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2020-08-22

anond:20200822230411

そういえば、うちの父、プロレス

ジャイアント馬場!!ばーばー!」ってなってるとき

ジャイアントうんこぉ~うんこぉ💩」TVに向かって言ってた。

今考えると誰に行ってたんだろ。本人?観客?それとも居間にいた家族

男でひげとVIO脱毛した話

タイトルの通り

VIOとは鼠径部から陰部、肛門部にかけての部位を指す

まりパイパンになるということである

女性では昨今珍しくないようだが、男性ではまだまだ一般的とまでは言えない気がするので知見を共有したい

きっか

もともと薄っすらとは興味があったが、最大の理由は、なんでも拾って口に入れる1歳の娘が、居間フローリング陰毛を咥えてくるようになったこと。

食べてはいけないものとは分かっていても、居間で小さなゴミを見つけると、必ず口に咥えて見せにくる。

それを親が慌てて口から取り出そうとするのが面白いらしい。おかげで頻繁に掃除機をかけるようになった。

しか陰毛というやつはいつでもどこでも現れる。根絶することができない。

そんなんでリアルVIO脱毛を考えはじめた。

あとはヒゲ剃りも面倒に感じていた。

そんなに濃い方ではないが、夜勤明けにジョリジョリしたアゴになるのが地味に不快だった。

脱毛にかかる期間

完全に脱毛するにはレーザー脱毛施術を6回~10回ほど受けなければいけない。

というのも、毛はおおよそ1年のサイクルで生え変わっており、成長中の毛でないとレーザーを当てても意味がない。

そのため2ヶ月おきに何回もレーザー照射してようやく根絶できる

説明を受けたクリニックでは基本1クール目は6回施術がセットになっている

その後ツルツルを目指す場合は更に2クール目6回を追加で、ほどほどでいい場合は3回、あるいはそこで打ち止めとするらしい。

なお、ヒゲ場合は生え変わりサイクルが早いため、1ヶ月おきに照射してもよいが、2ヶ月おきでも何ら問題はないとのこと。

料金

東京男性向けに医療脱毛しているクリニックは大手で3つほど。そう大差なさそうだったので、純粋に料金で選んだ。

ヒゲ(6回)3万、VIO(6回)7万ほど。他の大手の約半額程度。こまかなアフターサービスで差はあるようだったが、結構値段差は大きい。

事前の剃毛

事前に自分剃毛する必要があるのだが、これがなかなか厄介

自分のケツ毛を鏡なしで見たことがある人はどれほどいるだろうか?

当然見えないのである

施術を受ける前の剃毛原則自分でやらなくてはならない

ここで間違ってもカミソリを使ってはならない

良くてカミソリ負け、悪ければ流血沙汰だ

おすすめはボディートリマー

これなしで陰部の剃毛をするのは自殺行為と言っていい

当日の流れ

電話で予約。まず初回はカウンセリングの予約になる。同日に脱毛希望する場合受けられるようだったので希望した。

まずはカウンセラー(というより単なる美容スタッフだろう)からレーザー脱毛説明を受ける。30分ほど。

その後医師の診察。一瞬で終わる。

再度カウンセラーが現れて契約、料金の説明トータルで1時間ほど。

そしてそのまま処置室に移動し、看護師によるレーザー脱毛処置を受ける。

カウンセリング処置含めてトータルで2時間ほどだった。2回目以降は施術だけなので、1時間もかからないだろう。

追加料金

概ねテキパキと進むが、カウンセラーから一通りの説明を受けたあとに取り出されたのがクリニック謹製の保湿ローション、保湿クリーム。そしてVIO専用クリーム。各7000円ほど。

保湿やら創傷治癒因子やら(レーザーは一応熱傷ではある)メラニン生成抑制やらそれっぽい単語が並んでいる。

あの、これ必要ですか?と聞くとカウンセラーは満面の笑みでぜひこれを使って戴くとその後の治りもよくきれいになります!とお答えになる。

いや必要ものなら施術代金に含めるべきじゃないのか…

はたしてこんな怪しげなものにどこまでエビデンスがあるのか。

その後の医師診察時にこっそり必要性を聞いたら、少し苦笑いしつつ言葉を濁される。

少なくとも医学的に明確な差が出るわけではないだろう。

そもそもそれを使わないと術後の肌トラブルが多発するんだとしたら、全員に使わせないとリスク管理としても割に合わない。

その後にカウンセラーが持ってきた見積書にはしっかりとオプションのローション類計2万円が計上されていたので、丁重に辞退させていただいた。

施術の実際

何種類か機器があるらしいが、アレキサンドライトを用いる一般的な機種だった。もう少し痛みが抑えられる機器も世の中にはあるようだ。

痛みには個人差が結構大きいらしい。「輪ゴムで弾かれる感じ」と説明された。

個人的な感想としては「かなりキツイが耐えられないわけではない、ただし手は脂汗でじっとりするし涙目になる」といったもの

一回一回はまあいいのだが、照射範囲は狭いので、例えばヒゲなら、10回~20回を5、6列受けることになる。

まりそれだけの回数輪ゴムで弾かれる。

割と真面目に涙目になるし、照射のたびに体がのけぞってしまうが、外聞を気にするだけの余裕はなかった…

なお、顔面VIOだと、顔面の方がレーザーの出力を高く設定する分、痛いらしい。

VIOそもそも日焼けに弱く熱傷になりやすいため、最低限のレーザーしか当てられないのだ。

かに考えてみると、常に日光さらされる顔面に比べ、陰部が常に衣服に守られており日の目を浴びることはない

VIO特殊性

施術前は恥ずかしいかと思っていたが、実際に始まると緊張と痛みで全くそんな余裕はなかった

…のだが、だんだんと痛みにも慣れてくる

睾丸の皮を引っ張ってパツンパツンにしてからレーザー漏れなく照射していくので、入念にそのあたりを触られる。

ふと我に返るとあらわな格好でこんな場所を丹念に触られている、と思うとだんだん変な気分になってくる。

事前の説明書にはしっかりと「勃起時には施術が行なえませんので、時間内に続く場合施術が行なえません。その場合料金は返金いたしません」と書かれている

最初はどんな変態がいるんだ、と思ったが、ちょっとその事態になるのもわからなくもない、と思ってしまった…

なお、院内掲示にはもちろん「セクハラ等の言動が続く場合入店禁止等の厳重な対応します」と書かれている

施術してくれる看護師さんに感謝と敬意を忘れないようにしよう


施術

施術後数日は日焼け厳禁である。要するに熱傷なので、しっかり保湿して保護する必要がある

翌日はシャワーのみ

自分場合ひげは問題なかったが、Vラインが毛嚢炎になってかなり痒くなった

感想

・思ったよりは痛かったけど耐えられないことはない

・保湿ローション以外は変な勧誘もなかった

・事前の剃毛が一番大変だったかもしれない

・早く6回受けてツルツルにしたい

2020-08-15

売りはじめた土地に人を座らせておけば直ちに誰かが現れて買ってくれるわけでもなさそうなのだが、とりあえず人を置いて「現地販売中」の赤旗なども立ててしまうのが弊社である

古い木造の平屋に暮らしていたおばあさんが介護サービス付きの老人ホームに入るということで、土地を買い受けた途端に更地にしたのが弊社である

まだショベルカーキャタピラの跡が残る泥の上に「初売り出し」と書いた看板を突き刺し、アウトドア用のタープを設営し、キャンプ用のテーブルと折り畳み椅子を置いて座ったのが私である

