はてなキーワード: 共生とは
だれか特定の人を誹謗中傷したりするものではありません。何かを強制させるものでもありません。
さっき某ツイッテアで、『作品以外載せないでください不快(超訳)』って絵師様に堂々と物申す方がいた。
ヒェッ・・・・・・恐ろしい…
もしかして絵師様を『自分好みの絵をあげてくれるAI』と思っていたのだろうか。(いやさすがにそれはないか)
オタクであれ腐女子であれ、だれか好きな絵師様がいる方は多いだろう。
私は文も絵も描けなくて、そのくせ妄想力だけ妙に強いクソみたいな腐女子だ。
だから、某ペクシベや某ツイッテアなんかで自分にドストライクの絵を見つけて「うっわ尊い…無理好き……」ってなることしかできない。
私は自分では何も生み出せないから、ほかの方がその人それぞれの魂の数瞬を削って生み出した、その作品を貪ることでしか生きていけない。絵でも文でも。
相手にただ一方的に絵を求め続けて、ああしろこうしろ絵だけをもっと上げろそれは地雷だやめろエロをくれと、ひたすらわめき続けるのはただの寄生だ。
いやリクエストすることは悪くない。ただ、やっぱり相手も人間だからそんなことを続けたら心が死んでしまう。
RTするなり感想を送るなり、自分からもなにかできることを返していけばいいのではと思う。
だってそのほうが何倍もましじゃないすか。
私もクソなりになんとか共生しようと、絵をRTしたり感想をおくってみたりとできることを続けている。
この世のオタク全員そう!とかそういいたいわけじゃない。そういう人もいるっていう話です。
でも、寄生よりは共生のほうがお互い気持ちいいじゃないですか。
まず、「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えるにあたって、「いけない」の意味を明らかにしましょう。「いけない」という言葉には、法律で禁止されている、道徳的に許されないという2つのパターンがあります。なぜこのように分けるのかというと、法律と道徳は、重なり合う部分はあれど、基本的に別のものだからです。ある行為が法律で禁止されていることと、道徳的に許されないことは異なる問題です。
刑法は禁止される行為を定め、よりよい社会を実現しようとしています。刑法に定められた犯罪には、それぞれ保護すべき法益というものがあります。殺人罪であれば人の生命です。殺人が禁止されない社会では、人は安心して暮らすことができません。そこで、「自己の生命が脅かされない社会は、よい社会である」という思想のもと、刑法は殺人を禁止しています。
ただし、これも絶対的なものではありません。責任能力の欠如、正当防衛、錯誤など、様々な要因で殺人の罪が問われないことがあります。たとえば、自分が殺されそうなとき、相手に反撃せず黙って殺されなければならないとすれば、それはよい社会とは言えません。そのため、よりよい社会の実現という目的のもと、殺人の禁止には例外が認められています。
次に、道徳について考えてみましょう。道徳とは、人間が無意識に存在すると認識している善悪の規範のことです。
これは法律と違い、明確に定められたものではありません。実態の存在しない、ある種のフィクションです。道徳は、無意識のものなので、法律のようにこのような理由がこれは悪だと説明できるものではありません。そのため、「なぜ道徳的に悪なのか」という問では答えを導くことができません。そこで、「なぜ殺人を悪だと認識するのか」という風に問を変えてみてください。
人間という種が発展していくのにあたり、お互いを殺し合う行為は、その発展を妨げる行為です。そのため、「殺人は悪である」という認識が生まれたと考えられます。増田の指摘する、「種の保存」です。
ただし、これも絶対的なものではありません。たとえば、前述した正当防衛であれば、道徳的にも悪ではないと認識する人が多いのではないでしょうか。これは、「種の保存」よりも「自己の保存」を優先する人間の無意識から生み出される考えだと思われます。
「人を殺してはいけない理由があるのに、動物を殺してよい理由はあるのか」という問を、上記2つの観点から考えてみましょう。
法律の観点からすれば、動物を一切殺してはいけないとすれば、食料等様々な問題が発生し、よりよい社会とは言えません。そこで動物の殺害全ては禁止されていません。
ただし、動物愛護法等、一定の行為は動物に対するものであっても禁止されています。この法律は、「人間と動物が共生する社会は、よい社会である」という思想のもと定められています。ただし、あくまで「よい社会」とは人間にとってよい社会であり、この法律は動物の権利を保護するためのものではありません。法律は、あくまで人間が自己の社会のために定めるものなのです。
次に、道徳の観点から考えてみましょう。ただし、これは非常に複雑な問題です。なぜなら、「動物を殺すこと」については、どの範囲を悪と感じるのか人によって全く異なっているからです。
「なぜ動物を殺してよいと認識するのか」という問であれば、人間が生きていくためには食事が必要であり、そのことを正当化する必要があるからと答えることができます。しかし、社会が発展するにつれ、動物を殺さなくても人は生きていくことが可能になった結果、この理由で説明することはできなくなりました。
「動物を殺すことは許されるのか」という問題は、「なぜ人を殺してはならないのか」以上に難しい問題です。興味があれば、ピーター・シンガー等、動物の権利について論じた本を読んでみてください。
今日本でブラインドサッカーの世界大会やってて、応援してるアイドルが開会式とハーフタイムショーにちょろっと出るっていうから見に行ったのよ。
試合見る前は正直あんまり期待してなかったというか目が見えない中でやるサッカーってグダグダなんじゃないのと思ってた。
実際試合見たら全然想像してたのと違った。めっちゃうまい。ドリブルもシュートも。私が見たのは日本対イングランドの試合で、2-1で日本の勝ちだった。
