はてなキーワード: 明確化とは
まぁ、女性も声を大にして言うことでは無いが、これって素直な感想としてあり得る。釣りだとしてもいいえて妙。
でさ、だとすると本当に男性観点だと件名のとおりで、男性が仕事で長時間労働だったり、辛かったりしても、尊敬も感謝もされないんだよね。男性が女性の働きやすさみたいなのに協力するメリットはあまりない(長時間労働やつらい仕事は女性の働きやすさとは別に解決されるべき)
あと(これはフェミニズム的なアナウンスの結果もあるだろうけど)「女性の賃金は低い」というアナウンスだけはされて、元増田みたいな女性が存在することはアナウンスされていない。男性が弱者女性と結婚するくらいには、強者女性は弱者男性と結婚するだろうか。
いやさ、静かな運動として、女性の働きにくさを明確化して(結婚、産後辞めやすいとか)賃金格差を強化した方がいいんじゃねーの、と。
古文漢文がなくなったら、30年くらいで極端な日本語右翼と左翼がウザくなってくると思うんだよね。
別に100%読解できなくたっていい。現代文と全然違うけど、何となく現代文と似ている、そう実感するだけで十分教育の価値はある。
多分、コレ読んでいる人が無意識にやってるし、普通の人間ならできると思っている当たり前のことの土台に古文漢文がある。
それがなくなる。
テラワロスwが公用語になったら嫌だろ?それは会社や公共機関でそういうの使っている奴を叩いていればいいってもんじゃないんだ。
https://togetter.com/li/1107013 「現代科学の敗北リスト」が笑えるようで笑えないレベル みなさんも気をつけて
昨日と今日が同じなら正しいというのは安直だけどリスクが少ない。
日本語にはコレという型がありそこから絶対に逸脱してはならないという教条主義。
ら抜きことばは「可能」「敬意」を区別する合理的な進化だと認められない人々。
これから先、
・もっと極端な話をすれば顎の骨格の変化が及ぼす音への影響
そういった様々な要因で我々が使う口語まで変化して、それが合理的だと見なされて標準化するかもしれない。
そういうときに「これでいいんだ!」と日本人が受け入れる器の大きさ、それは古文漢文教育にかかっている。
「みんなバラバラでいい、何なら日本語から正式文法、正書法なんて概念を廃止してしまえ。一人ひとりの言葉は違っても全て公文書的に認める」
なんて主張がまかり通り
もしくは、絶大な人気を獲得した芸能人のそれや、インターネットスラング
社会が「過去から現代への日本語の進化には、これこれこういう理由があって、この用法はあくまで乱れた日本語の域を出ない」と線を引く力。
これ以上文法が乱れたら、言った言わない・どういうつもりで言った論争が終わらなくなる。
ああ、やっぱり分からない感じなのか。
twitterで、英単語とツイートした適当な奴にいいねを送っていたが、打率が悪いんで今回も分かりにくいんだろうと思っていた。
日本言語学会にもこういう脅迫めいたメールを送って、4日ほど経った。今回も返事は帰ってこないだろう。twitterでは半年ほどは動いているはずだから、放置してメールが来たら良いなぐらいのスタンスでいこうと思う。
このようなサイトを作り、宣伝して周っていますが、あなた方が「日本言語学会」などという普遍的な名称を掲げ、権威として振舞っているおかげで、こちらはそれに認められてないというだけでデマとして扱われ迷惑しています。
あなた方は論文の審査と言いますが、そもそも自然言語の分析というのは既に知っているものについて明確化する作業なのであって、本来的に演繹的でなく帰納的なものであるはずです。
あなた方が何をもって論文を審査するのか理論的に分かりませんし、そのようなもののために無職である私が7000円も支払うわけにはいかないのです。
最初に書いたように、意識しないにしても、あなた方は間接的に私の活動の障害になっています。
今回に限らず、あなた方はその名称をもって一般的に、権威と認められ、障害として存在しています。
であるから、あなた方は社会的にこの質問に答える義務があります。
返答を待っています。』
追記:ああ、あんた、本当にありがとな。
昨今議論されている「告白ハラスメント」とか「異性の友情」とかについて、
とどのつまり「恋愛のセオリー」なるものが、個人個人において著しく乖離していることが原因であろうと思う。
何故こうも乖離するかと言うと「恋愛を学ぶ場が乏しい」に他ならない、と思う。
友達、親兄弟、学校の先輩と言った人から教わる場合、あるいは少女漫画、恋愛ゲームと言ったメディアから教わる場合、あるいは何も学ばない場合…
とにかく「恋愛の教師」なるものが人によって全く違うのだから、乖離して当たり前なのだ。
「その個人個人の価値観の違いを探り合って摺り合わせするのが恋愛の醍醐味だ」という意見も間違ってはいない。
しかし、その価値観の違いこそが「告白ハラスメント」のような悲劇を生み出してしまうことは目を背けようがない。
結局今の恋愛というゲームは「手を使ってもいいサッカー」状態なんでは?
