの負担をすることになる(全員が「被災者」でありサバイバー)
今の日本に必要なのは抽象的な協力概念ではなく、国民が賢くなって賢い政治を選択すること
戦後政治を変えるのは震災前から喫緊の課題であったがもう猶予は一切無い
今、間違った復旧・復興をすると取り返しがつかない→反面、新しい街作りの機会
補償にも効果測定は必要(効果は補償された人・されなかった人・国民全体の人心の安寧も含む)
その防止策は?
場所は確かに難があるが、では財政難の中でどの選択肢を採れるか
庁舎近辺を徐々に再開発するのは無理?庁舎が来れば需要も生まれるのでは?
数々の地震に耐えた現庁舎も今後はさすがに不安(そこが出発点だったはず)
他にもあったけど、ありすぎて忘れた。とにかく考えさせられたことが多すぎて全部覚えてらんない。不安を煽るつもりはないが、もはや崖っぷちであることは事実であると認識した上で勇気が必要。
こういうアホなりにも真面目に考えてびっしり(というか8行おきじゃなく)書かれた文章(つっても作文程度だが)より、どっかの歌手が書いた5行くらいの詩を読みたがるのが大衆なんだと思ってるけど。
きっちり考えるより、分かりやすい言葉に感動してる方が圧倒的に楽だという誤謬の根本原因をどうするのかまで考えないとな。それは俺なんかより、インテリが考えるべきことなんだけど。インテリというのは優れた思考力を与えられている分、俺たち愚民を導く責任があるんだよ。ワンフレーズで国民を先導ならぬ扇動する政治家とか論外。
で、NHKの水野解説委員と横尾アナウンサーには萌えた。彼らは常識的なインテリだと思う。他にもテレビに出てる人でもいいこと言ってる人はいるし、それが放送されているのだから、まだマスメディアには存在価値が残っている。
追記
読めば分かると思うが、私のこの文章が歌手の安っぽいフレーズより有用だという主張をしているのではない。下らない物が結果的によい効果をもたらすことは良くあるし、私から見て下らない物が世の中のためになる価値ある物かも知れない。しかし、そういった価値判断以前に、単純に、真面目に書いた長文より情緒的なワンフレーズがとっつきやすく、それだけで満足してしまうことによる誤謬の可能性というのは大きいという構造の話。いずれにせよ、その辺はこの文章の主題ではないんだけれど。
まず、今回の東日本大震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々のお見舞いを心から申し上げます。
次に、僕のスペックです。都内の大学に通う学生(新二年生—ちなみに一浪—)です。所属学部のカリキュラムによって、ほとんどの授業を英語で行って、レポートも英語でたくさん書きました。といっても、僕の英語の能力はだいたいTOEIC700点前後だと思います(TOEICはうけたことがありませんが、学校で受けさせられたテストなどで換算するとこのくらいです)。700点前後なので、あまり大したことは言えた身ではないのですが、英語については昨年度かなり自分でも悩み、考えたし、また、TOEICなどのスコアだけで英語の実力のすべてが測れるとも思っていないので、僭越ながらも英語についての意見を述べさせてもらいます。(ちなみに未だ日本から出たこと無いです)
最後に、書こうと思った動機について。主に二つ。ひとつは、日本人の英語熱が、去年のユニクロ、楽天の英語公用語方針表明から、加熱の一途を辿っていることを受けて、自分—英語が公用語の学部で学んでいる自分—が何か良い意見を述べることができればいいなと思ったから。あとひとつは、自分の英語に関する考えを今の時点で言語化して整理しておきたいという考えがあるからです。
英語学習者の多くは「英語ができるようになりたい」や「英語上達!」などと言います。が、少し待って下さい。その宣言って少し漠然としすぎではないでしょうか。ここで、試しにあなたが今思っているその「英語」に修飾語を二つ付けてみて下さい。例えば、ある会社員の場合は、practicalと businessを足して、”Practical business English” (実践的ビジネス英語) となります。こうすることで、あなたが必要な英語がもっと鮮明になるでしょう。さらに対策だって立てやすくなると思います。子供が語学を身に着けながら成長するときの様に、日常の様々な場面での遍く英語表現を身に着けることは大人には困難です。しかし、範囲をうまく絞れば、そこに特化して勉強することで仕事で困ることが少なくなると思います。
