はてなキーワード: 十人十色とは
どうでもいい、つまらないブログが脚光を浴びていることがしばしばあるのだ。
私は先日までそのブログの読者だった。
毎度のようにホットエントリーに入るというのはどうなのだろうか。
同じように人気があったので批判を受けていたが、
何も知らないで交流していたら、私も互助会リストに載ってしまった。
するとその相手は私に切れたのか、
お返しの読者解除とともに、ツイッターブロックという暴挙に出た。
逆にその人のほうでも、長文を書く私に嫉妬していたのだろうか。
その絵日記の読者解除を契機に、私を避けてまったく交流しなくなった。
毎日のように収益だの何十万PVだのと、みなが血まなこになって狂っている。
そして、誰かと仲良くするためには、自分の本音を犠牲にしなければならないのか。
自分が読みたいブログの取捨選択をするのは当たり前のことではないか。
楽しんでいる人がいることは知っている。
読者解除された悔しさでお返しに読者解除とか、
ツイッターアカウントのブロックというのは、あまりにも狭量ではないか。
そんなに私が憎らしいというのだろうか。
しかも、その人は私が気に入っている人のブログにも行っているので、
仲の良かった人たちと前と同じような交流をするのは難しいだろう。
とりあえずアカウントは残しておくが、
私はもうはてなで書くことを辞めようと思う。
交流が楽しくて楽しくて仕方がないと言う人は、
短い間でしたが、たいへんお世話になりました。
if(TOPページなら)
else(TOPページ以外のページなら)
みたいな記述をすると思う。
if(TOP以外のページなら)
else(TOPページなら)
みたいに書く。
また、俺の先輩はサイボーグみたいなやつで、
本当に言われたことしかしないので例えば
if(変数Aがセットされていれば)
else(セットされていなければ)
みたいなことを書かない。
みたいなのを多用する。意図的なのか知らないが、IF文をあまり使わない。
否定から考えるタイプ、想定外のことを一切考慮しないタイプ、場合分けを事細かに書くタイプ。同じことをしてても性格によってコードは十人十色になる。
さて、増田のプログラマーたちは心がひねくれてるので、リアルでも人の話を聞いたらまずは否定的に考えた後、世間体などを考えて肯定的な言葉に変換して発声する作業を行っていることと思うが、
って言うと「本当に辛いつわりならそんなことありません!そういう事言う人がいるからつわりは甘え病とか言われて妊婦の肩身がますます狭くなります!やめて下さい!」って火病起こす人がいるけど、うざい。
あんたらがすべきことは、同じ妊婦を口撃することじゃなくて、つわりは十人十色であること、つわりが重い人だとこれだけ辛いこと、を世間のみんなに理解してもらうことじゃないの?
「そうやってすぐヒステリー起こす妊婦がいるから妊婦様とか呼ばれて妊婦の肩身が狭くなります!やめてください!」
って言い返されたらどう思うか考えよう、な。
ちなみにつわりは凄く辛いのは本当です。ヒステリーおばさん曰く程度が軽いはずの私でも毎日何回も吐くし、食べられるものも限られる、鼻が犬並みになって、匂いですぐ吐き気します。
旦那さんは大変だけど、短い間だと思って、いたわってあげてね。
増田は認知症になると人格が変わるというような口ぶりだけど実際どうなんだろうか
自閉症だけどパソコンのキーボードを使ってきめ細やかな意思疎通を取ることができる東田直樹という少年がいるんだけど
彼が言うには自分の思ったように体が動いてくれない、発語されないだけで思考自体は健常者と変わりないとのことだった
自閉症者は思考そのものが健常者のそれとかけ離れているわけでなく、
ただ自分自身でも不可解でコントロール不能な身体の反応を抱えているだけなのかもしれない
まして認知症にまるまる当てはめられることでもないかもしれないが、
脳の障害はもしかするとアウトプットに問題があるだけで人格そのものは健常者と変わらないというようなことが多々あるのかもしれない
現在無職(前の職場の上司とそりが合わなくて辞めた。世の中にはこんなに合わない人がいるとは思いもよらなかった。この人のことが嫌いというわけではないのがみそ。向こうがビルの屋上から見てるとしたら、自分はビルの下から見てるというか、向こうは北から見てるけど自分は南から見てるという感じ)。
いろいろというほどいろいろしてないけど、ちょこちょこ手を出す。(そしてぱっと飽きる)
飽きっぽい、というよりは移り気というか気分屋というのが正しい気がしている。
だから、ある時にやってみて、面白いと思っても気分で別のことに興味ができればそっちに向かう。
しばらくすると、落ち着くのかまた戻ってきたり、別の物に行ったりする。飽きている、というわけではないから割とすぐに戻ったりする。
ついでに言えば優柔不断。欲しい本があったりすると、悩む。酷いと2hとかざらに。
欠点とか上げ始めたらきりがない。の割に良いところを上げるとなると悩む。欠点はいい点の裏返しの場合があるのは理解できるけど。
車の運転は嫌い、ボケーッとしていることが多いから気づいたら車が交差点を通過している時がある、車線が変わっていることがある。
非常に危ない。自覚している。だから車は持ってない。乗るのは仕事の時とかにどうしてもなくの時。
バイクは風が直接当たる所為か、ボケーッとすることがないので乗ってる。
私には私の意見があります、あなたにはあなたの意見があります。
たぶんお互い最終的には納得できないと思いますので、お互い関わらないようにしましょう。あまり議論をしたがらない。やってもネットぐらいか。
記憶力が怪しい。
たぶんだけど脳の機能じゃなくて、記憶の仕方に問題があるのかなという気はしている。
別の事を考えていたり、ボケーとすることが多いので、単純な行動について記憶に残らない。
一番問題なのは、人の名前と顔を覚えれない。芸能人とか聞いても誰?ってなる。ドラマの女優の名前とか聞いても誰だろう?ってなる。
まあ、そもそもドラマ系はあまり見ないが。アクション系ぐらい。
誰に似ている?とか聞かれてもいまいち思い出せない。見たら思い出す。
これは興味が薄いせいだろうけど。
たまに変な考えを起こす。
いまだに厨2病を患っている。
事なかれ主義、長い物には巻かれよう。
あまり考えずに行動を起こす、後で後悔する。
かと思ったら考えすぎて手遅れになったりする。
いろいろある。
直そうと思っても、一晩寝たら忘れてる。
また、明日じゃなくて、忘れてる。
それを直す努力をしない。
正直、ニートの考えだと思う。
だめだなこれ。
逆に良い点はというと。今一思い浮かばない。
ほんとにこれになってそう。
真面目と言われたことはあるけど、自身が真面目とは思わない。
ばれなきゃなんとやら、で規則破りなんかさんざんやってる。
真面目に見せてるだけだしな。
私というものを支える大きな柱がない。
なんなんだろう自分。
ただそれだけ。
誰が見ても変なカテゴリーに入っている以外は、トラブル防止のためコメントに「こういう理由だから変更した」と書くことがありますが、理由が常識の範囲内であれば納得できるのでは。他のユーザーが困るような変更を抑制するための注意文でもあります。
なるほど。自分の場合、自分がブクマしたい記事と、カテゴリ新着を整理するのは、方向性が違うので、必ずしも「カテゴリ整理をした=ブクマしたい」訳ではないんですよね。個人的には評価していない記事に対して1ブクマ与えるのもなんかなぁ……。と思いますし。
とはいえ、混乱を招くなら、新しいアカウントを作って、それでブコメ+カテゴリ変更するのが適切かもですね。
