はてなキーワード: 入学式とは
筋トレ:アニメ第3話 //回数が10倍から3倍になった。よかったね
空き缶:アニメ第3話
日直:アニメ第1話
傘:アニメ第3話
本屋さん:アニメ第5話 //「ヒミツなんかじゃないもん」が削られている
雨宿り:アニメ第5話
二人乗り:アニメ第6話
背比べ:アニメ第10話
席替え:アニメ最終話 //ハンカチを渡すのはアニオリ。きれいに纏めた
わき腹:アニメ第8話
水道:アニメ第6話 //ハンカチはアニオリ。最終話に繋げるためですね
21ゲーム:未アニメ化。西片が私にキスできたら西片の勝ちね。
お誘い:アニメ第10話
買い物:アニメ第7話
二択クイズ:アニメ第10話 //お誘いから繋げたのはうまいと思う
ホラー:アニメ第9話 //ポーカーをやらなかったため日直を手伝う理由が変わったのは残念
ウォータースライダー①:OVA予定
ウォータースライダー②:OVA予定
ウォータースライダー③:OVA予定
目薬:未アニメ化。目薬対決。巻末おまけ漫画に北条さんという一発キャラが登場
入学式:アニメ最終話 //過去回。自己紹介のくだりがやや原作と違う
氷:未アニメ化
女子はそこそこの短大に行く風潮な時期で(4大は少数、看護系公立ですら短大だった)
短大に行ってなにを学んでどうなるんだろう、が全く想像つかなくて
それこそ国公立クラスに居たけど、担任のイヤミもまったく気にせず手に職をつける系の学校にとっとと決めて
何十年もその仕事を生業として生活できてるから、当時の自分チョイスが「幸福な進路選択」にはなってたと思う。
今も。
友達の姪っ子が、教育大出たけど普通に地元のIT企業に就職して戻ってくる、なんて話も聞いて
え、教育大って先生になりたい人が行くんじゃないんだ!って驚いたのが最近の話。
在学中に本人がやりたいことを見つけて、それが教師じゃなかったってだけのことかな。
(または、教師になりたくないことを見つけて、別な業種を選んだか)
教育大に入る前に気づけば別の学校チョイスもあったかもだけど、
入ってみないとわかんなかったのかな
この姪っ子ちゃんが合格したことで枠が一人分減ってたらちょっと恨むかも。
2年生にあがるときに文/理ざっくり決めて
「決め方」って誰も教えてくれないから
増田の言う
あなたが、もしかして一番「信用できる大卒のひと」かもしれないw
大学入学後、すぐに中島らもにハマった。本はほとんど読んだ。リーマン時代の話は何度読んでも面白い。
今はほとんど処分してしまったけど、最も心に残っているのは「労働とは人生のうちの3分の1を売って金をもらうこと」(大意)という考え方だった。
なるほど、売りたくないなと思って大学を辞め、芸術系の大学で2度目の入学式、はじめての卒業式を終えた。
文系大学院生という地獄の道を歩むことを自ら選択し、もう就職への道はほとんど消えてしまった。
社会不適合者としてはいい道を歩んでいると思う。もし研究者になれなければ野垂れ死ぬだけだ。
もともと真面目な性格ではなく、研究が楽しいという理由だけで大学院進学を決めたので、破綻の予感はある。
それでも、毎日のように死にたいと思う人生にはならなさそうだから、仮にダメでも納得はできる。
中島らもには感謝している。辛くなったらまたエッセイを読むよ。
■追記
まじでどうにかしてくれよ
教育の仕事は素晴らしいが、今の公教育は劣悪な労働環境にあるので、春休みの今ここで愚痴る。
つまり子供が下校してから5時くらいまでの間のおよそ2時間である。
時間的拘束がキツイものを上位にしてみたが、精神的負担感となるとまた別である。
とりあえず上位のものが解消されれば負担減になると個人的に思う。
1位.部活動
部活は控えめに言ってとにかく最低最悪で、今すぐどうにかするべきである。
朝1時間、夕方2時間、時々土日、部活に関する事務処理、これだけ時間を奪って担任の仕事をパーフェクトにやれというのは馬鹿げている。
基本的に部活を受け持つのは若手で、ベテラン教員は知らぬ顔で優雅にパソコンを打つ。
