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2017-10-12

急に3.11記憶が蘇った

記憶を蘇らせるきっかけは、RADWIMPSの「狭心症」という曲だ。

この眼が二つだけでよかったなぁ

世界の悲しみがすべて見えてしまったら

僕は到底生きていけはしいないか

当時、僕は静岡に住んでいた。その時間部活練習中で、人生でほぼ経験たことのない長い揺れを感じ、部員みんなで身を守る体制になっていた。震度こそ震度4だったが、異常なことがよく分かった。

練習の合間にガラケーを開く度、「M7.9」「大津波警報」「既に津波は到達している」「原発電源損失」という文面が流れてくる。

その後の余震静岡も頻繁に揺れていたこともあり、部活は中止になり、家で様子を見ることになった。

テレビを傍らに、まだ登録して一年足らずのTwitterに張り付いていた。まだ会ったことのない東京友達の安否を確認していた。

人生で全く経験たことのない非常事態に終始緊張をしていた。いまこの瞬間に多くの人が死んでいっているという事実が信じられなかった。

そのような状況で、急に聴きたくなったのがRADWIMPSの「狭心症」だった。震災のおよそ一ヶ月前に公開され、なんて暗い曲なんだと思って聴いていた。

世界から見れば今のあなた

どれだけ かくかくしかじかと言われましても

下には下がいるって喜びゃいいの?

僕は僕の悲しみも憂いちゃいかんとさ

3月11日の、深すぎる絶望のなかで、糸を垂らしてきたのがこの曲だった。

余震こそ来るけど普通に暮らせる場所にいた僕に届いた。捉えきれない絶望を、この曲がフィルターとなって受け止める役割、やるべきこと(やってはいけないこと)を示してくれた。

とは言っても、様子を見守ること、変なチェンメは流さない、ツイッターデマには気を付ける、このぐらいしか出来ることはなかった。

原子力緊急事態宣言」「名取で数百名の遺体発見

良い知らせなんてもう二度と入ってこないような世界になったと思った。

深い悲しみで数日間は動けなくなったが、月の後半には普通に近い生活を送っていた。

雨風は凌げ、計画停電もなく、食料も普通に手に入った。全然過酷な思いをしていたわけではないが、「狭心症」を聴く度に、あの日のことを鮮明に思い出す。

2016-11-22

津波記憶を忘れたはてなー

今朝の地震津波警報に関して、煽りすぎだ。煽っても人が死ぬよりいいというはてなーコメントを寄せていた。

どっちだろうと興味ないけれども、中には煽っても人が死ぬよりいいというはてな民が「もう震災を忘れたのか!」となかなか強いコメントを寄せる人が結構な人数いて、驚いた。

というのもなぜ津波あんなに犠牲者が増えたのかという当時の検証番組インターネット記事では津波警報を過大に報道しすぎて信用されなくなった経緯があるということが原因だろうと結果が出ていたからだ。

津波記憶だけを覚えていて、過剰に煽り津波警報が信用されなくなる。

そして未来津波被害者が増える。

教訓までは覚えていなかったか。はたまた知らなかったか。それを知っても煽ってもいいというのだろうか。

未来犠牲者はどうでもいいけれど、そこだけに興味がある。

以下は今探しても読める記事の一部である

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恐ろしい数字がある。津波避難勧告が出たのに、実際に避難した人は6%しかいなかったことだ。2011年3月11日、東日本大震災の日の大津波警報静岡県焼津市での数字だ。和歌山県でも4600人に避難指示が出たのに、ある避難所には6人しか来なかった。

 このように東日本大震災ときには、全国的津波警報が信用されなくなっていた。

 これには長い歴史がある。1998年5月4日、津波警報が出た。沖縄九州四国、そして本州南岸に最大2~3メートルという警報だった。

 港につないでいる船や港の関係者沿岸の人々などに緊張が走った。ちょうどゴールデンウイーク最中だった。行楽を打ち切って港や家に駆け戻った人も多かったに違いない。

 だが拍子抜けだった。実際に来た津波は、わずか数センチのものだったからだ。

 2003年9月にはM8・0の「2003年十勝地震」が起きた。この地震ほとんど同じ規模だった「1952年十勝地震」で6メートルを超える津波で甚大な損害を被った北海道東部厚岸町でも、勧告に応じて避難した人はわずか8%にとどまった。実際の津波警報よりもずっと小さくて被害を起こすようなものではなかったから、人々の判断は間違っていなかったことになる。