日本の勝ち越しゴールの時は思わず声を出して喜んじゃった。youtubeにハイライトあるから見てすごいから。
https://www.youtube.com/watch?v=OxBH3Ts4scw
「IBSA ブラインドサッカーワールドグランプリ 2018」っていう大会で3/25までやってるよ。観戦無料の試合もあるから気になった人は見に行けばいいと思うよ。
開会式で偉い人が「ブラインドサッカーを通じて健常者と障がい者の共生を~」なんてことを言っていて、私はそれをフーンと思いながら聞いてたのね。
でも、実際に試合を見て、家に帰ってからもらったパンフレットを眺めたりしてスポーツを通じて障がい者が暮らしやすい社会になるって本当にあるのかもって思った。
パンフレットの中に選手の言葉として「ピッチの中が障がいを忘れるとき」という言葉が紹介されていて、なんでピッチの中だと障がいを忘れられるんだろうって自分なりに考えてみた。
スポーツに熱中することで障がいを忘れるという意味もあると思うけど、ブラインドサッカーのルールがすごくよくできてるんじゃないかって思った。
ブラインドサッカーは目が見える人も試合に参加する。キーパーとガイド(コーラー)と呼ばれるゴール裏から指示を出す人がそうだ。
目が見える人と見えない人が一緒にピッチに立って試合をする。でも、その役割ははっきりと違う。この状況では目が見える、見えないというのは優劣ではなく役割の違いに過ぎない。
ブラインドサッカーにおける目が見える、見えないっていうのは、キーパーは手が使えるがその他のプレイヤーは手を使えないっていうくらいの意味になるのかなと思った。
サッカーの試合でキーパー以外も手が使えたらって思うことは少ないと思う。同様にブラインドサッカーの最中には目が見えたらって思うことも少ないんじゃないかと考えた。
そのあたりが「ピッチの中が障がいを忘れるとき」という言葉につながるんじゃないかな。普通の社会でも障がい者の方が障がいを忘れられるような社会になればいいな。
まぁ自分の周りには視覚障がいを持った人はいないし、ブラインドサッカー自体も昨日初めて見たばかりで的外れかもしれないけど...
http://www.kisho.co.jp/page/120.html
旧ソ連のフルシチョフの時代に計画された、小麦農業の集散基地としての都市アクモラ(人口約27万人)を歴史的都市として保全しつつ、その南側(イシム川左岸)に新都市をつくり共生させる構想。 イシム川の両岸を新しい住宅地として開発し、川(自然)と共生する都市をつくる。冬季、南西部より秒速平均7mの風が吹くため、それを防ぐためにイシム川の南西部に人口森林をつくる。既存都市の鉄道駅から南へ伸びる都心軸は、イシム川を越えて南へ延伸される。 政府の建物、大統領官邸大統領府、国会議事堂等を配置するためのガバメントシティーは、南側へ伸びる都心軸と直交する形で区域を形成する。 道路は既存都市の放射状のパターンを改良するため、都心環状、中央環状、外管状の各環状道路が計画される。 リニアな都心軸と、細胞型の住宅地のクラスターは、2010年、2020年、2030年と生長する(メタボリズム)都市として機能するよう計画されている。 公園計画は、これまでの近隣住区計画とは異なり、主として河川を中心にリニアなネットワークを形成するよう計画し、それが生態回廊として種の多様性を保全し、人と自然(他の生物)の共生を可能とする。
に書いてあるよ。
ッあぁ~~~これ書いたら大人の人にめっちゃ怒られるかもしれない。でももういいや。もういい。もう嫌だ。だから書きます。 口調とかもあまりきれいじゃないかも、ごめんなさい。 私は自分が絶対に正しいとは思わないし自分と違う考え方の人に対してどうこう言うつもりもないのでそこだけご承知願います!
人間って生まれてからたくさんのものを獲得して生きていくものだと思ってる。 たくさん選んでたくさん捨てて積み重ねてきた時間がその人を作る、よく聞く話。そんな中で生まれた瞬間から決まっていてどうしても覆せないものって一つだけある。
親
って言われているもの。誰から生まれるか、どこで生まれるかなんて誰も選べない。
逆に親も子を選べないのもまた事実で、これを皮肉って『ガチャで出てきたはずれが自分だ』みたいなこと言う人もたまに見かける。
そういうわけで『親を好きになれなかった』話について。
その引っ越し、自立とかきれいごと抜かしてるけど親との同居に限界を感じて決行したものだった。 実家がどういうところだったか、少しだけ書くと 2017年夏(当時20歳)の時点で
•自分の部屋がない
•昼間は机が置いてある2.5畳の仕切りのないスペースで生活
•就寝は祖母と一緒の布団
•窓を開けてはいけない
•カーテンも閉め切る
•オーブントースターの温度設定は使い終わったら母親の使う温度に戻さなければならない
などなど。
母親も祖母も私がいうことを聞かないとすぐに怒鳴り散らすのでとにかく怒らせないように生活するのに必死だった。それで今でも大声で人を怒鳴りつける人が苦手。
これでも成人してよくなったほうで小学生頃なんか今思えば地獄度段違い。
母親が19の頃にデキ婚で私が生まれて小学生のころに離婚していて、次の男が一時期実家に住んでいたこともあった。いわゆる『ママの彼氏』。
「これから私たちの生活を支えてくれる人」って紹介されたこと。
誰だったんだろうあいつ。
見た目的にはホストっぽかったけど今となっては素性はよくわからない。 私が8歳当時なら母親はちょうど30手前くらいで離婚もしてまだまだ遊べる年だったんだろうな、と。
最初のほうは仲良くしてたと思う。私の目の前でいちゃついてて、それ見てたら男が母親いじめてるみたいに見えて止めに入ったら怒られてのけ者にされたりした。懐かしいなぁ。 そんな生活も長くは続かず1年経たないうちに仲が悪くなって男は出て行った。
