はてなキーワード: 包含とは
本来は被害を受けた当事者への共感を伴った義憤によって分母を大きくする事で加害側への責任のサイズを正当にしそこに個人に納まらない社会においての蔑視的観念の影響が認められるなら啓発としての批判的働きも含めというような概念で本当は消費できない存在をそのように扱うことへの糾弾的皮肉的意味合いを持った言葉なのに今では性的な消費という言葉を拡大解釈させて女性という概念への被害を叫ぶ事で属する自身をも直接的被害者としてカウントさせ正当化させるための単なる利己的なツールと化してもきているようで辟易する
加害者に責任や制裁を求めるのも当事者である被害を受けた女性によりも集塊した個々の怒りに対して望むような傾向が見られるし主観の域を出ない個人的感想の主語を"女性"とすり替え同調を誘う事での自己正当化また溜飲を下げるための手段や非難のための免罪符としても使い勝手良く氾濫してしまって意味性としてはむしろ正当性が削がれていっているように思うしそこに危うさも覚える
その言葉は多くを包含する女性という概念の下で主観的なものに左右される消費への定義を振るうものであるのに消費という単語が持つ即物的な客観性を含んだ印象のためにさもそこに共通する絶対的な基準が存在するかのような錯覚を起こさせ個々に主観を反映させたそれを自身の正当性の担保としたならそこに齟齬や違和は当然生まれるし実際見ていると女性間でさえ性的価値観の差や意識差においてその寛容さ奔放さを自身との相違でもって本来は違って当然で双方が尊重し合うべきものであるあくまで相対的なものでしかないそれを性の消費へ加担しおもねるものだというような非難へ繋げていて(エマワトソンのトップレス写真問題が分かりやすい)それは女性が選択できる性的自由度の幅を狭めるようなもので全体主義的というかほんとどうなってんのというきもちになる
それは加害者としてファンタジーと現実の区別がつかない人間だけでなくその性的対象にも原因を求める痴漢の自衛論的な発想でそんなものでも"被害を受ける女性性"を盾にすれば正当性を伴ったあまりに大きすぎる分母の代弁者として振る舞えるそんな客観的正当性を欠くような類の安易な乱用が許されるガバガバな現状はともすればそのまま安易に女性性が消費できるものだと定義認識されかねずそれはいわゆる二次元のキャラクターなんかに対して更に顕著で代弁し得る被害者がいない分自身がその対象を受け入れられない不快に感じたそれを消費されているとして被害を主張し嫌悪不快感の赴くまま狭く特殊な世界の性的な意図や人によってはポジティブな性的さと捉える類のまた場合によってはそんな意図自体端から無いようなものにまでその責任を取らせるため拳を振り上げ本来は絵や漫画に限らず性的なまたは偏った視点による都合のいい理想像としてそのために用意されたもの次いでそれらへの一方的な性的な視点と現実の女性は全くの別物で前者に後者を反映させる事はあってもその逆は原則的に無いとすべきところをむしろ進んで混同を招くかのようにそこに消費できる女性性が存在しているまたその性的な偏った視点が消費され得る現実の女性性を含むものとするそれこそ現実に生きる女性への冒涜でそれは特殊嗜好やそこへ向けた性的娯楽表現で社会における女性男性を定義するような性的玩具に女性性を認め性的な消費だと言うような話でその辺の誰かが言ったおっぱいエロいって発言が胸を象徴としての性的な興味の個人的な発露なのかフェティシズムとしての限定的な性的嗜好によるものなのか対象のポジティブな性的魅力の客観的優位性を語るものなのかそれとも女性を性的な消費物としてしか捉えていない事での無意識の発言かなんて場合によっては当人にも分からないのに性的さや性的な魅力へ惹かれるそれ自体を消費だとするそれは傲慢以外何なんだという話でものの区別がつかないのかと思う
私はそれこそそんな身勝手に"女性が消費される"なんて言葉が使い回されるそれに"女性という概念が利用され消費されている"という気持ちになる(皮肉)
いや実際性的なものに限らずそんな類の感情にまで体よく使えるそれこそ消費という言葉の現状へ思う事でもある
言葉自体を使う事被害を訴える事共感や怒りそれ自体や社会の在り様を問う事疑問を持つ事嫌悪感や不快感その苛立ちをどうにかしたいという気持ち許容しかねる性的価値観や被害者がいなくても"女の子"とされるものの後ろにいる人間への非難めいた感情やその影響への懸念やそれを示す事それが問題なんでも悪いわけでもなくそれが本当に正当性のあるものかそのマイナス感情は自分に帰結するものではないかその対象が個人的なものかまた属するグループの特徴か社会に反映され得るもの社会を反映したものかを考える必要を欠かせたまま通用させてしまいかねないその責任感の無さからの軽率さでお手軽にやってしまえるそこが言葉の持つ重さに対してあまりにもに思えるしそれが招く扱う内容や巻き込むものの影響のサイズを考えればそんな程度に扱えるものではないはずなのにと考えてしまう