1週間やってみた感想としては、カテゴリ変更って結構難しい。「誰が見ても変なカテゴリー」「常識の範囲内」と言うけれど、実のところ、たぶんその常識とは十人十色なんだなと実感します。明らかに「テクノロジーじゃないだろ」と思って変更した先でも「いや、おもしろじゃないでしょ」と言われる可能性は大いにあると思います。そして、おそらく大抵の人は「自分の読みたくないエントリは、どういう流れであっても、読みたくない」という意識が根底にあるんじゃないかと想像します。たぶんですね、互助会やはてなブログで持ち上げられた内輪エントリーって、結局の所、外部の人は誰も読みたくない記事だと思うんですよ。身内で楽しんでる文化祭のドンチャカ騒ぎを見る感覚に近いです、お客さん置いてけぼり。200記事分変更したという事は、もちろん200記事以上読んでるって事なんですけれど、ハッキリ言って、本当に面白くない。とはいえ、少しでも適切と思われるカテゴリに変更したら、3ブクマ以上稼いでる以上、どこかのホッテントリには載るわけです。やっぱり変更先のカテゴリーファンから見て「読みたくない」と思う人はいるわけで、みんな微妙な気持ちになると思うんですよね。自動分類よりも幾ばくか、カテゴリとエントリの合致制が高まったとしても、読んだ人のモヤッとした感情は、どうやっても拭えないというか……。これはちょっと、行き場がないよなぁ。とも思います。
まあ、地道にやってく他ないと思います。私は別にはてなからお金貰ってるわけじゃないし、変更した所でもしかしたら誰かが怒るかもしれないけれど。私にとっては互助会を叩くよりもカテゴリ変更の方が解決の近道じゃないかな。って思うので、ちょっとの労力を払って、もう少し様子を見ながらやってみようと思います。
レイアウトの問題もありますけど長すぎると区切らなければならなくなるので長文は増田に向かないかもしれませんね。
多少機械的になりますが、考察と反論を兼ねた返信をさせて頂きたいと思います。
まず「楽しめなくてかわいそう」という感想の持ち方については、先の記事でも既に見解を述べていたので、それに対する反応らしい反応がなく内容として変わらないことを繰り返されてしまうと、改めて反論を頂いた意味がなく、勿体なく感じました。
一応、どうしても楽しめない境遇を可哀想だと同情して頂けるのであればそれは有り難いのですが、本当にそのような同情したいという気概があるのであれば、さらに相手の感情や思考の深い所まで歩み寄り、踏み込んで頂いた上で検討するのがよいかと思います。
また、「かわいそう」といえば、自分はアニメ前のキャラクター達がかわいそうでなりません。光を浴びれば必ず輝ける素質があったのに、アニメ以降ないがしろにされ、隠蔽されるように扱われてしまったのがどうしようもなく可哀想です。
そして自分の思いの最も大きな原動力はそこにあるかもしれません。特に自分が思うのは矢澤にこです…。
ところで、
とありますが、自分が記事を投稿したのも最近の間に留まる話ですし、そんなに熱心な批判派が存在するような心当たりがないのですが…。どこかには一定数存在するのでしょうか。ファンの大半と同様にろくに考えもせずとりあえず批判というアンチなら確かに沢山いるのは分かりますが…。
また、互いの意見は『交わる事がない平行線』と仰っていますが、交わらないというより、そちら側は交わろうとする気がないという印象を強く持ちました。
勝ち負けとかはどうでもいいのですが、せっかく会話や意見交換をした上で中枢部分の内容を読み飛ばされると寂しい気持ちになります。
おりあそ氏やkato19氏は自分の考察や批判を読んで、「自分の記事を読み込んだ上で書いている」と畏れ多くも評価して頂けたようですが、自分としては読み通してはくれたようですが、内容をしっかり考えながら読んでくれただろうか…?という疑問を抱いてしまいました。
個人的には反論されて論破されても構わないので、一度は自分が書いた作品内容批判の論理を受け止めてほしかったと思います。特に盗作問題についての考察は、何故か他の方の評論などを読んでみてもパクリかどうかの比較はあっても、その行為の中身と影響に突っ込んだ考察がなかなか見付からないので、最も伝えたいことというわけではないですがもう少し考えながら読んで頂きたかったと思いました。
様々な紆余曲折の後に結局議論はどこまでいっても平行線のまま続く…となるのであれば分かるのですが、前提から交える気がない態度で、主に作品内容や作品の展開内容に踏み込んだ議論をしようという場において、その話題になるとこちらの意見にはあまり踏み込もうとしてこない状態に受け取れるので、そのような中途半端な態度で反論をする意味にも疑問を抱いてしまいました。
例えると、本来議論が平行線という場合はどこまでも平行な線が二本伸び続けているという状態のように思います。対して、今回の場合はある長い線に対して平行ではあるが短く途切れている一本の線が寂しく添えられている、という状態のように思います。
結局の所、絶賛派は作品内容の是非がどうであれ布教をしたい、ファンである状態を共有したいというのが強く、作品を批判する人を減らしたいというのが最前面にきているのではという疑念が深まったような感があります。
とありますが、そもそも最近はいろいろなことがありましたが、未だ以て絶賛派の(根拠も中身もない)ブログや書き込みの方が圧倒的多数であり、未見の人への影響力は強いですから、その辺りの説明がなくこのように書くと違和感を抱きます。
おりあそ氏の劇場版批判記事に寄せられた反論記事でも、氏の記事を見て作品に対して安易に判断を下す未見の人が大勢現れかねないことを危惧しておりあそ氏に反論するという記述がありましたが、既に多少批判派が増えてもうんざりするほど思考停止の絶賛派のファンであふれかえっている状態で何故絶賛派は未見の人がアニメラブライブ批判派になることについてそこまで敏感になり、怖がる態度を見せるのかという部分が気になりました。
悔しいくらいにファンが多いのに何故そこまで余裕がないのかが不思議です。
また、普通は相反する立場の相手と意見を交わす際には自分の意見と相手の意見の比較を先に考える人が多いはずですし、そのように互いの意見の内容自体に向き合うべきだとも思いますが、アニメラブライブの絶賛派は自分の意見の説得力の有無などよりも、相手の意見による批判派の増加を怖がりながら意見交換に臨んでいるように映ります。
そしてその点に、彼らが作品のどこがどう好きかというより、自分や自分たちがファンであるということのつながりや広がりを最重要と感じており、作品内容自体を捉えて論じる個々の姿勢としては多少の問題があるように思います。もちろんそのような楽しみ方は自由ですし悪ではないのですが、作品内容自体の評価を行う上ではズレが生じていると思われます。
また、そのような態度を見ていると自分自身が切実に内容に感動したから賛美したい擁護したいというよりも、宗教団体のスポークスマンのように便宜上賛美、擁護の立場をとっているかのような胡散臭い軽薄さを感じます。
一方で、自分やその他の原案やアニメ前の状態を持ち出してアニメ以降の展開を批判する人達(一体何人存在してくれているのだろう…?)の意見の根拠の概要としては、kato19氏の推察は大ざっぱに捉えた形としては大体正しいと思います。
その上で、
コミック版・小説版があるとはいえ、メディアミックスとは単なるアニメ化決定ではないはずです。μ'sという架空のアイドルがアニメに出演している、そういうものですよね?
