はてなキーワード: ちゃらんぽらんとは
あれは現政府、現内閣に対する反体制主義が勝ち取ったものなんですよ
そういった政府を糾弾し、声を挙げて訴え、揉み消されまいとしがみつき
なので「給付」というよりは我々の行動に対する「報奨」と言うのが正しいでしょう
加えてこれは「報奨」であり「誇示の機会」でもあります
この10万円を元手に私たちが資金を回す、私腹を肥やしつつ経済を進める
これが出来れば現在ののうのうとした政府よりも予算運用が優れている訳で
逆に言えば私たちが国家予算を使った方が断然日本のためになることの証明になります
今の政府をこき下ろし政権交代をするための判断材料として活用できることになるでしょう
逆に
私たちが勝ち取った10万円を何故今の与党支持者も貰えることになっているのか?
おかしいですよね。声を挙げずに付き従うだけの駄犬共がどうしてもらえるのでしょう?
貴方達のせいであわや和牛券、いえもっと言いましょう、無保証無支援を甘んじて受け入れる事態になっていたかもしれないのですよ?
そんな貴方達に我々の闘争の結晶が与えられる?一律で?頭がくらくらします。
貴方達に良識と与党への信心があるなら、今すぐ10万円給付の権利を放棄してください。
だって与党を信頼しているなら問題ないでしょう?すべて現政府に還元され、彼らが使うだけです。
投資信託と同じことですよ、むしろ与党への信頼があるならあなた方も本望ですよね?そうでしょう?
むしろ与党から渡されたお金を、本来国が別用途に使うはずだったお金を使いこむなんておこがましいと思いませんか?
政府反体制者は辞退しろだの、あるいは自発的に辞退する声が散見されますが、違うのです。
10万円を受け取るべきでないのは、むしろ今の政府を信じ切っている人たち。
少しでも違和感を持ち、内閣に不信感を抱き、次回与党を打ち倒そうと思う人たちこそが貰う権利があるのです。
私たちは現政府がダメだということをこの報奨金を使って反駁する。
あなた方は国を信じ、国が行う次の手を待ち続ける。
さあ、早く(もといここの人々の多くは)(というか支持率から考えて国民の半数は!)10万円を放棄しなさい。
国に返しなさい。いいですね?
(いくつかフェイクあり)
カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。
それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。
増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。
増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。
長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的なものだけを箇条書きで挙げる。
臨床心理士の資格を持っている50代の女性。中学生くらいの子供がいるらしい。
髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。
初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ、人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分は専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間も逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。
二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングとカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去の出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談をきっかけに、突破口を開いたこともある。
夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形や模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉の論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議な経験だった。箱庭療法の最初の一回も、自分の心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。
これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。
治療も後半になると、こうした技法はほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分の気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。
始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分はカウンセリングの技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイトの著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳の理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから、必然的に相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つのは人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。
カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理な仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活、自慰行為、風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。
そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。
最後に、カウンセリングの時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情を自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなたの感覚はそれほどおかしなものではない」という趣旨の言葉を返してくれるだけで、自分の過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。
ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月のことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分を軽蔑しない彼女の存在が尊く思われた。
珍しくないことだが、自分はカウンセラーに好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなたを尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人に自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分は知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手に尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人を尊重することを身をもって学んだ。
一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。
過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事に感謝することを学べたように思う。
また、自分の恐れの感情やトラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。
もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。
何よりも現実検討能力がついた。不安を不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安のエネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。
悩みの解決の過程を言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。
過去のいじめ、対人関係のトラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言・表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分と相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分と他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対に不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分が女性から不快な思いをさせられた経験から、絶対に女性を傷つけてはいけないというルールを自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。
それに、世間にはいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性が自分に暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。
フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。
仕事に関しては、転職をした。自分の能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。
男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間の価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。
その中で、家族との関係も改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間だからこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。
処女厨もロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生と恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックスは気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。
女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子はかわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間は自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。
同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器を露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントとカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。
死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。
カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。
とても感謝はしているけれども、自分で自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日の出来事を淡々とカウンセラーに報告するだけみたいになっていた。
というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ。
ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。
最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。
1年と少し付き合っていた彼女と別れた。
わたしと彼女は小学6年生からの親友だ。同じ中学に入り、別の高校に入って少し疎遠になってしまったが、わたしが大学で完全に孤立してしまい、小中の頃の友達とまた連絡を取り始めたことをきっかけに彼女とまた仲良くなった。
わたしは人間嫌いで独占欲が強い。友愛と恋愛の区別がつかない中学時代から彼女のことが好きで、他の子と遊んでいるのを傍目で見ながら嫉妬の炎を燃やしていたり、そんな状況でも遊びに誘えない臆病な自分にイライラしていたりした。
高校に入ったタイミングで何かの拍子に告白をした。何の勢いだったかはあまり覚えていないが、彼女はわたしのことを拒絶はせず受け入れてくれた。その後付き合う以前にまず友達として仲が良かったので、特に何ということもなく好き同士であるという事実だけ確認したようだったと思う。今思うとお互い恋愛に疎くどんくさかった。
その後あまり連絡を取らなくなったが、その間彼女には彼氏が出来たり別れたりまた出来たりした話だけは聞いていた。その頃のわたしは別に告白はしたものの彼女と付き合っている訳でもなく友達として仲が良かっただけで十分だったのだが、彼氏を作っている事実に少し妬いた。
人間嫌いの特徴として、「人のことを信頼して裏切られることが嫌なので、最初から相手のことを嫌いな態度を取って予防線を張る」というのがあるらしいのだが、そのときのわたしは思いっきりそれを実行していた。とにかく彼女に素っ気ない態度を取って、自分が傷つかないために距離を取ろうとしていた。
その後わたしが大学に入る頃に彼女は3人目の彼氏が出来て、少ししたところで彼女は一人暮らしを始めた。その行動にわたしは「すぐとは言わなくても、今の彼氏と結婚するのだろう」と思った。また傷つきたくなくて、彼女のことをもっと嫌いになっていようとしていた。
その後わたしが大学3年くらいのころ、彼女と同じゲームアニメが好きになり意気投合した。オタクの話をしている間は彼女の嫌いな部分を忘れていられたので、一緒にイベントに行くようになった。
何度か一緒にイベントに参加し、イベント帰りにわたしが家に帰るのがめんどくさくなってしまい、そのまま彼女の家に泊まることになった。その夜彼女はわたしに告白してきて、懺悔のように今までの心境を語り始めた。
わたしが告白してきたのにその後彼氏を作って裏切った、今の彼氏とも上手くいっているわけじゃない、親友として恋人として好きなのかもう10年以上共にして分からなくなってしまったけど、ずっとわたしのことが好きだ、特別な存在でいてほしい
そうわたしに告げてきた。はやく縁を切ろう、嫌いになってしまおう、と思っていた気持ちが魔法のように溶けて消えてなくなって、その日わたしは彼女の告白を受け入れた。
その日からほぼ毎晩のように彼女とは通話をし、オタクなイベントにも、デートスポットにも、色んなところへ行った。毎日楽しくてとなりにいれるだけで幸せだった。
ただ、わたしはあまりにもちゃらんぽらんな性格で、20代後半に足をかけ始めた今でも社会人ではなくフリーターだった。これがしばらくのわたしの課題で、行動はしないくせにどうにかしなくてはいけないと気持ちだけ焦っていた。