個人的にはそれが気に入らないものを非難排除する印籠または虎の威を借る狐的使われ方だとしてかわいさややわらかさみたいなものを弱さだと前提として定義してその上で"弱い女性"を理想化している事での消費という捉え方での使われ方が無意識に男性性への優位的価値基準に基づく無責任さを見るようで本当に恣意的で独善的できらいだし理想像の偏重さへの抗議の意としてそれが言われる事もあってでもそれは他を貶めて相対的に優位さを確保するやり方でその度そんな事に問答無用で総意として私が女性という性で巻き込まれまた使い方如何でその責任まで勝手に負わされることになるその不当で理不尽なガバガバさがほんとうにほんとうにきらい
そしてきらいだけどそれは個人の意見でそれに異を唱え打ち捨てたいと思う人もいるように本来性別のようにグループにおける総意とは"個人的に""私は"の集約であって集約されるという過程を飛ばして個人が主観で代弁できるようなものじゃなくするべきでもなくまた次いでその中に見られるあくまで問題解決への手段である問題提起とその周知を自尊心を満たすための個人の目的としてとやってそのためにと短絡的に対象を大きくとり優生学的に貶し相対的また絶対的優越に浸りそれを自己肯定感へ繋げ反芻するその姿は痴漢や他の性的被害に対して女性への蔑視的思想でもって心無い人間によって見られるようなそれでもあり持ち出す内容やその是非倫理性は違っていてもそれ以前に同じ事をしているというその影響は個人でなく"女性"の代弁としてやるには確実にあってそうしてしまう事で女性の言葉"としての説得力が失われていき実際そういう観念でもって本当に総意の力が必要とされている場でもその説得力の有無をこちらへ突き付けるような人間が少なからずいるその事も恐ろしいしその必要な人のための必要な場のためにも代弁者とするなら個人的な部分をこえたところでの危機意識は持つべきものだと思う
個人として何を思うのもどんな価値観を持つのもそれを発表するのも基本自由ではあるけど少なくとも女性というだけでなく大きな枠で多くを巻き込む事になる上で代表として語るならその自覚はあるのかそれがどこから来たものかそこに客観性が含まれるか主観とは区別できているか自論であるなら自身でそうだと理解しているかそれを示せているかのひとつくらい考えて使うべきだと思う
本当にひとつでも十分なのにと思う
というような事を消費という言葉を見る度思って胸焼けを起こすので文字に起こした
提言とかでさえない
https://anond.hatelabo.jp/20190119103107 の続き
今日のプロブロガー(2019-01-14)(2) | MechaAG
どうりでイケダハヤトは田端信太郎には「無関係な人」というのに、けんすうには言わなかったわけだ。
それにしても、もうイケダハヤトの味方、マジで誰もいないんじゃ。ここまで完全に否定されるってのも珍しいんじゃ。ネットって何かと「みんなと違う意見を言いたい」人が多いのに。こんなんじゃ俺がイケダハヤト擁護に回っちゃうぞ?
今日のプロブロガー(2019-01-17)(2) | MechaAG
この有料サロン、正田圭が個人的にやってるのかと思ったら、どうやらTIGALAが会社としてやってるらしい。Campfireでの主催者はTIGALAになってる。となると会社として責任を負ってるわけで、「ちょっとプロフ盛っちゃいました」で済むのか、俺にはわからなくなってしまった。
今日のプロブロガー(2019-01-17)(4) | MechaAG
今回イケダハヤトは何がしたかったんですかね…。直接的には正田圭を擁護しようとしたんだろうけど、火に油を注いだだけ。正田圭は一応企業の社長なんだから、大炎上するといろいろ困ることになると想像できなかったのか。できなかったんだろうな。イケダハヤトはそういうのは理解できないし、信念として理解したくもないんだろう。でもそうなると企業とのコラボは無理だよ。イケダハヤトの場合、自分のポリシーの正しさを身をもって証明するという目的しかないんだろうな。まあそれ自体はある意味尊敬できるけど。
TIGALAと正田圭がサロンから手を引くとなると、正田圭目当てにサロンに入った人は、金返せと文句が出ないんですかね…。一度返金するとかしないと。まあもはや誰も痛みを伴わずに事態を収拾することは困難だが。
もちろん物事は矛盾し合うし変化も必要。しかしその時に矛盾をなんとか自分の中で是正しようとする努力が、精神的な成長になるのだが、イケダハヤトの場合は矛盾を気にせず、矛盾を包含してその外側により上位の体系で矛盾のない思想を作る努力を怠ってるので、結果的に精神的な成長がない。6年前のまま。イケダハヤトを真似すると成長が止まってしまう。
イケダハヤトはたった一人で戦ってる。まあ10代の思春期、中二病的にはカッコイイんだけど、そのまま30代、40代と進むと相当辛いよ、と。
イケダハヤトの社畜批判は的を射てるというより、誰でもわかることしか言ってない。「郵便ポストは赤い!」ぐらいの。そもそも欠点のないシステムはないわけで、それをみんなが知ってるような欠点を指摘して「現代社会にはこんな欠点がある!」と言ったところで、何が優れてるの?