 10年以上も過大な津波警報がくり返されたので人々は警報を信用しなくなってしまった。

 それには理由がある。同じ大きさの地震が同じ場所で起きても、海底での地震断層の動きかたが違えば津波の高さは大変に違う。

 震源からP波とS波という地震波が出る。P波が先に進み、S波はどんどん遅れていく。雷から音と光が同時に出るのに、音のほうが遅れていくのと同じである

 津波警報の仕組みではP波だけを使って計算している。S波は、震源地震断層がどう動いたかという大事情報を運んでくるのだが、S波を待ってからでは間に合わないからだ。

 それゆえ、地震震源地震の規模だけが分かった段階で「考えられる最大」の津波を想定して警報を出す。だが地震断層の動きかたによっては実際の津波の大きさが最大を想定したときの何百分の1にもなってしまうのだ。

 「最大」の警報と、実際にはずっと小さい津波の繰り返し。人々が信用しなくなったときに襲ってきたのが東日本大震災だった。2万人近い人命を奪った被害が出てしまった要因のひとつは「信用」だった。

 行政住民防災意識の低さを嘆く。しかし、夜中の警報で財布や預金通帳やはんこを探し、おばあちゃんを背負って逃げたのに予報された津波が来なかったことをくり返した人々のことを考えてほしい。行政津波警報を信用されるものにすることこそを心がけるべきなのである

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http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140227/dms1402271802029-n1.htm

2016-03-16

あのときのこと少しずつ振り返る。3.11 14:46~16:30

震災から5年。

あのとき、当時していたmixi日記でこと詳しく記録していたが退会と同時に消去してしまった。

今あのときのことを少しずつ思い出し記録として残しておきたいと思う。

あのとき私は岩手県内陸部で生活していました。

2:46 震度6弱の揺れ

  職場施設作業をしていました。揺れ直後、すぐさま1人屋外に逃げました。

  共にいたのは、上司を含め社員が2、3人とパートのおばちゃん20人くらい。

  社員であるのにも関わらず周囲のことに気を配ることのなかった私は自己中かもしれません。

  こpの2日前にあった震度4の揺れでも1人屋外に逃げ周囲からバカにされました。

  だから今回もバカにされてもいい、とにかく逃げた。

  揺れがおさまらない。

  地面が波打っている。電柱も勢いよく揺れている。近くにあった大きいフォークリフトもガタガタ揺れている。

  揺れがおさまったのはどのくらい経ってから・・・

2:50 職場事務所へ集まる

   停電していることが分かった。

   何がなんだかわからない。

   誰かがラジオを持ってきた。

   宮城震度7大津波警報!?!?!?・・・よくわからない。

   

3:00 同じ東北にある実家心配になり母にメールをする。

   すぐに無事であるメールがくる、母はあのときバイクで夕刊配達をしていた。

   電話はつながりづらいし、ラジオで緊急以外での利用を控えるようにと呼びかけていた。

   そんなときに、東海地方に暮らす、元同僚から電話が、奇跡的につながった。

   無事であることを伝え、「緊急の人がいるはずだから」とすぐに電話を切った。

3:30すぎ 同僚のカーナビ釜石港津波到達を目の当たりにする。

     コンテナは積み木のように、車はミニカーのように簡単に浮かび、流れてゆく。

     「うそでしょ・・・!!!」そんな言葉しか出ない。

     津波という言葉は知っていました。でも当時の私のイメージ高潮のようなものだと思っていました。

     海水が少しずつ、少しずつ、量と勢いを上げて陸に入り込む。

     どうにもならないんだ・・・

3:45 このままでは仕事にならないので解散になった。

   当初の予定ではこの日の夕方スーパー食材を買う予定でいたので自宅には食べるものほとんどない。

   自家用車を運転し、自宅に帰り途中でコンビニに寄る。

   コンビニ停電スクリプラーが作動したようで床は濡れている。

   とりあえず、おにぎりプリッツサラダ味、ビールを手に取る。とりあえず口に入れておきたいもの

   たくさんのお客がいた、会計電卓でだった。

   コンビニを出てから自宅まで6キロ、その間に信号機は3つ、停電しているので、信号機はついていない 

   でも意外と互いに譲り合い事故一つなく

16:30 自宅に戻る。

また今度思い出すことにする。

   