そっから家に男が入ってくることはなかったので本当に父親という存在を知らずに育ってきた。 だから好きになった人や付き合った人に父親みたいな安心感を求めがちなんだって最近になって気づいた。
祖母も同居することになったのはそのあとで働く母親の代わりに家事全般をやってくれた。 それだけでも本当は感謝しなきゃいけないというか、感謝はしてるんだ。それは本当。 働いて私を育ててくれたのは母親で、そのことも理解しているつもり。
祖母は祖母で私が拒食症になって口に入れたもの目の前で全部吐き出してしまった時はブチ切れて木の棒で全身あざだらけになるまで殴ってきたけど書くとさらに長くなるから割愛。(重視すべきは体調不良よりも作ってくれた親への敬意 という考え方)
そういうわけで『産み育てた恩があっても殺す権利はない』というのが持論で、言ってしまえばこの世に生まれた瞬間から、 へその緒を切られたその瞬間から私は母親の体の一部ではない一人の人間になったはずなんだ。 その事実を『感謝』とか『育ててくれた恩』とかとごちゃまぜにして見えないところに押し込むことは私にはできなかった。
そして労働に費やした分子供と親が触れ合う時間が減ることで親子という関係に不具合が生じるのもまた事実だ。
私は本当に親がわからない。
親もしばしば私のことを「わからない」と怒鳴りつける。
今歩み寄れないのは間違いなく幼少期に信頼の基盤がつくられていないからなのにまるで私が親を突き放しているかのような物言いで、 そこに「親不孝者」という便利な言葉を着せてことあるごとに罵られてきた。
母親の中には親子とはかくあるべし、という理想像があって、何もしなくてもそこに収束するのが普通だと思っているようだった。 だから自分は普通で私が異常なんだと言って私を矯正したがった。
生まれて何年たっても私はまるで親の一部かのように扱われていた。 いい学校に入っていい会社に入っていい大人になるための第一歩として幼稚園のころから通信教育の教材をやらされた。 幼稚園の頃病弱で、入院している私のベッドのそばで
「こんなに頭の悪い奴なんか見たことない!」と叫んで帰っていく母親の姿はなぜか今も鮮明に思い出せる。
小学生のころは学校のすぐそばに煙草を買いに行かされて、同級生に見つかって噂されて、勇気出してそれが嫌だと親に伝えたら 「身勝手な奴だ」と怒られ、「親のためにこんなこともできないなんて」と貶されたことがあった。
服は短くても1週間同じものを着せられてた。長いと1〜2ヶ月くらい同じものを着てたと思う。当時皮肉抜きで「その服本当に好きなんだね」って言ってくれた友達のことをたまに思い出す。大人になっても1度着た服を洗おうとするとめちゃくちゃ怒鳴られた。
私はとにかく母親の思い通りにならないと怒られてた。当時はよく泣く子供で泣くとさらに怒られた。 私が大きな声を聴くと自然と涙が出てくるなんてことを親は知らないみたいで、もうそのころからまともに意思疎通をはかろうなんて気持ちすら持てなかった。
中学生になるとひたすら成績を気にしだした。テストの成績はクラス順位5位以内でないと怒られた。「他の人はできるのにお前は何でできないんだ」が常套句だった。
幸いそのころは勉強が楽しかったので学校の成績は良かった。 しかし受験勉強が始まると私は親ではなく私のために勉強しなければならなくなった。過去問は学校のテストよりはるかに難しくて思うように点数が取れなかった。 もう手一杯で親のご機嫌取りのために数字を気にしている暇なんてなかった。数字が下がると怒鳴る頻度は上がって以前みたいに勉強が楽しいと思えなくなった。
結局中学の好成績を生かして公立の高校に推薦で入学した。 ひざ下まであったスカートをひざ丈まで上げたら烈火のごとく怒られた
「そんな恰好をするな!不良め!誰とつるんでいる!」 挙句の果てに「そんなに妊娠がしたいか!」と。 スカートの丈をひざまで上げただけで。 意味がわからなくて怖くてたまらなかった。
親のなかでは
ひざ丈のスカート
=男にもてたい
=恋人ができる
=セックス
=妊娠
という式があるらしい。
一番成績がいいのは1組、悪いのが7組だと信じて疑わなかったので3組になったときも説教された。いくら違うといっても聞く耳は持たなかった。
大学は必ず行け、しかし国立以外許さないと言われた。自分でも裕福じゃないのはわかっているから学費の負担を少しでも減らしたくて志望を国立に絞った。 しかしここでも親の謎理論は炸裂、大学に行ったこともないのに「私大は頭の悪い人間が行くところ。落ちこぼれが金で大卒の資格を買っている。」とご高説を垂れる。 この辺まで来るともう物事の判断がつく年齢になってしまった私には親のめちゃくちゃな説教は気持ち悪くて仕方なかった。 知らないものをぼろくそにこき下ろすのも、進路の悩む私に寄り添うどころか選択肢を狭めて重圧をかけるのも鬱陶しい。
結局興味のある分野に近いコースの国立大に入学して3年が経とうとしている。 実家から離れた大学に通うことも気に入らなかったらしい。 「もっと近くにあるだろうが」
帰りが終電になればまた怒られ、
「美術なんかやって何になるんだ」
といった風な小言も絶えなかった。
掘り返せばきりがないくらいこの手の嫌な思い出は出てくるのでこの辺にしておこう。積もり積もって今の私を形作っている思い出たちだ。
場所もない、理解もない、朝は母親と祖母による自分の悪口で目が覚める。 ストレスばかりが溜まって心も体も限界だった。
2年次の後半はほとんど学校に行けなかった。 家にいると親に対する嫌悪感で頭痛や吐き気が止まらなかったので出来るだけ外にいた。
学校終わりはバイト、予定のない日は大きい本屋をうろついてたまに本を買って近くの喫茶店で読んだ。
もうどうしようもないと思って3年次は休学手続きを取って1年間フリーターみたいに働きながら家を出た。
講評の当日深夜につらくて泣きながら教授に「授業を休ませてください」という旨のメールを送った日からもう1年が経ったらしい。
