はてなキーワード: 屋根とは
Webのインターンやって早期選考の申し込みして新たに良さげな会社探してって最中に思った。
ちょっと裕福な私の家はデカイ。近所では1番デカくて全部で200坪くらいある。古い洋風な建築だからか設計のミスか母の寝室は高校の教室より広い。10畳の部屋が2部屋放置されてるし図書室には床が斜めになるほど本がある。
でも私にはこれが普通だから、逆に古い木造アパートとかトタン屋根の平家とかボロい(失礼)家が小さい頃から大好きだったし、たくさんの習い事を一年足らずでやめた。
で、今就活生で平均年収とか見るじゃん。私が狙ってるあたりの会社だとよくて800万、小さいとこだと500万とか。
超裕福ってわけじゃないから絶対働かなきゃ行けないしコネもないし実家離れなきゃ行けないしさーーー
元から全然貧乏だったらあと上がるだけだけど私あと下がるだけじゃん
もっと早く気づけばよかったよーーーー
もう忘れた人もいるかもしれないが2年前大型台風が関西を襲った。
人は忘れるものだ。被害としては同年の地震よりひどかったのに。
信号が止まることがここまでデスシティ化させるとは思わなかった。
近辺の信号は一気に新しいものになったが、あの日を忘れられない。
ゆがんだり落ちたり傾いた信号機、もちろん電気はついてない。二週間三週間エアコンがつけられなかった家も多い。
台風のあと小さな交通事故が多発していた。もちろんみんな気を付けてたわけだが交差点ではどうしても仕方なかったのかもしれない。
電気が止まっていたので、充電が解放された施設ではみな地べたに座って充電待ちをしていた。
町中がゴミだらけで看板が落ちたり公園の木の多くが折れていた。
もうこの辺はしょうがないかもしれないので、9月一週目の週末伊勢湾台風クラスが来る予報に合わせて対応策を模索する。
懐中電灯が必要だ。スマホで代用するな。スマホの充電は命だ。バッテリーを持っておけ。
あの時、断水地域もあった。近場の災害時給水栓を用意しておこう。ポリタンクも必要だ。
ベランダにはなにも置くな。物干しざおが窓ガラスを破ってくるのは勿論、薄いものは飛んで行ってしまえば良い、ではない。飛んで行った先で電柱にぶつかり関電がサイレンをならすのを何か所も見た。それも2週間くらい続いた。
瓦屋根は落ちるものだ。落ちてすぐ片付けられないなら、外を歩く人が踏まないように黄色と黒のテープや赤いコーンなどでいいから目印を置こう。
家がもろいと感じる人は避難所へ。
プレハブは飛ぶ。近づくな。
窓の側に居るな。関西ではとくに雨戸というものを設置している家が少ない。カーテンでは生ぬるい。テープじゃ意味が無い。新聞紙も生ぬるい。段ボールを貼っておけ。できるだけ奥の部屋に居ろ。
時期的に少ないと思うが外国人への通達はなんとしてでも早めにしろ。大阪駅で寝泊まりする人が多かった。そのため駅員が大変そうだった。
自転車は外に出すなら寝かせておけ。ビルとビルの間で起きた局地的小さな竜巻が、自転車置き場ごと巻き上げるのが映像に残っている。
関空には行くな。行くな。
車の中で実況中継をするな。次は死ぬぞ。
水害は大雨と高潮だけではない。大きな川の近くに住んでいる人は、ビル竜巻で飛んでくる川の水に注意だ。前回で分かってるはずだ。
水を貯めたポリ袋を玄関においておけ。防水対策にも、非常用の水にもなる。
スーパーの供給が不安定になった。最低限必要なものを用意しておこう。
外に置く車は悲惨なことになる。防水対策&窓ガラスの対策を。できるだけ頑丈に、思ったよりも頑丈でいいから。
物置はキャンプテントのようにワイヤーで固定しろ。絶対倒れる。
1日半ほど凌げばいい。なんとしてでも生き残るための準備をしろ。
直前ではだめだ。今から、準備しよう。
ホットエントリーに上がっていたこんな記事にふとした気まぐれで目を通した。
業界人が選ぶ、過去10年で最も優れていたビデオゲーム(IGN Japan)
https://jp.ign.com/games/46189/feature/10
ゲームは年に1本買うか買わないかのライトゲーマーなので大半の作品はタイトルも知らなかったし、業界人たちのコメントを読んでいてもピンと来るものはなかった。しかしその中でひとつのコメントにちょっと心が動いた(太字筆者)。
簡単な答えは『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』ですが、統計的な考え方では、私は『Gorogoa』を選びたいです。デモの早期リリースと、その結果である早い時期でのハンズオン体験のおかげで、本作は何年にもわたって私のGOTYであり続けました。『Gorogoa』は魔法のように魅惑的で斬新なゲームです。明確なビジョンに基づいたこの作品は、ゲーム作りの過程が全く想像できないほどの複雑な成果をもたらしました。新しいメカニクスと新しいインターフェイスを持つ本作は、芸術と技術、物語、正真正銘のパズルをシームレスに融合させています。これは私がエッシャーの作品や、キット・ウィリアムズの絵本、「まほうの筆(The magic paintbrush)」をはじめとする私の好きなおとぎ話から得たすべてのものを凝縮した体験です。『Gorogoa』はハッと息を呑むような驚きを私に与え、私の心を喜びで満たしてくれました。開発者のジェイソン・ロバーツにはこの作品に満足したまま何もせず、別のゲームを作らないでほしいと私が願うほど、『Gorogoa』は本当に唯一無二の傑作です。
本職のゲーム開発者がここまで絶賛するゲームとはどんな作品なのだろう、と急に興味がわいた。
