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2024-03-07

旅行顛末記(備忘録)

3月6日

秋田駅、3006M乗車。

定刻で発車。

一ノ関くりこま高原走行中、JR東日本ChatBotより東北新幹線運転見合わせ、再開見込み立たずの報を受報。

JR東日本アプリで列車走行位置確認、この先くりこま高原で抑止かな?と思ったところで急減速、まさかの駅間停車。車掌さんも状況把握に時間がかかっており、この間にYahoo!ニュース郡山オーバーランの件を知る。

当該が下り列車なので上りは再開するかと思いきや、まずは駅間からくりこま高原までは運転再開したものの、下りが詰まっており東京で折り返せないようでくりこま高原でしばらく再抑止。航空機を半ば諦めた頃運転再開仙台駅に46分延で到着。その後3006Mは仙台駅で再抑止とのことだった。

仙台駅、1318M乗車。

ほぼ定刻で運転

当初は1314Mで早めに入り仙台空港で朝食と思ったけれど、かなわず

から持ってきた薄皮たまごパンコーヒーで凌ぐ。

仙台空港、IBX012便搭乗。

定刻で離陸。搭乗間に合ってよかった。オンラインチェックインは神。かなり揺れる。外は雪と雲で真っ白、雲の上に出るまでほとんど何も見えず。着陸時、福岡空港の混雑によりしばらく福岡沖で旋回し着陸を待った。

福岡空港12時44分発姪浜行乗車。

定刻で運転

博多駅、554A乗車。

さくら554号、N700系。定刻で運転

当初は32Aに乗ろうとしたけど空腹が限界。1本落として博多駅豚骨ラーメンをいただく。駅構内がとても暑い(秋田人間にしたら当たり前)。小倉に無事到着(無事?)。

北九州市観光

いい街でした。

平和通駅17時14分発小倉行乗車。

定刻で運転。多分初めてモノレールに乗った。

小倉駅、561A乗車。

さくら561号、N700系。定刻で運転

当初は35Aに乗ろうとしたけど10分遅れ。N700S乗りたかったな。

今日はこんなのばかり。

博多駅、18時27分発福岡空港行乗車。

定刻で運転

18時27分発は多分合ってる。もう記録を取る余裕がなくなりはじめている。博多駅お土産を買った。

福岡空港、IBX019便搭乗。

福岡空港で夕食(カレー)をかきこむ。

折返し便遅れで搭乗開始が10分遅延、その後ドアを閉めてからも離陸待ちにより15分ほど待機。離陸後は往路に比べたら揺れは安定。

当初仙台空港着が21時15分頃と見込まれ、乗継失敗仙台泊を覚悟したが、何とか21時07分に駐機場に到着。リムジンバスから下車後猛ダッシュして駅へ向かう。

仙台空港、1379M乗車。

ほぼ定刻で運転。3045Mに接続する最終。よく間に合った。

預け入れ手荷物があったら詰み。リュックサックお土産をまとめていた自分を褒めたい。

仙台駅、3045M乗車。

上り列車の折返し便遅れにより10分延で発車。秋田駅には6分延くらいで着。

我ながらアホな旅行

2023-03-11

被災地じゃない私の震災の記録

当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。

ある時、携帯電話からいたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話男子生徒の制服の内ポケットからスマートフォン女子生徒のカーディガンポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。

そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。

女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったかからないと口を開けたままの友人の顔。

大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます

この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。

私は比較学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。

家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。

祖母病気後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。

私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。

雪国3月上旬オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。

それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。

全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間ひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。

父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。

その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。

明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。

眠る前、ストーブ灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。

あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。

家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻名取市閖上地区気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たち旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。

閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設飲食店晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。

人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。

情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。

翌日電気が復活し、テレビ報道津波被害を目の当たりにしました。

あとはもう、ご存知の通りです。

断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路割れたり、といったところでした。余震は続きました。

ただ、普段明るくおちゃらけ雰囲気の友人が、宮城県単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています彼女父親津波で亡くなったと聞きました。

私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。

南三陸女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。

私の仕事スーパーゼネコン施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います

なにより、この地域はよく写真展を開きます震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまますイオン一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。

今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれ建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります

どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。

今日だけでいいです。

被災地じゃなくても、地震被害はありました。

お願いです。

忘れないでください。

2022-08-21

もしも昭和アイドル田村ゆかり全国ツアーがあったら(という鉄

プロローグ

もうすぐ神楽坂ゆか生誕祭である昭和アイドルっぽさを感じさせる彼女は、もともとは「田村ゆかり」という名前デビューしたと記憶している。

ところで、たまたま先日購入した1978年10月「ゴーサントオ」の時刻表復刻版がある。

https://jtbpublishing.co.jp/topics/CL000461好評の「時刻表復刻版」第6弾 特急時代の幕開け!「ごお・さん・とお」(1978年10月号)ダイヤ改正号 『時刻表復刻版 1978年10月号』 2022年5月23日(月)発売 | 株式会社JTBパブリッシング

https://www.amazon.co.jp/dp/4533149782/

この年は音楽番組ザ・ベストテン」の放送開始の年でもあり、「レッツゴーヤング」「トップテン」「ヒットスジオ」といった番組ゴールデンタイムを彩った時期でもある。キャンディーズ解散し、レコード大賞ピンクレディーが獲得し、山口百恵活躍していた。

いま挙げたようなレジェンドともいうべき女性アイドルたちが全国ツアーを開催していたかどうかは定かではないが、もしもそんな昭和時代に我らが田村ゆかり全国ツアーがあったなら、皆どういう感じで移動していたのだろうか…などと、時刻表を見ていてふと考えてしまったのが懐古鉄オタの性というもの

そんなわけで「もしも昭和トップアイドル田村ゆかり全国ツアーをやっていたら王国民はどうやって民族大移動したのだろうか?」というテーマこそ壮大ながら実際は老眼に抗って縮刷版の時刻表にらめっこして連敗した駄文をそっと放流したいと思った所存。

今年もツアーはあったが、過去最大25公演を誇る2021年の*Airy-Fairy Twintail*の開催地からいくつか選んで当時の時刻表に沿った旅程を考えてみたい。

なお毎日運転ではない季節列車臨時列車は極力排した。仕方ないね

1

初日大宮公演だった。

当時はソニックシティはまだなく、大宮商工会館なる施設が同じ場所にあったらしい。1979年にはサザンオールスターズが公演しているらしいので、昭和トップアイドルもひょっとしたらステージに立っていたかもしれない。

https://www.livefans.jp/venues/1204

この頃は上野東京ライン湘南新宿ラインも、埼京線さえも存在しなかった。国電京浜東北線103系東北本線高崎線115系で到着した大宮駅の片隅には首都圏色の川越線気動車が、反対側には東武野田線の吊り掛け駆動車が見られたはずだ。

2

鉄道旅行的に見せ場になるのが金沢松本公演。

北陸新幹線のないこの時代東京から金沢に向かうメインルート信越本線だった。

上野発916の特急白山1号」に乗れば、長野経由でおよそ7時間後の1611には金沢駅に着き、前の年に落成したばかりの本多の森ホールにどうにか開演時刻ギリギリに間に合う計算だ。少し余裕を持ちたいなら上野819発の特急はくたか1号」で1504金沢着。こちらは長岡経由である

翌朝、今度は金沢から松本に向かう。筆者はAFTでは北陸新幹線長野まで乗り、そこから特急「しなの」に乗り換えて松本に向かったが、この時代は乗り換えなしの列車がある。それが金沢949発、おそらくキハ58の、時刻表ピンクのページによれば堂々10両編成の急行列車。後ろ3両が松本行き急行白馬」、中ほど4両は秋田まりで前寄り5両は青森までロングランする急行しらゆき」だ。間違わずに後寄り3両に乗れば、途中の糸魚川青森秋田行き「しらゆきから切り離され、進行方向を変えて大糸線に入って1435松本着だから公演には余裕を持って臨むことができる。編成分割をする糸魚川では正午を挟んで8分停車するからえびめしなど駅弁を買う余裕もあっただろう。

ただ、逆にいうとそれしか手段はない。ましてキハ58はいわゆる「直角椅子」のクロスシートでリクライニングも方向転換もできない。7時間近くも乗っていたらそれだけで相当疲れてしまう。

さら松本公演が終わった日曜の夜。筆者はAFTのときは最終「しなの」で長野に出て一泊し、翌朝の北陸新幹線で出勤した。しかしこの時代なら松本2056の普通列車新宿行きがある。423に新宿駅に着くから一度帰宅してシャワーを浴びて着替えて出勤する余裕は十分にある。ただしこれもまた「直角椅子」どころかおそらくセミクロス115系だったろうから、少しでも居住性を求めたければ2359発の急行アルプス18号」のグリーン車に乗れば良い。新宿着は500だから余裕を持って出勤できるのは言うまでもない(出勤した後のことは例によって保証できない)。