実家を出ることに関しては強行突破でかまわないくらいの心意気だった。 どのみち自分には帰る場所なんかないのだから居場所を作るしかないと思ってのことだった。
親には一言も伝えずに休学、
お金を貯めて部屋まで決めて、
もう後に引けない状態で家を出ることを伝えた。
自分の判断能力と精神的の限界、苦しみ続けた20年間を鑑みてもうこれが自分に残された最後の、そして最善の手段だと思った。
「自立したくて家出た」なんていうと「行動力があるね」と言われることがあるけれどその実
ただ「実家にいたらいつ精神崩壊するかわからないから生きるために逃げ出してきた」くらいが正しいんだろう。
少なくともこの半年、
「家に帰りたくない」なんて1度も思わなかった。
時間潰すために夜の公園で電池なくなるまでスマホいじることもなかった。
自分だけがいる部屋で誰の目も気にすることなく笑ったり泣いたりできた。
窓を開けて部屋の換気ができた。
たったそれだけの事だ。
私はたったそれだけのことをするのに21年苦しんだ。
春の暖かい風が部屋の中に吹き込んできたとき「生きててよかった」と心から思った。 ようやく自由になれた気がした。
家を出たら出たで大変なことはあるけど、少なくとも今のところは後悔なんかしていないと言い切れる。 誰かが掲げてた『苦労はできるだけ少ないほうがいい』という主張はまったくその通りだと思う。 部屋の窓を開けるのに21年かかるなんてばかばかしくてやってられない。
ただ、21年かけて開けた窓からは確かに未来が見えた気がした。 自分の人生はこの1度きりしかないのだから、自分が幸せになるために生きなければもったいない。
4月から大学に戻る。仕送り0で学びながら働きながら「家賃を払わず整形手術のローンを組む同居人」と共生、というか矯正。それから休んだ1年分の学費を貯めなければならないのでやることは山ほどある。大好きなお絵描きができないかもしれないがそういうフラストレーションは学校の課題へのモチベーションに変えよう。
レールを外れて生きていくっていうのはそれ相応の覚悟が必要で、残念ながら社会はそういう人間には優しくない。
こんな文章垂れ流したら知らない人に「この程度で甘えんな」「自分なんかもっと大変だ」「大学まで行かせてもらってるくせに」って言われそうだけどそれでもいいや。
もとより難関の受験を突破して卒業までに規律のある生活をするということはだれかの指示にどれだけだまって従えるかの基準で
一流であれば難関であればそれだけ抑圧に耐えられるという靭性テストなので学歴で裁定する基準はある
ただそれが自立した社会的共生性と関係あるかは別問題で、むしろない方が理不尽な会社の欲求を外に漏らさずにすむのでよい
大卒で問題なのはつぶしがきく耐性の数値を大卒という基準で持っているにも拘らずすぐに根を上げて一般以下に落ちてもかまわないという人生大事という求められていない人材が混じることだ
要するに大卒というのは、上流になればなるほど奴隷制度に適しているということで企業や団体の保有する財産を背負って歩く蟻が何匹つくれるかというところにある
寄付をしたり分与したり社会貢献の度がすぎたりフェアトレードを本気でフェアにしたりする人間が混じってはいけない
ひたすら残業させ自殺しても本人がわるかったねと言えるエリート奴隷が必要だ
一般人がいう社会的倫理観や道徳観、社会性というものがそこに必要かといわれたらむしろ不必要ではある
人間らしい生活で努力が満足に報われる生活をしたければ地元の商店や雑居ビル群、高架下で自営をしている生活などのほうが適している
でかい金だけでできている巨大企業という生き物が上から下まで様々な奴隷をその金の使い道だけにしたがって生かす構造の
大企業と一流企業といったところへの就職に関する進学については、そういう相関とかはむしろ関係がないといっている人間にこそ目を光らせ排除していく必要がるだろう
理解していないから知ったと言いきれない。グッチの新作のコンセプトに関係あるらしい。
ダナ・ハラウェイが1984年に発表したエッセー発祥の言葉。魚拓 https://web.archive.org/web/20120214194015/http://www.stanford.edu/dept/HPS/Haraway/CyborgManifesto.html
現代の我々人類のことを「言語をもったサイボーグ」とみなす。道具や機械(例えばメガネ、靴、ピアノ、数字など)と共生するハイブリッドなキマイラがサイボーグらしい。
訳がわからないが腑に落ちたら書き直す。
逆にいうけど、あなたはあなたでナウシカに肩入れしすぎている。
墓所側の言い分はどうなんだ。
人類の行きつく先として巨神兵や王蟲を作るほどの高度な科学技術を手に入れたが
ヴ王やナウシカの好む人間としての闇が強すぎた結果、滅びの道に進んでしまったのが旧人類ではないか。
滅びに進むにつれて旧人類はナウシカたちが想像するよりもずっと大きな絶望と失敗を繰り返した。
ナウシカのいうような「血反吐を吐いてまで」という経験は旧人類側はもう既に十分すぎるほど経験している。
墓所側の歩いてきた歴史を信じられないし、同情もできなかった。
血反吐を吐いて進んだ道の答えが新人類であり、現生人類たちが例え環境に適応し生き残ったとしても、
まったく徒労でしかない。
人間性の闇を捨てる計画を立て、自分たちで破壊した環境を取り戻すために尽力した行動と選択は、全部旧人類の流れた血によってつくられている。
神の視点に立たずともナウシカには墓所側の行動と動機を推し測るだけの情報は十分すぎるほど得ている。
ナウシカのエゴが贔屓されたのは、それは自分たちに向いていたからだ。
ナウシカは自己犠牲や時には反知性的な犠牲行動を、「良い」と思ってやっている。
やりたいから、やっているだけであり、その行動の結果がどうなるか推し測る能力にたけているわけではない。
トルメキアの兵士を怒りに任せて殺した場面でも仲間をより危険にさらすだけだ。
それが残っていては計画が水の泡になる。