元来パズルゲームは好きなほう(MYSTシリーズは全部やったし、ふだんも数独や倉庫番をヒマつぶしに遊んでいる)なので、ちょっとやってみようかという気になった。PlayStation Store で1,528円。安い。
遊んでみた。雷に打たれたような体験だった。まるでマグリットの絵の中で『無限回廊』を遊んでいるような感じだった。
感想については私の拙い語彙でくだくだしく書くよりももっとすぐれたテキストがネットにあるのでそれを見てもらえば十分だ。
『Gorogoa』認知のフレームを軽やかに飛び越える絵画的パズルゲーム【インディーゲームレビュー 第40回】(ALIENWAREZONE)
https://alienwarezone.jp/post/1321
GOROGOA が見ている(ゲーム感想)(S. Miyata)
https://note.com/38tter/n/nb58c34279de7
そして本稿で私が書きたいのはこのゲームの紹介ではない。
この何の説明もなく謎だらけでタネ明かしもない不条理ゲームに、どうにかして「解釈」を与えたくなったので、そのメモである。
後半に至ってはほぼ創作だが、ゲーム中では語られなかった「裏設定」を私が想像で補完したものだ。
ある日、街に巨大な謎のクリーチャーが出現する。街並みに隠れて全容は見えないが、アパートの屋根ごしにカラフルなたてがみが見えるほどだからかなりの巨体だ。
古文書には、五色の果実が盛られた器を若者と年配者がふたりで支え捧げる様子が描かれている。
聖獣ゴロゴアの怒りを鎮めるには、世界に散らばる五色の果実をすべて集めて捧げなければならないようだ。
ひとつめの赤い果実は、とある民家の庭木の枝になっており、車椅子に座った謎の男が見守っていた。
枝にとまった烏がつと飛び立つと、赤い果実は器の中に転がり落ちた。
ふたつめの緑色の果実は、町はずれの穏やかな公園の女神像が手に持っていた。
廃墟にたたずむ松葉杖をついた男性がゴロゴアの姿を思い描くと、廃墟の壁紙の紋様はゴロゴアの瞳となり、その緑色の瞳は果実となって器の中に転がり落ちた。
ランプの灯りをたよりに仄暗い部屋で寝食を忘れて何ごとかを熱心に研究する男性。部屋の片隅には松葉杖。この男も足が悪いのか。
ランプのひとつひとつに星の明かりを捕まえ、その明るさに惹き寄せられて来た蛾たちに導かれるままに道を進むと、夜空の星のひとつが黄色の果実となって器の中に転がり落ちた。
気づくと色あせた写真の中にいた。壁にかけられた五枚の写真のうちの一枚だ。
杖をついて世界の果てを巡礼して回る男に助けられながら写真から写真へと歩みを進めると、どこにあるとも知れぬ神殿に捧げられた青い果実を手に入れた。
たくさんの資料に埋もれるように何かを研究する初老の男性。部屋の片隅には愛用のステッキ。
蜘蛛の巣のように街を縫って走る路面電車を初老の男性の助けを借りて乗り継いでいくと、高い塔の頂上で最後の果実、紫色の果実を手に入れた。
果実の盛られた器をゆっくりと宙に捧げると、五つの果実はまばゆく光りながら激しく燃え上がった。
──その時、突然器が砕けた。
ゴロゴアが怒り狂うと、空には虚無の淵がばっくりと口を開け、世界は暗黒の炎に包まれた。
儀式は失敗したのだ!
私は身体を闇の炎に焼かれながら尖塔のやぐらから転落し、瀕死の重傷を負った。
長いあいだ車椅子の生活を余儀なくされたが、頭はゴロゴアのことでいっぱいだった。
何がいけなかったのか。どうすればあの獣の怒りを鎮めることができるのか。
聖獣ゴロゴアは時おり暴虐の限りを尽くした。
ゴロゴアが暴れると街は爆撃を受けたように廃墟と化し、あちこちで火の手が何日もくすぶり続けた。
焼け残ったがれきの中から資料を掘り出し、聖獣ゴロゴアをよく知ることにつとめた。
一方、気まぐれに襲ってくるゴロゴアの攻撃の合間を縫って人々は街の復興を始めた。
がれきを片付け、建物を建て直し、鉄道を引き、時おりゴロゴアによる破壊を受けながらも、それを上回る勢いで街は発展を続けた。
私の部屋の壁はゴロゴア関連にとどまらず、世界の様々な伝説、伝承、考古学の書物で埋め尽くされた。
時おりゴロゴアの来襲があると電気は止まり、暗い中でランプの灯りをたよりに研究することもあったが、私は寝食を忘れて研究に没頭した。
その間中、私は「何かの視線」を常に感じていたが、それが何かはわからなかった。
ただ、私の研究が、誰とは知らぬその視線の主の助けになっている、そんな実感がなぜかあった。
研究を進めるうち、私の心のうちには、ゴロゴアに対するどこか畏敬の念のような気持ちが芽生え始めた。
そしてその畏敬の念は、やがて純粋な信仰心へと変化していった。
ゴロゴアの怒りを鎮めるには、我が身と心をゴロゴアに捧げなければならない。そうすることでしか儀式はきっと成功しない。
私はそう思い詰めるようになっていった。
私は巡礼者となり、ゴロゴア信仰の源流をたどって世界各地を巡礼することにした。
体調は決して万全とは言えなかったが、ゴロゴアにこの身を捧げるという信念が痛む脚を前へと運ばせたのである。
研究の進捗が遅々として進まず年月が無為に流れていくばかりになると、時おり深い絶望に襲われることもあった。
無力感にさいなまれるそんな時には、決まってあの悪夢の日、儀式に失敗した日の転落の記憶がフラッシュバックした。
そうした場面にも、常に「あの視線」は私とともにあった。
月日は流れ、私も初老と呼ばれる年齢になり、髪も髭もすっかり白くなってしまったが、私の研究は大詰めを迎え、ついにひとつの結論に到達しようとしていた。
この記述によれば、儀式はふたりの人間によって為されなければいけなかったように思える。
たしかに、最初の儀式は自分ひとりで行ったために失敗してしまった。
では、儀式を成功させるためには、あらためてふたりで執り行う必要があるのだろうか?
