はてなキーワード: 王権とは
「リベラル」の根幹を成しているのは直線的な進歩史観と自由の強制である。だから彼らは勢いがあった内は「革新」を名乗った。今は流行らないからリベラルを僭称しているだけである。しかし後述するが、普通いう自由主義とは全く関係がない。背乗りに等しい。
これは「歴史は一本の正しい道があり、それに沿って“進歩”をしているのである」ということだ。さらにこの史観のキモはこれが「科学的」であるがゆえに未来予測を許す点にある。「科学的」に正しい思想をもってすれば、未来の進む点を正確に示すことができるわけである。これが出来るという奴は、一般的に言えば胡乱な予言者だが、彼らに言わせれば「思想の前衛」ということになる。
一方の自由の強制というやつはパッと見、語に矛盾があるので受け付けない向きもあろうが、大概こんなところだ。
原始的な自由状態の増田村のマスダー達は自由状態を享受しているが故「あの気に食わないマスダーをぶっ殺すウホ」という自由も当然に所持している。だからその衝突によって社会の自由は逆説的に(全体から見れば)損なわれている。なので、「ぶっ殺すウホ」という自由をみんなで契約して「いっせーの」で放棄することで、全員が一段進んだ生命の自由を謳歌することができるようになるわけだ。なお、後から来てこの契約なんざしらねぇや、という奴から強制的に「ぶっ殺す自由」を取り上げて(なんならその過程で多少の個体が死んでしまっても構わない)、一段進んだ自由状態に引き上げるので「自由の強制」と呼ぶ。
これが合わさるとどうなるか。
左は絶対的に(根拠はないが)己が「思想の前衛である。よって、歴史の正しい一本道の先を知っていて、この世を進化させることができる」と確信している。つまり「ぶっ殺すウホ」を取り上げる側だと思っているわけだ。
「ぶっ殺すウホ」程度ならいい。ほとんどの人間が同意できる範疇だからだ。
これが一段進んで「定期的に生贄のキムスメの心臓をえぐって太陽神に捧げなくては世界が滅ぶ」という宗教ならどうか
これが一段進んで「王は神により与えられた権限があるので愚かな民草共を支配できるのである」という思想ならどうか
これが一段進んで「貧乏人に理性的な行動はとれず汚職を生むので、投票権は有資産者に限ろう」という制度ならどうか
これが一段進んで「政治的な決定権は、社会防衛の血税を払える男子以外に持たせてはならない」という社会ならどうか
この辺もまだ合意できるだろう。歴史的に合意し続けた結果に、今我々が安住しているわけである。
しかし左にとって、今我々の大半が合意している社会システム自体が「生贄が必要な社会」「王権神授説の社会」と同様、決定的に遅れているものと映る。我々が享受する自由を強制的に取り上げて、社会を次のステージに引き上げたくてしょうがないのだ。彼らが社会を確信するのは、いわば天命なのである。
であるから、暴力であろうと、詐話であろうと、偽のマニフェストであろうと、今ある神授された王の権威であろうと、使えるリソースは何だって使うし、それに罪悪感を感じることはない。
左にとって、それ以外の奴らは野蛮人なのだから、後進の知恵足らずなのだから、正常な判断力のない(判断力があれば必ずや我々の理論に賛同するであろう!何せ正しいのだから)狂人なのだから、そいつらを啓蒙して一段進んだステージに引き上げることが、何の悪であろう? 従わぬ者不埒者を切り捨てずして、何の善行であろう? その過程で多少の個体が死ぬことがどうして悪であろう、彼らは真の自由のための聖なる犠牲者ではないか?
考えてみるがいい。
キムスメの心臓をえぐりださんとする神官を今の我々が眼前にしたとき、その神官を打ちのめさないでいられるだろうか?
神と一体と称する狂った男は、裸であると批判せずにいられるだろうか?
脂ぎった金持ちの専横を、倒さずにいられるだろうか?
同じような目で、左の「前衛」は今の社会を見ているのだ。その時、遅れたシステムにしがみつく愚民どもをどうしてしばき上げずにいられようか?
だからそういう心象に立っている彼らはその目標のためにはなんだってやるだろう。そしてそこには一片の曇りもない。全ては進化のためだから。全ては来るべきより良き社会のためだから。社会の革新のためだから。
宮廷道化師は王を楽しませるエンターティナーであり、また愚かであるが故に王に直言できる存在であった。
スタンチクも、実際には政治に通じた賢人であり、しばしば気の利いた風刺を発した。
彼は三代の王に仕えたが、この時代のポーランドは、外ではモスクワ大公国やドイツ騎士団、オスマン帝国などと戦い続け、
内ではシュラフタ(貴族)が力をつけて王権を脅かすなど苦難に晒されており、
スタンチクがそれらを憂慮する逸話やその場面を描いた絵画が多く残されている。
狩りのために檻から出した熊が王たちを襲った事件を、プロイセンの臣従にたとえて王を嘲笑したという逸話が特に有名である。
https://anond.hatelabo.jp/20180529210858
アニメは見てない。軽くググったが、
ウマ娘って完全に人間の上位互換だよね。つまり前史において人類はウマ娘たちの【家畜】で、ウマ娘からの解放過程が人類史なんじゃない?
