はてなキーワード: 行使とは
著作権が申請不要、審査不要、無料で行使できるせいでものすごく得体のしれないものになってて、
問題はここだよな。これがなけりゃ「有名税じゃね?」とか「表現の自由やろ」で済むんだけど。
お前ら非実在女キャラが出てきたときに何て言ってた? ねえ何て言ってた? って話になるわけで。
ほんと腐フェミの韓流アイドル・洋画沼率高すぎてヤバい。あとバチェロレッテ見すぎ。バチェラーやテラスハウスも見てるやつそれなりにいて草しか生えない。リアリティショーとかいう生身の人間を骨の髄までしゃぶり尽くす搾取コンテンツ見ながら架空の女キャラに文句言ってるのマジウケる~って感じ。あいつらの人権感覚マジでどうなってるんだろうな。
あと、男オタってAKBや女性声優のエロ本とかあんまり描かないよなって思ったけど、男オタク文化圏は二次元と三次元が割と離れてるっていうのと(二次元のオタク、だいたい三次元が嫌いなんだよな。2.5次元が男性向けでは低調なのもそれが理由やろ)、そういうやべーことするやつは直接アイドルや声優に加害に行くっていう違いがあるのかね。声優に変態アプローチかまして問題になってるの、たいてい男だしな……
実際低調やんけ。俺の知ってる女オタはたいてい2.5見てるし女向けの雑誌やアニメイトの陳列棚ではむっちゃ2.5の特集組まれてたりするけど、俺の知ってる男オタで2.5見てるやつなんてレアケースだよ。レヴュースタァライトとかアサルトリリィとかの舞台やってるけど、あれが女向けの2.5と同じくらい男の間で流行ってるなんて聞いたことねーぞ。
さすがにそれは不当に厳しすぎる。いい大人が自分の意志で同意している以上それは同意。Yes means Yes. 嫌なら自己決定権を行使して「nmmnは訴えます」と言えばいい話。「本当は嫌だったけど別れ話を持ち出されたら困るからセックスに応じた」は有効な性的同意だろ、常識的に考えて。
昔、2ちゃんの半角文字板とかでは女性アイドルのエロ作品が多かったが、児ポが厳罰化するに伴い消えていった。男オタが三次に興味ないのではなく、2000年代に(未成年)実在女性のポルノが許されない社会に変わったのだ
そういう流れは知らなかったんだけど、なんか理屈がおかしくね? 18歳以上のアイドルの消費は児ポにはあたらないから児ポの厳罰化で廃れる理由がないし、仮に児ポ規制で年齢を問わず実在アイドルファンのポルノが許されない社会に変わったというのなら、なんで男性アイドルのポルノは生き延びてるの? 当たり前だけど、児ポ法が規制している「児童」には男子児童も含むよね……
女性の地位が低い国で女性の表象をおもちゃにするのはけしからん! とか言ってる腐フェミ見たときは草生え散らかしたわ。未だに同性婚すら認められておらず「ホモっぽい」がいじめの理由になるゲイの地位が低すぎる国で男性同性愛をおもちゃにしてる連中がよく言えるよなって。腐フェミには恥の概念が備わってないんじゃないか。
沼の外から見えるのが「問題ないと思ってる人たち」だけなのでは。ただ他人の性的消費という自覚が麻痺するのはやばいよな。タイBLドラマなんかは本人たちのファンサービスも多いらしく、距離感を掴み損ねるのかも
いや、別に韓流アイドルも洋画沼もリアリティショーも好きにすればいいと思うんだけど、男性向けコンテンツの女性描写に文句言ってるフェミがそれにハマってる率高すぎるのを見てると「はぁ?」ってなるって話(もちろんドルオタや洋画好きやリアリティショー視聴者の全員がそういうフェミやポリコレ厨ではないのはわかるし、フェミではない人たちをどうこう言うつもりはないよ)
タイBL、あれ性的消費というよりも性の消費の方がポリコレ的にはヤバいよね。出てる俳優の多くがGかBの当事者だってんならともかく、そうじゃないか、あるいはそのへんを曖昧にして匂わせで釣りに来てるなら、ポリコレ的には“クィア・ベイティング”の誹りは免れない。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47877196
別にポリコレとか興味ないしって言うなら気にする必要どこにもないんだけど、ポリコレに意識高い系腐女子がタイBLにハマってるのは割と見かけるから、見かける度にこいつバカじゃねーのって思ってるわ。
そもそも論として、『ムーラン』の制作陣にアジア人がいない! って中国系アメリカ人の俳優がキレてた流れでいくと、ポリコレ的にはBLの制作陣が女だらけなのはありえない、って話になるんだよなぁ。ポリコレ派腐女子、存在自体が自己矛盾すぎる……
男性の性的消費を批判する声の少なさ、ひとに欲情されることは喜ぶべきことってガチで信じてる男性が多いからかなあと暗澹としていたのですが、これからなのかもしらんね。
ほんと疑問なんだが、こういうこと言うやつって個人主義や自由主義っていう観念が頭の中にないの?