若手のほうが授業準備に時間がかかるだろ・・・どう考えてもフェアじゃない。
2位.会議
週に2~3回、職員会議から学年の集まりなど、実にいろいろな単位での会議がある。
学校でこの先行うことを一つ一つ確認しながら決めて、疑問があれば誰かが発言してみんなで考えながら(だれか一人は寝てる)
決めていくスタイルだ。避難訓練の経路をめぐって多くの時間を使ったりもする。
この会議の積み重ねが、ボディブローのようにじわじわと我々の時間を奪い去る。
3位.研究授業
これは最高の茶番だ。そして、どの教員もこれは茶番だと心の底だと分かっていても抗うことができないところが最高である。
「こういう現状があるからこういう授業を展開してけば子供の能力は伸びるんじゃね」ということを超真面目にやっていくことである。
指導案を何回か書いて、たくさんの先生に見てもらって終わりである。だいたい年間に一人一授業行う。
学習指導案を完成させることは、学習指導案を完成させる力が付くだけであって、子どもに対する理解や教育技術が進むわけではない。
・研究授業は豪華ディナーなようなものなので、事前準備が大変すぎて基本的に普段の授業に応用は不可能。
授業に応用できなければ意味がない
もっとフランクにできれば良いと思うが、組織が固すぎて無理だ。
この仕事は実に保護者に気を遣う。怪我すれば電話、いじわるが発生すれば電話である。
学校に電話回線なんて2つくらいしか無いことをまず念頭に置いておけ。
もちろん大部分の保護者はまともだが、1学級30人在籍とすると、父母の数は単純計算で60人いるわけで
5.行事
大きなやつでも入学式・運動会・音楽会・6年生送る会・卒業式くらいはあるだろう。
その他、自分でもこの一年間のことを全て思い出せないくらい大中小いろいろなイベントがある。
ただ我々教員は、始めから終わりまでの流れをぬかりパーフェクトに考える。
子どもの動きなどを事前に計画しておかないと、収集がつかなくなるからだ。
でも私は行事は嫌いじゃない。
ただ、数が多すぎる。
6位.事務
子どものための仕事ではなくて、仕事のための仕事が多い。特に報告関係が多い
相手が求める当たり障りのない文章をサクッと書くことが肝である
書く側も読む側も、誰も得しないので削減するべき
その他
我々の本分なのでこれは良い。ただ保護者は学校に協力してほしい
丸投げママは最低だ。
・丸付け・ノートチェック
工夫すると子供を家に帰す前に終わらせることもできる。
・学級だより
特にやりたいことないなら就職しといた方がいいよ。あとから軌道修正がききやすい。
自分も売り手市場って言われた年になかなか内定出なくて死にたかったけどなんとか中小(ホワイト)潜り込んで、いまはまた別のちょっと給料いい会社で普通に生きてる。
思うに大手志向だけど大手に採用されにくい人(実学専攻じゃない人ね)って、能力じゃなくて気質があってないんだと思うんだよ。
仮に採用されても多分辛い。
増田は多分クラス替えや入学式が楽しみで楽しみで仕方がないタイプではなかろう。
そういう人は新入社員2人〜3人くらいなところで地味にやっていくのが結局一番楽しかったりするんだけど、
大手が最良、中小は負け組と思ってる就活生はそれがわからない(しかたない、働いたことないんだから)から大手には自分の本質と外れたPRをし、中小にも大手向けに作った上っ面自己PRを開陳して自滅する。
世の中を斜めに見てるやつが欲しい会社、
サークル活動もバイトもしてないぼっちでも一人で単位揃えて卒業できる地味な確実さ、単調な毎日をこなせる人が欲しい会社、
ネットで広報したいけど誰もわからないからネットに詳しい人が欲しい会社、
中小は一括大量採用の大手と違って、社長や現場の好みだったり職場の空気に合うかどうか、その時の会社の状況ってものがかなり重要視される。
会社の数だけ欲しい人間のタイプはあるんだから、卑屈さを捨てて、雇っていただける会社を探すんじゃなくて、自分が無理せずやっていけそうな、無理しなくてもそこで存在していて大丈夫な会社を探すために数を打て。