彼女と一緒にいると楽しくて幸せなことばかりに目を向けてしまって、クズなわたしはしなくてはいけないことから目を背けていた。このことについて何度か彼女に相談して、一度距離を置いてほしいとお願いをしたこともあった。忘れっぽい彼女とつらいことからすぐ逃げてしまうわたしの相性があまりにもピッタリで、そのお願いは2日と持たずバカハッピーな日常を始めてしまっていた。
付き合い始めてから1年と4ヶ月ほど、彼女が忙しくなったり、わたしが思い出したかのように自分の状況を思い出したりして、ほぼ毎日続いていた通話も少し疎かになっていた。どんな小さな出来事でも彼女に話していたのに、相談したいことがたくさんあるのにいつになっても言えない。落ち込みやすいわたしは外が寒くなってきて更に落ち込みやすくなっていた。
その頃彼女は会社の同僚とディズニーに行く予定があると話してくれた。わたしは12月の彼女の誕生日に、サプライズでディズニーに連れていってあげようと画策していたこともあり、その1ヶ月前に、たとえアフター6でも、先にディズニーに行かれてしまうのはかなりのショックだった。
その他にも小さなことがいくつも重なり、わたしはついヒステリーを起こし「ちゃんと職に就いたり時間を確保して自立したい、一度距離を置かせてほしい」と別れを切り出してしまった。本当の本当の本当は別れる気はあまりないのだが、0か100かでしか物事を考えられない人間嫌いゆえにこういう言い方しか出来なかった。
やさしい彼女は「前にも一度距離を置こうと言ったのに、離れるのが嫌で見て見ぬふりをしてしまった。前に進みたいと決断してくれてありがとう」と別れを受け入れてくれた。
今後は一度仲の良い友達に戻ると話し合ったが、お互い嫌いでも何でもないのに別れることになってしまってとてもつらいが、全てわたしの責任であるし、少し後悔があっても前に進んでわたしを正さなければならない。
A67 大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)
http://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/hutankeigen/1409388.htm
なーにこれ。
ちゃらんぽらん大学の文系を出た、研究のけの字も知らない官僚たちが、「大学院生は社会に出ない穀潰し」って認識してるのがよくわかった。
国の科学力の一番の担い手はニートってことなのね。田舎のおばさんみたいな脳みそしてんな。
ただでさえ大学が中国からの余った学生の受け皿でしかなくなってるのに、このまま行くと本格的に日本の科学はマジで終わる。もう終わってるか。
「悪いことをしたらヘッドスピン二千回」と親に命令されてた女の子のニュースを見て、自分が子どものころと少し似てるなぁと思ったので書き出してみる。
私→現在30代前半。ひとりっこ。
親→現在60代前半。私が小学生のときに離婚。父はお金にだらしない最低の人でした。私のことは可愛がってくれていたけど、母とはよく喧嘩していて母はその度に暴力を受けていました。離婚してからは母と二人暮し。
下に書いていることは全て母にされたことです。
・宿題をしているときは横でべったり監視される。解くのに時間がかかると「なんで分からないんだ」と言われる。間違えていると叩かれる。
・説教中は口答えは一切できない。悪いことをしたとして、どうしてそんな事をしたのかも聞かれない。言い訳もできない。
説教→リリース→呼び出され説教→リリース→呼ばれる、の繰り返し。機嫌が直るまでひたすら泣いて耐える。
・激高すると物が飛んでくる。
野菜やらコップやら文房具やらが体スレスレのところにどんどんぶん投げられてくる。
雑巾かタオルだかを投げつけられて水浸しになった床を「綺麗にしろ」と言われたときはさすがに引いたなぁ。
・いきなりエビ反り(うつ伏せの状態から頭頂部と足先をくっつける)のポーズをやれと言われる。
体が硬くて出来ないでいると「なんでできないんだ」と責められる。「これは虐待じゃない。できて当たり前のこと」とも言われた。いやいや虐待だろ、と心の中でツッコんだ。
・高校受験に失敗したとき「塾にも通わせたのに。この金食い虫が」と言われる。
浪人しろと言われる。滑り止めで受けた高校に行きたければ土下座しろと言われる。
「勉強を一生懸命頑張ります。資格をたくさん取ります。」と誓約書を書かされる。
・体調を悪くしても病院に連れて行ってもらえない。基本自然治癒。仕事を休んで看病などしてもらったことがない。
水虫を移されたときはハイター入りの水に足を浸けろと言われ、学校の貧血検査で治療が必要な状態と診断されたときは鉄サビを飲まされていた。もちろんどちらも治りませんでした。
・ゴミ箱の中を漁られる①
まだ使えると判断された物は勝手に出される。捨てたはずの、当時付き合ってた彼氏とのプリクラや写真がいつの間にか壁に飾られていたときは心臓飛び出るかと思ったなぁ。
・ゴミ箱を漁られる②
レシートで何を買っているかチェックされる。高い物を買っていると怒られる。
高校生のとき、お年玉でナイキのスニーカー(入った靴屋で一番安かった6000円くらいのやつ)を買ったら「こんな調子に乗ったものを買うな」とマジで捨てられそうになった。
・言うことを聞かないと「学費を払っているのは誰だ」「嫌なら出ていけ」「お父さんのところに行けばいい」とお決まりのセリフを吐かれる。
・反抗して自分の意見を主張すると「私はあなたよりもあなたの事を分かっている。私はそこらへんのちゃらんぽらんな母親とは違う。あなたの事をちゃんと考えて言っている。」と受け入れてもらえない。
・給与明細を知らない間にチェックされる。