3

新幹線はすでに博多まで開通していたし、熊本空港には全日空の3発ジェットトライスター東亜国内航空DC-9が就航していたが、鉄道好きとしては1645東京1058熊本着の西鹿児島行き「はやぶさ」か、1700東京発1123熊本着の「みずほ」を推したい。食堂車で夕食・朝食の2食をいただくのんびりとした旅である

ただ、昨今の「サンライズ」などとは違って当時の寝台特急にはシャワー室はなかった。「はやぶさ」「みずほ」には個室もなければ女性専用車もなかったから、今や全国民の1/4に迫らんとする女性王国民の遠征には不向きだったかもしれない。まして当時の長距離列車喫煙可能が当たり前で各ボックスシートの窓際に灰皿が標準装備されていた。

しかしもう少し前の1970年頃に青春時代を過ごした我が母親によれば、当時のスキー列車はいつも満席で男女問わず通路デッキ新聞紙を敷いて座り込んだというから、たくましい遠征女子も実は相当数いたかもしれない。

4

新潟仙台は帰り道がポイントになる。

東北上越どちらも新幹線はこの時代は絶賛工事中。開通は4年後の1982年だ。しか上越線には「とき」東北本線には「ひばり」というエル特急が毎時1本ペースで運転されていたから往路はどうにでもなる。

新潟の帰路、私は最終新幹線に飛び乗れたが、この当時なら2300新潟発の急行佐渡8号」で506上野着か、横になりたければ2312の秋田から来る急行天の川」で555上野着。新津まで普通列車で出ておいて040発の急行鳥海」で642上野着でもいい。

仙台からは公演後だと2320発の急行「新星」がおすすめだ。仙台駅には早々と入線しており2130から発車前の寝台を利用できるのが嬉しい。上野到着は536だから一度帰って身支度を整える余裕もありそうだ。このほか、仙台2257→上野519の青森常磐線経由の急行十和田2号」や、座席車なら仙台2336→上野542の急行「いわて4号」も便利であろう。なお急行十和田」はこのあとも4号・6号が仙台に停車するし、特急ゆうづる」2号・4号も利用できる。

そうして考えてみると、まだまだ高速道路網が未熟だったこの頃、寝ている間に移動できる安価手段鉄道しかなかったのだということを改めて感じさせられる。1970年代でも長距離バス運行されていたが、都内新潟高速道路でつながったのは1985年仙台は87年。歴史でいえば線路の方がはるかに長い。

なおこの当時、上野仙台特急ひばり」で4時間以上かかっていたので、羽田空港から仙台空港への航空便全日空により1日4往復運航されていた。

5

ならばその先はどうか? 札幌公演に行くにはこの当時でも飛行機が当たり前の選択になってきていた。筆者は81年の夏に北海道の親戚を訪ねる旅に出たが、祖父母に連れられて上野から青函連絡船を経て親戚の住む苫小牧まで20時間ぐらいかかったように記憶している。まだ青函トンネルは開通していなかった。

それでは札幌公演に陸路海路で挑むとすればどうなったであろうか?余裕を持って開演に間に合わせるならこのルートである

2140上野特急ゆうづる5号]705青森or2221上野特急はくつる]711青森

青函連絡船5便 730青森→1120函館

1140函館特急おおぞら5号釧路行き]1550札幌or1145函館特急おおとり網走行き]1558札幌

急行自由席に乗れる周遊券を利用するなら上野1908→青森617の「八甲田」や函館1150→札幌1630の稚内行き「宗谷」も良い選択肢であろう。

やはり北海道は遠い。時間に余裕のない向きは素直に飛行機を利用すべきであろうが、千歳空港国鉄の駅が接続されるのは2年後の1980年のこと。この時刻表の時点では札幌駅前からバスに乗るのが普通手段であった。

6

そして福島公演はエクストリーム出勤の宝庫であった。終演後の福島駅発上野行きを見てみると、

2350 急行「あづま4号」437

025 急行出羽」502

043 急行「新星」536(寝台あり)

056 急行「いわて4号」542

155 急行津軽2号」605着(寝台あり)

このほかに夏休みシーズンだけに季節列車臨時列車運転されていたと思われるので、かなりの席数が利用可能であったと推察される。

座席車特急はいわゆる「直角椅子であるが、寝台車連結の急行列車では短時間でも横になって移動できる利点がある。これは現代夜行高速バスでも(実際に運行されてはいるが)まだまだ一般的ではない。バス鉄道車両よりも小さくて何両も連ねて運転されるわけもないから、寝台は不可能ではなくても困難が多いのであろう。

7

国鉄監修時刻表を見る限りでは、東名阪バス国鉄ハイウェイバスしか掲載されていない。関西公演からの帰り道は2240大阪駅→815東京駅の「ドリーム2号」か2200京都駅→643東京駅の「ドリーム4号」しか見当たらない。

鉄道ならば京都2237の特急出雲2号」、同015発の「出雲4号」なら700には、大阪2358の特急瀬戸」や同005の特急あさかぜ2号」でも730には東京駅に着けるからエクストリーム出勤勢の強い味方になり得たと思われる。なんなら関西勢と感想を語り合いつつ酌み交わす余裕は十分にある。しかもこれらは当然寝台車であるから、予約さえ取れれば会場内外で充実至福のひと時を過ごしたのちに千鳥足でベッドに潜り込んで目覚めれば東京駅も間近に迫り、どうかすればまだ夢見心地のまま出勤せざるを得ないベストコンディションを通り越した邪悪な何かを感じずにはいられない有様である

なぜ新幹線ではなく在来線を推すのかと問われれば、その当時の東京行き最終「ひかり116号」は新大阪2034発であるからフェスティバルホール(当時は改築前)から終演後直ちに最寄りの四つ橋線肥後橋駅に走ったとしてもけっこうタイトな時刻設定であることが第一に挙げられる。梅田の地下に慣れない関東勢四つ橋線西梅田を出て乗り換えに手間取ると、最終の新幹線は慈悲もなく出発してしまう…それは正直恐ろしい。

エピローグ

筆者は鉄道好きで鈍行やら夜行やら多少は乗ってきた経験ノスタルジーがあるので満更でもない旅行だなとほくそ笑みつつこ文章を書きつけてはいるが、冷静に考えてみれば当時は今よりずっと不便で居住環境は悪かったように思う。なりふり構わぬ男性特に体力に自信のある若者にはなんということはない行程だったと思うが、女性にはあまり優しくない環境だったし、筆者も若い頃は大きな鞄を抱えて夜行連泊するような旅をしてきたけれど今この歳になってふたたび体験するのは懐古趣味差し引いてもためらいが多めに残る。

とはいえ不便で時間のかかる旅を楽しみたい向きが今もなお大勢いるのは承知している。そんな黒鉄の人々に机上タイムトラベル提供できたら幸いかなと。ただそれだけ。

本文に田村ゆかりは出てこずに時刻表を読み解くだけだったが、10月横浜で公演があるのでよければバス飛行機よりも鉄道を乗り継いで参加して紀行文と公演感想文を読ませてくだされば筆者はDouble Fascinationになれる。

それはともかくできる限り多くの客席を埋めて盛況の公演としたいので、関心のある方は下記から申し込みいただければ幸甚に存じます

https://l-tike.com/concert/mevent/?mid=282963

2021-09-09

anond:20210908233821

スペインはそんな感じだったんだ

俺はドイツの南の端っこのほうにいたんだけど

ホテルで朝起きて朝飯食いラウンジ下りてきたら受付の姉ちゃんが「貴方日本人だったよね!日本が大変なことになってるよ!」

とまくし立てられてなんのこっちゃと思いながら指さされたTVをみたらちょうど仙台空港津波が押し寄せてくるところだった

それ以上はどうということもなく、仕事先で会うドイツ人みんなにご愁傷さま的なことを言われたけどとりあえず午前中は家族と連絡をとる時間に充てて午後から普通に仕事してた

その2日後、帰国することになってチューリッヒ空港日本行きの飛行機を待っていたら、スイス緊急援助隊が乗り込むというので定刻から時間遅れになって

それでもありがたいことだなぁと思っていたけど、やつらの機内の態度があまりにも悪くてちょっとウンザリしてたのを覚えている

仙台空港の外観写真を見てふと思う

「似たような建物をどこかで見たような気がする……」

屋根が波打ったような形状の大型建造物、あの屋根名称がわかれば調べることが出来るかもしれないな

2021-04-15

仙台空港仙台ではなく宮城県名取市にある

こういうのって許しててもいいの?