だから「手を使うのはルール違反!」と言った所で「そんなルール聞いたことないし知らん!」
今求められているのは「恋愛というゲームのルールの明確化」である。
かつて企業ブースの出展企画を手伝った事がある。その準備に際していろいろ調べ備えてゆく中で「コミケとはそれ自体を維持存続させたいと願う参加者全員の相互の想いの積み重ねの上にかろうじて成り立ってる巨大なコミュニティなんだな」という事を強く感じた。そして参加する以上は代々引継がれている「その想い」にこそ敬意を払うべきなのだろうと感じ、その事をスタッフ全員で共有し出展の作業にあたるようにした。それまでは単なる巨大イベント程度にしか考えていなかったが、実際のリサーチと準備と参加を通じて「コミケとは世界的に見ても非常に希少な種類のオーガニックなコミュニティ」なのだという理解に至りその事に大いに感心した。それが「コミケにお客様は一人もいない」という言葉の本当の意味であり価値なのだろうと感じコミケが大好きになった。
しかしながら、ここにこそコミケ特有の危うさが潜んでいるのであろうとも思う。
通常のイベントでは「運営主体とお客様」を区分し「明文化された理念やルール」に従って起こる事象の責任の所在を明確化させるが、コミケはここに線を引かず全員を運営当事者と見なしている。それはつまり「参加者全員の理解と協力によって自律的に成立させましょう」という事を意味しているのだと思うが、現状の様な規模にもなると無理も生じて来る。徹夜組、会場を走る者、その他諸々。コミケの存続に大小様々な障害を為し得る「お客さま気分な人々」の数も年々増えて行く。これはオタクであるか非オタであるかという問題では無い。「コミケという様々な趣味クラスタの集合からなる自律的コミュニティの存続」に対して敬意を払い貢献する「意志」があるのか否か?という問題である。
自分も確かに真木氏の今回の一連の行動自体は「明文化された理念」に反していないと思う。営利か非営利か?クラウドファウンディングを介するか否か?についても、参加の可否を問われる様なポイントでは無いと考える。そして彼女とそのファン達がオタクであるか否か?という点にも何らの問題は無いと考える。だがしかし。一点だけ。彼女の言動には「危ういバランスの上で営々と続いて来たコミケと言う自立的なコミュニティ」を理解しようという姿勢が全く感じられなかった。「自身の表現に対する想いと自身のファンに対する想い」は強く感じられたが、これから参加しようとする場が、皆の想いで成り立っているコミュニティである事自体をそもそも認識していない様に感じられた。
ブコメやトラバでもなにやら揉めているが、別に「オタクに媚びろ」という事では無い。ある集団の中に自身と自身のファンという別個の集団を合流させようとする時に、それを先導する者が身内に向けた発言に終始し、合流対象に対して知ろうとする姿勢を明確に示さなかったのは悪手であったという事だと思う。恐らく彼女自身が「お客様気分」である事が感じられ、同時に無自覚ながらも「お客様気分の参加者」を大量に招き入れる可能性が高いと見なされたからこそ、そこに不安感や拒否反応が出たのではなかろうか。少なくとも自分にはそう感じられた。
長々書いたが、個人的には真木氏の辞退はしかるべき結果なのでは無いかと考える。禍根は残るが上記の様なコミケの大前提をうやむやにしたまま、開催当日に誰も得しないもっと大きな揉め事を起すよりかは多少は良かったのではなかろうかと思う。
まずはもう少し(自分自身で)コミケの事を調べ理解し、その上であらためて次々回以降の参加を検討表明した方が良いのではなかろうか。キチンとした理解と敬意の上に成り立った再度の参加表明に関しては、コミケに参加する側からも敬意を払うべきであると思うし、祝福され歓迎されるべき事柄なのでは無いかと考える。
80年代前後の24時間テレビのメインテーマは、必要な支援は何かということを明確化していた。
気持ち悪さはあまり感じない。むしろ誠実さや実直さといった、プラスのイメージを抱くテーマである。
回数(放送年) | メインテーマ |
---|---|
第1回(1978年)・第2回(1979年) | 寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を! |
第3回(1980年) | カンボジア・ベトナム・ラオスの難民のために! |
第4回(1981年) | アジア・アフリカの障害者のために!国際障害者年記念 |
第5回(1982年) | ストップ!ニッポン姥捨て時代! |
第6回(1983年) | 君の地球のボランティア!アフリカ飢餓緊急援助!世界コミュニケーション記念 |