精神科に通っているのを隠していたが、カバンの中身を見られて薬が見つかってしまい、没収される。
「あなたは鬱になるような子じゃない」と言われる。
説得してやっと精神科の先生との三者面談が実現。先生が母の過干渉を指摘する。わたし泣きながら訴える。
母「わたしは誰よりもこの子の事を分かっています。口出しされる筋合いはありません。この子が泣いているのはとても優しい子だからなんです」と斜め上の回答。
この辺から、もう割り切って母のスネをとことんかじってやろうと決意する。
摂食障害を抱えながらなんとか大学入学、留学、県外への就職を果たす。
母は地元に戻ってほしいようで、地元の求人情報を延々メールしてくる。
「グローバルな子になってほしい」が口癖だったのに、結局自分の手元に置いておきたいんだなと悟った。
なんかこうやって書き出してみるとギャグみたいだな。
でもやられた本人は結構きついんですよ。
そしてわたし、昨年仕事がうまくいかず体調を崩し、現在は給付金をもらいながらニートをしている。(実家には戻ってない。死んでも戻らない)
実家にいた頃の記憶は今でも鮮明で、体調優れないときはフラッシュバックで涙が出てくる。
「死んだら終わりだけど、でも生きながらえたとしてもトラウマと愛情の飢えに一生苦しむんだけどねぇ」と複雑な気持ちになる。
ちなみに昔大喧嘩したとき、昔こんなひどいことをされたと訴えたら「覚えてないし、そんなことするはずがない。あなたの記憶違い」とあっけなく跳ね返されたなぁ。
医師いわく私は発達障害なので、母もその類なんじゃないかなと勝手に思っている。ちなみに母にとって発達障害は「なんにでも病名を付けたがる医者が騒いでるだけ」の病気らしいので、自分がその診断を受けたことは絶対言わない。言ってもまた否定されるだろうし。
まぁ何が言いたいかというと、
家庭というのは外からは何が起こっているか全然分からないということ、
そして第三者の目には正しい知識と適切で迅速な対応力を持っていてほしいこと、
親子ともに、精神疾患なり障害なりが見受けられるか判断できる人がいること、時代遅れの価値観にとらわれてほしくないこと、正しく対処しないと当人の人格や健康に影響が出ること、
かしら。
大学2回の春っていうともっとキラキラしてるイメージがあった。サークルもバイトも1年を経て、それなりに慣れて馴染んでワイワイ楽しい毎日。心の底から楽しすぎて忙しすぎて寝る時間すら惜しい。そんな大学生パリピライフを夢に見ていた。
蓋を開けてみれば何もなかった。楽しいとか辛いとかじゃない、何もなかった。虚無感を持って生きるしかない毎日。
サークルに入ったものの、楽しく運動するのかと思ったらやるのは酒飲み比べ対決。ちょっと全然飲んでなくない?笑とか言ってピッチャー片手にイッキイッキ。
そのノリが楽しくないわけではないけど、ずっと心に虚無感が残ったままで本心から楽しめない。
大学1回、とりあえず大学の生活を様子見してからバイトを始めようと考えてバイトを始めた8月。そこからわずか3ヶ月、11月になって店が閉まるとか聞いてない。
次にバイト始めるなら新学期の出入りの激しい時期の方がいいかと思って数ヶ月短期で食いつないだ。とか思って4月になってバイト応募したら全然通らない。なんでや?1年生と何が違うんや。就活まだなのに就活してる気分になる。
でも、自分の周りの友達はすげえ楽しそうでキラキラしてて、俺が思い描いてたみたいなスクールライフを送りまくってる。
資格とか夢に向かって勉強してる奴、サークルやらバイトやらが楽しくて仕方がないって顔してる奴、リア充ってこういうこと言うんだろなって人が周りに山ほどいる。
なんでこんなに差がついたんだろう。
自分の行動力の無さか、運や巡り合わせの悪さか、もっと別なものか、それとも全部悪かったのか。
自分には夢が持てなかった。こうしたい、こうなりたいって目標もない。思春期で感じた「将来の夢なんてそもそも叶いっこない」みたいな感覚を今まで引きずって、ただ流されて生きてきた。でもそれはみんな同じだと思ってた。
思ってたら全部追い抜かれていってしまった。自分よりもちゃらんぽらんだと思ってた奴が夢を語って一生懸命努力してる姿を見て眩しすぎて胸が痛くなる。
こんな支離滅裂な文を増田に書いてる俺を尻目にみんなは努力したり人生楽しんだり生きてるって最高って感じで生きてる。
羨ましい。俺もそうなりたかった。
夢も持てない、これ以上生きる意味も見出せないけど死ぬ勇気もない、そんな虚無感だけが今日も俺を生かしてる。
誰のせいで虚無人生生きてるんだって言われたら間違いなく俺のせいなんだけど。
先日、一人の友人の部屋に遊びに行った。便宜上、彼のことは〝彼〟と表記する。
初めて会った時から変なやつだとは思っていた。ろくに授業も聞かず、学校も部活もサボってばかりいる割にテストの点だけは良くて、ラノベの主人公みたいだという印象があった。
帰り道が同じ方向なので、僕はしょっちゅう〝彼〟と一緒に帰っていた。話してみれば面白いやつだった。僕も根は真面目ではなかったので、〝彼〟とは仲良くやることができた。
進んだ高校は別々だったが、もう一人別の友人を交え、僕たちは三人でことあるごとに集まった。
いつも遊ぶ場所は僕の家だったが、ある時〝彼〟の家に遊びにいく機会があった。
〝彼〟の家はすごく辺鄙な立地で、信じられないくらい細い路地を進んだ袋小路の先にあった。
外観はゴミ屋敷だった。銭湯の下駄箱とか、シーサーみたいな動物の置物とか、そんなもんどこで拾ってくるんだよと尋ねたくなるようなゴミで溢れかえっていた。