2019-04-08

旅費を安くするには小さな労力を繰り返すことであって裏ワザじゃない

anond:20190326113113

前に旅費の提案してできないといわれてから、何度か話す機会があったけど具体的にはもう言わずに聞いてたら値段設定が何でもちょっとおかしい人だったと気がつきました。パック旅行相場)の金額の半額以下で行きたいらしい。多くは語らず無理かなーといいました。

ブコメ読んでて思ったけど私もカプセルドミトリーはつらい派でしたが、最近カプセルドミトリー都心だと綺麗なところ増えてるからレディースフロア選んだりとか、追加料金払って個室にしたらほぼビジネスホテルだなって思う。

一人部屋だしトイレ風呂の順番を気にしなくていいので、同行者が嫌がらなければ結構良いところでした。一人一室なのも良かった。旅行してるのにって嫌がらない同行者によります

好奇心で日帰り高速バスとか空港泊とか色々試したけど、都会はなんでもあるので宿も交通も決めてなくてもお金さえあればなんでも解決できるなった思う。24時間営業スーパー銭湯なんて駅から徒歩圏内にないですし。高速バス停留所降りて時間潰せるファーストフード店もないよ。

若い時、同性の友達と安いビジネスホテルに泊まったらエレベーターガラス張り、廊下の照明ピンク、部屋のテレビピンクチャンネルっていう元ラブホテルに泊まったことがあって、あれはびっくりした。(普通にじゃらんで予約できたんだよ)

以下は自分が使ってみてよかったことのメモです。

便利だったもの乗り物編)

エンジョイエコカード大阪

 安いのでこれ買って地下鉄で移動してた

 平日800円

 土日600円

ジェットスターナンカイきっぷ

 関空なんば

 機内で購入した、ピーチもあるよね

 乗車のみ820円

 特急券付1130円

南海割引切符

 宿泊したホテルで購入、クレジット使えるのがよかった

 870円くらい

市バス京都バス1日乗車券カード

 600円

京都観光1日乗車券(↑+地下鉄

 900円

 以前使ったときは500円で地下鉄付だと1200円だったのでバスのみ買って

 丁度良い時間バスがなければ地下鉄と合わせて使ってた。

神戸関空ベイシャトル

 約30分で行ける所が良かった。

 片道1850円

 往復3000円

 ポートライナーセット1850円

モノレール山手線内割引切符

 土日祝日のみ500円

仙台まるごとパス2日間

 JR・るーぷる・バス地下鉄・乗り放題

 各観光地店舗で特典や割引あり

 2670円

・ドニチカ(北海道

 地下鉄1日乗り放題

 土日祝日のみ520円

便利だったもの荷物編)

手ぶら観光便(仙台

 仙台空港ホテルホテル仙台空港

 朝預けて夕方までに届けてくれる(預ける時間の〆切あり)

 60サイズ807円

 120サイズ1477円

・往復で宅急便クロネコ佐川

 LCCの追加料金と比較してきめる。

 あらかじめスーツケースなど送りたいときに。

便利だとおもったもの(その他)

無印良品「肩の負担を軽くするPCポケットリュックサック

 バズってたのを見て買った友達がこれで遠征に来てた。

 真似して買ったけどこれで3000円はコスパが良かった。

 三泊お土産でも行けた

・機内持ち込みサイズスーツケース

 7㎏程の荷物を持ち歩くのしんどいので購入

 スーツケースの選び方のポイントとしては、荷物拡張必要か・PCポケット必要か・コロコロの脚の数・伸ばした段階が何センチ

 っていうのも大事だけど「コインロッカーに入るかどうか」も大事

 

おすすめという程でもないけど持ってくといいもの

100均

・休息シートor樹液シート

冷えピタ(夏場)

メイク落とし(コットンにメイク落としを含ませてジップロックでも可)

フェイスマスク

・汗ふきシート

ウェットティッシュ

・紙石けん(手洗い・洗顔洗濯にも使える)

ドラックストア編

マスク(機内やホテル等、乾燥するので)

ホットアイマスク

入浴剤(個室に風呂があれば足湯に)

・胃薬(食べ過ぎ、胃のもたれに)

イブプロフェン(痛み止め)

葛根湯風邪の引き始めに)

絆創膏(爪が欠けた、靴擦れした際に)

↑このあたり、使ったら捨てるので帰りには荷物が減る。

薬とかはよっぽどの田舎に行かない限り買い足せるので1日分でOK

使いたい!と思ったときに無くて我慢する方が悪化すると思うので。

・パックのジュース野菜生活とかおーいお茶とかのサイズのやつ)

 LCCは飲み物出ないので保安検査場通った後に買うといい。

ホテルの選び方

・休むだけ:漫画喫茶スーパー銭湯・長距離高速バスの夜便とか、いずれも体力的にきついので1泊まで。

(合わせて使うと疲れが取れやすいが、いくらか足してビジネスホテルに泊まった方が金銭的にも精神的にもコスパがいい)

・寝るだけ:値段によってはカプセルホテルまで落としてもいい。一応個室になれればいい。

・寛ぐため:ホテルや周辺に長時間いるのでオフシーズンハイクラスにしたい。金額が倍くらい違う。日程を動かせないなら兎に角早めに予約する。)

パック旅行おすすめ利用

・延泊可能ビジネスプラン(往復航空券シティホテル1泊朝食付あたりのプラン

 1泊のみの設定にして他の宿泊日はじゃらんか何かで取る。

 宿にはパックと自分でとったことを説明しておくと同じ部屋のままにしてくれたりする。

あと、これは田舎観光地に住む人間としての発言だけど、遠征バックパッカーみたいな旅をして観光地温泉地にきて値段でビジネスホテル選ぶくらいなら多少高くても一泊二食付きの温泉宿にしておいた方がいいよ。マジで何も無いので夜には閉店しちゃうし。明かりも何もないよ。食事も何もかも困るのから。都会のビジネスホテル食事なしで泊まって食事はその辺で、朝食や不足したものコンビニ・・・とか思ってたことが何もできないよ。