第7回(1984年) | この地球の未来は子どもたちのもの! |
第8回(1985年) | アフリカ飢餓救援 |
第9回(1986年) | 寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!そしてアジア・アフリカの飢えた子どもたちのために! |
第10回(1987年) | SAVE THE CHILDREN |
第11回(1988年) | 君は地球のボランティアお年寄りに在宅福祉を、障害者に社会参加を! |
第12回(1989年) | アジア・アフリカの子どもたちに海外援助を! |
第13回(1990年) | 地球を救え!10年計画 |
第14回(1991年) | 雲仙・普賢岳災害救援!寝たきりのお年寄りにお風呂カーを!障害者に社会参加を!アジア・アフリカに海外援助を! |
90年代ごろ、何が必要な支援かということがメインテーマから消えた。
その代わり、メインテーマが薄っぺらい美辞麗句だけで構成されるようになった。
個人的にはポジティブの押し売りみたいな薄気味悪さを感じるし、一抹の気持ち悪さすら感じる。
回数(放送年) | メインテーマ |
---|---|
第15回(1992年) | 愛の歌声は地球を救う |
第16回(1993年) | 出会い |
第17回(1994年) | チャレンジ! |
第18回(1995年) | もう一度、チャレンジ |
第19回(1996年) | ONE LOVE〜つなげよう!ひとつの愛〜 |
第20回(1997年) | 勇気を出して |
第21回(1998年) | いま、始めよう |
第22回(1999年) | 伝えたい…夢のちから! |
第23回(2000年) | がんばる…君のために! |
第24回(2001年) | 家族って何? |
第25回(2002年) | 家族で笑ってますか…? |
第26回(2003年) | あなたを一番愛する人… |
第27回(2004年) | あなたの夢はみんなの夢 |
第28回(2005年) | 生きる |
2000年代の中ごろ以降、メインテーマは90年代以降の薄っぺらい美辞麗句路線を維持しつつも、
本来漢字やひらがなで表記すべきところを意味もなくカタカナで表記(キズナ・キセキなど)したり、
一般受けしやすい単語(絆・愛など)に薄っぺらいポエムをドッキングさせたりしている。
回数(放送年) | メインテーマ |
---|---|
第29回(2006年) | 絆(キズナ)〜今、私たちにできること |
第30回(2007年) | 人生が変わる瞬間(とき) |
第31回(2008年) | 誓い〜一番大切な約束〜 |
第32回(2009年) | START!〜一歩を踏みだそう〜 |
第33回(2010年) | ありがとう〜今、あの人に伝えたい〜 |
第34回(2011年) | 力(ちから)〜わたしは、たいせつなひとり。〜 |
第35回(2012年) | 未来 みらい |
第36回(2013年) | ニッポンって…?〜この国のかたち〜 |
第37回(2014年) | 小さなキセキ、大きなキセキ |
第38回(2015年) | つなぐ〜時を超えて笑顔を〜 |
第39回(2016年) | 愛〜これが私の生きる道〜 |
第40回(2017年) | 告白〜勇気を出して伝えよう〜 |
数十年もの間、毎年数億円単位の募金を集め、それを社会福祉のために役立てている24時間テレビの存在には頭が下がる思いだ。
そういう実績がある以上、今後も続けていくべき番組だろうとは思う。
20年ほど前、1996年から2000年の間くらいに日経新聞か自動車雑誌経由で知った気がする。誰が使い始めたんだろう?
Amazonで検索するとそれ以前1980年代は麻雀本か競馬本のタイトルとしては使われているのが確認できるね。
NDL-OPACでの検索では1997年8月にビジネス関連でそういうタイトルの本が急増している。その中には影響力がありそうな大前研一の名前も見える。このDBでは1997年3月の雑誌「実業界」中の「勝ち組,負け組が明確化する激動の97年は投資チャンスだ--日興証券編」という記事が最初だが、Amazonでは1996年にも2冊の「勝ち組ビジネスマン」本がひっかかる。
https://anond.hatelabo.jp/20170721000647
稲田防衛大臣の辞任会見における、再発防止策でもこれにそった形となった。
というものであった。そのために、辞任会見における再発防止策は
というようなものになった。
彼が具体的に何らかの犯罪をやってしまった、という部分もあるのだろうか?