旧人類は徹頭徹尾、新人類を次の星の覇者にしたいのであって、現生人類はずっと捨て駒としてしか見てない。
だからこそ武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある。
あの時点で武力衝突するのは当たり前のことだし、それで和平が成立しないというのも早計すぎる。
交渉は戦争が終わってからしかできない、墓所と現生人類の戦争はあの時点では何も終わっていない。
むしろ墓所側からしてみれば現生人類が約束を守ってくれるなんて信じられるわけがないんだから。
真実を話せば殺される、なら戦うまでだろう。
実際その予想は当たっていてナウシカという現生人類に殺されたわけだ。
それもまた思い込みにすぎない。
旧人類の計画では新人類は現生人類が死滅した浄化された世界ではじめて活動を再開する生き物であって、
それが一体新人類にどういった影響を与えるかはそれこそ神ですら分からないことだ。
完全に未知の領域であり、王蟲のようによりよい変化が起きる可能性もあるし、
そういった可能性のある未来を確かにナウシカはあの場で殺したのだ。
ナウシカは道化との問答で自然に生きて自然に死ぬべきだといっていたが、
それはナウシカが産まれるよりずっと前から存在し何百年も経過した後の結果である、
王蟲の心という、それこそ旧人類の計画で産まれた上澄みだけを掬い取って悟ったつもりになっているだけだ。
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。
人々はナウシカを見て心動かされるかもしれないし、ナウシカのおかげで助かった人間もいる、
だがそれは、そこまでは正しかっただけであり、この先もナウシカという暴力とカリスマが正しくあり続ける保証などない。
ナウシカの聖人性の反証として最後の新人類虐殺があったわけだ。
人間性の闇に疲れて果てた旧人類側からしてみれば成し遂げられそうだった計画を台無しにして、
生みの親どころか抵抗すらできない子どもを殺す悪魔でしかない。
あの世で彼らは環境変化を生き延びた現生人類が再び科学技術を再興し、二度目の火の七日間に進むまでじっと見てるだろう。
現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。
しかし作中の現生人類がそれを示すことはないまま作品は終わってしまった。
誰もが森の賢者のようにはなれない、それを実現しようとしたのが墓所の願いだった。
ナウシカを読んだからこそ、愚かな人類と決別しようとした旧人類の思考を理解できるし、
以下、判明している事実。
ニルヴァーシュのわかれのことばによれば
ふたりは人類とコーラリアン共生の可能性を世界に啓く使命を帯びる。
住民票によれば、
そして除籍されいない。
森のなかにふたりがいる。スカブコーラルに覆われた地表ではなく、その下の約束の地、つまり地球の上。
レントンとエウレカはGreat Wallから戻ってきた、あるいはいまはいないが確実に戻ってくる。
エウレカはサーストン家に入籍している、またモーリス・メーテルリンクとは養子縁組を行なっている。
これらは本人確認が必要な行政手続きで、すくなくとも一度くらいはベルフォレストのアクセルの元にきている。
レントンとエウレカはニルヴァーシュとの約束をはたすため、約束の地と地表を往還している。
以上。
https://matsurd.deviantart.com/art/Eureka-7-Back-in-Bellforest-31920196
男性の特徴は、政治的に正しくない、現代の社会的生活に相応しくない要素を大いに含むので、男性各位はそれを自覚し、己の心身の挙動に綿密な注意を払って調和と平和を乱さぬよう生きるべし。
みたいなことを、公的にも私的にもそこらじゅうから言われてるような気になる。
ヒトのオスって、そこまで不快で危険で、罪悪感で縛り上げなきゃとても共生したくないタイプの間違った生物なんすかね。
この思考で厄介なのは、ヒトのオスである私にとっても、他のヒトのオスはできる限り近くにいてほしくない不快な生き物だってことだ。
いや、私自身も私の体のゴツゴツした感じ、がさつさ、デカさ、体臭、体毛、声質、闘争性、暴力性、共感性の低さ、性欲、助平心、などが不快でしかたない。
どれも厄介な特徴だし、どれだけ大変でもコントロールすべきかもしれない。
私の頭の中の物知りマンもこう言っている。
「君が男性なのが問題なんじゃないし、男性なことを責めているのでもない。だって、男性でもエレガントで社会性の高い人は沢山いるのだから。
問題は君が社会生活にそぐわないこと。君の社会性が低いこと。性差ではなく個人差として君が駄目なのだ」
でもこれら悪しき特徴の中に、私が男性に生まれたが故にテストステロンだかなんだかの影響を受けて、半ば先天的に強められたものもあったんじゃないですか。
それを個人差だと、個人で責任を負うべき個人的特徴だとするのは、自己責任論みたいなもんじゃないですか。
つーか、男に生まれたせいでも、私が私であるせいでもいいけど、こうなろうとしてこうなったわけじゃないのに、もっとちゃんとしろって言われても不条理を感じる。
ところで、男がやたら恋愛相手をほしがるのは、性欲の強さのせいだけでなく承認を求めてるからだっていう話を見たことがある。
それに対して「承認だったら仕事か友人関係で得ればいいだろ、女に求めるな」みたいな批判が来ていたのも覚えている。
でも私はこう思う。
男が仕事や友人だけではなく恋愛相手からの承認も強く求めるのは、しばしば暴力的で攻撃的で非道徳的で不快で社会生活に相応しくないとされる男の性欲を受け入れてくれる人がいる、むしろ歓迎してくれる人がいるということが、男であることの恐怖と罪悪感に許しを与えてくれるからではないか。
一方、恋愛で得られるのは、己の有害さというコンプレックス部分への許しだ。