日中の気温が37度に達すると予報が出ている東京で、もちろんこのような布の屋根は、あってもなくてもたいして変わらない。テーブルに置いた麦茶ペットボトルが火にかけた薬缶のように熱い。

テーブルはいろいろな家のイラストも重ねて置いてある。今は茶色いだけで何もない更地ですけど、弊社契約業者を使って家を建てるとこんなに素敵になるんですよ、と説明する使命を帯びて、画像データファミマで今朝印刷して持ってきたのだが、もう私の汗を吸ってボコボコと汚らしく波打つだけの紙の束になってしまった。

日が暮れるまでこの土地に陣取って「販売業務」に従事しなければならない。買い手が来ても来なくても、雲ひとつない8月の空の下、タープの布屋根一枚で直射日光を防ぎつつ座っていなくてはならない。東京住宅街に突如出現した空き地の値段は、不動産会社従業員一人の人件費よりもずっと高い。ひょっとすると命よりも。

そんなことを考えていてもまったく時間が経ってくれない。さっき近くのローソンから買ってきたガリガリ君は一瞬のうちになくなってしまった。これからは何を糧に生き延びればよいのか。

熱中症になるのが怖くて、自分の手首を掴んで脈を測ってみる。いつもより弱々しい気がする。黒い革靴に包まれた足がジュクジュクと蒸れて、沸かしたての風呂に入っているように熱い。たまらず靴も靴下も脱いで、椅子に座ったまま裸足を前に突き出し、風を待つがそよとも吹かない。日傘差した女がこちらを二度三度チラ見しながら通り過ぎて行く。

もはや暑いのかどうかもわからず、ただ息苦しく、マスクを片耳からぶら下げ、意識朦朧とした状態椅子にひっくり返っていると、ようやく日が傾いてくる。焦点が合わない視界に、ひょろ長い人影が映る。黒いTシャツを着たマッシュルームカット青年が、不安そうにこちらを見つめている。彼が連れている小さなパグちゃむちゃむと吠える。

「あの……ウラサワ君?」

なぜ彼は私の名前を知っているか椅子に座り直してその顔を見る。彼がマスクを取る。

メヒコ君?」

髪型が変わっていて、顔は大人になっていたが、わりとすぐに分かった。メヒコ君の本名はたしかヨモギダだったはずだが、中学クラスではみんな彼をメヒコと呼んでいた。家庭の都合でメキシコシティから突然転校してきて、メキシコのことを「メヒコ」と発音する彼は、無知中学生達にある種の衝撃を与えた。

ここでなにをしているの、土地を売っているんだ(自分土地じゃないけど)、どうしてここにいるの、近所に住んでいるんだ、というやりとりを経て、仕事が終わったら一緒に晩ご飯に行くことになった。というか、今日はもう撤退することにした。

犬を家に置いて戻ってきたメヒコ君と歩きながら話を聞く。学校を出た後はスペイン語英語を活かして国際線フライトアテンダントをしていたが、どうしても時差のある生活身体が慣れなくて2年でやめたらしい。何か接客業を続けようと思ってヒルトンバー修行した後、ちょっとしたメキシコ料理テキーラを出すバー高円寺に出したところ、けっこう繁盛した。2号店を出そうかと下北沢あたりで物件を探しはじめた頃、コロナが来た。

バーをやってると、お客さんがいない時間結構よくあるんだけど、あの時に誰かがドアを開けて入ってきてくれるまで待っている時間の重さは、それまでと何か違うものだったんだ。店を開けてることも、生きてること自体も、何から何まで否定されながら、それでも誰かを待っていなきゃいけないみたいな」

運転資金が残っていて少しでも退職金にあてられるうちに、メヒコ君は2人のスタッフと話し合って店を畳んだ。それまでは店の奥にある倉庫で寝起きしていたので住む所もなくなり、今は大叔母さんの家に居候しているらしい。

自分のペースで店を作っていくのは楽しいから、また機会があればやりたいね。いつになるかはわからないけど」

夕闇に信号機が点滅する横断歩道を並んで渡りながら、私はなにも言えなかった。

ラーメンでいいかな、と彼が立ち止まった先にあるのは住宅街の古い一軒家だった。看板もなにも出ていない。ああ、うん、と思わず答える。メヒコ君がためらわず玄関チャイムを鳴らすと、インターフォンから返事が聞こえる。「二人なんですけど」というが早いか、ドアが静かに開き、白髪の薄くなったおじさんが出迎える。メヒコ君とは知り合いらしく、久しぶりなどとひとしきり話してから、私にも入るように促す。

案内された先はどう見ても普通の家のダイニングで、エアコンが効いていて涼しかった。つながっている居間には大きなテレビがあり、NHKニュースが流れていた。ソファーの上には茶トラの猫が寝ていた。

「あったかいのと冷やしとどっちがいい?」 ダイニングテーブルについた私たちにおじさんが訊く。

「じゃあ、冷やしください」と私が答えると、「冷やし二つおねがいします」とメヒコ君がいう。

キッチンでおじさんが調理しているあいだ、私たちテレビ関東地方気象情報を眺めた。おじさんの方を振り返ると、冷凍庫から赤いコーラペットボトルを取り出すところだった。料理しながら自分で飲むのかなと思って私はテレビの画面に視線を戻した。

出てきた冷やしラーメンは、家庭料理にどこか似つかわしくない端正なものだった。ガラスの鉢に黒いスープが入っていて、そこにひたされた金色の麺の島には、糸のように細かく切ったハム白髪葱が載っていた。一口食べると、氷水からたった今引き出したような麺の冷たさに驚く。スープは甘辛く、どこかで味わった覚えのある下味を感じたが、はっきりとはわからず、謎めいた調和のうちにいそいそと箸を進めずにはいられない旨味があった。

食べ終えて外に出る頃には、昼間から感じていたどうしようもない倦怠感は消えて、全身が軽く感じた。地下鉄の駅に向かうため、メヒコ君と交差点で別れた。今度は何か冷たい差し入れを持っていくよと彼は笑っていた。明日最高気温は何度だろう。さっきテレビで見たはずだが、よく思い出せなかった。