航空会社が定めたルールに客が従わないことは、犯罪とまでは言えない。
これは健常者でも障害者でも同じことだが、民間企業が勝手につくったルールを破ることは犯罪とイコールではない。
そりゃあまあ、やり方が過激だとか、当たり屋のクレーマーっていう批判が出てくるのは分かるんだけどね。
「木島さんサイドに犯罪行為があったか」ってことを明確化してほしい。
バッシングが起こってしまった以上、そこをはっきりさせるのは大事だと思う。
“実際に遠隔地まで公共交通機関で行くということには、健常者の何倍ものエネルギーが必要なのです” これな。健常者だって色々我慢してるんだから…という意見には少々違和感があった。まず前提条件が違い過ぎる。
「旅行したい」というありふれた願いにすら壁があるのは辛い。
みんなからクレーマーとか当たり屋と言われるような人がいないと何も改善されないことが明らかになった
車椅子の歴史は飛行機より長い。二足歩行で搭乗できる飛行機の設計は発想できるのに、車椅子では乗れない設計をする意図が知りたい。
「やりかたがぁぁぁぁぁ」してる人らがいよいよ無茶な叩き方に走り出す構図がブコメに。差別主義者って自分の属性を明確化されるのを嫌がるので「これは差別とは違うぅぅぅぅぅ」ってなった末路だわなぁ。
今回の件は「障害者は一手間かけろ」というルールに障害者が「健常者と同じようにさせてくれ」と言っているわけだから、構図だけを見れば「障害者様のわがまま」なんかではないよね。
障害児の母です。手帳があるので障害枠でしか保育園入園できません、人員確保ができないので入園できませんと、ゆるやかに区別差別され保活のスタートにすら立てず泣いたな…ノーマライゼーションはまだまだです。
リソースが有限?
知るかよ、何よりも優先して国費を全力で投入して、対応するんだよ。
貧乏人?
無職だろうがなんだろうが、生活保護などの福祉で解消されるべきで、障害者問題とは別の話。
働く意味?
この国において根深いのは「マジョリティとマイノリティ」の対立ではなく「マイノリティとマイノリティ」の対立だと思ってしまうんですよね…
いや以下、「お前の言うそのマイノリティって具体的に何のことよ」って言われたら明言はしませんけど(うわぁズッリ~
やっぱ日本はこうマイノリティ同士が足を引っ張り合ってる印象が強いと思うんですよねえ
そんでそんなマイノリティ同士が勢力を削ぎ合ってくれるからもうマジョリティとはニヤニヤ傍観ほっくほくみたいな。
例えば(いや喩えになってないけど)マイノリティ甲とマイノリティ乙が「自分ら甲はマイノリティだ!だがお前ら乙がマイノリティ面すんな!」
…みたいな光景みなさんよく見ません?見ますよね?見るって言えボケ。よしよく見る光景ですね。
こうなってしまう最大の理由は「マイノリティの定義の曖昧さ」だと思うのですよね。
昨今色んな人がお前らグリーンデイかよと思うほどマイノリティマイノリティ言ってますが、
その定義についてみんな同じかと思いきや、よ~く耳を傾けて見ると各人によって定義は薔薇けてるもんです。
上記で言うなら「甲が持つマイノリティ定義」「乙が持つマイノリティ定義」
さらに甲乙丙丁戊己庚辛壬癸…十干って十二支に比べて何でマイナーなんだろうな?みんな言える?俺は暇な大学生の頃無駄に暗記して覚えてる。
まあとにかく色んなマイノリティ定義があるわけで、そりゃあみんなの定義が違うんだから衝突はある程度起きてしまうってぇもんです。
そうなると必要なのは「マイノリティ定義の明確化」となると思うんですが、
これがなっかなか難しい。
何でかって言うと「多数の人間が共有する価値観を醸成する」という行為自体がマジョリティ的である、というパラドックスを抱えているからですよ。
なんて言うかあれですよ。反社会的だったはずがロックが商業化して世間に受け入れられてがっかりみたいな?いやなんか違うな。まあみんなテキトーに考えといて(えー
遊びも勉強だから真面目にやった方がいいよ。相手の示唆していることが分からないことにメリットは全然ないし、それを身に付けるには実技しかない。言語能力が発達していれば勉強も軽く済むし。日本語がわからないおじさんは地獄でしかない。収入もないし。
勉強と遊びを二項対立に持っていく論法は実は勉強をしない人の言い分で、勉強ができる人は人と対話ができるから遊びができるし、意図が理解できて問題が解ける。できない人は指示を明確化されないと解けない、というか解かれた問題を読むことしかできないから、何らかの概念が理解できていないように周りからは映る。人間のコミュニケーションは細かな意図の組み合わせで、誰かの固まりきっていない意図を汲み取って自分のそれと組み合わせることで新しい意図ができ、それが価値になる。「勉強だけした人」はそれができないので、意図は完成していて単純に手が空いていない仕事を厳密に指示されることしかできない。それがどんなに高度な手作業でも、人間を離れて高度であること自体に価値はほとんどない。