◇人類前史
○古代文明
農耕により人類もウマ娘も人口と生活環境が安定。ウマ娘の高い能力により、富がウマ娘側に蓄えられていく
ウマ娘、富の集積と その高い身体能力≒戦闘能力から王権を確立。
とはいえ、ウマ娘の性格は概して穏やかなため支配者というよりは共同体の合意に基づく代表者のような王だろう。
王族としてのウマ娘達と半家畜としての人類がセットになった複数の小共同体が移動しながら地球上に生活圏を広げていく。
ウマ娘を信仰する原始宗教発生。ウマ娘はエルフのようなモノらしいので、
神そのものというより、神に仕える神官のような立場になり、その立場を独占
この時代からの権威と憧憬が作中世界の現在でのアイドル(偶像)的活動の源流に。
○戦争
直接戦闘だけが戦争ではない。政治的外交的目的を達成する為の手段として戦争が行われる。
王族としてのウマ娘達の為に臣下の人類は戦う。(勿論、現実の人類史と同じように共依存的)
王族としてのウマ娘達は その高い身体能力を駆使し同共同体の人類と協力して戦略拠点を整備。
戦闘前には その走力を生かして敵対ウマ娘達と情報収集、威力偵察を含めた駆け引きを行う
直接戦闘は随伴する人類の役割。勝敗は人類の数も重要だが、事前のウマ娘達の活躍も勝敗の趨勢を決め得る。
ウマ娘は王族だし、その決定的移動能力戦闘能力は希少で変えが効かないため、直接戦闘には加わらざるを得ない時点で敗勢。
いきなり現代現実世界の航空戦+陸上戦のような戦争形態になると想像する
▽(面倒臭くなってきた…)後は、現実の歴史と同じように統合分裂を繰り返しながら徐々に国家が作られていく
その走力から情報伝達も支配するだろうから金融さえウマ娘が支配するだろう。
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変化が起こり始めるのは遠洋航海技術の発展から、これにより人類は大量輸送,移動手段を獲得する
物資の独自大量輸送手段を獲得した人類は、必ずしも自国家の支配種であり共依存にあるウマ娘に頼る必要がなくなる
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ここで、遂に火薬発明! 人類とウマ娘の戦力差が大きく縮まる。戦争におけるウマ娘の重要性が低くなり
人類主体の議会の力が強くなる。元々 ウマ娘達は穏やかな為、自国内の不和が広がるのを良しとせず
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そうこうしている内に内燃機関発明! 遂に種としてのウマ娘の優位性は失われた…。
結果的に人類の支配種として振る舞わなければならなかったウマ娘達だが、
その生来の温和さもあり、歴史と共に人類への支配,管理は常に穏やかに変化し続けた歩みでもあった。
しかし、遂に人類はウマ娘の軛から解かれ、生物としては対等に、
太古からの憧れはレースと歌として楽しめる真(心)のパートナーになれたのだ!!!
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▽最悪の敵。そう、他ならぬ人類同士の戦いという対価を支払い続ける事にはなるのだろうが……。
(アニメ見てないから分からんけど、エルフという比喩があったので、エルフと同等程度に希少な種族であるという前提で書いたわ。)
(疲れた…。)
相撲は太古の昔より神様に奉納するために行われてきた、ということと相撲の女人禁制の議論が行われている。そこで、日本の神様の歴史を考えてみた。
縄文時代以前は狩猟時代であったので、大きな集落が形成されることはほとんどなかった。各集落の長は、部族の長たる酋長と呼ばれていた。この時点ではまだ神様は発明されていない。
温暖な気候の下、採取される木の実などが多かった時代の後、地球全体で寒冷化が始まる。寒冷化によって狩猟が出来なくなり、日本人は「農耕」を始める。農耕を始めたことによって食糧生産量が増え、人口が増え始める。狩猟と違って、農耕社会ではその地に定住することが基本となる。
農耕社会になると、各集落同士の争い・戦争が激しくなる。狩猟時代であれば、どちらかの部族が他に移動すれば争いは回避できるが、定住が基本となる農耕社会においてはすぐに戦争になってしまう。その過程で、定住する集落を守るための武人の階級が出現する。この武人階級が集落の中で次第に力を付けていき、王の誕生=国家の誕生とつながる。
武力や財力のある農耕国家は周辺の集落を併合していく。戦争によって領地を広げていく過程において、部族の崇める神が、平和の神から、軍事をつかさどる軍神へ変化していく。
弥生時代から古墳時代にかけて、西日本(九州~近畿地方)において、広域を統一していた部族国家が「ヤマト王権」を名乗る。王権を統一していた王=神は天皇を名乗る。
昨今、議論するほど取っ散らかって、結局ちっともまとまらないリベラルとは何か、ということについて
皆さん自由はもちろん、権利や、公正や、分配のことだと言うんですよ。でもね、それって本当にそうですか?そもそもなんでそんな考えが出てきたんですか?