2017-02-22

東北・みやぎ復興マラソン2017

2017年10月1日に、東北・みやぎ復興マラソンが開催されます

http://www.fukko-marathon.jp/

2月22日エントリーが開始され、被災地復興を盛り上げたいという熱意を持ったランナー達が続々とエントリーしているようです。

しかしこれまで、復興名目ランナー善意につけ込み、杜撰運営参加者生命危険晒し大会も残念ながらありました。

宮城県では「第1回いしのまき復興マラソン」が、給水不足運営の不備で悲惨大会になりました。

また参加者から地獄絵図」「死の行軍」とまで言われた「ふじのくに新東名マラソン」も、復興支援名目が冠されていました。

これらの大会惨状は、今でもネットレポートに詳細が残っています

今回の復興マラソンは、上記のような大会と同じ轍を踏まないよう開催されて欲しいと願っていますが、残念ながら現時点でも幾つか問題点が見受けられます

参加費

参加費13000円は、他の地方マラソンより遥かに高額で、大規模な都市型マラソンと同等かそれ以上です。

参加者心理としては、高額な参加費を払うからには必ず素晴らしい大会運営されると期待します。

有名な東京マラソンや、古都を巡る京都マラソンのような特別大会以上の参加費を払うので、それ以上の体験ができると考える参加者も沢山いるでしょう。

復興中だからお金がかかっても仕方がない」というのは開催者側の論理で、参加者全員がそのような認識を持つことはありえません。

また、この参加費設定が次の大会にどう影響を与えるのかも気になるところです。

今回の大会成功裏に終わったとしたら、次回の参加費が減額される事はまずないでしょう。

今回の大会で何らかの不備(人材物資バスの不足など)があった場合は、それらを補うために次回の参加費がさらに高額になる可能性もあります

「(高額だけど)折角だから復興のために一度参加してみよう」と考えているランナーは、果たして次回も参加するのでしょうか。

アクセス

はっきり言って会場までのアクセスは劣悪です。土地勘のない方にはピンと来ないかも知れませんが、会場はかなりの僻地にあります

ですので、大多数の方は車か、電車シャトルバスを乗り継いで行くことになります

車で行く場合は、必ず駐車料金を払わなければなりません。

家族や知り合いの送迎で行く事は禁止されています(知り合いが駐車料金を払っている場合は別ですが)。

周辺を通行する事が出来ないので、車で応援に行くこともできません(駐車料金を払っている場合は別ですが)。

その場合電車シャトルバス参加者が集中することになりますが、果たして十分な数のシャトルバスは用意されるのでしょうか。

余程体力に自信のある猛者でない限り、フルマラソン参加後に長時間バスを待つ事は大変な苦痛です。

もし応援ボランティアの方にもバスを用意したら、相当数が必要になるでしょう。

遠方からお越しの方は、空路を利用するでしょうか。幸運な事に、他のどの駅よりも仙台空港が会場に一番近いようです。

そこから歩いて会場まで行けるので、飛行機が一番便利かもしれません(それでも会場まで数kmあるようですが)。

ちなみに空港接続された鉄道駅は、当然会場に一番近い駅ですが、大会に参加されない一般の方の迷惑になるそうなので、使用禁止になっています

コース

公式サイトコースを紹介する動画がアップされています。それを確認しますと、本当に何もない事がわかります

被災地なので当然ですが、民家すらほとんどない直線道路を延々と走る事になります

記録に拘るエリートランナーにはうってつけのコースかもしれませんが、さらに長時間走る事になる初心者ランナーにはどうでしょうか。

いつまでも同じ景色が続くコースをどこまで楽しめるでしょうか。

前述のアクセス問題から沿道の声援も大して期待できないでしょう。

遮蔽物になりそうな建物も無く、直射日光を容赦無く浴びるかもしれません。

10月初旬は夏の暑さが残っている可能性があります(昨年10月1日の会場周辺(岩沼市)の最高気温は25度でした)。

沿岸を走るので浜風が厳しいかもしれません。コースは平坦かもしれませんが、初心者には厳しいものになるでしょう。

エイド、スタッフボランティアトイレ

厳しい大会になった場合重要なのがエイド、特に給水です。そしてもちろん、それを提供するスタッフボランティアの数、質が問題になりがちです。

前述の大会でも給水の不足が大きな要因となり参加者の不満が爆発しました。

エントリー開始時点では公式HPエイドの詳しい情報はありませんでした。

おそらく参加者の数(参加費の総額?)に応じてエイドの数や量を決定するのでしょう。

主催者としては収益を上げるためにギリギリの量だけ用意したいのでしょうが、給水は大会の成否を握る重要ポイントなので、出来れば手厚く用意してほしいものです。

特に初心者ランナーにはこまめな給水が不可欠です。今大会制限時間比較的緩いことから、初めてフルマラソンに参加してみようという方が沢山いるかもしれません。

その方達が安全にゴールできるような運営が期待されます

また、コースの項目で言及した通り、沿道にはほとんど民家がないです。

沿道に民家が無いという事は、緊急事態トイレを借りることもできないという事です。声援もそれだけ少ないでしょう。善意の私設エイドも期待できません。

十分な人材設備補給が無ければ、悲惨大会になる可能性は大です。

第1回

上記のような問題が多々あっても「第1回の大会から仕方がない」とする風潮があります

「初めての大会から勝手が分からなくて当たり前だ」、「(運営に不備があっても)初めての大会に参加したやつが悪い」と見做される場合があります

それは絶対おかしいです。

これだけ各地でマラソン大会が開催されている昨今、その情報から学び、しっかり準備することは出来るはずです。

準備できないなら、開催できる段階に至っていないということです。

回を重ねるごとに改善されることもあるでしょう。しかし、初回からある程度の水準の大会提供できないならば、大会運営する資格はありません。

さらに今回は、高額な参加費を払います

これがリーズナブルな参加費であれば「初回だから仕方がない」と思うかもしれませんが、高額な参加費を設定したからには言い訳はできません。

初回といえども、「高かろう、悪かろう」では全く話になりません。

最後

このような問題点散見される今大会ですが、「被災地の今を見て欲しい」という志は素晴らしいと思います

この文章の内容が全て杞憂に終わり、参加者にとって安全で快適な大会が開催されることを願ってやみません。

2011-03-31

忘れる前に君に伝えたい2011年3月11日金曜日に起こったこと

君にはどうか、忘れないでいて欲しいんだ。

2011年3月11日金曜日に起こったこと。

そしてその後に起こったことたちについて。

君はちょうど小学校下駄箱にいて、下校する直前だったらしいね。

ママはその時、会社会議室にいたよ。

揺れ始まってまず見たのは、時計だった。君が学校にいる時間なのか確かめたかたから。

だけど運悪くそれはちょうど君が下校するくらいの時間だったね。ママ不安不安で、揺れの恐怖よりも君のことばかり考えていた。

幸いにも君は学校を出る前だったみたいだけど。本当に、君が一人で道路の真ん中で怯えていなくて良かったよ。

揺れは、長かった。

建物はきしみ、壁にかかっていたものが落ち始め、天井プロジェクターは私の頭上で振り子のように揺れていた。

そして最後蛍光灯がジジジと不気味な音を立てて消え、とうとう揺れは収まった。

とにかく、長かったよ。

ママはこりゃ大ごとだなと思ってね。だって電気が消えちゃったんだもの。

ライフラインが断ち切られるなんて、初めての体験だったから。

揺れたこと自体はママはそんなに恐怖じゃ無かったよ。ずっと、見てた。

どんな風にどれくらい揺れるのか。

「いいから机の下にもぐれ」って、隣の先輩に怒られたんだけどね。

でも、見たかったんだ。世界を確かめなくちゃって思った。くっきりとそう考えたことを覚えてる。

目をこじ開けて、全部を、見たかった。

会議室にはその時職場の人全員がいて、誰からともなくみんなが声を出していたよ。

「まだ揺れてるから、動かないで」「上注意だよ。プロジェクターが危ない」「揺れ強いよ。まだまだしっかり」「続いてるよ。まだみんな隠れて」「みんな、大丈夫?怪我してる人はいないよね?」って

あちこちで声が上がっていた。ママは一番下っ端だから、じっと黙っているだけだったけれどね。

良い職場だな、と思ったよ。世の中の人たちはどんな感じであの揺れを耐えたんだろう。

君はお友達と一緒だったんだよね。良かった、一人じゃなくて。

お友達が「バスたい!」って喜んだそうだね。良かったよ、頼もしいお友達を持って。

あんなこと、きっと君が生きている間にはもう二度と起きないと思う。と、信じたい

から、覚えていて欲しいよ。大事な記憶になるはずだから

ママ会社から退社の許可が出て、一番最初会社を飛び出したんだよ。

ママ会社って何百人もの人が働いている工場なんだけど、一等賞だったんだよ。すごいでしょう?

だって、君が心配だったからね。

車に飛び乗って、車のナビでNHKチャンネルを回したんだ。どんな状態なんだろう、と思って。

その時に見たのは、街が海に飲み込まれていく映像だった。ハリウッド映画じゃないよ。生中継だ。

大津波警報って、なんだ?大津波?この映像は?現実なの?一体、どこなの?どこの海で津波が起こってるの?