僕は昨年度、英語を話す日本人を数十人ですが見てきましたが、およそ二つのグループに分けることができます。それは、日本語を話すときと同じ感覚で英語を話している人と、英語を話すときは全く別の口の開け方や筋肉の動かし方、さらには呼吸法までする人たちです(帰国子女の方々は幼いころの海外経験の中でこれを自然に身に着けているように思われます)。タピオカドリンクを飲むときは、コーラを飲む時に使うストローじゃ飲めないように、英語を話すときも日本語用の発声方法を脇に置いて、英語用の発声フォーマットで話さなくてはならないのです。先に示した前者の人々はだいたい、声が小さいぼそぼそとしたしゃべり方をします(もちろん発音は滅茶苦茶チョッピーです)。これは、はっきりいって意識の問題だと思います。発音やアクセントの前に態度(attitude)の問題だと思います。
これは上とだいぶ関連があるのですが、英語を真剣に話そうとすると多かれ少なかれ「欧米人っぽさ」や、悪く言えば「ネイティブかぶれ」が現れてしまいます。だが、これらに対して嘲笑したり、からかったりしてはいけないと思うのです。日本人の間で「かぶれ」に見えてしまうことも、英語話者同士では普通の事なのです。だから、間違っても日本人によるつまらない価値観から、その人の外国語に向かおうとする態度を軽蔑してはならないと思います。お互いにとってマイナスにしかなりません。
英語がわからないから話が理解できない、と思ったことがある方。それは本当に英語が問題でしょうか?例えば、去年流行った「ハーバード白熱教室」。この番組はiTunesやYouTubeで無料で見ることができます。僕も、視聴していて三周目も終わろうとしている頃ですが、まだよく理解できているとは思えないです。『これからの「正義」の話をしよう』も、その原著である”Justice-what’s the right thing to do-”も持っていて一通り読みましたが、未だ理解できたという確信がありません。なるほど、「テメエがアホなんだよm9(^Д^)プギャ―」という意見もあるでしょう。しかし、サンデルの授業内容がそれなりに高度なことも事実ではないでしょうか。日本語で聞いたとしてもそれなりに高度なことには変わりません。それをさらに外国語でとなると余計に理解が難しくなってしまいます。自分の英語読解/聴解能力を疑う前に、言語に拘わらずそれを理解できる知的基盤が備わっているか。それをただ「英語が分からない」と悲観する前に、確認する必要があると思います。
某経済評論家などを「達人」と見做している英語学習者は、いつまでたっても英語ができるようにならないと思います、失礼ながら(インタビューもそんなにあてにしちゃいけない)。そもそも、本当に英語できる人間は、日常のほぼ全てのタスクを英語でこなしているような人たちではないでしょうか。論文であれ、企画書であれ、会議であれ、学術発表会であれ。そういう本当の「達人」らは、われわれ一般人に指南するような立場を超越していらっしゃいます。さらに、そういう人たちはあまり表に出ない人たちです。なぜなら、一流のビジネスパーソンは週刊誌の英語特集に顔だすくらい給料安くないし、言語学など学問分野の一流たちもそんなところに出て自分の株をさげるようなことをしないでしょうから。
では誰をロールモデルにするのか。はっきりいってツールである英語にロールモデルが必要であるとは思わないのですが。強いて言うなら、『英語達人列伝』の中から探すといいと思います。これを読めば、「日本人は英語ができない」といった言説が神話であると思え、すこし勇気が湧いてくると思います。
英語学習において、発音を磨くことは何かと批判の対象になります。恐らく、それは英語学習における贅沢品と受け取られるからでしょう。目玉焼きも焼けない人間が高級イタリア料理「カルパッチョソースのデミグラス和え 地中海の新鮮な貝の奏でるムースとともに」(※こんな料理はありません)を作ろうとするように捉えられてしまうのかもしれません。
