はてなキーワード: 経済活動とは
少子高齢化のこのご時世、一人で生きることができなくなり一日の大半を他人の手を借りないと生きられなくなっていて、それでいて本人が「もう十分かな」「若い人の力を借りてまで生きるのは嫌だな」と思っているのなら、
安楽死した方がいいと思うんだ。
世話されてる側も他人に申し訳ないと思いながら生きる人生を終わらせることができる。
少子高齢化で若い人の働き手がどんどん減っているんだから、未来のない人の世話に手間をかける暇があったら、経済活動に資してくれないと社会がどんどん衰退してしまう。
いや、どっちにしろ衰退はすると思うが、高齢者の世話にかけていた時間を他のものに使えることで少しは活発になれるはずだ。
だから、世話される側がもういいよと思っているなら安楽死は賛成。年齢問わずね。
ただ、高齢者や若くして体が動かなくなった人などでそれなりに本人の意志がはっきりしてる人でなければ「安楽死」ができない。
リビングウィル契約とかも、健康なときに本人の意思を確認したうえで行うものだ。
重度障害者の場合他人の手間をかけてるという事実は変わらないのだけど、彼らにはもはや「迷惑をかけている」という自覚もなければ、「じゃあ死んだほうがいいな」という思考回路もないし、「死にたいです」と意思表示すらできないケースが大半だ。
重度障害者で施設に入っているレベルというのはそういうレベルだ。
例の事件の犯人は安楽死安楽死言ってたけど、安楽死を選べるほど彼らは恵まれてないのだ。
自然界の動物も安楽死は選べないだろうけど、自然界の動物ならば一人で生きられないものは世話されずに死んでいく。
人間だけは安楽死を選べない上に、他人がありがたくも世話をしてくれるものだから、人的リソースを割かれて生かされていく。
金さえ有れば良い教育が受けられて、良い人生が過ごせると思っている皆さん、間違いです。
金持ちの子は良い教育を受けて、良い学校に入り、良い仕事につくというのは一面の事実では有る。
本当の所は「まともな親は、比較的金持ちに多い」のだ。まともな親に育てられるからまともに育つのであって、金持ちだからまともに育つのでは無い。
子供が家に帰ると親が寝転がってポテチ食いながらワイドショーやお笑い番組を見ている。
喫煙者、安酒飲み。
趣味はパチンコorスマホゲーor改造車、宝くじを常習的に購入。
仕事は単純作業or非正規、数年かけてスキルやキャリアを積む仕事についた事が無い。
例えば、上記のような暮らしをする人間に、いくら金をやってもまともな子供は育たない。
貧乏人の子供は貧乏になる確率が高いのだが、それは最も長い時間を過ごす家庭がそのように運営されているからだ。
多くの金持ちの家庭はそうでは無い。
家に帰ると宿題を見てくれて、親は休日に美術館に行ったり読書をしている。子供は自然に学び、本を読み、豊かな文化的素養を養う。
整理整頓は自分の人生を効率的に生きる手段である事を身をもって教えられる。
海外に友人が居る。子供の頃から多様な文化に触れ、その中でアイデンティティを確立する機会が有る。
積み重ねた努力で、ある程度の地位や仕事についている人に囲まれた生活をしている。努力すれば、具体的にどうなれるかを日常的に見ている。
両親共に大学を出ている。子供の頃から大学に行くのが「当たり前」になっている。海外へのホームステイや留学も視野に入り、経験者の話をいつでも聞ける。
高い能力を持つ人に囲まれ、日々の生活の様々な場面で礼儀を学び、見聞を広げられる。
このような日々の暮らしこそが「文化資本」なのである。カネを持っている事など、瑣末な事でしかないのだ。(もちろん文化資本の無い金持ちも居る)
例えば貧乏人にカネだけ与えても、こんな暮らしは出来ない。せいぜい半額惣菜が外食になり、しまむらの服がブランド物に変わるくらいだ。(文化資本を持った貧乏人という存在は極めて少ない。)
東大に入る学生の親は約半分が年収1000万以上だと言う。日本の年収比率から考えれば明らかに偏っている。
もちろん、小学校からSAPIXをはじめとする有名塾に通える環境も一助にはなっている。まぁ塾代だけで、本気で通わせると小学1年から高校3年までで1000万以上かかるし。
しかし、家庭環境が壊れている子供をSAPIXに通わせたとして、有名私立に入れるか?と言われれば無理なんだよね。最も重要な家庭での学習が出来ないから。
良い教育とは、まず最初に家庭で行われる。家庭で教育を受けられない子供は、最初から大きなビハインドを食らって社会に出る。そこにいくらカネをつぎ込んでも無駄。
稀にトンビが鷹を産むが、そんな子供は現在の制度でも返済不要の奨学金がいくらでも有る。
格差とは経済力では無い。本当の格差とは、誰もが選べない幼少期の環境の事なのだ。
教育に過剰な期待をしているブコメが多いけど、家庭でするべき教育を学校が肩代わりしろと言っても無理ですよ。