性的に消費されるのが嫌なら、そもそも性的消費の対象であることが自明なアイドルなんかにならなければいいし、アイドルであったとしても耐えられない性的消費があるなら個別に嫌だと言えばいい。本人が明白に嫌だと言っていないのに、わざわざ外野が「そのアイドルの消費は性的消費ですよ!」とか批判しないといけない理由がどこにある?
もっと言えば、性的消費されて喜ぶ男もいれば嫌がる男もいるだろうけど、前者が積極的に性的消費されに行ってるのに後者が文句を言う権利はどこにもない。「男全体」をなんで後者が代弁できると思うのか。「男性の性的消費」なんてものはなく、個別の男への個別の性的消費があるだけだ。そして、架空の男を消費している分には、実在する男としては何も迷惑がかからないんだから放っておけばいいだろう。一緒になって楽しむとかならともかく、わざわざ批判しに行くのは馬鹿のやることだ。
だから、腐女子の人たちが男を性的消費してたり勝手にカップリングしてたりする分には、モデルにした実在人物から抗議が出ない限り彼女らの自由だし、同じ男だからという理由で文句を言う筋合いはなかろうと思うよ。同じ口で「女を性的消費するな」とか「マイノリティの表象を好き勝手するな」とか言われると「ああん? どの口でそれを言うんだ?」ってなるだけ。
以下の記事のごときものは、自分の管理するブログを持っているから、そこで書いて発表すれば良いのだろう。だが、私のブログは人の訪れるものでない。そこでよりは人の目に触れて、多くの人に読んでもらえもするかと想像して、ここに投稿する。
大統領選の投票日以降、いわゆる確実な証拠を挙げよとの要請を口にして、あちこちから報告される選挙での不正に関心を向けることを否定し、さらに不正に目を向けながら、大統領選の帰趨について論評することを控えるべきであるとする人たちがいる。
この眼差しの持ち方と態度を守る人たちの中で、次のような人たちのことは、私は特に気にしない。例えば、バイデン民主党候補を応援している者、トランプ大統領の退場を望んでいる者。これらの者たちがそうあるのは当然のことであろうから。
私が気になるのは、トランプを応援しているし、トランプ大統領の2期目に期待していると口にして、しかし不正への関心を抑制し、それから視線を外して、どちらの候補が大統領になるか、もはや自分たちの論評すべきものでない、と口にする者たちである。
代表として上念司、奥山真司の二人の名前を挙げておこう。とは言え、この二人に限るわけではない。彼らは、他の者たちよりは多少は筋道立てて、先の眼差しと態度をとる理由を説明しているから、私には扱いやすいのである。
ところでお気づきの人もあろう、私は Youtube の虎ノ門ニュース、アメ通 Live をこの一年、大変勉強になると感じて視聴してきた。加えて、上念司チャンネル、文化人放送局、DHC テレビのニュース女子なども、興味深いと視聴を続けてきている。ついでに加えれば、SakuraSoTV とか、古是三春・篠原常一郎チャンネル、さらにはラジオの文化放送局、おはよう寺ちゃんなども、同じ関心に叶うところから視聴している。つまり私は、これらが人々に伝えて、解説する時局、情勢の認識や批評が、現状の政治や社会を、他のところでのものよりよく捉えていると評価しているし、自分の理解を形作る参考にしているのである。
さてそれで、先の二人が自らの態度について言うところは、いくつかの論点から成り立っている。ここで彼らの議論の論点全てを取り上げはしないし、そのまま辿ることもしない。同意できるところをあらかじめ挙げておけば、未確定情報に振り回されないようにすべき、選挙不正の論評にいたずらに促されて米国への評価自体を損なってはならない、などの主張を、私もしかるべきものとひとまずは同意しよう。
だが、総評的にか、つけたりなのか、まるで根本的な姿勢の取り方の如きに、私たちは米国大統領の選挙権があるわけではない、他国の指導者の選択であって自分たちの指導者を選ぶわけではない、かように申し立てるところは、さしあたって尤もなことと感じながらも、何かうまくいなされた気分を覚えてしまう。
さらにまた、不正については、裁判で決することができるのだから、その判断を待つべきである、不正は訴えることができるのである、裁判を起こす権利が彼らにはあるのである、三権分立が云々と教え諭されるところになると、いやどうも不正に目眩して冷静さを見失っていましたと反省させられる。
がしかし、先のいなされた気分の中で、この反省を自らに強いてみると、何かおかしなもの、しかもどこか剣呑さを持ったものが潜んでいる不安に、私は囚われるのである。
それが何かと自らに問うてみるに、例えばこんな風に先の主張を言い直してみよう、すなわち、他国の重要な政治的選択は、他国民の決めることであって、こちらが論うことではない、他国の政治不正については、他国の政治制度か、なんらかの強固な社会的規範が解決するのを、こちらはただその行く末を見ているべきである、まずはこのように言い換えてみよう。
