はてなキーワード: ワールドグランプリとは
今日本でブラインドサッカーの世界大会やってて、応援してるアイドルが開会式とハーフタイムショーにちょろっと出るっていうから見に行ったのよ。
試合見る前は正直あんまり期待してなかったというか目が見えない中でやるサッカーってグダグダなんじゃないのと思ってた。
実際試合見たら全然想像してたのと違った。めっちゃうまい。ドリブルもシュートも。私が見たのは日本対イングランドの試合で、2-1で日本の勝ちだった。
日本の勝ち越しゴールの時は思わず声を出して喜んじゃった。youtubeにハイライトあるから見てすごいから。
https://www.youtube.com/watch?v=OxBH3Ts4scw
「IBSA ブラインドサッカーワールドグランプリ 2018」っていう大会で3/25までやってるよ。観戦無料の試合もあるから気になった人は見に行けばいいと思うよ。
開会式で偉い人が「ブラインドサッカーを通じて健常者と障がい者の共生を~」なんてことを言っていて、私はそれをフーンと思いながら聞いてたのね。
でも、実際に試合を見て、家に帰ってからもらったパンフレットを眺めたりしてスポーツを通じて障がい者が暮らしやすい社会になるって本当にあるのかもって思った。
パンフレットの中に選手の言葉として「ピッチの中が障がいを忘れるとき」という言葉が紹介されていて、なんでピッチの中だと障がいを忘れられるんだろうって自分なりに考えてみた。
スポーツに熱中することで障がいを忘れるという意味もあると思うけど、ブラインドサッカーのルールがすごくよくできてるんじゃないかって思った。
ブラインドサッカーは目が見える人も試合に参加する。キーパーとガイド(コーラー)と呼ばれるゴール裏から指示を出す人がそうだ。
目が見える人と見えない人が一緒にピッチに立って試合をする。でも、その役割ははっきりと違う。この状況では目が見える、見えないというのは優劣ではなく役割の違いに過ぎない。
ブラインドサッカーにおける目が見える、見えないっていうのは、キーパーは手が使えるがその他のプレイヤーは手を使えないっていうくらいの意味になるのかなと思った。
サッカーの試合でキーパー以外も手が使えたらって思うことは少ないと思う。同様にブラインドサッカーの最中には目が見えたらって思うことも少ないんじゃないかと考えた。
そのあたりが「ピッチの中が障がいを忘れるとき」という言葉につながるんじゃないかな。普通の社会でも障がい者の方が障がいを忘れられるような社会になればいいな。
まぁ自分の周りには視覚障がいを持った人はいないし、ブラインドサッカー自体も昨日初めて見たばかりで的外れかもしれないけど...
日本特有の皆で仲良くしましょうね的な生温さが生理的に無理。選手のトラッシュトークも小学生が言いそうなただの悪口であって聞くに堪えない。それに薄ら寒い煽りV。あれは一体なんなのだ。選手に中学生が考案したような渾名を付け、再現VTR程度の完成度で選手の心境を映し出す。格闘技に煽りVは必要ないと思う。興行のテンポが悪くなるだけ。日本人贔屓の判定も気に入らない。ユナニマスデシジョンが妥当な内容の試合もスプリットデシジョンで割れることもしばしば。日本人選手を育てたいのであれば強豪と対戦させて伸ばすしか無い。現にUFCはそうやって選手を育てている。お隣の国韓国のプロモーション、RoadFCでも自国の選手に格上の選手と対戦させて自国の選手を伸ばしているのだ。もう日本人選手をプロテクトするのはやめないか。虚しくならないのか。ワールドグランプリと名付けておきながら公平なジャッジをしないとは何事か。そこまでして勝たせたいのか。勝たせなければいけないのか。馬鹿野郎。
ここまで様々な気持ち悪い理由を挙げてきたが、個人的に最も嫌悪感を感じるのはK-1の雰囲気、つまり「日本のテレビっぽさ」だ。K-1は日本のテレビと雰囲気が酷似している。表向きには団体としての誠実さを主張しつつも裏では日本人贔屓の為に画策している。日本のテレビも同様に表向きには綺麗事ばかりだが、裏では事務所との癒着、偏見報道、身内(タレント)をプロテクトするなどの悪行三昧。要はクズが善人を装う姿が生理的に無理。クズはクズらしくしていればいい。自分を良く見せようとするクズが嫌いなのだ。新生K-1はまさにそれだ。
※以下で記述されるものは第一に愚痴であり、第二におそらく特殊な事例です。一般化して生活の知恵とすることはできないのではないかと私は思っているので、時間を無駄にしたくない向きや面白おかしく楽しい記事を読みたい向きはアレしてください。
※一応申し上げておきますと表現規制方面とはなんの関係もないです。
私は今日(8月31日)、ディナーとしてお好み焼きを食しました。母が心をこめて拵えたもので、大変おいしゅうございました。
ただ、その大きさが私の腹具合に対してある意味で威圧的であり、私はお好み焼きの傍らに鎮座する白米をなかったことにしました(単純に食べなかったということです)。
食事後、麦茶を飲みながら家族でバレー女子のワールドグランプリを観戦していた折、父がおもむろに戸棚からせんべいを引っ張り出してきて、母と私に勧めてきました。
これに母、「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」と反応。御意にござります。食わざるもの食うべからず(Google検索結果 5件)。
次の瞬間発された、母に対する父の言葉こそ、私から言葉を奪ってそのまま姿を消した、犯人です。
「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」
まず前提として、父がせんべいを持ってきた時点で、私にせんべいを食べる気はありませんでした。私のぽんぽはお好み焼きで満たされており、満腹中枢は「いや本気出せばいけるよ?いけるけどねー、今ちょっとそのタイミングじゃないと思うんだよねー」とのたまう体たらくだったのです。
思い返せばそのときにいらないと言えばよかったのですが、TVはデュースを告げており、正直せんべいどころではなかったので生返事をしてしまったのです。そこへ母です。
「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」発言には、口ぶりに冗談のニュアンスも含まれてはおり、「そもそもすでにお腹いっぱいです」と応えれば意地っ張り感はまだあまり出さずにせんべいとお別れすることができたでしょう。しかし相手国のセットポイントに気を取られた私に隙はありまくりでした。
次の父の発言「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」に対しては、もう打つ手はないように思います。これに乗っかってせんべい不要論を唱えても、その言葉に信ぴょう性は与えられず、両親に私が意固地になっていると思われることは必至です。もちろん、どちらかあるいは両方とも食べるという選択もありえません。お腹いっぱいなのですから。
最も良くないことは、ここで私が何も言わないことによって、両親の心に「私はせんべいを食べたかったのだ」という認識が帰結してしまうおそれが十分にあったことです。
この状況では、私はどうあがいても、またあがくことをしないでも、せんべいが食べたかったことにされうるのです。私の意志を置き去りにしたままで。
以上が今宵(31日)私の身に起きた大きな悲劇です。ここまで読んでくださった方には、労りと感謝の念を着払いでお届け致します。
もし上記の愚痴の内容に関わりのある、またはまさにそのものを説明している社会心理学その他学問的な文献などご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただきたいです。と思っているのですが、増田ではそういうことは基本的になされないのですかね。はてなは勝手がわかりません。でもクレクレ文は書いておきます。