そうではなかった。
絵図に描かれたふたつの人物像は、「時間を隔てたひとりの人物」を表していたのである。
儀式はひとりの人物によって二度行われなければならなかったのだ。
思えば一度目の儀式へと至る道のりでは、さまざまな場面で陰日向に何者かの協力を得ていた。
その役割なくして儀式は成し得なかったとさえ言えるのだが、その協力者は、ほかならぬ私自身であったのだ。
時空を超えておのれ自身と手をたずさえ、二度の儀式を完遂させる。
それこそが聖獣ゴロゴアとの魂の交歓を成立させるための条件だったのだ。
私は今、復興いちじるしい街並みを見下ろしながら、二度目の儀式のために尖塔を登っている。
風の噂で、高校時代の知人(というよりは心の距離が近かったと思うが、今はやや疎遠なので知人でいいだろう)が離婚すると聞いた。
本人からの報告ではなく伝聞によるものだが、離婚の理由をまとめると「ライフスタイルの不一致」というやつらしい。
血の繋がらない他人が一つ屋根の下に住む以上我慢することも多々あるのは当然なので、結婚してから今まで上手くやり過ごしてきたという。
一日中同じ家に篭もるようになり、知人の積もった我慢が爆発。離婚するに至った。ということである。
で、知人が爆発した理由というのが「配偶者が汚部屋で過ごしても何ら問題のないタイプだったため、何度言っても掃除をせず散らかしっぱなし。知人は綺麗好きだったが、自分だけが掃除をし続けるのに我慢ならなくなった」というものだった。
その理由を聞いて、私は意外に思った。
「え、アイツ綺麗好きだったの?」と。
知人の方が汚部屋側の人間かと思っていたから、二回くらい聞き返した。それでも綺麗好きなのは知人で間違いないらしい。
ではなぜ知人が汚部屋側だと思っていたかというと、(学校で用意してもらう個人のロッカーがそれほど綺麗でもなかったとかの理由もあるが)私は彼女に、ラノベを借りパクされているからだった。
四刊完結くらいの長さのラノベで、別の友人に貸していたものが返ってきたところ「私もそのラノベ気になってたから読ませて?」と知人に言われて二冊貸したのだ。以前からそういったやりとりはしていたし。
ラノベの感想を早く聞きたくもあったが、読書速度は人によるので、うずうずしつつも貸した一週間後くらいにせっついてみた。
返事は「うーん、忙しくてまだ読み途中」
モヤモヤしつつも考査や短期休暇を挟んで、流石にもう読めただろうとまたせっついてみれば「ごめん、まだ」
「じゃあそろそろ返してもらっていい?」
「明日持ってくる」
と返事はされたが、次の日に返ってくることはなかった。
今だったらそこまで粘らなかっただろうが、高校生にとってラノベ二冊分の金額はそこそこ大きくて、何度も返してもらうようにせっついた。
それでもあまりしつこく言いたくなかったから、三日後、とか一週間後、とか期間を置きつつ言った。返ってこなかった。
「私の本、どこにあるの?」と聞いても
「部屋のどこかにあると思う」みたいな返事ばかりだった。
知人の家は遠くて、そこまで取りに行くことはできない。
だから言った。言っても待っても本は返ってこなかった。
永遠に「返して」と言い続けて食い下がって喧嘩するほどに愛読していたシリーズではなかったから、途中で本は諦めた。
(それ以外の部分では馬が合ったので、卒業まで仲良く付き合っていた。修学旅行も一緒のグループだったので、私だけが勝手に仲が良いと思っていたわけではないと信じたい。
ちなみに現在関係が疎遠なのは、私が県外に進学しやりとりが減ってしまったからなので、借りパクの件とはあまり関係がない)
私の本は、知人の本棚の奥底に沈んだんだか又貸しされたんだか売られたんだか紛失されたんだか知る由もないが、知人の理由を信じて「本が見つからないくらい部屋が汚いんだろうなー、だらしないなー」と思っていた。
買い直して返す、とか本の代金を返す、とかの代替案が出なかったのも「だらしないなー」であった。知人の誠意で言ってほしかったので、私からは言い出さなかった。
お菓子やジュースを奢りあっていたので、本二冊くらいの金額は返ってきていたのかもしれないが、「本の代わり」としては未だに返ってきていない。
という訳で、知人の「綺麗好きなので離婚」という話の感想が「わかるーーーー!こっちは綺麗好きなのに向こうがそうでないと辛いよね」とかではなく「どの口が言ってんの?!」であった。
別に今更、ラノベ二冊分の損失で「離婚wwwwwwざまぁwwwwwww」とは思わないが、心にはずっと800円の杭が刺さったままで、「ああ……うん……」みたいな気持ちでいる。
派遣社員の雇止めが増えている、というニュースを一昨日ぐらいにぼんやり聞いていた。
そういう時期は、街で見かけるホームレス風の人に若い男性が目に付いてくる。身なりも垢じみてはいない、新米のホームレスというと言葉が乱暴だが、路上暮らしが板についている人たちと比べると、見かけた時の痛々しさが際立って辛い。どこかでセーフティネットに繋がれるといいな、と思う。用事があり炎天下を歩いているだけの汗まみれの私にできることがあるわけではない。自分の身に引き寄せて考えたら、家がない、住所がないというのは正直想像を超える辛さだ。私は若い頃、長期出張の荷物を宅配便で出してうっかり家の鍵を宅配便の方に入れてしまって、宅配便よりも先に人間の私が飛行機で家に付いたらカギを持ってない、一晩家に入れなくて仕方なく近くにあったホテルに泊まった記憶がある。たったそれだけのことなのに思い出しても少し胸がキュッとなる。ゆっくり寝られる家がないというのは本当につらい。
「若いホームレス」は、2008年のリーマンショックの半年後ぐらいにも増えた記憶がある。不景気とはこういうことなのだなと足元から冷たくなった。そのころ確か、年越し派遣村などの活動がされていた時期と重なると思うのだが、年越し派遣村のニュース映像をぼんやり見ていて若い人がとても多いこと、男性も女性も等しく困っている様子だったこと、当時すでにネットでは「自業自得だろ」と揶揄される言葉が飛び交っていたことなど、などを思い出し、当時はもちろん、今考えたら更に暗たんとした気持ちになる。
こういう景気後退期は、女性のホームレスを見かけることも増える。女性のホームレスは景気が良い時はあまり往来を放浪しているところは見かけない。でも彼女たちはその風貌を見る限りではベテランのホームレスなのだろうなと推察できる。要するに身なりが相当垢じみている。コロナ以降の半年なんてもんじゃなく、かなり長期間、室内で寝起きはしていないのだろうな…と思われる風貌である。
わけ知り顔の年配男性が言うには(信憑性は知らない)、その町が養える?ホームレスの数はある程度決まっているなかで、新規参入者が増えることで拠点を追いやられて道路を彷徨するはめになってる、とか、立ちんぼで小銭稼いで簡易宿泊所に転がり込んだりしてるらしいとか。繰り返すが信憑性は知らない。立ちんぼとは要するに売春だ。大塚とか鶯谷とか新宿の5丁目あたりとかのラブホテル街に立っている売春婦がいるらしい。千円だったりするらしいけど本当なのかは見たことがないから分からない。ていうか買う人がいるのかな、元の柄が何か分からないような茶色く垢じみた洋服を着て、山姥のようなヘアスタイルだったりする。スカートのような布から覗く足もゴボウのような黒くて細い足だ。この暑さであの体で年齢で道路を彷徨せざるを得ないならどんなつらいことか。
家の近くに大きな川が流れていて川の上には首都高が走っていて屋根になるからか、昔からホームレスの人たちの住処になっている。昔よりはかなり減ったが、やはり景気が悪くなってくると如実に増えてくる。最近のホームレスはブルーシートじゃなくてLOGOSの簡易テントとかで家を作っていたりする。コロナで自粛期間中は外に出るのもままならなかったから、この首都高の屋根がある川沿いを早朝にジョギングをしていた。同じようにジョギングをしている人もたくさん見かけたが、約1か月程度、ジョガーが増えるのと比例して「屋根付き河川敷」に流れ着いてくる人が増えていった。
