はてなキーワード: ふいにとは
「お前さあ。オレが断ったらどうなる? オレは1,000円の損。大して痛くない。けど、お前は999万9000円をみすみす失うんだよな。
ああ、もちろん『配分を決める権利』はお前にある。それは尊重する。だから、お前が、自由意志で、決めるんだよな?
オレを怒らせて数百万をふいにするか、それとも、少なくともオレが投げ出したくないなと思う額を差し出して、その残りで満足するかだ。」
この話のポイントは「相手に選択させる」ところ。向こうは「1,000円か0円か」という選択をこちらに突きつけてゲームのフィールドを作ってるわけ。そんな、相手の作ったフィールドとルールでゲームをしても絶対に勝てない。相手に「勝つ」ためには、自分がゲームメーカーになってフィールドを作り、相手を「プレイヤー」にさせることが必要。
ふいにニュースで国会の映像流れてくるとすぐ消音にするかチャンネルかえる。
総理が野党の人から、どーいうことなんですか!?って詰られているのを見ると、フラッシュバックみたいに「ああああああ」ってなる。
夜分に失礼します。中谷です。一昨日のまんがタイムきららオープンオンラインで優勝したことを受けて、今まで・大会中に抱いていた思いを吐露してみようかと思います。気持ち悪い部分が多々あるかと思いますので、閲覧される方は自己責任でお願いします。
~開催まで~
自分でも辟易としているのですが、僕は昨年、アニメ『けいおん!』を視聴してから11年を迎えました。当時の僕は小学5年生。『まんがタイムきらら』に触れてからの期間は人生の半分を占めていることになります。時の流れは末恐ろしいものですね。それ以前もゲームや漫画をちょこちょこと読んではいましたが、いわゆるオタクとしての人生はここから始まりました。そこから現在まで、触れていない時期も多かったものの、『まんがタイムきらら』の作品を変わらず大好きでいました。
中高・大学と環境を変えながら、競技クイズにも出会いながら迎えた昨年の5月、コロナ禍で自分の生活が崩壊している真っ只中に当大会の告知がなされました。当時は「頑張りてぇ~」くらいの軽い気持ちでいたのですが、時が経つにつれて「この大会で優勝したい」という気持ちがどんどん大きくなるのを感じ、次第に「何としても優勝したい」に変わるほどになりました。
この大会に向けて準備するにあたり、まず「どういう人がまんがタイムきららオープンで優勝するのにふさわしいか」を考えました。月並みではありますが、僕は「最もきららの作品に触れている人が勝つ大会であってほしい」という結論に至りました。出題範囲は『まんがタイムきらら』と定められている以上、該当する全ての作品が出題されうる大会であってほしいし、そのような大会でこそ勝ちたいとも思いました。
ただ、当時の自分がその条件を満たしていたかと言うとそうではありませんでした。自分が把握しているきらら漫画の体系はあくまで氷山の一角でしかないだろうと思っていました。兄が買ってきた4年間くらいのキャラット・本誌と幾ばくかの単行本・アニメくらいですしね。なので、僕はきらら漫画をひたすら買っては読むを繰り返すことにしました。その過程の中で、自分が持っている漫画を管理するためにKIRARA MENUを全てリストアップするなど、明らかに常人の道を踏み違えてしまったように思います。
『きららファンタジア』は一時期入れたもののすぐに消してしまいました。基本的にスマホゲームに対してあまりいい印象を抱いていないので......。こと『きららファンタジア』においてのみ、完全に公式サイトの情報頼りで知識を得ました。
おかずさんが開催してくださったきららフリバもありつつ、漫画を読み漁り見ていなかったアニメを見つつしていた11月の頃、大会の延期・オンライン化が告げられました。数日前からCOVID-19の猛威が止まらなかったこともあり、どうあがいても避けられない事態ではあったのですが、心にぽっかりと穴が開いたような空虚感を覚えました。
ひとまず予定していた遠征のための準備を全てキャンセルした後、今後の予定を確認すると、大きな選択が迫っていることに気付きました。(今はめちゃくちゃサボっていますが)現在取り組んでいる勉強・3月に控える学生クイズ大会abcの対策・きららオープンに向けた準備。これら三つが共存しえないということです。
結論から先に言うと、僕は断腸の思いでabcを代償にすることを決めました。タスクを同時並行できないという自身の不器用さも関係するのですが、今勉強を疎かにしてしまうと、もう取り返しのつかないことになる気がしたからです。もちろん1月から改めて勉強し直すのも大変であることは重々承知していますが、「この先のクイズ人生の中で大会で優勝する経験なんて一生来ないかもしれないな」という自分の醜い欲が顔を覗いてきたのです。何より、一番思い入れのあるコンテンツに関する大会をふいにしてしまうと、この先自分自身を許せずに責め続けてしまうような気がしました。
オフラインの開催が夢に潰えたことで下がったモチベーションは、そんなこんなでひとまず漫画を読み続けられるくらいには維持することができました。このあたりの時期から、自分でも説明がつかない焦燥感のようなものが常に付きまとっていたように思います。焦燥感は日に日に増していき、自分のきららの知識に全く自信を持てないまま当日を迎えることとなりました。
~大会当日~
いくら生活習慣が崩壊しているといえど、前日から当日にかけては流石に早寝早起きを心がけました。余った時間は『あんハピ♪』の後半を読み返すなどしていました。そんな中大会の始まりを告げる神田君の声が聞こえてきて、そこで初めて「全身全霊で楽しもう」と意識が切り替わりました。
・1R
ペーパーです。前半20問くらいははうんうんと頷きながら解き進めることが出来たんですが、20番代の前半あたりで躓きました。その後は「これ兄が買ってきていたなぁ」と懐かしんだり、「流石にこれは出ないだろ~」と思っていた問題がバシバシ出題されて昂るなど、様々な感想を抱きつつ終始楽しみながら解いていました。本当にいいペーパーでした......。残りの数分は「淑」をギリギリまで考えてひねり出すなどしていました。三上小又さんの由来は知っていたのですが元となった字までは知らなかったんですよね。終わってみてから初めてわかりますが、解答時間が18分に延びてくれて本当に助かりました。
自分が間違えたのは「『ドージンワーク』」「686枚」「新垣柑菜と新垣陽菜」「3500円」「スカート」「ましろ」「仙人ごはん」の7つ。40番以降の問題もちゃんと打ち返せたことがとても嬉しかったですね。作品の内容について問うている「新垣柑菜と新垣陽菜」と「仙人ごはん」、単純に問題文をちゃんと読まずに解答してしまった「『ドージンワーク』」は取る余地があったのかもしれません。
クイズ人生の中で初めてペーパー1位という名誉に預かったので、この時点である程度報われた気分になりました。