何事も本人のやる気が無ければ始まらないのだが、その「やる気」をステロタイプな貧乏親は削りとる。
まともな親の子供は親&周囲のまともな大人からやる気をもらい続ける(ついでに良質な知識、コミュ力、広い見聞も)
要するに、日々の生活が追い風になるか逆風になるかの差がデカイのだ。これに比べれば、スタートラインの差など無いに等しい。
教育費を無料にした所で、大学に遊びに行くバカと、目標持った優秀な学生に二分されるだけ。
優秀な学生は大体親が金持ちだし、そうでなければ奨学金を取れる。
教育費無料なんて教育関係者のポジショントークでしか無いよ。乗せられている貧困層は利用されているだけ。
解決策は無いのか?という話だが、これ以上のバカの底上げは無意味なのでしない方が良いという立場だ。
そもそも日本は、ホームレスですら字が読める国だから、初等教育は行き渡っていると言って良い。
教育費でよく話に出てくるOECD各国だが、字を読めない人が普通に居る国だらけだからな。
日本の識字率は99%以上だから、初等教育(バカの底上げ)に成功している国とも言えるのだ。
巷で叫ばれている大学無償化、奨学金返済不要については、費用対効果が悪すぎるのでやめた方が良い。
20年ほどクズ親に育てられれ、何の文化資本も持っていないFラン大学生なぞ、支援しても無駄だから。
一定数、世間知に長けたワンチャンを掴める層は居るが、そいつらは放置してても勝手に伸びる。学校教育の範疇ではないからな。
やるなら一定以上の偏差値を持つ世帯年収が低い家庭の小中高生に集中して支援するくらいか。
しかし、いずれの場合もバカの感染を防ぐために寄宿舎で預かる必要が有るが、日本でやる事は不可能だろう。
日本国が行う学校教育に幻想を持っている人が多すぎだが、そもそも東大すら世界的には有象無象の一大学でしか無い訳で、本物のエリートは欧米やアジアのエリート養成大学に行ってる。
ただし、日本でエリート養成をする事は無駄に平等を重んじる文化から無理だろうなと思う。
みんな平等に格差をなくそうという思想はご立派だけど、現実的に考えると家庭に介入出来ない限りは不可能だという事。
国(あるいは他人)に出来るのは自力で一定ラインを超えてきた人を支援するくらいだ。
やる気のない(あるいはやる気を奪われた)人は、自助努力が出来ないので救いようがない。
共産党の機関誌である「前衛」を読んでいるコミュニストが、この記事をネタに書いているので見てみた。
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20160605/1465138757
まぁ一言で言えば「そう出来たらいいですね、ところでどこから金が出てくるの?」である。
松本は、さらにそこから夫が主な稼ぎ手で、妻が専業もしくは補助的な労働でそれを支えて、子どものケア労働を担当する「標準家族モデル」がいかに危機やトラブルに脆弱かを述べる。
そして、もし子どもに関わる費用をすべて社会が負担するようになれば、親は自分の食い扶持さえ稼げばよくなり、シングルでもダブルでも不利や不公平は解消すると述べる。これこそが「強い家族」なのだと。
さらにこう続ける。
もし小学校や中学校のように、高校や大学に誰でも行けることはおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も、子どもが無料でアクセスできるようになれば、その時初めて子どもの貧困は親の責任から切り離される。そこまで社会を進めることの覚悟とセットでなければ、容易に元増田のような非難に遭遇するハメになる、と松本は警鐘を鳴らしているのである。
ユートピアを追求するコミュニストらしい意見だ。で、そんな国どこにあるの?日本人は1億人以上居るので、中東の産油国でもこんな暮らし出来んぞ。
ちなみにその理想を実現しようとした国知ってる、ソ連とかいう強制収容所国家だ。
まぁ共産主義者に財源を追求しても仕方ない。彼らは責任をもって行動した事が無いのだから。
仕方がないので、テキトーだが俺が考える。
日本の0~14歳までの年少人口は1613万人。彼らに衣食住+文化的な生活+学習を無償化したとする。
かなり安めに見積もって1人1ヶ月10万円の経費がかかるとして、1年で120万×1613万=19兆3560億円
更に高校生、大学生まで含めると900万人ほど増える、1人月10万で年間10兆円ほどかかる(年齢が高くなるほど消費が増えるが、面倒を見る職員の数は減らせるので同じ経費とする)
合計して約30兆円、数字を見ただけで非現実的だとわかるだろう。
まぁ所得税を3倍にすれば実現可能だ。もしかしたら、共産主義者として望む所なのかもしれない。
現在の日本において、財源を示さずに甘い夢だけを語るのは誠実な態度だろうか?
耳障りの良い話、目の前の人を気分良く救える話は正しいのだろうか?