  

  

2011-07-06

http://anond.hatelabo.jp/20110705201212

初めての5m級津波襲来で全員逃げ切った大洗の事例思い出した。

JOC臨界事故とき防災無線網をしっかり整備してたのでインフラ充実してた上に、

第1に、行政による避難指示タイミングとその方法が適切だった。地震発生直後から、いち早く防災無線によるサイレンの吹鳴や避難勧告放送を開始したのだ。当初避難勧告だった放送は、気象庁茨城県津波警報を発令したこともあり、徐々に語気が強まり、「早く逃げなさい」「大至急高台に避難しなさい」という命令口調へと変わっていったという。

 そして、気象庁の発令が大津波警報へと変わったわずか1分後に、津波の第1波が押し寄せる。もし行政の初動対応が遅れたら、おそらくこの時点で住民の多くは逃げ遅れていたことだろう。避難勧告からいち早く避難指示に切り替えたことで、多くの人々が危機感を抱き、逃げ遅れずに済んだと考えられる。

地震発生から2時間以上に渡って避難指示が放送され続けたことも、効を奏した。津波の被害は、第1波が引いた後に、住民が高台から住居に戻ってしまったときなどに第2波に襲われるという、気の緩みによって拡大することが多い。

 しかし、この長時間にわたる警告により、完全に津波の恐れがなくなるまで、高台から離れようとする住民はいなかった。このとき自らの危険を顧みずに放送を続けた消防職員が、その後メディアで紹介されたことをご記憶の読者も多いだろう。

http://diamond.jp/articles/-/12821

理想をいえば群馬災害工学研究所http://dsel.ce.gunma-u.ac.jp/)が釜石中学でやってたプログラムみたいに一人一人が知恵絞って逃げ切る力を鍛える方向なんだろうけど、そこまでいけないところは、正常化の偏見をなんでもいいからその場でつぶすしかないわけで、大洗場合はそれに成功したんじゃないかと。