遡るとリベラリズムはジョン・ロックという人に行き着きます。ここまでは普通です。彼はイギリス経験論の人でした。そう、この時代までに経験論哲学が生まれ、同時にそこから近代科学が誕生したのです。
ロック氏は経験論を根拠に、国王の統治権、王権は“神”に与えられたものではなく、各人の持つ自然権を守るために委任されたものだ、という思想を発明します。これがリベラリズムの誕生です。本当です。
これってさ、科学じゃん。観測に基づいた帰納と仮説じゃん。リベラリズム、自由の生みの親は、経験主義と科学的思考や方法論なのです。
※ブコメなどから、社会契約説の元ネタは聖書である、だから信仰の一種である(科学ではない)とのご指摘がありました。
私はこの時代の科学と宗教を、そんなに区別していませんでした。ガリレイはキリスト教の“異説”を唱えたキリスト教徒であり科学者です。経験主義の祖のベーコンもキリスト教徒です。
なので、ロックもプロテスタント(だから王権神授説の異説を唱えた)であり社会科学者のプロトタイプなのではないでしょうか。
(続き)ロック氏から始まるリベラリズムは、この仮説をもとにして以後、市場経済や功利主義、ロールズの正義や公正などを発明していきます。また、自由と科学知識をもった者は産業革命を担い、社会そして個人の生活を科学技術的に豊な方へと変えいきました。
でも私は思うんです。いつの間にが、現代のリベラリズムからは「科学主義」が失われているんじゃないか?自由のための公正や分配もいいけど、まずそれらを科学的に考えることがリベラルなんじゃないか?
リベラリズムの遠戚である共産主義には、最初は科学がありました。そしてその頃までは栄えていました(笑) これはリベラリズムにも言えて、現在低調と言われたりするのは、科学的手法や科学技術を援用し政治することが足りてないからなのではないのか!?
翻って日本のリベラルを見てみると、どう思いますか。あれ、自民党の方が「現代経済学に根差した金融政策」してませんか?なんで理系やギーク系が自民党支持なんてすか?自民党がリベラルと言うのは、なしです(笑)
日本、または世界のリベラルが低調なのは、きっと保守に科学的手法を上手く使われているからなのだと、私は思います。リベラルの革新的な利点そのものが無くなりますからね。必ずしもナショナリズムや感情の時代だから、ではないのです。マイナンバー制度の根幹はIT技術です。IT技術であるツイッターは世界でも保守言論がよく使っています。
だからリベラルは、ごちゃごちゃとリベラルとは何だなどと議論する前に、現代の科学的議論に基づいた政策と、科学技術振興策を取ってください。
そして物理科学社会科学者と科学技術者の信頼を取り戻し、本来の科学的進歩的なリベラルに戻っていただきたい。 枝野さん、お願いしますよ。
だいたい次代の奴が自己正当化のために悪く書いただけで、実際はそこまで馬鹿じゃないという話もあるので、話半分に読みましょう。
?-前771 | 姫宮涅 | 西周の第12代の王・幽王。無口無表情系の美女・褒姒の機嫌をとるために、用もないのに何度も緊急の烽火をあげ、集まってくる諸侯の軍を見ては、褒姒と一緒に笑っていた。ついに反乱が起きた時、幽王はあわてて烽火をあげたが、もはや集まる軍はなかった。これにより西周は滅んで東周が興り、そして春秋時代へと突入していく。 |
259-307 | 司馬衷 | 西晋の第2代皇帝・恵帝。先帝の御前で家臣が「あいつには玉座がもったいない」と言い放ったほどの暗愚だった。飢饉のときに「米が無いなら肉粥を食べればよいではないか」と言い放ち、かの有名な台詞を1500年くらい先取りした。その無能さ故に、代わって政治の主導権を握ろうとする皇族たちが争い「八王の乱」が起きたが、その無能さ故に殺されることはなく、48歳のときに食あたりで死んだ。 |
335-357 | 苻生 | 前秦の第2代皇帝・厲王。生まれつき隻眼だったために祖父から忌み嫌われ、たびたび鞭打たれるなど、虐待まがいに育てられた。武勇に優れていたが、残虐で酒を好んだ。宴のときには酒を飲まない者を殺したため、諸官は懸命に泥酔せねばならなかった。また隻眼のコンプレックスから「少」「無」「残」「偏」などの文字を使うだけで誅殺した。従弟たちが起こしたクーデターにより23歳で殺害された。死ぬ間際にも泥酔していたという。 |