そしてそのためには自分を飾り立てたりとりつくろったりするのではなく、自分を説明する自己PRをしろ。
多分増田が一次全く通らないのは、ESで期待したのと違う人間が来たからだ。
ESには自分の説明を書いて、その通りの自分を持って面接にいけ。
どこかに増田みたいな人を欲してる奇特な社長さんがいるはずだ。
ちなみにしばらく社会人やってると説明書はどんどん書き換わっていくので、一生働ける会社は探さなくていい。あくまでしばらくやっていけそうな会社なら大丈夫。
私と兄は3歳違いの兄妹です。あれです、入学式とか卒業式被って困る年齢差のやつです。
題名の通りなんですけど、兄の反抗期だった時について今でも消化しきれてないことがたくさんあるのでつらつらと書いておこうと思います。推敲もしてないので乱文長文です。
兄の反抗期は大体中1から高3くらいまででした。これが長いのか普通なのかはわかりませんが、この期間私は地獄でした。
もともと兄妹とても仲良し!という訳でもなかったので、まぁどこにでもいる仲が良くも悪くもない兄妹でした。
色々なことがわかり始めた年齢ですね。
兄は壁や扉を蹴りはじめ、家は穴だらけ。窓ガラスを割るという行為をし始めました。
私はなんでそんなことをするのかわからなく「やめてよ!」と言ったところ殴られて首を絞められました。
兄が家を蹴るのに飽き始めた(?)ころは言葉での攻撃にハマりだしました。
リビングにいるだけで、「死ね」「消えろ」「クズ」「ゴミ」「ブス」と言われ続けました。
私の方が先にリビングにいて、兄が入ってきたときは舌打ちされるのが普通、たまに皿やリモコンなどそこそこ硬いものを投げつけられました。
私が後からリビングに行くと「出いてけゴミ」と暴言を吐かれました。
休日母親が早朝から仕事のときは大体兄がリビングを占領していたので朝食を食べずに部活に行き、昼に帰ってきても兄が怖くて昼食もとることが出来ず体重がガンガン減っていってました。それで母親に「なんでご飯食べないの!」と怒られました。懐かしいなぁ。
そのころ私は、兄よりも頭の出来が良く兄が入れなかった高校に私が入れたのとかも反抗期がヒートアップした原因なんでしょうかね。知らんけど。
そんな感じが6年続いていたのでほとんどまともに会話したことはありません。
母に「なんで怒ってくれないの、」と泣きついても「お兄ちゃんは反抗期だから仕方ない。ほっといたら収まるから。」の一点張りでした。
父親は私が6歳の頃から県外へ単身赴任に行っていて年に2、3回会うか会わないかだったので頼りになりません。もともと仕事人間で家庭にあまり関わらず一緒に遊んだ記憶はありません。なんていうか私の感覚では「父親」という肩書きの知らない人です。
ちなみに家族旅行は小3のときの一回きり。それ以前も以降も一度も、日帰りすらありません。
話が逸れましたね。
兄に暴言を吐かれるたびに「いつか絶対にやり返してやる」と思っていましたが、母親には「人にやられて嫌なことはするな」と何度も何度も繰り返し言われたので、結局一度もやり返したことはありませんでした。
「人にやられて嫌なことはするな」
いい言葉ですね。心無い言葉、暴言、傷など私の受けてきたもの、傷付いた感情、それら全て私は一度もやり返したことが無いので、兄は一生それを感じることなく生きていくんでしょうね。羨ましいなぁ。
母親の教え「人にやられて嫌なことはするな」を遵守した結果、私の中の劣等感は未だ消えずに心の奥深くで、真っ黒で、ドロドロと粘着質に、そして確実に今も増殖しています。
なんていうか、この兄の行動、言動を「反抗期」って言葉だけで片付けてもいいんだなって思うと虚しいですね。
私は6年もの間精神的に傷つきへとへとになっていたのに、反抗期だから仕方ないんですね。私は兄から受けたこれらをいじめだと認識してたけれど、世間がこれは反抗期というなら多分ただの反抗期なんでしょうね。
それなら、兄の反抗期に振り回された、私のこの状況にも名前が欲しいです。なんだろうなぁ。「とばっちり」かな?「しょうがない」かな?それとも「みんなが通る道」とかかなぁ?