三陸津波警報出た→来なかった、が大杉津波への警戒心を持続するのが難しいんだろうけど。

2011-04-07

http://anond.hatelabo.jp/20110407203202

大津波警報が出た時点で「到達と推定」って出てたところあったよね

一番近いところ

あれは胸が痛んだわ

http://anond.hatelabo.jp/20110407203202

どうだろうな 今までに起きた地震でも警報は出てたろうし、大津波警報なんて聞いたこともなかったろうし、震災直後に警報を聞けたかどうかもわからいし

「まじめにしていれば」という表現は当たらないと思うけど、適切に知っていればという悔やみはあるだろうな

オレも知らなかった情報だし、もし津波が来るようなことがあったら参考にするわ

2011-03-31

忘れる前に君に伝えたい2011年3月11日金曜日に起こったこと

君にはどうか、忘れないでいて欲しいんだ。

2011年3月11日金曜日に起こったこと。

そしてその後に起こったことたちについて。

君はちょうど小学校下駄箱にいて、下校する直前だったらしいね。

ママはその時、会社会議室にいたよ。

揺れ始まってまず見たのは、時計だった。君が学校にいる時間なのか確かめたかたから。

だけど運悪くそれはちょうど君が下校するくらいの時間だったね。ママ不安不安で、揺れの恐怖よりも君のことばかり考えていた。

幸いにも君は学校を出る前だったみたいだけど。本当に、君が一人で道路の真ん中で怯えていなくて良かったよ。

揺れは、長かった。

建物はきしみ、壁にかかっていたものが落ち始め、天井プロジェクターは私の頭上で振り子のように揺れていた。

そして最後蛍光灯がジジジと不気味な音を立てて消え、とうとう揺れは収まった。

とにかく、長かったよ。

ママはこりゃ大ごとだなと思ってね。だって電気が消えちゃったんだもの。

ライフラインが断ち切られるなんて、初めての体験だったから。

揺れたこと自体はママはそんなに恐怖じゃ無かったよ。ずっと、見てた。

どんな風にどれくらい揺れるのか。

「いいから机の下にもぐれ」って、隣の先輩に怒られたんだけどね。

でも、見たかったんだ。世界を確かめなくちゃって思った。くっきりとそう考えたことを覚えてる。

目をこじ開けて、全部を、見たかった。

会議室にはその時職場の人全員がいて、誰からともなくみんなが声を出していたよ。

「まだ揺れてるから、動かないで」「上注意だよ。プロジェクターが危ない」「揺れ強いよ。まだまだしっかり」「続いてるよ。まだみんな隠れて」「みんな、大丈夫?怪我してる人はいないよね?」って

あちこちで声が上がっていた。ママは一番下っ端だから、じっと黙っているだけだったけれどね。

良い職場だな、と思ったよ。世の中の人たちはどんな感じであの揺れを耐えたんだろう。

君はお友達と一緒だったんだよね。良かった、一人じゃなくて。

お友達が「バスたい!」って喜んだそうだね。良かったよ、頼もしいお友達を持って。

あんなこと、きっと君が生きている間にはもう二度と起きないと思う。と、信じたい

から、覚えていて欲しいよ。大事な記憶になるはずだから

ママ会社から退社の許可が出て、一番最初会社を飛び出したんだよ。

ママ会社って何百人もの人が働いている工場なんだけど、一等賞だったんだよ。すごいでしょう?

だって、君が心配だったからね。

車に飛び乗って、車のナビでNHKチャンネルを回したんだ。どんな状態なんだろう、と思って。

その時に見たのは、街が海に飲み込まれていく映像だった。ハリウッド映画じゃないよ。生中継だ。

大津波警報って、なんだ?大津波?この映像は?現実なの?一体、どこなの?どこの海で津波が起こってるの?