さっぱり訳が分からなかったよ。だって、信じられるかい?街が海に浸かるなんてことを。

そしてそこは、君も知っている場所なんだよ。

一旦車を家に置き、自転車立ちこぎで猛スピード小学校に着いた。

最初ママも顔見知りの君の友だちに会ったんだけど、その子は顔を真っ赤にして泣いていたよ。当然だね。不安だっただろう。

でも君は不思議と泣いていなかったね。

硬い顔で

「さむさが限界だよ」

とぽつりと言った。ワンワンと泣いたのはママの方だった。

帰り道には冷たい雪が降ってきて、街がどんどん暗くなってきた。

街は不安に包まれていた。

あの時、不安は形になって、色になって、私たちの住む街に降りていていたと思うよ。少なくとも、ママにはそう見えた。

君の手を、痛くなるくらいぎゅうっと何度も握り返したよ。

これは大ごとだ、って。確かめるように何回も考えた。

かに大ごとだったんだよ。

ママテレビも見れず、知らない間に、津波宮城県の全ての沿岸部を根こそぎ持っていってしまった。

岩手も、福島も、青森も、茨城も海に浸かった。

でもママはそれを知る手段がなかったんだよね。

唯一手元にあったのはラジオだけで、でもラジオでは津波がどれだけの陸地を飲み込んだのかは想像できなかった。

君と一緒に何度も行った公園も、なくなったよ。

君と一緒に飛行機を見た空港も、ぐちゃぐちゃになったよ。

君と一緒に行ったことのあるショッピングモールも、水に浸かったそうだよ。

君と一緒に遊んだサイクリングできるあの場所も、なくなったよ。

君と一緒に船に乗ったあの港も、君と一緒に買い物をした市場も、みんな、みんな、波が持っていってしまった。

私がそれを知ることができたのは、それから何日も経って家に電気が来てからだったけど。

本当はね、3月12日土曜日には

君を仙台空港の近くの海のそばにある公園に連れて行くつもりだったんだ。

からもしもあの地震が一日ずれていたら、私たちは死んでいたかもしれないね

だってあの場所に、あん津波が来るなんて全く想像つかないよ。正直、今でも信じられない。

そしてその場所に私たちがいる可能だって大いにある。

そこは確かに、私たちの日常だった。

それが、一瞬でなくなってしまうなんて。

どうやって信じたらいいのだろう。

もう、あそこにはすべり台はないの?って君は訊いたね。

ないよ、ってママは答えた。

もう、あそこには公園作らないの?って君は訊いたね。

どうかな、ってママは答えた。

あの公園お気に入りだったのにって君は言ったね。

ママお気に入りだったんだよ。

でも、誰も悪くないんだ。あの公園がなくなったことも、何もかも、全部。

どうか、君には忘れないでしい

あの日あの時、起こったこと。

そしてこれから起こるであろう全てのこと。

ママたちは津波の影響がなかったから、家を片付けて、ライフラインが復旧すれば

とりあえず身近な日常に帰ることができる予定だった。はずだった。

でもそれを壊したのは、あの原発ニュースだった。

真っ暗な家の中で、唯一の情報源ラジオだった。

掌に収まるほどの小さなラジオが、大事な大事な全ての情報源だったんだ。

いや、新聞もあったか

こうやって考えると皮肉なものだね。

ママは普段からパソコンだの携帯だのって、デジタル漬けになって生きていたのに

結局あんな時に頼ることができたのはアナログだけだったんだものね。

ラジオから貰える情報は限定的だった。音声のみのデータでは、余りにも物足りなかった。

でもNHKアナウンサーは繰り返し、福島原発が良くないということを伝えていた。

最初は、電源が使えなくなって冷却ができない状態に陥ったこと。

次は、核燃料が溶けているかもしれないこと。

そして、爆発したこと。

ママ新聞ラジオしか、知ることができなかった。

情報が圧倒的に不足していた。

から、とにかく怖かった。不安だった。

からないっていうことは、不安ということなんだと、今回とくと思い知ったよ。

情報と知識があれば、何事にもそれほど恐れずにすむことを。

からやっぱり君にはしっかりと勉強することを勧めるよ。

知識は人を強くするから

知らないってことは怖いことなだって、気付いた時には遅いこともたくさんあるだろうから

何が起こっているか、分からないこと。これから先、どうなるか分からないこと。

それらがママをどんどん蝕んでいった。

不安は日を追うごとにどんどん大きくなった。

ラジオから枝野さんの声が流れてくるのが、怖かった。

彼が出てきて話すことといえば、やれ爆発しただの、やれ退避しろだの、やれ念のため家の中にいろだの、

そもそも原発事故ってだけでもとてつもなく恐ろしいことなのに、

その内容たるや、時間が経てば経つほどに悪化して行っている。

ママはね、自分が生きてる間に戦争が起こることって想像したことがなくて、

でもこれは、戦争だと思ったね。

その時はちょうど電気も無くて、買い物するにも屋外に商品をとりあえず並べたものを何時間も並んでちょっと買うしかなくて、

そして津波で被災した地域はそれはまるで焼け野原の様で、

ラジオからは日に日に悪くなる原発の様子を聴かされる。

ママは思ったよ。

これは戦争だ。ここは戦中なんだ、と。

そして、まだそれは続いている。

うちに電気がきて、ママはいつも通りにインターネットを使えるようになって、

スーパーも徐々に開いてきて、でも、

まだ何も解決はしていない。

日本は、混沌不安に覆われたままだ。

もうね、原発の悪いニュースが続いてばかりで

ママはある日泣いてしまったのだよ。

ラジオから二号機の核燃料棒が全て露出して、炉心が溶けたかもしれないってニュースが流れた時に

限界が来て泣いてしまった。

その時は、ママには君を守ることができないかもしれないって、本気でそう思ったんだ。

何があっても、ママは君を守り抜くって思って生きてきていたんだけれど、

うちにはパパって人がいないから、絶対に絶対にママが君をどうやったって守ろうって思っていたのだけれど、

どうも、ママにでもどうすることもできないのかもしれないって

その瞬間、身体の奥底から本気で絶望したんだ。

うちから原発まではたったの80キロほどしか離れていないからね。

原発に重大な何事かがあったら、多分我々も駄目になるだろうからね。チェルノブイリのようなことがあったらね。

すぐには死なないかもしれない。

でも、身体に影響はあるかもしれない。

君は子どもが産めない身体になるかもしれない。

いや、産めないわけじゃないかもしれないけれど

でも宮城県出身からっていう理由で差別されて結婚できなくなるかもしれない。

それ以前に病気になってしまうかもしれない。

病気で死んでしまうかもしれない。

君はたったの7年しか生きていなくてこれから先何十年も生きて幸せになるはずで、

ママ今日まで君に全ての愛情を注いで育ててきて、

でもその全てを原発に奪われるのかもしれない。

2011年3月11日まで、当たり前のようにこの先ずっと生きていくんだと思ってた。

ママ毎日会社に行って、君は学校に行って、

そうしてどんどん君は大きくなって、運動して勉強して、そのうち反抗期になったり恋したりして、

当たり前のように大人になるんだと思ってた。

でもそれは簡単に手に入るものじゃなくなった。

訳の分からないうちに。

福島原発の一連の事故に対して最初に抱いた感情は、絶望だった。悲しみだった。

次に浮かんだのは怒りだった。そして不信感だった。

ラジオ新聞情報のみの電気が無い状態では、自ら調べることはできない。焦燥感が募った。

そして、憎かった。原発が。東電が。政府が。そして、東京の人すら。

君はさ、まだ7歳で

今ここで何が起こっているかなんてことは、到底理解できないと思うんだ。

でもママには君に対して責任がある。

君の未来を守るという、責任があるんだよ。

多分君の未来には、日本未来も含まれているんだろうと思う。ひょっとした外国に永住するかもしれなけどさ。でも故郷は必要だろう?

からママ日本未来について考えなくてはいけないと思ったんだ。

調べたよ。たくさん。原発ことなんて、今まで気にも留めてなかったからね。

放射能放射線の違いすら知らなかったし、同位体って何のことだかもすっかり忘れていたくらいだったけれど、とりあえずいっぱい調べた。

ああ、余談だけど、やっぱり勉強は大事だよ。ママも昔、ちょっとはしたんだよ。化学物理もやった。そのベースがなかったら、ちょっとしんどかったかもしれない。まあそれはいいんだけど。

調べたからって正答を得られるわけじゃないんだよ、勿論。

考えなくてはいけない。どんなに困難でも、逃げるという選択肢はない。自分たちの問題だからね。

どこかで誰かが解決してくれるだろう、ってわけにはいかないんだよ。

から考えなくてはいけないよ。諦めずに、信念を持って、考える必要があるんだ。

でも一つだけ、ママには確かに分かったことがある。

人の命よりも大事なことなんてないんだってこと。

ましてや人の命よりも大事な電力なんてものもないんだってこと。

原発がなくなったら、確かにしんどいことが起こるだろうと思うよ。

とんでもなく不便で、そして貧乏になる。私が貧乏なのはまあ、いいけど、日本という国の全てが貧乏になるだろうね。

不便もどれくらい我慢できるんだろうね。今まで無尽蔵に電気を使ってきたからね。

とてもとても、想像つかないけど、どうにかできないこともないはずだと思うよ。

でも、仕方ないよ。

だって変わり始めはしんどいもんだよ。当たり前だよ。

ママ離婚したての頃はしんどかった。する前は不安だった。でも、どうにかなったよ。どうにか、したんだ。

でもこれは日本という国全ての話だからね。ママ離婚比較するのはおかしいだろうね。

国の全てがしんどくなるって分かってる方向に向かって、舵を切るのが困難だってことも分かる。

勇気がいる。痛みも伴う。そして、犠牲も。変化は怖いものだよ。いつだって、どんなことだって、そうだ。

だけど私たちは、ずっと先のことを見なくちゃいけない。これから先の、未来のことを。

今この瞬間が辛くてもいいんじゃないかな。十年後、二十年後、五十年後、百年後、いやそれよりもっと先でもいい。未来幸せになれるんなら、いいと思うんだ。

でも、原発を使い続けて、明るい未来はやってくるのかな。何百年後かの君の子ども子ども子どもだって、困るんじゃないのかな。

人間はさ、失敗するもんだよね。

でも失敗は成功のもとだよね。君にもいつも教えてるよね。

今回の失敗はさ、繰り返してはいけないことなんだよ。絶対に。

勿論、国だって馬鹿じゃないから、津波対策とかはするだろうよ。

だけど永久に絶対に安全な原発って作れるのかな。

多分、無理だよね。だって人間は失敗するんだもの。いつかは必ず、何かが起きるよね。

ママは何かが起こったときに、誰かが命張ってじゃないと止められない仕組みなんてあっちゃいけないと思うんだよね。

今もどこかの誰かが命掛けで、どうにもなんない原発をなだめようと頑張ってる。

どこかの誰かにそれを押し付けてる。

でもそれが、家族だったら?君だったら?