もっと問題なのはイケダハヤトが「こうすれば郵便ポストを青くできるんだ!」と言ってる部分。その点をみんな評価してるわけだよね。「おお!?これはなんか新鮮な主張だ」と。ところがその部分はデタラメなわけで、それじゃいいとこなんて一つもない
今日のプロブロガー(2019-01-15)(12) | MechaAG
イケダハヤトは子供っぽくて、社長は何でも独断で決定できると思ってる。あるいはプロジェクトのリーダーは何でも独断で決定できると思ってる。しかし決定したってそれに従ってくれないと張子の虎なわけです
ゲリラというのは攻撃は得意だけど防衛は苦手。それではインフラのように安定性が重視されるものには向かない。正規軍には正規軍の戦い方、ゲリラにはゲリラの戦い方があるわけで。そういうことがわからず、正規軍もゲリラのように戦えというのが、イケダハヤトの思考の未熟なところなわけ。
今日のプロブロガー(2019-01-17)(3) | MechaAG
彼らのtwitterとか見てると、イケダハヤトの顔色を窺ってて、哀れになるほど。イケダハヤト界隈は「手っ取り早く儲けること」ばかり考える。それだと相手に損をさせて儲けるのが一番効率がいいんだよね。しかし損をさせた相手は二度と取引してくれない
相手に損をさせてその分自分が儲けるというのは、学生的な思考。学生ってうまく立ち回って出し抜くのがカッコイイって文化があるじゃん。そういうのが多めに見てもらえるのは学生のうちだけ。まあイケダハヤトはネットを巧妙に使って、損をさせるのを不特定多数にすることで、これを持続させてるわけで、まあなんというか、褒められたことじゃないが、よく頑張るな
「会社側の都合だから傷つく必要はない」という論理がさっぱり分からない。
女性が多い部署でも男性が優遇される事はよくあることである、と言う事実を無視するのもどうなのか。
(相手はそんな事も分からないような無知な学生だろうから騙したれという意図なのか、この増田も素で分かってないのかは知らないけど)
女性側が気にしなくても部署側の都合だから(実際そこに女性への差別的な意図があったとしても)傷付く必要も何もないしもし断られてたとしてもそれは自身や女性という性の価値を何ら表すものではないよ
正直むしろ差別的であったならそれは完全に企業側の問題で余計に気にする必要はない
理不尽だと声を挙げる事はしても偏った価値観を意見のひとつと価値を認めて自分の中に受け入れて傷付けられてやる必要がない
言ってしまえば相手にそれを分からせる必要も無いし何で分からないんだと思う事もない
問題の中心は性別による優劣の話でなく単純な(包含してる問題は単純ではないけど)絶対数の違いによるもので女性が出遅れる形になっている事での男性側の長年のアドバンテージそれによっての新たに性別という概念が自身の職場へ持ち込まれる事へのナーバスさとそこへの過剰な意識で女性ばかりの部署や企業でも男性が入るのが必ずしも簡単ではないように女性差別的な区分の問題というより(数の差で女性へのものの方が多くなりはするけれど)性別に乗った属性に判断があまりにも引っ張られる事での問題でパイのやつはそこへの提言なんだとは思う(微妙だったけど)今の問題がそれで解決だとかじゃなくそれが求められているんだというような類のもの
今時代の中心に男性がいるのは女性より先にスタートしたからで女性がまだ追いつけてないのもある意味自然の理でもあってそれ自体は(その歩みの遅さや男性側の理解の無さに苛立ったとしても)事実として憂う必要はないしそれは能力の優劣でもないというかそもそも今に至るまでの条件が違うのだから優劣はつけようがない
だからもし女性である事で割を食っても女性である事に悲嘆する必要もない(性差ではなく時代の強制力が生んだ差異なので)
とはいえ要職含め男性が数を占めてる以上立場として男性側に何かしら価値をはかられというような場面も多くて理不尽にさらされ特に性差を意識して来なかった人間ほどその立場の差を女性男性の差として相対的に自身の評価や自身や好きなものを含むはずの社会全体の評価にまで影響させちゃってしんどくなる事もあるから言葉一つでも価値が無ければゴミのように切り捨てる事もどんなものによって傷つけられるかの取捨選択も大事だよというのを朝から強めに伝えたいというきもち