共産主義者は家族の解体を是とする。旧ソ連では集団主義教育が行われていた事は周知の通りだ。
全ての子供を「学習はおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も」親の責任から切り離す覚悟が問われるそうだ。
まさしくコミュニストに相応しい思想ですねとしか言いようが無い。
ちなみに私が提唱する解決策?はこんな感じ。ブコメにも有ったが、教育は数世代で解決するしか無いので、まず1代目はお金を稼ごう。
1代だと所詮成金なのだけど、2代続けばその子供は教育が行き届くようになるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20160225194038
同性愛がキモいというのは、本当に申し訳ないが、感情としてはある。
ただ、キモいから排斥してよいとなると自分に返ってくるから、それは言いたくない。
以下、ちょっと頭の中を整理させてほしい。
これはおそらく正しい。少なくとも、偽装結婚して子供までもうけるケースもあったみたいだから、
その分は間違いなく減ってしまうだろう。
そして、それの何が悪いんだと思う。
今の少子化は様々な要素があって起きたことだが、世間体の強制力が弱まったことが一因として挙げられる。
その強制力を復活させるべきという論も時々見かけるが、今更無理だろう。
今や皇族も恋愛結婚されている(少なくとも、建前上そういうことになっている)のだ。もうどうしようもない。
個人的には、世間体というのは総じてクソだと思うので、それに縛られた結婚は不幸の始まりと考えている。
故に、なくなるならそれに越したことはないし、そのせいで少子化になろうが知ったこっちゃねえのである。
世間体の排除を異性愛には認めて、同性愛には認めないというのは理屈が通らない。
だからこの点に関しては堂々とすればいいと思う。
おっしゃる通り、ペドの場合は片方に責任能力がないから、そこにつけ込むのは問題外だ。
けど、例えば近親婚。これもLGBTの人らが一緒にすんなってうるさそうだけどさ。
現代の感覚だとやはりキモいと思われるが、制度上禁止されているのはそれだけじゃなくて、
生まれてくる子供に障害が出やすいという実際的な問題があるからだろう。
だから関係を結ぶこと自体は法的に禁じられてないけど、公のサポートは基本的に得られない。
民間の経済活動だと、同性カップルだろうが金を落としてくれればそれでいいから、
テーマパークでやるのは、周りの目もあることだから、もう少しハードルが上がってしまうが。
あと、病院に入院した時に困るというのがあったが、これはむしろ認めない方がデメリットが大きいだろう。
ただ、それらを認めるのと、公の承認やサポートを与えるのは別だと考えたい。
現在、老若男女様々な愛のカタチがある中で、成年の異性愛(それも全ての異性愛ではなく限られた)
子供の有無に関わらず優遇しているのは、それでも高い蓋然性でもって子供が生まれてくるからだ。
同性愛には今のところそれがない。
何の責任も負わず、ただただアヘアヘしてるだけの輩に、優遇策まで与えたくねえというのが本音だ。
そういうのにありつけてないからひがみで言ってるのは認める。
そして、子持ちの家庭は異性愛と同性愛、実子養子の区別なく優遇し、代わりに今ある優遇策は
結婚しているだけでは得られないようにする、というのが落としどころとしては妥当だと思う。
たぶん将来的にはそういう方向に進んでいくんじゃないだろうか。
人の評価で人が死ぬという事態がどれだけ恐ろしいことかを知った方がいい。
巷でたまに人事評価に使われている360度評価ってやつは、あれは闇だ。恐ろしい制度だ。
結局、人格なんていくらでも否定しようと思えば否定できるんだよ、
究極的な話、単にそいつが人気かそうでないか、それだけなんだから。
360°評価だとか、人間性がどうとか社会性がどうとかいう論議の恐ろしさは、元来労働者でしかない存在の評価をアイドルや声優と同じ土俵にまで上げてしまうことを意味する。
そういう不安定な職業につきたくないから、安定したサラリーマンを選んだはずなのに、労働によって何らかの経済的価値を還元しているはずなのに、
どういうわけか結局アイドルや声優と同じような人気度の評価でそいつの経済価値が決まるという恐ろしい現象を生む。
はっきり言うが、人に好かれるために生きる人生ってのはクソだ。
『不必要な人間なんていない』なんて言葉は戯言に聞こえるかもしれないが、実は経済の仕組みを考えると『不必要な人間はいない』ことをわりと簡単に立証できる。
学問的に言っても、やはり『いなくていい存在なんてのは〝いない〟』のだ。人は死ぬまで何かを消費し、生き続け、存在し続けるだけで何らかの貢献をしている。
経済を支える根本的な思想は『人がそこにいて何かを消費し続けること』だ。消費を続けることには勇気がいる。信用が必要だ。
この消費によって回転が続くことこそ、経済の発展と社会の発展だ。それが個人の生存を容易にする。そのシステムの回転を信じて活動する人間の総数の和が多ければ多いほど、その社会の経済は強くなる。
日本円がリスクヘッジに選ばれる理由は、相互信頼システムが機能していたからだ。戦争を経験した世代が持つ共通認識がそれを可能にした。大きなストーリーが社会にあったから、だからシステムが上手に機能していた。
原理原則にそって考えれば、巷で言われているような『老害』だの『不必要な人材』だのという存在はほとんどいない。認知症を抱えたご老体ですら、施設に入って何らかの消費活動をしている以上は、経済活動に携わる重要なひとつの構成要素だ。
そのご老体という資本が生み出す年金によって福祉施設は収益を得ている。
死ぬまで誰かの役に立つことが出来る。いなくていい、要らない存在なんてない。それが本来の経済のシステムだ。
循環することが本質なのだから、その媒介として存在しつづけることと、経済活動を続けることこそがその人の価値である。
ロード・オブ・ザ・リングでガンダルフがゴラムに言及したときに使った言葉は注目に値する。
〝『善か悪かはともかく、ゴラムにはまだ役割があるとな。そのときが来れば、ビルボの憐れみが多くのものの運命を決することになるかもしれん』〟
いつその理由が明かされるかは不明だが、ひとまずそっとしておいた方がいい。
アダムが述べた〝見えざる手〟は、いちいち評価を見える化しなくとも、水面下で勝手に進んでく。
だが経済原理そのものが消費を前提にしている以上は、ひとまず参加者全員が構成員であり、敗者もまたひとつの役回りでしかないことを肝に銘じるべきだ。
世界にストーリーが必要とされているのはそこに信用システムが機能するからであり、本質的には経済もひとつの宗教でしかないのだから、ある思想やストーリーの元で弱者、あるいは低評価であるからと言って絶望すべきではない。