内装はバカの家だった。玄関のドアを開けるとまず真っ先にバカみたいなサイズの水槽の中に入った故の知れぬナマズみたいな魚と、明らかに飼い主の手に余っている気性の荒い大型犬が三頭出迎えてくれた。当然床はゴミであふれていて足の踏み場もない。大量の段ボール箱とか、いつ食ったのかもわからないコンビニ弁当のガラとか、とにかく生活感のあふれるゴミがわんさか転がっていた。あと窓ガラスが割れていて、ビニールテープで雑に補修してあった。
多分〝彼〟のご両親は頭がおかしいんだろうなと思った。先生の話を聞かないのも、一番身近な大人がちゃらんぽらんだから敬うことを知らないせいだろうと思った。
のちに聞くと、彼の父はDV常習犯の躁鬱病患者、母はそんな夫を見限ってまだ幼い息子二人と娘(〝彼〟には二歳下の妹と六つ上の兄がいた)を放って家を出て行ったのだとか。本当に両親揃ってダメ人間だった。
現在、〝彼〟のTwitterアカウントはFF比が3くらいあって、2000人くらいフォロワーがいた。投稿内容はアルファツイッタラーもどきの気持ち悪いツイートであふれていた。マッシュ頭に丸メガネというテンプレート通りの外見の自撮りを投稿して囲いのメンヘラ女を喜ばせたり、学問の話をして身内と盛り上がったりしていた。
あと〝彼〟は常に病んでいた。メンヘラというより厭世主義者で、誰かにかまってほしいから病んだふりをしているというより、本質的に狂っているような感じがあった。なにが面白いのかさっぱりわからない上に、なにか僕の感性の根本的な部分が拒否反応を起こすので普段はミュートしている。
〝彼〟の感性は普通ではない。太宰や芥川の作品のような雰囲気を纏う芸術の類ばかりを愛で、普通の恋愛とか、人間関係にはほとんど関心を示さなかった。恋人はいたし、その相手とは僕も交友があったが、やはりどこか壊れている女ばかりだった。援交でお金稼いでるとか、エロい自撮りを鍵もかけていないアカウントで上げているとか。
〝彼〟の感性は普通ではないから、部屋で遺書を見つけた時もただの悪ふざけかと思った。だって「遺書(これは常備のものなので私が死んでいない時には読まなくてよい)」とか書いてあるんだもの。けれど、悪ふざけにしては度が過ぎている。自殺する気があるのかどうかは知らないが(決してないとは言い切れない)、少なくとも常人よりは死を身近に感じているような雰囲気があった。
少し迷ったが〝彼〟は階下で僕と飲むためのお茶を用意してくれていたので、その隙に僕は勝手に内容を検めた。好奇心に負けた。
遺書は封筒にすら入っておらず、B5のコピー用紙の片面に印刷されているだけで、その乱雑さも〝彼〟らしいと感じた。
中には男女1人ずつのフルネームと連絡先が記されていた。男は大学で同じゼミに所属している人間で、女は元恋人だった。男には〝彼〟のスマートフォンの完全な破壊を、女には引き出しに入っているという手書きのメッセージを引き取るよう指示してあった。流石に女に宛てた手紙を勝手に読むことは良心の呵責が許さなかったが、いったいどんな手紙を残したのだろうか。(すでに良心が〜とかどの口が言うんだ、くらいのことをしているとは自分でも思うが)
〝彼〟は無駄なことをわざわざする人間ではない。誰にも発見されないかもしれないのに手の込んだネタを仕込むようなお茶目なやつでもない。
だからあの遺書は多分、本気で書いたものなのだろう。本気で彼はスマホの破壊と、童貞を捨てた相手にメッセージを伝えるくらいしか自分が死んだ後に望むことがないのだ。
言葉にし得ない虚しさがあった。育ちや環境に同情するには遠過ぎた。ただ、哀れに思った。
こんなことを考えるのは不遜にもほどがあるとは思う。人の遺書を勝手に暴いてこんなところに晒しておいてケチをつけるとは何事だと、これを読んでいるあなたはきっと思っていることだろう。
けれど、僕は悲しいのだ。仮にも数少ない友人である〝彼〟の人生が、こんな詰んだものであることが。
遺書には男の名を指して「君くらいしか頼める相手がいない」と書いてあった。
僕を頼れよ、とは思わない。だって僕は彼を救いたくないから。本当に気色悪いと思っている。
ただ、彼の人生が詰んでいるのが、ひたすらに悲しい。
〝彼〟はまだ生きている。3年前と同じことをツイートしている。
そして、僕の知らないところで人知れず死んでくれ。
今日で25歳になった。
ついこの間まで「まだ若いから大丈夫」と言われ続けていたのに、もう25歳。周りからまだ「若いから大丈夫」とは言われても、もう油断できない歳だ。
この街は東京とは違って初婚年齢も早いらしい。大体の女の子は大学卒業から数年で結婚するらしい。ドンピシャだ。私は大学なんて進学していないけれどさ。
最近、ずっと続けていたコンカフェの仕事をやめてまた仕事を探している。さすがに年齢のこともあるし夜は副業程度にしたいなと思っているけれど、いかんせん、選択肢が少なすぎる。
私は特別おかしなことをしていたわけじゃないのだけど、店では目立つ方だった。そのせいで、コンカフェの仕事が見つからないのだ。夜の街すら一つしかない田舎じゃ、すぐに噂が広まるらしい。
そりゃ、皆仲良く協調性を大事にみたいな職場じゃ私は避けられるよなあと思いつつ、どこにも受け入れられないことに悲しくなる。一緒に面接受けた女の子は受かっていたし。
「天才」とか「カリスマ性がある」とか言われてきたから能力が低いわけではないはずだ。むしろ、「何でお前みたいな女が客ついてるんだよ」とやっかまれるタイプだったし。
長く続けた店をやめた原因も、女の子からあることないこと悪口を叩かれて、居心地が悪くてやめた。