さっぱり訳が分からなかったよ。だって、信じられるかい?街が海に浸かるなんてことを。

そしてそこは、君も知っている場所なんだよ。

一旦車を家に置き、自転車立ちこぎで猛スピード小学校に着いた。

最初ママも顔見知りの君の友だちに会ったんだけど、その子は顔を真っ赤にして泣いていたよ。当然だね。不安だっただろう。

でも君は不思議と泣いていなかったね。

硬い顔で

「さむさが限界だよ」

とぽつりと言った。ワンワンと泣いたのはママの方だった。

帰り道には冷たい雪が降ってきて、街がどんどん暗くなってきた。

街は不安に包まれていた。

あの時、不安は形になって、色になって、私たちの住む街に降りていていたと思うよ。少なくとも、ママにはそう見えた。

君の手を、痛くなるくらいぎゅうっと何度も握り返したよ。

これは大ごとだ、って。確かめるように何回も考えた。

かに大ごとだったんだよ。

ママテレビも見れず、知らない間に、津波宮城県の全ての沿岸部を根こそぎ持っていってしまった。

岩手も、福島も、青森も、茨城も海に浸かった。

でもママはそれを知る手段がなかったんだよね。

唯一手元にあったのはラジオだけで、でもラジオでは津波がどれだけの陸地を飲み込んだのかは想像できなかった。

君と一緒に何度も行った公園も、なくなったよ。

君と一緒に飛行機を見た空港も、ぐちゃぐちゃになったよ。

君と一緒に行ったことのあるショッピングモールも、水に浸かったそうだよ。

君と一緒に遊んだサイクリングできるあの場所も、なくなったよ。

君と一緒に船に乗ったあの港も、君と一緒に買い物をした市場も、みんな、みんな、波が持っていってしまった。

私がそれを知ることができたのは、それから何日も経って家に電気が来てからだったけど。

本当はね、3月12日土曜日には

君を仙台空港の近くの海のそばにある公園に連れて行くつもりだったんだ。

からもしもあの地震が一日ずれていたら、私たちは死んでいたかもしれないね

だってあの場所に、あん津波が来るなんて全く想像つかないよ。正直、今でも信じられない。

そしてその場所に私たちがいる可能だって大いにある。

そこは確かに、私たちの日常だった。

それが、一瞬でなくなってしまうなんて。

どうやって信じたらいいのだろう。

もう、あそこにはすべり台はないの?って君は訊いたね。

ないよ、ってママは答えた。

もう、あそこには公園作らないの?って君は訊いたね。

どうかな、ってママは答えた。

あの公園お気に入りだったのにって君は言ったね。

ママお気に入りだったんだよ。

でも、誰も悪くないんだ。あの公園がなくなったことも、何もかも、全部。

どうか、君には忘れないでしい

あの日あの時、起こったこと。

そしてこれから起こるであろう全てのこと。

ママたちは津波の影響がなかったから、家を片付けて、ライフラインが復旧すれば

とりあえず身近な日常に帰ることができる予定だった。はずだった。

でもそれを壊したのは、あの原発ニュースだった。

真っ暗な家の中で、唯一の情報源ラジオだった。

掌に収まるほどの小さなラジオが、大事な大事な全ての情報源だったんだ。

いや、新聞もあったか

こうやって考えると皮肉なものだね。

ママは普段からパソコンだの携帯だのって、デジタル漬けになって生きていたのに

結局あんな時に頼ることができたのはアナログだけだったんだものね。

ラジオから貰える情報は限定的だった。音声のみのデータでは、余りにも物足りなかった。

でもNHKアナウンサーは繰り返し、福島原発が良くないということを伝えていた。

最初は、電源が使えなくなって冷却ができない状態に陥ったこと。

次は、核燃料が溶けているかもしれないこと。

そして、爆発したこと。

ママ新聞ラジオしか、知ることができなかった。

情報が圧倒的に不足していた。

から、とにかく怖かった。不安だった。

からないっていうことは、不安ということなんだと、今回とくと思い知ったよ。

情報と知識があれば、何事にもそれほど恐れずにすむことを。

からやっぱり君にはしっかりと勉強することを勧めるよ。

知識は人を強くするから

知らないってことは怖いことなだって、気付いた時には遅いこともたくさんあるだろうから

何が起こっているか、分からないこと。これから先、どうなるか分からないこと。

それらがママをどんどん蝕んでいった。

不安は日を追うごとにどんどん大きくなった。

ラジオから枝野さんの声が流れてくるのが、怖かった。

彼が出てきて話すことといえば、やれ爆発しただの、やれ退避しろだの、やれ念のため家の中にいろだの、

そもそも原発事故ってだけでもとてつもなく恐ろしいことなのに、

その内容たるや、時間が経てば経つほどに悪化して行っている。

ママはね、自分が生きてる間に戦争が起こることって想像したことがなくて、

でもこれは、戦争だと思ったね。

その時はちょうど電気も無くて、買い物するにも屋外に商品をとりあえず並べたものを何時間も並んでちょっと買うしかなくて、

そして津波で被災した地域はそれはまるで焼け野原の様で、

ラジオからは日に日に悪くなる原発の様子を聴かされる。

ママは思ったよ。

これは戦争だ。ここは戦中なんだ、と。

そして、まだそれは続いている。

うちに電気がきて、ママはいつも通りにインターネットを使えるようになって、

スーパーも徐々に開いてきて、でも、

まだ何も解決はしていない。

日本は、混沌不安に覆われたままだ。

もうね、原発の悪いニュースが続いてばかりで

ママはある日泣いてしまったのだよ。