と氏の記事にも言及があるように、ラブライブがメディアミックス作品であることを理解しているならば、そのあるべき在り方についても考察して頂きたかった気がします。
原案の良かった部分を根こそぎ取り除いてしまったアニメ以降の内容を批判すると、アニメ絶賛派はメディアミックス理論を持ち出してきますが、普段はそんなことは関係無いアニメと声優ライブこそラブライブで他は二次創作の延長線だくらいの勢いで見ているくせに、都合のいい時だけメディアミックス作品だと持ち出してきているように感じます。
それはつまるところ、「アニメもメディアミックスの一部だからそれぞれと違っていてもいいでしょう?だから原案を蔑み破壊しているアニメを許してくれ」という論理なわけです。
実際にそのような形で、それぞれのメディアミックスの各種媒体の独立性が保たれていたならば、原案厨(とアニメ絶賛派は呼ぶのでしょう)がアニメ版がどうおかしくなってようと酷いけど仕方がない、作品の下らない一部に過ぎないからとスルーしつつ、基本的にポジティブなままプロジェクト全体を捉えて各種展開を見守っていきたいという姿勢になることも容易だったでしょう。
しかし、PVやCDドラマなどもアニメ以降、設定が侵食されるようにアニメ版の設定で統一されていきました。
メディアミックス作品だったのにもう好きだったかつての姿には出会えなくなるという危機感を抱かずにはいられません。作品の、キャラクター性の内容、中身が好きなので当然の態度だと思います。
しかもスクフェスやスクパラ、ドラマCD、PV、ライブで流れるアニメなど声優が付いている媒体は全てアニメ系設定に統一、侵食されているのです。(スクフェスにはSIDコラボもありましたが、残念ながらおまけのようなものです)
いきなり横入りをして住処を奪い、穢した側が、自分も同じファンの一人だから尊重してください、十人十色だから許してくださいと言い出しても説得力を感じられません。
つまり、そのような棲み分けが十分であれば別物として積極的に評価できる可能性も大きくなっていましたが、そのような状態にないためにメディアミックスだから許しなさいという理論は説得力が弱いのです。公式運営が抱える大きな問題点の一つですね。
また、アニメにおいて原案の方向性から改変改悪された内容の根拠が、例のglee盗作によるものであったり、人気があり改変する必要のないキャラを粗雑な配慮と見解の下に設定改変していたり(説明は先の考察記事など)と、正当性を感じがたいものであるため、ただ単に変わっているとかただ違っているというレベルの浅い問題ではないことは先の記事でも指摘しています。
glee盗作騒動は自分の絶望とアニメ制作陣への憎悪を深める決定的な出来事でした。ただでさえ2期のにこのキャラクター描写の凄惨な状態に打ちひしがれていた所にそのことが発覚して、制作陣や作品内容という結果だけでなくそれに携わる動機や姿勢の時点で重大な問題を抱えていたのだと分かり、どうしようもなくやるせない気持ちになりました。
また、その点がアニメラブライブの内容や展開の是非がただ好みというだけの問題では片付けられず、作品やキャラクターを扱う上での倫理的な善悪について重大な問題があることを検討するべき根拠となる部分でもあります。
絶賛派の方は盗作問題にはまともに向き合わずに軽く済ませようとする人が多い感がありますが、そのような根深い問題から目をそらしながらの朦朧とした感情と論理から、批判派の体験や感情は全て妄想だから目を覚まそうと訴えかけても特に響くものがありませんし、ポジティブになれる気もしません。
仮に全てが好き嫌いで済む問題だとしても、絶賛派からはパッケージへの思いは伝わってきても内容自体に対する好きという気持ちはあまり伝わってきません。好きな作品が批判されたくないとか、好きな作品がパッケージとして表面的に認められている状態が保たれて欲しいという気持ちは伝わってきますが…。
kato19氏や自分が思い当たる絶賛派の何人かもアニメの作品表現や演出を評価していることが多いように思います。そのような部分を評価する場合、表現が曖昧にならざるをえない部分に対する「好き」なので言い表すのが難しい部分もあるかもしれません。しかし、結局その作品がラブライブでなければいけないほどの理由というのが見えて来ません。
先の記事でも書いているように絶賛派が評価している表現法や演出などそれ自体については殆ど否定していません。それが物語性だとか本来のキャラクターの持つ魅力の描写と両立されていたら良かったのにと思っています。
ただ、絶賛派が作品の物語性とキャラクター描写の酷さの免罪符にしたがるくらいに賛美する作品の演出などが安易なパクリだという可能性と、その場合に失われる効果がどれほどかというものは多少審議する価値があるでしょうけれども…
たとえば、人間的にでも性的にでも構いませんが、自分が大好きな人を指して、この人は「顔が美人だから好きだ」、「身長が高いから好きだ」「優しいから好きだ」というように好きな根拠をアピールする場合、じゃあ顔が美人なら、身長が高いなら、優しいなら他の誰でもいいのでは?という指摘ができます。
kato19氏やラブライブ絶賛派の好きだとする根拠、評価する根拠を読んでいると、その作品がラブライブという作品群であることの意味や価値が殆ど考慮されていないように思います。簡単にいえばそれが原案や原作、物語性やキャラクターの軽視や蔑視につながっているのでしょうが…。
おりあそ氏の批判や先の自分の考察や反論にもあったように当初のコンセプトを否定して廃棄しまっているのがアニメ以降のラブライブという作品でした。
絶賛派はそれらの問題があってもアニメラブライブは素晴らしい表現が魅力だからいいんだと主張しますが、ラブライブがラブライブである所以を廃棄してもアニメでくっつけた魅力があれば全く問題がないと思えることが狂気的に思います。
そのような評価の仕方は、どんな作品を見ても表現や演出その部分だけを見て論じる第三者的な評論家のすることのように部分的には真っ直ぐでも冷たく短絡的です。
その評価の仕方を否定するわけではないですが、その評価は他の評価を全て飲み込めるほどの影響力や説得力には著しく欠けていると言わざるをえません。
高級レストランに行って、「ここは、料理は高いくせに不味いが、内装や外装、食器が素晴らしいから料理が美味い他のレストランよりあらゆる意味で最高だ」と言うようなものです。デザイナーや建築家などであればそう評価をするのも分かりますが、レストランや料理の包括的な意味でのファンや評論家としては問題があるのではないでしょうか。いわゆるナンセンスというやつですね。高級レストランが高級レストランであることの価値は高品質な料理を提供することだと思います。ただ内装外装が素晴らしいことを売りにして全てのマイナス面を打ち消したいなら宗教的建築物にして料理を出さずに見物料をとればいいでしょう。