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

2020-08-14

うちのばあちゃん認知症

最近は何かを言った次の瞬間に何を言ったのか忘れている。

フィクションなんかでよくある「ご飯はまだ?」「ばあちゃんさっき一緒に食べたでしょ」なんてやりとりももちろんする。

うちは二世家族で昔は両親も祖父母も外に働きに出ていた。

両親の仕事は深夜に終わることが多かったので仕事帰りの祖父母が交代で保育園へ迎えに来てくれたのを覚えている。

平日の晩ごはんを作るのはばあちゃん担当で、道すがらにあるスーパーに寄ってから家に帰ることもあった。

暑い日なんかはファミリーパックのアイスを買って、ばあちゃんに急げ急げと急かされながらスーパー駐車場を2人で走ったりもした。

畳の匂いのする居間テレビを見ていると台所からトントン包丁で何かを切る音が聞こえてきて

揚げ上がった唐揚げ匂いにつられて近づくと内緒だよと、ひとかけらだけつまようじにさして食べさせてくれたっけ。

小学生くらいになると料理を手伝いたいとタダをこねたこともあった。

ばあちゃんはやいやい言いながらも色々教えてくれて、初めてひとりで卵焼きが作れるようになった日はそりゃもう嬉しくて何日か連続卵焼きを作るくらいはしゃいだ。

高校卒業してからは家を出て一人暮らしを始めた。

実家に帰ることも少なかったので、ばあちゃん認知症の症状がいつ頃出始めたのかは分からない。

事情を知らされたときにはだいぶ物忘れが進行していて認知症の診断を受けさせたい家族と嫌がるばあちゃんで一悶着あって大変だったのを覚えている。

そんな状態になってもばあちゃんはばあちゃんで、たまに実家に帰ると何か足りないものはないか?これを持って行きなさいと食べ物がたくさん入った袋や箱を持たせてくれた。

どうしてこんなに長い文を書いてあるのかというと今日部屋を掃除していたらどこからともなく封筒が出てきたからだ。

「〇〇へ」と自分名前が大きく書いてあり筆跡からばあちゃんが書いたものだとすぐ分かった。

中を確認すると新聞の切り抜きがたくさん入っていて、よく見るとどれも料理レシピが書いてある記事だった。

たぶん憶測になるがばあちゃんの症状がまだ軽かった頃に、たまに帰ってくる孫に渡すために新聞レシピ記事を切り抜いて食べ物と一緒に持たせてくれていたのだと思う。

部屋で紛失して存在に気づくまで数年かかってしまったけれど。

ばあちゃん認知症と診断されてから何年か経ったが症状はゆるやかに進行していて、最初に書いたように最近ご飯を食べたことも忘れてしまうようになった。

きっと孫の名前もそのうち忘れてしまうだろう。

ばあちゃんは自他共に認めるしっかりした人だったけど今のばあちゃんを見ているとその面影はない。

寂しくて涙が止まらなくなったとき泣き止むまで抱きしめてくれた優しいばあちゃんも、悪いことをしたら裸足のまま冬の玄関に締め出すような恐ろしいばあちゃんも、もうどこにもいなくて小さくてシワだらけの老人がただそこにいる。

それだけの話。

2020-08-13

彼女とは大人になって知り合った

からデートをして、雨の日で、どこ行きましょうか、

ツタヤビデオを借りてラブホで見ませんか。

何もしないならいいですよ。とラブホに行ってビデオを見た。

ラブホの部屋は冷房が効いててベッドもソファーもあるし、居心地良い。


ビールは飲んでたかもしれない。キスはしたかな。

ソファーの横に座る彼女シャツの前ボタンを全部外して、

背中のフックを手を回して外してブラを脱がした。

上半身裸で座る26歳の女性が座っていた。乳首の色はこげ茶色だった。

黙って僕の顔を見ているので、


こうゆうのは初めて?」「(うんうん)」

「怖い?」「(うんうん)」


ブラをあてがって、自分でフックを留めて、

シャツを着せて、ボタンを留めて、元に戻した。


だって彼女に「勃起したペニス」や、男子オナニーして精液が「どぴゅっ」と飛び出る瞬間を見られた。

彼女は僕の口におしっこしたし、僕は彼女おしっこ少しだけ飲んだ。

彼女は僕によく「いまうんこしてきたんですけど」の報告をする女の子だった。

いちど「見せたいうんこが出たので見て見て」と、水も流さずお尻も拭かず、

トイレから居間まで出て来るくらいだった。僕は決して見なかったが。

2020-08-12

父親に犯される夢を見た

なんでかは分からない。

実家にいて、なぜか母親居間からこちらをみて発狂してた。

父親に犯されつつ、私は何も考えてなかった。

旦那の事を思い浮かべた時、目が覚めた。

父親のことは最近全く考えてなかった。母親の事も。

なんでそんな夢を見たのかさっぱり分からない。

実家では暗黙の了解で「下ネタ禁止」という雰囲気だけれど

夜道を父親散歩しているときに「一歩がデカイね!」って言ったとき

父親が驚いた顔をして「インポデカい!?」って言ってきたからかなぁ。

私は知らないふりをして「一歩!」って言い直したけどさ。

なんでこんな夢見たんだろう。気持ち悪い。

2020-08-11

おぼんぼんぼぼん

盆帰りの夢を見た。

知らない親戚と畳に座して手を合わせた。新品の線香とは別に燃えさしが乗った皿があった。質が悪くて途中で燃え残った線香をそこに取り分けたとのことなので、そこから一本取って煙草から火をつけて灰に差した。

掃除に出かけて、近くの水場から桶に水を汲んだ。柄杓墓石の上から水を掛けると片端から蒸発してシュウシュウ音を立てた。今年は暑いのだなとぼんやり思った。

仏花と煙の匂い、蝉の鳴き声、遠くで話す男女の声と読経が聞こえていたが、それだけだった。ふと足元を見ると、濡れた墓石から垂れた水の中に胎児のような小さい生き物が丸くなって横たわっていた。

桶に入れて水場まで持っていき体に纏った膜のような滑々したものをすべて取ってやった。人の形をしていた。家に持ち帰るまでにどんどんと大きくなって、いつの間にか普通女の子みたいな形になっていた。

家に帰ると祖母叔父台所に立っていたので料理を手伝うことにした。素麺を茹でて、粗熱を取って、氷と一緒に皿に並べた。

胡瓜を薄く刻んで、胡麻を挽いて、赤味噌と和えたのに出汁醤油を加えて溶いた。

気づくと墓石のところで拾ってきた女の子が、皿の用意、揚げ物の用意であるとかを、まるで自分の家のことのようにやっていた。

祖母叔父も特段その子には構わず、各々の調理を進めていた。なにせ客が多い。

居間の横の縁側に面した応接間は2つの横長のテーブルに親戚が既に15名ほど集まっている。襖からは酒や煙草匂いやガヤガヤと騒ぐ声が漏れていた。

一頻り作り終えて給仕を終えたらどっと疲れてしまって、洋室に引っ込んだ。

ライトアップピアノがあったが、鍵盤が幾つかない。後ろの書架には医学関連の洋書がたくさん並んでいた。一つを手にとって読んでみたが、何にも分からなかった。

冷蔵庫にあったカナディアンクラブを飲んでいると、洋室にあの子が訪ねてきた。ピアノが弾けるとのことで、何か弾いてくれないかと頼むと、知らない曲を幾つか披露してくれた。

器用に軽やかに動く指を見ていると、段々と指の皮が萎びてきた。先程まで20いかない女の子だったが、いつの間にやらすっかりお婆さんになっていた。

その後は一緒にウイスキーを飲んだ。その人は洋室の机の抽斗に煙管を見つけ、吸い始めた。色々と話したがよく覚えていない。気がつくと目の前で燃えていた。

燃え残った白い骨をピアノ差し込むと、ポンと気持ちよく音がなった。

2020-08-04

問題(もんだい):海(うみ)の上(うえ)にあるものってなーんだ?

答え(こたえ):いま(居間)

2020-08-02

リモートでベッドで仕事できるから

朝起きて

仕事して

ご飯トイレで1時間

あとはずっと作業してる もともと日本って

ワーカーホリック職場での死亡事故問題になった国

それが自宅で制限なしのおきてるときずっと仕事なんかにしたら1日18時間はたらくにきまってる 俺が怖いのはそっちのほうがこわい

サボりならある程度は売上が落ちるかもしれないが、あまりにもおちりゃわかる

対して ワーカーホリックは成績でわかるが こんなもんどうしろっていうんだ 会社でも かえれおじさんといって

会社から18時過ぎたらおいかえす仕事というのがあるが

家にはない 仕事し放題 どうすんだろうっていうのが居間問題 (20年のノウハウ開示)