そして、他所の国や社会に存在していると知らされたり、生じつつあると報じられたり、行われる可能性があると訴えられる不正について、私たちは須く他国の政治の解決に待つべきなのである、他国の政治か社会の能力に期待すべきなのである、このように答えて恬然自若としているべきなのであろうか、このように問うてみよう。
この記事の主題であり、私が気にかかるところの、大統領選挙での不正に対する眼差しと態度に沿うならば、この問いに対しては、然りそうあるべきである、と肯定的に答えることになろう。
ここに私の不安は、むくむくと大きな黒い影となって、私の胸を塞いでくる。
なんとなれば、それならば中国でのウイグル人の例の話題や、香港のことも、同じような態度をとって、それらは中国の政治的選択と政治的能力の処置すべきことであって、不正だの不正義だのと感情を昂らせるようなことではない、中国の政治的解決に期待して、その帰趨を見ているべきなのである、このような主張も肯定してしまうことになるからである。
中国は共産党独裁で、人権もないが、アメリカは民主主義国で、権利と法とがあり爾斯く斯くと言っても、なんの反論にもならない。何故なら、不正からは目を逸らして、ことの成り行きを待とうと説く者たちは、その態度から当然引出される主張として、バイデン大統領が就任することになったならば、そうなった米国を見据えて、どう米国と接していくか、どんな外交技術でもって日本の国益を実現させていくか、このことに注視せばならないとも力説しているのである。
ここで再び指摘しよう、それならば中国の例の件についてもまた、中国でどんな推移を経ていくのか、それを見定めて、その上で、どう中国と接するか、どんな外交でもって日本の国益を実現させていくか、その工夫に腐心すれば良い、かように唱えるのが主張するところに忠実な態度であると言わねばならないからである。
我々は米国民ではない、だから米国大統領選について、なんら口を開くことはできない、物を言ったとしても、なんの意味もない、かように言うならば、これと同じくまた、我々は中国人民ではない、中国人民の状況について、なんらの口を開くべきでもなく、他所の国の我々が何かを指摘したとしても、なんの意味もない、このように言うべきことになるからである。
名前を挙げた二人についてみれば、上念司は不正に対する感情を、自らにおいても他者においても、抑制せねばならないと留意するところから、先の態度を唱えているように見受けられる。その抑制の理由も、私かに慮れば、納得できないものでもなく思える。しかしながら、政治への冷静さを得るための距離を取らんとして、政治的無関心・アパシーへと導く主張に近づいているように、私は思うのである。そして私がこれについて恐れるのは、政治的不正への無関心を理屈だてる主張の、その一歩先に、人々の無関心によって批判されることなく、剥き出しの欲望が自由になっている、そんな地平が広がっていると考えているからである。
他方奥山真司については、私の貧しい知識ながら理解する地政学よりして、選挙での不正といったものも、人権侵害といったものも、そうした政治的価値に反することや、あるいは何かしらの理念に悖ることなどは、さしあたって考察の中になく、いやおそらく関心を向けるところですらなく、そんなことはどうであっても、つまり習近平の中国が共産党独裁国家らしいあり方をし続けていくのに対して、またバイデンの米国が民主党主導で営まれていくのに対して、日本国が自ら所持し、かつ国際的に構築できる政治的な力・リアルなパワーを行使して、日本の国益を実現していく道筋を見つけることが、彼の主たる関心であり、もしかしたらそれが全てではないかと思える。
いつ頃までのことであったろうか、昔は、ジャーナリズムというものが言われていて、それを実践するに努めたテレビや新聞の報道では、何かしら政治的不正が行われている国が、ことの重要性に応じて、熱心に取材され、分析され、そして批評されて、テレビ番組や新聞記事となっていたものである。
一つの話題が集中的に報じられるときには、国際世論の喚起という風に目的づけか性格づけがなされたもので、問題ある国に対して、国際社会には厳しい批判や非難が湧き起こっているぞと感じさせて牽制を与えることで、その国の不正が深刻なものとならないように働きかけるのだ、そんな意義づけもなされていたと覚えている。
今から思えば、そうした国際報道も国際規模でメディアを利用しての政治工作、そんなものと感じないでもないが、たとえそうであれ、米国の今回の大統領選挙では、こんな不正、こんな暴力、こんな悪事が行われているのだと、盛んに話題にするならば、外国でそんな風に言われてしまっていることが、よしやごくわずかなものとしても、それなりの牽制になるだろうと、やはり私は思うのである。
元増田が銀行口座に自由にアクセスできないなら、名義預金なだけで曾祖母のものじゃないの?