レストランにける内装外装などの美しさはどんなに素晴らしくても評価する場合には料理の不味さを打ち消せるほどの価値はありません。独断偏見の好きでいいならば、他が全てどうしようもなくても格好いい、可愛い店員がいるから一番好きなレストランだと言い張るのは自由ですが、その場合その店員のファンというだけであって、レストランに対する大きな好きの評価として直結させるには弱いと思います。
この例えにおいては料理の種類や味というのが作品の物語性やキャラクターにあたる部分で、内装外装食器店員などの外的な部分が表現演出や声優スタッフなどにあたるでしょうか。
自分は30代後半のエンジニアだ。年収は1800万円、貯金だけで1億円を超えている。そんな自分が、大学生の頃にやっておいてよかった、もしくはやっておけばよかった、と思ったことを書いておく。現役の大学生の皆さんの参考になれば嬉しい。
自分は中高生の頃にほぼ毎日コードを書いていて、大学生でも頻度は下がったがコードを書いていた。大量のコードを書くのは自分にとって消えない財産になる。筋トレに例えられることが多いが、むしろ感覚を研ぎ澄ます瞑想のようなものに似ていると思う。飽きてきたら別の言語や別の環境に手をだせばいい。Mac上でWebサービスやスマホアプリの開発ばかりではなく、Windowsアプリも作るしLinuxデーモンも作る、色々と試してみるのが良い。
毎日コードを書くことで得られるのは経験である。エンジニアにとって、経験は絶対的に必要だ。将棋の本をいくら読んでも指さずに強くなれないのと同様、コードを書かずしてプログラミングのセンスは培われない。
自分はこれをせず後悔している。今後どのような技術が流行るかわからないが、例えば集合知、例えば3D、マシンラーニング、そういった有用な技術の裏側には、線形代数やゲーム理論等のしっかりした数学の裏打ちがある。出来ればComputer Science系の学科に行き、興味がなくとも真面目に勉強をすることをおすすめする。
学術的な背景があれば、何かに興味を持った時にどこまでも深いところまで潜っていける。なければ、公開されたライブラリに沿って使うことしか出来ない。ライブラリを使って何か作ったよというブログを書く側より、ライブラリを作って広く使ってもらう側になろう。
例えば「海外に留学に行きました」とか「大手企業にインターンに行きました」とか、素晴らしい経験である。意識高い系と馬鹿にされるが、行動しないよりは断然いい。しかし、行動力のある人間にとっては海外留学もインターンも、ただ行けばいいだけで簡単な話だ。その一歩先を行って、自分の実績を作ろう。例えば「在学中に技評から本を出版しました」であるとか「未踏ソフトウェア創造事業でスーパークリエイターになりました」であるとか。
実績は名刺になる。実績があって初めて自分の名前を覚えてもらえる。私も色々な学生に合うけれど、覚えているのは何かを成し遂げた人たちだけだ。
本をたくさん読もう。技術書は言うまでもない。ネットを調べれば書いてあることでも、本にまとまっているだけで十分に価値がある。ネットで評価の高い本は片っ端から読むといいだろう。お金がなければ図書館で読んでもいい。またビジネス本も是非読むべきだ。世の中がどのように動いているのかを知るのは、大きな武器になる。他のジャンルも、興味がある本はどんどん読んでいこう。学ぶ意識を持って読もう。
広い視点を持つのは重要だ。社会で必要とされているのは、他に替えのない人だ。他の人と同じことしか出来ないのであれば、他の人と同じ評価になるのは当然である。
英語の勉強のスタートは、早ければ早いほど良い。英語が出来るだけで、世界は一気に広がる。英語が出来ないと、日本という言語の壁で守られた小さな世界でしか活躍出来ない(それでも世界的に見たら十分に大きいが)。英語の読み書きはもちろん、複数人の会議で会話が成立出来るレベルが求められる。TOEFL(TOEICではない)で100点越えを目標にするといいかもしれない。
2年間海外の大学院で留学するのもいいが、英語は手段であり目的ではないことを忘れてはいけない。英語だけのために2年間を費やすのはあまりに勿体無いが、その2年で英語に加えてさらに何かを学べるなら大きな収穫であろう。
自分がやっていることを積極的に発信しよう。仲間内だけではなく、世界に向けて広く発信しよう。仲間内で慣れ合うのは安心だが、安心は停滞を生む。広く発信すると、時には辛い反応がかえってくることもあるが、それは必ず将来の糧となる。失敗を恐れず、自分の知っていること、調べたこと、学んだこと、創りだしたことをどんどんと発信しよう。
面白いことに、アウトプットを増やすと、インプットが増える。自分から人に会いに行くよりも、会いたい人からコンタクトを取ってもらえるようにアウトプットしていこう。
ここに挙げたものは、これをやれば良い、というものではない。こういうものは成功した人に限っても十人十色だろう。気に入ったものを無理のない範囲でやるだけでも十分だし、気に入ったものがなかったからといってがっかりすることはない。所詮、老害が匿名で書きなぐったものだ。毎日の生活が楽しいならそれでいいし、そうでないならまずそれを改善すればいい。そして毎日の生活が楽しければ、将来にわたって楽しい生活が出来るようにちょっと考えてみるといい。その時に、この記事が何かの刺激になれば嬉しい。
読んでて、私も実はそれは思った。文末から「取りたくない派」なんだと思う。色々と生きにくい事実にショックを受けてる段階であって、社会的支援を受ける気持ちは未だ芽生えてないんだと思う。
割り切れてないか、スティグマは勘弁、というタイプなのかは解らない。頼る為に公的機関がそういった支援を実施しているんだけど…「頼れるものは頼る。そして自立する。」、「そんなのは嫌だ。プライドが傷つく。」、十人十色だろうなあ…。
因みに私はグレーゾーンって言われてる。私は完全に黒だと思うんだけど、医師は悩んでる感じ。「スペクトラムといってグレーゾーンなんだけど黒に近い」みたいな。だから手帳申請を相談しても言葉を濁される感じ。
ただ、今までの職歴だとか学生時代の生活状況や成育を見ても明らかにおかしいんだけどなあ…という所。
私はやっぱりタイトルの通りが希望だけれども…要の部分は、自分のボロが出ない職種を知って自立したい!と言う事かな。支援も「適職マッチング」をしてくれて職種さえ知れたら全然抵抗はないよ。そこさえ解れば、あとは自分で就活するし。
「だぞ」「だろ」「だな」「しろよ」「しとけ」「だろうがよ」「かよ」「すっぞ」「だよな(無意識に仲間の同意を求める)」「じゃね?」「~?(実際には聞いてない。煽る)」「!」「www」など。
「こいつ」「そいつ」「お前」「てめえ」「こいつら」「きさまが」「野郎」「○○なんとか(うろ覚えを装う)」など。
悪ノリやイジリ、煽りに使われる事が多い。「www」「お前ら」「そっ閉じ」「あっ・・・(察し)」「ファッ!?」「モニョる」「火病る」「本当に○○でした。ありがとうございました」などで何か言った気になる。
