はてなキーワード: 行使とは
絵や漫画、あるいは小説を作る創作者(プロ・アマ問わず)がインターネットで政治的発言をする光景を、私はこれまで何度も見てきた。
そしてそれに対する「よくぞ言ってくれた!」「ガッカリしました……」などの反応も。
結論から言うと、私は創作者にも政治的発言をする権利があると思っている。
人間なら誰にでも政治的発言をする権利があって、創作者だって一人の人間だからだ。
これは極度に単純化した例え話なのだが、もしも創作者Aが右寄りの発言をすれば、左寄りのユーザー(あるいはファン)は反発してAから離れていく。
逆にAが左寄りの発言をすれば、右寄りのユーザーはAから離れていく。
Aが政治的発言をしなければ、左寄りのユーザーも右寄りのユーザーもそのままだ。
実は私も創作者なのだが、Twitterでは常に後者の立場を取っている。
自分の考えを持っていないのではなく、Twitter内で政治的なアレコレに巻き込まれたくないからであり、そして自分の作品を楽しんでくれるユーザーを減らしたくないからだ。
どうしても政治的な発言をしたくなったら裏垢で呟くか他の場所で言うようにしている。
創作者は政治的発言をする自由(権利)があるし、しない自由もある。
そしてユーザー側は政治的発言をする創作者から離れる自由があるし、離れない自由もある。
Twitterでは「政治的発言をしたくらいでファンをやめるなんておかしい」論をよく目にするが、これはユーザー側の「離れる自由」を否定していると私は思う。
政治的発言をしない創作者が良い(好き)、という考えのユーザーがいたっていいはずだ。
繰り返すが、創作者にも政治的発言をする権利があるというのが私の結論だ。
バスボムは"風呂(バス)を爆弾(ボム)に変える"能力者。どの家にも備わっており、それなりの大きさをもつ風呂を起爆できる能力は凶悪で、不定期に街を爆撃しては日本を恐怖の底に叩き落とす。
スニーカーソックスは"スニーカーを靴下(ソックス)に変える"能力の持ち主。スニーカーを履いた人間は靴を奪われ、靴下だけで走らざるを得なくなる。機動力を下げるという点で地味に有効だが、スニーカー以外の靴には効果がない。
ウォーターメロンが持つのは、"水(ウォーター)をメロンに変える"力。コップ一杯の水から硬く重いメロンを生み出せるこの力は、特に雨天時に猛威を振るう。
ペーパーナイフはケチなテロリストで、"紙(ペーパー)をナイフに変える"能力で飛行機を襲った。
ハンドガンは"手(ハンド)を銃(ガン)"に変える能力。不可逆変化だし、身体の一部になるわけではないというところがポイントで、実質的に瞬間的に手をちぎり取る能力として機能するのが恐ろしいところ。
サングラスは"太陽(サン)を眼鏡(グラス)に変える"という破滅的な力をもつ。一度でも行使されれば地球人類の滅亡は避けられないと目され、一度も力を使ったことがない身でありながら政府の厳重な保護を受けている。
マナー講師ってば、上司の権威づけをしやすいに行使されてるだけでは。
上司が直接、こうして欲しい、ああして欲しいを外部に委託して、扱いやすいように部下を縛っているんだろうな。
古代エジプトの王様=神官だったのも、「神のお告げだ」と話して民をコントロールしていたことと、なんら変わりなく。
そういうもののですかね。
日本学術会議の件がはてブでも話題だけどよく分かってなくて教えてほしいんだけど、
任命権は首相にあるんだよね?でもそれは形骸化して出されたリストをそのまま通すってのが慣例になってるってこ?
んでそれが一部拒否されて、その理由が説明すらされないのが問題視されてるってことでいいのかな?
首相ってのは一応信任を得た国民の代表で、その人が任命権を行使して日本学術会議の活動やメンバーには政府予算が支出されるんだよね?
それに対して推薦されてる学者とかは推薦理由とかその正当性ってのは開示されてるのかな?
それがされてないのであればそれはそれで問題じゃない?