全国の妹や弟、みんなが通る道だから傷つかないとでも思ってるんでしょうかね。私は19にもなっていまだあの頃のこと思い出しては怖くて不安で惨めでぼろぼろ涙がでてくるんですけれど。これがみんなの通る道ならそんな道はやくなって欲しいです。それか全国の反抗期の奴らの道に続いて欲しいです。
でもそんな兄も大学に合格し、家を出て行きました。もうハッピーでした。兄が家にいない高校生活ほんとうにとっても楽しかったです。
まぁでも兄も全く帰ってこない訳じゃありません。長期休みになると帰ってきます。
帰ってきてびっくりしました。反抗期終わってるんです。暴言も吐かないし殴らないし私の大事にしていたものを勝手に捨てたりとか、とにかくそういうの全くしなくなったんです。漫画などでみる優しい兄でした。
とても気持ち悪かったです。私に死ねと言っていた人間が数ヶ月で「高校生活楽しい?」と笑顔で聞いてくるんです。どういう風の吹き回しなんでしょうか。あんなに暴言いってきたのに、今更普通の兄妹関係に戻れるとでも思ってるんでしょうか。
無理です。私は兄にやり返さないことだけに全力を尽くしたので、兄を許すだけの心の空きがありません。でもせっかく兄が笑顔で話しかけてくるので、機嫌を損ねないように私もなんとか笑顔で話を合わせています。殴られるのは痛いので。
もしかしたら大学でよほどいい巡り会いがあったのか、もしくは心境の変化でもあったのか、反抗期のことを悪いと思ったのかもしれません。だからせめて今からでも妹と仲良くしようなどと思ったのかもしれません。
でもそれなら、一言だけでいいから、あの頃は悪かった、と謝って欲しかった。謝ってくれたら、許せたかもしれなかったのに。
謝るのが恥ずかしいのか、それとも謝るまでもないと思ってるのか、わたしにはわからないけれど、もし後者なら、やっぱり兄とは一生分かり合えないと思います。
私は母親と折り合いがつかずに望まない進学先で精神面を壊しそこから身体も崩し短大を辞めました。精神内科の先生からは「うつ状態」と言われ薬を飲んでいましたが、精神的な薬に良い印象を持っていない母親に薬を捨てられました。ウケる。今はだいぶ回復はしましたが、それでも外に出る気力もなく、こんな意味のない文章を書き連ねています。
好き勝手に生きてきた兄は大学に進学し就職しているのに、兄の裏で沢山のことを我慢して自分の気持ちを抑圧してきた私はうつで学校を辞め今や引きこもりですよ。笑っちゃいます。
彼は空手の全国大会に出るような運動神経を持ち、人懐っこい感じの性格で、東京大学を志望していて、容姿もそこそこよかった。背も高かった。
入学式が終わって教室に入った人の中で、初めて口を開いたのも彼だった。学級委員長なども積極的に立候補し、10名ほどしかいない進学クラスの中で彼は中心的な存在といえた。
そういう人が私は苦手だった。彼に優しく接される度に、「クラスの落ちこぼれにも優しく接して差し上げているかっこいい俺」のアピールに自分が使われているようで、それが嫌いだった。
クラスが嫌いになり、私は進学クラスでは当時不文律として誰も加入していなかった部活動に入り、彼には「話しかけないでほしい」と勇気を振り絞って言った。
1年の11月くらいだったと思う。
それから教室では孤立したが、部活でできた普通クラスの仲間がいたのでさして問題とは思わなかった。
受験の時期になり、3年の9月まで部活動を続けた私は国公立への進学をあきらめ、私立大学だけの対策をした。
部活で養った集中力は私の学力を大いに上げた。そのころ彼は本校初の東大受験(予定)者としてスターダムにあった。
センター試験があった。私立専願の私は受験しなかった。進学クラスの誰もは私を蔑んだが、その日は学校に誰もいなかったからよく集中できた。
2月の終わり、私は運よく早稲田大学に合格が決まり、彼はセンター試験の国語で大失敗をし、足切りで東大は受験できなかったようだった。
私は掌を返したように学校中から称賛され(早稲田でも快挙といわれる高校だった)、彼は当初の思惑とはかけ離れたレベルの私大に二次募集で合格した。
それから4年が経った。
再三にわたるクラス会の連絡をすべて断ってきた私も、就職したら二度と顔を見ないかもしれないという思いはあり、今日初めてクラス会に出席した。
彼からの誘いのLINEが、いつになく粘り強かったことも、私の罪悪感からの参加を促した。
相変わらず彼は楽しそうに、よく話を回していた。私はせっかくの食べ飲み放題を無駄にすまいと、メニューを端から制覇していた。会話は3回した。