だから高校では人間との共同作業をきちんと勉強したほうがいいよ。できれば高校では小中で実践してきた協調を価値に変える実践に入ったほうがいいよ。おじさんには知識しかないからもうすべてが手遅れだけど。
世界で最も痴漢問題が激しく、陰湿化する国は日本なのである。おなじ満員電車の国のアメリカや韓国や中国には痴漢はない。なぜ先進国で唯一日本だけこの問題があるかと言うと、それはおそらく「責任の主体を明確化することを渋る」からではないか。痴漢の戦犯は第一に加害者だが、加害男は、ただ好き勝手やってれば自分が処分されることをわかっているため、他人に責任を負わせるのである。鉄道趣味などを煽り、傍観者や共犯者をじわじわと作る。そうすることで、自分ひとりが糾弾されたりすることから逃れられるのだ。もし仮に利用者のうち80%くらいが加害者(傍観者含む)となれば、その常態を企業は「問題がある」と認めることはできない。なぜなら利用者(加害者の家族含む)から「うちの人生がどうなってもいいのか!」と糾弾にさらされることになるからで、行政からも圧がかかる。
もし仮に、その鉄道が都市のすべての鉄道路線のうちにたった1路線がそういった常態だったとしても、それでも1路線が危険地帯一色に染まるともなれば由々しき事態なので、当然新聞沙汰になるし、運営も、場合によっては行政の面々なども処分をされかねなくなる。かくして隠ぺいや黙殺が起きるのだ。隠ぺいや黙殺すればするほど痴漢はじわじわと鉄道路線全体に広まる。そしてそれがどの鉄道でも当たり前になり、どの交通機関でも当たり前に、どの都市も平均的な風景になったのが今の日本だ。東ドイツと同じなのである。宗主国の顔色を窺った東ドイツ政府が、無責任に国民をハラスメントするような構造と一緒だ。
痴漢問題は、加害者が少人数(できれば一人)の時点で発見し、その利用者に定期券の没収などの制裁を科すことができればいい。もしそれが食い止められずに全体に広まれば、運営の首を飛ばす仕組みを作れば、運営会社はもっと積極的にマトモにこの手の問題と向き合うようになる。なぜこれができないのか。本当に日本の公共交通はダメだ。
韓国や中国に過激派左翼や暴力団がない理由を考えたのだが、おそらく「公的勢力の権限」が徹底されているからだと思う。2000年代以降の韓国や中国の風景は、さまざまな公共団体への相談窓口が用意されており、裏社会につながる利権のパイプが発生しないようになっている。これは最近の欧米でも普通のものだ。ようするに公共サービスが徹底していて、社会の裏側に必然的に手出ししないように済むわけで、住民も安心して問題点を解決できる。サービスの効率や質もよい。日本の場合、公的機関の権限がいい加減だから地下の人間(昔は裏社会で今は過激派左翼)が利権を作る原因になるんじゃないか。
これは社会のイメージアップにもつながり、問題などを一番小さな次元で食い止めることができる。日本のような公的機関が蔑視される環境だと、公共責任があいまいになり、過激派利権問題やJKビジネスのようにとりかえしのつかない規模になってしまう。いま、世界に名だたるオタクの街が潰れかかっているのはまさにそれが原因ではないか。よくいえば都市や国家のイメージアップになり、人民の利益やモチベーションのアップにつながる。これは本当に良いと思うので、日本は採用してほしい。欧米だけではなくアジアでこういうシステムをやらないのは日本だけだよ。
日本の民度がいまダメになっている理由もこれで説明がつく。なぜ1940年代の日本や今で言えば韓国の過ちと同じことを繰り返そうとしているのかというと「忖度」してしまうから。これはネトウヨや高齢者も考えるべきことだ。君たちの大嫌いな「だらしない日本人の態度」の原因は、特定の人間の責任にできないことにある。
アメリカ人であれ中国人であれ、世界のどの超人や職人も個人単位での評価が当たり前である。
韓国の超人紹介を見ると、必ず名前の紹介がある。日本みたいに民族そのものの評価になることはない。これは米国でも欧州でも当たり前だ。
日本でこのような考え方が徹底されるようになったのは2010年代以降である。それまで、あたかも日本社会自体がすごいという拡張表現することしかないし、インタビューさえ氏名不在の場合が多い。誰が取材したのか、誰が伝えているのかがさっぱりわからない報道が目立つ。
結果的に、無関係のない人達が矢面に立たされてしまい、特定の世代がひっくるめて糾弾されることになるのではないか。あれだって、世代における共通点があったとしても、悪いのは顔の見えない、名前も出て来ない者である。
