はてなキーワード: 家族観とは
人によって家族観が違うということを受け入れねばなるまい
・あくまで選択的だから同姓にしたい人に迷惑かけないって本当?
→同性にしたければ同性にすればいいし、別姓にしたければ別姓にしたければいい。それぞれの自由。それ以上でもそれ以下でもない。思想信条を異にする人を攻撃するのなんてごく一握りの人間でしょ。
・子供の姓どうするの?
夫婦間での話し合いが原則。場合によっては複合性を認めるというのも。将来的に子供が選ぶことができる制度は必要。
男尊女卑が強かった時代に育まれてきた伝統的家族観の破壊で男尊女卑成分を少しでも和らげる効果もある。
・なんで結婚したいの?
・むしろ姓にこだわってアインデンティティをそこに求めてる人たちなの?
アイデンティティを持つのは自由、姓にこだわるのも自由、伝統にこだわるのも自由。それを認めるのが選択的夫婦別姓なんだけど。
10年後の日本では、人口減少、少子高齢化、技術の進展、気候変動など、現在進行中の課題やトレンドがさらに顕在化していると予測されます。以下、分野別に具体的に論じます。
• 地方分権化の進展
人口減少や過疎化が進む中、地方自治体の財政基盤は厳しさを増す可能性が高いです。国からの補助金に頼るだけでなく、地方ごとに特色ある税収確保策や産業振興策が必要になるでしょう。ふるさと納税のような地域活性化政策はさらに進化し、地方の自立性が増すと同時に、地方ごとの格差が生まれる可能性もあります。
高齢化率がさらに進行し、現行の年金制度や医療保険制度の持続性が危ぶまれています。少子化による労働力不足や若年層の負担増を考慮し、年金の支給開始年齢の引き上げや、医療サービスの効率化が進むと予想されます。消費税や所得税の見直し、社会保険料の引き上げも議論されるでしょう。
2. 社会
労働力不足を補うため、外国人労働者の受け入れが増加していく可能性があります。特に介護、農業、建設といった分野では、外国人の活躍が不可欠になるでしょう。その一方で、多文化共生に向けた社会制度や地域コミュニティでの支援が進むことが予想されます。言語教育や差別防止策の整備が急務です。
働き方改革や男女共同参画の推進により、家族や結婚の価値観もさらに多様化します。選択的夫婦別姓、同性婚の合法化も検討される中で、これまでの「標準的な家族観」から脱却し、様々な家族形態が当たり前とされる社会になっていくと考えられます。
3. 生活
AIやIoT(モノのインターネット)が普及し、家事や通勤、健康管理などが効率化されるでしょう。スマートホーム技術や遠隔医療の発展により、日常生活がより快適かつ便利になる一方、デジタルデバイドの問題も浮上するかもしれません。高齢者へのデジタル教育やサポート体制がさらに充実することが求められます。
テレワークが定着し、地方移住の動きがさらに進む可能性があります。自然エネルギーを利用したエコハウスや、地域の資源を生かしたサステナブルな生活スタイルが広まり、環境に配慮した生活が標準となるでしょう。特に若い世代が自然豊かな環境を求めて地方に移住し、農業や地産地消の取り組みが進むと考えられます。
4. 文化
映画やアニメ、音楽など、日本のポップカルチャーはさらに多様化し、国際的な影響力を持ち続けるでしょう。デジタル化やグローバル化により、日本発のコンテンツが世界中で視聴・消費される一方、日本国内でも海外の文化がより身近に取り入れられ、ハイブリッドな文化が生まれると考えられます。
若い世代の間で伝統文化の継承者が減少する問題に対し、地域ごとの保存活動が進むと予想されます。デジタル技術を活用して伝統芸能や工芸をアーカイブ化し、広く発信することで、国内外で日本文化に対する理解と関心が高まるでしょう。
地球温暖化の影響で台風や大雨などの自然災害が頻発すると予測されています。これに対して、日本は防災インフラの整備や、避難所の増設、地域社会での防災教育の充実がさらに進むでしょう。また、再生可能エネルギーの普及や、エコカーの普及を通じた温室効果ガスの削減に向けた取り組みも進むと考えられます。
まとめ
10年後の日本では、人口減少や高齢化、気候変動といった社会課題に直面しながらも、テクノロジーの進展や多文化共生、地方活性化といった新しい価値観やライフスタイルの確立が進んでいると予測されます。
この意見は、日本の「他人の家庭に干渉しやすい社会性」と「選択的夫婦別姓」についての懸念を述べていますが、いくつかの矛盾や検証が必要な点も見られます。以下、主な問題点と矛盾を検討します。
日本社会には、個人の選択が「家族」や「社会の価値観」に沿うべきとされる面があり、特に家庭の在り方や家族構成に関して干渉される傾向があります。これは、文化的に「集団主義」が重視される日本でしばしば見られる傾向であり、家族観や生活習慣が多様化する現代においても、偏見や価値観の押し付けが残っています。
ただし、他国の同姓や別姓に関する取り組みについて「問題がない」と断言するのは一面的です。例えば、アメリカやヨーロッパでは選択肢の多様性が一般化している一方で、夫婦間や社会的な固定観念が依然として影響するケースもあります。また、多くの国で夫婦の姓に関する制度の在り方や価値観が異なるため、単純に「日本人特有の問題」と断じるのは、国際的な実態と必ずしも一致しない可能性があります。