ラジオから二号機の核燃料棒が全て露出して、炉心が溶けたかもしれないってニュースが流れた時に

限界が来て泣いてしまった。

その時は、ママには君を守ることができないかもしれないって、本気でそう思ったんだ。

何があっても、ママは君を守り抜くって思って生きてきていたんだけれど、

うちにはパパって人がいないから、絶対に絶対にママが君をどうやったって守ろうって思っていたのだけれど、

どうも、ママにでもどうすることもできないのかもしれないって

その瞬間、身体の奥底から本気で絶望したんだ。

うちから原発まではたったの80キロほどしか離れていないからね。

原発に重大な何事かがあったら、多分我々も駄目になるだろうからね。チェルノブイリのようなことがあったらね。

すぐには死なないかもしれない。

でも、身体に影響はあるかもしれない。

君は子どもが産めない身体になるかもしれない。

いや、産めないわけじゃないかもしれないけれど

でも宮城県出身からっていう理由で差別されて結婚できなくなるかもしれない。

それ以前に病気になってしまうかもしれない。

病気で死んでしまうかもしれない。

君はたったの7年しか生きていなくてこれから先何十年も生きて幸せになるはずで、

ママ今日まで君に全ての愛情を注いで育ててきて、

でもその全てを原発に奪われるのかもしれない。

2011年3月11日まで、当たり前のようにこの先ずっと生きていくんだと思ってた。

ママ毎日会社に行って、君は学校に行って、

そうしてどんどん君は大きくなって、運動して勉強して、そのうち反抗期になったり恋したりして、

当たり前のように大人になるんだと思ってた。

でもそれは簡単に手に入るものじゃなくなった。

訳の分からないうちに。

福島原発の一連の事故に対して最初に抱いた感情は、絶望だった。悲しみだった。

次に浮かんだのは怒りだった。そして不信感だった。

ラジオ新聞情報のみの電気が無い状態では、自ら調べることはできない。焦燥感が募った。

そして、憎かった。原発が。東電が。政府が。そして、東京の人すら。

君はさ、まだ7歳で

今ここで何が起こっているかなんてことは、到底理解できないと思うんだ。

でもママには君に対して責任がある。

君の未来を守るという、責任があるんだよ。

多分君の未来には、日本未来も含まれているんだろうと思う。ひょっとした外国に永住するかもしれなけどさ。でも故郷は必要だろう?

からママ日本未来について考えなくてはいけないと思ったんだ。

調べたよ。たくさん。原発ことなんて、今まで気にも留めてなかったからね。

放射能放射線の違いすら知らなかったし、同位体って何のことだかもすっかり忘れていたくらいだったけれど、とりあえずいっぱい調べた。

ああ、余談だけど、やっぱり勉強は大事だよ。ママも昔、ちょっとはしたんだよ。化学物理もやった。そのベースがなかったら、ちょっとしんどかったかもしれない。まあそれはいいんだけど。

調べたからって正答を得られるわけじゃないんだよ、勿論。

考えなくてはいけない。どんなに困難でも、逃げるという選択肢はない。自分たちの問題だからね。

どこかで誰かが解決してくれるだろう、ってわけにはいかないんだよ。

から考えなくてはいけないよ。諦めずに、信念を持って、考える必要があるんだ。

でも一つだけ、ママには確かに分かったことがある。

人の命よりも大事なことなんてないんだってこと。

ましてや人の命よりも大事な電力なんてものもないんだってこと。

原発がなくなったら、確かにしんどいことが起こるだろうと思うよ。

とんでもなく不便で、そして貧乏になる。私が貧乏なのはまあ、いいけど、日本という国の全てが貧乏になるだろうね。

不便もどれくらい我慢できるんだろうね。今まで無尽蔵に電気を使ってきたからね。

とてもとても、想像つかないけど、どうにかできないこともないはずだと思うよ。

でも、仕方ないよ。

だって変わり始めはしんどいもんだよ。当たり前だよ。

ママ離婚したての頃はしんどかった。する前は不安だった。でも、どうにかなったよ。どうにか、したんだ。

でもこれは日本という国全ての話だからね。ママ離婚比較するのはおかしいだろうね。

国の全てがしんどくなるって分かってる方向に向かって、舵を切るのが困難だってことも分かる。

勇気がいる。痛みも伴う。そして、犠牲も。変化は怖いものだよ。いつだって、どんなことだって、そうだ。

だけど私たちは、ずっと先のことを見なくちゃいけない。これから先の、未来のことを。

今この瞬間が辛くてもいいんじゃないかな。十年後、二十年後、五十年後、百年後、いやそれよりもっと先でもいい。未来幸せになれるんなら、いいと思うんだ。

でも、原発を使い続けて、明るい未来はやってくるのかな。何百年後かの君の子ども子ども子どもだって、困るんじゃないのかな。

人間はさ、失敗するもんだよね。

でも失敗は成功のもとだよね。君にもいつも教えてるよね。

今回の失敗はさ、繰り返してはいけないことなんだよ。絶対に。

勿論、国だって馬鹿じゃないから、津波対策とかはするだろうよ。

だけど永久に絶対に安全な原発って作れるのかな。

多分、無理だよね。だって人間は失敗するんだもの。いつかは必ず、何かが起きるよね。

ママは何かが起こったときに、誰かが命張ってじゃないと止められない仕組みなんてあっちゃいけないと思うんだよね。

今もどこかの誰かが命掛けで、どうにもなんない原発をなだめようと頑張ってる。

どこかの誰かにそれを押し付けてる。

でもそれが、家族だったら?君だったら?