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
政権批判/擁護をすごい熱量でやってる人たち、あれは義憤に駆られるなりして苦しみつつやってんだろうか
それとも一種の趣味として、楽しみとか達成感を求めてやってんだろうか
俺はノンポリってこともなく、自民党政権のことはわりと嫌いだし、嫌がらせの意味で選挙では共産党に入れるようにしてるけど、それ以上の何かをやろうって気にはならない
参政権さえ行使すれば俺にできることはおしまい、余暇の時間はTwitterとかはてブ見たりゲームしたりしよっ♪と思ってると、バンバン政治の話が出てきて面食らう
そんでまあそういうバチバチやってるのを見るのは結構楽しかったりするんだよなあ
自分でなにか書こうって気にはならないけど、右と左に分かれて戦ってる人らには結構感謝してる 面白いので…
でも彼ら自身はどうなんだろうなとも思うんだよな
彼らは全然楽しんでないのかな 自分の時間を削って趣味でもない論争に首を突っ込んでくれてるんだろうか
だとするとちょっとかわいそうな気もする
俺は正義感が弱くてよかったな
少女革命ウテナにでてくる鳳暁生は地位と金がそれなりにありルックスは良いし表面上の人あたりもいいし、ちゃんと過去に王子様して色んな人を助けてたあたりマシな気もする。挙動が微妙におもしろいし。
でも内面が歪みまくりなうえにやらかしたことを考えるとやっぱこいつ悲惨だけど最低だわ。
とか思いながら、男はつらい女はいいよな、などと言葉で女を殴る人間について鳳暁生とからめて語ってる文章ないのかなと思ったらあった。
彼は男で、だから「お姫様」にはなり得ず、望まれるのは「王子様」でしかなかった。力を持っていて、とびきり魅力的で、白馬に乗って颯爽と現れ誰かを助けてくれる、そんな「王子様」であることを、当然のように周囲から求められていること。
彼がかけられていたのは、「王子様」ではないにもかかわらず「王子様」の役割から決して降りることができないという呪いであった。
だから彼は、どう考えても加害者でありながら、自分がいちばんの「被害者」なのだと思い込んでしまうのである。
どこまでいっても「かわいそう」にならないから。どこまでいっても「王子様」でしかなくて、許されてしまって、力を行使できてしまうから。どこまでいっても「かわいそう」にはなれない自分が、逆説的にいちばん「かわいそう」なのだと思ってしまうから。
鳳暁生は、その小さな世界に取り残される。「居心地の良い棺の中で、いつまでも王子様ごっこをしていてください」、そう言い残す少女の背中を見るばかり
置き換わらない部分もあるだろうけど、「王子様」を「男」なりに置き換えたら…?
その著名人は少しの批判も許さなかった。こんなバカがいるぞと吊るし上げたとたん「著名人に擦り寄りたい怪しげなプロフィール」のアカウントを中心とした信者フォロワーが批判者の人格攻撃まで繰り広げた。著名人は正面からは反論せずとも、信者が忖度して批判を潰してくれるから便利だろう。自らの影響力も十分に行使できるし愉快なのかもしれないが、傍から見るととても醜悪な風景だ。権力者ゆえ普段から〜先生などとチヤホヤされている程、許せないのだろう。その著名人はよく愛や正義について説教するが、少しばかり楯突く者にも容赦なく吊るし上げる振舞いに、相手への愛や正義はあるだろうか。著名人にとっての愛や正義は、多くの男性がそうであるように、きっと子どもや若い女性に対してだけ向けられるものなのだろう。
で、日本に侵略する国なんて ロシアですら あるのか?何処の国? 国名おしえて?
日本に加害を加えるから 自衛をしなければいけなかった 国の名前を 国会で言って
度の国が日本にとって危険だから 自衛のために 軍隊を派遣したのですか? 過去のこと?
じゃぁ、原爆をいつまでもアメリカに言うなよ お前だお前って言われちゃう
どうせ、被害者がみんなしねば 忘れる
だが、死んだ人は蘇らない あるいみ オナニーなのかな 追悼も おまえだって 原爆後遺症なの?
なんで、お花を備えられるの? 嫌がる人もいるよね
侵略戦争をして、原爆を落とされた国の 元首に 花を欲しくない お前が原因だ
みたいな
ちがうかなぁ わからない
お前がおこした戦争だ 正義はあるのかもしれない だが 責任もある
なぜ あなたは 花を 備えられるの? 政治的な人気取りでは やってはいけないよね? 殺した加害者は
殺された人に 謝ることは 許されない
どうして お花を備えられるの? いや、他の人が だから、あなたが今は元首 あなたの責任
命を奪った人が 花を供えるってどういうこと? 俺じゃない加害者はとでも いいたいの?
といわれたときに
なんと答えればいいの?
仕方がなかったって 殺された人には言えないよね 弁明は聞いてない そりゃいいたいだろう
そうじゃない
戦争責任のとり方は 謝罪じゃない 追悼する権利がないのではないか?加害者には
こんなもの 殺された本人が 殺した人を 許せるはずがない
だから
許されようとしてはいけない
どうして、お花を備えられるのか? 政治利用の 追加加害じゃないのか?