まあ、曾祖母は元増田にお金をあげるつもりで作ったのかもしれないけれど、現実は法定相続人が相続し、相続税も払うだろうな。
生息与奪の権利を乱用していた親がゲームのルールが変わったこともわからずにまだそれを行使しようとしているだけでしょ。
あとさ、長女だからって兄弟たちに必要以上に負い目を感じることはないんじゃないの?
兄弟たちを生んだ責任は親にあるし、兄弟だって君が思っているほど弱くないよ。
もう一つ思うのは他人のふんどしで相撲を取るなよって思ったかな。
言っていることが全部『フェミニストの主張は正しい』って前提条件ありきでしかない。
その正しさの証明を放棄するなら暴力革命集団でしかないよって指摘を受けているんだよ?
警告してる側? 何様のつもりなんだか。
あなたには一意見を主張する権利はあるけれど、それは他人の意見を押しのけて上から目線でジャッジする権利ではないよ。
まあ、フランス革命や南北戦争のように将来的に正義の革命として認められる未来というのは、可能性としてはあり得ることだとは思うよ?
今はまだラディフェミしか賛同しないような価値観でも、将来的に穏当な形で世の中の理解を得るかもしれないし、勝てば官軍的に社会の価値観を塗り潰すことができるかもしれない。
ただ、そんな"もしも"の未来があることが、現代の暴徒を正当化する理由にはならないよ。
力と力のぶつかり合いの間に線が引かれて落ち着いていく、というのが大事。
この意見はなるほどそうだねと思った。
ただ、現状の経済社会での力関係を見れば、フェミニスト勢力が望む形で線引きがなされる可能性は低いと思う。
あなたは未来の顧客価値がどうなるかは分からないと言うけれど、文句をつけたいだけの人間が顧客価値を持つことはないよ。
影響力を行使し得るとしたら、既に己が顧客価値を持っている状態で「私たちを不快にするなら不買するぞ」って言える場合だけ(それこそATUGIの件みたいな)。
企業にとって大切なのは自分の商品を買ってくれている人、将来的に買ってくれる可能性のある人であって、ターゲティング外の人間の意見なんてどうでも良いんだから。
9価ワクチンの認可、HPVワクチンの子宮頸がんへの効果、HPVワクチンが接種されなかったことで年間4000人の女性が亡くなっていることを示した大阪大の研究。
このような流れの中でHPVワクチン接種推奨をすすめるための活動 みんパピがクラウドファンディングで1500万円集めたことは記憶に新しい。
みんパピには、Twitter上で医療情報を発信している、いわゆる医クラの有名なメンバーが行っている。
(残念なことに、未成年の子どもに選挙権を与え親が行使すべきというトンデモ発言をしてしまった稲葉可奈子さんが代表で、
そこにはHPV、子宮頸がんおよびHPVワクチンに対する正しい知識を伝えることよりも、
現在接種が推進されている小6〜高1女子の接種割合さえ高めさせればよい、というゴールを設定しているようだ。
その一例を挙げよう。彼らは小6〜高1女子の接種を奨めるために、その親にアプローチするという戦略をとっている。
具体的には小児科医の医師による情報発信を強く行っているのだ。
小児科医のアカウントをよくフォローしているのはもちろん子をもつ保護者のアカウントであることから、
その戦略はとても有効であるように思われる。しかし、問題はその母親たちの多くはHPVワクチンを接種していない世代で、子宮頸がんリスクがあるのである。
HPV、子宮頸がんおよびHPVワクチンについての情報を知った母親たちはまず最初に何を思うか?
もちろん「HPVワクチンを接種しなかった自分はどうすべきか?大丈夫なのだろうか?」である。
それに対して、みんパピは彼女たちに正確かつ簡潔な答えを教えない。
なぜなら「いまさら接種しても効果がない」という不都合な事実を伝える役割を自分たちが背負いたくないからだ。
HPVの多くが性交渉によって感染するものであり、そこから10年以上かけて子宮頸がんになるため、
現在結婚していて新たなセックスパートナーをつくる予定がない人にとってはHPVワクチンは不要のものである。
不要というか、もはや効果がないというか。だからこそ小6〜高1女子の接種が公費なわけで。
それをインフルエンザワクチンのように、誰でも接種したら効果があるように伝え、
40代既婚女性が「9価ワクチン打ってきました」(もちろん10万以上かかる)と言っているのに
何の行動も起こさないのは不誠実だと思う。
おそらく遅いタイミングでHPVワクチンを接種した女性がその後(ワクチン以前の感染で)子宮頸がんになったとき、
「HPVワクチン接種したのに子宮頸がんになった!」と喧伝することを考えていないのだろうか…
後出しで、そりゃ30代、40代が接種しても意味ないだろ…などと冷笑しそうであるが、そうであればなぜいまそれを主張しないのか。
またそうやってなんでも攻撃と捉える。男女とも根っこは同じなんだよな
なんでも男であるボクへの攻撃、なんでも女であるアタシへの攻撃
TPO、特にプラットフォームのルールに従っている限りは、フェチタイツ絵を描くのは自由なのである
ただ単に見ない権利を行使すれば良く、フェチ絵を公開しているアカウントにわざわざ何かを言いに行く必要は無い
もちろん、世界中に向けて公開されている発信だからわざわざ言いに行ってもTwitter社のルールに違反しない範囲なら問題ないが
それは自分自身の『ショックで泣いています』『傷つきました』に対してもわざわざ何か言いにくる人を許容しなければならない
でもお互いにそんな無益なことしない方がよくないですか?