2020-07-31

いや、いわゆるデュアルブート

Intelでいうところの アクセラレーションブースト中にブーストすることは 可能可能

ターボターボする いわゆる アフターバーナー

可能なんだけど 近くに でかい病院がないところでやるな電源タップは1500Wまでよっていうのはヒューズ単位から

寝室と居間とか別なヒューズから直でとることを遣唐使てよく相談しろ

そもそも1500W以上を常時家電で使う時に100Vからとってることをおかしいと思え

2020-07-26

同棲することになって、親が嫌いなことに気付いた

付き合って3年になる彼氏と、このたび同棲する運びになった。

社会人になった頃からずっと、したいねと言っていた同棲

この人とずっと一緒に過ごせたらいいなと思ったのが同棲したい要因の一つだったが、正直に言うと一番大きかったのは通勤時間の長さだった。

 

私の家から今の職場までは、片道約1時間半かかる。家から駅まで歩いて10分かからないほど、そこから約40分電車に乗り、乗り換えてまた20分電車に揺られ、そこから10分以上歩いてようやく職場に着く。

朝はまだいい。通勤ラッシュに合わせてすんなり電車がやってくるから。だが帰りは都合のいいように電車が来なくて、酷いときだと20分以上の乗り換え待ちが発生する。

加えて、私のいる職場は毎月必ず繁忙期が1週間ほどあって、退社が22時になることもざらにある。(その分、フレックス制度を使って別の日には16時に退社できたりするので、その点に関しての不満は特にない)

毎日必ず定時に帰れるならまだしも、22時に退社すると帰宅は日付の変わるギリギリ前だったりする。そうするともうお風呂に入って寝るくらいしかHPは残されていない。翌日もまた9時に出社するべく6時半には起きなければいけないのだから

 

そんな生活をしていれば、実家を出たいと思うのは至極当然だった。

それなら、女が都会で一人暮らしをするよりかは、防犯的にも金銭的にも彼氏同棲した方がより良いだろう、と考えて私たち同棲を決めた。

 

彼氏存在は、母にしか伝えていなかった。母に、「父に言うと面倒臭いから」と止められていたからだ。

からまず初めに母に「同棲を考えている」と打ち明けた。

母は「知らない。父に聞けば?」と答えた。

次に勇気を出して父に同棲したい旨を打ち明けた。たしか今年の2月頃だったと思う。「反対だ」と返ってきた。

「会ったこともないやつとなんか認められない」と言うので、「じゃあ連れてくる」と言ったら「絶対会わない」と言った。そんなん詰みじゃん。その時はそこで終わった。

 

やがてコロナ流行し、1度落ち着きだした5月頃、彼氏が「まだ同棲できないのか」とせっついてきた。

「早く両親に許可を得てくれ」と。会う度に言われるようになってきた。

私も私で相変わらず通勤は辛いし、都会から田舎我が家コロナを持ち帰るリスクを考えると、私がこの家を出て都会で暮らした方が良いと考えたので、両親が揃った時に「定期が切れる10月を目処に同棲を考えている」と伝えた。父は何も言わなかった。母は、父が許すならというスタンスだった。

その際父に改めて「会いますか」と尋ねた。

父はまた、「絶対会わない」と言った。

そうか、父は会いたくないのか。まあまだ結婚というわけでもないしな。母もその後何も言わなかったし、じゃあ会わずに話を進めていいのか。そのときの私はそう考えた。

 

彼氏に一連のことを伝え、やっと同棲ができると喜んで不動産屋に出掛けた。同棲を伝えてから3日後のことだ。

するとかなり条件の良い物件があったので、その日のうちに決めてしまった。(今思うとこれは突っ走りすぎたと反省している)

家に帰って母に伝える。「早すぎる」とめちゃくちゃ怒られ、喧嘩になった。

「お父さんはああやって会わないって言ったけど、連れてきて挨拶してから同棲するのが筋じゃないのか」

いやいや、「会わない」って言われて拒否されてるところに連れてこないでしょ、普通

筋って何だよ。じゃあ最初から「連れて来い」って言えよ。

こんなクソ田舎まで連れてきて追い返されたらどうすんの?

大体、だったらあの場でとか、その直後にこっそりだとか、とにかく私に言うべきだったんじゃないのか?

親に対する不信感が募る。

 

そこから紆余曲折して、結局彼氏にはうちに挨拶に来てもらった。

父が確実にいる日を聞き出し、この日に彼氏に来てもらうからね、と予告した。

彼氏が来て、父は言った。「順番が違うんじゃないの?」

曰く、「会わない」と言われようがいつ家に居るか分からなかろうが押し掛けていって挨拶するのが筋なんだと。事前にいつ来るかの予告も、いついるか確認もするもんじゃないんだと。

ばーーーーーっかじゃねえの???

アポ無し訪問が一番非常識だと私は思う。来ていなかったら彼はどうするんだ?父は適当な部屋着で客に会うのか?

常識で考えたら、先方が「会わない」というなら行けないだろう。察してちゃんかよ。言えよ。バカなのかうちの親は?

これが、うちが友達を招くのを歓迎してるような家であれば、たしか彼氏を一度家に呼んだりとかするのは自然だと思う。

でもうちは友達さえ家に呼んだことがない。親に呼ぶなと言われていたから。

そんな家で何をどうやって彼がうちに来ることがある?

彼氏はひたすら謝っていた。何も悪くないのに。心から申し訳ない気持ちになった。

 

その他、父は二人暮らしは大変だとか、貯金しないといけないだとか、俺なら通勤時間が長くても実家の楽さを取るけどなとか、あれやこれや言っていたけどその全てが気に障った。喧しい、お前が言えたことかよ、と。

実を言うと、私は母の連れ子である。私がまだ未就学児の頃に再婚して、今の家にやってきた。この家は父の実家で、祖父母と同居であった。(もっと祖父は昨年亡くなったが)

この家にやってきた日のことをよく覚えている。

父の車に荷物を積み込み母の実家からやってきたのだが、なんと私たち居住スペースになると想定されていた2階は、父の一人部屋のままだった。その日起きたままの父のシングルベッドが未だに記憶の中にある。

そんな感じで父は今までの人生実家から少しも出たことがない。

実家を、住みやす改善しようとする気さえない。

その証拠に私は今日に至るまで、一人娘なのに一人部屋を貰えないままだった。2部屋しかない2階は、私たち世帯居間のような部屋と、寝室という分け方だ。

その寝室の端の方に布団を敷き、その周辺を自分テリトリーにしただけで、夜になれば同じ部屋に無遠慮に父がやってきて眠るプライバシーの欠片もない。夜に友達通話することさえままならなかった。

幼い頃から何度も一人部屋が欲しいと訴えたが、聞く耳を持たなかった。母からは「気に入らないなら母方の祖母の家に行け」と言われただけ。二人ともこの、2世帯が住むにはあまりに狭い家から引っ越そうとも考えなかった。

 

そう考えると、我が家はそういった常識的な部分がかなり欠けているように思う。どこがどう、とはなかなか言葉にできないが、他の家のように「正常」な家庭とは言えない。そんな家の人が、何を常識だの筋だの語っているのか、意味がわからない。

貯金にしたって、私はこの家の家計事情を知らないながらも、決して貯金なんてしていないことは分かっている。いい歳して、私の大学入学金さえ捻り出せなかったのだから

その割に父は欲しいものはぽんぽん買うし、母も母で毎日のようにコンビニで買い物をするし、金を貯めようという気配は全くない。

こんな人たちより遥かに私と彼の二人暮らしのほうが貯金できるんじゃないか。なんて思ったりもする。

 

父の話を聞きながら、私は心の底から早くこの家を出て行きたいと思った。

自分たちを棚に上げて、意味のわからない「筋」を主張して、そんな人たちに心底嫌気が差した。

新しい家が決まっていて本当によかった、と思った。

今までの生活を思い返して、育ててもらった恩こそあるが、この人たちとはあまり付き合いたくないと思った。

疎遠にしよう。一人娘だけど。薄情だけど。

 