・2R
1位なんて取ったこともないので、当然1位インタビューも初めてでした。自分の声はあまり好きではないし話し下手でもあるので、アーカイブを見返すと恥ずかしくて顔から火が出そうです。
早押しについては、ひとまず分かるものを待ってみようと思っていたら『オリーブ! Believe, "Olive"?』問題と『うさかめコンボ!』問題で押し勝てたので勝ち抜け。どちらも数年前に触れていた漫画で、且つクイズの場で正解することなんてないだろうと諦めきっていたものでもあったので感慨深かったですね。勝ち抜けた後も問題を聞いていると、アニメ化・未アニメ化お構いなしに出題され、年代も広く分布しており、まさしく僕が思い描いていた理想通りの問題群でした。開始十数問でそのことが分かり、この大会を100%楽しみきることが出来るよう準備してきて良かったと心の底から思いました。
・3R
アニメ化・未アニメ化を問わず漫画を沢山読んできたので、未アニメ化のコースが答えていて最も楽しいだろうと判断しました。
蓋を開けてみると、開幕から連続で誤答......。本当に危なかったです。後の方の「『二丁目路地裏探偵奇譚』」は覚え間違いで仕方ないとして、前の方の「赤門大学」はただただ不用意な誤答でしたね。以降は誤答しないように注意を払い、「『リリィ』」「『スイートマジックシンドローム』」「千薪」「『女子大生生活様式』」「『空色スクエア』」を正解して勝ち抜け。先ほどの正解と合わせて、見事に一昔前の漫画しかありませんね。僕が一番好きな漫画である『なでしこドレミソラ』の問題はこれ以降も最後の最後まで自分の手に渡りませんでした。悲しい......。
キャラクタークイズ、普通クイズ、ビジュアルクイズのどれもとても楽しそうでしたね。今の自分だと普通クイズはあまり対応できなかったかもしれないですが。ビジュアルは観戦しながら自分でも解いていたんですが、台詞を問うクイズが悉く分からなくて面白かったですね。色々な漫画を読みたいとの思いを優先させたあまり、それぞれの漫画に対する時間は相対的に減ってしまっていたのかもしれません。まとまった時間があれば好きな作品くらいは読み返したいものですね。
・敗者復活
『きららファンタジア』をやっていないので、2問目で普通に間違えました。後夜祭で読んでくださったときも3択問題は全然正解できなかったので、単に3択問題に弱かっただけかもしれないです。つくづくストレートで準決勝に駒を進められてよかったと思いますね。
・準決勝
ボードクイズということで、一癖も二癖もある問題が出題されました。大会を終えて振り返ると、大会を通して一番危なかったのは準決勝だったように思います。後半10問は分からない問題が多く、もし前半で勝ち抜けられなかったら決勝には進めなかったです。それに前半で運よく正解できた問題も難しい問題が多く、自分の行いの何かしらが欠けていたら正解できなかったものばかりでした。せっかくなので、正解した5問についてそれぞれ所感を書いていこうかと思います。
〇カラーページがそのまま収録
最後に『GA 芸術科アートデザインクラス』の単行本が挙げられていたので、その特徴を書けばいいかなと思いました(多分「カラー絵が多い」みたいなふんわりした答え方をした)。『GA 芸術科アートデザインクラス』のカラーページは芸術についての情報に溢れているので、特に印象に残っている方も多いのではないでしょうか。朧気ではありますが、『夜森の国のソラニ』もカラーページが多かったように記憶していました。
〇「エトワリアのサンタクロース」
「『きららファンタジア』初のイベント「エトワリアのサンタクロース」で報酬として交換することができたキャラクターは、サンタクロースの衣装に身を包んだ誰でしょう?(週刊きららvol.3)」という問題を過去に作っていました。『きららファンタジア』を実際にプレイしてはいないのですが、ポツポツと問題を作っていたら正解に辿り着きました。正に「自作は身を助く」ですね。
〇『わかば*ガール』
今までのきららアニメをまとめていた時、このクールだけやけに多いなぁと驚いた覚えがあります。そのクールに放送された3つの作品全てを覚えているわけではなかったですが、前の二つとは明らかに異質なものを答えに残すだろうとの考えから正解することができました。
〇榎戸駿
ふとした拍子にきらら展のあの映像を作ったのは誰なのか気になって調べていたので、「早押しで眉毛と聞こえたら押そ~」と冗談交じりに思っていました。流石に難しすぎるだろうと当時の僕は自分自身に半ば呆れていましたが、まさか出題されるとは思わなかったです。
きららフリバの時に『ゆるふわ革命』が答えになる問題を聞いた覚えがあったので、答えに「きらり」が含むことは早い段階で分かりました。ただ、シンキングタイムの最後まで『まんがタイムきらり』にするか『まんがタイムきらりMAX』にするかで悩みました。悩みに悩んだ末、本作の掲載誌を信じて後者を選びました。掲載誌を信じて良かった......。正解音を聞いたとき、めちゃくちゃガッツポーズしてしまいましたね。
・決勝
準決勝の問題が難しいものばかりだったので、決勝はどうなるのかと冷や冷やしていました。未アニメ化作品についての知識は他の方に負けないという自負はあったので、難しいにせよ易しいにせよ、基本的にはアニメ化されてない作品を待つスタンスで臨もうと思いました。
最初の数問を聞くうち、2Rの問題とそう変わらず最高の問題群だなと感じました。大好きな作品2つをパラレルで並べた「コラージュ」や数年前に出会った作品(『アクアリウム』『ぷらいまりィずむ!』)など、一つひとつを噛みしめながら答えていました。学校の名前がヒロインの名字と一緒だったことで反応した『恋愛専科』を答えてリーチになった次の問題が、
という問題でした。当日に読んでいた『あんハピ♪』、それも当作品の中で一番好きな人物を答えて優勝することができました。ボタンを押して解答するまでの間、これまできららを読んできた日々が駆け巡り、万感の思いでしたね。
~最後に~
「大会のため」という面もありはしましたが、大会の準備期間に膨大な量のきらら漫画を読むうち、改めて『まんがタイムきらら』という雑誌が大好きなのだと気付かされました。『まんがタイムきらら』は創刊以来、「希望、夢、勇気、ときめきを与える」というコンセプトを変わらず掲げています。初めて『まんがタイムきらら』に触れて以来このコンセプトから力を貰い続けてきましたし、この雑誌が続く限り、これからも僕は『まんがタイムきらら』から希望や夢を貰いながら生きたいと、強く、強く思います。
最後になりましたが、厳しい情勢の中開催まで漕ぎつけてくださったスタッフの皆さん、全ての参加者、そして『まんがタイムきらら』に携わった全ての方々に最大限の感謝を申し上げて筆を置かせていただきます。