463-477 | 劉昱 | 劉宋の第7代皇帝・後廃帝。「天性好殺」と評されたシリアルキラー。従者に凶器を持たせて街を練り歩き、気に入らない者を自ら殺して回った。贈り物が好みでなかったというだけで皇太后を毒殺しようとしたが「喪に服しているあいだは街へ出られませんよ」と諌められて諦めた。一日に誰も殺さないと不機嫌になったという。有力な将軍のクーデターにより14歳の若さで殺害された。 |
502-549 | 蕭衍 | 南梁の初代皇帝・武帝。当初は名君の誉れ高かったが、次第に仏教に傾倒していき、莫大な寄付金で国庫を傾けた。なまじ優秀だったために諫言を聞かず、勝手に出家してはそのたびに寺院から連れ戻された。周囲の反対を押し切って、隣国を追われた武将を受け入れたところ、即座に反逆され、凄惨な籠城戦の末に捕縛、幽閉された。息子たちの誰も救援に来ない中で、惨めなうちに病死した。 |
1122-1161 | 完顔亮 | 金の皇帝。「天下の美女を妻に得たい」と嘯き、親族、家臣の妻、母娘、幼女、あらゆる美人を後宮に入れ、宮殿のいたるところで乱交した。幼い姪を強姦して殺し、従弟の妻を奪おうとして死に追いやった。南宋に対して大規模な遠征を行ったところ本国で別の皇帝が擁立され、それでも遠征を続けようとして部下に殺された。死後、皇帝どころか王とすら見做されず、「海陵庶人」と記録された。 |
1563-1620 | 朱翊鈞 | 明の第14代皇帝・万暦帝。幼い頃から聡明で知られ「朕は5歳で字が読めた」とよく自慢していた。宰相・張居正の手腕により、統治の初期は成功を収めたが、その後は外征・内乱が相次ぎ、自身も酒色に溺れて堕落した。明で最も在位期間の長い皇帝だが、30年にわたって後宮に引きこもり、上奏があっても何の返答もしなかったため、国政は機能不全に陥った。ただし徴税だけは熱心だったという。 |
161-192 | コンモドゥス | 第17代ローマ皇帝。暗殺未遂や側近の裏切りなどから政治への興味を失い、剣闘にのめりこんでいった。「ヘラクレスの化身」を自称して狼の毛皮をまとい、実際に剣闘士としてコロッセウムで戦った。その武勇は素晴らしいものだったが、「皇帝が奴隷の真似事を」とローマ市民を嘆かせた。あるとき重臣たちの粛清を図ったが、逆に毒薬を飲まされ、朦朧としたところを襲われて殺された。31歳だった。 |
203-222 | ヘリオガバルス | 第23代ローマ皇帝。ローマの最高神を故郷シリアの土着神に挿げ替えてその神官となり、処女を守るべきローマの巫女と結婚して神の子を産もうとした。その後は離婚と結婚を繰り返し、最後には女装をして男性奴隷の「妻」として振る舞った。さらに宮殿の中に売春宿を作り、自ら男妾となって通りがかる男性を誘い込んだ。マゾヒストの気もあったという。近衛兵の反乱により18歳の若さで殺され、死体は切り刻まれて川に捨てられた。 |
937-964 | ヨハネス12世 | ローマ教皇。カール大帝の子孫という家柄であり、わずか18歳で教皇となった。無謀にも教皇領の拡大に乗り出して大敗を喫し、それを助けた東フランク王国のオットー1世にローマ皇帝の冠を与えた。これにより神聖ローマ帝国が誕生したが、教皇の権威は低下することとなった。不道徳な人間で、ラテラノ宮殿を売春宿のようにしており、最期は人妻と寝ていたところをその夫に見つかって殺されたという。27歳だった。 |
1012-1056 | ベネディクトゥス9世 | ローマ教皇。父親の後押しにより20歳にもならないうちに教皇となる。賄賂などはもちろん、殺人もいとわず、姦淫にふけり、同性愛も行っていた。従妹と結婚するために教皇位を金で売りとばしたが、すぐに後悔して復位を主張し、混乱を招いた。結果として三度も教皇に就位することになり、最後には新たな教皇により破門されてしまった。四度目の復位を画策していたときに43歳で亡くなったと言われる。 |
1199–1216 | ジョン | イングランド王。幼い頃から父・ヘンリー2世に可愛がられていたが、父と争っていた兄・リチャードが優勢になると寝返り、ヘンリー2世は失望のあまりに亡くなった。さらにリチャードが亡くなって王に即位すると、フランス王フィリップ2世と敵対して惨敗、フランスにあった広大なイングランド領を全て喪失し、その体たらくにイングランド諸侯の不満が爆発したため、やむなくマグナカルタを認めて王権の制限を受け入れた。 |