私は童貞で職歴もないから、仕事で得られる承認と恋愛で得られる承認が本当に違うかわからないけどねー。
男性の特徴は、政治的に正しくない、現代の社会的生活に相応しくない要素を大いに含むので、男性各位はそれを自覚し、己の心身の挙動に綿密な注意を払って調和と平和を乱さぬよう生きるべし。
みたいなことを、公的にも私的にもそこらじゅうから言われてるような気になる。
ヒトのオスって、そこまで不快で危険で、罪悪感で縛り上げなきゃとても共生したくないタイプの間違った生物なんすかね。
この思考で厄介なのは、ヒトのオスである私にとっても、他のヒトのオスはできる限り近くにいてほしくない不快な生き物だってことだ。
いや、私自身も私の体のゴツゴツした感じ、がさつさ、デカさ、体臭、体毛、声質、闘争性、暴力性、共感性の低さ、性欲、助平心、などが不快でしかたない。
どれも厄介な特徴だし、どれだけ大変でもコントロールすべきかもしれない。
私の頭の中の物知りマンもこう言っている。
「君が男性なのが問題なんじゃないし、男性なことを責めているのでもない。だって、男性でもエレガントで社会性の高い人は沢山いるのだから。
問題は君が社会生活にそぐわないこと。君の社会性が低いこと。性差ではなく個人差として君が駄目なのだ」
でもこれら悪しき特徴の中に、私が男性に生まれたが故にテストステロンだかなんだかの影響を受けて、半ば先天的に強められたものもあったんじゃないですか。
それを個人差だと、個人で責任を負うべき個人的特徴だとするのは、自己責任論みたいなもんじゃないですか。
つーか、男に生まれたせいでも、私が私であるせいでもいいけど、こうなろうとしてこうなったわけじゃないのに、もっとちゃんとしろって言われても不条理を感じる。
ところで、男がやたら恋愛相手をほしがるのは、性欲の強さのせいだけでなく承認を求めてるからだっていう話を見たことがある。
それに対して「承認だったら仕事か友人関係で得ればいいだろ、女に求めるな」みたいな批判が来ていたのも覚えている。
でも私はこう思う。
男が仕事や友人だけではなく恋愛相手からの承認も強く求めるのは、しばしば暴力的で攻撃的で非道徳的で不快で社会生活に相応しくないとされる男の性欲を受け入れてくれる人がいる、むしろ歓迎してくれる人がいるということが、男であることの恐怖と罪悪感に許しを与えてくれるからではないか。
一方、恋愛で得られるのは、己の有害さというコンプレックス部分への許しだ。
マイノリティを排除することで、物事は単純化され、社会は効率的になれる。
例えば公共交通機関。
乗客を規定の横幅の座席に座れる人間に限定することで効率的な輸送が可能になった。
大柄ゆえに二人分の座席を確保しなきゃいけない人がいたり、車椅子の人の搭乗には制限があったりする。
マジョリティにとっての効率(価格も含め)を獲得するために、マイノリティが不利益を被ってると思う。
身体の性別も心の性別もグラデーションのように存在しているが、それを男女という2択に閉じ込めることでコストを削減している。
それによってマイノリティの中には不快な思いや生き辛さを感じている人もいる。
差別的発言だって、効率的なコミュニケーションのために利用されることがあるだろう。
例えば同性だけでの飲み会で異性を悪く言ったりするアレだ。
悲しいけれど、高度成長期やらバブルやらの時代に日本が急成長するためには必要なことだったのかもしれない。
「男は仕事、女は家事」という性差別により女性を排除することで企業が考えることは大きく減っただろうし、
「結婚して子どもを産んでこそ一人前だ」という独身差別は人口増加に効果があっただろう。
そして今、社会は効率的じゃない物事にも目を向ける程度には便利で余裕がある生活が送れるようになった。
マイノリティを認知し、お互いを認め合いながら共生していくこと。
それはこれまでの獲得してきた効率や利便性の一部を手放すことだ。
多少の効率を捨ててでも、他人の心に寄り添える社会。効率を捨てられるほどに高度に効率化された社会。
だから多様性を認められる国が成熟していると言われるのだと思う。
ただし実際に行動を起こすにはまだ余裕が足りない。
追記:
生活水準って意味だと余裕ないけど利便性は余裕すぎるぐらい余裕だと思って書いた。
海外に原発建てたり移民を薄給でこき使ったりするのはNGだと思う。というかどこを読んでそれをOKだと言ってると思ったのかわからなくてごめん。
実践するには余裕がたりないって書いたし、日本には差別が溢れていて俺は生き辛いのでこれは日本disの文章です。
差別を肯定する気は全くありません。むしろ今の日本にこれ以上の余裕が生まれる予感がしないので未来は暗いと思って書きました。
つい先日、Airbnbを使ってみました。
そして自分のミスもあって総合的にはサイテーの体験をし、モヤモヤがおさまらないんです。
今回の体験を通してAirbnbのスタンスにまったく共感できなかった私は、二度と使わないと心に決めました。
同じような価値観を持っている方が同じような嫌な気持ちを味わうことがないよう、Airbnbが如何に私には刺さらなかったかを残しておきたいと思います。
ざっくりいうと。
1. 到着してみたら実はそこは民泊NG物件で「民泊お断り、キーボックスは撤去」という看板が掲示されていました。
2. さすがにこちらも気が引けるので、他の宿に移ることにしました。民泊を選んでしまった人生の勉強代だと思いキャンセル料は請求していません。
3. Airbnbに「民泊NG物件でのルール違反の運用は容認しているのですか?」と問い合わせてみたところ、「規約にもあるとおり、あくまでもホストと管理会社間での問題。そんなこと知らんがな(意訳)」とのお返事をいただきました。実際の文面は下にコピペします。
そして私がAirbnbに申し上げたいのは下記のとおりです。
・法律には抵触しないかもしれないが、ローカル・コミュニティのルールを破って運営されている物件を野放しにするのはおかしくないでしょうか?