恐らくだが、この「屋根付き河川敷」はホームレスの人たちにとっての一等地的なポジションなんだろうなと思う。snow peakはさすがに見かけなかったが、5,000~1万円ぐらいのテント持ちがごろごろしている。このあたりは2、30分歩くと繁華街だし周囲も住宅街なので、ホームレスの人は暮らしやすいだろうなと思う。わたしは幸運なことに家を持っているがとても住みやすい街だ。
屋根付き河川敷の一等地(と私が勝手に思っている)に暮らせるのは、中年というか働き盛りかなという風貌の男性のホームレスだけである。女性や若手のホームレスを見かけることはない。ただ寝ているところも見かけるが、ごみ収集所から空き缶を拾ってきて集めてどっかに売りに行く人も見かける、あれはまぁ、プロのホームレスというかそういう感じなんだろうな、とまたつらい気持ちになる。私が住んでいるマンションも資源ごみ収集日の朝にゴミ置き場から外に出しておくと1時間もしないうちに空っぽになっている、とマンションの管理人さんが笑っていた。おおらかに笑う人が管理人さんで、ほんの少しだけなぐさめられる、でもほんの少しだけ。
田舎にはまともな家が無い。特に、自治体が「空き家バンク」に登録するような家は。
テレビに出てくるような風格ある古民家は家主が手放さないか、すでに誰かが手を付けており、残っているのは単なる安普請の「中古民家」だけだ。
戦後から昭和40年代にかけて作られたそのような家は、貧弱な設計と建材によって断熱性も気密性も低く、夏は暑く冬は寒い。
外壁は一様に茶色いトタン板で、屋根は青いトタン板。大家族での生活がまだあった時代のため、間取りは二間続きの十畳間など、不必要に広いものが多い。
またトイレも問題だ。下水道の無い集落では汲み取り式が標準で、ほんのちょっと改修してあっても簡易水洗式。どちらも外に突き出した臭い抜き煙突(臭突)でそれと分かる。
きちんと合併浄化槽にリフォームしたような家もあるが、そのような家は家主かその縁者が住んでおり、そもそも空き家にはならない。
さらに都会では引っ越しの際、家財道具はすべて運び出し、空っぽの状態で明け渡すのが常識だが、田舎はそうではない。空き家の場合、なぜそこが空き家になったのかといえば、
息子や娘が次々に就職や結婚で家を出て行き、最後に残った高齢者が介護施設に入所したからだ。こうした場合、高齢者は「いつか戻る家」をわざわざ片付けようとはしない。
息子や娘もそう考える。そうこうしているうちに高齢者は施設で死ぬ。空き家となった家には高齢者の家財道具がすべて残ったままだ。年に一回来るか来ないかの息子や娘も、
手間と金のかかる家財の処理を先送りにし続ける。家そのものを解体するにはもっと金がかかるし、更地にすれば固定資産税が上がる。
ただ放置することが合理的な選択となり、中古民家は補修もされず、しだいにおんぼろ中古民家となる。
そんな無価値な住宅を、都会から来るアホな移住希望者に当てがって賃料をとり、あわよくば売却しようというのが「空き家バンク」。
屋根はあったので厳密に炎天下ではないが、屋外のステージイベントがあった。
大人のファンも多いが、どっちかというと子供というかファミリー向けの内容で、小さい子連れも多かった。
ステージ前の座席に入るには朝から整理券を配布され、開演1時間前に番号順に並ばされるシステムだったが、問題はその場所と待ち時間。
会場近くの日陰もない炎天下。そして開演ギリギリまで入場できず、動けない。
時は流れてその2年後、同じ主催の、似たようなイベントが、今度は屋内のホールで行われた。
ホールの手前にわずかなロビーがあり、その手前でチケット確認して入場というシステムだった。
入場した人が座席に向かえば、余裕で収用できるのだが、やはり開演ギリギリまでホールに入れてもらえない。
段々とロビーが密になっていく。追い討ちをかけるように開演時刻遅延のアナウンス。
座る場所もなく、狭いロビーに人がごった返す。またも子供も多いのになんて仕打ちだ、と思った。
この2回、私は地方からそのイベントのために遠征してたのだが、待ち時間や密をなんとも思わない主催側の感覚に納得できず、もう二度とこのイベントのために遠征はしないと決めた。
それにしても、私と同じようにあの空間で待たされた人々は平気だったのだろうか?
東京では、娯楽を享受するためには待つことも密も致し方ないという感覚が普通だったのだろうか?
それともあのイベントは、感覚が麻痺した人が多数派なのだろうか?
解体業をやっていていちばんきついのは夏の現場で、建物を解体してるわけだから、その建物は使ってなくて、あたりまえだが電気が通ってないわけだ。で、クソ暑い中冷房とか一切なしでひたすら朝から夕方まで家とかビルとかをぶっ壊す。
(気温が35度を超えてても、半袖半ズボンで作業するわけにはいかないわけだ、釘とかが出てたら腕を傷つけて次の現場に支障があるから。で、クソ暑い中でも長袖長ズボンでずっと作業してる。夕方、なんかやたらと汚れた服で季節外れの長袖長ズボンの奴が電車に乗ってきたら、やばいと思うだろ。こっちもちょっとはすまないとは思ってるんだわ。でも他にどうしようがあるよ。家に帰ってきて服を脱ぎ捨てといて、次の日になったらさ、夏はカーゴパンツの腰のあたりに大抵白い粉が吹いてる。一日でカビるのかよと思ったら、よく見たら、汗が乾いた後の塩なんだよな)
昨日の現場は住宅街の平屋で、外はカンカン照りだったが、家の前にトラックを止めて、屋根の上に登って、上から屋根の材料を一枚ずつ剥がして、トラックの荷台に放り込んでいったんだわ。瓦じゃなくて、石のスレートでもなくて、それを真似した、屋根の材に直接貼り付けてあるやつ。手づかみでベリベリっと剥がして、捨てるまでにけっこう力を使うから、一枚剥がすだけで、直射日光が当たるような晴れの日はもう汗だく。
もう一人ウェイっていう中国人が屋根に上がって作業してて、朝のうちは喋りながら作業してたんだが、日が高くなってくると、お互いにもうフラフラになっちゃって、あとはもう無言。このウェイっていう奴は、じーりん省?の出身らしい。基本的に人なつっこくていいやつなんだけど、切れやすくて、切れると誰にでもやたらとでかい声で怒鳴りつけるから困る時もある(前の現場で、解体が終わった後の土地に、ウェイがホースで水を撒いてたんだわ。したら、目の前の道路をデイケアサービスセンターのボックスワゴンみたいなデカめの車が通りかかって、水のホースをたまたま踏んだのね。タイヤの下敷きになったホースがパーンて飛んで、そこらじゅうが水浸しになって、ウェイが車に向かって行って、ものっすごい剣幕でドライバーを怒鳴りつけてたのは、さすがにちょっと引いた)
昼になったら口の中がカラカラで、トラックの席に置いといた爽健美茶のペットボトルを口に入れたら、もうお湯みたいになって飲めないので。で、さすがに今日はやばいから、エアコンの効いたところに行って、冷たい水でも飲みながら飯を食おうぜってなった。たまたま近所に中華があったからウェイと入って、メニュー見てたら、こまっさん、じゃんぎ丼あるよ、とウェイがいうからなんだそれって聞いたら、美味しいよとしか言わない。奴は自分で頼むからこっちも同じものを頼んで、カウンター越しに店主が料理するのを、冷たい水をごくごく飲みながらなとなく眺めてたのね。なんのことはない、鳥のから揚げ丼か。て思って見てたら、揚げた唐揚げを中華鍋に入れて、今度は野菜と炒めるの。で、なぜかコーラをペットボトルからどぼどぼ途中で鍋に注いで、大丈夫かよこれって思ったんだけど、そのまま仕上げてこっちにはい、じゃんぎ丼、て出してくるわけ。まじで大丈夫かこれって、思って一口食べたら、味が濃くてけっこういけるの。
このhttps://anond.hatelabo.jp/20200815153451
エントリーを書いた。
以降のことを記す。
まず、インターネットで調べると、「火葬まで家においておける目安は夏場なら〇日~〇日、冬場なら……」的に書いてあるが、ぶっちゃけ真夏は無理だと思った。
金曜日の夕方に死んで、処置をしてもらい、6時ごろに連れて帰ってきてから、彼女の定位置だったリビングのソファー脇に棺を置いた。
既に土曜には獣臭が臭う!!