「マスゴミ」「ネトウヨ」「サヨク」「ブサヨ」「○○厨」「○○信者」「DQN」「キモオタ」「キチガイ」「アスペ」「在日」「反日」「朝鮮人」「ジャップ」「売国」「クソ」「ブサイク」「死ね」「暇人」「ガイジ」「ニワカ」「オワコン」「生理的に無理」「お花畑」「○○ガー」「○○が大量に湧いてるな」など。
「男は~」「女は~」「老害が~」「団塊が」「バブル世代が~」「ゆとりは~」「さとり世代~」「理系は〜」「文系は〜」「左翼は~」「田舎は~」「都会は〜」「東京は〜」「地方出身者は〜」「低学歴が」「コミュ障」「底辺」「低学歴」「 ニワカ」など。またコメントに個別に反論するのではなく、あたかも敵集団の代弁者からのコメントであるかのように大雑把にすりかえて攻撃し始める。「これだから○○は(勝手な○○認定)」「○○信者乙」など。
「○○なやつにかぎって××するんだよな」「どうせ~するんだろ」「裏で○○してそう」「こんどはいつ○○してもおかしくない」「こういう人って○○が××しなかったら△△したって言い出しそう」「すぐに○○するだろ」「○○まったなし!」「こういう○○するやつがいるんだよなあ(実際には○○まではしていない)」「やましいことがあるから反対するんだろ?」「火のないところに煙は立たない」「○○って思ってそうなとこが苦手」「○○は将来的には××するんだろ」「○○才過ぎても××な△△は□□する」「○○『××して何が悪い?』」など。
「はい論破」「○○が××を喝破」「顔真っ赤だな」「涙目」「長文乙」「連投乙」「逃亡」「必死だな」「くやしいのう」「ざまあ」「メシウマ」「笑える」「こういう○○するやつにはなりたくないよな」「ブーメラン」「図星だろ」「頑張って書いた反論がそれかよw」「まだ悪あがき?」「寝言かよ」「くやしけりゃ○○してみろよ」「今頃あわてふためいてるw」「予想通りw」など。
あと付けでネタや冗談やジョークだったと弁解する。「釣りだろ」「今日も大漁」「コピペにマジレスかよ」「ただのジョークだろ」「なにマジレスしちゃってんの?」「マジレスかっこ悪い」「つまんないやつが増えたな」など。
主にメタ視点でけなす。「でもこいつ目立ちたいだけだろ」「売名ウゼー」「かまってちゃんウゼえ」「自己顕示欲」「ここに書き込んでる時点でお察しだな」「ネットに長文書き込むのは馬鹿」「自分のこと賢いって思ってそう…」「ヒマだな」「こんな時間に書き込みしてるって…」「○○が一生懸命考えましたって感じ」「○○代かな?××臭がする」「○○言いたいだけだろ」「最近覚えた○○使ってみたかったのかな?」「コンプレックスの裏返し」「ルサンチマン」「拗らせてるなあ」「同族嫌悪なんだよなあ」「へえ、○○の結果がこれなんだw」「寒い」「うざい」「壮大にすべってる」「粘着きもい」「この人怖い」「コピペかな?」「 コメが絶賛ばっかで気持ち悪い」「こんなのありがたがってんの?」「リアルでは相手にされなさそう」「こういう○○って生きるのがつらそう」など。
明らかにツッコミどころ満載のおかしな発言のため、背景知識がなくても批判できてしまう。そのため質の低い、右ならえのコメントが増えやすい。まとめサイトにとりあげられたり、注目エントリーに入る率が高い。「○○とか、やっぱ頭おかしいな」「こんなのがいるなんてやっぱり○○はクズだな」「まだ○○信者はまだこんなこと言ってるんだなw」「私の知ってる○○は××といってゆずらない。本人は本気でこれを言ってるらしい」「○○な私は普通に生きていく資格もないってことですか?だとしたら悲しすぎます(と言って義憤を煽る)」「一部では○○と主張するやつもいて腹が痛い」など。
「○○は××と発言」「○○は××のとき△△していた」などの直接的なデマのほか、「○○は××ではもう相手にされてないよ」「○○は××ってことで片がついてる」「○○ではもう××はバレてきてるみたい」「○○が通用するのは××だけ」「いまだに○○なんて言ってる人がいて呆れる」など間接的かつ誘導的なデマや印象操作もある。
「やっぱり○○は××にそっくりだわ」「○○と××はつながっている」「○○も××も似たようなものなのにね」「○○は××出身か、どうりで」「○○は××と組んでから凋落の一途」「○○は××の巣窟」「○○の裏には××がいるから」「○○は××に乗っ取られてんじゃないの?」「さすが○○が支持するだけの事はある」など。
「○○のこと?」「○○かな?」「これ何て○○?」「○○定期」「安心しろ○○はもっと××だから」「だからといって○○の評価が上がる事はないけどな」など。
「○○の平常運転」「またこいつらか」「○○撲滅」「○○消毒」「○○は出て行け」「○○の洗脳」「○○に気を許すな」「これですむと思うなよ」「○○くらいで被害者ぶるな」「エセ○○」「○○様はいいご身分ですね」「○○は優遇されている」「震えてろ」「電凸した」「あいつらのやり口」「日本はいつから○○になったんだ?」「○○が反対ってことは××はいいってことだな」など。また反対する集団に関する不幸なニュースを継続的に喜んで取り上げる。
「○○は差別されているからなあ」「○○差別なんてネットじゃいたるところで見るわ」「でも○○は不利益になることは知っておいたほうがいい」「でもやっぱり自分の○○には××させないと思う」「自分は違うけど周りの○○には××に偏見持ってる人はけっこういるな」「本人はよくてもまわりは気にするだろうな」「せめて○○くらいさせてあげないと周りから変に思われる」「○○にもまともな人はいるんだな」「○○人にもいい人はいますね」「○○は××さえなければなあ」「○○みたいなタイプは年長者から可愛がられない」など。
「○○の前に行ったらビビってだまるくせに」「こいつ○○に行ったら速攻フルボッコにされるわ」「じゃあおまえが○○にいってこいよ」「こいつら本物の○○をしらないからいきがってんだろ」「○○つええ」「○○無双w」「本職のおでまし」「やっぱ本物の○○は迫力が違うわ」「ついでに○○もボコボコにしてほしいわ」など。
自分が反対する集団がやったことは口汚く罵るが、同様のことを自分の支持する集団が行った場合には反応せず無視する。または「○○(反対する集団)がすげえ喜んでるな」「○○がよろこんで××ってコメントしそう」「(コメント欄に)○○がおしよせてくるぞ!」などとコメントする。
何が常識かは本人次第で、伝統・文化などの線引きも恣意的。「○○するのが常識」「普通は~」「○○することになっている」「○○も知らないの?」「常識があれば~」「通常なら~」「普通の感覚なら~」「きわめてまっとう」「正論」「○○は伝統」「○○は文化だ」「○○するのが自然」「昔からやってる」「○○はもう古い」「○○は時代の流れにあわなくなった」「日本固有の○○の美風」「○○するのが国際常識」「まだ○○でないのは日本だけ」など。