浄土真宗の僧侶です。増田さんの投稿に私自身感ずるところがあったので、少しお話させてください。
私の敬愛する大正時代の求道者が、このような詩を書かれています。
一見すると取るに足らない、なんとも味気ない散文のような詩ですが、今の増田さんならば、この詩が言わんとすることが響くのではないでしょうか。
私たち人間はみな、快適さや便利さを求めて世代を重ねてきました。快適さや便利さのその先に、幸福が待っていると信じてきたからです。逆に考えれば、不快と不便は不幸である、と信じてきたとも言えるでしょう。
そしてその結果、先人の努力によって築かれてきたテクノロジー・システムがもたらす恩恵の中で、得体のしれない窮屈さ、居心地の悪さを感じる人が現れ始めています。ちょうど増田さんがそうであるように。
これは一体どういうことなのでしょうか。
ここで例を挙げて考えてみましょう。
お腹が空くのはつらいからいつでもどこでもご飯が食べられるようになりたい、暑さや寒さはつらいからいつでもどこでも涼しく暖かく過ごせるようになりたい、誰かと離れてしまうのはつらいからいつでもどこでも顔が見れたり声が聞けるようになりたい、分からないことだらけなのはつらいからいつでもどこでも自分の求める情報を得られるようになりたい、……。
人間としてのシンプルな欲求をいくつかざっと書いてみました。これらの欲求がことごとく叶い、望んだ通りの社会が出来上がっていることは、誰でも理解できますね。
では、そうして一体、どれだけの人が幸せになったでしょうか。社会のほとんどの人がこのような環境に恵まれた今、どれだけの人が自分の人生・自分の所在をよろこべているでしょうか。
増田さんはきっと、ご自分の所在をよろこべずにいるのですよね。情報社会に溢れかえる、無数の「正しさ」と「間違い」の中で、振り回されてしまう自分と生活を考えた時、途方に暮れてしまうのですよね。
それは人として正常な反応です。あなたは自分の「ほんとう」を求めているからこそ、今迷っているのです。戸惑っているのです。
これは、「たとえ八万冊にも及ぶ膨大なお経(真実の教え)を情報・知識として学んだところで、その教えに全身でうなずき、心から満たされて生きて死んでゆけないのならば、その人は救われない」といった意味の言葉です(大意)。
事実として、TwitterだのYahooコメントだの、ここはてなにも、こうした人がたくさんおられますね。出どころのわからない正しさや間違いを頼りに、「自分こそが正しい」と言わんばかりに、ああでもないこうでもないと罵り合う方々が。そうした振る舞いをする必要が彼らにあるということは、知識(ないし価値観)の是非を巡って他者と争い合うのが、よりよい人生を送り、よりよい最期を迎えられるための手段なのでしょうか。だとすれば、彼らはそれが自分の幸福を手繰り寄せるための必然的行動だと信じているということになります。
そしてその中の、どれだけの人が、本当に満ち足りて生きているというのでしょうか。
その気になれば増田さんも、ありとあらゆる宗教・自己啓発・ライフハックにたどり着くことは可能です。可能な社会を私たち自身が望んだからです。その中には、ご自分にふさわしいと感じる教えや“手立て”が見つかることもあるでしょう。そうして増田さんが憂いや窮屈さから解放されて生きてゆけるのなら、素敵なことだと思います。
ですが、人生の苦悩は、人生の悲哀は、自分でも思ってもみないようなところから、ふいに沸き起こってきます。中でも代表的な苦しみが、“後悔”です。この苦しみには、過去幾千年と人類のほとんどがのたうち回ってきました。私も、増田さんも、これを読む方も、私たちの知らない誰かも、みな、一度や二度ならず後悔の責め苦にあえいでいます。
この後悔を消すためには、どうしたらいいのか。検索してみたとして、本当に答えは得られるのだろうか。一度は「そうかも知れない」とうなずいた後で、実は違っていたなんてことにはならないだろうか。自分とは相容れない、訳の分からない理屈で生きている人のためだけの“正解”を見せつけられるだけで、結局は打ちひしがれる未来が待っているのではないだろうか……。様々な疑念やおそれが次から次へと頭に浮かんで、調べるという一歩さえも、踏みとどまってはしまいませんか。
もしもその通りなら、ここで視点を一つ変えてみませんか。あなたの感じてきた窮屈さ・居心地の悪さ・疑念や戸惑い、そして後悔。
すべてはその対義語を求めているからこそ、生まれる感情なのです。増田さんは後悔のない人生、情報に振り回されず自分らしくのびのびと生きてゆける社会や人生を求めているからこそ、この悩みが生まれたのです。それは他でもない、あなた自身の内に眠っていた大切な願いです。あなたがあなたをよりよく生きるために必要なこととして、あなたの毎日に満を持して現れた“問い”なのです。
あなたにとって今目障りでしかない、早く消えてほしいとさえ思うであろうその悩みは、あなたにとって本当に要らないものでしょうか。どうしようもなく邪魔で煩わしいものでしょうか。私は、そうは思いません。
最後に一つ、私が心から尊んでいる、親鸞さまのお言葉を紹介したいと思います。
「後悔のない人生」を生きようとするのではなく、「後悔すらもよろこべる人生」を生きることがもしもできるのなら、私はそういう人生の方が素晴らしいのではないだろうか、と思って毎日をいただいています。
増田さんを悩ませ苦しめていることが、いつかあなたのよろこびと変わる日が来ますように。
合掌
乳首が嫌いだ
肉体の中で1番嫌いだ
嫌悪してる
英語で言うとdisgustingだ
それにしてもdisgustingのdisgusting感は凄い
できれば乳首は見たくない
ネットサーフィンをしていて、ふいに目に飛び込んでくる乳首の暴力性たるや
ともかく乳首が苦手であり嫌いでもありときには恐怖の対象でさえあるのだ
原因はわかる
幼少期に親と風呂に入るときの、あの、大人特有の奇妙な肉体への恐怖
兄や姉のつるりとした、子供の体とは違う体
妹を産んだばかりだった母の、黒々とした乳首
幼い頃から乳首への恐怖を抱きながら育ち、自分自身の乳首も初めからなければどんなにいいかと思いながら
子供の、色素の薄いつるりとした乳首に、せめて、どうかこのままであって欲しいと願ったものであった
乳首の性徴を恐れ、二次成長を迎えていない自分の身体に安心し、愛おしく思っていた日々も
ある日突然見つかった一本の陰毛によって打破され
体つきが変わり、髪質が変わり、中学校進学を伴い環境が変わり、友人が変わり、話題の中心が遊びから性へと変わり……、そうした沢山の目まぐるしい変化にさらされているうちに、いつのまにか、いつのまにか乳首も茶色く、濃くなり始めていた
数日前に、はてブで反出生主義について書かれた記事が話題になっていた(有料部分は読んでいないが)。
人間が生まれることは本当に良いことなのだろうか。昔からよく考える。むしろ、何一つ自分の思い通りにならなかった昔の方がよく考えていたかもしれない。