②私が少し嗅覚過敏の気がある(現に、夫はかなり近づかなければ分からない、と言った)
以上の理由はあるにしても、保冷剤(特大)を、本人の上と棺の下から当てて、冷房をガンガンに効かせても、次の日の夜には体内からなんかいろんなものが染み出てきちゃってるのか、臭いはした(ので、本人に「ごめん!!」と言いながら消臭剤を棺の横に置かせてもらった)。もし、動物病院での処置がなく、家で看取った場合は、さらに体の傷みも加わってくるだろう。3日以上家にいてもらうなら、ドライアイスは必須だと思う。かかりつけの動物病院に連絡すれば、業者さんを教えてもらえるはずだ。私の場合は、日曜の朝には火葬の予約が取れたのでもう使わなかったが。
土曜日、前回書いた通り、無理くり足型を取って、夕方に花を求めに行く。お盆で、街中の個人商店が軒並み休みで閉口する。駅ビルの中の生花店で、立派な白百合とヒマワリ、あとは隙間埋め用に、「お買い得品」になっていた、淡い色のバラの纏め売りを買う(どうせ次の日には燃やしちゃうわけで)。長さだけ持ちやすくしてもらい(どうせ次の日には以下略)、帰宅。
他に本人に何を持たせるか…と思ったときに、家族写真を持たせようと、LINEでネットプリントに登録し、コンビニで印刷(ただし、業者によっては普通紙でないと一緒に焼いてもらえないようだ。写真用紙にはしないことをおすすめする。どうせ次の日には以下略)便利な世の中になったもんだ。封筒に入れて、彼女の似顔絵を描く。字が読めなくても、これなら分かってくれればいいのだが。
日曜日の朝。棺に、いつものタオル、お花、お弁当(彼女は、『ドライフード原理主義者』とも言うべき、強硬なカリカリ派であった)、封筒を入れる。外は災害級の暑さ。こんな日に彼女を外に出そうものなら、すぐに舌を出して、家に戻ろうとするような陽気だ。
炉が乗った移動火葬車を使うという。屋根のない駐車場がある家なら、出張もやってくれるらしい。そんなのがあるなんて初めて知った。
最後に抱っこしてお別れしてくださいと言われ、なんだか棺から出すのが今まで躊躇われていた亡骸を抱き上げる。冷たくて硬い彼女を撫でて、(マスク越しだが)たくさんキスをする。いつも、チュッチュチュッチュしても何にも文句を言わずにされるがままの犬だったので、冷たくて硬いことだけがいつもと違って、『ああ、この毛皮の中にもう彼女はいないんだな』と思う。でも、そこに姿形がある名残惜しさ。
「またね」と、言った。
1時間ほど、近くで時間をつぶして戻ってきて、暑い中、まだ熱い炉の前で汗だくになってお骨を拾う。業者さんは丁寧に骨の説明をしてくれた。手元に残す用のカプセルには、綺麗に焼け残っていた歯と、しっぽの骨をひとつ入れた。また、骨を形のまま収めるかパウダー状に加工するか決めかねていたのだが、骨のままだと煤などが原因になってカビになる可能性があること、パウダー状にすればまんべんなく水分が飛ぶので長期的な保管状態が良くなる、という説明を受け、今までなんとなく抵抗があったのだが、合理的なさらさらの状態にして骨壺に収めてもらうことにした。
思ったよりももうふたまわりくらい小さな覆袋を抱いて、家に戻る。やっと、リビングの冷房の設定を27度にできる。彼女の定位置の敷物にお骨を置く。
気持ちの区切りがついたと同時に、やっと、寂しさがこみ上げる。もう、彼女はいない。毛皮も、ない。
人間と同じように7日は魂がこの世に残るのだろうか、と最初は思ったけれど、いっそそうでない方がいい。病気だらけの毛皮を脱いで、身軽になって、軽やかにいぬのくにに帰っていくといい。
そしていぬのくにのかみさまの膝にぴょんとして、「たのしかった!」と言うといい。
きっと彼女ならそうするという自信が、私にはある。
売りはじめた土地に人を座らせておけば直ちに誰かが現れて買ってくれるわけでもなさそうなのだが、とりあえず人を置いて「現地販売中」の赤旗なども立ててしまうのが弊社である。
古い木造の平屋に暮らしていたおばあさんが介護サービス付きの老人ホームに入るということで、土地を買い受けた途端に更地にしたのが弊社である。
まだショベルカーのキャタピラの跡が残る泥の上に「初売り出し」と書いた看板を突き刺し、アウトドア用のタープを設営し、キャンプ用のテーブルと折り畳み椅子を置いて座ったのが私である。
日中の気温が37度に達すると予報が出ている東京で、もちろんこのような布の屋根は、あってもなくてもたいして変わらない。テーブルに置いた麦茶のペットボトルが火にかけた薬缶のように熱い。
テーブルにはいろいろな家のイラストも重ねて置いてある。今は茶色いだけで何もない更地ですけど、弊社契約の業者を使って家を建てるとこんなに素敵になるんですよ、と説明する使命を帯びて、画像データをファミマで今朝印刷して持ってきたのだが、もう私の汗を吸ってボコボコと汚らしく波打つだけの紙の束になってしまった。
日が暮れるまでこの土地に陣取って「販売業務」に従事しなければならない。買い手が来ても来なくても、雲ひとつない8月の空の下、タープの布屋根一枚で直射日光を防ぎつつ座っていなくてはならない。東京の住宅街に突如出現した空き地の値段は、不動産会社の従業員一人の人件費よりもずっと高い。ひょっとすると命よりも。
そんなことを考えていてもまったく時間が経ってくれない。さっき近くのローソンから買ってきたガリガリ君は一瞬のうちになくなってしまった。これからは何を糧に生き延びればよいのか。
熱中症になるのが怖くて、自分の手首を掴んで脈を測ってみる。いつもより弱々しい気がする。黒い革靴に包まれた足がジュクジュクと蒸れて、沸かしたての風呂に入っているように熱い。たまらず靴も靴下も脱いで、椅子に座ったまま裸足を前に突き出し、風を待つがそよとも吹かない。日傘を差した女がこちらを二度三度チラ見しながら通り過ぎて行く。
もはや暑いのかどうかもわからず、ただ息苦しく、マスクを片耳からぶら下げ、意識が朦朧とした状態で椅子にひっくり返っていると、ようやく日が傾いてくる。焦点が合わない視界に、ひょろ長い人影が映る。黒いTシャツを着たマッシュルームカットの青年が、不安そうにこちらを見つめている。彼が連れている小さなパグがちゃむ、ちゃむと吠える。