19時から2時間が経ち、街へ出た私たちは2次会の相談を私抜きでしていた。もとより行く気はないため、4回目の発言としてさよならと言おうと思っていた矢先、彼が声をかけてきた。
「俺、ずっとお前と仲直りしたかったんだよ!」
「ね?だから2次会行こうよ!」
彼は自分の人生の汚点であるところの私を清算したかったのだと分かった。
彼からすれば私は、人生の中で唯一思い通りにいかない目の上のタンコブだったのだろう。
受験に勝敗はないが、彼にとっては敗北に見えたはずの大学受験がそれを加速したのだろうことも推察できた。
このまま、私が彼を「認めてあげる」ことで、彼の人生の汚点はすべてなくなり、思いのままに生きているという意識を絶対に持たせたくないと思ってしまった。
今日私は、初めてそんな悪意をもって、「僕は君のことが嫌いだから、いやだ」と言って帰ってきた。
何も勝っていない。誰も救われていない。むしろ、人を傷つけて帰ってきた。
でも、なんだか高校の頃の自分が、彼に比べて自分は何もいいところがないといじけていた自分が、報われたような気がした。
随分後味の悪い成仏だけれど、いい心の供養ができたような気がしている。
増田見てるとモテない系嘆いてる人が多いから、斧が多数飛んでくるの承知で書いてみる。当方30ちょいのおっさん。
モテ始めたのは幼稚園までに遡る。すでに毎日5人くらいから追いかけられ、キスを迫られていた。天然バカだった俺は、これが鬼ごっこだと思い、楽しく逃げていた。
この時、すでにキスは奪われている。
突然、自分がお笑い方面(天然ボケ)に転向したので違うモテ方になる。
ただし、よくある男子小学生のいたずらで女の子たちが困っている時、逃げてくるのは自分の背中の後ろだった。
この頃は毎日、方面が同じ女の子と一緒に帰っていた。その子には結婚したいと週に一度くらい言われていた。俺は天然バカだったので良く分からなかった。
確変始まる。引越しをした。転校生という属性が追加された訳だ。
ほぼ毎日告白される。手紙どころじゃない。教室に女の子が走ってきて、そのまま好きだと言われたことも何度か。
当然、男子からはいじめられそうになるが、やり返したのでいじめの対象からは逸れる。
朝学校に行くと、マンガみたいに女の子が体育館やら校門から校舎までの道に鈴なりになっていて、満面の笑顔で挨拶される。30人くらい。
ラブコメお決まりの、なんだかよく分からない理由で、女の子と密室に入ったりとか、女番長が俺を好きになって改心とか、そういうのをリアルに体験。逆に自分にフラれて、不良になってしまう子もいた。
俺はこの頃、1つ上の先輩に恋をしていた。ガキだったので、何もできなかった。
この頃からにスカウトされるようになる。冗談じゃない。普段の生活でもう辟易している。
自分が入学する、ということで入学式からえっらいギャラリーができる。上級生まで総出。100人越えてた。正直怖い。
入学後、授業中とかも気が抜けない。隙あらば寝たふりをして寄りかかってくる隣の席の女の子。クラス内でバチバチ女の火花が散る。
「これ以上、好きにさせないで!!!」と知らない女の子に目の前で突然泣かれたこともある。
俺自身は、意中の女の子に告白し成就する。これも周囲のやっかみがひどかった。
相変わらず映画に出ませんか、とかスーツの人に呼び止められる。マジで嫌すぎる。
ほとほと地元に嫌気がさしたので、県外の大学へ。地元を離れればもう安心だぜ!と思っていた俺が甘かった。
毎日、また通学路に50人くらいいる…。挨拶してくる。こいつら何がしたいんだ?
ガチ理系だったので、クラスには女子も少なめ。普段の学生生活は平和になった。サークル?実験の毎日だぜ。
しかし、教養科目とか、昼休みとかは相変わらず気を使う事案が発生しまくる。数回ストーカー被害に遭う。
知らない子にえらく好かれたらしく、その子とくっつかない事で、別学部のやつから絡まれる。知らんがな。
お前がなんで好かれるのか分からん!と、別学部男子に面と向かって言われる。
「俺も知らんがな。目と鼻と口があるだけだよな!」と言ったらそいつと和解できた。
まだスカウトが来る。「歌をやってもいいし、舞台でもなんでもできるよ」とか。勘弁してくれ。
ただ女の子に好かれること自体は嫌ではない。女の子から腹いせに、ちょっとした嫌がらせをされても「ういやつよ」としか思わなくなっていた。経験値のなせる技だな。
社会に出た結果、好かれる年齢層が広がる。またストーカーされる。
彼女には「増田くんはすぐに勘違いされるから、女性に対して何もしないで。何かのお礼とか、旅のお土産もダメ。」と釘を刺される。