小学校低学年の頃、週刊ストーリーランドという番組があって(この番組は途中で打ち切りになっちゃったみたいなので、年齢がバレてしまうが)、読者からストーリーを募ってアニメ化するという趣旨のもので、私はとても面白いと思って観ていた。
占い師のおばあさんの超怖い話など、インパクトがあるものが多かったので記憶に残っている人も多いのではないだろうか。
この番組で私が特に印象に残っているのは、神様が世界中の人に同時に語りかけ、願い事を叶えてあげる、ただし叶えるのは1番願った人が多いもの1つだけね、と告げることから始まるお話だ。願いは1つだけだから、多数決でどんな願いにするか決め、皆でそれを願おうということになった。当然もめにもめまくるし暴動が起きるしで大変だったが、なんとか最後は心を一つにしてお願い事をしてハッピーエンド。と思いきや、実は神様は世界中の「人」ではなく「生き物」に語りかけていて(人間は自分たちだけに語りかけられていると思っていた)、人間以外の動物たちの共通の願いはただ1つだったので、世界中から人間だけいなくなったというオチだった。
コロナウイルスの蔓延っぷりを見ていると、鬱々としつつも、ずっと昔に流行したスペイン風邪とかペストの時代の人々の心境と今きっとシンクロしているんだなぁと妙に感慨深くなったり、自分がパニック映画のモブキャラであるような気持ちになったりする。そして、イッヌとかネッコにも感染るようではあるが、死にまくっているのは人間ばかりのようなので、上記の週刊ストーリーランドの人類粛清のお話を思い出したりした。
日本でちょっと前に人気を博した韓国のインフルエンサーのホン・ヨンギさんという女性がいる。彼女は、中3くらいからモデルとして活動を始め、高校生から服のECサイトを経営してめちゃくちゃに稼いだ。一見すると、ファッション好きな可愛くて商才のある女の子のサクセスストーリーだ。しかし実は、これまでの活動は彼女のお父さんの借金(約3億円)を返すために始めたことだった。返しても返しても利息分にしかならない。彼女が自分の出産・育児のために借金の返済が滞ったときがあり、子供の100日祝いの場に取り立てが押しかけてきたという(多分闇金だと思う)。その後も取り立ては続いた。これまで長きにわたって実家と新しい家族の2家族分を彼女が支えてきたが、もう精神的に限界で、肩の荷をおろしたいとインスタに綴っていたという。
彼女は子供の頃本当に貧乏だったらしい。サイズの合っていない靴を履き、中学校に入学しても小1の時のカバンを使うしかなかった。家庭の事情でなんども引っ越すのが嫌だった。それが、モデルの仕事を始めて注目されるようになって、サイズの合う靴を履けるようになるかと思うと嬉しかったらしい。
こういうクズな親の話はよく耳にするので、その度に、やはり産まれることが良いとは手放しに思えなくなる。
私は、どんな子も、色々あったとしても、数年単位で積分した場合になんとかプラスになるような人生であってほしいと心から思う。でも、この社会ではそれは難しい。恵まれた者とそうでない者の落差が大きすぎるのだ。上にいればいるほど、底に近い場所のことは暗くてよく見えない。底に近ければ近いほど、上の方は眩しくて、手を伸ばしても空を切るばかりだ。そんな社会で、子供を作ろうと思える人はどのくらいいるのだろうか。その結果が出生率の減少に現れているのではないか。
落差について考えたとき、映画「パラサイト」のことが頭に浮かぶ。とても緻密で素晴らしい映画だったが、かなりショッキングな重苦しいテーマを扱った作品であることから、数日間は精神的に浮上できなかった。
映画の最後の方で、半地下のお父さんが咄嗟にしてしまった行動の理由が、私にはわかった。人間としての尊厳を粉々に破壊されて、でも破壊した相手は自分を「同じ」人間だとは(一切の悪意なく)思っていなくて、それがわかっていてもどうしようもなくてああするしかなかったのだと思った。
映画を観た後に、一緒に観に行った知人と感想を言い合っているとき、彼女が「あ、それそういう意味だったんだ!」と驚いていた。彼女は、地方都市出身だけど私と違って都心部に近いところで一人っ子として溺愛されて育ち、色々な習い事をして東京のそこそこ偏差値の高い私立大学を出た人だ。映画も本も音楽も好きで教養がある人だ。そのような人が、あのシーンの意味がわからなかったというのは結構衝撃的で、というのは多分だけど解釈不足ではなく想像が及ばなかったからだと思うからだ。そんな風に惨めな思いをしたことがないから。
私の一人暮らしの家にはテレビがなく、「逃げるは恥だが役に立つ」の新春スペシャルはTVerで観た。けど、途中で観るのをやめてしまった。前回のドラマも途中で観るのをやめて、その時は二人の恋愛模様が何だか気持ち悪くなってしまったという理由だったが、今回は、現実の社会問題をこれでもかとふんだんに詰め込んでおきながら、登場人物の設定は全部ファンタジーというちぐはぐさがあり、何だこれは?となってしまったからだ。ツイッターでは、恵まれた人の恵まれた物語、「持てる人」しか出てこない、などの声がある一方で、感動した!すごく良かった!という声もあった。
学生時代、研究者の人が昨今の就職難について嘆いていて、公募受ける時だけ女になりたいなと冗談めかして言っていた。最初、言っている意味がわからなかったのでどうしてか聞いたら、女性枠があるからだという。私はふいに怒りを覚えたが、ぐっと堪えた。
結局のところ、皆自分より下の階層については鈍感であるか、鈍感であろうとしているのだろう。私がパラサイトを観てショックを受けたのも、いつも自分が一番不幸だと思っていたのに、自分より下の見えなかった分断を突きつけられたからだと思う。アフリカの恵まれない子供達、肋骨が浮き出てお腹が膨れて上半身裸の彼らのことを知っているのに、普段は頭の片隅に追いやって考えないようにしている。私たち全員が、今より高いところとの間にある分断を見ていて、眩しくてつらい気持ちになるのに精一杯でいる。人生は不幸なことばかりで、自分より恵まれている人を憎んでいるのだ。その一方で、自分より下の分断も見たくない。
こんな気持ちを抱えてずっと生きていくのはつらい。
自分は、何をどうやっても箸にも棒にもかからないようなどうしようもない人生を送っている。
これは、この世界という大きな劇の中で、どうしようもない人間の役を割り当てられたとしか考えようがない。
この世界には、人を助ける役もあれば人を騙したり殺す役もある。
そのなかでも、いい役を自力で掴み取る奴も逆にふいにする奴もいる。
ただわかりきってるのは、
劇の参加者が全員イケメン美女金持ち旧帝大卒ムキムキマッチョマンだったら劇が成り立たない。
汚れ役は必ず誰かが引き受けなければならない。
ここに書いてることを相手に伝えてみたらどうだろうか?