「あの……ウラサワ君?」
なぜ彼は私の名前を知っているか。椅子に座り直してその顔を見る。彼がマスクを取る。
「メヒコ君?」
髪型が変わっていて、顔は大人になっていたが、わりとすぐに分かった。メヒコ君の本名はたしかヨモギダだったはずだが、中学のクラスではみんな彼をメヒコと呼んでいた。家庭の都合でメキシコシティから突然転校してきて、メキシコのことを「メヒコ」と発音する彼は、無知な中学生達にある種の衝撃を与えた。
ここでなにをしているの、土地を売っているんだ(自分の土地じゃないけど)、どうしてここにいるの、近所に住んでいるんだ、というやりとりを経て、仕事が終わったら一緒に晩ご飯に行くことになった。というか、今日はもう撤退することにした。
犬を家に置いて戻ってきたメヒコ君と歩きながら話を聞く。学校を出た後はスペイン語と英語を活かして国際線のフライトアテンダントをしていたが、どうしても時差のある生活に身体が慣れなくて2年でやめたらしい。何か接客業を続けようと思ってヒルトンのバーで修行した後、ちょっとしたメキシコ料理とテキーラを出すバーを高円寺に出したところ、けっこう繁盛した。2号店を出そうかと下北沢あたりで物件を探しはじめた頃、コロナが来た。
「バーをやってると、お客さんがいない時間は結構よくあるんだけど、あの時に誰かがドアを開けて入ってきてくれるまで待っている時間の重さは、それまでと何か違うものだったんだ。店を開けてることも、生きてること自体も、何から何まで否定されながら、それでも誰かを待っていなきゃいけないみたいな」
運転資金が残っていて少しでも退職金にあてられるうちに、メヒコ君は2人のスタッフと話し合って店を畳んだ。それまでは店の奥にある倉庫で寝起きしていたので住む所もなくなり、今は大叔母さんの家に居候しているらしい。
「自分のペースで店を作っていくのは楽しいから、また機会があればやりたいね。いつになるかはわからないけど」
夕闇に信号機が点滅する横断歩道を並んで渡りながら、私はなにも言えなかった。
ラーメンでいいかな、と彼が立ち止まった先にあるのは住宅街の古い一軒家だった。看板もなにも出ていない。ああ、うん、と思わず答える。メヒコ君がためらわず玄関のチャイムを鳴らすと、インターフォンから返事が聞こえる。「二人なんですけど」というが早いか、ドアが静かに開き、白髪の薄くなったおじさんが出迎える。メヒコ君とは知り合いらしく、久しぶりなどとひとしきり話してから、私にも入るように促す。
案内された先はどう見ても普通の家のダイニングで、エアコンが効いていて涼しかった。つながっている居間には大きなテレビがあり、NHKのニュースが流れていた。ソファーの上には茶トラの猫が寝ていた。
「あったかいのと冷やしとどっちがいい?」 ダイニングテーブルについた私たちにおじさんが訊く。
「じゃあ、冷やしください」と私が答えると、「冷やし二つおねがいします」とメヒコ君がいう。
キッチンでおじさんが調理しているあいだ、私たちはテレビで関東地方の気象情報を眺めた。おじさんの方を振り返ると、冷凍庫から赤いコーラのペットボトルを取り出すところだった。料理しながら自分で飲むのかなと思って私はテレビの画面に視線を戻した。
出てきた冷やしラーメンは、家庭料理にどこか似つかわしくない端正なものだった。ガラスの鉢に黒いスープが入っていて、そこにひたされた金色の麺の島には、糸のように細かく切ったハムと白髪葱が載っていた。一口食べると、氷水からたった今引き出したような麺の冷たさに驚く。スープは甘辛く、どこかで味わった覚えのある下味を感じたが、はっきりとはわからず、謎めいた調和のうちにいそいそと箸を進めずにはいられない旨味があった。
食べ終えて外に出る頃には、昼間から感じていたどうしようもない倦怠感は消えて、全身が軽く感じた。地下鉄の駅に向かうため、メヒコ君と交差点で別れた。今度は何か冷たい差し入れを持っていくよと彼は笑っていた。明日の最高気温は何度だろう。さっきテレビで見たはずだが、よく思い出せなかった。
もう外はかなり 暗くなった。
空は暗いと薄暗いのあいだほどで、隣の団地のシルエットがレースのカーテン越しに曖昧に見える。団地の外廊下の灯りがポツポツ点いている。
外は暑いだろうが、冷房のきいた部屋の中にいると実感がわかない。いや、通勤の行き帰りは確かに暑かったし帰って来たのはついさっきなのだが、冷房の風が直撃するソファで麦茶を飲んで体が冷えてしまえば、あっという間に外の暑さを忘れてしまう。
セミが鳴いている。
昔住んでいた所ではもっとうるさく昼も夜も鳴いていたが、ここではストレスになるまでは鳴かない。一応、夏の記号としてセミもご用意しましたよ、という感じだ。
鳥害増田を見て思い出した。
3年前、家の戸袋にムクドリが巣を作った。
それまでも家の周辺でムクドリはよく見かけていて、夫婦で餌をとっている姿を可愛いねなんて言っていた。
ある日寝室の戸袋(雨戸は閉めっぱなし)にガサガサ、コツコツと音がしていた。巣を作っていた。
数日後、蚊の鳴くような声で雛の鳴き声が聞こえてきた。
ヒヨ、ヒヨって小さい声が可愛くて、こんな所で生命が!とかはしゃいでいた。
それから1週間ぐらい経って、はしゃいだ事を後悔した。
糞糞糞糞糞糞糞うるさい。ヒヨ、なんてものではない。ギャーーーーーー!!!!!!!って鳴く。
ムクドリは成長がめちゃくちゃに早い。ある意味早く巣立つのでこれが救いなのだがもう本当にうるさい。
あと何故かきっかり朝6時20分から鳴く。まだ寝とるっちゅーねん。
夜は7時ぐらいまで鳴く。セミみたいなただの騒音と違って、会話がある。会話を感じる。うるさい。
ダニが湧く。
もう家中にダニが湧いた。気づけばいつでも腕にダニがよじ登っていた。
腕にダニがいない時でも全身に虫が這っているような気がしてノイローゼになった。
ありとあらゆる場所に防虫スプレーをぶっかけては粉のようなダニを拭いた。億、兆、もっとかな。遠い気持ちになった。