喧嘩して帰って来たら笑ってやる」と父は言った。

絶対帰らない。絶対絶対この家には帰ってこない。

こんな家で育って、常識がないもんだから、もしかしたら彼氏とは上手くいかなくなるかもしれない。

そうして別れて同棲を解消するようなことになっても、絶対絶対絶対に、この家には帰って来ない。

2020-07-20

日曜

起きて漬物を切り、魚を焼いて息子と食べる。

俺と息子の食事が終わると妻と娘が起きてくる。

妻と娘が食事を済ます

妻は自室にこもる。

俺は居間ゲーム

息子と娘は居間テレビマンガ

昼になり外食に出かけようとすると、娘が妻の伝言を伝えに来る。

「昨日のカレー食べて」

子どもたちに昨日のカレーでいいか確認する。

いいらしい。

しょうがなく昨日のカレーを食べる。

俺はカレーを食べたくないので鯖缶をおかずにする。

妻昼飯自体取らない。

息子が公園に行こうという。

娘に行こうと声をかけるが、テレビを見たいらしく動かない。

妻が子どもたちに公園行こうと声をかける。

二人とも支度を済ませ出かける。

俺は行かないことにする。

妻と子が出かけている間、夕飯の支度をして妻に晩飯があることをLINEする。

妻子が帰ってくる。

何故か妻はおかずを作り始める。

普段の2倍のおかずが並ぶが当然食べきれない。

順番にシャワーを浴びて就寝。

俺と妻は一切の会話がなく日常をこなす

2020-07-18

交叉した人角が刃物を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせる。

毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまる。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。

そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もないものばかりである。「己は苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」そう思う事が、既に己には一倍の苦痛であった。

 ほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまった。発作が強くなると誰も彼の側へ近づくものがない。

 しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、この怖れが、己をおびやかすのを意識した。不吉な不安にさえ、襲われた。にわかに眼の前が、暗くなるような心もちがした。自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである

記憶のせいで美味しく感じる食べ物ってあるよね

私にとってはハリボーグミ

国産グミより割高だけど、小袋が20個くらい入ったやつをストックしておいて、

いざというときチビチビと消費している。

っていう私もね、小学校低学年くらいまで、ハリボー含め洋物とは無縁で育ったのですよ。

ご飯のおかずは大体きんぴらごぼうか、ひじき煮物で、ししゃもは頭を残してよく怒られた。

家の中も日本的な感じで、居間箪笥の側面には自分と妹の身長が記されてたり(普通は柱に傷をつけるのかと思うが家には丁度いい柱がなかった)、古風な母親の化粧机や仏壇がドーンと置かれてたりした。


ハリボーショックを受けたのは、近所に引っ越してきた帰国子女のお家にお邪魔したときです。

クリスマスの近い日だった。

家に入ると、中がえらく洋風で高級感あって驚いたな。

壁面いっぱいのTVラックには、家族写真洋本が飾ってあって。自分身長より高いツリーがあって、綺麗にデコレーションされてて。


それで、いつも優しく微笑んでる、絶対に声を荒げない聖母みたいなお母さんがいるんですよ。

オカンじゃないですよ、聖母ですよ。

で、その聖母が、オヤツどきにハリボーと温かいココアをくれたんです。


小学生自分にとっては、もう海外ドラマとか映画とかの世界に入っちゃったみたいでさ。

小学生の私は、その家の非日常感と幸福感と安心感に包まれしまったよね┐(´∀`)┌

夢の空間だったわけですよ┐(´∀`)┌

で、それから時が経ち、帰国子女はまた引っ越していき、聖母の顔も忘れた頃...

私は高校生になって小銭を持ち、市街地をたむろするようになった。

そして、輸入食品店でハリボーを見つける。


うそからリピーターですよね。

食べるたびに、小学生ときの高揚感が思い出されるの。

寒くて人肌恋しいときとか、試験勉強辛いときとか、オカンの機嫌が悪いときとか

ハリボーをかじると、当時の幸せが蘇って少し心がほっこりするのでした┐(´∀`)┌

味単体で言えば、pureグミのほうが美味しいのは知ってる。

でも、幸せになれるのは、やっぱりハリボー

2020-07-15

アラサー女の、うんちと業者との戦い一部始終2020

先日、自宅の浴室乾燥機が動かなくなった。

管理会社に連絡し、直接家に来て修理してもらうことになった。

筆者は彼氏同棲しているアラサーの女である。昨今流行りのウィルスの影響で、数ヶ月前から在宅ワークをしている。彼氏の方は、最近仕事を辞めたばかりで家にいるので、当日業者が来た時の対応を任せていた。

当日朝10時、インターホンが鳴り、約束通り彼氏対応をしてくれていた。

この家は、居間に入らずトイレや浴室に行ける構造なので、業者の方と私は1度も顔を合わせていなかった。

彼氏は、最初に少し状況の説明をしてからはもう任せっきりという感じで、すぐに私が仕事をしている居間に戻ってきていた。

実はこの日の私は、朝起きた時から仕事を始めるまでに2回もトイレに行くほど、お腹調子が悪かった。

元々便秘がちな体質で、何度もトイレに行かないと出し切れない上に、出し切るまでに何度も腹痛がある、ということがしばしばあった。

そこで、予想していた事態が起きる。

お腹が痛い…。

今すぐトイレに行きたい。

しかし、トイレと浴室は隣り合わせ。

今行ったとして、長期戦になることは間違いないだろう。豪快な音が鳴ってしま可能性はある。ブツが水面に入る時の音だって絶対に聞える。トイレットペーパーをガラガラして拭きまくっている音だってしかも、今の私の格好、彼氏が大昔着ていたであろうサッカーユニフォームに、太腿のサイドにクッションの付いたゴールキーパー用の短パン

無理である

アラサーとはいえ、私は女。謎の乙女心邪魔をして、中々トイレに行く決心が付けられずに痛みに悶えながら仕事をしていた(仕事になってないが)。

いやいや、すぐ終わる修理かもしれないじゃないか…もう少しだけ待とう…。

そう思って耐えていると、彼氏に「人いるからって我慢してたってしょうがないじゃん、トイレ行きなよ」と催促される。

そんなことは分かっている。私にはアラサー女なりの葛藤があるんだ、少し黙っていてはくれないか???

しかし、あまり正論にそんな言い訳も言えず、黙るのは私の方であった。

痛みには波がある。

数秒間の痛みがあり、引いてしばらくしてまた痛みが来る、の繰り返し。

なんとかその場をやり過ごしていたのだが、業者が呼ぶ声が聞える。彼氏対応してくれる。どうやら、車に道具を取りに行くのか、部屋を出入りするのでインターホンを鳴らしたら開けて欲しいとのことだった。

これだ。早く行ってくれ。その間に用を足してやる。

それから少しして、玄関のドアが開く音が聞こえた。今しかない!

私はトイレに駆け込み、速攻で用を足し仕事に戻った。その後、家のインターホンが鳴り、彼氏オートロックを解除する。

完璧だ。勝ったのだ。そう思っていた、この時は。

暫くして、また痛みが来る。戦いは終わっていなかった。便秘特有なのかもしれないが、すごい量のソレが溜まっているので、少し排泄しただけでは治まらず、何度も痛みと便意が来るのだ。そう、出し切るまで。地獄しかない…。

また痛みに耐える時間が始まり、私はトイレに行くタイミングを見計らっていた。早く修理終わってくれ、どんだけ時間かかるんだ…。実際何分の修理だったか覚えていないが、腹痛に苦しむ私の体感では、2時間はあった。

仕事も進まないし最悪だ、早く終わってくれ、そう思っていたその時、なんと再び玄関のドアが開く音がしたのだ。聞き間違いではない!今だ!!私はトイレに駆け込んだ。

強烈な腹痛であったにも関わらず、排泄のためにはしばらく気張っていないといけない。暫くすると、出た。だが、様子がおかしい…。

そう、ウサギさんである

歯切れの悪いコロコロのアレであった。仕方ない、とにかく出し切るまで頑張ろう、と力を入れていたのだが、集中が途切れたその瞬間、隣の浴室から音が聞こえたのである

嘘だ!ドアの音は聞き間違いだったとでも言うのか?!勘弁してくれ!