価値観が合わなければ、破談になるかもしれない。ならなかったら価値観の合う相手だと思うから、社会保障?的な感じで結婚してみたらいいんじゃないかな?
私は31歳で未婚。
増田とは理由は多少違うけど、特に結婚したいとも子供が欲しいとも思ったことない。
ただ、まぁ、一生1人なのかもしれないな。とふと思ったりすることがあったりもするから、ふいにチャンスがあれば結婚してみてもいいかな。と思ったりもする。
周りの話を聞くといざ結婚したい。と思っても35歳、40歳と歳を重ねるほど未婚状態よりバツ1とかのほうがチャンスがあるらしい。
の「ドラえも~ん、聞いてくれよ。ジャイアンがひどいんだ~(泣き)」
ド「どうしたんだい、のび太君。ウフフフフ~(笑い)」
の「ジャイアンが『新しいマスクだ。珍しいだろう』とか言って、半年前に買い占めたアイマスクを高値で売り付けてきたんだ」
ド「マスクと勘違いしたんだね。法の不知はこれを許さずだよ。ウフフフフ~」
の「しかも蒸気が出て、12時間は40℃以上を保つと書いてあるから、マスクとしては口元が熱くて使えないし、どうしよう」
の「(どきどき)」
の「それは、メディカル発想の三次元マスクでしょ。ひみつ道具じゃなく登録商標。マルシアじゃなく丸シーだよ」
ド「おーつるつるのギタンギタンにされたのび太君。ポケットから出た道具をちゃんとよく見て~」
の「って、それ何!マスクというか、まさに四次元ポケットまんまじゃん!」
ド「新しいマスクだ。どうだ明るくなったろう(声真似)」
の「今のジャイアンより、初代の方に似てる」
ド「生地が白いからマスクっぽいだろ?蒸気は出ないけど、ひみつ道具も出せるよ~」
の「でもそれじゃ、常軌を逸したジャイアンの解決策になってないよ」
ド「メチャメチャ厳しい人たちがふいに見せた優しさのせいだったりするんだろうね。ウフフフフ~」
の「つまり、四次元ポケットはドラえもんのお腹みたいに、紐無しでも顔にちゃんと貼り付くってか」
ド「そうだよ。あの人もプルーンをたべた」
の「ってそもそも、そんな空気も通さないぷるんぷるんの素材で口鼻を覆ったら死んじゃうよ~」
の「うわ~何するんだ。息ができなくてだんだん苦しく…ない?あれ?」
ミ「説明しよう!」
ミ「ポケットをそのまま口に密着させるというのび太の予想を裏切って、ドラえもんはそのポケットの開口部でのび太の口を覆ったのだ!」
ミ「すると、生まれる開放感!!」
ミ「普通のマスクでは、口を押さえつける布の存在にイライラするが、四次元ポケットだから中身は何も無い!布も蒸気も気にならない!まさに四次元だからできるワザ!」
ド「しかも、空気は時空を越えてやってくるから、コロナウイルスの無い時代の空気が吸い放題。青い空のように、爽やかな空気がポケットから流れてくるだろ?」
の「あと、ポケットが2枚の布からできているのは盲点だったね。鼻からアゴを大きく包み、アゴひも無しでも顔にしっかりフィットするね」
ド「大きく包むことでウィルスも完全にシャットアウトさ!そんな幸せ包むポケットこと、四次元マスクが、な、な、なんと、1ヵ月使い放題でジャスト2980円!」
の「わ~すご~い(ざわざわ)」
ド「こんなに安いと、口笛吹いて歩いていきたくなるね!さらに、同じ値段で色違いがもう1個付いてくる!」
ミ「拒否権発動」
ド「しかも、このコロナ禍の今だけ大サービス!ご使用のマスクを下取りすると、マスクのお値段がなんと今だけ…」
のミ「なんと今だけ…(どきどき)」
ド「2倍!2倍!」
の「youは曙?yo!yo!下取りでなぜ高く?って、マスクだけに、サブスク販売ってわけか。でも、お金取るなら高みの見物だね」
ド「それを言うなら高見山な。っていうか家電の下取りはなんであんなに値下げすんの?まあ、コロナとジャイアンに負けずスクスク育てよ、ってな」
俺もほんの少し前まではフェミが謝罪するまでAED使ってやんないからなwwwとか言って喜んでいた。懺悔しよう。でもな、これ言っててふいにスクールカーストの低い陰キャだった小学生時代を思い出してな。
クラスメイトで比較的仲の良かったAくんがB子とトラブルになり、男子の間でB子disが始まった。陰キャの俺は仲間に入りたくて、結束感を確かめたくて、数時間後にリアルB子に嫌がらせをした。さっきまでB子disをしていた奴らがB子の味方をしたり、倫理観のない俺を批判しはじめた。結局俺だけが先生におこられ、クラスの中でさらにド陰キャを極めることになった
あのときと同じだと思ったね。どうせお前らはめの前で女が倒れたら協力して紳士的に救命措置をして感謝状とかもらったり、電車男みたいになるんだろう。俺みたいなのはバカを見る。知ってるんだぞ
さらに言えば、糖尿病で脂肪肝で体重も三桁を越えていて、真正包茎で童貞で、あと二、三カ月生活できるくらいの貯蓄しかない、きもくて金もなくて不健康ながけっぷちのおっさんだ。
元増田は、知的な人物なのだと見受けられる。もともと専門職に就いていたということや、言葉の厳密性・論理性にこだわるところからもうかがえる。
だからこそ、気づいてほしい。元増田の言動には非合理性がたくさん含まれていることを!