30こえたし安泰だろ、と思ったら甘かった。
相変わらず、女子高生からおばさま、果てはお婆様と言って差し支えない方からもアプローチがある。
頻度は減ったが、スカウトもされてる。応じる気は無い。
これで女性不信とか、男性の方に行かなかったのは、親や周りの女性に対して、子供の頃に抱けた信頼感なんだろうなと思う。
どこかで無条件に女性を信頼してる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1180160
全体的に
と言う前提で話が進んでいるけど
現実は
なんだよね。
「うちの辺りは割と裕福な地域だけど袴なんて見ない、皆質素にしてる」とか言ってるのも多いけど、
デパートブランドで買うとその「質素な式服」が上下セットで5万以上したりする。
SCブランドやスーパーならもっと安いのもある(と言っても万単位はする)けど、見るからに安っぽくなる。
私立や公立でも裕福な地域なら当然デパートブランドで買う親が多いだろう(それ以上の高級ブランドもいるかもしれない)。
子供だって6年生にもなれば買った店や質の違いくらい分かるし、安物を着ている子をバカにする子もいるだろう。
でも袴レンタルなら2,3万でも格好がつくわけだ。
あと「入学予定の中学の制服」も、中学受験成功組による失敗組&最初から受験しない組へのマウンティング地獄になるだけ。
因みに元記事の方は小学校入学式の「AKBもどき服」も同じく親の見栄とか決めつけてるのがいるけど
「子供の間で流行になり、一時期は安い量販店はAKBもどきしか売っておらず、もっと普通っぽく簡素なものを求めると高くついたため
金をかけられない家庭ほどAKBもどきを選ぶしかなかった」ってのが現実。
(1)母親
時間にルーズで、遠方だった大学の入学式以外、入園・入学式はすべて遅刻した。
(2)夫
子どもが生まれてからマイペースに輪がかかり、一緒にいるだけで苦痛。
どうでもいいことを先にやり、必要なことをしない。
酒を飲む氷の音にイライラする。
常に夕食は自炊しようとし、食器類を洗わないにも関わらず、夜食も別に食べる。
産休育休取得中に半分くらい人員が入れ替わり、今の同僚の大半は、休業中に後から入社した人。
業務の要を把握していた自分と、その業務を引き継いでいた人が退職した状態で
手探りで継承したのは大変だったと思う。
とはいえ、新たに決まったルールは細かすぎて当初は戸惑った。今も納得できない点は多い。
もし、子どもを授からなければ、または0歳ですぐに復帰していれば、
現状は違っていたかもしれない。
つまり、世の中にもっと有益な情報を発信できていたかもしれない。
しかし、多すぎて絞りきれないはず。
ここ数年、全体的にPVが減少傾向で、ひっそりと消えたサイトも多い。
高解像度対応やスマホ対応、アプリ対応も必要で、割に合わなくなっている。
(4)別の部署の考えの合わない人たち
何人かは、育休取得前から勤務している人が残っている。
同様にSNSを中心としたファン化やオーブンデータ化が重要、と訴えても伝わらず。
認めてくれたため、独自にやっていたことが部署全体の方針になっていた。
ただ、それが逆にモチベーションを下げる。
(5)イヤイヤ期の子ども
寒いのにパジャマを着ようとしない。マイペースな夫とともにテレビを見る。
時間関係なく、保育園の玄関に座り込んだり、駐車場で踊ったりする。
そしてよくわからず泣く。2~3歳の間は我慢するしかないのか。
モチベーションのアップダウンはつきものとはいえ、今回は下がりすぎた。
自分と夫の年収は、30代後半の個人年収の平均以下だと知っていたけれど、
かつ今は時間に制約のある勤務(残業ゼロ)であり、上がる見込みはない。
昇給・昇格できれば、世代相応の年収は得られたはずで、要は自分が無能なのだ。
逆に夫は正当に評価されているにも関わらず、昇給しない給与体系なので、
国の「働き方改革」「少子化対策」は、やはりいびつだと感じる。
一部の高スキルの高所得共稼ぎパワーカップル、一馬力高所得者を優遇し、不妊治療をさせても何人も産ませ、
同時に経済観念に乏しいカップルに時間を与えて産ませ、少子化に歯止めをかけようとしていることは確かだ。
そのどちらにもあてはまらない中途半端な層、独身者を切り捨てている。
その吐き捨て先も、もう、ここしかない。
同じ思いを感じている人が集まるかつてのインターネットは救いだった。
モチベーションが下がっても、書き込みを見れば再び前を向いて、がんばろうと思えた。