・そんなビジネスで利益を得ることに心が痛まないのでしょうか?それがイノベーティブでディスラプティブですか?
・サービスを立ち上げた時の理念は、地域との共生とそれにより得られる他にはない体験ではなかったのですか?
・Airbnbとは「ルールなんて守る奴がバカ」という人たちが形成するコミュニティなのでしょうか?
以下、経緯を書いておきます。(長いですごめんなさい)
物件に到着し指定されたマンション裏手にある鍵置き場にいくと、そこにはなにもありませんでした。
そして「当物件は民泊NG物件である。キーボックスは●月▲日までに撤去。それ以降は管理会社側で処分する」という旨の看板が掲げられていました。
Airbnbアプリ経由でホストにメッセージを送ったものの即答がなく、電話もしてみましたがつながりませんでした。
この日は次の予定があって、荷物を置いたらすぐに移動する段取りでした。
連絡がつかず物件のなかに入れないまま時間が刻々と過ぎてゆき、少々焦りました。次の予定がががが!!
マニュアルを再度見ようと思ったのですが、Airbnbのアプリではメッセージ文中のテキストをコピペできませんで、さらにPCを持参していなかったためうまくアクセスできませんでした。(無論URLを目視でベタ打ちすればよかったのですが、そこまでする気力がありませんでした。これについては私の努力不足ですね)
この状況下としては最悪なことに、クリスマスを一緒に過ごす予定だった甥っ子・姪っ子も同行していました。
自分たちの行為は実はそのコミュニティではルール違反であることを突きつけられ、さらにホストとはいつ連絡がつくとも知れず、招かれざる客と明らかな自分たちがマンションの前で立ち尽くしていることに、旅行を楽しみにしてきた甥っ子・姪っ子たちは出鼻を挫かれてひどくショックを受けていました。
自分の段取りでそんな思いをさせたことが申し訳なく、泣きたい気分になりました。
仮にホストと連絡が取れて鍵を発見できたとしても「民泊NG」と明記されている物件にずかずかと入り込むのもすっきりしません。
また例えそのマンション独自のルールとはいえ、子どもたちにそれを破らせる体験をさせたくなかったため、他の宿を探すことに決めました。
幸い他サイトにて条件に合う宿が見つかり(クリスマスを控えた土日に見つかったのは残り1軒!あぶない!!!)、タクシーを捕まえてそちらに移動しました。
●実はメッセージを見落とした(というかろくに理解していなかった)私のミスでもありました。
途中でAirbnbのサポートと電話がつながりまして、事情を説明しました。
結果、私がホストからの鍵の置き場所変更に関するメッセージの一部を見落としていたこと、それに伴い変更されたマニュアルのバージョン違いをきちんと読み込めていなかったことが判明し、それは私の落ち度であったと理解しました。
エアビーではないが国内外含めアパートを借りることもよくあったので、まあなんとかなるだろうと慢心していました。
お騒がせしてすみません。
ちょっと忙しくてじっくり目を通している暇がなかったんですよ。
●だが、しかしだ。
私のミスは認めるとして(なので自損事故として返金要求などはしていません)、ここでひとつ申し上げたいのです。
そもそも民泊NG物件での運用がまかり通っているのが根本的な原因ではないでしょうか??
鍵の場所が変更された理由については記載されていませんでした。
もし「マンション全体が民泊NGとなったことにより鍵を隠した」という理由も書き添えてあれば、私ももう少し気をつけたでしょう。
住民の方に嫌な思いをさせてまで、そこに泊まりたいとは思わないからです。
特に中学生、高校生の子どもを伴って「ここは本当は入っちゃダメだから、なるべく音を立てずにこっそりね」なんて言えますか?私には言えませんでした。
仮にメッセージの見落としがなく、鍵も何なくゲットできていたとしても、やはり移動したんじゃないかなと思います。
●Airbnbの利用規約上は「あくまでもホストと物件の管理会社間の問題でAirbnbは責任を負わない」
かなり納得がいかなかったので、しばし粘着にAirbnbのサポートにメッセージを送ってしまいました。
世の中絶賛クリスマス中の12月23日から12月25日にかけてです。
運営側もさぞや面倒だったことでしょう。我ながら嫌なユーザーだと思います。
のらりくらりと確信に触れないメッセージが返ってくるところをしつこく追いかけ、最終的に得た回答は下記でした。
「弊社ではサービス利用規約にも記載をさせていただいておりますがホスト様が宿泊先を提供するにあたり必要な認可、許可を取得することについて単独で責任を負うものとさせていただいております。
担当チームにおきましてもゲスト様に安心して滞在いただけるようホスト様の情報の確認は定期的にさせていただいておりますが、今回●●●様にこのようなご経験をさせてしまい申し訳ございません。
弊社へのご意見、この他にもございましたら、下記URLよりフィードバックを送りいただけますと幸いです。
▽https://ja.airbnb.com/help/feedback」
そ、そうですね。マンション内のローカルルールであって法律には触れないですものね・・・
(いやとはいえ契約違反は違反だろとか思うけどまあいいですよ。当事者間の問題ですよね。でもそれがきっかけで利用者を混乱させるのはどうなんでしょう?)