困り果てて害鳥駆除を頼もうとしたんだけど、怪しい所しか出てこないし値段も結構お高くて……。
なんでも卵の時点では殺してもいいが、産まれたら殺しちゃダメらしい。
駆除には色々申請が必要らしく個人で出来るようなものではない。
そんな事を調べている間に、鳥はでっかくなっていた。巣立ちの時が近づき、羽ばたきの練習をしている音がした。
もういっそさっさと巣立ってくれ、と日々騒音、ダニと戦いながら過ごした。
巣立ちの日、庭から戸袋を眺めていた。親鳥が向かいの屋根から呼んでいる。
がんばれ!と祈った。もはやこの祈りは当初の生命がすごい!とかではなくさっさと出ていけ糞!という感情でしかなかったが。
おずおずと順番に糞鳥が出てきて、よくやった!みたいな会話をして飛び去っていった。感動的だった。ダニが消えたので。
(ムクドリの血を吸うダニだから鳥が居なくなるとダニも自然消滅する)
それからというもの戸袋はガムテープで塞いであるのだが、未だにガムテープを剥がそうとしている音が時たまする。
お盆で生活リズムが変わり,イライラしていたところ不注意で大事なものを壊してしまった。この際取り返しがつかないことをしたと感じて怒りが静まりどうでもよくなった。取り返しのつかないことをしたという感覚は,日常のシーンでの遭遇が少なく慣れない感覚だと思っている。経験したことだと,子供にとってはなけなしのシャトルやボールを屋根にひっかけてしまったことや学校の机から突き出したハサムが脚に引っかかって縫う怪我をしたものが印象的である。この経験から今まで当たり前のものが非当たり前のものに変容するのは得体のしれない寂しさや儚さがあると勝手に思っている。この感情を怒りの消化に利用できそうだと考えた。この時思い出したのは以前小規模の雑談配信に転がり込んでチャットしていた頃に配信者がストレスの発散方法を話していたことであった。自分のために買ったケーキを手でぐちゃぐちゃにして食べることだという。この方法については強烈な喪失感を得るかどうかは正直分からないが,心身や物品,人間関係を脅かさずに安全に処理できるのかなぁと考えた。ちょうど今全人類コメンテーター時代に加えて知人と表情を読み取るコミュニケーションに制限のある時勢で十分な不満を吐き出す場所が減っている。今後は何かあった時は生活のための食糧を買うついでに変な食べ方をすると取り返しがつかなさそうなお菓子を漁ろうと思った。
夫のためにバレンタインフェアに行った。
並ぶ。
列の何組か前に見知った顔を見つける。
夫だ。
しかも女連れ。
「誰よその女」と、まるでドラマのような科白で詰め寄る。
周りも気にせず大喧嘩。
修羅場を抱えながら列は進む。
入場の順番になったがこっちは全くそんな気分ではない。
しかしせっかく並んだのだ。
一応入場はする。
怒りでほとんど何も視界に入らない。
思考もろくにできない。
夫が追いかけてくる。
爺ちゃんは小学生のころのまま、不器用ながらも優しく語りかけて慰めてくれた。
少しクールダウンになった。
会場から出る。
ひどい雨だ。
傘を差す。
この建物は丁字路の右下部分に建っているらしい。
片側一車線ながらも交通量はそこそこあり、車のスピードも速い。
「この横断歩道渡りづらいのよね」と見知らぬ年配が独り愚痴を言う。
信号が変わった。
丁字路とは思えない速度で車が進む。
なるほど渡りづらい。
運良く車の列が途切れた。
さっと渡る。
まっすぐに道を進む。
傾斜はゆるいが長い下り坂だ。
ふと違和感を覚えて上を見る。
傘の骨が折れている。
ボロボロだ。
どんどん道が細くなる。
車一台となんとかすれ違う。
左右には古い日本家屋が並ぶ。
やはり瓦屋根は良い。
時折小さな畑を挟む。
夏野菜だ。
道は続く。
いつしか田が目立つようになる。
丁字路に出た。
左か、右か。
右の道5メートル程のところに、細い脇道がある。
進行方向と合う。
あの道を行こう。
スマホを取り出す。
よかった、細いもののまっすぐ続いている。
細いあぜ道を進む。
交差点を突っ切る。
急に道がかなり広くなる。
相変わらず地面は土。
だがさっきと違い、しっかりと固められている。
端には草が生えている。
6月の稲が青い。
道がまた少し細くなる。
実家に着いた。
いつしか雨は止み、傘も無い。
思い出したかのように怒りや不満が広がる。
ごろんと横になり、例のゲームで遊ぶ。
気付けば隣に父がいた。
だらけた姿勢で父に話す。
「ちょっとくらいそんなこともある」なんと父は夫の味方だ。
母と妹がやってくる。
ソファに座る。
同じように愚痴る。
「許してあげなよ」という母に妹が同意する。
ここまできて四面楚歌。
居たたまれず飛び出す。
そんな夢を見た。
誰か一人くらいやってないかなと思いつつ、特に誰からもバトンは回ってこなかったので、自分で始めることにした。
とりあえず1日目(何日続くことやら)。
(こちらによれば連載は1982〜83とのこと)
http://blog.livedoor.jp/chohoukei_l/archives/51028795.html
駅前の書店の雑誌の自動販売機で売られていて、一目見て欲しくなったが、当時は中学生か高校生の頃で、日中に堂々と買うわけにもいかなかった。
真夜中に家を抜け出し(それも下で寝ている両親に気づかれないように、2階の窓から屋根づたいに外に出て)、自転車を漕いで、自販機まで行って購入した。
昼間は目立たない自販機が、夜の闇に煌々と輝いていて、みなに見られるんじゃないかと、買う決心がなかなかつかなかった。意を決して購入をしたとき、本が出てくる音のあまりの大きさにまたビビリ、あたりを見回しながら、急いで引っ張りだし、家へと戻ったことを覚えている。
とある学園の美術教師が、狙いを定めた教え子を、自分のものにしようと画策するが、そこに絡んでくる女性教師の思惑や嫉妬や、少女自身の「成長」によって、二人の関係は変化し、やがてそれは破局へと向かっていく‥というお話。
ナナナナー、ナナナナー、
ここでお便り紹介!!!