いまは下がったテンションは、どうすれば上がるのだろう。
いや、あげるために書いているのだけど。
スマートスピーカーが普及すると、ますますブログや口コミの価値は下がる。
姉はイケメンだ。かなりぶっとんでるし、ちょっとどうかと思うような行動に走ったりもするけど、総じてイケメン。性格は姉妹で正反対。私は人見知りで、基本的にいつもおどおどしている。今までいろんな局面で何度も姉に助けられてきた。そんな姉への感謝の気持ちを綴りたい。
うちは母が早く亡くなってる。私が5才になる年に喉頭癌でこの世を去った。姉は私より11才上で、私が小学校に入った年にはすでに高校生だった。
そんな姉が、私の入学式に母の代わりとして参加してくれたのだ。その時のスーツ姿がとても素敵だった。人指し指に緑色の翡翠の指輪をはめていて、それは母の形見だと教えてくれた。入学式の時の写真を見返すと、やはり姉は保護者の中で一人だけ幼げに見える。
姉は高校ではかなり目立っていた。たまに雑誌にも出てた。エルティーンという十代向けのファッション誌で、モデルみたいなことをしてた。私はまだ小学校に入りたてで、そんな姉を芸能人だと思い込んでいた。そのうちテレビにも出るんだと思ってた。その予想はのちに別の形で実現するんだけど、その話はあとに回そう。
姉はふだんはあまりエルティーンを読ませてくれなかった。小学生にはふさわしくないエロい特集が多かったのだ。そんな雑誌にちょくちょく載る姉の姿に、私は幼いながら、妖しい憧れのような感情を抱いていた。
父は土建業を営んでいたが、この頃には経営が苦しくなっていた。それまではずっと絶好調で、姉は何の疑いもなく「うちは金持ちだ」と信じ切っていたらしい。でもそんな幸福な時代はあっけなく終り、父は一気に萎れてしまった。母に先立たれて、経営も傾き、悲嘆にくれる日々。父がお酒に溺れ始めたのはこの頃だ。それでも父は姉を私立の大学に入れた。娘の教育は疎かにしない、それは母の遺言でもあったそうだ。
当時、私がまだ9才の時。姉が私をあるイベントに連れて行ってくれた。姉の大学の友達の中に、ひとりだけ9才の私が混ざるという、かなり無茶な形だった。野外で開催されるテクノパーティ。でもそんな詳細はすべてあとから知ったことで、当時は右も左もわからないまま、姉に連れられて、ただついて行った。そこはまさにカオスな空間だった。広大な森林のいたるところで人々が踊り狂っていた。真夜中にトランス状態で踊り狂っている大勢の大人たち。あの光景が私の音楽の原体験になってしまったのは、なんかちょっとまずい気もしている。
夜、私は姉と並んで芝生に寝転んだ。遠くではドンドンという無機質なテクノのビートが鳴っていた。私と姉はふたりで夜空の星を眺めながら話した。その時に姉がとつぜん言ったのだ。
「ママはもういないけど、私がお姉ちゃんとお母さんの両方をやるから」
後年、姉にこの話をしたら「そんなくさいドラマみたいセリフ言うわけない」と全否定した。でも私は完全に覚えている。ありがとう。あの言葉にどれだけ支えられたかわからない。
三つ目は、話自体がかなりぶっとんでる。
私が中2の時、父の会社が潰れた。全てを整理しなければならなくなり、家族は家も失った。私たちはアパートに引っ越した。父はもはやアル中の一歩手前みたいになっていた。
姉はすでに大学を卒業していたが、就職はしていなかった。なんと、カリスマキャバ嬢になっていたのだ。当時の某歓楽街ではかなり有名な存在で、テレビの取材も受けていた(冒頭に書いたテレビ出演の話はこれのことだ。ちなみに姉はこの後にもまた別の形でテレビに出るのだが・・・)。姉は客に媚びないSっぽいキャバ嬢という設定で、何度か深夜番組に出ていた。それはけっこうサマになっていた。
姉は家では父にハッパをかけ、とりあえず一労働者に戻って建築現場で働くことを勧めた。父は最初は経営者という立場にこだわり、かたくなに拒んでいたが、やがてしぶしぶ従った。
ここから急展開が訪れた。カリスマキャバ嬢としてのブームが一段落して、父もどうにか社会復帰できたというタイミングで、姉がいきなり海外に留学してしまったのだ。なぜこのタイミング?と思ったけど、どうも男絡みのようだった。色恋沙汰なら、もう誰が何を言っても無駄だ。姉の留学先はコスタリカだった。
姉は私に銀行のカードを託した。「本当にやばくなったらこのお金を使いなさい」と姉は言った。さらにもう一点、「絶対に父には秘密にすること」姉はそれだけ私に言い残して、さっさと異国へ旅立ってしまった。当時、私はまだ中2だった。おいおい、母親の代わりをするって話は?