しかし、僕は発音も大切だと思います。磨けるなら磨いた方がいい。じゃあ、どのくらいまで磨くか。もちろんネイティブレベルとは言いません(発音向上批判がネイティブ信仰批判と結びつけられることも多い)。が、強いて言うなら「自分の発音に自分で酔えるくらいまで」としておきます。英語を話している時の自分がいつもと少し雰囲気違うな、とか仕事できそうだな、くらいに思えるくらいです。語学学習は基本的に孤独な作業であると思います。周囲に誰も人がいない部屋で黙々と音読…そんな状況で心を支えるものが、わずかながらのナルシシズムだと思うのです。ここで注意しておきたいのは、自分の発言を瞬時に考えて話す「スピーキング」と音読教材を見ながら話す「スプリクト読み」の際の発音能力は個人の中でも違いがあるということです(ここでは詳述しません)。
昔NHKで「英語会話」の講師をしていた東後勝明氏はこう言っています。
「発音が大切だ」と言えば、すぐに、「本国人のような発音の必要はない。日本人なのだから日本人の発音で十分」と反論が返ってくる。「単語を覚えたほうがいい」と言えば、「単語だけを覚えても何もならない。その使い方を覚えなければ駄目」と言われてしまう。うっかり「会話ができなければ」などと言おうものならたちどころに「ただペラペラしゃべれるようになるだけではかえって人間が軽薄に見えて困る」と一蹴され、「それより、内容のあるものが読めることだ」とか「話す内容が大切」ということで会話の重要性は影をひそめてしまう。
「文法をしっかりやりなさい」と言えば、「文法に頼る英語力には限界がある」とか「文法を教えすぎるから、英語が使えなくなっている」と、これにもまた反論が出る。それでは「実際にありそうな自然な対話をそのまま暗記してみれば」と言えば、「会話はそんなに準備されたせりふ通りにはいかない。そんなものをいくら暗記しても役には立たない」と誰かが言う。… ( 東後勝明 「聞き、覚え、使う」 現代新書編集部 『外国語をどう学んだか』 講談社 1992)
要するに、唯一絶対の方法なんてありませんよ、ということであり、たとえ少し間違った勉強法をしてしまっても、それほど差はないですよ、ということ。やりかたで戸惑って学習不安なんて愚かだと思いませんか。ネットで情報収集だけに一生懸命になっている方、とりあえずブクマして満足している方。
世界に飛び出ていく為のツールである英語を、日本の企業や学校の基準に合わせてどうするのでしょうか。会社や学校の要求に応えることが重要であることは言うまでもないですが、これから英語を勉強して身に着けるということは必要不可欠であるということ。すなわち、グローバル化によってかつては「あった方が有利」だった英語から「ないとダメ」というように変化してしまったのです。だから、これから英語学習する人――特にビジネス面の方々――は、外国、とくに韓国、中国にライバル意識を持って外国語を学ばなければならないのではないでしょうか。
英語に関することで今問題だな、(というか、もったいないな)と思うのが巷の「英語学習」と、学問としての「英語教育」との乖離です。この春休みに入ったころに、集中して現在刊行中の「英語教育学大系」シリーズ(大修館)を読んだのだが、個人的に得るところが結構あった。そういった学問分野での研究成果をうまく巷の「英語学習」に反映させればいいと思うのだけれど、実際「英語学習」者たちの間でウケてしまうのはTOEIC900点をとった人たちのアドバイス記事。もったいない。
これ500B!超えたらblog再開させようかな…なんてw
訂正
帰国子女の方々は生まれつき後者の姿勢が備わっているきがします→帰国子女の方々は幼いころの海外経験の中でこれを自然に身に着けているように思われます
けれども私にできることは少ない。目下のところお金を送ることと、考えることしかない。お金は送った。けっこう懐が痛いほど送った。だから、あれこれ考えることを、どうか許してほしい。
考えているのは、こんなことだ。
「私たちは後の世代のために、M9.0に耐える準備をするべきなのか?」
今回の災害は1000年に一度、あるいは数百年に一度の規模だと言われる。おそらく私たちが生きているうちにもう一度遭遇するかしないかのレベルの災害だと思う。
私たちはおそらく、復興と言えるものを成し遂げることが「できてしまう」だろう。がれきを片付けて家や道路や鉄道を作り直す。それだけだ。みせかけの復興だ。けれども復興は復興だ。「やった。復興した。我々は自然災害に打ち勝ったのだ」と、そう言って災害のことを忘れてしまうことができるだろう。