浴室の音に集中していると、しばらくして音は止み、トイレの前を人が通っていくような気配がした。

もしや、終わったのか!?なら丁度いい、早くこの家から出ていってくれ!

そう思っていたが、何も起こらない。

残酷事実に気がつくまでは一瞬だった。そう、業者トイレに入っている私のことを、彼氏だと思っているのだ。1度も顔を合わせていないので、私の存在を知らないのである…。

終わった…。

そうと分かってから地獄であった。

ウサギさんなので、うんちがリズミカルかつ勢いよく、元気に水を弾く音を立てる。

ガラガラトイレットペーパーを引く。おしりが綺麗になるまで、何度も何度も。

どう考えても全て聞こえている。

もうどうにでもな~れ。

生理中だったので、ナプキンを変える。ビリビリと音が鳴る。

パンツを履き、水を流す。バシャバシャと手を洗う。

全てが済んで、私はトイレを出た。

玄関の方をなるべく見ないように居間に戻るが、そこで小さめに声を掛けられる。

「あの、いらっしゃいますか?」

見覚えのないおじさんが立っていた。

はい、呼んできます

無心でそう答えた。

長い戦いが、終わった――。

こんなことは始めてである

今でも、どう行動すべきだったかは分からない。

痛みに耐えるのは容易なことではない。

私はやれるだけのことをやったのだ。

きっと、それだけで十分だ。

お疲れさま、私。

~完~

2020-07-05

2日後に猫を見送った

anond:20200607214557

2日後の早朝、猫は旅立った。

5時に起きた時にはもう息をしていなかった。

猫の手足は冷たく固まっていたけれど、そっと抱きしめた細い細い身体は温かかった。

夫と二人で猫にがんばったね、お疲れさま、ありがとうと言って泣いた。

前日は猫と一緒に過ごした。

シッコをしたらペットシーツを替えて身体を拭き、数時間おきに寝返りをさせてマッサージをした。

鼻が詰まったらコットンで拭いたり、赤ちゃん用の鼻吸い器で鼻水を取った。

ごはんを食べる量が減り始めてから昔のように鼻を垂らす事が増え、薬を飲ませてもなかなか治らなかった。

猫の目は薄く開いたまま、静かにベッドに横になってゆっくり大きく呼吸をしていた。

顔をこちらに向けたり起き上がろうとしたりと意識はあった。

口をクチャクチャ動かしたらスポイトで数滴水を飲ませた。頭を支える私の腕に小さな手を乗せて満足そうな顔をして、時々ポロっと緑色の目から涙をこぼした。健気で強くて優しい猫だった。