1835-1909 | レオポルド2世 | ベルギー国王。アフリカのコンゴを私領とし、私財のほとんどを投じて近代化を推進したが、やがて「天然ゴムの採取ノルマに達しなければ手首を切り落とす」といった残虐な労働を強いるようになった。さすがの欧州諸国もドン引きして強烈なバッシングを浴びせ、最終的にコンゴの統治はベルギー政府に移管された。国民からの信頼は地に堕ち、晩年は王妃や娘にまで白い目で見られたという。 |
1845-1886 | ルートヴィヒ2世 | バイエルン王。「狂王」とも「白鳥王」とも呼ばれる。政治への興味は薄く、戦争に負けたばかりで多額の賠償金を抱えていたにもかかわらず、借金までして自身のメルヘン趣味に耽溺し、中世風の美麗な城を各地に残した。夜中にソリ遊びを始めるなど、奇行に走る王を家臣たちは危ぶみ、精神病だという理由で退位させた。その翌日、40歳で謎めいた死を遂げた。 |
清教徒革命→庶民から伸長した富裕層の不満と王の経済政策における失錯
アメリカ独立戦争→事実上、一大国家が樹立されてんのにガキ扱いされて代表送れないとかおかしいじゃん?という全国民的な不満がボストン港をティーポットに
フランス革命→飢えた庶民を知識層が煽っていたらコントロールできなくなった
ロシア革命→産革以降の資本主義のひずみに対応できなかったことによる庶民の貧困と不満
このうち庶民のデモや暴動から直接革命に繋がったのは、米独立戦争、フランス革命、ロシア革命、イラン革命。
特にフランス革命やロシア革命は、腹減ったからパンよこせデモから始まってるんだよね。
この前、選挙学者?の西田亮介が出演したラジオ番組で安保デモを評して、「ああいう日常とかけ離れたイシューでやるよりは、もっと生活に密着したことでデモやるほうがいいんじゃねえかな」などとぼんやりした発言して荻上チキりんやtwitterのみなさまから鋭いツッコミを受けてたけど、彼は彼なりにこういう背景を踏まえたうえで言ってたんじゃないかと思う。
デモが本当に革命を起こすとしたら、現体制の代替となる思想が広まったときではなく、大多数の都市部貧困層が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたとき(あるいは思想信条宗教的に同様の状況に立たされたとき)しかない。
その切実さは今の日本には、もちろんない。
歴史的に言って、革命とは「やりたいから」起こるのではなくて、「必要だから」起こる。外圧とか白色テロル的な場合を除けばね。
しかしまあ、SEALsの人がこの前の小林よしのりとの対談で言ってたとおり、いまどき誰も「デモで革命」なんて求めてないんだろうけれど。
自殺を「犯人と被害者が一致している、ちょっと特殊な殺人」と考えればhttp://anond.hatelabo.jp/20140817233229
自殺が殺人なら論理的に言って自殺を行う者は殺人を行う者なのでそこは否定はしないけど、ヒスるのはよせと言ってるだろう。
そうやって都合のいい所ばっかり拾い読みするからロックなんて引いてきちゃうんだよ。
ロックに始まる所有権の概念とロックの信仰による自殺への価値観を混合してるんすか?笑へーつまりロックに始まる所有権を支持する人はロックの自殺への価値観と同一なんだー笑
所有権の概念を学んでこいと言われたらロックは自殺を支持してない!!!と言い出したバカはさ、ロックに始まる所有権はこういう理屈だから違うよね?と言えるまではゴミなロジカルのかけらもない妄言だと気付こうなお前の自殺した身内が殺人犯だったしか今んとこ明らかになってないからな
ジョン・ロックの唱えた所有権ってのはそもそも王権神授説への批判から始まった労働所有権論の側面をもったものだったの。労働所有権というのは労働の産物を所有する権利のことであるとともに、環境という限りある資源をいかにして自己と他者で共有して生き延びていくか、そのために権利はどのように制限されるべきかあるいは制限されてはならないかについて議論するという目的においてキーになる概念なの。ざっくり言うと彼は生きるために自己決定する(他人によって決定されない)権利について唱えたのであって、死ぬ権利ははっきりと否定しているの。
つまりロックの所有権の概念を支持する人間はロックの論をもって自殺の肯定は行えない。当たり前の話だわな。
何でこんな簡単な事が分からないかね?
更に厳密に言うなら、「ロックに始まる所有権」なる用語でロックの論から外れた所有権の定義を用いているつもりなら、その定義の詳細を説明する義務はお前の方にあるんだぜ。
説明になってない。何?造語だったの?