私たちが天国に行ったあと、きっと津波がまた来るだろう。家や道路や鉄道が砕かれるだろう。原子力発電所から放射性物質が流れてくるだろう。大勢の人が亡くなるだろう。経済が止まり、職を失う人も大勢でるだろう。今回と同規模以上の悲惨なことが起きるだろう。
なんていうことだ。私たちが東京電力に吐いている言葉が、実はブーメランだったのだ。きっと私たちの身体を天国で切り裂くだろう。
残念なことだが、このままずるずると時計の針が進んでしまえば、きっとそうなると思う。それがいやなら、私たちはやり方を変えなくてはならない。
放射線の危険はいやというほどもう知ってしまった。だからすべての原子力発電所を閉鎖しなければならない。放射線の害からもう完全にさようなら、をしなければならない。安定した電力供給のため東西周波数の統一も必要だ。代替エネルギーの開発だって必要だ。安くて良い代わりのモノは今のところ存在しないが、それでも原子力とは手を切らなければいけない。
あの巨大な防波堤でも太刀打ちできなかったのだ。コンクリートで津波を防ぐのは無理と知ったのだ。もう海岸沿いの低地への居住は許されてはならない。
自治体の庁舎がつぶれることは、もうあってはならない。道路網も鉄道網も、より一層強い耐震強化が必要だ。
津波に砕かれた持ち家の住宅ローンを払いつづけなければならない人たちがいる。地震保険なしに住宅を建ててはいけない、という法律が必要だったのだ。ガソリンスタンドから油が消えた。非常時には一般車への給油を規制する、という法律が必要だったのだ。孤立した集落が問題になった。だから人の集まるところに必ず衛星携帯電話を置かなくてはならない、という法律が必要だったのだ。あの日、被災地も東京も通信が麻痺した。あの日のレベルに耐えるための準備が必要だったのだ。いくつもいくつもある。
それらすべての課題を克服しなければ、真の復興と呼べない。少なくとも私は、真の復興と呼びたくない。
だが、そのためには、私たちの財布からそれなりのお金を出さなければならない。金持ちから金をむしり取るだけでは済まないだろうし、薄く広い増税どころでは済む話でもなさそうだ。次の世代のことを思えば国債の発行は論外だ。厚く広い増税が必要だろう。電気料金が上がるだろう。物価が上がるだろう。当然の帰結として、生活は苦しくなるだろう。かなりの苦しいものになるだろう。リーマン・ショックがさざ波に見えるほどの不景気がやってくるだろう。
お金だけの闘いじゃない。強い政治家を育てなくてはならない。スキャンダルを狙うだけの野党も、ばら撒きしかできない与党も役にはたたないのだと、いやほど知ってしまったのだから。私たちは強い政治家が育つ文化を作らなくてはならない。もうスキャンダルに喜んではならない。ばら撒きにだまされてはならない。パフォーマンスに踊らされてはいけない。ウチの地域のために仕事をしてくれる、という人を選んではいけない。茶々を入れるだけのメディアを切り捨てなければいけない。私たちは、政治家の責任は我々の責任だという事実を受け入れなければならない。政治家の決断は我々の決断だという事実を受け入れなければならない。そうしなければ強い政治家は育たない。育てなければ、私たちは何も成し遂げられない。
残された放射性物質の管理のために、原子力技術者を育て続けなくてはならない。しかも、これから何十年、何百年と続けなくてはならない。消えゆく技術のエンジニアになるほど寂しい人生はない。けれども私たちは、若い優秀な人材を差し出しつづけなければならない。人身御供のように。
なによりも、生まれた街にもう住めないという苦しみを、被災地の(とりわけ海岸沿いの)人々に強いなければならない。
でも、後の世代がM9.0に耐えるためには仕方がない。
もちろん、すべてをやるべきかどうかは議論の余地があると思う。でも、それはまず私たちが
「私たちは後の世代のために、M9.0に耐える準備をするべきなのか?」
これに対して Yes あるいは No かを、決めなければならない。
Yes とも No ともつかぬまま進んではいけない。では、どうやって決めるか? 選挙だ。幸運なことに私たちは選挙というシステムを持っている。これしかない。今この手段を使わずにどうするというのか?