あれは去年の冬、僕が22歳の時だった。大学が嫌になってしまって実家に帰省していた僕は地元でバイトをしたりしながら、フラフラしていた。課題もたまっていたしやるべきことが溜まっていたけれど、そう言うことから逃げるために実家に帰っていた。そして毎日毎日意味もなくバイトをする中でインターネットだけが僕の癒しで、特にSNSを楽しんでいた。
そんなある日、僕の元に知らないアカウントから連絡が来た。なんでも自分の高校の5つ下、17歳の後輩の女子らしかったけども、プロフィールに出身校など書いていない僕をどこで知ってなぜ連絡が来たのかはっきりわからなかった。けれども、とりあえず連絡を取り合って見た。
そして彼女から話を聞いていく中で、僕は驚きの事実を知った。高校の同期の非リア非モテ童貞だと思っていた友人が実はその5つ下の後輩と付き合っていた上にすでにセックスをしていたと言うことが明らかになったのだ。リア充非童貞だったわけだ。ただ彼は彼女に対し自分の高校時代について多くを語ろうとしなかった。だから親友である僕に彼の高校時代などについて一度話を聞いて見たいと連絡が来たのだ。
正直彼は容姿がいいわけではなく、オタクの権化みたいな見た目で、彼自身も非リア芸をSNSで展開していたし、それは疑うことのない事実だと思っていた。しかしそうではなかったんだ。正直裏切られたと同時に、やることやってんだな、とも思った。
高校の同期が女子高生と交際している上にセックスまでしている、それだけなら同期で集まった時にみんなで話して盛り上がるゴシップの一つに過ぎなかったのかもしれない。でも話を聞いていくと同期のクズっぷりが少しずつ明らかになった。
初のセックスに関しても彼の童貞卒業、そして彼女の初体験にもかかわらず全く愛がないセックスでげんなりしてそれ以来セックスはしていないと聞いたし、記念日にプレゼントもなければ普段の愛情表現もなくて、一方的に彼女が彼に奉仕している、そういう関係だった。髪型も彼氏の指定する髪型を強制させられていて、彼女はなぜ自分が彼氏のことを好きなのか理解できないとすら言っていた。それを聞いた僕は奴隷だな、と言うのが素直な感想で、僕は義憤に駆られたけれども、どうすればいいかわからなかった。そんな折、彼女から二人でカラオケにでも行って一度彼氏の愚痴を聞いて欲しいとの誘いが来た。
行くべきか悩んだ末、興味本位で僕は行くことにした。
カラオケボックスで彼女から話を聞くにつれ、彼女の健気さに僕は惹かれた。正直可愛かった。可愛いと言う感情は弱い生き物に対して抱く感情のそれであると以前聞いたことがあるんだが、まさにそれだ。それに僕と彼女は本当に馬が合った。本当に盛り上がって、かなり長時間カラオケボックスに居たものの全く飽きることなく、そしてカラオケにもかかわらず全く歌を歌うことなく終わった。
でもその中で、彼女と僕は盛り上がりすぎた。最初ソファの端と端に座っていた僕らは少しずつ距離が縮まっていって、いつしか隣同士になった。健気な彼女の努力と、彼氏の愚痴を聞いていく中で彼女の努力を褒めるために彼女の頭を撫でると、彼女は甘えた声を出し始めて、一気に触れ合う面積が増えた。少しずつ彼女の息も荒くなって、彼女は「キスしよ?」と禁断の提案をして来た。
その頃僕は東京に彼女が居た。でもその彼女とはただ単に互いに異性が欲しいから仕方なく繋がっていただけの、愛のない関係だった。実際実家に帰省していたからといって寂しいと言う感情もなく、こまめに連絡を取り合うこともなかった。そういうある意味冷めた距離感というのが居心地が良かったのでもあるが、まあとにかくそういう関係だった。
それでも僕は彼女持ちだ。僕は迷うべきだっただろう。しかし僕は全く迷わなかった。正直に言うが全く迷うことなく、僕は彼女と唇を重ねた。彼女は小刻みに震えながら、僕と濃密なキスをした。いろんな女性とキスをして来たが、今までで最高のキスだった。もう僕は止まることはできなかった。彼女の小さな体を抱きしめ、何度も何度もキスをした。
22歳にして、17歳の女子高生をカラオケボックスで抱きしめ、キスをした。彼女は親友の恋人でもある。でも僕はもう、彼女が好きになっていた。たった数時間会っただけにもかかわらず。禁断の関係だった。もはや漫画か小説かと言うレベルの話である。
そして彼女も、「もし先輩に先に出会っていたら、先輩を好きになってたと思う」と言って来た。もう僕たちは停車位置を大きくオーバーランして、暴走していた。
最後に彼女は「これは『共犯』だからね」と言って、互いに今日のカラオケボックスで何があったかは互いの恋人に対してだけでなく、多くの関係者や友人に対しても秘密にすることを約束した。
そして僕たちは『共犯』という名の元に、互いに恋人がいるにもかかわらず、いわば「セックス抜きのセフレ」として、今後もイチャイチャして行くことにした。僕たちは互いに本命の恋人がいるから本気にならないようにしながらも、イチャイチャしていこうという約束だった。でも僕はすでに本気だった。しかし同時に彼女は親友の彼女でもある。