ロックの所有権は使えないよって言ったじゃん。「同一性決定権」は造語だし。お前無茶苦茶だよな。
自殺遺族が言うおかしな理屈を批判してるからね遺族を叩くなんて!ってそこだけピックアップして過剰反応すんのは自分が一番コンプ抱いてる表れだな一貫して主張してるなら途中からで全然問題ない
それを「自殺遺族」と知れた途端に湧いたヒス野郎が言っても説得力が無いわけでね。
「おまえの自殺=殺人論は所有権同一性決定権を無視と批判したら、法治国家なので制限されるとお前は返した。法によって制限されるのはそのとおり。だが無視していい法律」がないとおかしい、法律がないのに所有権同一性決定権を無視していいことになるそんなのは法治国家ではない
ロジカルに答えたいなら論点をしっかりつかもうな
自殺を手伝って殺人罪の減刑類型に問われるんだから国は法的には自殺を殺人と見なしているだろ。自殺が適法だったら自殺関与罪は総崩れだし自殺を止めるようなあらゆる言動が法的に強要罪に問われることになる。
お前の造語の「所有権同一性決定権」とやらが何だかわからんが、自殺する権利というのは認められていないんだよ。自殺は殺人、殺人に手を貸すと罰される。それだけ。
ところで欧州の安楽死施設はその対象を「身体の致死性の苦痛を伴う病気をもつ人間」に限っているそうだな。
おまえの腐った脳みそに合わせるなら殺人犯家族の殆どは被害者ぶるなと叩かれないから自殺=殺人と思う人は少ないってことだな笑
そもそも、俺の発言は「被害者ぶるな」じゃないんだけど笑 俺の言ってる内容は"他の自殺者への攻撃の理由として"被害者意識振り回してんじゃねーよって話だな。差異がわかったかな?ん?殺人犯と同じ扱い笑
殺人犯の家族がバカだと言われている、私はバカだと言われた、だから私は殺人犯の家族と同様に扱われている、同じ叩き方=同じに見られているという発想に疑問をいだかないコミュ障なら論外だな
小学生同士で言い合ってても殺人犯の家族と同じ扱いされてるそ!とか叫ぶのかなこのバカ
同じ叩かれ方してるだけで同じに扱われてるのではないと書いてるのに、そういう(同様に扱われる)場合(→前行の同様に扱われる場合以外指すものがない)があると認めたことにしてる捏造クソ野郎が自殺は殺人だと叫んでるんですね、わかりました
バカは例えだろ脳みそ腐ってんのかクソに変えても同じなのは明らかだろ
自殺=殺人の前提の時のみ差異は必要って話だね、小学生同士の言い合いの例を見ても違うのは明らか、そして自殺=殺人は未だ所有権同一性決定権の観点から否定されていない
「被害者意識を振り回す」は「被害者ぶるな」とどう違うんだ?言葉が同じなのに「同じ叩き方ではない」と主張する根拠は何だ?
たったこれだけに答えられないってのをごまかすために、よくもこんなに長文費やしたもんだね。
???勝手に殺人の量刑と同等かどうかで判断したかのように言うのやめてくんないかな?脳みそ腐ってる捏造クソ野郎からしたら当たり前なのかもしれないけど、全くロジカルじゃないじゃん。
自分の持つ所有権と他人の持つ所有権の剥奪は全く異なるのは明らかと言われないと理解できないのかな笑今更脳内空想されても困るんだわ、まぁ今回もロックから始まる所有権について学んでもいないし同一性は自己同一性ではなく俺の主張のことか!?ときちがいじみたことしか言わないし決定権は苦しみから逃れるのは当たらないキリッ…というマイルール適用しだすし所有権同一性を制限できる法律は提示できないくせに決定権は判例がないからダメとか言うダブスタ繰り出すし何一つとして有意義な議論できない人だとわかりました
自分のもつ所有権と他人のもつ所有権の剥奪はどう異なるのかな?
