はてなキーワード: 罪障とは
浄土真宗の僧侶です。増田さんの投稿に私自身感ずるところがあったので、少しお話させてください。
私の敬愛する大正時代の求道者が、このような詩を書かれています。
一見すると取るに足らない、なんとも味気ない散文のような詩ですが、今の増田さんならば、この詩が言わんとすることが響くのではないでしょうか。
私たち人間はみな、快適さや便利さを求めて世代を重ねてきました。快適さや便利さのその先に、幸福が待っていると信じてきたからです。逆に考えれば、不快と不便は不幸である、と信じてきたとも言えるでしょう。
そしてその結果、先人の努力によって築かれてきたテクノロジー・システムがもたらす恩恵の中で、得体のしれない窮屈さ、居心地の悪さを感じる人が現れ始めています。ちょうど増田さんがそうであるように。
これは一体どういうことなのでしょうか。
ここで例を挙げて考えてみましょう。
お腹が空くのはつらいからいつでもどこでもご飯が食べられるようになりたい、暑さや寒さはつらいからいつでもどこでも涼しく暖かく過ごせるようになりたい、誰かと離れてしまうのはつらいからいつでもどこでも顔が見れたり声が聞けるようになりたい、分からないことだらけなのはつらいからいつでもどこでも自分の求める情報を得られるようになりたい、……。
人間としてのシンプルな欲求をいくつかざっと書いてみました。これらの欲求がことごとく叶い、望んだ通りの社会が出来上がっていることは、誰でも理解できますね。
では、そうして一体、どれだけの人が幸せになったでしょうか。社会のほとんどの人がこのような環境に恵まれた今、どれだけの人が自分の人生・自分の所在をよろこべているでしょうか。
増田さんはきっと、ご自分の所在をよろこべずにいるのですよね。情報社会に溢れかえる、無数の「正しさ」と「間違い」の中で、振り回されてしまう自分と生活を考えた時、途方に暮れてしまうのですよね。
それは人として正常な反応です。あなたは自分の「ほんとう」を求めているからこそ、今迷っているのです。戸惑っているのです。
これは、「たとえ八万冊にも及ぶ膨大なお経(真実の教え)を情報・知識として学んだところで、その教えに全身でうなずき、心から満たされて生きて死んでゆけないのならば、その人は救われない」といった意味の言葉です(大意)。
事実として、TwitterだのYahooコメントだの、ここはてなにも、こうした人がたくさんおられますね。出どころのわからない正しさや間違いを頼りに、「自分こそが正しい」と言わんばかりに、ああでもないこうでもないと罵り合う方々が。そうした振る舞いをする必要が彼らにあるということは、知識(ないし価値観)の是非を巡って他者と争い合うのが、よりよい人生を送り、よりよい最期を迎えられるための手段なのでしょうか。だとすれば、彼らはそれが自分の幸福を手繰り寄せるための必然的行動だと信じているということになります。
そしてその中の、どれだけの人が、本当に満ち足りて生きているというのでしょうか。
その気になれば増田さんも、ありとあらゆる宗教・自己啓発・ライフハックにたどり着くことは可能です。可能な社会を私たち自身が望んだからです。その中には、ご自分にふさわしいと感じる教えや“手立て”が見つかることもあるでしょう。そうして増田さんが憂いや窮屈さから解放されて生きてゆけるのなら、素敵なことだと思います。
ですが、人生の苦悩は、人生の悲哀は、自分でも思ってもみないようなところから、ふいに沸き起こってきます。中でも代表的な苦しみが、“後悔”です。この苦しみには、過去幾千年と人類のほとんどがのたうち回ってきました。私も、増田さんも、これを読む方も、私たちの知らない誰かも、みな、一度や二度ならず後悔の責め苦にあえいでいます。
この後悔を消すためには、どうしたらいいのか。検索してみたとして、本当に答えは得られるのだろうか。一度は「そうかも知れない」とうなずいた後で、実は違っていたなんてことにはならないだろうか。自分とは相容れない、訳の分からない理屈で生きている人のためだけの“正解”を見せつけられるだけで、結局は打ちひしがれる未来が待っているのではないだろうか……。様々な疑念やおそれが次から次へと頭に浮かんで、調べるという一歩さえも、踏みとどまってはしまいませんか。
もしもその通りなら、ここで視点を一つ変えてみませんか。あなたの感じてきた窮屈さ・居心地の悪さ・疑念や戸惑い、そして後悔。
すべてはその対義語を求めているからこそ、生まれる感情なのです。増田さんは後悔のない人生、情報に振り回されず自分らしくのびのびと生きてゆける社会や人生を求めているからこそ、この悩みが生まれたのです。それは他でもない、あなた自身の内に眠っていた大切な願いです。あなたがあなたをよりよく生きるために必要なこととして、あなたの毎日に満を持して現れた“問い”なのです。
あなたにとって今目障りでしかない、早く消えてほしいとさえ思うであろうその悩みは、あなたにとって本当に要らないものでしょうか。どうしようもなく邪魔で煩わしいものでしょうか。私は、そうは思いません。
最後に一つ、私が心から尊んでいる、親鸞さまのお言葉を紹介したいと思います。
「後悔のない人生」を生きようとするのではなく、「後悔すらもよろこべる人生」を生きることがもしもできるのなら、私はそういう人生の方が素晴らしいのではないだろうか、と思って毎日をいただいています。
増田さんを悩ませ苦しめていることが、いつかあなたのよろこびと変わる日が来ますように。
合掌