「じゃあ、昼職でいいところを見つければいいじゃないか」と言われてしまいそうだけど、それが難しいことを自分が一番よくわかっている。そもそも、学歴が低いので採用してもらえない。採用してもらえてもいかにも体育会系のいやーな職場だったり。
これまでも昼職でまともに人間関係を築けたためしがない。それに、昼職は退屈すぎる。つい夜に比べてしまうのだ。
毎日毎日同じことの繰り返しで、刺激がない。そんな世界が嫌いで嫌いで夜に行ったのだ。今更昼に馴染める気がしない。
最近よく「今が東京に行くラストチャンスなのかな」とも思う。東京のお店のツテも一応あるし、友達もいる。私よりもっとちゃらんぽらんな女の子が受け入れられている街だ。ここより色んな人がいて、色んな店があって、今より生きやすくなるんじゃないか。
と言ってくれる人がいる。近いうちに同棲したいね、とか結婚したいねみたいな話をする相手がいる。
その人の「せいで」とは言っちゃいけないけど、その人の存在があるから私は動くことができない。
正直、怖い。
その人ひとりにだけ求められて満足できるはずがない。もうできなくなってしまったのだ。
ちやほやされるのが普通になってしまった。客単価5000円以上の店で飲むことが普通になってしまった。「可愛いね」「面白いね」「増田ちゃん好きだよ」と色んな人に言われることが当たり前になってしまった。
同棲や結婚をしたらもう私は自由に動けなくなってしまう。あのキラキラした世界に戻れなくなってしまう。
その人とアウトレットをぶらついたときに、この人と一緒にいたらこのコンパクトな生活に閉じ込められてしまうと思った。きっと馴染んだら幸せなのだろう。だけど、今の私はそこを「幸せ」だと思いたくない。
幸せだと思いたくない反面、今その人に愛されて求められる生活も嫌ではなかった。嫌ではないのに、どこか寂しいのだ。
けして失いたくはないけれど、「このまま一生この街で暮らすのか」と考えるともやもやとした感情ばかりが湧いてくる。
きっと、何者になりたくてもなれない現実に折り合いをつけるのが大人なのだろう。
25歳、今年は大人になれるだろうか。
SHIROBAKO Advent Calendar 2017(https://adventar.org/calendars/2092) 21目、太郎について書きます。ブログやってないんで増田から失礼します。
太郎は序盤は話を引っ掻き回す役柄で、後に本人が言うように「抜けてるようで抜けてる」キャラです。特に5話までは万策尽きかねない大きな失敗を2度もしてしまい、更にそれを他人に相談・報告するのを後回し問題を大きくしていました。そんなトラブルメーカーであるものの、私は太郎が好きです。そこで、この記事では太郎の魅力について書こうと思います。
太郎の台詞は若者言葉を多用しているためか軽く、他の人に引かれたりスルーされたり軽く流されることが多いです。そんな中、珍しく本田さんに褒められた言葉があります。それは、
「でも売上なんて気にしてやりたいことがブレたらいいもの作れませんよ?」(9話)
です。
太郎自体はちゃらんぽらんであるものの仕事に対する姿勢はしっかりしていて、それはきっと太郎がアニメを好きだからなんだと思います。後に出てくる平岡がアニメは好きだけど劣悪な現場で心を摩耗しスレてしまったのと対象的に、太郎はどんなに失敗しても、どんなに怒られても、アニメに対する態度は変わりません(武蔵野アニメーションが良い環境であるということもありますが)。17話目、急にPVが必要になったときに「そーだそーだー!むさにの本気を見せるんすよー!」と「適当にやろう」という平岡の言葉とは反対のことを言っていたのも印象的です。多分太郎は何も深く考えていなくて、良い映像は良いものだから良いことだ!というすごく単純な思考で軽く言っただけで、その負担が自分にかかってくるっていうのを全く考えていないんだと思います(実際直後に宮森にPV用のスケジュールを渡されて「無理ッスこれ…」と言っています)。1年目といえども太郎はこれまで無茶なスケジュールで苦労をしてきたことがあるはずで、その大変さもわかっているはずです。だから、本気でPVを作るとなったら自分が苦労することになるとすぐに思い当たるはずです。でも何故そこまで思考が至らず、平岡のように「適当にやろう」と言えないのでしょうか。
それは、太郎が「ずうっと夢が覚めてない人」(19話)だからではないでしょうか。
「まだこの仕事に夢見てるんだよ」は宮森に向けられた言葉で、同じ一年目である太郎もまだスレていないのは珍しいことじゃないのかもしれません。でも宮森ほど仕事もきちんとできないのにも関わらずあれだけ楽しそうに仕事をやれているのは、太郎がずうっと夢が覚めない人だからじゃないかなあと思います。平岡がそういった人間のことを「俺は嫌いだな」と言ったのはかつての自分の姿であったからだろうし、そして失われてしまった未来の自分の姿だったからでしょう。太郎はどんなミスをしてもどんなにきっつい仕事があってもどんなに怒られても、次の仕事ではまた楽しそうに会社にやってきます。それは楽しい未来がこの先にあると確信しているからでしょう。それはアニメ愛のおかげかもしれませんし、元々の性格なのかもしれませんし、周りの環境のおかげかもしれない。あるいは全てが理由なのかもしれません。理由はともかく、私は太郎のその姿から「ずうっと夢が覚めてない人」っぽさを感じるし、そうであってほしいと思っています。そして、それこそが太郎の魅力の本質なのではないでしょうか。