今後評価経済にさらされた個人は、現代においてはもはや単なる労働者というひとつのジャンルとしてではなく、一個人として全方位からの評価にさらされる激烈な世界へと突入することになるのかもしれない。
そのときでも希望を失うわけではない理由として、経済原理にさらされた労働者の状態を簡単に説明している有名な宗教の聖典の言葉を引き合いに出すことがふさわしいと考える。
『あらゆる面で圧迫されながらも
動きが取れないほど締めつけられているわけではなく
困惑させられながらも
逃れ道が全くないわけではなく
迫害されながらも
見捨てられているわけではなく
倒されながらも
滅ぼされているわけではありません』
つまりほどよく生きて、ほどよく消費して、なにもかも思い通りになるわけではないが、何もかも思い通りにならないわけでもなく
惰性で生きていけるほどに楽ではないが、死ぬほど辛いということもない世界で生き続けるのだ。
そして最終的に物事は収まるところへと収まるということを知りながら、
例えばコンビニとかの廃棄について、食われずに捨てられるとか無駄すぎとか言われるじゃん。あれ、時々疑問に思うんだよね。本当に無駄なの?って。
いや、無駄「がある」ことはわかるよ。そりゃ、食べ物だから食べて終われれば万々歳だよ。
でもさ、食品として棚に並べられるまでの間に生み出されてきた経済活動ってのもあるじゃん。生産者が作って、卸業者を経由して、工場だか手作業だかで調理されて、パッケージングされて運ばれてってやつ。その間でいろいろな価値のやりとりが生み出されてきてるわけで、食品だからって口に入らなければすべて無駄ってわけでもないんじゃない?とか思うんだが。
俺がバカだからなのか、どうにもよくわからなくなるんだよなあ。経済を学べばもっとよくわかるんだろうか。誰か知ってたらおしえて。
……って、まずはもちろんお金のためだよね。今の世の中、旦那の稼ぎだけで子供育てられる夫婦なんてごく限られてるし。
あとは女性の社会進出の影響?女性だって一生働く前提になってきてるから、長く仕事を休んでたらその後のキャリア設計に影響するもんね。
わかっちゃいる。自分も産休明けで即復帰したクチだし。でもなんだかずっとモヤモヤしたものを感じていて、それがなにかようやくわかってきた。
例えばこれ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
http://anond.hatelabo.jp/20160215171759
これってつまりさ、仕事しないで育児している人は活躍してることにならないってことだよね。元増田がそういうつもりかは別として、世間全般どっかそういう意識あるよね。
そうなの?妊娠・出産という命がけの大仕事をして、24時間待ったなしで体力をガリガリ削られながら子供の世話をしてるのに、活躍してないって判断されちゃうの?
あとよく言われる、医学的に妊娠・出産に適した年齢が、社会的なキャリアを形成するために重要な時期と重なるから子作りが難しいってやつ。これも一緒。
要するに、「人間」としての文明的・経済的活動と、「ヒト」としての生命活動が、完全に分離しちゃってるのが諸悪の根源なんだよね。「人間」活動のキャリアを選ぶと「ヒト」としてのキャリアが積みにくい。逆はもっときっつい。どっちをとるか選べる時間は限られてるのに、一旦選んだら変更不可能とかどんだけですか。
これがもし、「人間」のキャリアと「ヒト」のキャリアが地続きに評価される社会だったら。履歴書の職歴欄に妊娠・出産・子育てを書き込めるような世界だったら。出産へのハードルはぐっと低くなるし、出産後も仕事復帰を無理に急ぐ必要がなくなる。男性の育児参加も増えるんじゃない?だって育休自体がキャリアとして評価されるんだもん。
そのために例えば、所謂「地域での子育て」ってのをキッチリ制度化してみるのはどうだろう。保育所に育休中や専業のママが子供と一緒に自由登園できて、基本自分の子供は自分で見るんだけど、交代で園の掃除や給食調理とかの保育補助をする代わり、費用は食材などの実費のみ。ママ達の保育補助が入る分、保育人数を増やす、とか。要は子育てそのものがなんかしらの地域活動、さらに言えば経済活動になるような仕組みを作る。
子供を持たないバリキャリもワーキングマザーも、もちろん専業ママだって、みんな等しく活躍してる。「一億総活躍」ってそういうことじゃないのかなぁ。
20世紀初頭、英国の経済学者であるケインズ卿は、主著の中で「考え方ほど強力なものはない」と説いた。つまり、人の行動要因のうち、最も影響力が強いものは、外部的要因よりもその人の内部要因、すなわち考え方だというわけだ。
ひるがえって現代の英国では、中東出身者の2世、3世となる若者たちがイスラム国(という名のテロリスト集団)へと帰属すべく、混乱を極める中東へと世代を超えた里帰りをしている。こうした若者たちが常軌を逸したテロリスト集団に忠誠を誓う要因は何だろう。ある人は欧米社会における中東系への差別が原因であるとし、ある人は貧困が原因であるという。しかし、これはあまりにも皮相的な見方ではないだろうか。どの国にも貧困と差別は存在する。それにも関わらず、なぜ一部の人々、特に豊かな先進国の若者が海外の狂信集団への参加を企図するのだろうか。
ここでケインズ卿の金言を思い出してほしい。何よりも人を駆り立てるのは考え方だ。もちろん、乾燥した砂漠地帯へと向かう若者たちの中には自意識をこじらせ、過激思想に染まった狂信者もいることだろう。だが、その多くは渡航直前まで通常の市民生活を送っていた一般人である(と報道されている)。ということは、通常の市民生活に浸透するごく一般的な常識の中にこそ、彼らを破滅的な行動に追い込む何かが潜んでいるとは考えられないだろうか。
健全な若者たちを追い込んだもの、近代社会の「一般常識」とは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」という考え方だ。このあまりに妥当に思える考え方にこそ狂気が秘められている。
中東に渡航した若者の多くは、同国の他の若者と同等の高等教育を受けており、言い換えれば社会的に役立つ(と見なされるべき)存在である。彼らは教育によって社会常識と能力を身につけ、社会への参加と貢献を望む(ごく健全な)精神性を身に付けていたはずだ。だが、彼らはその意欲と能力を十分に活かすことが出来ない環境下にある。
無論、こうした差別や貧困だけが問題ならば、例えば南米や東南アジアのスラム民のごとく、それを人生の既定路線として別の生き方に適応することも出来ただろう。だが、彼らは私たちと同じように近代的な市民としての精神性を埋め込められた「一般人」なのである。