件のホストもAirbnb的には何ら問題もないなら当然のことで、今回私がカバーした追加のコスト(新しい宿の宿泊代、そこまでの移動費、電話代、そしてそれにより浪費した時間)にも特に言及はありませんでした。
以上が私の体験です。
個人的にはローカルコミュニティのルールを破って運用しているモグリのホストを容認する規約を改めていただきたいところです。
が、どうしてもそれは変えられないのであれば、ゲスト側もそういう物件であることを予め知る機会をいただきたいです。
上に書いたとおり、もしも事前に物件そのものは民泊NGのところだとわかっていれば、そこを選んでいませんでした。
実際、そうでないところよりも何らかのトラブルが発生する確率は高まるでしょう。
●余談
・Airbnbのサポートの方は電話で話した時点でその物件が民泊NGであることにはまったく言及なさらず、「キャンセルポリシー上は返金は難しい」「返金要求をする場合はホストを説得する手伝いはする」との説明をなさいました。私の見落としもあったので返金についてはまあ仕方ないとして「え!民泊NGの件はスルーなの??」というのがその時の私の驚きです。
・Airbnbのサイトには「現地の人から借りる家、体験・スポット」とありますが、今回のホストさん、電話番号は「03=東京」でした。宿泊先は福岡です。旅館業法上はいったいどうなっているんでしょうか。そしてマンションとの契約内容はどうなっているんでしょうね?(ま、実態は違うってわかっちゃいるけど)
・私たちが鍵を探している間にもわらわらと中国人、韓国人の旅行客がやってきてはマンションに入って行きました。管理組合に通報したいくらいです。
以上、モヤモヤを引きずって長文を書いてしまいましたが、最後までおつきあいいただいた皆さま、ありがとうございました。
私にとっても、そして甥っ子・姪っ子にとってもいい勉強になりました。
替え歌をつくるには、歌詞のほんの一部を変えるか全体を完全にまるっと変えるかのどちらかがいい。一部を変えるのは大喜利みたいな感じで変え方よりお題のほうが大事。歌との出会いが大切。全体を変えるのはもう何でもありなので高尚な趣味の一つとして毎日たしなめばいい。一年続けると気が付けば替え歌を作っている状態になれる。今年一年でいうと一番欲しかったのは田口ジャパンのタオル。四歳の娘は「オスプレイさんがんばれー」と応援してる。よくわからん。それにしてもエんエんニコリは怖い。雨の中泣き叫ぶニコリはどこにあるのかわからない自分の罪悪感を強制的に刺激してくるようなインパクトがある。おかあさんといっしょのハイ・ポーズくらいこわい。ハイ・ポーズは太極拳がモチーフらしい。そういえば何年も前に定年退職したうちのおやじが太極拳を習ってると聞いて爆笑した。実家にその賞状が飾ってて吹きそうになったが自分もさすがにいい大人なのでこらえることができた。結局バッタは食していたミントの葉がなくなったタイミングで手放した。あいつら雑草なら何でも食うもんだと思ってたけど全然食わん。飛び散らかすうんちの謎は解明されず。今年は家にアシダカグモが二回出た。二回とも捕獲できた。個人的にはゴキブリは嫌いなのでできれば共生したいが家族のコンセンサスが得られない。行きつけのペットショップがデュビアを売り始めたのでこれもぜひ飼いたいんだがやはり家族のコンセンサスが得られない。そういえばFBにデュビア飼いたいと書いたら妻にデュビアが何か知らない人が見たら検索してギャーってなっちゃうでしょとたしなめられた。なるほどその発想は本当になかった。ということは喜び勇んでアップした軍曹の写真をみてギャーとなっていた人も少なからずいたのかもしれん。ごめんなさい。話は変わるがキッチン戦隊クックルンはよくできている。なめてた。アニメ上の会話のテンポが心地いい。あずきがアヒル口の練習をしているシーンを見て、してやられたな、といった感じだ。でももうあきた。やはり「キッチン戦隊クックルン 跳頭」で検索しても有益な情報は出てこない。子供を笑わせるにはつまるところああいう突発的な動きなんだろう。静と動でだいたいなんとかなる。個人的にも「おっとっと」「わきー」などの技を開発した。やりすぎるとねだられつづけて休日に消耗するのでセーブが必要。
最後になりましたが、数年前から後半が作れないまま放置されている替え歌を二つ書いておきます。だれか続きを作っていただける方を探しています。不適切な表現は一部●で伏字にしてあります。ご了承ください。
とんちは鮮やかだよ一級品 度胸は満点だよ一級品 いたずら厳しく一級品 だけど●●●はからっきしだよ三級品 あーあー●●だー ●●●●●●、●●、●●、気にしない きにしないーきにしないーきにしないー (ここまで)
日曜日、レグのハートが盗まれた !みつけなきゃ!これは小さな大事件! 月曜日、●●●さんに聞いてみた。ハートはね●●●●●●でできるよ。 火曜日に●●●●に聞いてみた。俺だってハートの音は聞こえない。 水曜日、●●●●の●●に聞いてみた。ハートより僕は制服とりたいなー。 誰に聞いてもろくでもない。 (ここまで)