日本は変わるよ。変わらなくてはいけないんだ。ママにはそれがはっきりと分かったよ。

こんなこと考えたのは生まれて初めてだよ。でも必ずどうにかしなくてはいけない。

強く強く、そう思ってる。ママはなにができるのかな。きっと、何にもできないとは思うよ。

だってママ東北の片隅の工場でチマチマ働いてるだけの人だからね。政治家でも学者でもないからね。

だけど考えることはできる。そんなに賢くはなちゃらんぽらんで頼りないママだけど、君のためなら必死に考えるよ。

どうしたら、日本は良くなるのかってことをね。

2011年3月11日は、日本にとって重大な日になるはずだと思う。

君もママもこの瞬間に立ち会えたこと、そしてその渦中にいたこと、これはとてもとても貴重な経験だと思うよ。

人によっては運が悪かったって思うかもしれない。

でも、違うんだよ。

私たちはね、歴史の変わり目に立ち会えたんだよ。

2011年3月11日に始まった悪夢を、一つも無駄にしてはいけない。

私たちはそれを見てしまった。知ってしまった。

これを二度と繰り返さないために、未来に伝えていかなくてはいけないんだ。

私は君に伝えたいと思うよ。

から、どうか忘れないで

この全てのことを、忘れないで

2011-03-20

すごく不謹慎なことを書く。

ようやく、原発事故収束の兆しが見えてきたのだろうか。ぼくの知り合いで東京から脱出した人も多くいて、感受性が強いというのはたいへんだなぁ、と冷静を装っている。このへんはもはや「誰をどれくらい信じるのか」というイデオロギーにも似た問題であり、ぼく自身としては「さすがに東京で死人が出るほどの事態になれば政府も『逃げろ』って言うでしょ、常識的に考えて」と思っているので、自宅で淡々と週明けの仕事を待っているという状態だ。ガソリンがないので週末の日課になっていた映画レイトショーにも行けない。そもそも上映しているのかどうかも知らないけれど。

ところで、今日は一時的に震災報道が途切れた。

それまで意識していなかったけれど、震災当日にほうほうのていで帰宅してからというもの、ぼくはテレビに釘付けだった。通勤中はラジオTwitterで常に情報を入れていたし、寝室でもUstreamNHKTBSを2窓で開いていつの間にか眠りにつくという有様だったのだが今日、それが途切れたとき、猛烈に不安になった。終わってしまう、と思った。

ぼくは完全に、震災報道中毒になっていた。不安と恐怖を摂取することに慣れてしまい、あまつさえ快楽さえ覚えていたのかもしれない。以前は震度3などという地震がくれば文字通り震え上がっていたぼくだが、毎晩余震に揺すられるうちに「今回は警報が間に合ったな、今回は外れだな」などと緊急速報を値踏みしたりしている。

ネット上にはさまざまな情報が流れている。政府中途半端情報開示に憤る人、独自の論で不安をあおる人、美談に触れて涙する人。そうした人々を追いかけ、共感したり、ひとり嘲笑したりしている。

思えば911ときも3日間くらいテレビに貼り付いたが、あのときはすぐに日常に戻ることができた。言うまでもなく、それは対岸の火事だったからだ。

今回、東京は絶妙な距離感にある。最悪の事態が発生すれば、ぼくの日常が吹き飛ぶかもしれない。幸い今のところ身近な人に具体的な被害が出ていないこともあって、この事態がたまらなくスリリングなのである

仙台空港が飲み込まれていく、あの壮絶な津波映像が、スペクタクルプロローグしかなかったなんて、あのとき誰が思っただろう。

「町は壊滅しています」「死者・行方不明者が1万人を越えることが確実と見られます」なんと魅惑的なセリフなのだろう。

新幹線で数時間土地原発が爆発するなんて、誰が想像しただろう。

そのスリル拍車をかけるのが、計画停電だ。信号機が消え、交差点を徐行するバスタクシーの緊張感たるや、まるっきりスクリーンの中だ。エレベーターが止まって自室の7階まで階段で上がる経験なんて、もう二度とできないかもしれない。うきうきしてしまう。

このまま死んでしまたい。そう、強烈に思う。

今の刺激に慣れてしまえば、あとは倦怠の日々が続くだけだ。聞くところによれば、計画停電は夏すぎまで続くのだという。面倒でたまらない。経済だって下降するだろう。そんななかで、いったいいつまで被害者冥福を祈ったり、知らない土地復興を祈ったりすればいいというのだ。原発処理には数年かかるというじゃないか。2万人も死んだっていうじゃないか。それを忘れることなんて、できるわけないじゃないか

冗談じゃない。もう何も楽しめない。もう何も楽しめない。

2011-03-15

ネットが繋がった

ネットが繋がってたんで情報集めてたけど、なんか今はどーでもいい話ばっかりだ。

しい話も泣ける話も怒れる話も恐れる話も、全ては今この状況を生き抜いて、それからでいいやと思ってるし、まわりの皆もそう思ってる。

ぶしつけだけど、地震発生から今に至るまでの流れを書いていこうと思う、こういうケースもあったよってことで、今後の参考になればいいな。色々ありすぎたんで、出来る限り簡潔に書きたいんけど、よくわからんかったらごめん。仙台在住の会社員場合

■3/11以前

地震発生の4日前くらいから、大小あれど地震が多発していた。地震にもだいぶ慣れてしまって、ちょっと揺れたくらいではなんとも思わなくなっていた。

■3/11

その日も忙しく仕事をしていた。14:46(らしいな)に大地震が発生。最初は「揺れる揺れる」とケタケタ笑っていたが、尋常はない揺れと長さに社長が「逃げろ!」と一喝、書類棚からは中身がぼんぼん飛び出している。あまりの揺れに立つことさえ難しかったので、手すりを使って飛び降りるように階段を降りた。会社ビルの6階にあるので、降りてる途中でビルが潰れて死んでしまうんじゃないか、と思った。ようやくビルを出て、市営バスの広大な駐車場に避難する。同僚たちと「やー恐かったねー揺れたねー」なんて言いながら笑っていた。辺りを見るとビルマンション、止まっていたバスがコンニャクのように揺れていた。新幹線は線路の途中で止まっていたし、SS30(なんか仙台では高い方のビルね)のアンテナがボッキリと折れていた。社長上司に「宮城県沖地震と比べてどっちがヤバい?」と聞くと「今回の方がヤバい」と言っていた。揺れが収まってから会社に戻り、防寒具、貴重品、飴玉やお菓子を運びだした電話も何も繋がらないので、お客さんと連絡が取れるはずもなく、津波が街まで到達するという知らせをパトカーから聞いたので、今日は解散ということに。社長の「明日はいつもお通り出社して片付け方すっとわ、そんじゃみんな気つけてけえってな」という言葉で僕らは散った。その日僕は車で出社していたので、車を停めていたヨドバシカメラの立駐に向かった。停電のために料金所が使えず、無料で出庫することが出来た。しかしながら、道路はかつて見たこともないような大渋滞で、とても車で帰れるような状況ではなかった。自宅の方向が一緒の上司と歩いて帰ることにした発電機が付いた信号以外は全部止まっていたので、輪をかけて渋滞がひどくなっていた。日本革新連合会という右翼街宣車が自慢の拡声器交通整理をしていた、ちょっと泣けた。やっとこさNHK前までたどり着き、街頭テレビをみると、津波漁村をさらう映像、製鉄所が轟々と燃えている映像、とても信じられない禍々しい映像が映っていた。この時はじめて自分たちがどんな状況かわかった。またしばらく歩く。歩行者の列の中、泣き叫ぶ赤ちゃんを抱えたお母さんがいて、周りの人が赤ちゃんに毛布を掛け直してあげたり、フードを深く被せてあげたりしてお母さんを助けてあげていた。仙台泉線という道路をひた歩いた。通りに面している建物は本当に悲惨だった、車屋の窓は割れ落ち、マンションのレンガ風の壁が崩れ落ち、歩道は隆起して歩くのが困難だった。ふと一人のおばあちゃんが、僕らに声をかけてきた。なんでも旦那さんがいる老人ホームに行きたいだが、道に迷ってしまったようなのだ。上司と僕で老人ホームを探して、職員さんに事情を説明しておばあちゃんを保護してもらった。またとぼとぼと道を歩く、その時はだいたい17:00頃で、場所は虹の丘というところを歩いていた。後ろから上司を呼ぶ声がする、上司の息子の同級生が僕らを見つけたので、車で送ってくれるということらしい仙台駅から8kmほど歩いただろうか、膝も腰も股関節ヘロヘロ、昼飯も少なかったから疲労困憊だったから、すごくありがたかった。上司の家に着いて、玄関を開ける。中は酷い有様だった。まず靴箱が倒れていて中に入れない。隙間をくぐり抜けて中に入ると、引越しでもしたのか?と思うほどにタンスはずれて、食器は床に散らばっている。家の中に奥さんがいないことを確かめると、周辺の捜索を開始した。もちろん携帯は使えない、仲の良いご近所さんのところにもいない、車もない。上司は途方にくれていた。避難所にいるのではないかと思って小学校に行っても、まだ小学校避難所としてすら使われていなかった。集まっていた人々は口々に「あんなに会議した予算割いたりしたのに対応が遅すぎるよ、なにやってるの」と不満を漏らしていた。いよいよ不安になって上司宅に戻ると、ご近所さんを見つけた。上司の奥さんや家族と一緒に駐車場の端っこで、車の中でエンジン焚いて非難している、とのことだった。再会した上司と奥さんは、やれ書き置きしろだの、そんな暇ねぇだのと喧嘩をしていた。まぁ生きててよかったじゃん。そこから上司の車で家に送ってもらった。車中で「明日仕事行けるっすかね?」と聞くと、奥さんに「なにいってんの!行けるわけ無いでしょ!」と言われた。続けて「仙台空港だって津波に飲み込まれてんだよ!」と。正直耳を疑ったが、カーナビテレビをみると、本当に仙台空港が飲み込まれていた。愕然としたが、今まず自分が生きることで本当に精一杯だ。この先何を食って、どう生きるか、そればかり考えていた。やっとこさ家につく。時間にして19:00頃だろうか。一寸先はどうなっているかからない最中に送ってくれた上司には頭が下がった。家も家族も無事だった。唯一、警官の兄が帰ってきていなかったが、無理もない。両親はろうそくを灯してラジオを聞きながらソファに横になっている。地震後すぐに片付けをしたらしく、家の中はそんなにぐちゃぐちゃになってはいなかった。この時までは、まだ水道とガスは来ていたが、それから2時間ほどでその2つとも供給は止まった。停電冷蔵庫が使えないので、残っていたアイスを溶ける前に全部食べた、この日の晩飯はこれで終えた。自分の部屋の本棚ギターパソコンモニターが倒れている。この部屋にいたらきっと怪我をしていたことだろう。今後高い本棚を使うことはやめよう、そう思った。当時情報を得る手段がラジオツイッターしかなかった。携帯は電池が切れるし、電気が来てないので、充電のしようもない。車なら充電できるし、テレビも見られるし、エアコンで暖も取れる。そうしてエンジンを焚きながら携帯電話を充電した。他の家でも皆そうしていたようだ、おそらく皆この日に結構な量のガソリン無駄したはずだ。車内でツイッターを使い、連絡が取れる範囲の人とは連絡をとった。十分に充電をしてから、この日はリビングに布団をしいて寝た。