資本主義であれ社会主義であれ、近代社会おいて市民は、「人の役に立たなければ生きている価値はない」と考えられている。言い換えれば、人の役に立つことが人生の意味・意義・目的である。それは経済活動の本質でもある。だが、英国をはじめとする欧米社会は、中東系の若者たちが近代市民としてごく一般的で健全な希望を満たすことを許さなかった。結果として「人の役に立ちたい」という健全な欲求は、全く不健全で狂気の塊とでもいうべき集団への参加・貢献へと姿を変えてしまう。なぜなら、イスラム国はそうした近代市民として望ましい欲求の全てを満たしてくれるからだ。
あなたの人生には意味がある。あなたは人の役に立つことができる。あなたは必要とされている。だからこそ、私たちに参加・貢献してほしい。
こうしたメッセージが実存的な欲求を満たせずに鬱々とした日々を過ごす若者に届き、その心の隙間に棲みついたとき、彼らを押しとどめる要因、すなわち彼らを暴走させない「考え方」を欧米社会は提供できていたのだろうか。事実、イスラム国はすぐれて近代的な精神性を持つ集団であり、表面的な暴虐性と狂信性を剥ぎ取れば、そこにあるのは英国と全く同様なもう一つの近代社会であり、宗教というフックによって近代市民を惹きつける別種の帰属集団たりえるわけだ。よって、若者たちの豊かな社会から貧しい狂信団への「宗旨替え」という一見奇妙な現象は、単純に欧米社会の失敗と敗北の証左なのである。
ところで、これは私たち日本人にも無縁の問題ではない。むしろ喫緊の問題でもある。中東系の若者には(擬制とはいえ)神への信仰が残されているようだが、私たちには一体何が残されているというのだろうか。この社会による無言の死刑宣告に抗うため、私たちにはどうふるまう余地があるだろうか。自身の社会的価値の欠如を自覚し、世間という名の集団圧力に圧迫され、閉塞し、窒息したとき、私たちは静かに(そう、「誰にも迷惑をかけない」ように!)命を棄てる道しか残されていないのだろうか。
かつての武士階級にとって自死は、名誉を守る行為だ(という共通理解があ)ったが、近代市民たる私たちにとっては疑いなく、何の疑いもなく、言葉通りの犬死でしかないだろう。それとも、これも一つの考え方に過ぎないのか?
現実世界の酒の席、及びユニーク名SNS方面では、逆張り野郎のそしりを受けるのを怖れ一切話題にしなかったが、やはりキムタクの判断は正しいのではないかと思う。
そこらへんの世論のシーソー的に、キムタクの立場の正当性もそのうち語られるだろうと思っていたが、どうにもタイムリープ説など明後日の方角に話が進んでしまったので、匿名の場に吐き出したいと思う。
これは確かに重要で、恩人への裏切りなど人非人と言われても仕方がない。
しかしながら、その個人への恩義と、SMAPという巨大なプロジェクトを支えた人々への恩義
女性マネージャーへの事務所による不遇と、SMAPが終わる、もしくは変質することから発生する、より多くの人々の不遇
それらを天秤にかけるだけでも、女性マネージャーへの忠義立ては難しいのではないかと想像する。
ジャニーズ事務所のダーティーなイメージから、悪徳芸能事務所vs孤高の敏腕マネージャーというような対立構図をイメージしがちだが、当然、社会人の経済活動から生まれた軋轢というものに、どちらかが絶対的な正義などというものはありえない。
私の実家は自営で小商いをやっており、もし彼女のような社員が入社し良い成績を収めたなら、それはとても有り難い事なのだろうが、彼女が勝手にキャンペーンを張ったりセールを組んだりしたならば、それはかなり困る事になる。
さらには彼女の派閥が伸長してしまうと、母屋を乗っ取られる恐怖から、「太客いくつかあげるから、独立してくれよ」と迫ることは間違いない。
これは実家の3チャン経営陣の無能が故ではあるが、きちんとした企業であれば彼女を使いこなせるかというと、それも少し怪しいと思う。
多くの会社員は、会議などの生産性の無い社内ネゴシエーションに多大な手間と時間を割かれ、そこでようやく合意を得て、役職に応じた権限を得て、それからはじめて業務に勤しむ。
会社の仕来りを打ち破る社員が大いに活躍できたのは、人を見るに優れたリーダーが、フリーハンドを与えたからではないだろうか。
そんな彼女が失脚したのは、その派閥によって会社に強い危機感を抱かせたか、リーダーが力を失ったか、もしくは会社がワンマン経営から合議制へと育ったか、いずれか、もしくは複合的理由からではないだろうか。
無論ジャニーズ事務所の内部事情など知らず、ゴシップ記事を元にした想像にすぎないが、いずれにせよ会社として、社に従順でよく稼ぐ社員なら、切ることはしない。絶対に。
移籍先やみそぎ期間など業界の慣習も障害だろうが、そのへんをクリアしたところで、5人のうち何人が芸能界に残れるのだろう。
彼等が干されたところで生活費に困ることは無いだろうが、今後も満足できる仕事が得られるかとなると、かなり不透明だ。
さらには今までの仕事の成果物、音楽、映像などの権利関係がどこに帰属するかの問題があり、ひいては彼等の集大成であるSMAPという名前自体、消滅の恐れがある。
兎にも角にも、商売に客が居なければ成立しないように、アイドル業にはファンが居なければ何もできない。
私を含む、ゴシップ記事をニヤニヤ、乃至憤慨して見ている多くのネットイナゴ達は、SMAPに対して何ら物理的金銭的なアクションをしない。
ファン達は何を望んだのか、ものずごい人数が色んな意見を交わしており、何か合意があるわけではないだろうが、SMAPの作品を買うという大きなうねりが発生した。
それがジャニーズ事務所のSMAPで居続けてくれと願っているのか、他事務所に移籍してSMAPをやってくれと思っているのか、4人のSMAPを見たいのか、それは定かではないが、少なくともSMAPの作品を今後も欲しているという意思表示であったことは間違いない。
はてなブロガーやら文化人やら経営者やらが嫌儲厨を、資本主義に適応できてないとかルサンチマンとかWin-Winを理解できない馬鹿とか散々に言ってるじゃん。
はいはい正しいよお前らは正しいよまったく頭がいいし理性的だし現実見えてるしお金も適度に儲けて適度に消費して経済活動に貢献して世の中をよくしてるんでしょうね。
でも嫌い。
垂金権造知らないの? 清貧って言葉は? 逆に拝金主義や守銭奴や銭ゲバって言葉は? 汗水たらして真面目にこつこつ働きなさいだの物より心だの聞かされなかったわけ? ボランティアが褒め称えられてるのが目に入らなかった? お父さんお母さんから、財布を持つことに渋い顔されなかった? ゲームソフトを友達に売ったらクソ叱られなかった?