○:自分自身のアカウントで単独でフェチ絵の不快感をツイートする、ネットニュースに引用RTもしくは返信でツイートする
○:件の企業に直接コーポレートサイトからメールでユーザーとして不適切に思った点について連絡する
○:件の企業公式アカウントにユーザーとして不適切に思った点を連絡する
△:イラストレーターのアカウントに不適切に思った点を連絡する(無益だけど自分自身がされて嫌では無いならTwitterの利用規約の範囲で)
×:担当者をクビにして欲しい
×:こういうイラストを描く人たちは許されない
今回のラブタイツの件でもそうだけど、女性中心に何かしらに声を上げると決まって「フェミがまた騒いどるww」というようなコメントで溢れかえる
うるせーーーーーー!!!!
『フェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である。』
まず大なり小なりフェミニズム的な考えを持つ人は男女問わずいる
そして批判されるような事柄には、フェミニズムとは別の方向での問題点もあったりする
(ラブタイツの場合、メインターゲット層にマッチしないプロモーション・企画や公式垢の私物化など)
一次ソースにあたらずに「わざわざ俺らのテリトリーに来て暴れとるw」とコメントするのは、ただのアホのやることだと気づけ
あと、いい加減「ブス・おばさん・モテない・オタク憎し」みたいなイメージで誹謗中傷するのをやめろ
男性の研究者や思想運動家が「お前は男だしハゲだし独身の非モテおじさんだから」という理由で批判(ではなく罵倒だが)されるか?
相手の論以外の要素を持ち出してきて暴言を吐くのは、性別関係なく人を侮辱することだと理解しろ
※ただしこれはそういう人がいるのを否定するものではなく、全く知らない相手に対する「どうせ○○だろw」という決めつけをとがめているものである
周囲の人間(家族・親戚・友人・クラスメイト・同僚など)が被害にあっていたり、ニュースで問題になっているのを知った人が批判して何が悪い
身近に殺人犯も被害者もいなかろうが殺人に反対するのは普通なのに、どうして痴漢やレイプの問題になると色々言われにゃならんのだ
※たまに「女性の問題だから男性は引っ込んでろ」という意見があるが、私個人はそれに反対だ
当事者の意見を無視して事を進めたり、現実の問題を見ていないような発言にはうんざりするが
私自身は痴漢やレイプにあったことはないし、男性向けや女性向けのエロは好きで良く見ているし、時たまポカをやらかしてしまうこともある
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日本学術会議が推薦した第 25 期会員候補者 105 名のうち、6名が菅総理によって任命されなかったことについて、
明確な理由説明はなく、説明の要求を斥けることは学問の自由の理念に反すると同時に、民主主義に敵対するものであり、
これに断固として異議を唱えます。
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《説明しないこと》こそが民主主義に反する権力の行使(国民に対する暴力)であり、主権者である国民に説明責任を果たすことが
情報公開の制度は古代ローマの時代イタリアの地で芽生えました。イタリア学会としてこれを看過することはできません。
必ず説明責任が果たされることをイタリア学会の総意として要望致します。
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イタリア学会は「日本におけるイタリア学の発展と普及に寄与することを目的としている。」(イタリア学会会則第 3 条)
イタリア学を通じて学び得た知見を社会活動に適用することは、学会の目的に適う実践的行為と判断し、
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菅首相は「(学術会議の会員は)広い視野を持ち、バランスの取れた行動を行ない、国の予算を投じる機関として国民に
理解されるべき存在であるべき」だと述べた。これをテキスト解釈にかけると「国の税金を使っている以上、国家公務員の
一員として、政権を批判してはならない」という意味になる。ここには 2 つの大きな誤謬が隠されている。
学問は国家に従属する《しもべ》でなければならないという誤った学問観であり、国家からお金をもらっている以上、
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学問は、国家や時の権力を超越した真理の探求であり、人類に資するものである。与党に資するものだけを学問研究と
みなすことは大きな誤りである。学問研究によって得られる利益は人類全体に寄与するものでなければならず、
判りやすい例を挙げれば、日本は西洋から数学や物理・化学を始め、あらゆる分野で多大な恩恵を無償で受けた。
万有引力定数や相対性理論を発見したのは日本人ではない。その恩恵と利益を受けながら、その使用料は払っていない。
なぜなら学問成果は全人類の共通善として無償で開放されているからである。
日本国には受けた恩恵を人類に返すべき義務があることは言うまでもない。