猫に話し掛けてたくさん名前を呼んで撫でた。

夜になり、夫が猫の隣で寝ると言った。

猫の生活スペースの囲いを外し、敷き詰めていたペットシーツも全て片付けた。

19年前、猫を拾ったのは夫だ。鼻水を垂らして所々ハゲボロボロの子猫が近寄って来たのをそのまま連れて帰ったらしい。

夫は猫を飼った事はなかったけれど、猫に一目惚れだったそうだ。私が来たのは15年前だ。猫を保護して大事に育ててくれた夫には感謝しかない。

夫の膝の上や隣が猫の定位置で、いつも夫の隣で寝ていた。

猫のベッドの隣に布団を敷き、夫は猫の小さな手を握って寝た。夫の隣で寝る事が出来て猫も安心したのだろう。

私達が悲しむから、死に目は見せたくなかったのかもしれない。最期まで優しい猫だった。

亡くなった猫に手を合わせ、身体を拭いて毛がふわふわになるようにブラッシングした。

そっとベッドに寝かせた猫は穏やかに眠っているようだった。薄く開いた目もキレイに澄んでいた。今にも起きてこちらを向きそうなのに。

夫は猫に突っ伏して泣いていた。

猫が体調を崩してから、老猫介護や看取りのブログペット葬儀の事を少しずつ調べていた。

近くのペット葬儀をしているお寺に個別立会の予約をした。

棺は大きめのダンボール箱を買った。

猫は狭い所と箱が嫌いな猫らしくない猫だから、大きめで底の浅いものにした。

棺の底にペットシーツを敷いてベッドごと猫を寝かせ、ピンク色のタオルをそっと掛けた。

寒がりなのにごめんね、と言ってタオルを巻いた保冷剤を多めに入れ、断熱シートを被せた。顔を見たらどうしてもたくさん撫でて声を掛けたくなってしまう。

線香と棺に入れる花を買い、祭壇に飾る写真も用意した。

供養写真は何枚でも良いと言われたので、昔大判プリントした写真をメインにした。7歳くらいの健康的でモコモコのかわいい姿。

他にも何枚かPCスマホから探してコンビニプリントした。

スマホに変えてから写真が圧倒的に少なかった。いつでも撮れると思ってほとんど撮っていなかった。

猫の大好物の猫草も買った。ごはんだよと呼んでも来ないのに、草買って来たよーと言うと飛んで来る子だ。

6年前にごはんに見向きもしなかった時も、猫草を買って来たら大喜びでムシャムシャ食べていた。

猫草とちゅーるとお花の他に、思い出の物をいくつか棺に入れた。

夕方にお寺へ行く前も、葬儀の合間にも二人で何度も棺を覗いては猫の名前を呼んで撫でた。

亡くなったら触れないかもと思っていたけれど、とにかく愛しくて名残惜しくて、かわいい猫に触れたくなってしまう。

猫の毛の手触りを忘れたくなくて、たくさん撫でた。頬の下の毛が特に柔らかくてふわふわで大好きだった。

お坊さんは棺で眠る猫と写真を交互に見て、キレイ身体ですね、珍しい模様だと言っていた。

お経の後、小さなケースに遺髪を納め最期のお別れをした。

猫を見送り火葬が終わるまでお寺の休憩所で夫と過ごした。猫の思い出を話して時々二人で泣き、これからの事も話した。

の子は私達の大切な子で、たくさんの幸せと思い出をもらった。

火葬は辛いけれど、待っている間に次第に気持ちが穏やかになっていくから不思議だ。

よく晴れた日で、夕方でも少し蒸し暑いくらいだった。

猫と夫が出会ったのはたくさん狛犬が奉られている神社駐車場だった。

猫はなぜか大きな犬が好きで、ゴールデンレトリーバーラブラドールテレビに映るとうれしそうにじっと見ていた。

病院でも猫には無反応なのに、大きな犬が来るとキャリーの隙間から覗いて楽しんでいた。

性格も犬みたいな所があった。

猫はひょっとしたら狛犬神様の子で、神様の所に帰ったのかもしれない。

神様の所なら安心だ。甘え上手のとてもかわいい子だから、きっとみんなに好かれて幸せに過ごせるだろう。

二人でお骨を全て拾い、花柄の骨壺に納めた。お骨はとても立派だった。

腕の細い骨がしっかり残っていて、担当の人がこんなにキレイに残っているのは初めて見ましたと言っていた。

4月までは流し台に飛び乗れた、足腰の丈夫な猫だった。

白い布で包んだ骨壺を抱えひっそりと静かになった家へ帰った。

初七日を過ぎてから、小さなおりんと骨壺カバーを買った。

お寺から名前と命日や忌日の入った供養表も届いた。オプション遺影を入れてもらい、とてもかわいい供養表になった。近くに良いお寺があって良かった。

仏壇ガラス扉付きラックDIYキットをホームセンターで買って色を塗った。

四寸の骨壺カバーがぴったり納まる高さで、位牌と供養表、遺影の他に遺髪ケースとお守りの鈴や首輪毛玉を飾った。

気に入っているけど、手を合わせるといつも泣いてしまう。

毎朝仏壇ごはんと水をお供えしてお線香を焚き、二人で手を合わせる事が新しい習慣になった。

夫は必ず猫におはようと声を掛けている。

私は流し台と洗面所水飲み場の水を相変わらず毎日替えている。

お世話になった病院挨拶に行き、後日お悔やみのお花を頂いた。もう病院へ通う事もないのだろう。

猫のいない生活はとても静かだ。

そろそろ猫が起きる頃かなとふと思っても鈴の音や小さな足音は聞こえてこない。

特に実感するのは帰宅直後。ニャーニャーと急かして抱きついて来るあの子はいない。

いっぱい撫でて、かわいいねと言って名前を呼んで抱っこしたい。会えるものなら会いたい。同じ模様の猫はどこを探したって出会えない。

猫と一緒に過ごしていた毎日が当たり前ではなくなってしまった。

5月の初め頃、夜に突然猫がニャーニャー鳴いて居間で寝ている夫を起こそうとした事があった。

ニャーと呼び掛けながら片手で夫の肩を何度も掻いている。春頃から甘えた声で鳴く事が減って来ていたので、珍しいなと思った。

爆睡している夫にあきらめると、今度は私のお腹に乗ってニャーニャー言いながら片手で顎の下を撫でて来た。

猫がいつも私にする撫でろの催促で、爪を立てずに小さな手でチョイチョイと頬や顎の下を撫でる。肉球と毛が両方楽しめるとても幸せ感触

うれしくて猫をたくさん撫でた。

猫は満足するとまた夫の所へ行き、一生懸命起こしていたがやっぱり夫は起きなかった。

猫は思い出を作りたかったのかもしれない。

お別れが近い事をもっとから知っていて、少しずつ準備をしていたのだろう。

私達が気づくのが遅くて猫に辛い思いをさせてしまったのが本当に申し訳なくて、あの時こうしていたら今も一緒に居たのかなと何度も思う。1日でも元気に長生きして欲しかった。

小さい頃から家に猫がいるのが当たり前だったけれど、猫の死と直接向き合ったのはこれが初めてだった。

実家最初に来た猫とは仲が良くていつも一緒に寝ていた。ちょっと素っ気なくて「ニャ」と短く鳴く猫だった。

その猫は腫瘍が原因で13歳で亡くなった。最期は怖くて何も出来なかった事をずっと後悔している。

積極的治療緩和ケアもしなかった親を恨んだ。自分がもし世話をしたら親に何か言われるのが嫌で。とても幼稚だった。

動けなくなった猫が弱々しい声で何度も「ニャーー」と長く鳴いていたのが今でも耳に残っている。

その実家猫への思いもあって、最期まで悔いのないように看たかった。

猫がいない生活をするのは一人暮らしの時以来だ。その時も猫を保護して実家に連れて行った。

猫は欠かせない大事存在だ。見たいし触りたい。毎日一緒に過ごし、寝顔を眺めたい。

でもこの先、猫と一緒に暮らす事はないのかも。

いつか縁があったらとは思うけど、たくさんの幸せを猫からもらうほど別れが辛くなる。

今はネットニュース保護されて幸せに暮らす猫達の記事を読んで、猫ちゃんよかったねと癒されながら毎日過ごしている。

開封ごはんや猫砂やペットシーツをもう少ししたらどこかへ寄付しようと思う。

前の投稿ブクマブコメありがとうございました。猫は強く生きました。

みなさんの猫達が幸せ長生きできますように。

2020-06-28

anond:20200626122905

最近売ってる、クリップで服にとりつける外付けポケットみたいなのを使う

子供だけ脱衣所の外(居間とか子供部屋とか)で服を脱いで風呂に行き、子供服専用の脱衣カゴを作って増田がそこだけチェックする

脱衣所に「ティッシュポケットから出してここに入れる小さいカゴ」的なものを設置する

 

 

俺が思いついたのはこのくらいだわ

2020-06-26

今年初エアコン電源入れた

夏真っ盛りの暑さに少しでも体が慣れるように在宅勤務中も書斎兼寝室のエアコン入れずに我慢してたが、午前中のパートから帰ってきたカミさんがためらいもせずに居間エアコン入れて昼寝しだしたので、ムカついてこっちもエアコン入れた。

快適。

どんとこい、地球温暖化

2020-06-22

anond:20200620124348

テレワークでひと段落ついて、ぎゅうにゅう飲もうと思ってデスク離れてれいぞうこに向かったら、居間ソファのうえのいつものところに老ねこが寝ているので、ちょっと背中を撫でたらしかめっ面を見せて、でもとりあえずこっち見て声に出さないにゃあをやってくれるので、まずほっぺたを親指でぐりぐりとさせていただくと気安くゴロゴロと喉を鳴らしてくれるので、そしたらお腹に顔を突っ込んでひたいとしっぽの付け根を撫でながらお腹匂いかいだ後に、おでこおでこをくっつけてぐりぐりすると、またちょっと声に出さないにゃあをやるので、ああ、歳をとって口が臭くなったなあと思って、離れ側にもう一度ほっぺたをぐりぐりしてからぎゅうにゅうを飲んでデスクに戻って仕事の続きをする。そんなルーチン。

サクラノートは確かに短いしゲームらしいゲームな場面もほとんどない雰囲気ゲーだけどクソではないと思うのよ。まあラブデリック好きのひいき目はある。

2020-06-19

家庭内熱中症が最も発生しやすいのは「居間リビング」(39%)、次いで「寝室」(32%)となっている。意外なことに、3番目に起こりやす場所が「トイレ」(15%)だ。

熱中症対策 トイレはドアを開けたまま用を足したほうがいい|NEWSポストセブン - Part 2

環境的に熱中症には温度湿度が非常に重要です。トイレはそういう意味では非常に悪い環境にあると言えます

猛暑で“トイレの熱中症”にご用心… 「湿度を下げて」専門医に注意点を聞いた

マスクしてたら湿度も上がる

2020-06-05

血の医療メンタルにも効く説

私とBloodborneの話がしたい。

これはただそれだけの記事です。

Bloodborneとは2015年3月に発売されたPlayStation 4アクションRPGです。開発元はSCEフロムソフトウェア

詳しいことはWikipediaでも読むといいと思います

Bloodborne - Wikipedia

フロムソフトウェアのことは知らないけど

身体闘争を求める

 →アーマードコアが売れる

 →フロムアーマードコアの新作を作る

 (アーマードコアの新作が出る)」

コピペは見たことがある人も多いと思います。まあそもそもフロムソフトウェアも知らん奴はインターネットニワカ」みたいに言われるかもしれませんが、少なくとも私は「コピペは知っているけどフロムソフトウェアのことは知らない」オタクでした。すみません