偉そうに嫌儲厨を叩くんだったら、先代の偉い人たちがお金の汚さや危うさや浅ましさを強調して俺らを嫌儲厨に教育した責任も取ってくれよ。
そうじゃないなら好きにやらせてくれ。
フランスの同時多発テロでテロリストが使ったAK47あたりは、ルートにもよるけども10万円しません。
車両調達代や装備品、腰に巻いた爆弾などぜんぶ含めてもせいぜい500万かそこら(犯人他の実働部隊への報酬含まず)。
対して米軍がジハーディ・ジョン一名に、無人機よりぶっ放した対戦車用ホーミングミサイルは、安くても一発20万ドル。日本円で2400万円です。
無人機仕様の専用品ならばその2~3倍くらいはみてもいいかもしれません。
加えてマスメディアを利用した宣伝効果も、ジハーディン・ジョンの殺害の三日を待たずに被せ、なおかつより身近な場所でみんなが使い方と効果を理解できてる小銃と爆弾で目的を遂げたテロリストのほうが一枚上手だったというべきでしょう。
丸々二日全世界のテレビを占領した報道も、宣伝費用いくら分に相当するのかわかりませんが、とにかく費用対効果は抜群というほかない。
まるでリュックベンソンの映画、ニキータの冒頭から15分をみているかのようです。
そもそもテロリズム本来の目的は、社会を恐怖に陥れることで治安悪化や経済活動の鈍化を狙うことであり、戦争に勝利することではない。
その点を考えれば、今回の仏同時多発テロは完全な成功を納めたと言っても過言ではありません。
アニメや最近のラノベ系SFでは、統合経済圏が国家権力そのものを担う近未来が常識の今、作戦遂行そのものにかかる費用対効果を考慮しない方針を掲げて国家運営を担う組織は将来性がないと言われてしかるべき...ではないでしょうか。
http://lacucaracha.hatenablog.com/entry/2015/11/11/100336 の説明を見て、簿記や会計を初めて知る人が誤解されかねない箇所が多々あり、さすがにどうかと思ったので、自分で簿記のエッセンスをまとめました。
まず辞書をひいてみよう。国語辞典が手元にあればそれでひいてほしい。残念ながら手元にない人は、Web上の辞書をひいてみよう。
できれば複数の辞書をひいてみよう。複数の辞書の意味を見較べてみよう。
ぜひ本当に引いてみて欲しいのだが、今私が引いた結果を記しておく。
Wikipediaでは、 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%BF%E8%A8%98 )
簿記(ぼき、英語: bookkeeping)とは、ある経済主体が経済取引によりもたらされる資産・負債・純資産の増減を管理し、併せて一定期間内の収益及び費用を記録することである。より平易な言い方をすると「お金やものの出入りを記録するための方法」が簿記である[1]。
大辞林 第三版の解説 では ( https://kotobank.jp/word/%E7%B0%BF%E8%A8%98-132641#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 )
ぼき【簿記】
一定期間における経済活動を,一定の記録方法で帳簿に記録・計算・整理し,財産・資本・負債の増減を明らかにする計算制度。記入方法により単式簿記と複式簿記に分けられ,業種により商業簿記・工業簿記・銀行簿記・農業簿記などに分けられる。 〔「帳面に書きつけること」の意。英語 bookkeeping の訳語。福沢諭吉「福翁自伝」(1899年)にある〕
デジタル大辞泉では ( https://kotobank.jp/word/%E7%B0%BF%E8%A8%98-132641#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 )
会社・官庁・組合など経済主体の活動を一定の方法で帳簿に記録・計算し、一定の時点で総括して損益の発生や財産の増減を明らかにする技法。記帳方法によって単式簿記と複式簿記に分けられる。
日本大百科全書(ニッポニカ)では ( https://kotobank.jp/word/%E7%B0%BF%E8%A8%98-132641#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 )
世界大百科事典 第2版では ( https://kotobank.jp/word/%E7%B0%BF%E8%A8%98-132641#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 )
企業や政府のような特定の経済組織体が管理する資本や財産の価値変動を一定の表現技法にのっとり記録・計算し,その結果を伝達する行為,またはその表現技法をいう。〈帳簿記録〉という用語に由来するとされ,日本では1873年(明治6)大蔵省公刊のアラン・シャンドAlexander Allan Shand(1844?‐1930,イギリス)《銀行簿記精法》で簿記という訳語が使われて以来,一般化した。この技法は現在あらゆる経済体制を問わず,さまざまな組織で用いられている。
とそれぞれ説明されている。
どの辞書や辞典を見ても、共通する言葉がある。例えば「経済主体」や「経済組織体」といった言葉。「帳簿」、「記録」、「計算」、「一定」も共通している。「技法」という言葉や、「増減」といった言葉も目につくだろう。