「○○は諸悪の根源」「○○衰退の犯人××」「○○は無責任」「○○は××なんてどうでもいいと思ってる」「○○は弱いものいじめ」「○○は反対ばかりする」など。発言者の頭の中には該当事例の積み重ねがあるのかもしれないが、判断できる文脈を離れて突然評価が始まる。「○○は××(例1)や△△(例2)をしたから□□だ」などのように例示しない。また具体例をあげていても、飛躍しすぎて誘導的な場合も多数見かける。「××(例1)」をした場合はその「××(例1)」の問題点だけを具体的に指摘したほうが建設的である。
こういう芸風だから、ずっと前からこうだった、この場所ではこうだ、などですませようとする。業界人・事情通風コメント。「○○さんはずっとこういう人でしょ」「前からこうなのしらないの?」「○○界隈じゃこれが普通」「○○じゃみんなこうしてるけど?」「○○はもっと××なんだけどね」「なんで今さら話題になってんの?」「じゃあ○○は当然知ってますよねw」など。
「ほんこれ」「まさにこれ」「それな」「正論」「真理」「これはひどい」「激しく同意」「知ってた」「なにをいまさら」「当たり前のことしか言ってないな」「大したこと言ってなかった」「知ってた速報」など。
「じゃあ一切○○しないんだな」「××っていっても○○ほどひどいわけじゃねーだろ」「××っていっても○○とくらべたらまし」「昔の○○はもっとひどかっただろ、今はまだマシ」「○○は聖人じゃないといけないわけ?」「○○したことない者だけが石を投げなさい」「いちいち○○してたらきりがない」「○○も一枚岩ではない」「純粋な○○なんてない」「○○は××しちゃいけないの?」「じゃあ○○は無駄死にしたっていうのかよ」「ずっと同じ意見のやつなんていない」「とにかく何でも変えればいいというものではない」など。
「ただの揚げ足取り」「失礼な言い方」「めんどくさい奴だな」「頭悪いな」「その言い方は反感買うだけだよ」「そんなこと言ったら何も言えなくなる」「ただ~しただけだろ」「そんなの屁理屈だろ」「理屈ばっかり」「理屈じゃ人は動かない」「いやなら見るな」「議論する気あるの?」「ケンカ売ってんの?」など。
「正義の反対はまた別の正義である」「絶対的なものはない」「十人十色」「どう思おうが個人の自由だろ」「こっちはそう思っただけ」など。相手や対象をくわしく知るための相対主義ではなく、自分だけに都合の良い議論の切り上げに使われる。自分の言い分は聞かせようとするが、自分とは異なる意見を聞こうとはしない。もちろん一方的な議論を第三者が仲裁のために使う場合はこの限りではない。
「○○してはじめて理解できる」「○○になってはじめて××のことが理解できる」「○○するまで××のことは分からない」「本人にしかこの痛みは分からない」「理解者ぶって」「あんたにはわかんないだろう」「わかった気になりやがって」「○○から見える景色は全然違う」など。
「すべからく」「的を得る」「改行が」「漢字ばっかりで固い」「全角数字が」「為に」「する事」「○○が気になって内容が頭に入ってこない」「○○も書けないの?」「日本語でおk」など。
「するつもりはなかった」「(表現が)誤解をまねいた」「真意とはことなる」「○○という認識がなかった」「実際は○○はしたくなかった(が押し切られた)」「○○は××には(心情的には)反対だった」「純粋な気持ち」「こころを入れかえて」など。
善悪の基準を自分では示さないで正当化しようとする。または意図的に議論の焦点をずらして、別の基準に合致しているから問題ないとごまかす。「それのどこが悪いの?」「何が間違ってるのかわからない」「文句があるならわざわざ見るなよ」「こういうの気にしてたらストレスたまりそう」「本人が楽しけりゃそれでいいだろ」「個人の自由だろ」「盛り上がればそれでいいだろ」「外野からはなんとでも言える」「言うだけならは簡単だ」「○○しただけだろ」。
「○○しただけ」「○○を必要としている人がいる」「○○も信じている人がいる」「○○も生きていかなくちゃならない」「生活がかかってる」「○○だってがんばってるんだよ」「○○も一生懸命なんだから」「こっちは本気なんだよ」など。別の立場からも「××しただけ」と言えたり、「××も必要とする人はいる」と言えてしまう。
「違和感がある」「うーん」「むずかしいな」「どうなんだろう」「なんともいえない」「何かモニョる」「ムズムズする」「ほんとあれだな」「スッキリしない」など。
「どっちもどっち」「喧嘩両成敗」「どうでもいいわ」「くだらん」「平和だな」「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!」「選択肢がない」「まともな対立候補がいない」「右も左も同じようなものだな」など。
「これって私だけですか?」「○○は××ってうわさがあるけど本当ですか?」「○○が××な理由を教えてください」「○○は××しかしないなんてズルくないですか?」「○○だってことわかってます?」「(悪口を言ったあとに)これであってる?」など。
主張に理由を書かず字面で自分流に判断してお互いに反発し合う。抽象的な命題に具体例をあげず各自が拡大解釈して収拾がつかなくなる。「なぜ日本人は○○なのか」「なぜ最近の○○はつまらなくなったのか」「○○はもう終わったのか」「○○は日本人に本当に必要なの?」など。
「○○しないと××は崩壊する」「終わりの始まり」「もう○○は終わった」「○○崩壊へのカウントダウン」「○○が××したらヤバくね?」「○○はオワコン」など。
「○○力」「○○脳」「○○化する日本」「○○すぎる××」「マイルドヤンキー」「ダサピンク」など多数。
話し手が勝手にビックリしているニセの新情報。実際は凡庸なものや、つまらないものまで誇張して面白そうに見せる話術。とっさの責任回避にも使われる。「実は…」「びっくりしたんだけど」「あまり知られてないけど」「意外に知られてないのが」「いままで誤解してたんだけど…」「今知ったんだけど」「今気づいたんだけど」「とんでもないことに気づいた」「なんと!」「うわー!」「えーっ!?」「げっ」「~ってマジかよ」「○○マジやばいんだけどマジうける」「えっ、○○って××なの?」「従来の○○にはなかった」「学校では教えていない○○」「○○の隠された真実」「○○の正体とは」。など多数で応用例も広い。この変種に、実力のないエッセイ系マンガでウンザリするほど多用される白目を剥いてビックリした顔がある。
「○○が××した結果wwwwww」「○○に世界から賞賛の嵐」「○○が××した驚きの結果とは?」「○○だった俺が××してたら△△できた」「○○したら人生変わったwww」「こういう○○してるやつwww」「××、○○過ぎワロタwww」「偏差値○○から××合格、驚異の△△とは?」など。
サンプルが適当なランキング。「百年の恋も冷める恋人のひとことベスト10」など。