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国からお金をもらっている以上、政権批判をしてはならない」というのは手前勝手な考え方である。
公務員は政権の《しもべ》ではないからである。公務員は国民全員の利益のために働く。
政権が間違った判断をすれば、それを国民のために批判することは、むしろ公務員の義務である。
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古代の中国では臣下が君主に行ないを改めるよう諫言することは褒むべき行為とされた。
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翻ってイタリアの地、古代ローマの時代には、時の政権の勝手な振る舞いから国民を守るための公的機関である
護民官が設置されていた。現代の公務員に匹敵する護民官は、時の権力を批判・牽制するために作られた
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次に、菅首相は憲法 23 条が保障している「学問の自由」の意味を理解していない。「学問の自由の保障とは、
学者が学問的良心に従って行なった言動の評価は、まずは学者どうしの討論に委ね、最終的には歴史の判断に委ねるべきであり、
間違っても《時の権力者》が介入すべきではない、ということである。」(小林節慶應義塾大学法学部名誉教授)
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1632 年ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を完成させた時、ローマ教会は検閲を行ない、教皇ウルバーヌス 8 世と
ガリレオはローマの異端審問所で証言するよう出廷を命じられ、翌年、6 ヶ月にわたる裁判を受けさせられた。
ガリレオは自分の誤りを認めさせられ、異端審問官の前で研究を放棄するよう宣誓させられた。
そしてフィレンツェ近郊で残りの 9 年の生涯を軟禁状態で過ごすことになる。
教会の決定に疑義を挟むことなどあってはならず、時の権力に反する主張は時の権力の判断によって封殺された。
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「今回、菅首相は、特定の学者の言動について《広い視野を持っているか》《バランスの取れた行動であるか》
について自分の権限で判断した」と告白し、その結果、《国の予算を投じる機関(の構成員)として国民に理解され
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問題は、仮に菅氏が高い実績のある学者であったとしても、同時に、《首相》という権力者の地位にある間は、
そのような判断を下す《資格》が憲法により禁じられているという自覚がないことなのである。
にもかかわらず、高い実績の学者たちが全国から会議に集まるために 1 人につき月 2 万円余の交通費を用意する程度の
ことを逆手にとって学術会議に介入しようとするとは、《選挙に勝った者には何でも従え》という、政治権力者の思い上がり以外の
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私たちが最も問題とするのは、《説明がない》ことである。憲法 63 条は「答弁または説明のため出席を求められた時は、
国会に出席しなければならない」と義務付けている。この趣旨について政府は「首相らには答弁し、説明する義務がある」(1975 年の内閣法制局長官)
と見解を示している。
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しかし、菅首相は官房長官時代から記者会見で「指摘はまったくあたらない」と木で鼻を括った答弁を繰り返して憲法を無視してきた。
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世界で初めて情報公開制度を始めたのはイタリアである。「執政官に就任して(前 59 年)、まずカエサルが決めたことは、
元老院議事録と国民日報を編集し、公開する制度であった。」(スエートーニウス『ローマ皇帝伝』第1 巻「カエサル」20)
それまで国民は元老院でどんな議論を、誰がしているか知る術もなかった。
議員が私利私欲で談合を行なっても、知る由もなかったが、議事録が速記され、清書されて、国民に公開されるようになったおかげで、
貴族の権力は大いに削がれた。隠れての不正ができなくなったからである。
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一方、その時代から 2000 年以上経った今の日本では、安倍政権下で情報は秘匿され、文書は改竄・捏造、削除され続けてきた。
確かに、日本では民草に説明をするなどという伝統も習慣もなかった。江戸城で開かれる老中会義の内容が知らされることもなければ、
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おそらく安倍・菅首相が目指す世界はこうした江戸時代のものなのであろう。人事で恫喝して従わせる手法は、一種の《暴力》とみなされる。