どの辞典でも使用されている同じ単語を、うまく抜き出して意味をまとめてみよう。こんな感じになるだろうか。
経済主体が行う経済活動(これを取引といったり、財産などの価値の変動ともいうようだ)を、一定の方法で記録したり、計算する。その結果を帳簿に書いておく。場合によってはそれを伝達する。これを簿記という。
さらに簡単にまとめてしまえば、「お金やものの出入りを記録するための方法」を簿記という。
1.ある個人や集団がいて、
3.増加したり、減少したりしたときに、
4.それを帳簿に書いておく。場合によっては誰かに伝える。
ということが簿記のエッセンスである。簿記が行っていることはこれだけだ。とても簡単なことに見えるだろう。
よくある間違いは、簿記=財務諸表をつくるもの、といった短絡的な勘違い。財務諸表がまず何かわからない人も多いと思うが、主に会社が、ある期間の業績などをアピールするために作成している書類で、決算書と呼ばれることもあったりする、くらいの意味合いを抑えておけば十分だ。
いままで見てきたように、簿記そのものは、財務諸表ではない。財務諸表を作る上で役に立つが、簿記自体は財産の変動を記録して帳簿に書いておく、といった意味合いしか無い。したがって、簿記の説明で「財務諸表の説明だけしかしない」のであれば、それは間違いだ。簿記から財務諸表を作ることができるよ、といった説明ならば、もちろん間違いではない。簿記と財務諸表は別の言葉であり、意味は等しくはならない。
例えて言うならば、プログラミングをする上で様々なプログラミング言語があるわけだが、では、ある言語を持って、「それだけ」をプログラミングと呼ぶか?というようなものだ。「Java言語でプログラミングをする」という文は間違っていないが、「プログラミングをすること=Javaである」というようなことを言われると、それは誤解である。C言語やPythonや他にもいろいろプログラミングをする上で利用されるプログラミング言語はあるのだから。「USBメモリー=USB」みたいな、誤解されかねない意味の略し方になりかねない。
財産という言葉を聞くと、簿記や会計を全く知らない人は、現金(硬貨とか紙幣)だったり、あるいは、金の延べ棒みたいなものとか、袋にドルマーク($)が描かれたものをイメージとして浮かべがちだ。実際に簿記でもそれらは対象になるのだが、「お金自身の動きだけをもって、簿記である」と勘違いしてほしくない。あくまでも、「財産」の変動を対象にしている。この財産とは「経済的な価値を持つもの」全部を指すのだ。だから現金以外もいろいろ入ってくる。
例として、火災や天災などが挙げられる。(他にも会計的なものはいくらでもあるが、知らない人がわかりやすいのはこれ以外には少なかろう)
火災や天災によって、ある会社の工場や営業で使っている自動車が焼失したり、破損することがある。このとき、会社からお金は減っていないが自動車が使えなくなってしまうために、財産として計上している「自動車の価値」を減少させる。複式簿記の仕訳で書けば、
○月☓日 (借方) 火災損失(天災損失などもあるだろう) □□□万円 / (貸方) 自動車(車両運搬具だったりもするが) □□□万円
といったようになる。よくわからないところが多いと思うが、「お金そのもの」がどちらの側にも無いということを確認してほしい。
「簿記=お金」のイメージが学び始めのころはついてまわると思うが、だんだん学習が進むにつれて、お金そのものを扱っているといった見方では説明できないものがたくさん出てくる。むしろそういうものばかりになる。
それゆえに簿記の言葉を説明するときには、「財産」とか、「経済的な価値変動」といったような、お金よりも抽象的な言葉で説明せざるを得なくなる。わざわざ難しそうな言葉を選んでいじわるをしているわけではなくて、正確な言葉を使わないとあとあと矛盾がたくさん出てくるゆえだ。定義がピンとこない人の方が多いと思うが、誤解しないでほしい。
記録する対象が商業であれば、商業簿記になる。ここでいう商業とは、ものを仕入れて、仕入れた商品をそのまま販売することをいう。スーパーマーケットの(惣菜みたいなそのお店で調理していないで、)袋詰されて並んでいるものは対象に含まれる。加工している場合にはその加工にかかった費用を計算する必要があるので、商業簿記では取り扱われない。
工業簿記は、商業簿記とは異なり、仕入れたものを加工して販売する。典型的なのは自動車産業のようなものだ。鉄やガラスなどを加工して、自動車を作り、それを売る。加工する途中で、工員が作業を行う必要があるし、加工のために工具や電気代、燃料代などがかかるだろう。そういった加工を伴う簿記が工業簿記の範囲である。(工業とついているので、工業だけと思われるかもしれないが、加工を伴うものであれば工業以外でもよい。例えば洋服をオーダーメイドで作製する個人商店なども、布地を加工して服に仕立てるので、工業簿記の範囲だ。生の牛や豚をさばいて、畜肉にする作業も加工を伴っているので工業簿記である。テクニカルタームだが、そういうときは副産物や連産品として処理したりする。金額的な重要性によって会計処理が変化することがあるが)