そして Yes が選ばれて欲しい、と強く願っている。それも、私たちにかなり辛い義務を強いる Yes であってほしいと思う。私は、真の復興のために人生を捧げたいのだ。
3月11日14時46分。
それは突然始まりました。
リアルタイムで生の声が目で見えるTwitterというサービスは、
各メディアの報道でもご存じの通り、ケータイの電話機能は制限を受け、
メールも麻痺しており、情報の入手は不可能かの様に見えました。
しかし、Twitterだけは震災後数時間に渡り、情報を得る事が可能でした。
・沿岸で大津波警報が出ている事。
・再び余震の可能性がある事。
・道路に亀裂が入っている事。
・水道管が破裂してるのか水が溢れている事。
実際に、自宅への帰路は車で埋め尽くされ、細い路地も例外ではありませんでした。
私は帰宅を一時諦め、会社の駐車場で待機後、渋滞の緩和を待って自宅へ移動しました。
夜8時の事です。
その間、Twitterの情報とラジオの情報を交互にチェックし、
Twitterは『個人』が、情報収集するうえで当時最適なサービスだったと思います。
県がFacebookを利用して災害の情報を公開しだしたのです。
私は何故Facebookをこんな時にわざわざ利用するのか不思議でした。
確かに日本のインターネット界隈でも一部で話題にはなっていますが、
PCを利用しない、または通常の業務レベルで利用する程度のユーザーにとっては、
未知のサービスであり、もしかすると名前も知らないモノなのです。
そんなモノをわざわざ県が情報公開のツールとして使ったのは一体何故なのか。
・大量のトラフィックにも耐えられるモノとして使った?
・コンテンツをシェアしてもらう為に、既存のサービスを利用するのが早い為?
・大人の事情が絡んで、なんとか使って欲しいと誰かに言われてる?
私個人の感覚としては、FacebookはSecondLifeブーム(?)の再来と感じています。
Second Life → Twitter → Facebookといった感じでしょうか。
私もFacebookアカウントを持っていますが、あまり利用したことがありませんし、
利用しようと思っても、ユーザーがまだまだ少ない様に感じます。
2010年10月時点で159万人のユーザーが居るらしいですが…。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1010/13/news078.html
Facebookは『県』が、ネットで情報を発信するうえで最適なサービスだったのか?
私は違和感を感じざるを得ません。
/| |/ >ハーイ ヽノ~~~\ ,,,,,,/´・ω・` \,,,,,,,,,, 富士山
べつにこんな広範囲に停電とかやらないでも被害のすくないうえに電気をくう23区を1つづつ落としていけばいいんじゃがの。
千葉とか意外と震災被害ひどいらしいぜ? あっちも津波あったんだよ。コンテナとかゴロゴロなんだよ。液状化してるところもあるし、ガスタンク火災とかもあったのに何スルーして停電させてんだよと。
まずは千代田区から電気を落とせって、率先してやらないで民を切り捨てるとかどうかしてますぜ。
国会とか、どうせおまえら役にたたないんだから、福島原発の30キロ近辺に本拠地をおけばいい。
真剣にやるだろうし、奴らが逃げ出したら、あ、やべぇんだなとわかるしね。
首都の地震発生時の被害想定をもとに今回の経済的被害額を推論してみるよ。
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/japanese/tmg/assumption.html
http://www.bousai.go.jp/syuto_higaisoutei/pdf/higai_gaiyou.pdf
・死者想定が11000
・建物被害が85万棟 55兆円
これを今回の東北関東大震災に直さなきゃいけない。
今回の地震の人的被害の把握もまだできないのだけど、行方不明者をあわせて勘案するにワーストケースを考えて人的被害:16,000~18,000人ぐらいかしら
また群発地震になっていて建物被害は北アメリカプレート上にのる東日本まるまる広範囲に及ぶ。
建物倒壊件数は津波の被害を考えなければいけないし、500年に1回の頻度の地震でも大丈夫なように防災アセスメントをとっていたガスタンクは見事に燃えちゃっているしな。
あーー
あれ?役にたたんぞえ!?