具体的なアドバイスや、そのつどの感謝ではなく、あいまいな心情主義的フレーズで自分を美化し、これに合致しない相手の言動を牽制しようする。我にはあり、彼にはないという形をとる。これを身につけていないと恥ずかしいと思わせる。「大人になれ」「ガキじゃないんだから」「社会人の一般常識」「まごころ」「日本のこころ」「おもいやりが足りない」「感謝のこころを忘れずに」「おかげさまの気持ちを忘れずに」「にごりのないこころ」「純粋なきもち」「気が利かないやつだ」「おもてなし」「マナー」など。
目的を検討せず、それ自体が目的となってしまっている集団主義の賛美。「力をあわせて」「一致団結」「一体感」「こころを一つに」「みんなでひとつのものを作り上げるよろこび」「声をひとつに」「協力するのはいいことだ」など具体的でない標語で必要のない集団行動まで強要し美化する。
空疎なスローガンやイメージなどで政治を語る。「安心して暮らせる」「人に優しい」「希望の持てる」「安定した社会」「着実な成長」など。
そのほとんどが相手の発言を封じる「だまれ」や、責任回避の「 自分は悪くない」に言い換え可能。議論の切り上げに使われる場合が多い。「自由には責任が伴う」「権利には義務がともなう」「多数決は民主主義の原則」などは抑圧的な「だまれ」に、「日本人はトップは無能で現場は優秀」「自分にも表現の自由はある」「差別と区別はちがう」「戦争は政治の延長だ」などは「 自分は悪くない」に言い換え可能。
例え話のディテールの整合性などに議論の焦点がうつってしまう。インフォグラフィックスにもトピックの理解をかえって妨げるものが多数あるように思われる。
「○○代、既婚子なし。このあいだ同僚が~」「○○生まれ。学生の頃は××で△△していて結構□□していた~」など。「友人が~」「知り合いの~」「マックの女子高生」「戦争帰りの祖父」「姉の描いた絵が見つかった」などの前置きは、伝聞話法でそれらしく聞こえるようにする作り話率高し。または「女だけど~」「男だけど~」「おっさんだけど」「十代だけど」など予防線を張ったり、特別に注目してもらうための意味のない前置き。「○○の俺が○○した結果www」「ちょっと聞いてくれ」「すこし話は長くなるが~」「~で、それが今の嫁なんだ」などもほぼ創作。
周囲との会話やエピソードを使ってネットで注目されるために、本人が見たら嫌であろう事も、評価も含めてくわしく書き込む。「出来ない○○を相手にしている。××だがやる気はなく、何度言っても変わる気はないようだ。結局○○することになるだろう」「○○で××を見かけた」など。注目してもらうために話を盛ったり、創作にはしる場合もある。
いつの時代、どの場所で、どのような発言主の、どんな文脈から得た知見なのかが不明。「外国では~」「アメリカじゃ」「ネイティブは~」「アフリカ人は」「江戸時代の日本人は」「戦前の国民は」「○○人に日本の××を見せたら『△△』だって。日本ってやっぱり□□みたい」など。
「○○くらいは常識で、××がないとこれからはやっていけない」「○○ぐらいで自慢できる時代は終わった」「まだ○○を使ってる人はかわいそう」「まだ○○で消耗しているの?」「○○が大したことないという人は、せめて○○してから文句を言ってほしい」など。
排泄、生殖器、残酷な行為、変態行為などの話題を場所をわきまえないで書き込む。
勝手な病気診断。精神科医(もどき)が個人・社会を印象で語る。俗流心理学者。「なぜ未熟な○○が増えたのか」「大人になれない○○」「○○は狂ってる」「現代社会の病理」「○○を蝕む××」「○○先生案件」「お薬出しときますね」「プリントアウト案件」「人の印象は見た目が○○割」「声が印象の○○割」。「何気ないしぐさでその人の心理がわかっちゃう」など。
具体的な問題解決や実践的なアドバイスではなく、精神主義的な心構えに終始。
「○○ユーザーって××ばっかり」「○○利用者の特徴」などに反応して内輪向けのコメントを残す。
本題とは外れたところでうまい事を言って注目を浴びたいコメントのこと。
本題とは外れたところでうまい事を言って注目を浴びたいコメントのこと。
研究レベルでなくとも、好きレベルであっても自分の感覚を頼りに自分のテーマを探求している人の話のほうが概して面白い。
自分の場合はこういうのが非表示・ブロック・スルー・読まない基準になっている。項目によってはあまり重視しないものもあるが、上記コメントが多い場所には近づかないよう心がけている。たまたま好奇心に負けて引っかかっても、「ああ、またやってる」と素通りすることにしている。雑コメントに時間をとられず、義憤を無駄遣いせず、時間を有効に使いたい。
始めに言っておくが、包括的ではない極論。
コミュ障はコミュニケーションを必要としていないからコミュニケーションが上手く図れない。
アスペルガーなどの先天的、おそらく器質的なコミュ障は改善が難しいのかもしれないが、
いじめられて、自分を抑圧する環境下で生きてきて、自分に自信がない、自己主張がない。
これは結果だし、現在の状態。自己主張がない→相手の顔色を窺う、相手に媚びる。
相手の顔色を窺い、媚びる人間にコミュニケーションは不要なもの。
本来、コミュニケーションは相手を究極には分かり合えない、自分と他人は全くの別物、でもそれを知ってほしい・分からせたいという前提から成り立っている。
この分化が出来ていない前述したような人間は、まず相手が何を考えているか、自分をどう思うかを、保守的に極めてネガティブに邪推する。
この時点で、相手に自分を知ってほしい、分からせたいという気持ちはまずない。
そして、自分がこういったら相手はこう思うだろう、それを保身的に邪推しがち。
これが何を生むかというと、
「本来相手の考えは分からないからそれを言葉でやり取りする」ところを、
相手の気持を自分で勝手に想定してしまうことで、コミュニケーション(言葉を通じたやり取り)が不要になるという事態だ。
単純に話すと、
昨日◯◯見たんだよね、めっちゃ面白かった→ああ、あれ面白いよなw(同調)
面白いと言っているからそれに同意しようとする、、、「相手の気持に共感しよう」と謳う会話のハウツー本は多いが、これをしてしまうと会話は盛り上がらない。
昨日◯◯見たんだよね、めっちゃ面白かった→え、◯◯? 俺も見たわw→見た?あの◯◯なシーンめっちゃウケたわw→あーあそこねw
面白いと感じるポイント(物事にどういう感想を抱くか)は人によって違う、まず自分のそれはさておき相手のそれを知るのがコミュニケーション
自分がさほど語る内容がないのに、それに対して、好き・嫌いだけを出してしまうと、話がそれ以上深化しない。
だから、相手の価値観を勝手に自分のそれと同一化してしまう人にコミュニケーションは取れない(そもそも必要ない)。
まず「何を話そうとしているのか」を言葉のやり取りで拾うだけで、キャッチボールは成立するし、ゆえに会話は弾む。
そもそも俺もコミュ障だった。でもひょんなことから営業職に就いて、そしたらどんな話題も仕事に活かせるし、誰のどんな話でも興味持つようになった。
その
「十人十色
みんな違って
みんないい」
ていう考え方は俺も大好きだしまさにその通りだと思う。
でも、そもそもの発端としては
仕事の方が楽!