■3/12

7:30ころ、両親たちの支度の音で目覚める。父は出勤で、母は介護施設に預けられる。父の車に便乗して出社することにする。この日は道もさほど混んでおらず、ストレスなく走ることができた。しかしながら道路の状態はひどい、アスファルトが隆起し、ひび割れて飛び出し、橋のつなぎ目は例外なくずれ、その度車を突き上げていた。周りでは緊急車両が忙しく走り回っている。街中の交差点では警官交通整理をしていた。父曰く倉庫しまわれていた新車両パトカーも投入されていたらしい。父が勤める署内も人員が遺体回収に駆りだされ、人は少なかったようだ。つまり、今の宮城県警は非常に手薄だということだ。程なく会社に着いたが同僚は誰もいない。上司に連絡するも「ん、こなくてもよくなったんだわ」とのこと。せっかく来たのに。。。と思いつつ、昨日置き去りにした車を回収する。すでにコンビニ携帯充電所には長蛇の列が出来ている。しかし、いずれのコンビニ開店している様子はなかった。開くかもわからないコンビニの前に、長蛇の列が出来ていた。ご苦労なこった、と思いつつ、家路についた。家に帰ると少し様子が違う。電子機器キーンという音がした電気が復旧したいたのだ。冷蔵庫電子レンジ炊飯器もポットもテレビも使える!そう思ってテレビをつけたが、我が家はケーブル回線を使っているため、テレビを見ることができなかった。まぁ、飯が炊けるだけ全然ましだ、と少し安心し、することもないので昼寝をする。昼寝から起きると両親が帰ってきていた。両親の晩飯は昨日ひねり出しておいた水で米を炊き、だるまストーブで温めた味噌汁を、僕は買い置きしてあったカップ麺を食べた。食後、会社カップ麺を備蓄していたことを思い出し、回収しに行くが施錠されてしまい、カードキーも使える状態になく中にはいることができなかった。そうしてこの日は終わった。

■3/13

この日はだいぶ暖かかった。月曜から出社する。という話になっていたので、社員間で連絡をとりあうという事になったが、やはり連絡が取れなくなる人がいた。取引先がパソコンと僕達ごと東京にさらって仕事をさせようとしている、なんて不穏な話があったので、どういう事なのか聞き出した会社に行くことにした。もちろん誰もいなかったので、近くに住んでいる役員の家に直接行くことにした。程なくして役員がやってきて、「○○さんと〇〇さんの家に行って出社の旨伝えてくる」「じゃあ俺は〇〇さんと〇〇さんとこ行ってくるわ」と打ち合わせをして、それぞれ足で人を探し回った。昨日とは打って変わって道路は大渋滞スーパーコンビニガソリンスタンドには凄まじい行列ができている、どんなに小さな店でも必ず人が並んでいる。幸いバイクで動いていたので渋滞に悩まされることはなく、それぞれの同僚の家を回っていく。家を訪問するたびに「水はあるかいごはんはあるかい?家にまだ水があるから持って行きなさい、お菓子もあげるから」といろんなものをもらった。物乞いするつもりは全くないし、荷物が多いと動きが鈍るので多少困ったが、ありがたくいただくことにした、非常にありがたく、申し訳なく思った。福田町、というところに住む同僚のマンションに行く途中、45号線を走った。テレビでよく見た七ヶ浜の石油コンビナートの煙が見える。下から見上げる黒煙は、テレビで見るよりもずっと巨大だった。結局その福田町に住む同僚は留守にしてあり、申し送りすることはできなくなった。バイクガソリンを使いきり、リザーブも残り僅かのところでぎりぎり帰宅することができた。下手にガソリンを使い切るものではなかった。。。電話回線は徐々に回復しているものの、自宅ではまともに受信できなかった。山一つ高いとなりの団地まで移動すると快調に電波が入ったため、そこの空き地でしばらくツイッターメールなどをして連絡を取り合った。その日の夜、高校の先輩からメールが入った。ガソリンが無いので余っていたら実家まで送ってほしい、ということだった。場所若林の古城、という所だったため、命に関わるかもしれない、と思い迎えに行くことにした。そうして国道4号線沿いにある先輩の住むマンションに到着した津波が近くまで到達したことを伺わせるように、外は磯の臭いをさせていた。マンションはところどころ天井が崩落しており、危険な状態だった。ひとまず先輩を預かり、実家である富谷町まで移送した。帰り道、片田舎にあるガソリンスタンドに目をやると、夜中の11時にもかかわらず2km程の渋滞ができている。みな翌日の開店を待って行列をなしていた。それほどまでに、皆ガソリンに困っているのだ。家に帰って程なくすると、兄が大地震以来はじめて帰ってきた。荷物をとりに戻ったのだという。どうやら兄は南署管内の本部にいるらしく、大変忙しいのだそうだ。「コンビニガソリンスタンドでは暴動、略奪が起きている。通報が無いだけでいろんなところで起こっているから気をつけるように」と言われた。加えて「テレビとかラジオでは荒浜に2~300死体って言ってるけど、そんなもんじゃねーからな、1000は余裕で超えるぞ」とも言われた。報道ネットでは綺麗な部分しか出ず、礼儀しい、とか、皆冷静だ、と言うが、実際はそうでもない。避難所では大人が子供の食料をひったくり灯油やガスボンベから目を話したスキに盗まれた、という話もこの日に多く耳にした風呂に入らぬまま3日目となり、体はベタベタ、髪にワックスも付けてないのに自由自在スタイリングが出来るようになっていた。パンツも変えていなかったので久々にパンツをかえることにした。不潔な状態でも大分慣れたが、さすがに辛い状況ではある。