「人を何故好きになると、こんなにも苦しいのでしょう?」
さて、
いろいろと渋滞してるけど、
今日も元気いっぱいにやって行きましょう!って感じで、
名前だけでも覚えて欲しいんですけどね!って
一連のくだりが終わったところで。
あのさ、
これも一蘭の仕切りシステムの権利を一蘭がその権利独占せず開放したことによって、
各飲食店もそれができるようになったという、
涙がちょちょぎれる良い話じゃない!って思わない?
そのメーカーが独占せず
全部のメーカーでやろう!って呼びかけたあの話しぐらいにハートウォーミングな話しだわ。
世の中たまには良い話も聞きたいじゃない。
外に出掛けたら、
結構人が賑わってて道も混んでいたし、
この連休は結局どうだったのかしら?って思ったわ。
あなたの街は賑わってた?
みかんの花咲く丘公園駅前のビルの屋上で毎年やってるビアガーデン。
今年はやんのかな?って思ってたけど、
私みたいなお一人様にはちょっと賑やかすぎるし、
ビールお代わりするときに歩いて行く往復で酔いが覚めちゃうから、
あ、私今何してたんだっけ?そっかルービーお代わりに行くんだったって急に冷静になれるぐらい、
事実。
今度満ちゃんとか誘ってみようかなって思ったわ。
ま、それでも二人なら焼き鳥でもいいじゃんって思うけど、
夏感出していくってなると、
今シーズン1度はそう言う涼しげな格好をしてルービーでも決めたいところだわ。
それもそれでいつ開けるのかなって心配にもなるわ。
そうそう、
ルービーのなんだっけあれ、
そうサブスクリプション。
サブスクリプション代払うんだったら、
その分を全部ルービー代にした方がまだ倍飲めそうな気がして、
一瞬で見破ってしまったし
一瞬サブスクリプショろうと思ったけど
これも私にはまだ縁が無いようね。
うふふ。
1種類でバリエーション豊か感を味わえるのはこれしかないと思っていつもそれにしちゃうのよね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
胸騒ぎで、夏が来るのが怖い。
じりじりと太陽の照りつける、白昼夢のようにまばゆい、青と白と緑のコントラスト。溢れ出るジューシな蝉の鳴き声。
それは記憶の奥底に眠る、美しい影のような夏の記憶。それは、遠ざかる波音の残響。
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少女には、頬の下あたりに黒子があって、仔馬のように綺麗な二つのまなこが私を見つめる。いつも涼しそうなワンピースを着て、はにかんでいる。
昼下がり、ふたりは麦茶が汗をかいているのを眺めたりしながら、うなだれている。
コンビニエンストアに行こうと話して、歩いて冷やしうどんと白くまアイスを買いに行く。
巨大な入道雲を眺めながら、ふたりは黙って、白くまアイスをかじった。
それから、夏の夕暮れがふたりを包み、遠い果ての方で、かすかに残った雲がつめたく、あかあかと燃える。
緋色に焼ける空と、哀愁を奏でるひぐらしの声は、まるで、世界の終焉をも示しているように感じられた。
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夜、世界は眠るように、静かな虫の音と蚊帳のとばりに包まれる。
昭和生まれの扇風機が送る、ゆるやかな風がふたりの頬を撫でて、通っていく。
その風は向きを変え、次は黄色と緑をあしらった風鈴をかすかに叩く。チリン、チリン、チリン。かりん、かりん、かりん。風は、薄いガラスの砕けてしまいそうな危うい音を叩く。
それはどうして涼しく、気持ちいいのだろう。氷の冷たさなのだろうか、それともスイカを冷やす水の、きらきらとしたせせらぎなのだろうか。ふたりはこんな話をした。
冬のように長い夜、線香の残り香は妖しい夢を誘い込み、ふたりはひと時、“間違えて”、清らな青い水底を泳ぐ二匹の若い鮎になって、絡み合う。
音もなく、照明から垂れた紐が揺れている。
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天井を通して、ふたりはつめたく、透き通るような星屑の空を眺めた。
さようなら、と呟いた。
はてなで京都の話題が出ているのでまた蕎麦屋のことを思い出した。
詳細を忘れてしまった為に残っている記憶を頼りに時折ネットで探すのだけれど、土地勘もないので探してもわからない。閉店してしまってるのかもしれない。
雑誌るるぶのページ下のちっこい欄で、お好み焼き屋ジャンボの隣に並んでたからそのあたりの店なのだろうか?
霊園か寺の横にある細めの道を入ったところに店はあった。がっつり和風のお店で屋根付きの和風門があって、飛び石?が玄関まで続いている。店内は狭くはないがとても広い、という印象もなかった。
「御用蕎麦司 本家尾張屋」に外観の雰囲気は近い。けれどこんなにテーブル席がたくさんあった記憶がない。店の前の道の雰囲気もなんだか違うような。
平安神宮か北野天満宮を見たあとに行った。タクシー移動だったのと記憶がうろ覚えなのでこれはあまり当てにできない。
班の三人で各々ニシンそばと海老そばを注文した。ニシンそばが美味しくて感動した記憶がある。中学生の修学旅行の予算を考えると蕎麦1つはそこまで高い値段ではないはず。(ランチ価格だろうし、高くても1200〜2500の間だと思う。当時の話だが)
店内の奥の方を見ると中庭が見えた。京都の古民家はあんな感じなのだと思う。
修学旅行から何年か経って記憶が朧気になっても、ニシンそばに感動したことだけは鮮明に覚えていたので、京都駅に寄ったときにはせめてと思ってそのあたりの店でニシンそばを注文した。こんなもんか、と思った。
母が子供のものは何でもとっておくタイプのため、実家に当時自分で書き込んだ行程表(修学旅行のしおり)も保管してあるのではと思い聞いてみた。
あるとは思う、けれどどこに仕舞ってあるかはわからないと言われた。家のあちこちに分けて仕舞っているというので、それらのデジタル化に踏み切るまでは手を付けなさそうだ…。
好きなアルゼンチンのバンドの歌、たぶんゾンビクライシスを描いていて、「僕はいまライフルをもって家の屋根の上にいる」を連呼するのがサビで最後には「さあ、次の動き(movimiento=move)をやるぞ」つって終わるんだけど、なんか良いんだよなあ
歌い出しにある「でっかい月(luna gigante)の下」ってのもいい ひとことで舞台が月夜になってて素敵
木の下で木の上で木の裏で叫ぶ「奴ら」を相手にライフル一本で次にやることがなんなのかわからないのもいい
挑むのかもしれないし自殺するのかもしれない 曲調は明るいから前者っぽいけど、後者もシブい
「怖かったけどもう吹っ切れた」って歌詞もどっちの解釈にも通じて素敵
アルゼンチンバンド良くて、「山からやつらが降りてくる、春の祝祭で痛めた背中で(con su espalda rota en los festejos de primavera)」って歌詞を連呼し続ける歌なんかもある これも大概意味わからんくて素敵