「別姓と同姓が拮抗したときに、同姓を選ぶ人が古い価値観の象徴になる」との懸念も述べられていますが、これは将来の社会の価値観がどのように変わるかに依存する面が大きいです。現在の日本では同姓が主流であり、同姓家庭への偏見がすぐに生じるとは考えにくいですが、もし別姓が主流となった場合、同姓が「古い」と見なされる可能性もないわけではありません。ただし、選択的夫婦別姓の推進者は「多様な選択肢の尊重」を求めているため、両者の価値観の平等を目指すことが理想とされています。
3. 子供の姓をどうするか
「子供が好きな方を選べばよい」という意見に対し、確かに問題は残ります。子供の姓は出生時に一つを選択する必要があり、両親間で合意に至らない場合に紛争が生じる可能性もあります。ただし、これについては、両親が事前に合意するか、社会的な合意形成が進むことで解決が試みられている国もあります。日本でも、子供の姓の扱いをどのように法的に定めるかについての議論が進んでおり、選択肢の一部として姓の選択権や変更の自由度を高める方法が検討される可能性があります。
別姓を選んだ場合、家族内で「異なる姓」による疎外感を覚える可能性については個々人の感じ方に依存しますが、確かに一般的な懸念点です。しかし、別姓を選ぶ家庭で育った子供や親自身が「姓」よりも「家族としての絆」を重視するという社会的変化が起こる可能性もあります。別姓家庭が増加した場合、姓の一致や不一致が家庭内の連帯感に影響するかどうかについても、今後の研究や社会的な意識の変化によって見解が変わるかもしれません。
まとめ
この意見は、選択的夫婦別姓における課題と日本社会の現状に対する懸念を含んでいますが、同時に「選択肢の多様化」による社会の価値観の柔軟性も考慮すべきです。社会において、選択肢の増加が「個々の価値観の尊重」に繋がることを目指しつつ、制度の整備と偏見の緩和に向けた教育や議論が進められることが重要です。
私には宗教的素養はまるで無いが、しかし選択的夫婦別姓が血統主義への回帰であることにリベラルがまるで無自覚なのもどうかと思う。進歩に見えるその内実が懐古であることに。
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この意見にはいくつかの問題点や矛盾点が存在します。選択的夫婦別姓を「血統主義への回帰」とする見方は、論理的に矛盾している可能性があるからです。以下に具体的な問題点を示します。
選択的夫婦別姓は、夫婦が結婚後もそれぞれの姓を維持する権利を認める制度です。これにより、個人のアイデンティティの尊重や、特に仕事上の姓の変更による混乱の回避が目的です。したがって、この制度はむしろ個人の自由を尊重し、伝統的な姓の継承に縛られない方向に進むものと理解されています。
「血統主義」とは、特定の血筋や家系を重視する考え方を指します。選択的夫婦別姓を「血統主義」と結びつけるのは、姓を通じて血統を守るという考え方に基づくかもしれませんが、実際には選択的夫婦別姓はそうした特定の家系や血統に依存しないというのが基本的な理念です。
• 夫婦別姓の導入は、血統主義を強調するわけではなく、むしろ多様な家族の形を認めるものとされています。そのため、家族や個人の選択を尊重し、姓の変更を強制しない制度は、血統に依存した価値観の反対方向に進むとも解釈できます。
選択的夫婦別姓を支持するリベラルな立場は、一般的に進歩的な価値観に基づいており、ジェンダー平等や個人の選択の自由を重視します。意見の中で述べられている「懐古」という指摘は、制度そのものが伝統に回帰することを意味していますが、選択的夫婦別姓は実際には従来の性別役割や伝統的な家族観を見直す方向性を持っているため、懐古的な要素を含むとは考えにくいです。
選択的夫婦別姓はすでに多くの国で実施されていますが、血統主義や伝統的な家族構成を維持するための制度ではなく、むしろ個人の自由やジェンダー平等の観点から導入されるケースがほとんどです。このため、選択的夫婦別姓を懐古主義とみなす視点は、現実の動向と合致しない可能性があります。
この意見は、選択的夫婦別姓を血統主義と結びつける点で誤解を含んでいる可能性があり、リベラルが「懐古」に無自覚であるとの指摘も事実に基づいていないと思われます。選択的夫婦別姓はむしろジェンダー平等や個人の自由を促進するための制度として広く支持されているため、懐古的という評価は適切ではありません。
日本で選択的夫婦別姓への移行を行った場合、以下のメリットとデメリットが考えられます。
• 結婚しても個人の名前を維持できることで、自己アイデンティティを尊重できます。特にキャリアや社会的な関係で名字が重要な役割を果たす人にとっては大きなメリットです。
• 現在、多くの場合、女性が男性の姓に変更することが一般的です。選択的夫婦別姓が導入されれば、姓を変えるかどうかの選択が自由になり、男女間の対等な関係が促進されます。
• 多くの国で夫婦別姓が認められています。日本も選択的夫婦別姓を導入することで、国際基準に近づき、国際的な文書や手続きがスムーズになります。