ここでの「所有権」は勝手に生命の所有権と解釈しておくが、いずれにせよ生命という個人法益を著しく損なうという点ではどちらも同じ、殺人という違法行為だ。
超シンプルな話じゃないか。何を長々とぶつくさ言ってるのかね。
これ以上のトラックバックは要らないよ。もうお前からは悪態しか出てこないから、まともな議論は望めないとよくわかったからな。
怒りで手が震えて同じ内容連続投稿しちゃったのかなぁボクちゃん?wwwハイハイwww朝からごくろうさーんwww
女みてぇな口調でトラバつけてきた次は考えられる限りの罵声を浴びせてくるとかwwwホントに手札少ないんだねぇキミwww
>一般的な社会常識も知らない、どこぞの狭い空間で何世代もかけて熟成された
臭くて臭くて仕方ないってだけ
神社に対して
「ご祈祷の価格を明示しないなんて!これはおかしい!価格表示の義務がある!表示されてないなら限界まで値切ってもいいはずだ!」
とか頭おかしい事吠えてる奴なんているかぁ? いねぇよなぁそんなキチガイ。
なんでいねぇのか?っつったらそりゃ、それがいくらなんでも非常識な行為だって事をどんなバカですら分かってるからだよなぁ。
で。
それを平然とこなしてしまうお前こそ、一般的な社会常識も知らない、どこぞの狭い空間で何世代もかけて熟成された馬鹿のサラブレッドだよなぁ。
喋れば喋るだけ馬鹿がばれるんだからさ、ドヤ顔で常識語るなよ。
臭くて臭くて仕方がないからさぁ。ケケケ。
おまえが悪いわけじゃないよ、おまえの親が悪いんだ
商いと宗教の区別がつかないゴミ一族が日本に存在してると分かってよかったよ
厳選された馬鹿のサラブレッドらしく想像力が足りねぇみたいだから説明してやると、宗教で飯を食ってる奴にとって宗教とは商売なんだよ。
だが、商売としてのやりやすさをまず第一に考えるのなら、商売にカテゴライズされない範疇に収まっていた方がずっとやりやすいってわけ。わかるかなー? そうかー、バカだからわからないかー。
じゃあもう少し分かりやすい例えを出してあげようねー。ヘイヘイサラブレッド君、時に、王権神授説って知ってるー?
大昔の支配者階層が自身の覇権の正当性を主張するために、被支配層と何ら変わりない人間であるはずの己が「神から王としての権利を授かったのだ」とか大ホラを吹く、って奴ね。
目に見えぬ神の存在に怯える無知な被支配者層にとっては、支配者に逆らう事が神に逆らう事に等しくなるから、支配体制は磐石となるって寸法だ。
迷信深い古代の民を統治する上で、王権神授説を盾にとった支配者層てのはそれこそやりたい放題だよなぁ。何しても許される大義名分がある。
で、ここで元の話に戻ってくるんだけどな。改めて言おう。
「商売は、商売にカテゴライズされない範疇に収まっていた方がずっとやりやすい。」
意味わかるかなー? そうかー。わからないかー。この程度の簡単な搾取構造も理解できないから、だからお前は一生搾取される側なんだよ?
お前が悪いわけじゃないよ。お前の親が悪いんだ。
商いと宗教との、効率性やら利益率の比較にすら着目できず、ひたすら搾取され続けるゴミ一族が日本に存在してるとわかってよかったよ。
ケケケケ。
ああ、これはあくまで願望
言われた事をそのまま返してるように見せかけて、実は自殺教唆の言質を取られるのに怯えてるのかな?チキン野郎乙www
その点俺は恐れないね。おいコラてめえ、ナメた事ばっか言ってっと八つ裂き神事すっぞオラァ!!(タイムリーなネタ)
ああ、これは皆の願望だから。
実行はどうかお早めに。先送りすればする程つらくなるよ? ケケケケケ。
>詐欺行為で他人のケツの穴舐めて生きてるゴミがなんで人間並みに日本語話してんのか
さっぱりわかんないね
んーお前ってひょっとして「ボクはこいつらとは違ってまっとうな商売をしてる!こいつらとは違うんだ!」って勘違いしてるのかも知れないけど、
規模も大きく歴史も非常に古い神社神道を堂々と詐欺扱いしてる時点で自動的に、お前の商売なんざその詐欺以下って事になるんだよね。
つまりお前も詐欺行為で食ってるのと何も変わらないって事。むしろ低俗さではそれ以上ってこった。
まあ、お前みたいな、詐欺行為で他人のケツの穴舐めて生きてるゴミが、なんで人間並みに日本語話してんのかさっぱりわかんないねぇ。
ケケケケケケケ。
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
「フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である」
のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団が一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています。
平民(第三身分)は、農民や都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わずに家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワと民衆との境界層です)。しかしブルジョワと民衆は意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。
ブルジョワと民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります。
普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオンが総裁政府を軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます。
しかしその当時フランスの社会構造がどのようなものでフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります。
わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきます。ブルジョワと民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた
などを読んでみてください。
があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。
(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分の強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)
1789年5月5日にヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分が強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。
しかし7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民は政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵を組織します。
7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆が殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まり、バスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます。
新たに組織されたパリ市政当局とブルジョワの民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります。
一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります。
自由主義貴族だけでなくブルジョワの議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます。
8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます。
これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます。
しかし王は特権廃止の法令も人権宣言も批准せず、9月末には治安維持の名目でヴェルサイユに軍隊を集結させます。
10月5日に食糧危機を訴えるパリ民衆がヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令と人権宣言を批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会もパリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内の政治分裂も本格化していきます。
(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)
議会がパリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較的平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます。
1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます。
また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命か反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります。
さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こります。カトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるもののフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります。
91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります。
これを受けて、外国に支援された亡命貴族が攻めてくる、外国の侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制もしかれます。
7月には主要な政治組織であるジャコバン・クラブが、王の廃位と共和制を要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。