太郎は二話で声優のオーディションに関し「まじで!?100人も声優さんに会えるんだー!サイコー!」と言っていましたが、実際のオーディションは描写されていた通りとてもしんどいです。そんなしんどいオーディションに、ずっと夢の覚めない太郎がうきうきと臨む日が来るのをいつか見てみたいです。
さて、今回はそんなアメリカの「原爆を日本に落とす計画」に関してのTシャツです。
すみません、もう後ろの方で、ちらちら見えてるからわかるよね。
これね、サンフランシスコのお土産店で、僕が初めてアメリカに行った時に買ったんだけどね。
酷いよね。
「MADE IN USA TESTED IN JAPAN」って書いてあるんだ。
これね、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフっていうところのお土産屋で買ったんだけどね。
師範学校だから学徒動員にもひっかからず、このまま戦争に行かずに済むのかと思ってたら、
最後の最後の年に徴兵されて、広島の方の兵学校に行かされたんだ。20歳くらいだった。兵学校は、
原爆が落ちるような都心部でなくて山の田舎の方だったから、何とかギリギリ助かったという人間なんだよ。
こんな経験をしてる人って、僕だけでなくてすごく多かったんだよね。
僕と同じクラスの子でも、家族の誰かが戦死したり、身体障害者になってたりというのが当たり前だった。
だから、生まれて初めてアメリカに行って、サンフランシスコっていうすごく明るい街の明るいお土産物屋で、
こういうTシャツを堂々と売っているのを見てめちゃくちゃビックリした。
なんかね、ブラックジョークというにしては(笑)、ちょっと酷いなと思ってたんだけどね。
これ着る機会あるかどうかわかんないなぁと思いながらも、一応買ってみたんだよ。
一応買ってみて、SF大会とかに持って行ってみた。
さすがに着るのが怖いから、「こういうTシャツ持ってるんだ」って話したら、やっぱ真面目な人はね、
「やめろよ」とか言うんだよ。
でも、当時、1970年代後半のSF業界というのは、本当にあらゆる価値を相対化することが正しいという
すごく大きな流れがあった。
例えばね。堀晃さんっていうSF作家がいて、この人、書くものはハードSFなんだけど人格は本当に
デタラメという人なんだ。
かんべむさしさんと一緒に2大ちゃらんぽらん大阪SF作家だったんだよね。
ただし、かんべむさしさんの方は書くものはちゃらんぽらんなんだけど、人格は大真面目なんだけど(笑)
で、人格がちゃらんぽらんな堀晃さんは大喜びして、「それどこで売ってるの?」って、欲しがってくれたんだ。
でも、人格はまじめなかんべむさしさんには「そんなもの絶対に着るな!っていうふうに言われてしまった。
小松左京さんはどちらかというと喜んでくれた。
ということで、当時のSF界でも作家ごとに反応が違ってたんだよなぁ。
なぜこんなにSF作家の反応を覚えているのかっていうと、20歳くらいの僕にしてみれば、SF作家というのが、
その人たちがどう感じているのかというのを自分の価値観にしようとしていたんだよね。
今言いながら、めちゃめちゃ恥ずかしいんだけどさ(笑)。
かんべむさしさんが怒っているから、やっぱりいけないのかなとか。
そんなふうに、もうホントに、ワナビー君の恥ずかしい奴だったんだ。
筒井康隆さんにはすごい冷たい目で、「原爆ごときで過激ぶるな!ガキめ!」というような感じで
見られてしまったんだよね。
で、この間、捨てられないTシャツコーナー用に、「Tシャツどんなのがあるかな?」って掘り返したら、
これが出てきたわけ。
やっぱりその頃から30年以上たった今だから、それぞれの人の意見がわかるなぁ。
怒る人の意見もわかる。
そういうのは笑っていいかもしれないけど、人前で笑うもんではないっていう人の意見も分かる。
あと、堀晃さんの「いやそんなもんをTシャツにして売っているっていうアメリカ人の感性が面白いじゃん。」
というのもわかる。
なんかねぇ、いろんな人の意見がわかるようになったなぁって。
でも、逆にわかんなくなったのが、筒井康隆さんの「原爆ごときで過激ぶるな!ガキめ!」
「なんでお前、人のことをそんなに言えるんだよ!」(笑)って。
今に至るまでの筒井康隆の人生で(笑)、「お前そこで怒っちゃいけないんじゃないかな」って思いました。
という思い出のあるTシャツでした。
同じSFファンのポール・アレンによって、今朝、インディアナ・ポリス号が発見されたと報道されたのも
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「岡田斗司夫という時点で読むに値しない」という人もいるだろうし、別に読みたい人だけ読めばいいと思うのだが、
「日本の大半のウヨク(愛国主義)とサヨク(相対主義)は皆インチキだよな」というか
上記の引用で「アメリカ憎し」の感情に飲み込まれたら、またそれも違うと思う
それにサイコパス側面がアメリカの全てとは言えない、感情に流される側面というのも存在するのが現実だ
宮崎駿がアメリカを嫌う理由も分からなくはないし、「この世界の片隅に」がアメリカで上映された意義というのも
非常にあったと思うし(米国人が例え理解出来なくても)、反対に、日本に対する拘束具としての平和憲法に甘えて
自立しようとせずに、こういう目に遭わせたアメリカ自身に守られている立場に甘んじる日本というのも確かにある
あれだな、アメリカで講演する日本人が、上記のTシャツを着ていったら、どういう反応をするか?という社会実験が
見たい気分はあるな