■3/14

この日は出社日だった。2名を除く社員13名が揃った。それぞれ、家族の安否や地震後どのように過ごしたか、スーパー情報や給水所の情報ライフラインの復旧状況などを話し合っていた。それぞれ親類が漁村に住んでおり、連絡がいまだに取れないなどの不安を抱えながらも、冗談など言い合いって気丈に笑っていた。取引先との連絡も取れ始め、ほとんどの案件震災で中止になったが、スーパー広告だけは違った。3/25折込のチラシを打つとかなんとかで、制作することになったらしい広告なんて打たなくても客が来る今、被災者である僕らがこのチラシを作るのはおかしいだろ、そこに載ってる商品、ホントは俺達が欲しいのに、なんて苦笑いをしながら「ま、仕事仕事から」と言ってスケジュールを組んでいた。忍耐強いのか、ただの奴隷なのかよくわからないけど、この震災を生き抜いて、生活を立て直すには今の仕事を守るしか無いのだと、そう思った。職場の周りは電気水道が通り、そこかしこ炊き出しが行われていた。と言っても、もちろんお金はかかる。皆行列を作っておにぎりを買ったりしていた。上司たまたま仕込み中の店を見つけ、一番乗りで150円カレーを食べることができた。ルーがすごく緩かったけど、とても美味しかった。行列をつくっているとなりの店を尻目にカレーを食べていると指を刺されたり、じっと見られてすごく居心地は悪かった。ここ数日、袋を持って歩いているだけで、じっと見られることが多くなっていた。この地に住む誰もが行列や順番待ちに飽き飽きして、一様に殺気立っているのを感じる、もちろん、これを書いている今も。家に帰って、ダメもとでテレビをつけると、綺麗に映像が映し出された。ケーブル回線が復旧したようだ。あまりの嬉しさに僕は叫んだ。大地震があった日以来、大きな画面でテレビを観ていなかった。鮮明な映像で見る自分の住む街は、目を背けたくなるほど酷い有様だった。友人達遊んだ思い出の浜や、そこに住む人々も、家も、跡形もなかった。自宅から30分もない距離にある街が、ただの更地になっている映像を見て、一瞬息が止まったのを覚えている。繰り返し流れる遺族の叫びと、デリカシーのないインタビュー映像になんだかとても疲れたので、また昼寝をする。目を覚まして、今度はネット回線のチェックをしたネット回線も復活し、とにかく喜んだ。この数日何があったか無我夢中で調べたが、なんとも空っぽ情報で溢れかえっていた。「被災者のために歌を歌います、これしかできないけれど」みたいな話や「このツイートが感動した」とか「被災した人たちも頑張ってるんだ、私も頑張って仕事しなくちゃ」とか「東京のどこそこで買い占めが起きてる」とか、被災地の皆が今のいま命を長らえるための情報ほとんど無かった。人が死んでんだぞ、おそらく死者はこのまま1万を超えるよ。そんな状況で、なんで美談たいな話が出るのか全く意味がわからなかった。似たような話をテレビでも流すようになった。出来れば、そんな感動話みたいなものは震災から立ち直ってからにして欲しい、この震災過去の話ではなくて、現在進行中だ。

■3/15

そして今日も出社だった。取引先との話に決着がつき、必要な人員以外は招集があるまで自宅待機することになった。相変わらずの行列渋滞。未だ風呂にも入れていないしなか、東京では食料やガソリンの買い占めが起こっているという報道がずっと流れていた。おまけに噂の雨ときたもんだ。もし噂なのか真実なのかよくわからない話を信じるとすれば、僕は雨に打たれたのであまり健康上よろしくないことになるのではなかろうか。シャワーを浴びる環境などそうやすやすとはない。今被災地では口伝での怪しい情報に困り果ててる。どうすればより長く生きられるかシビアに考えている。手元にある食料や物資、燃料はひっ迫して、移動することひとつとってもリスクが高い、離れた親戚を引き取りに行けない人もいるし、安否確認さえ取れないでいる人もいる。出来ることなら、物資の補給場所時間、量についても出来る限り詳細に教えてほしいし、より苦しい人たちの所へ、より多くの物資を届けて欲しい原発に関する情報も、政府報道は本当に正しい情報を教えてほしい。この状況で命を長らえるために、正確に判断するための情報がほしい。どうか、どうかひとつ、よろしくお願いします。。。

2011-03-13

京都市民が感じた2011年東北地方太平洋沖地震

はてなという会社が存続し続ける限りはこの匿名ダイアリーの記事も残るはずで、あるいは、はてながつぶれてももしかした匿名ダイアリーログは残り続けるかもしれないから、後世のためにこの二日間、京都に住む普通大学生(若干だめな感じだけど)が何を感じたのかを書こうと思う。原発放射能漏れがほぼないと分かり安心したのもつかの間(犠牲となった方がいたのはショックだったが)、3/12、22時ごろに南三陸町で1万人の安否不明という見出しヤフーJapanニュースのトップに載った今の心境は、はっきり言って最悪だ。


注意:当時の心情をありのままに晒そう(それでも抑えているつもりですが)と思っているため、かなり配慮に欠けた表現うつる言葉かいをしていると思います。もし、このダイアリーを見てくださった方でお気を悪くされた方がいたら本当にごめんなさい。けれども、書き残す必要があると思って書いています。


3/11 15:00

今回の地震において、僕はちょうど図書館の地下に行っており、揺れを感じることがなかった。というより、その場に居合わせ人間5,6人も揺れを感じたそぶりを見せることもなく、僕がこの大地震が起こったことを知るのはこの3時間後、18:00頃だった。


16:00

近くのユニクロヴィンテージクラシックノータックチノを買いに行こうとする。恐らく本田圭佑が履いていたそれは品切れを起こしていたらしく入手することは出来なかった。ちょっと客が少ないし、従業員もそわそわしているかなとは感じたが、気のせいレベルのはずだった。


18:00

サークル棟に入ると、出会った知人に開口一番、地震すごかったねと言われた。「いや、何のことだよ(笑)?」と返したら、普通にどんびかれた。「揺れ感じなかったの?京都もすごかったんだよ。」と返されて、まず、しらねーと思ったし、後、「も」というのが気になった。そして、何やら東北大地震が起きたことを知った(今のところ自分の周りで京都において揺れを感じなかった人間はいない)。けど、東北大地震なんかよくあることだし、ま、今回もその異常耐震・免震っぷりが発揮されるのだろうと思っていた。ただ、死亡者がこの時点で30人を超えていたと聞き、普通東北大地震(通常はその規模に関わらず殆ど犠牲者が出ないので)ではないとは分かった。


19:00

ネットから遮断された状態の僕は、むしろ東北いか耐震大国である布教する宣教師となっていた。部室に来る人間には、東北いかに凄まじい耐震・免震ぷりを発揮するかを力説し、死亡者が3ケタ行ったらとんでもないことだと今となっては糞虫のような推察を披露していた。


20:00

中国人留学生本国の友達から心配されると話してくれて、同じく、東北耐震免震大国っぷりを話していた自分がいた。ベルセルクブリーチを読みながら、やっぱ蝕すげーとか思っていた。そして、帰宅。シャワー浴びて、ご飯を食べて、翌日河原町に行こうと思っていたので、ネットで靴みたり、雑誌とか読んでたら、あっという間に24:00になっていた。


24:00

事態がただ事じゃないことが分かったのは、23:57に、15:23に送信された母から自分の安否を気遣うメールが届いてから。なんで今頃?届くの?と思った。そして、yahooニュース見出し見出し自体は帰ってからちらっとはみたもののあまり衝撃的な見出しはなかったので流していた)を開いてみると、まず仙台空港が水没していた。ちょっと半狂乱になって、いろいろ見ていたらtelegraphに津波が家を飲み、田んぼを飲み、猛烈な勢いで海岸線を超えて陸地を飲み込もうとしている動画があり戦慄した。後は、3:00まで、いろいろな2chのまとめ記事を真剣に見るだけ(3か月くらいテレビ壊れたまま)。これは日本でおこっているのか?と思った。そして、この時点で死亡者の数が4桁を超えることがほぼ確実となっており、未曾有の大災害であることを認識した。知り合いで被災地の近くの人間は特におらず、不義理なことをしていないことも含めて少し安心した


3/12 12:00

朝起きて、yahooニュースを確認したら、実家群馬)の近くでも地震が起きていることが判明し、慌てて母に電話したメールでの返信は前日済み)。どうやら実家の周りでは被害がないらしく、一安心したが、改めて死亡者がこの段階で1000人を超えることが確実な中、今度はこの地震いかにとんでもない規模の災害であるか、耐震・免震大国である東北でこれだけの被害が出ており、津波がどれほど想定外で、規格外であったかを伝えなければならないと思い、部室へ向かった。


13:00

まず、話した全ての人に身の回りの人が無事かどうか聞き(幸い不幸なことは聞かなかった)、ショックを受けていることを伝えた。そして、これがいかにとんでもないことか伝えた。そして、今度は原子力発電所が危ないことを聞かされた。けど、このときもまた、馬鹿を露呈することになり、チェルノブイリたい原子力発電所事故は起こる可能性がかなり低いだろうこと、中越の時のような場合と違い、原子力発電所天災によって問題になることはそうそうあることじゃないことを力説した


16:00

メルトダウンと聞いた時も、ま、そうでもないと思っていた。(図書館にて勉強中)

17:00~22:00

帰宅して直後、原子力発電所が爆発と見て唖然した。これは悪夢しか言いようがないと思った。本が頭に入らない。後は、ぼんやりと事態をyahooニュースとしょぼんあんてなで確認するのみ。そして、犠牲になった従業員の方がいるというニュースを聞き最悪があるのかと脳裏をよぎり、22時手前位で最悪は防げそうと聞き安心したのもつかの間、南三陸町で1万人の安否不明という見出しヤフーJapanニュースのトップに載っていた。


もう何も起こってほしくない。

2010-07-24

http://anond.hatelabo.jp/20100724220146

じゃあ宮城県でほぼ確定だね。

と思ったら岡山県もか。まあどっちも田舎だなw

岡山空港か、仙台空港か。

どちらにせよ財政破綻が懸念されてるにも関わらずそんなことしかできないなら仕方ないか(いや、その程度しかできないからこそ財政再建団体に転落するのかなw)

東北一の経済圏の危機という観点では、宮城県の方が衝撃度は大きいかも。

 
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