そもそも自分遊んだゲームと言えばゲームボーイSP鋼の錬金術師マリオ、後は3DSどうぶつの森ブレイブリーデフォルトモンハンPSvita海賊無双ゴッドイーターパソコンpso2を少し齧った程度のもので、恐らく世間一般の"オタク"にしては随分と経験が少ない方だと思います

メインはアニメ漫画、あとはSound Horizonの緩オタクだったので、あまり自らゲームが欲しい!ゲームがしたい!と言うタイプでもありませんでした。

バリバリ世代なのにポケモンすらプレイしたことはなく、人がやっているのにもそんなに興味がない。

先に挙げたゲームも、ほとんどは「友達がやってたから」あるいは「推しコンテンツが関わっているから」始めたのであって、「そのゲームがしたいから!」と始めた訳ではありませんでした。

自分にとってゲームジャンル自体はそれほど縁のない存在だったので、当然フロムソフトウェアも知らず、PS4も「弟が中古で買ってきたBDも見られる新しいやつ」程度の認識だったのです。



数年前。

私はとある会社新卒入社しました。

詳細は省きますが、一年半年ほどで私はロクに眠れない、職場トイレで吐くほど泣く、休み仕事を緩慢としてまた辛くなり、人に優しくされたくて必要でもない買い物をし、帰り道に無駄遣いした自己嫌悪で泣き出す、自殺未遂をはかると言った典型的な"メンタルやらかした"状態に。

もっと辛い人は世の中に沢山おられるとは思いますが、私の場合はまず眠れなくて仕事にならないので病院に駆け込み、結果休職退職コースとなりました。


実家に戻って療養を始めましたが、当時は「自分はただズル休みをしたいだけだ」「怠けて人に迷惑をかけて、私は社会クズだ」「あの時死んでいればよかった」の言葉が頭を巡り、薬を飲んで寝て起きてもまた実家居間にあるソファ天井を見上げることしかできませんでした。

このままではよくない、とテレビを見ても観客の笑い声やコメンテーターの笑い声を聞いているのが辛い。そもそもテレビ番組を作っているような"社会"に己が参画していないことを思い知らされて辛い。

映画アニメでも見て"インプット"しなくては、と思い見始めた作品でまた吐くほど泣き、トイレの中で便器を抱えたまま自己嫌悪で死にたくなる、の繰り返し。

この辺りでようやく「ああ、今自分はマトモではない」と認められたような気がします。


その後はなるべく気を紛らわすために(そして実家で働きもせず休んでいる罪悪感を払拭するために)家事をしたり頼まれた雑事をこなしたりしていました。なるべく社会コンテンツから離れたほうがいい、と思って。

それでも相変わらずTwitterは続けていましたが。

そんな時、趣味があうフォロワーさんの動画付きツイートが目に入りました。

ほんの20秒程度の動画です。

薄暗いヴィクトリアゴシック調の街で、トップハットにロングコートキャラクターが、ステッキを鞭に変形させ、またステッキに戻す。

たったそれだけの動画でした。

私あてのリプライでもなく、ただタイムラインに流れたツイート、たった一つ。

その動画たまたまタップして、たまたま見ただけ。

それだけなのに、私はその瞬間

「このゲームは私のためのゲームだ」

「このゲームには私の好きな"全て"がある」

「私はこのゲームプレイしなければならない」

と感じました。

思い上がりもいいところですが、本当にそう感じたのです。

そしてたまたま実家には、弟のPS4がありました。

時間たっぷりありました。嫌になって泣き続けるほど。

勢いのままアカウントを作り、ゲームダウンロードしました。


フロムソフトウェアゲーム」が如何なるものか知りも調べもせずに。


ゲームに触れた経験も浅ければそもそも得意ですらない、マリオの1面のノコノコにすら何度も殺されるような人間には、Bloodborneは厳しすぎました。

そもそも先へ進めない。"キャンプファイヤー"にも辿りつけない。レベルアップもどうやらできない。マップがないのでどこからどこへ繋がるのかも分からず、迷子になっている内に殺される。

これはイカン……とフォロワーさんなどの手を借り、なんとか進めました。

それが、とても楽しかった。

厳密には"楽しかった"と言うよりは"必死だった"、"無我夢中だった"と言う方が正しいのかもしれません。

朝一番掃除をし、洗濯物を干してPS4の電源を入れる。家族が帰ってくる前に洗濯物を取り込んで晩御飯の支度をしなければならないので、夕方には電源を切らなければならない。朝から晩まで没頭する、という感じではありませんでした。

ですが、それが良かったのだと思います

限られた時間の中で必死コントローラーに齧りついて、死んでは進み、進んでは死ぬ

明日こそあのボスに勝てますように、と半ば祈るように眠る

その間は、自己嫌悪職場での思い出を反芻することもなく過ごせました。

ゲームとしての難易度が高過ぎて"他のこと"なんて考えている"暇"がない」。

これが何より大切だったんだと思います



どうにかこうにか迎えたラスボス戦は、涙の出るほど美しかった。



ゲームを終えてスタッフロールを眺めながら泣き、私が次にしたこと自分用のPS4proと、DARK SOULS3を買うことでした。


つの間にか薬なしでも眠れるようになり、今は元のように、とは行きませんが外に出て働いています

今では「血の医療メンタルにも効く」とフォロワーさんと冗談めかして話していますが、これは過言ではないのです。

少なくとも、私にとっては。



実はBloodborne存在自体は別のフォロワーさんの呟きや絵を通じて前々から知っていたのですが、私にとってBloodborneプレイする"タイミング"は正にあの時しかなかったのだと思います

あの時Twitterを覗いていなければ。あの動画を見ていなければ。

流石に過言かもしれませんが、私が働きに出られるようになるのはもう少し遅かったかもしれません。

そう思うと、やはり私にとってはBloodborneが、血の医療が救いになったのだと思います


私とBloodborneの話はこれで終わりです。

ビビリ散らしてガスコイン神父や血に渇いた獣を火炎瓶で燃やして片付けたがためにパリィ習得せず進み、ローゲリウス師戦で苦しんだ話やNPCイベントを見損ねて歯噛みした話、ギミックに気付かずミコラーシュと延々と追いかけっこをした話など色々とありますがその辺りは割愛します。

長文、乱文、失礼いたしました。

あなたに血の加護がありますように。

2020-06-04

傾いてる?

引き戸がメインの家なんだけど、普段は開けるのに結構力がいる感じ。閉める時も同じように力を入れて閉めないといけないんだけど、一度閉めるときちんと閉まったままになる。

でも、なぜか3ヶ月位に一度きちんと閉めても開いてしま現象が発生している。毎年毎年感じていて今年で5年位経った。

全ての引き戸がそうなのかっていうと、そうじゃないんだけど…居間と寝室とトイレが何故か勝手に少し開いてしまう。

そして、妙に引き戸が軽い。

1週間くらい経つと、また元の引き戸に戻って力を入れないと開かないし閉まらない状況になるんだけど、もしかして傾いてる?

若者のテレビ離れ

若者おっさん芸人ドラゴンボールプロレスネタを知らないとかい記事があがってるけど、若者テレビ離れってコンテンツ問題じゃないような気がする。

自分中学の時はまだテレビ一家に一台の時代だったけど、もし自室にテレビがあったら居間家族テレビを見てなかったわ。

実際一人でラジオ聞いたり本読んでたことが多かったし。

手元にスマホがあったら、それで一人でYoutube見るわな。

2020-06-02

風呂場にコバエが発生するのだが…

夏になると出てくる。

風呂場の扉が開いていると、居間にまでくる。

キンチョール効かないんだよなぁ~~~~。

元を断ちたいが、どうすりゃいいか分からんね。

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