この感情を相談するのに適切な人間はなかなかいない。高校同期の友人に相談しても手を出すことを制止されるに決まっている。そんなわかりきった綺麗事なんて僕は欲してないんだ。ただ、この複雑な状況において、この僕の走り出した熱情に対し、手を出しちゃいけないならなぜいけないのかを納得させてくれる、そう言う人間が必要だった。
だから僕は恋愛経験の豊富な年上の知人男性にどうすべきかを聞いた。その時その人は「その女子高生を落とすしかない」と言った。その知人は僕と東京の彼女の冷めた関係についても知っていたので、そこまで本気で好きになったのなら、いくところまでいくべきだと言った。そして両方を目指すのはダメだ、どっちかにしないといけないとも言われた。
僕はそれを聞いた数日後に、東京の彼女に対して別れ話を提示した。色々あったけれども、互いに冷めた関係でもあったので大きく揉めることもなく、すんなりと別れた。
また同じ時期に東京で飲み会に参加した時のこと。普段占いなんて気にしない僕だったけれども、飲みの席で占いを勉強していると言うとある女性に自分の運勢を占ってもらった。すると、恋愛運はあまり良くない。そして運命の人とはまだ出会っていないと出た。ちょっと参ったな、と思いつつもその時はあまり気にしなかった。
そして実家に戻った僕は、「高校同期と彼女の関係の健全化を図る」という名目のもと、彼女と会合を重ねた。その時の僕は同期との友情も維持しつつ、あわよくばJKと仲良くしたい、付き合いたい、そういう感情だった。ただ僕はまだ本気で彼女のことを狙っていることを明かしていないのでそこまでガツガツ行くこともなかった。
JKの彼氏(そして僕の高校同期)のことをここでKと呼ぶことにする。
バイトの合間を縫って彼女の家に行ったり、カフェで待ち合わせしたりして僕は彼女の愚痴を聞いたり、彼女がKにどういうことを求めているのかなどを聞いて、Kと彼女の関係を取り持とうとした。とにかく僕は目的だけは真面目だったので彼女の家に行く際もマナーや態度にも最大限を気を使っていて、彼女のご両親からも認められていた。今の彼氏(K)よりも僕の方がいいんじゃないか、みたいなジョークすら言われていた。
そんな後ろ盾を得た状況だったので今思えばKに対してなかなかひどいことも言って、申し訳ないことをしたとは思う。でもあの時僕は義憤に駆られていたし、間違ったことを言ったとは思っていない。ただもう少し表現の方法は色々あったかもしれないなと今反省している。
しかし僕はいずれ彼女のことを本気で好きであることを明かさねばならないとは思っていた。そして彼女もある程度察していたのか素直に自分の欲求を言ってみて、と聞いてきた。だから僕は素直に彼女のことが好きであると言うこと、そして東京の彼女と別れたことを説明した。彼女は特に驚くことはなく、「それなら奪い取るために頑張ってみて」と、対立構造を明確化させた。こうなった以上僕も男だ。やるしかない。
僕は彼女の家にしょっちゅう通った。行くのは彼女から来て欲しいと言う相談がある時だけで、僕から行きたいと言い出すことはない。もちろん目的は彼女と話をしてKのどういうところが問題なのかを聞き、そしてより良いKと彼女の関係の構築を目指してどこを着地点にするのかということを僕が第三者的視点から検討するという目的だった。
役人が出会い系バーに行って問題になったりもしているけれど、僕の場合は本当に調査目的だった。それは事実。
でもカラオケボックスで燃え上がった僕と彼女の関係は簡単に消え去るほど弱い火ではなかった。
彼女と会うたびに僕は彼女を抱いた。とにかく抱いた。それは彼女から求めて来た。僕が先に手を出すのは良心の呵責に堪えなかったからだ。でも僕が彼女に求めていたことでもある。互いに『共犯』という名目のもと、とにかくイチャイチャした。それに僕は少なくともKよりはセックスが上手いという自信があった。実際彼女は僕とイチャイチャしてる時、ものすごく感じていた。そしてある時には一緒にホテルに泊まってイチャイチャすらした。
体の相性って存在するんだな、と思った。多分体の相性が良かったんだと思う。とにかく楽しくて、正直離れられそうになかった。
肉体関係だけじゃなく、普通に喋っていても楽しかった。しょうもないことから大事なことまで、いろんなことを話している中で僕と彼女の考えは非常に近かったし、話していて本当に楽しかった。ここまで女性と話していて楽しかったことはない。彼女は聡明で年上の僕の話にもついてきて自分なりの考えを臆することなく話すので、話していて楽しかった。女の子と話しているのではなく、一人の大人と会話している感覚だった。正直尊敬の念すら抱いた。