男も家事手伝え!」
これが男が発言してたとしたらいよいよジェンダーが崩壊し真の男女平等社会が訪れたのかな?と新社会の幕開けを感じさせるけど、
まあ、そういうわけじゃなくて専業主婦の男叩きなんだけど、そういう口火を切ったのは女性側なのに、
そこ突っ込まれたら「みんな違ってみんないい」ってつぶやくのは何かおかしくないか?
一般的、常識的、想定されるであろう平均的な家族構成において、
子どもが成人するまで専業主婦と60定年までのサラリーマンどっちが大変かってことだよ。
「いい歳したおっさんが夢見すぎ、芸能人ならいざ知らず一般人で歳の差恋愛/結婚なんてあり得ない!!」
確かにおっしゃる通り。
夢見すぎてはいけない。
しかしこうも考えられる。
そんなオッサンにすら相手にされないBBAどもが単に妬み僻みで若い女子をdisりたいだけ。
10歳以上上の男性を狙う女性もいるという(ステマ?)記事も多く見かける。
実際に10歳以上の年の差恋愛/結婚をしてうまくいっているカップルも存在する。
他方、
「イマドキの女子は同世代にはない魅力を持つ年上男性に惹かれる!」
確かにそんな声も聞くようになった。
しかしこうも考えられる。
既に賞味期限の切れた中高年男性を無理矢理恋愛/結婚市場に引きずり出してもうひと儲けしようと企んでいる輩がいる。
…どっちもどっちやん。
結局のところは人それぞれじゃない。
多少は世間の目があるにしても、十人十色千差万別なんだから年齢性別関係なく思うように行動すればいいんじゃないか?
周り(特にネット)の意見にとらわれすぎず、自分の気持ちに素直になるのが一番ではないか。
もちろん、法に触れないってことが前提。
「嫌いになったわけじゃないんだけど」と言う彼氏の言葉の通り、
実際別れの言葉を切り出される直前まで、そんなことを言われるとは思っていなかったくらい、
仲よく付き合っていたつもりだった。
彼氏はまだ付き合っていたころ、私のことを「かわいい」と褒めた。
いつも「かわいくない」だとか「気のせい」だとか「見間違い」だとか、
そういう可愛げのない言葉を返していた。
自分のことは客観的に見てもかわいくはないと思っていたけれど、
別れによってそれがきちんと立証されてしまった気がした。
他に好きな人が出来るなんていうこと、多分なかっただろう。
自分のことを褒めてくれた人が手のひら返しをするかのように離れていくと
もう自分のことなんて誰も好きになってくれないんじゃないかという気分にさえなってくる。
自分が彼氏とのやりとりで口にしてきたたくさんの「かわいくない」が、
今私に呪いのように降りかかってきている。
あぁそうだ、私はかわいくない。知っている。
この呪いはどうやったら解けるのだろう。
現役美大生です。
いろんなまとめサイトやそのブコメなどで「多摩美やムサビは同じ出身校同士の結びつきが強い」「電博(電通・博報堂)とのつながり」というコメントがちらほら見受けられました。それを一言で「身内褒め」でピシャリと言い切ったものもありました。
今まで僕はギャラリーでサノケンや佐藤可◯和、森本千◯、長◯りかこなど、美大生の間では名の知れたデザイナーの作品を数多く見てきました。その作品を見るとたまに、またか…と思ってしまう自分がいました。まだデザインの仕事に深く携わっていませんのではっきりと言い切ることはできませんが、色々な人達が指摘した通り、身内褒めは存在すると思いました。
まず電博のエリート派閥にいるのはほとんど芸大ムサタマです。そして電博に就職したいと思っても面接を受けられるのは学校が決めた成績上位者の極一部だけです。ゾシビやゾーケーが電博にいないわけではないと思いますが、芸大ムサタマ以外でドカンと売れるデザイナー(野田凪、吉◯ユニなど)は電博出身ではなく、電博出身で独立したデザイナーの事務所に所属したのちフリーになるという流れです。だから電博と芸大ムサタマの結び付きが強いと言われるのです。
またエンブレムの件で言えば、前作の亀倉雄策のデザインが圧倒的というのもありますが、美大や芸大や専門学校とかの美術的な素養がある人達の間だけでウケるグラフィックってやはり存在します。ではなぜ芸大や五美大にいる人達が見たものが良いとされるのか。一目エンブレムやロゴなどを見て「ここが良い、ここにメッセージが含まれてる、ここが足りない」といった、デザインに隠された欠点やメッセージを読み解く訓練をしているからです。「デザインが分かる人」のイメージは概ねこれだと思います。美大生の間でもそれは同じです。
しかしこの目が肥えていくうちに、美術的素養がない人の作品の見方に大きく差が開いてきます。これが身内褒めを促進させるのではないかと思っています。
デザイナーや専門の批評家同士、ワカッテル人達に絶賛されたりお墨付きも貰えたりする。この身内褒めがあってこそデザイナーは自身にとって簡単には揺るがない評価を手にすることができます。デザインに詳しい人が良いと評価すればデザイナーとしての評価に直結するでしょう。これは絵画でも同じです。(他にそういう例えができるものがあるかどうか探してみてください)こうしてデザイナーのキャリアは作られます。
今回みたいにとことん目立つところで、美術的素養がない人達に発表するということがそもそも少ないのです。一般人にはどうせ分からないだろうけど、凄く良いんだよこのデザイン、と褒める人達は美術が分かる人達、つまり身内に限られてきます。わかる人が分かればいい!という独り善がりのデザインに向きやすいのです。
美術に素養がある人達でも、良いと言われているものが何故良いとされているのかを見抜けない、また理解できないことは多々あります。例えば大◯卓也がデザインしたHungry?というキャッチコピーとゾウを使ったカップヌードルのCMはとにかく業界内で絶賛されていますが、僕にはよく分かりませんでした。更に見抜く力が少ない一般人が「見る側」として圧倒的な人口を誇る中で、素養ある人達だけが分かる世界を見せてこれが優れたものですって言われてもねって感じかと思います。
もちろん十人十色で感じ方は違います。だけど美術的素養があって各々評価の基準と見方を分かってる人にはいいデザインだと見抜けても、まったくそういう知識もなしに初めて見たときには物足りなく見えたりするデザインはどうしたらいいのか。考えているデザイナーはいるでしょうか。コンペで選ぶのはみんな素養のあるサラブレッド達だから尚更です。