預金は600万円だった。コンビニのATMで残高を見た時、足が震えた。私はこわくなって、すぐにカードを机の引き出しにしまい、鍵をかけた。それは中2の私に背負える額ではなかった。
そのまま中3になり、受験の時期を迎えた。姉がいなくなってからというもの、家の中はめっきり暗くなっていた。父は働いてはいるものの、お酒の量がどんどん増えていた。親子の会話もほとんどなくなっていた。学校でも、私の家が落ちぶれたという噂がうっすらと広まっていて、なんとも言えない惨めな気分だった。姉の600万だけが心の支えだった。まだ大丈夫、うちにはこれがある、そう言い聞かせながら日々を送っていた。とかいいながら、カードからお金を引き出す勇気なんてまるでなかった。私は根っからの小心者なのだ。大金を前にして、完全に怖気づいていた。どうしても心細くなって、ひとりで布団をかぶって泣く日もあった。勉強にも身が入らず、だんだん授業がちんぷんかんぷんになっていった。高校に受かる気がしなかった。この時期は私の人生でいちばん苦しかった頃かもしれない。
そんなときに、姉が帰ってきた。まるで私の危機を察するみたいに。姉は予告もなく、いきなり家に現れた。あの時、姉を見た瞬間、私の全身にぐわーっと広がった強烈な安堵感が忘れられない。自分がいかに姉を頼りにして生きているのか、骨身に染みて分かった。
姉のコスタリカでの日々は、それだけで一冊のルポルタージュが書けるぐらい強烈だった。でも私がここに書くのはちょっと無理だ。筆力が足りなすぎる。姉はコスタリカで日本人の恋人と暮らしていたのだが、やがてその男と別れて、現地でスペイン人と付き合うことになった。交際から数日後に、ふたりでパナマに小旅行に行ったら、国境を渡るバスから彼がいきなり逃亡してしまった。理由はわからない。ともかく姉は一人にされてしまった。それから姉は執拗な警察の取り調べを受けたりしつつ、どうにか事なきを得て、家に帰りついた。後日、彼が麻薬組織の幹部だということが発覚した。姉はそんなこと何も知らなかった。彼がなぜ逃げたのか、どこに逃げたのか、全てが謎に包まれていた。
そういう話が他にもたくさんあるんだけど、とても書ききれない。とりあえず姉は無事に日本に帰ってきた。そしてコスタリカでのエキサイティングな日々を迫力満点に語ってくれた。私はなんだか自分の悩みがバカらしくなってきた。受験が不安だとか、ほんとに小さなことって気がしてきた。姉に相談したら「勉強しろ」と言われた。2秒で話が終わってしまった。銀行のカードをいちども使わなかったと言ったら「あんたらしいね」と笑った。姉が相変わらず人差し指に翡翠の指輪をしていたので、私は「お母さんの指輪だ」と言った。姉はそっけなく「あれウソだよ」と言った。「蛍火の墓を見て、適当にでっちあげた」「マジで!?」「うん」私は脱力した。
それから受験勉強に身をいれて、私は無事に第一志望の高校に受かった。姉は父の酒浸り生活も、きびしくたしなめた。父は何だかんだ言いながら、姉には従う。酒の量を控えるようになり、少しずつ生気を取り戻していった。やがて昔の仲間と一緒に、また小さな会社を発足させた。最近は土建以外にも手を広げて、高齢に鞭打ちながら、建物管理の資格の勉強なんかをしている。
姉はコスタリカで築いた人脈を駆使して、某国の大使館でアルバイトをするようになり、そこで能力を見込まれて、正規の職員になった。大使館について詳しく知っているわけではないけれど、私は漠然と「超エリートの仕事」だと思っていた。姉のイメージとはどうしても結びつかなかった。最初に聞いた時は、女スパイが組織に潜入しているような姿が頭に浮かんでしまった。
姉の最後のテレビ出演は、この大使館がバラエティ番組の取材を受けたときだった。姉は有名な芸人さんにおいしくいじられていた。姉は完全にキャラ変して、シャイで生真面目な妙齢の職員を演じていた。「あなた、かなりの箱入り娘でしょ。男性経験も少なそうだな」芸人さんがそんなようなことを言って、姉をからかっていた。姉は恥ずかしそうに両手で顔を隠した。『かわいぃ~』みたいなテロップが入った。いやいやいや、と私は全力でテレビに向かってつっこんでしまった。
そんな姉も、長く勤めた大使館をやめて、今はスペインバルのオーナー兼マネージャーとしてバリバリ働いている。ほんとはここにお店のサイトのリンクを貼って、微力ながら宣伝したいんだけど、それをするには姉の許可を得なくちゃいけない(というか、こんなの宣伝にならないか)。
ちなみに私は普通に高校を出て、短大を出て、今はOLだ。ほんとに波風のない人生。何から何まで姉とは対照的だ。そのうち私にも、めくるめく冒険の日々が訪れるのだろうか。
結局、姉への感謝はたくさんありすぎて、とてもここには書ききれない。何でこんなことを書こうと思ったかというと、このあいだ何気なく実家で昔のアルバムをめくっていたら、幼い頃の姉の写真を見つけたから。3才ぐらいで、まだ私が生まれる前。姉は母の腕に抱かれていた。泣き出す直前みたいな、絶妙な仏頂面。姉を抱く母の人差し指には、緑色の翡翠の指輪が光っていた。なんだ、やっぱり形見じゃん。本当だったんだ。きっと照れくさかったんだろう。いかにも姉らしいと思い、うれしくなってしまった。それで姉への気持ちをまとめてみようと思ったんだけど、うまくまとまらなかった。無理もない、姉自身がまとまってないんだから。