>> 精神疾患を持つ人に共通する悩みだと思うが、誰かに苦しみや悩みを聞いてもらいたくても、聞いてくれるような人はなかなかいない。 <<
でも、我々中年の抱える酸いも甘いも嚙み分けた悩みを聞かせる相手としては、20代の小娘には重すぎやしないか…?ましてや相手は、「レンタル彼女」のプロであって、カウンセラーではない。
普通の人は(ましてや若い人なら)、相手の悩みを聞かされたら不要なアドバイスを押し付けちゃったり、下手な感想を押し付けてしまったりするだろう。カウンセリングの基礎ともなる技術「傾聴」は、簡単なようでいて難しく、いくらコミュニケーション能力に長けていたとしてもレンタル彼女が習得しているとは思えない。
そもそも、最初のスタートが「苦しみや悩みを聞いてもらう」(ひいてはうつを直し社会復帰する)だったのに、いつの間にかレンタル彼女と交流し、楽しみながら「普段縁のない層の人と話すことで客観的な視点を得る」選択をしているので、目的と手段がずれているように見えるよ。
いままで専門職に就いていた人が、「工場労働したら?」と言われたら困惑したり、尊厳が傷つけられた気分になるのはわかる。その意味でみゆさんの言葉選びが適切ではなかったことを否定する人はあんまりいないんじゃないかなと思う。
その上で…
⇒なんでそんな失礼な人に金を払ってレンタルしてるの?
⇒みゆさんの工場推しは謎だけど、その程度の自己主張で相手に気持ちが伝わるわけないだろ!
元増田、目を覚ませ。
お金を払って彼女をレンタルして苦しい思いをするなんて不条理だぞ。
ちなみに、元増田はどうかわからないけど、私自身はどう考えても「社会生活を送れていない人」だ。そういう人が、(工場に限らず)人を選ばない仕事をしながら少しずつ社会復帰を目指すという選択肢は別におかしくないので、その意味でみゆさんのいうことはそれほどおかしくないと思う。
ネガティブな意味ではなく、少なくとも元増田は、色んな場所でデートをして、談笑して、おごってあげて、いい感じに交流できるくらいには「普通の人」に見えているのだから。年寄よりも体力がない…というのも単なる大げさな冗談の表現に聞こえている可能性が高そう。そもそも、体力測定をして比較したわけではないから元増田が本当に体力がないのか客観的な指標はないしね。
一般論として楽しくデートできる人は年寄りよりは元気だろうし、「相手のネガティブを否定する」という処世術も珍しくない(A「オレは駄目人間なんだ…」B「そんなことないですって!」みたいな)。だから、みゆさんの物言いが多少軽率で、論理性がなかったとしても、デート中のコミュニケーションとしては妥当なのだと思う。
まあ、とにかく体鍛えようぜ。苦手かもしれないけど、デモデモダッテと否定するよりは何も考えずにとにかく運動して体力をつけるのがいいと思う。そのほうがうつの回復にもいいし(うつ以外の持病があったらごめんね)。
私も生来奥手な性格で、30歳にして順当に魔法使いにジョブチェンジできた程度には清く正しく穏やかな人生を歩んできた。このことにささやかな誇りと羞恥心を抱いているので、その弱く柔らかい部分をふいにえぐられたら、苦しいだろうということは想像に固くないよ。ましてや、ある程度信頼を寄せていた相手ならなおさらだ。
でも、文面だけ見るなら、元増田の質問でみゆさんが意図をはき違えるのも致し方ないと思う。
⇒文面だけ見るなら言ってない。一般論として「なぜお金が空から降ってこないんだろう」と言っている人はお金がほしいし、「なんで今日の晩ご飯はカレーライスにしてくれないんだろう」と言っている人はカレーが食べたいし、「なぜ若い女性は話しかけてくれないんだろう」と言っている人は若い女性に話しかけてほしいと思っていると判断されるのはおかしくないと思う。
⇒元増田だって学生の頃とかは、年上の人と話すよりは、身近な同世代と話すことが多かっただろうし、相手の年代に合わせて良くも悪くも態度を変えていたと思う。
以上のことからみゆさんがエスパーでない限り「相手の言いたいことを正しく理解しているかを慎重に確認して欲しかった。」という願いはきっと敵わない。
元増田がたどり着いた「若くてきれいな女性だからといって中身が伴っているわけではない」「中年男は劣等感を感じることはない」という真理は、きっと大きな発見だったのだと思う。
しかしどうやらこれは世間では改めて確認するまでもない、常識的なアイデアらしい。
でも、「中年男は劣等だ」のように自分で自分を苦しめるような認知のゆがみは、治していったほうがいいのだという。だから当たり前の事実だったとしても積極的に叫んでいこう「中年男は劣等感を感じることはない」
>> 病状を説明しているだけで、病気についての相談はしていない。就職などの社会的なことについても「どの仕事に就けばいいか」なんて相談はしておらず、世間話として話しているだけだ。 <<
みゆさんはカウンセラーではない。だからこそ、相談ではなく世間話だったとしても、おせっかいなアドバイスをしてしまうのだ。
普通の恋人同士でもそうなんじゃないかなと思う。アドバイスされたくないときにアドバイスされたり、逆に相談にのってほしいときに、のってくれなかったり。まあ、私は実体験がないので詳しくはわからないけど。わからないけど。
だから、元増田がみゆさんの発言で時に不快になったりするのも当然なのだ。本物の恋人同士ですらすれ違うことがあるんだから。
サービス業ならそこらへんのことちゃんとしてほしいって? そりゃ、ファミレスに行って最高級のステーキを求めるようなものだ。餅は餅屋。カウンセリングならカウンセラーだ。
トラバやらブクマやらでやたらカウンセラーカウンセラー言われるのは、元増田が目的に対して明らかに効率が悪い手段を選んでいるからだと思う。元増田の書いていることが全て正しかったとしても、じゃあそんな無神経な女性と会うのやめれば?となるだけだし。
そもそも目的と手段が食い違ってるんだから。元々の動機が「うつの悩みや苦しみ、話しを聞いてほしい」なら、そもそもレンタル彼女の手に余る問題だと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
承前 : Part-4 https://anond.hatelabo.jp/20201006121559