紀元前 5 世紀のアイスキュロスの作品『縛られたプロメーテウス』には権力の何たるかが活写されている。
この劇は二人の登場人物がプロメーテウスを連行する場面から始まる。
プロメーテウスは絶対君主であるゼウスの意向に逆らって、天上の火を盗み、人類に与えたために、
暴君ゼウスから罰を受けて、スキュティアーの岩壁に磔にされる。
この時、彼を連行する 2 人の登場人物の名前に作者の意図が巧みに織り込まれている。
二人は Kra/toj(クラトス)と Bi/a(ビアー)という名だが、ビアーの方は劇中で一言も言葉を発しない。
ギリシャ語でクラトスは「権力」を、ビアーは「暴力」を意味する。無言の暴力を用いて他者を従わせるのが権力であるという寓意である。
ギリシャ語のビアーやイタリア語の violenzaは単に武力による物理的な暴力だけではなく、圧力や強制を意味する。
ビアーのように《説明しない》ことが権力(クラトス)なのである。
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同じく、カフカの『審判』では主人公ヨーゼフ・K は、ある日見知らぬ 2 人の男の訪問を受け、何の理由も告げられず、逮捕される
(この 2 人の男はまさに「クラトス」と「ビアー」を暗示している)。
その後、何の説明もなしに、有罪とされ、「犬のように」処刑される。この小説でも《説明しない》ことが権力であるとして描かれているが、
ソルジェニーツィンの『収容所群島』にはまさに何の《説明もなしに》逮捕され、強制収容所に連行される日常が記録されている。
逮捕するのは決まって深夜である。深夜に訪れることで逮捕者を恐怖させる効果を狙ってのことだが、
また同時に、近隣住民が翌朝、隣人が忽然といなくなったことを知って恐懼するよう仕向けるためでもある。
これが不安をかき立て、恐怖を蔓延させる。いつ自分が逮捕されるか人々は戦々恐々とし怯えるようになる。これによって国民は心理的に権力によって完全に支配される。
つまり、《説明しない》ことこそが権力の行使であり、国民を無力化させる手法なのである。こうして国民は恐怖と不安から権力に従うようになる。
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こうした事例からも民主主義がいかに「説明すること」にかかっているかが判る。
説明と情報公開が民主主義を支える命であり、それを破壊する手段は《説明しないこと》、《情報を秘匿する》ことなのである。
たかが 6 人が任命されなかっただけで、ガリレオを持ち出すのは大げさであり、学者はそうした政治的な喧噪から離れて研究をしていれば、好いではないかと思う人がいるかもしれない。
ましてや一部の学者の話であり、自分たちには何の関係もないと思っているかも知れない。
しかし、問題の本質は、時の権力が「何が正しく、何が間違っているかを決めている」点において、ガリレオ裁判と変わりない。
科学分野の基礎研究の予算は削られ続ける一方で、軍事研究には潤沢な傾斜配分がなされる今の日本にあって、
また軍事研究に手を染めない学術会議の方針を苦々しく思う自民党政権においては、杞憂で終わらないことを心得ておく必要がある。
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実際、すでに文科省は今月17日に行われる中曽根元首相の内閣・自民党合同葬義において弔旗を掲揚し、葬儀中に黙禱するよう、
国立大学や都道府県教育委員会、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などに通知を送っている。
国民全体の奉仕者である公務員を、自民党のための奉仕者に変えようとする暴挙は許されない。
かつて次のように臍をかんだマルティン・ニーメラーの轍を踏まないためである。
(文責:藤谷道夫)
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ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
私は声を上げなかった。
ユダヤ人が連れ去られた時、
私は声を上げなかった。
そして彼らが私を攻撃した時、
私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった。
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通常の娯楽に加えて、(古代)ローマ人の労苦に満ちた厳しい生活を陽気なものにしてくれるものに、
凱旋式があった。
(中略)民衆は大喜びで拍手喝采していた。だが、部下の兵士たちから将軍に向けて罵詈雑言を浴びせる習わしがあった。
将軍の弱みや欠点、愚行の数々を公衆の面前であげつらうのである。将軍が高慢にものぼせ上って、
自分を無誤謬の神(絶対に正しい偉い人間)だと思い込んだりしないようにするためである。
例えば、カエサルには、部下たちがこう叫び立てていた。「禿げ頭の大将よ、他人の奥さんたちを物色してんじゃねぇぞ!