• さまざまな家族形態が存在する中で、夫婦別姓が認められることにより、多様な価値観や生き方を尊重する社会を築くことが可能です。
• 夫婦が別々の姓を持つことで、家族の一体感が薄れると感じる人がいます。子どもがどちらの姓を選ぶかによって、家族内で複雑な感情や問題が生じる可能性があります。
• 新しい制度を導入するためには、行政システムや法律の変更、教育や広報活動などにコストがかかります。また、戸籍システムの調整も必要となります。
3. 伝統的価値観との衝突:
• 夫婦同姓は日本の伝統や文化の一部と見なされています。選択的夫婦別姓を導入することで、こうした伝統的価値観を重視する人々との衝突が生じることが考えられます。
• 夫婦別姓の場合、子どもがどちらの姓を名乗るかでトラブルが起こる可能性があります。将来的に子どもが選択する権利についても議論が必要です。
改善策
• 家族や名前に対する価値観は人それぞれであることを理解し、多様性を尊重する教育や広報活動を進めることが大切です。
• 制度移行に際して、戸籍やその他の関連システムをスムーズに対応できるよう、技術的な整備と手続きの簡略化を図ることが重要です。
• 子どもが生まれた際の姓の決定について明確なガイドラインを設けることで、将来的なトラブルを防ぐことができます。
選択的夫婦別姓の導入には、現代社会における多様な価値観を反映させつつ、伝統的な家族観ともバランスを取るアプローチが求められます。
朝日新聞が先週報じた統一教会と故安倍元総理との写真の件は珍しく600超えのブックマークを達成したが巷は全く盛り上がっていない。はてなの常識が世間の非常識であることを如実に表している。
信者を騙して金を毟り取り山上哲也容疑者をはじめとする多くの信者の家庭をぶち壊してきたことも、それを韓国に送金するシステムも心底クソだと思うのだが、反共自体は元々自民党の路線だし、家族観は自民の中でも結構割れているところだし、霊感商法の取締を緩める便宜はかった形跡も無い。
従って、自民党は選挙協力で恩恵受けてるけど、ただ協力しているのが悪い奴だったというだけで公金支出したりするなどの政治経由の国民被害が全然ない。癒着という漠然とした抽象的な理由しか批判側が掲げられていない。やるなら彼らにはかった具体的な便宜を中心に問題化しろ。
経済や外交・防衛の議論を期待している国民の多数派にとって統一教会問題は比較的どうでもいい話。裏金問題とは比較にならない。結局反共に反発する左翼だけが盛り上がってる話題でしかないのにエコーチェンバーに染まった当の本人達が全然気がついていない。
立憲民主党の安住くんはもっとこの問題を取り上げて盛り上げていってほしい。立憲民主党の支持率が一番低かった頃にいい感じに戻るはずだ。山口4区補選で統一教会問題を前面に押し出すことにより、自ら批判しかできないことをアッピールして惨敗した有田くんもそれを願っているはずだ。
よろしくね!
あえて、セックスしない方がいいよ。
妻と腹割って話してセックスしないって決める。その代わり、お互いの同意をとれた日に裸で布団で抱き合う。
苦しいかもしれないけど、お互い精神的に満たされると思う。いやそうであってくれ。そうでないなら手繋ぎデートからやり直してくれ。
話を戻す。セックスはするな、全裸で抱き合うといい。この時、気の迷いでセックスはするなよ。するとまたプレッシャーと妻だけEDのループになるからな。セックスしないで裸で抱き合え。
セックスが安心感と承認と受容の先にあることを身体に覚えさせろ。
裸で抱き合って、思い出させろ。
プレッシャーなんか忘れさせろ。
妻に協力してもらえ。
俺がやった方法はこれだ。効く事を祈る。
妻からの人格否定とあったのでそこも気になる。ここの解決も同時にやった方が良いのかもな。
加えて、増田が家族認定していることでセックスできないなら、自分の生い立ちからの家族観を少し見直した方がいいかも。増田の両親は夫婦関係どうだった?性的な事柄に異常に抑圧された経験はないか?増田は増田だからな。自分の気持ちを大切にしろよ。
たとえば、配偶者が一度きりの不倫をしたとする。あるいは何年もセックスレスである。しかし夫婦には二人の幼い子供がいる。
ある人はすっぱりと離婚を決める。夫婦の関係が破綻しているのだから、家族は継続できない。
ある人は夫婦関係を継続する。子供のための経済的な基盤を維持することが、家族にとって最も重要だから。
「子供は親の面倒を見て然るべきだ」「親はすべてのリソースを子供に尽くすべきだ」「義実家と親密な関係を結ぶべきである」「家族になったら夫婦愛はいらない」…こうした言説は未だ根強い一方で、だんだんと効力を失いつつある。どちらが正しい、という話よりも、重要なのは、あるべき家族のイデアは人によって異なっているということだ。もう、すでに大きく異なっている。あなたが「常識的に考えて家族とは」と思うそれを、いったいどれほどの隣人が同じように信仰していると言えるだろうか。
いや、そんな現実はあってはならない、あるべき家族観を取り戻さなければならない、といっても、もう遅いのである。あなたが強固な信念を持っているように、相手だって同じ強さで家族観を持っている。どうしてあなたが、対等なパートナーとなるはずのあなたが、相手の信念を塗りつぶすことができるだろうか?