次回 : Part-6 https://anond.hatelabo.jp/20201011065246
前回、交渉すればL4になれたのに交渉しなかった学生の例を紹介した。あまりのnaiveさに周りのgrown upは頭を抱えたが、ある意味で微笑ましい事例とも言える。
今回紹介するのはその逆で、ダメな交渉をしてしまい彼自身を含め関係者に苦々しい思いを残した。この例は今でも自分に怒りと後悔を覚えさせる。
増田にこのシリーズを書いた動機にも関わる。長くなるが、事の始まりから書いていく。
ある時、自分はある会社のある部署で働いていた。高ランクの技術者ばかりがいる部署で、非常に刺激的、かつ全員がいい人であった。
自由な雰囲気で、ランクや年齢に関わりなく皆が家族のように親しんでいた。その時の同僚とは今でもつながっている。COVIDが来てもZoomで乾杯をする仲だ。
ある年、その部署に新人が来た。仮に彼をペーターと呼ぼう。ペーターの雇い方は稀とは言わないが少し特殊であった。
ペーターは、やたら押しの強い人が多い気がするある国の出身で、やたら社交的な気がするある国の有名工科大でポスドクをしていた。
そして、その部署のあるmanagerがあるプロジェクトで必要な技術下調べをしているとき、彼の論文が目に留まった。
その論文を皆で議論しているうちに、著者のホームページを見てみるとポスドクであることが判明した。ということは求職中の可能性がある。専門家がいるならその人にそのまま実装してもらえばいいし、その後も戦力になるだろう。
そのmanager、のちにペーターの上司となる、が早速彼と連絡を取り、面接をすることに。自分も面接に加わった。高ランクの技術者たちとの質疑でも物怖じせず、専門分野でもかなりいい線を行っているという感触を得た。
ほかの社員も同様だ。すぐさまL4でオファーが出され、彼は渡米することになる。
我々はペーターを温かく迎え入れた。家族の一員である。ビザやGCのことでいろいろと相談にも乗ってあげた。
彼の専門分野は自分も興味を持っていたところなので議論も多くした。彼から学ぶことも多く、利発で高生産性という印象を強めた。春秋に富む若者だ。
さて、そうこうしているうちに彼とは無関係にその部署であることが起き始めた。人が辞め始めたのだ。
その部署は非常に心地よいところだったが、高騰を続けるシリコンバレーの給与水準(と家の価格)についていけていなかった。
ある程度の期間であれば仕方がないが、長期間続けばやりがい搾取である。暖かい家族のような、アットホームな職場、日々新しいことを学べます、しかし給与は奮わない、ブラックフラグ満貫である。
最初に辞めたのはアメリカ人であった。彼は利に聡く、情勢に通じ、交渉も上手であった。多くのオファーを得て、その中からさらに値を吊り上げ、TCを大幅に上げて出て行った。
そして我々は家族なので、そういった情報が共有された。なんというoutside world! 一人、また一人と彼に続いた。みなL7付近のオファーを大量に得、上手な交渉をしていった。
彼らの情報や手法は我ら家族に惜しみなく共有され、非常に学ぶところが多かった。交渉の成功例として次回以降にいくつか取り扱いたい。
また、彼らがうまく各企業に散らばってくれたおかげで、自分はいろいろな企業の情報を得ることができている。
ペーターは、一人残された。
ひどいな、と思ったが新しい職場で忙しく、どうすることもできない。ただ、機会があれば何かしてあげたいとは思っていた。
さて、自分は次の会社で忙しく働いていたのだが、他部署のある技術者と知り合いになった。仮に彼をアルムさんと呼ぼう。
アルムさんは年季の入った技術者で、ちょっと頑固なところはあるが自分のコードに誇りと情熱をもつ好漢だ。
自分が長年L6であることに不満は覚えつつも、金は求めない、自分のプロジェクトを成功させたい、と邁進していた。肩書上managerではあるが、軸足は今もコードに置かれている。
そんなアルムさんが自分のプロジェクトを加速させたいと願い出、無事に追加のheadcountが付与された。そして、いい人いないか、と自分に尋ねてきた。彼のプロジェクトはペーターの専門分野と少々重なりがあったので、自分はすぐにペーターのことを思い浮かべ、彼に連絡した。彼は他に行きたがっていた。渡りに船だ。
この時、自分はペーターのreferを正式にはしなかった。大抵の会社ではreferral bonusがあるが、自分はそんなことよりペーターの
助けになりたかったのだ。単に知り合いの中継ということにしてペーターをアルムに引き合わせ、自分はそ知らぬふりでアルムからどんな面接を予定しているかどんな素養を見ているか聞き出し、秘密裏にペーターに面接対策を施した。もちろん面接者は何人もいるが、最も重要なのはアルムさんの心象だ。
それがどれぐらい奏功したかわからないが、無事にアルムさんはペーターを気に入った。彼がペーターのことを褒め称えているのを聞いて、自分の責務を果たした気がした。
オファーが出され、1週間ほどたった。さてどうなったか、アルムさんに聞いてみた。
彼は苦虫を噛み潰したような表情で言った。
一週間前とは真逆の反応である。何があったのだ?詳しい話を聞き、自分は非常に混乱した。
アルムさんが出したL4のオファーを、ペーターは報酬が低すぎるといって、最低でもRSUがこれだけなければ、という数字を出してきたのだ。
その数字というのがL7に相当するものであった。なんだそれは。
経験のない人によくある、4年分のRSUと1年分のRSUを取り違えたのでは?自分も若いころ勘違いして舞い上がり、その後でがっかりしたことがある。恥ずかしい。アルムさんに質したが、ペーターは確かにこの数字を出したという。
訳が分からないのですぐにペーターを捕まえ、なぜそんなことをしたのか聞いた。自分は聞き役に徹した。
「あのオファーは安すぎるよ」
そうは思わなかったが・・。彼はL5を希望していたのか?交渉次第ではありえなくもない。転職はランク上げの好機である。
「...だってRSUからの収入がサラリーよりも低いじゃないか」
聞き役に徹するまでもなく、この時点で自分は声を失った。
「TCの大部分はRSUになるんだろ?Xさんはサラリーなんてpeanutだって言ってたよ」