あんたは商売女(淫売女たちで)で我慢してりゃいいんだ!」1現代の独裁者たちに対しても同じように言うことが
できたならば、きっと民主主義にとって怖いものは何もなくなるだろう。
(Indro Montanelli, Storia di Roma, Rizzoli, Milano, 1969, pp. 141-142)
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「犬儒派(キュニコス派)のディオゲネース(前 400/4 頃-325/3 頃)は、
《何でも言えることだ(言論の自由 parrhsi/a パッレーシア)》と答えた。」
勤務先の社長と取引銀行が協議した結果、会社が倒産して従業員全員が路頭に迷うのはまずいだろうということになり、大幅に事業規模を縮小することになった
まず新会社を設立し、そこへ土地や建物などの資産と黒字が見込める一部の事業、一部の従業員だけを移管
そして新会社には今後10年間で返済出来るであろうと思われるだけの銀行借入を背負ってもらう
旧会社は残った借金だけを抱えたからっぽの箱になるので銀行が債権放棄したうえで清算というスキームである
新会社の事業は今の事業規模と比較すると10分の1程度であり、余剰不動産の賃貸収入等が新たな柱となるので、あまり人員は必要ない
というわけで下請会社などは全て契約を切られ、私たち正社員も新会社へ移ることが出来るのは1割にも満たなかった
そうなると再就職が困難な高齢者や住宅ローンと家族を抱えた人たちがどうしても優先となってしまう
この新型コロナ下では再就職先の斡旋もほとんどなく、その僅かな紹介先も家族持ちの人たちが優先され、私は無事に無職となってしまった
今から思い返せば、5年ほど前から当社の業績は少しづつ少しづつ傾きつつあった
業種柄大儲けすることもなければそこまで損をすることもない堅実な仕事をしていた
風向きが変わったのは取引銀行から通貨オプションの取引を提案され、導入したあたりからであったと思う
業務で使用する原材料のうち、どうしても海外から輸入しないといけないものがあり、当社の材料費コストは為替に左右されていた
当時120円を超える円安が続き、輸入コスト上昇に悩んでいたところ、銀行から「オプション契約すれば為替を115円程度で固定できますよ」と提案があった
契約期間は7年間であり今思えばもの凄くハイリスクな取引であったわけだが、銀行からの説明を受けた社長はすぐに契約を締結してしまった
その後、暫くして為替相場は110円を割り込む程度の円高水準で安定推移した
通常なら1ドル=110円で交換出来るのに、契約に縛られている当社は1ドル=115円での交換を余儀なくされ、毎年かなりの額の為替差損が発生した
社長は銀行に対して解約の相談も行ったが、「今解約すると多額の違約金が発生する、しばらく様子を見て欲しい 運転資金が必要なら検討する」と丸め込まれてしまった
結局為替レートは円安に戻ることもなく、そして今般の新型コロナの影響で当社は完全にトドメを刺されてしまった
本来なら破産するべきところを、新会社を設立したうえでの債権放棄を銀行が呑んでくれたのは、通貨オプション取引の負い目があったからなのだろう
最終出社日、給料1ヶ月分にも満たない一時金を退職金代わりに受け取った私は同僚たちと久しぶりに飲むこととなり、街へ繰り出した
新型コロナでずっと自粛が続いていたが、今日くらいは酔わないとやっていられない そんな思いでみんないつもよりもハイピッチで酒を呑み続けた
「明日からは無職だ 時間を気にせず呑もう」と言ってはいたが、一人抜け二人抜け、最終的に私以外は終電で帰ることとなった
一人残された私は、コンビニで酒とつまみを買い駅前の適当なビジネスホテルへ入った 幸いなことに、コロナの影響で空室はいくらでもあった
部屋で横になりながら、私は折角の機会だし久しぶりにデリヘルでも呼んでみるかという気になっていた
会社から貰った一時金はまだ残っている 十数年勤めた結果がこれかと思うと気晴らしに使いきってしまっても問題ないだろう、そんな気分になっていた
スマホで適当なデリヘルを見つけ今からすぐ呼べる女の子を頼んだ
待つこと30分ほど、予想よりも若くてかわいい子がやってきたので私は酷く緊張してしまった
やるべきことを済ませたあと、私は酒を呑みながら勤務先が潰れてしまったこと、明日から何もやることがない無職であることなどを話した
初対面のおっさんにこんな重たい話をされたにも関わらず、女の子は「大丈夫だよ、とりあえず元気出しなよ ちんちんは凄く元気だったよ」と励ましてくれた
恐らく私よりも10歳以上若くてかわいい子から優しい声をかけられ、私は思わず泣きそうになってしまった
彼女を見送ったあと、私はナイナイの岡村さんの発言を思い出していた
景気が悪くなれば、風俗嬢のレベルが上がり価格が下がる 世間からは酷く叩かれた発言だった
「円高デリ安というのも意外と悪くないな」
「オプションなんだから権利行使しなければいいだけ、損失はオプション料だけだろ」という指摘があったので補足説明しておきます
取引先と銀行の契約内容が「ドルコールオプションの買い」だけなのであればその通りなのですが、実際の内容はそうではありません
銀行が扱う通貨オプションは「ドルコールオプションの買い」と「ドルプットオプションの売り」をセットにしたものとなっています
こうすることで支払オプション料と受取オプション料が相殺され、顧客側は初期費用がかかりません 所謂「ゼロコストオプション」です
ブコメで指摘されている通り、「ドルコールオプションの買い」の最大損失額はオプション料の部分だけです
一方で「ドルプットオプションの売り」の最大損失額は青天井なので、為替相場が反対方向に動くと損失額はとてつもない額となります
ちなみに先ほど「相殺」と書きましたが、実際には相殺はされていません
「ドルコールオプションの買い」で顧客が支払うべきオプション料が仮に500万円だとすると、「ドルプットオプションの売り」で
「あれ?相殺されてないじゃん 差額の1000万円はどこにくの?」
このスキームの素晴らしいところは、顧客に手数料の発生を認識させないまま1000万円単位のフィーを抜き取れるところでしょう