繰り返しになるが、それは正しい、正しくないの問題ではない。自由意志を持った他人を、自分の思うように動かすことはできない。
あなたは夫婦が別姓であることによって家族の絆が壊れると考える。しかし現実的には、夫婦別姓を望む人々がいる。彼らは夫婦が別姓であっても、家族は成り立つと考える。要するに、彼らの思う「家族」とあなたが思う「家族」は、もうすでに別のなにかなのだ。だから、あなたがどれほど声高に夫婦同姓を望んだところで、あなたの思う「家族の絆」はすでに、普遍の原理としては存在していない。彼らの家族観も同様だ。互いに「あるべき家族」について合意することはすでにできない。順序が逆なのだ。
夫婦別姓によって、自分と似た家族観の人間が減ってしまうかもしれない、だからそれを止めなければならない、とあなたは考えるかもしれない。でも、もしそうなれば、あなたの家族観がこれからの世代にとって、すでに魅力的なものでなくなっていっている、ということを意味しはしないか?あなたが本当に正しいのであれば、どうしてそれが減ってしまうのだろう?
あなたはただ、自分と同じ家族観を持つ相手を探せばいい。合わない相手と家族にならなければいい。適度に距離を置いた隣人として生きていけばいい。あなたの思う家族の絆を実現できる相手と生きていけばいいだけの話なのだ。
けれどもたったそれだけのことができないのが、普通の人間が普通に持つ弱さというものなのだろう。すると逆説的に言えば、選択的夫婦別姓推進派が受け入れるべきは、「大抵の人間は、徹底した個人主義を生きられるほど強くない」という現実なのかもしれない。彼らは彼らでその現実と向き合って、打ち出すメッセージを考えることが必要なのだろうな。
https://anond.hatelabo.jp/20240906234755から続く
この出来事は、1983年から1984年にかけての現代編に関連している。。おしん83歳の頃、たのくらスーパーの拡大事業は、大手スーパーの進出によって経営難に陥り、倒産寸前まで追い込まれていた。過去におしんが初恋した相手、並木浩太の息子が経営する並木商店が、大手スーパーの土地買収における重要な場所にあり、その売却次第でたのくらは助かる状況であった。私は以前、おしんが浩太を説得し、並木がその情に応じて救済が成功したと思い込んでいたが、実際にはそうではなかった。
なぜそのように思い込んでいたのか。もしかすると、失踪から戻ったおしんに、並木を説得してくれと仁が土下座して頼み込んだシーンがあったからかもしれない。
「おしん」は全297話もあるドラマだが、その第1話は、たのくらスーパーの新店舗開店祝いにおしんが出席せず、家出する場面から始まる。おしんの失踪理由が明らかになるのは、終盤の第290話。ドラマの伏線回収が時代を経て行われることが多く、おしんの家出の理由も最終週で回収される最大級の伏線のひとつであった。この巧みな構成は、橋田壽賀子や演出家のすごさを感じさせるもので、まさに名作と呼ぶにふさわしいものである。
特に佐賀編では、あまりの過酷さに倍速で視聴したこともあったが、終盤に近づくにつれ、ポーズしてでもじっくりと次の展開を予想しながら見入っていた。
第1話から第3話にかけては、おしんが並木商店の大旦那に恩義を感じていたため、新規スーパーの出店に反対していたことが示唆されていた。そのため、多くの視聴者はおしんが息子の恩知らずな商売拡大に恥じて家出したと理解していたはずである。ぢかし終盤になってその真の理由が明かされるという展開が待っていたのは正直、超絶長い伏線回収である。
実際には、おしんは失踪直前に浩太を訪れ、仁の事業拡大による不義理を詫びていた。その際、聞かされたのが大手スーパーの進出についての話である。並木商店の大手への売却は、並木商店の生き残り策であり、たのくらへの防衛策でもあった。おしんはすべてを理解したうえで、浩太に対して大手スーパーへの土地売却を進めるように頼んでいたのである。
その後、おしんが戻ってきた際も、並木はまだ売却を逡巡していた。仁はおしんに土下座して、まだ間に合う、並木を説得してくれと頼んだが、おしんは改めて浩太に売却を進めるよう頼むのである。おしん厳しすぎるだろ。
おしんは大手の進出によってたのくらの事業が立ち行かなくなることはわかっていたが、ひととしての恩義を忘れ、家族を顧みず金儲けに走ってきた田倉家の再生のために、そして恩人の浩太の一家のためにも並木の土地の大手売却への契約を進めてくれと願い出る。相変わらずおしんさんは厳しいお人だと微笑む浩太は、ついに売却を決意する。
仁は、母のおしんが交渉に失敗したと思い込み、失望して母を責める。妻の道子も、夫に失望し、ついには離婚を宣言する始末。家族の崩壊が進む中で、おしんはその様子を静かに見守ってゆく。