花を供える殺人を行った責任がある側が、被害者の追悼という政治ショーは
あるいみセカンドレ○○ ではないのか?
なぜこれはセカンドレ○○ ではないのか?
難しいと僕は思った
頭がおかしいと みんないう
そうかなぁ?
殺した人に追悼を 生き残った人のオナニーではないのか? なんで、そんな自己満足ができるんだろう
じゃぁ、復活させてやれよ 魔法で
僕らの人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、僕らの祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。僕らは遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
僕らの中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。僕らはその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。僕らは、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。
人のルーツを辿る時、その歴史上最も古い霊長は(今のところ)七百万年前のサヘラントロプス・チャデンシスである。我々ホモ・サピエンスが分化したのは今から二~三十万年前とされており、我々はアフリカから世界の各地へと足を伸ばし、文明を伝えてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。
ここで言うところの「暴力」とは戦争や軍事力を媒介にした暴力の行使を指しているわけではない。
ごく身近に、あるいは、我々の中に存在している。
それは自明のことと言って差し支えなかろう。暴力が無ければ人間は生きて来れなかったからである。
例えば、鋭い牙と爪、そして圧倒的な膂力を持つ獣に襲われた時に、我々に最も必要なものとは暴力である。
例えば、そんな事態においては武器が必要になり、そして、獣を殺す為の殺意もまた必要になる。そこには、暴力を振るうための道具と、暴力を振るうための膂力と、暴力を振るうための意志が必要になる。
無論、我々に暴力を振るう可能性があったのは獣だけに限らない。例えば、同族である人間が暴力を振るってくることも大いにあったであろう。そのような人間に対して、暴力を振るわなければならない場面もあったであろう。
更には、そのような暴力が防衛や自衛のみを目的としていたと仮定することは恐らく不可能であろう。そこに積極的な暴力の行使の可能性があったことを、認めなければならない。
繰り返すように我々がホモサピエンスとして遺伝子を繋いできたのは今から三十万年程前からのこととなるのだけれど、例えば、我々の遺伝子のレースが百万年前に始まったと仮定して、そして、我々の世代の継承が十五年毎に行われていたと仮定する時、我々にはこれまで六万から七万の世代が存在したということになる。仮に、たった百万年前から我々にとっての遺伝子のレースが始まったと仮定してさえ、そこには膨大な数の関係者が存在することとなる。とにかく、我々は遺伝子のキャリアとして長い時間を旅してきた。
その膨大な関係者は、恐らく長い間暴力と共に遺伝子の旅を送ってきた。
そんな時、我々の振るってきたであろう暴力は――あるいは、我々が振るわれてきたであろう暴力は――どんな種類の暴力であろうか。
まず挙げられるのは、殺人。
強盗。
強姦。
傷害。
恐喝。
その他に何があるだろう? すぐには思いつけない。
何らかの種類の搾取があったかもしれない。詐取が存在していたかもしれない。
我々の祖先はそれを不断に行ってきただろう。恐らくそれを止めることはできなかったであろう。
それを止めることによって、周囲の遺伝子のキャリアに対する対抗手段を失ってはいけなかったからである。我々はそれを止めるわけにはいかなかったのである。それを止めた途端に、我々の遺伝子のキャリアは頓挫し、今日という日に辿り着くこともできなくなってしまうからである。
恐らく、ありとあらゆる種類の暴力の行使は、我々の遺伝子のレースにおいて切り離すことのできない要素だったであろう。
つまり、この文を通じて僕は何を言わんとするのか。
それはつまり、恐らくだけれど、貴方のかつての父親は、あるいは貴方のかつての母親は、誰かを殺したことがあるということである。
何かを盗んだことがあるということである。
その他の、無数の暴力を与え、そして、与えられてきたということである。
我々のかつての父は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての母は殺し、盗み、傷つけ、犯し、騙してきただろう。
我々のかつての父は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
我々のかつての母は盗まれ、傷つけられ、犯され、騙されてきただろう。
例えば、百万年前までの歴史を辿れば、我々一人につき六万から七万の世代が存在することになる。そして、当然そのような世代は必ずしも一人の人間が継承し続けてきたわけではなく、無数の兄弟や姉妹が存在していたことであろう。そのことも勘案すれば、我々にはおよそ無数の関係者が――無数の肉親が存在していたということになる。
我々には関係者があまりにも多すぎる。そう考えた時に、我々の関係者の内に、一人たりとも、百万年の歴史において暴力を振ったものなどいないと言い切ることのできる可能性は、どれほどあるだろうか。恐らくはその可能性は限りなくゼロに近い。我々は無数の暴力をはたらいてきたし、恐らくは無数の暴力に晒されてきただろう。