仙台港石油コンビナートの消失だけで数千億ぐらいいっちゃうだろうし、千葉の関連の施設だけで同額いきそうだっての。他の施設も点検や修繕などを合わせると巨大設備だけで1兆円いくんじゃないかな。
交通インフラの被害も甚大で道路などはこれらの復旧は幹線道路はともかくとして、生活道路などをあわせると戻すのに3年ぐらいはかかるだろう。考えれば考えるほど途方にくれる。
別の角度から推論しよう。
都道府県別にみると今回被害の大きかった岩手、宮城、福島、茨木を合計すると約32兆円
全部が被害を受けるわけではないとおもうので、今後3年間に平均して稼働率が60%に落ちるとすると、58兆円。
今回は関東地方も停電などの影響で被害をうけており、電力の逼迫は夏ごろまで続くと予想されている。
関東地方のDGPは大きく、東京、神奈川、栃木、埼玉、千葉の合計値が162兆円
今後3ヶ月で正常にもどるとしてその間の稼働率が平均して80%落ちるとすると、8.1兆円。
東北電力での計画停電で影響があるであろう、同じく被災地の秋田や青森、また震度6などを記録している静岡や新潟、長野などは考慮外。これらを合計すると機会損失的な合計が66兆円ぐらい。
人的損失を考えると、想定した16000人のうち生産人口を4割と低めに設定して、生涯獲得賃金を3億円として計算すると、まあだいたい2兆。あって4兆円ぐらいか。価値創出を勘案して3倍にしても12兆円。こちらはそれほどでもないかもしれない。仮に8兆円にしておこうか。
次原子力関連
これは被害額が大きそうだ。世論が暴走して将来日本で原子力が使えないとなると、相当なハンデを国際社会にたいして背負わなければいけなくなる。もしかしたらひょうたんから駒でクリーンエネルギーに転化して+に働くこともあるかもしれないので将来損失についてはあえて計算しないこととする。
建築被害
NHKが被害地域への受信料免除を設定したのは現在で56万件。まあ倍ぐらいにまでは増えるだろうから、仮に120万件として、東京都の場合85万件の被害で55兆円なので78兆円ぐらいか。
東京都の建物と東北の建物の建築物的評価は異なると思うけど、その分護岸とか、漁船とかも壊れているので妥当でしょ。
ここまでで210兆円!
うわー
誤差を1/4とかとっても50兆超すな。場合によっては国のGDPが消えて飛ぶ可能性もあらぁな。
リーマンショックショック並みに下げた相場は一応もどしてはいるけど、今後被害がまとまるとこれらの経済停滞、低下をうけて世界的な経済的なインパクトを持つ可能性がある。そうなると1000兆円とかがまた泡と消えるレベルだけど、正直そこまではいかないと思うので、世界的にはまあいま膨らんでいるので400兆ぐらいのインパクトで収まるかな?
アラブドミノから予想されるコモディ市場の急上昇が懸念されているので、もう勘弁してくれという感じや。
日銀はいままでで15兆円ぐらいオペしたという話しを聞いたけど、どうでしょうね。一応効果はあったみたいですがどこまで耐えられるかが気になるところ。単純被害だけで200兆円レベルとなると、日本のGDPの半分、国の税収30兆の7倍ぐらいなので臨時国債発行は続くでしょう。そうなるとまた別の問題が出てくる。新潟中越地震の激甚災害と同様の補償をすると国がもたないレベルだね。それを押してとおすためには相当刷らないとだめだ。
数百兆レベルが水増しされるとなると、それだけ保有資産のバリュエーションは目減りするわけで、いままで資産やネットワークを持って囲い込んでいたプレイヤーの交代が日本でも起きるかもしれない。小さい会社も多くつぶれるだろう。新陳代謝が進むので歓迎すべきことだけど、急激すぎておっかねえわ。権力層にいる人たちには悪夢。団塊世代との世代交代はこれを期にいっきにおこるかもしれない。
生活環境、医療環境が急速に悪化することで高齢者の延命を図ることが難しくなるとおもう。
逆に若いひとは停電でやることなくて戦後みたいに、一段落したら出生率増えたりしてね。
思わぬところで少子高齢社会が解決するかもしれないと淡い期待を持って見る。
不幸の次には幸福を。
やれるって。きみならできる。