おしんは仁に、離婚を再考するよう促し、仁はようやく家族の大切さを思い出す。この姿は、かつて佐賀で竜三を立ち直らせるために試みたおしんの姿と重なる。仁と竜三は、いずれも実家の甘えを捨てきれずにいた共通点があった。おしんは仁の田倉商店を倒産させてでもその甘さを排除しようとしていたのである。
事業整理のため自宅売却を進め、引っ越しの準備のさなか、家族は徐々に絆を取り戻してゆく姿は橋田壽賀子の夢の世界なのかもしれない(正直、ここはちょっとうーんと思うところはあるが)。しかしこれが橋田ドラマ流の大団円なのだろう。
前述したように、田倉商店は浩太によって救済される。というより人の縁によって救われる。それはまさにおしんが商売において大切にしてきた価値観なのである。しかしそれは、全297話、一年近く放送してきたおしんのドラマの終盤最終話、終了わずか10分前の出来事である。すごい。
橋田壽賀子がこの物語を書き始めた理由は、バブル経済前夜にあった80年代の人々が、お金儲けに走り、大切なものを見失っているのではないか、という思いからであった。物語のラストにはそのメッセージが強く反映されている。
竜三と息子の仁は、おしんから見て「甘い」性格であり、竜三は何かと佐賀の実家に頼るところがあった。しかし、竜三が「俺についてこい、命を懸けて大きな仕事をするんだ」と前に進もうとする時の屈託のない笑顔を、おしんはたまらなく愛していたのだろう。
竜三が敗戦時に自決した際、おしんはその死を「立派だ」と称した。今回全篇通してみる前は、残された家族を顧みない自殺は自分勝手で情けないものだと思っていたものの、物語全体を通じて竜三の死に対するおしんの思いが腑に落ちる瞬間があった。
私は後悔しているんじゃないよ。私は私なりに信じて戦争にも協力してきた。軍のおかげで初めて仕事らしい仕事もさせてもらった。男として存分のことしてきたんだ。むしろ精一杯生きられたことをありがたいと感謝しているよ。ただ、ひとは私の生き方を間違っていたというだろう。私は軍と手を結んで仕事をしてきた。隣組の組長として戦争への協力も押し付けてきた。私の勧めで志願兵として少年航空隊に入った少年もいる。その中にはもう帰ってこない少年もいた。国債だって随分買わせてしまった。それも今となっては反故だ。私が無視する事だってできたんだ。だが私はそれをしなかった。もちろん私には私の信念があってやった事だ。それを悔いる気持ちは全くない。しかし戦争に協力して罪もない人たちを不幸に陥れてしまった責任は消えやしないんだ!
これが自殺直前の竜三のつぶやきである。竜三の言葉のなかに隣組という言葉が出てくる。
明治から終戦にかけての日本は、天皇を頂点とした「家制度」を仮構し、その枠組みの中で国民国家が成り立っていた。この「家」の概念は、戦時中には配給制や隣組といった組織を通じて等しく苦労するフィクションを生み出し、社会の不平等を覆い隠していた。田倉家もその影響を受け、軍部からの委託で工場を経営していたが、周囲からは「軍と結びついて甘い汁を吸っている」と陰口を叩かれていた。仁がある日突然、少年航空隊に志願した背景には、そうした噂への嫌悪感があったのかもしれない。
その後、仁は終戦の日も戻っては来なかった。田倉家では仁は戦死したものと想像していたのである。
日本が「ひとつの家」として観念された時代において、家族を守ることと国を守ることは同義であった。竜三にとって、隣組の子供たちの死や戦争の責任を負うことは、家制度の枠組みの中で重要な役割であっただろう。彼が自決した理由も、家制度に基づく責任感から来ていたのである。おしんが竜三の死を「立派だ」と称したのは、竜三が自らの信念に従い、天皇を頂点とした「家」への責任を全うしたと理解したからかもしれない。
語弊を承知でいえば、竜三の自決は、個人としての責任を取る行為であり、家制度における「切腹」にも通じる感覚だったと言える。
おしんが育った山形の貧困農家では、口減らしが普通だったし、姉のはるが死んでも母が死んでもまともに葬式もできない窮状だった。女性を犠牲にして平気な顔してきた作造も長男の庄司があまりにもひどかったことを思い出すと、隣組の責任を感じて自殺するなんて、むしろ立派なことに思えてくる。
しかし、どうだろうか。
竜三のこれまでの数々の挫折経験のように、ふるさとの太い実家に戻るというような、逃げ道はなかったのだろうか。しかし思えば伊勢にきて魚屋になった頃からの20年間、竜三は佐賀の実家へ依存する思いがほとんど消え去っていたように思う。竜三の佐賀依存が消えていったことはおしんにとってはうれしいことでもあった。
禎の疎開のときですら、佐賀疎開という選択肢は排除された。疎開先で虐待され逃げ帰ってきた禎をみたときには、さすがに佐賀という選択肢はあってもよかったと思うが。竜三はそれもしかなった。