イマドキのJKみたいなくだらないこと、当たり障りのないことをグダグダ喋るようなタイプではなかった。例えるならPulp Fictionのミアみたいな女性だった。気まずい沈黙は嫌うけれど、それを回避するためのつまらない話も好まない。そう言う、少しめんどくさいタイプではあったけれど、考えが近かったぶん色々話しやすかった。
やがて僕は彼女とKと僕の3人で集まって話す機会を何度かセッティングし、関係改善の突破口としようとした。表向き僕はレフェリーとしてその場に存在していた。その中でKは幾度となく彼女を泣かせた。僕の目の前で僕の好きになった女を泣かせるKという男が僕は憎かった。幾度となく傷つけ、そして傷つけたことへのリカバリーも十分ではなく、それがまた彼女を傷つけた。なんで、なぜ、そんなにも無神経になれるんだと。なぜわかってあげることができないんだと。本当に僕は怒りで体が震えた。
そんな状況だから僕と彼女は本当の意味で互いに好きになり始めていた。最初は僕が一方的に本気になっていただけなのに、彼女の方も本気になりかけていた。本当に幸せな時間だったし、僕は彼女のあらゆるものを欲した。
そうして僕たちは幸せにイチャイチャし続けていた。でもそれと同時に僕はKと彼女の関係改善のための努力も続けていて、Kは確実に良い方向へと変化し始めていた。僕は完全な悪にはなりきれなかったから、Kと僕との関係も守りたかったし、Kと彼女の関係も最初の対等じゃない関係を改めて改善するつもりだったし、僕と彼女の関係に関してもこのまま幸せになりたいと思っていた。
しかしその3つは最初からどうあがいても両立できないものだと今ならわかる。でもあの時の僕はとにかく今Kと彼女の関係がマイナスになっているのでそれを僕の努力で0にまで戻してやり、その間に僕が彼女との関係で大きくプラスを稼げば彼女は確実に僕を好きになるだろうと。そしてその結果僕とKとの関係が多少冷え込んだとしても僕の努力についてKは僕に感謝するだろうし、長い付き合いだから関係が切れることはないと考えていた。それにもしKとの関係が切れたとしても彼女を手に入れることができればそれでいいとすら思っていた。
そうして僕の計画が軌道に乗り始めたところで僕は年度末が迫って来て忙しくなり、東京に戻って大学や職場関連の手続きなどに追われ、彼女にあまり会えなくなった。それでも僕はずっと彼女のことは好きだったし、片時も忘れることはなかった。
そして僕がつらい時期を乗り越えることができたのも、彼女のおかげだと今も思う。彼女からもらった励ましの言葉や時には彼女に叱責されたことも思い出して、そうして僕はつらい時期を乗り越えた。ただ優しくするだけなら誰にでもできる。僕のためを思って叱ってすらくれる彼女を僕は本当に心の支えにして、必死に生きた。必死だった。
僕はその頃メンタル面に問題を抱えていて、父からもそのことについてよく怒られていた中で、彼女が本当に僕のメンタル面の改善において決め手となる後押しをしてくれた。これが僕の中では本当に嬉しくて、Kも変わっただろうけども僕も変わったぞと、はっきり胸を張って言えると思っていた。
そうしていつしか冬が終わり、春になった頃。Kと彼女の関係改善に関しては僕の努力によりある程度目処が立って、一時かなり冷え込んでいた二人の関係も多少回復していた。
それでも僕は絶対に彼女が選ぶのは僕に違いないと信じていた。そこに根拠はない。でも僕は絶対にKよりも僕の方が彼女を幸せにできると確信していた。それは内面もそうだし、就職も決まっていて収入もそこそこ確保されていて、より現実的な選択肢だと自分のことを思っていたからだ。
しばらく会えなかった中で彼女と3月末に久々に会うことになり、一緒に花見をしながら互いの話をする中で僕と彼女はやっぱり馬が合うなと確信したし、彼女も公園であるにもかかわらず僕にすり寄ってきて、僕のことを好きだと言った。僕はほぼ勝利を確信した。
そして新年度が始まり、ある程度忙しさの峠を越えて、先日僕が久々に彼女とまとまった時間話す機会を得た。と言うより彼女から話したいと言って来た。久しぶりだ。「今話しても大丈夫?」と聞いて来たので僕は少し嫌な予感がした。でも僕は大丈夫だと答えた。
↓続き
同僚女性の生理周期を憶測ではあるが調べ上げてチームリーダにご注進してた俺の時代がついに来たな
出した答えが正しいかどうかは当人に確認するなんてそんなハラスメントできないので分からなかったが
チームリーダ視点では推測の表が休暇や早退と不思議なほど合致してるので人員の薄くなる時期が大体予測ついて保険がかけやすいと好評だった
で、これは余談で生理とはあんまり関係ないが、脳内だけでふわっとあの人はこの時期ぐらいかなって捉え方だとつい楽観的に考えてしまって当日朝一電話一本で休まれるときついけど
チャートにして明確化すると悲観的に推移したときに手薄過ぎてやばいタイミングが可視化されるので保険をかける決断が付けやすいとのチームリーダ談。