日本は変わるよ。変わらなくてはいけないんだ。ママにはそれがはっきりと分かったよ。

こんなこと考えたのは生まれて初めてだよ。でも必ずどうにかしなくてはいけない。

強く強く、そう思ってる。ママはなにができるのかな。きっと、何にもできないとは思うよ。

だってママ東北の片隅の工場でチマチマ働いてるだけの人だからね。政治家でも学者でもないからね。

だけど考えることはできる。そんなに賢くはなちゃらんぽらんで頼りないママだけど、君のためなら必死に考えるよ。

どうしたら、日本は良くなるのかってことをね。

2011年3月11日は、日本にとって重大な日になるはずだと思う。

君もママもこの瞬間に立ち会えたこと、そしてその渦中にいたこと、これはとてもとても貴重な経験だと思うよ。

人によっては運が悪かったって思うかもしれない。

でも、違うんだよ。

私たちはね、歴史の変わり目に立ち会えたんだよ。

2011年3月11日に始まった悪夢を、一つも無駄にしてはいけない。

私たちはそれを見てしまった。知ってしまった。

これを二度と繰り返さないために、未来に伝えていかなくてはいけないんだ。

私は君に伝えたいと思うよ。

から、どうか忘れないで

この全てのことを、忘れないで

2011-03-24

なぜ災害時にわざわざFacebookなのか。

3月11日14時46分。

それは突然始まりました


聞き慣れないケータイ効果音が止むと共に、

M9.0の巨大地震がやってきたのです


震災直後、私は屋外の駐車場に避難し、

Twitterタイムライン情報を追いかました


リアルタイム生の声が目で見えるTwitterというサービスは、

災害時私にとって非常に役に立つ事となりました


メディア報道でもご存じの通り、ケータイ電話機能は制限を受け、

メール麻痺しており、情報の入手は不可能かの様に見えました


しかし、Twitterだけは震災後数時間渡り情報を得る事が可能した


・沿岸で大津波警報が出ている事。

・再び余震の可能性がある事。

道路に亀裂が入っている事。

水道管が破裂してるのか水が溢れている事。

渋滞が凄くて移動にすごく時間がかかる事。


様々な情報を即座に得られました


実際に、自宅への帰路は車で埋め尽くされ、細い路地も例外ではありませんでした

私は帰宅を一時諦め、会社駐車場で待機後、渋滞の緩和を待って自宅へ移動しました

夜8時の事です


その間、Twitter情報ラジオ情報を交互にチェックし、

帰宅タイミングを窺っていました


Twitterは『個人』が、情報収集するうえで当時最適なサービスだったと思います。




災害から時間後でしょうか。

県がFacebookを利用して災害情報を公開しだしたです

私は何故Facebookをこんな時にわざわざ利用するのか不思議した


かに日本インターネット界隈でも一部で話題にはなっていますが、

PCを利用しない、または通常の業務レベルで利用する程度のユーザーにとっては、

未知のサービスであり、もしかすると名前も知らないモノなのです


そんなモノをわざわざ県が情報公開のツールとして使ったのは一体何故なのか。


・大量のトラフィックにも耐えられるモノとして使った?

コンテンツシェアしてもらう為に、既存サービスを利用するのが早い為?

大人の事情が絡んで、なんとか使って欲しいと誰かに言われてる?


私個人の感覚としては、FacebookSecondLifeブーム(?)の再来と感じています。

Second Life → Twitter → Facebookといった感じでしょうか。

私もFacebookアカウントを持っていますが、あまり利用したことがありませんし、

利用しようと思っても、ユーザーがまだまだ少ない様に感じます


2010年10月時点で159万人のユーザーが居るらしいですが…。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1010/13/news078.html


Facebookは『県』が、ネット情報を発信するうえで最適なサービスだったのか?

私は違和感を感じざるを得ません。

 
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