太い実家をあてにしない、それはおしんが望んでいた竜三の自立の証でもあったはず。竜三は魚屋からの次のステップとして伊勢で軍の納入業者になることに挑戦した。そしてようやく家族を養う自信が付き始めた頃のこと、おしんは竜三が佐賀の実家を頼らず、雄、仁、禎、希望、初子の5人の子供のために大きな仕事に夢を託していると思うとたまらなくいとおしくなった、とナレーションが述懐している。
しかし、竜三が太い実家という表象の代替として知らず知らずのうちに依存していたのは、天皇を頂点とする日本国という「巨大な家」だったのである。
おしん自身は、国家という家のフィクションを完全には信じてはいなかったが、なんとなく空気には流されていた。しかし竜三は深く信じていた。信じていた以上、潔くその家の責任を取ったということだ、おしんはそう理解したのだろう。そうであれば、軽々しく天皇制などというフィクションを捨て戦前の考え方などなかったかのように、これからは自由な社会だ、などとふるまうことはズルいことだと思ったかもしれない。しかし、国が家族であるという考え方を捨てさえできれば、なんだったら太い実家に戻ってもいいのだ。しかし竜三はそれを逃げ場にはしなかった。だから立派だといったのではないだろうか。
敗戦直後の225話では、父と兄を失った仁の感慨として、潔く死を選ぶか女々しく図太くたくましく生き残るかの二者択一として人生観が総括されてゆく。その後の長い戦後の物語では、昭和58年、物語の終盤に至るまで、たびたび竜三と雄の仏壇に手を合わせるシーンが出てくる。これも地味だけど見逃せない。おしんが田倉竜三への思いを忘れずにいるという、竜三への愛と敬意がここに見て取れる。かつて伊勢の海岸で、逃げようとする竜三をタックルをしてでも捕まえたおしんの心情がオーバーラップしてくる。
ちなみに、この竜三の自決は、80年代90年代、翻訳、放送された海外ではどう受け止められたのだろうか。それはとても気になっている。
おしんのドラマは橋田寿賀子の反戦思想が色濃く反映しているといえるが、そのなかに侵略や植民地支配の反省という視点は希薄である。それは竜三の自決動機のなかでも軍部に寄り添い、同胞を死に追いやった責任は感じても、侵略に手を貸した自画像はみえてこない。しかし、植民地支配への反省についてはそれ自体は動機にはなっていないものの、それにつながりうるイエ観念を読み取れるように感じた。隣組を他人ごととしてとらえていたのであれば、竜三の自決はなかったはずである。そうであれば拡大されたイエ観念により実効支配された地域に考えが及んでもおかしくはない。実際にはそこまで思いは至らずに死んでしまうのだが。
同じ昭和時代の作品である五木寛之の「青春の門」では、筑豊炭田で差別的な扱いを受ける朝鮮人労働者が大きなテーマとして描かれている。石炭鉱業会社の経営者が、朝鮮人労働者たちから待遇改善を求められた際、「他の山は知らんが、生きるも死ぬも一緒に炭を掘ってきた家族同然だ。私が親でお前たちは子供だ」と言い返すシーンがある。
この台詞は、日本を親、植民地を子と見立てる当時の日本人の感覚を象徴している。家族になることで遠慮がなくなり、苦労を強いても平気になるという現象は、まさに家族観の持つ影の部分を示している。(ちなみに映画「青春の門」筑豊編1980年で経営者と交渉した朝鮮人労働者リーダー役を演じた渡瀬恒彦は、おしんでは浩太役を演じている。)
この真理を見事に表現しているのが、初子の存在である。八紘一宇における植民地と田倉家における養子初子は入れ子構造なのである。初子の境遇は、創氏改名を強いられ皇民化の果てに敗戦を迎えた朝鮮民族の運命と二重写しに見える。植民地をいかにわが子供のように見立てようともいざ状況が変わればあっさりと切り捨てられてしまう。
初子の抱えていた不安というのはまさにそういうものだった。おしんの長男・雄の戦死を契機に山形へ帰郷するよう初子に伝えたおしんの行動は田倉家以外に居場所のなかった初子にとって残酷なものであったといえよう。自殺を思いとどまり、米軍相手の娼婦となった初子は誰にも消息を知らせないまま、3年もの間、田倉家に送金を続けていた。おしんの言動は初子を養女とみていたとはいえない一方、初子は養女としての行動をとっていたのがいじらしく泣ける場面である。
政治的な「左右」とは、政治的なイデオロギーや立場を示すために使われる一般的な用語です。「左」と「右」は、それぞれ異なる政治的価値観や政策の方向性を表します。この分類は、フランス革命期の議会の座席配置に由来しており、そこから広く使用されるようになりました。
※この「左右」の分類は、国や文化によって多少異なる場合がありますが、一般的には上記のような特徴で分類されます。
1.基本的価値観:
3.例:
1.基本的価値観:
3.例:
アメリカと日本のメディア間のニュース提携の一覧化してみました。
2.朝日新聞 :tv asahi(日本) と ABCニュース (アメリカ)
4.産経新聞:フジテレビ (日本) と Fox News (アメリカ)