他にも農業簿記や銀行簿記といった言葉もある。それぞれ農業で使用される簿記、銀行業務で使用される簿記である。(私も詳しくは知らない)
ここまでは、業種に応じた簿記の違いであった。複式簿記と単式簿記の違いは、記録のとり方(これを記帳方法と呼ぶ)の違いである。
単式簿記は、記録を取るときに、科目を一つだけにしぼって記帳する方法である。家計簿や子供のおこづかい帳のようなものだ。(と書くと、ほとんど使われていないと思われるかもしれないが、少し前までは東京都は単式簿記で記帳していたし、他の自治体は、今でも単式簿記によるところもあると思われる)
○月☓日 おこづかい 500円
などと、お小遣い帳に記帳する。もしおこづかいから、おやつを買ったときには、
○月△日 おやつを買った -300円 (あるいは支出欄があれば、そこに300円と書く)
などと書いていけば良い。この「○月☓日 おこづかい 500円」といった部分を仕訳と呼ぶ。
複式簿記は、記録を取るときに、科目を左側と右側の両方を立てて記帳する方法である。
○月☓日 (借方) おこづかい 500円 / (貸方) おこづかい受贈益 500円
などと、帳簿に記入することになる。この、「○月☓日 (借方) おこづかい 500円 / (貸方) おこづかい受贈益 500円」の部分を、単式簿記の時と同じく、仕訳と呼ぶ。(受贈益という言葉が気になるかもしれないが、今回は説明しない。正確に書くための前提知識がそれなりに必要なので。今回は例に挙げただけなので、もらって得した、というくらいの浅い理解で十分だ)
この、仕訳を書く帳簿を仕訳帳と呼ぶ。(たまに普通仕訳帳と読んだりもするが、その場合特殊仕訳帳があるケースがほとんどだ)
単式簿記は科目が1つで、複式簿記では科目が2つになることがわかるだろう。これは正確に言うと、複式簿記は科目を書く欄が「左側と右側と2つある」という理解をしてほしい。したがって、もし、お母さんだけでなく、その日にお父さんからもおこづかいをもらったとしたら、複式簿記で仕訳を作ると以下のようになる。
○月☓日 (借方) おこづかい 1200円 / (貸方) お母さんからのおこづかい受贈益 500円 / お父さんからのおこづかい受贈益 700円
右側が2行になったことがわかる。左側は1行のままだ。そして、右側の金額を合計すると、左側の金額の合計と一致していることもわかるだろう。これも複式簿記の仕訳である。このように、右側が2行になったりすることもあるし、反対の左側が2行になったりすることもある。もっと行数が増えることもある。仮におじいさんやおばあさんからももらったとしたら、3行、4行と増えることになるだろう。(狭義の簿記の範囲外だが、連結財務諸表の合算の仕訳などが典型例だ)
このように、複式簿記は「左側と右側」にそれぞれ科目を立てるゆえに「複式」簿記と呼ばれる。
(余談だが、行列簿記など、他の記帳方法も存在する。自分も詳細は知らないが)
複式簿記の場合、仕訳帳に仕訳を書いたあと、勘定科目ごとに総勘定元帳と呼ぶ別の帳簿に転載する。この転載する作業を「転記」と呼ぶ。(この後もいろいろ話はあるが、まあこれくらいのことがわかれば複式簿記のイメージが持ってもらえるはずだ。)
いろいろ例を挙げて説明してきたが、今までの内容をまとめる。
1.簿記とは「経済価値の増加や減少を記録して、帳簿につけること」を意味する言葉である。
2.簿記の頭に○○簿記と言ったように、修飾語がつくときには、その修飾語は業種や記帳法(帳簿の記入形式)を詳しく説明している。前者は商業簿記や工業簿記など。後者は単式簿記や複式簿記といった言葉がよく使われる。
3.複式簿記という簿記は、仕訳が左側と右側の2つに分かれている。左側の合計と右側の合計は同じ金額になる。単式簿記は1つである。
といったことを説明してきた。おそらくこれだけ知っていれば、簿記という言葉がおおよそ何を意味するかわかるはずだ。(会計という言葉はまた別の意味になる。単語が違うということは、当然その意味は違うのだから)
もしこれを読んだ人に子供さんがいたりして、その子供に「簿記って何?」と聞かれたとしても、今までの内容を漏れ無く、内容を興味を持てるようにある程度やさしいものに組み立てなおして説明してもらえれば十分わかるはずだ。
簿記という言葉の意味については、会計方面に接点がない人は、今までの内容を理解してもらえれば、十分である。もちろんこれから会計を学ぼうとしている人も、今までの説明で、これから学ぶ内容と矛盾が起こらないように配慮して説明してきたので、そこそこ役に立つはずだ。
格差はできるよ。
資本が集約されて、その資本を以て経済活動を促進させるのだから、
資本で使われる人間と、資本で使う人間とでは格差が生じるのは当然だ。
使われる人間、使われる人間にさらに使われる人間との格差、もっと進むと、経済社会に組み込まれているけれど使われることさえない人間。
それぞれの格差はどんどん広がる。
良い点、悪い点を挙げることは重要だ。
少し飛躍するが、
格差に甘んじるのではなく、
住居については、かなり厳格な法整備や経済社会との連携があるから、
住む場所、そして活動さえすれば狩猟採集で生活はできると思う。
また、その者達の生きる活動があれば、
貧困と格差(という概念)は少しでも是正されるという考えです。
恐らく、貧困層の救済はそこにあるように思ったので。