XはL7でAmazonに行ったんだ。Amazonはサラリーが早々に頭打ちするためにRSU-heavyの特殊な場所だ。大体お前はL4じゃないか。
この時点で全容が大体見えてきた。彼は高ランクの技術者に囲まれ、彼らの武勇伝を、分け隔てない風潮の中で
聞いているうちに、とんでもない期待を持ち始めたのだ。以前の回で書いたようにランクが上がれば確かにTCの大部分がRSUになる。しかしL4やL5の段階ではまだまだそんなことはない。そもそも彼はL4などという用語さえ知らなかった。
「わかってるよ、交渉が大事なんだろ?discountしたオファーを最初に出すのは交渉なんだ。」
そんなことはない。アルムさんがdiscountをする動機が全くない。彼は小さなチームのmanagerであってRSU depletionを心配するのはもっとずっと上の人々である。彼はheadcountを埋めてさっさと仕事に戻りたいだけだ。大体今回の件はrecruiterの関与が最小限の、ほぼ直接hiringである。お前はそもそもrecruiterとhiring managerの違いが分かっているのか。
「交渉の仕方はわかっているよ。買う方が$10っていったら、売るほうが$100って言って、買う方が$20って言って・・・徐々に双方の提示を近づけていくんだろ。常識だよ」
どこの常識だ。
大阪のおばちゃんの値切り方か。お前の国は確かに南のほうだが、ミナミと次元トンネルでつながってるのか。いつからだ。
「値切り交渉になるだろうから少し高めの額を言っておいたよ。返事を待ってるんだけどなかなかこないんだよね、せかしてくれない?」
もう二度とアルムさんはお前と連絡を取らないよ。
彼は自分が忙しい中でお前のために面接をこしらえて、上司と交渉して迅速にオファーを作ってきたんだ。
オファーの作り直しにどれだけ手間がかかるのかわかってるのか。なぜ交渉の向うに自分と同じ、忙しい一人の人間がいることに気付けない。
自分のfair valueを事前に調査しておくことすらしなかったひよっこ技術者になんでほかの人間が汗をかかなければならない。
交渉をするにしても相手に迷惑をかけないやりようがいくらでもあっただろうが。大体お前competing offerもないのに交渉することの意味を理解しているのか。
自分は怒りと絶望で頭がおかしくなりそうだった。なんなんだこいつは。自分を何だと思っているんだ。
Naive greedy ignorant selfish tard. Do ur f-ing DD or never leave your mom's basement!!!
そして、自分やほかのgrown upどもが転職未経験の彼に不完全な形で吹き込んでしまった情報が遠因であると知り、なんてやつを紹介してしまったんだ、自分が関わっていることを知られるとまずい、と思い始めた。
まず、アルムさんにはペーターと連絡を取っていることは以降も完全に秘密とした。馬鹿げたやつもいるもんだ、彼のことはよく知らないけどびっくりだね、と同調に回った。
アルムさんはペーターからのメールは全部無視するよ、と言っていたので多分ばれてはいない。
そして、ペーターには、以降連絡を取らなかった。残念だったね、どうしてだろうね、とだけ言っておいた。
その後、ペーターがある会社にL4で移ったのを知った。いい会社だし失敗しなければ彼ならL6まではいけるだろう。
今回L5になる可能性もあったのをふいにしたが、長い目で見れば大した影響はないのかもしれない。ただ、自分は彼と金輪際関わり合いになりたくない。
ペーターへの怒りは絶えないが、時間をおいて何が悪かったのか冷静に分析してみた。
自分にはあった。では違いは何だ。due diligenceだというのが私の結論だ。
分からないなら調べろ。levels.fyiでもTeamblindの糞に塗れた情報でもいいからとにかく集めて分析しろ。
どこで情報を集めるのかわからないなら人脈・Google何でもいいから駆使して聞きまわれ。
人生の重要な転機なんだから当然する。ペーターはしなかった。そしてそれがほかの要素と相まってこんな結果となったのだ。
こういったことに強いのはいつもアメリカ人だ。日本人やそのほか外国人は開始地点からして遅れている。悲しい。どうすればせめて開始地点を近づけられるか。
情報だ。自分はそれを伝えたかった。できれば不完全でない形で。相場も機微も常識も、USに行く前に最低限抑えておいて欲しい。
「TCの大部分がRSUになるのか、ふむふむ」とだけ受け取る人を少なくしたい。これが増田に投稿した理由の一つである。
もう一つの理由は、誰にも言えない怒りを周囲の誰も見ないところに便所の落書きとして吐き出したかったのだ。すっきり快感である。
胸がキュッとなるから思い出したくないのに。
小学校~中学校~高校と、それなりに友達もいて、楽しく過ごしていた。
休みの日によく遊びに行ったり、部活に励んだり、今考えると信じられないぐらい人と接していた。
よく恋もしていた。告白しないまま終わる恋ばかりだった。
勉強も真面目に頑張っていた。周りに褒められるために頑張っていた。
一人暮らしで気が緩んだのか。勉強も頑張らなくなり、だらけた生活を送るようになった。
友達もできなかった。
高校までは自然に友達ができていたから、大学に入ってもその内できるんだろうなと思っていたら、そういうわけにもいかず。
周りは周り同士で友達になっていくが、自分は溶け込めていけない。
どうしようもなくなって、同じ高校から入学したツレとばかり一緒に行動していた。
だんだんそのツレとも会わなくなり、自分はどんどん一人で過ごすようになった。
バイトを始めたが、バイト以外で遊びに行くほどの仲にはならなくて。
大学4年で研究室に入ったが、とりあえず最低限の研究だけしてなんとか卒業できた。
周りは友達同士でワイワイやっていたが、自分は親と出席していた。
親に友達がいないことを知られるのが嫌で、卒業式当日は、親に対してずっと不機嫌だった記憶がある。
卒業できるまで通わせてもらったのに。親不孝者だ。
それで良いと思っているはずなのに、何かがきっかけで昔のことを思い出してしまう。
心の奥底で、まだ憧れを抱いているのだろうか。
なんとなく抱き続けているモヤモヤを吐き出したくて、こんな日記を書いてみた。
書いたところで、モヤモヤは晴れないのだけれど。