5.読売新聞:日テレ (日本) と The New York Times (アメリカ)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankei.com/article/20240808-HNQSWJHANBCKPHK7BRLZ4JHK6Q/
うわきっつー。核は通常兵器と次元が違う前提でありパレスチナにおける被害と日本の“被爆地”は次元が違うというある種の特権的地位は捨てるってこと?まあ捨てるならいいよそれで。空爆食らった国内各都市やガザやドレスデンやらと等しく同じ軍事的被害地であり、被爆地に特殊性は一切なく「核」「核」言わないならそれでいいよ。
核の傘に守られながら被害者ぶってるの、以前から気持ち悪かったしな。
あとネトウヨがパレスチナに肩入れするのは論理的に整合するよな。イスラムには糞フェミニズムや腐ったLGBT思想はないわけで。リベラル欧米が支援するイスラエルとは根本的に相容れない。ネトウヨはエマニエルボロクソ言ってるしなw
ついに来たか…って感じ。根本的な価値観の違いが明確になった。ウヨが増加するはてな上では、欧米よりもイスラム、中国←これら反リベラル的な国と価値観が近い人が多くなった。欧米は人種差別的でありリベラルであり伝統的家族観を破壊する糞。袂を分つ時が来た。とっととアメの核の傘が出れば?で中国と軍事同盟結べ。
因みに欧米の反イスラエル潮流は若者が陥りがちな左翼思想でありイスラムがどれだけ反自由主義的か理解できてないだけだと思う。
なぜなら主人公は「ひたすら恵まれている」ハイポジションリベラル女子」だから。日頃から女はズルいと怒り呆れがちな人たちが真っ先に鼻で笑うタイプの恵まれた女だから。
ドラマの主人公の寅子は、投資銀行に勤める父と良妻賢母の母という大正~昭和初期のアッパークラスの、それもリベラル色の強い理解あるご家庭に生まれて、その潤沢な社会資本を余すことなく享受して弁護士の道を自由に邁進している。そして勉強大好きで周囲が態度を変えるほど頭が良く生まれついてもいる。そして子供のころから正義感がある。家柄が良くまっすぐ育った明るい優等生。
大学に行っても目立つタイプ、拗らせミソジニーを発動する拗らせエリートの同級生男子が、いつの間にかそのまっすぐな人柄にやられて好意を抱いたりする程度にはモテる。
寅子の家には、父が面倒を見ている司法試験合格を目指す書生がいて(アッパークラスのご家庭ならでは)この書生とも「私たち同じ道を進む仲間よね」という異性友達ムーブをぶちかましているが、書生は寅子に片思いである。そしてこの書生よりも寅子の方が圧倒的学力がある。要するに立場的にも、恋愛的にも経済的にも非対称性が生じている年上の男性を寅子は「異性の友人」として遇している。中々のタマである。
寅子は、前述した好意を抱かれていた拗らせエリートに「彼女に結婚してくれとはいえない、彼女の夢を奪うことになるから」と思われて振られてしまうのだが、それまでどっちつかずの態度だったくせにいざ振られるとショックを受けたりするし、せっかく弁護士になったのに依頼が来ないのは私が結婚していない(社会的信用がない)からだ、と思いつき慌てて縁談を探してもらうがうまく行かない。そりゃそうだ。
ところが助け舟で、寅子に片思いしていた家の書生から結婚をしたいと言われる。渡りに船と逃げ恥のような「条件偽結婚」だと思い込みスピード結婚を承諾するが、前述のとおり書生は寅子に片思いしていたわけで、初夜にぬいペニ状態となる。かわいそうな仲野太賀…。
と、寅子の痛さを中心に4月にドラマが始まって今日までの1カ月半を振り返った。フェミニスト嫌いの諸氏や、女はずるいと常々思っている諸氏が叩き放題の「豊かさという下駄を履いて産まれた恵まれた女様」それが寅子である。伊藤沙莉が演じていなかったら大変なことになっていたと思う。
「虎と翼」は、現代の問題を昭和初期の物語に練り込んでいる疑似歴史感が臭うドラマだが、一方でモデルになっている三淵嘉子は実在の人で、ドラマにおける寅子のキャリアや背景はモデルのそれをなぞっている。恵まれたリベラルな家に生まれて弁護士になり、戦争の時代に突入し、色々あって戦後は日本初の裁判官になるスーパーウーマンである。
ドラマの寅子も恵まれた家に生まれ、厳然とした性差別がある世界を、明るく、元気に、強気に突き進んでいく。そして突き進む中で彼女は、自分が周囲と比べ恵まれていること、「自由に選択ができるという」下駄を履いて生まれてきたことを徐々に自覚していく。
寅子が持って生まれた豊かな資源は、裏返せば、女に人権がなかった時代には、ここまで特権的に恵まれてなければ法曹界で働く道を切り拓くことができなかった、ということの証左だ。そしてこれを現在に照らせば、形式上は男女平等になった現在の女は寅子に比べれば矜持や頑張りが足りない、という振り返りもできるし、現在でもまだまだ形式的にしか男女の機会平等は達成されていないよなと振り返ることもできる(医大の入試における性差別不正はつい最近の出来事だが、あの時は差別だと批判する意見と、女はズルいから消耗が強い診療科を選ばないため合理的配慮だという意見に二分されていた)。