8月にオーストリアとプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族の陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます。
そうしたなか9月3日に立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。
(インフレや物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます。国内の多数が開戦を支持するなかオーストリアに宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります。軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆の恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位が要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会は王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会の召集を決議します)
憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員のほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派のフイヤン派が議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます。
なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党は存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥の議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります。
また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります。
議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義をあくまで守るのか、民衆の要求を受け入れるのかも問題になっていきます)
これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治のイニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉で対外戦争をあおります。民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。
92年3月、フイヤン派の大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリアに宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争はナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。
しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆が政治的に組織化されていきます。
そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件は偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。
ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会の召集を決議します。これでフランスが共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります。
(戦争はフランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土を占領します。93年1月には国民公会の裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土の占領や国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争に突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります。議会ではジロンド派と山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派が民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派は逮捕、議会から追放されます)
8月10日に王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命、裏切り者を排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者が逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり、義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。
そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースがパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。
この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります。
一方、この事件は国外からの印象を非常に悪いものにします。宥和政策を取っていた隣国スペインの首相も宥和政策を撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命に好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます。
戦況にも変化が生じます。フランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』)。
普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められています。フイヤン派は出馬していないので議会におらず、共和制穏健派のジロンド派と共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派がジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)
ジロンド派は経済的・政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則をあくまで重視し、山岳派は革命の推進と防衛のためには民衆の要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。
……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。
93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派の一党独裁(ただし基盤の脆弱な独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります。
こちらの人はまっとうな感じなので、コメントしてくれたお礼と回答を。
たしかにWikipediaのこの記述は納得できる内容になってると思う。中華思想の概略として読んでも、ぼくがフリーハンドで書いた説明なんかよりずっと正確だと思う。
天人相関説を中華思想の説明の中で述べたのは、中華思想というものが中国の王権との関わりの中で生まれたという認識がまずあって、中国の王権ってのは単なる権力構造ではなく義務と直結してるってことが示したかったからです。たしかに「中華思想」の考え方に天人相関の考え方は必要条件じゃないので、中華思想というひとくくりの中で述べるのはまずいかもしれないですね。
横だけど、ネットなんかでよく使われる文脈での「中華思想」の説明は、Wikipediaで言うと、「冊封」の項の華夷思想の説明がわりとしっくりくる。個人的には。
冊封が行われる中国側の理由には華夷思想・王化思想が密接に関わっている。華夷思想は世界を「文明」と「非文明」に分ける文明思想である。中国を文化の高い華(=文明)であるとし、周辺部を礼を知らない夷狄(=非文明)として、峻別する思想である。これに対して王化思想はそれら夷狄が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れるならば、華の一員となることが出来ると言う思想である。つまり夷狄である周辺国は冊封を受けることによって華の一員となり、その数が多いということは皇帝の徳が高い証になるのである。また実利的な理由として、その地方の安定がある。
王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。
↑これは天人相関説だよね?
「王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。」という天人相関説の部分まで「中華思想」と言ったときの内容に含めちゃうと、「中華思想」がなんかすごく包括的な語になってきちゃって、多分そういう意識ではあまり使われていないような気がする。あくまで個人的にだけど。
専門ではないと断った上に参考文献も示してるのに、そんな横柄な言い方をされる覚えはないんだが、一応わかる範囲で。
えー
催促するのが横柄なの?
むしろ催促するほうがめんどくさいし手間なんだから催促しないでも最初から書いてよ。
誰がそんなこと言ってんだ?
確かにはてなキーワードがどうこう言ってる奴がいるけど
なんであんたはあれを自分へのメッセージとして捉えたのかすらわからん。
つーかどういう意味なのアレ?
まず、中華思想というのは王権の正当性と密接に関係している。王権が正当であれば四海波立たず、季節は穏やかに巡り、作柄も良くなる。
それただの易姓革命の話じゃね?
また中華の王権を持つ者は、周辺諸国に対して教化の役割を持つ。
蛮族は無法で無教養なので、中華の文化を浸透させてあげなくちゃいけない。
関係ないw
そもそも周辺民族を押さえ込めなくなれば攻め込まれて不安定になって倒れるだけのこと。
あんたの説明はディテールがちょこちょこ間違ってる上に
結局何が言いたいのさ?