これは、女性に人権がなかった頃を引き摺って今も残る男性優位の古い価値観を、改めてマーカーでなぞっていく作業であり、同時に現代の女が抱える特権性の問題も照らし出す作業でもある。
そしてドラマの中では、現代にもしっかり残っている、個人の幸福を削るような価値観を改めて再発見することになる。
「結婚しなければ社会的信用が得られない」、「エリート男が生きていくには従順に従う女が必要」、「女の弁護士なんて信用できない」、「自分より優秀な女は生意気で目障りだ」、「適齢期を過ぎると縁談がない」、「人は生まれた国や家や身分に縛られる」、「平等を求める声は不平等の利益を享受する側には届かない」、「上品な批判は下品な妬みには勝てない」、「お金がないと社会的意義の高い仕事につけない」などなど。昨日どこかのSNSでだれかがぼやいていそうな内容である。
これらは女だけではなく、男も同様に削られる呪いの価値観である。学友たちはこの呪いの価値観によって法曹界で働くという夢を立たれていき、寅子は弱い立場に置かれた人を助けたいという正義の実践に加えて、諦めなくてはならなかった仲間への思いを「使命」として背負う人生を選ぶことになる。
不平等と戦うに十分な恵まれた武器を持って生まれて、更に先駆者の使命を背負った寅子は、おそらく来週からの戦争ターンではどんどん「恵まれていたもの」を奪われていくことになるのだと思う。世紀の愚戦・負け戦の太平洋戦争ってそういうものだったから。男は戦争に行くし残った老人や女子供は空爆にさらされる。男も女も人がたくさん死に経済活動は退潮する。
その時でも寅子は「正義」と「使命」をもって生きていくのだろうと思う。モデルの三淵さんは生き残ったし、何しろドラマの主人公なので正義や使命は捨てないだろう笑。
たくさんのものを奪われてなお「正義」と「使命」を失わない女がどんな生き方をするのかのドラマを私はとても楽しみにしている。
そして、形式上の機会が平等になった世界で、これまでずっと恵まれていたはずのものをどんどん奪われ不満が溜まっている人たち、「女は狡い」、「現代の女は特権階級だ」と思っている人こそ、奪われても正義と使命を捨てなかった人のドラマを見てほしいと思う。
フェミニズムドラマくっさー、と思う人も多かろうが、お勧めしたいのには、単純にドラマとして良くできているのもある。
寅子は「戦う女戦士」みたいな感じではまったくなく、前述通りそこそこの空気読めないわがままな、脇の甘い生き方をしていて、いちいちナレーションに突っ込まれている。ナレーションは尾野真千子で、芝居がかったナレーションだがコメディの良い味付けになっている。
寅子の両親や兄夫婦は明治の家族観(男が働き女は家を守る)できわめて円満な夫婦関係に描かれている。一方で嫁姑のちょっとしたストレスも描かれたり。父は帝人事件(疑獄事件)の当事者になり、リベラルなエリートの父親が会社での立場に縛られる姿をシリアスに描いてもいる。
また、法曹界への女性の進出を後押しする立場であるリベラル派の教授や弁護士がしっかりと性差別をしていてフェミニズムにおける父権の問題を提示していたりもして、本当に痒い所にまで手に届く配慮がされている。セリフやシーンの伏線もとても豊かでドラマとして見ていて普通に面白い。出演者はみな手練れの俳優だらけで演技へのストレスはほぼない。
フェミニズムドラマとしての側面については、あまりブコメが集まっていなかったがこの記事の分析がとても分かり易かったhttps://bunshun.jp/articles/-/70764 これ読むと「女のためだけのドラマ」じゃないことがよくわかると思う。
ところで最後に全然話は変わるのだが、昭和初期というのは実はWWIIをジャンプして戦後と地続きになっていたかなり民主的かつ退廃的な時代だったらしい。「富国強兵」を叫んで強国を目指していた大日本帝国から現代にいたるGDPの推計推移をみると「戦争が無かったらこのグラフの線が素直に上がっていたのではないだろうか」と感じさせるラインが描かれる(https://www.nippon.com/ja/in-depth/a04003/ 中ほどのグラフ)。まあ実際は戦争しないと色々糞づまっていたわけで後付けの皮算用でしかないが。
ともかく、人が自由を求めそして退廃を享受できる程度の十分な豊かさが生まれていたのが大正末期から昭和初期の時代。ちょうど朝ドラで描かれているこの時代は、結構現代に近い時代だったりもする。
しかし、このニッポンドットコムは笹川財団由来のかなり右寄りの情報サイトなのだが、それでも「高度成長期のストックは90年代で尽きてその後の策がねえぞ」という分析になっているのが、ちょっとだけ面白いですね。