その世界では、誰もがプリティでキュアな存在、プリキュアに変身できた。
物心ついて、そのことに気づいた2人は、悲しみにくれた。
何度試しても、変身はできない。
2人は、この世界では凡人にすら達していなかった。
そんな2人ではあったが、周囲の人々は、とても親切に接してくれた。
そんなささやかな日常は、仮面をつけた者らが世界に現れることで壊される。
仮面ライダーを名乗る彼らは、次々とプリキュア達を襲っていく。
全員がプリキュアであるがゆえに、悪意や犯罪に免疫のなかった世界。
OMENライター666を始めとするライダー達に、抵抗できる者はいなかった。
プリキュア達がドキドキする暇もなく、ライダーは、その身ぐるみをHUGか、心臓(ハート)を鋭い爪で鷲掴み(キャッチ)していった。
街に溢れるのは、血しぶき(スプラッシュ)と、ひめいと、殺人者(キラ)。
魔法つかいの救世主(イエス)はどこにも見当たらず、圧倒的な突撃(チャージ)に世界はコウフク寸前だった。
それは、平和な日々しか知らない世界にとって、最大限(マックス)にハート〝な状況だっただろう。
あまりの惨状を目の当たりにして、ホカノとサナギは、気を失う。
彼女達にとっては、ライダーこそが「衝撃をもたらすもの(ショッカー)」だった。
2人は、気絶している間に、不思議な夢を見る。
夢の中で、ホカノとサナギは、全人類が仮面ライダーである並行世界の住人だった。
仮面ライダーが増殖しすぎた世界から、新天地を求めて並行世界へと送り込まれた尖兵。
それが、ホカノとサナギだった。
2人は、気がかりな夢から目ざめたとき、自分達が2匹の巨大な毒虫に変わってしまっているのに気付いた。
あの夢が見せたのは、真実だったのだ。
2人は羽化し、あれほど焦がれた「変身」をしていた。
その姿は、決してプリティではなく、キュアからもかけ離れていたが、この世界で2人だけが、悲しみと絶望を知っていた。
ライダーに対抗できるのは、
世界広し、
といえども、彼女達だけだった。
2人は、優しかったプリキュア達に報いるため、「大きなお友達」として戦った。
EXILEだ。
EXILE達は、全人類がEXILEグループになった並行世界から、重戦機に乗ってEXILEしてきたのだ。
彼らの掲げるスローガンは、LOVE、DREAM、HAPPINESS。
EXILEのタイミングずらして回るやつに巻き込まれ、倒れていくプリキュアとライダー達。
そのエグい行為は、万死(die)に値したが、プリキュア達に、なすすべはなかった。
ランニングマンに仲間達が次々とちぎられ、ライダー側の大将は、もはや裸同然だった。
プリキュア世界の崩壊かと思われた瞬間、世界に現れたのは、栗まんじゅうだった。
栗まんじゅうは、停戦を呼びかけるとともに、これまでの全てを語り始めた。
あんな夢も、こんな夢も、全ての夢(All I Want)を叶えてくれるロボットだ。
彼らは、栗まんじゅうを、倍々に増殖させ始めた。
そして、増殖を続ける栗まんじゅうの扱いに窮し、これらを宇宙に投棄したのだ。
栗まんじゅうは、増殖を続け、やがて、互いに引き寄せ合って結合し、星を形成する。
栗まんじゅう製にして、
栗まんじゅう性を持つ、
この星を遠くから観測する者がいたならば、きっと、虚空に1つの巨大な栗まんじゅうが浮かんでいるように見えただろう。
さらに、栗まんじゅうは増殖を続け、やがて、シュヴァルツシルト半径が星の半径を凌駕し、ブラックホールが形成される。
ブラックホールは、増殖を続け、自らの存在する世界を満たすと、他の並行世界へと進出して、あらゆるものを吸収していった。
Vtuberを。
コンビニを。
赤字国債を。
ワカメを。
あらゆる存在は、事象の地平面のかなたへと消えていき、漆黒の棺へと埋葬された。
ある因果律の狂った並行世界では、スマブラザ参戦者であるカービィを吸収した。
「それゆえに」、吸収した対象の能力をコピーできるようになった。
ブラックホールのヘヴィーな力は、知恵の実もろとも彼らを吸収した。
(ホカノとサナギは、知恵の実の話を聞くと、なぜか本能的な恐怖を感じた。)
それ以来、栗まんじゅうは、知性を獲得した。
このまま続けていれば、並行世界全体を包含する多次元宇宙が崩壊してしまうからだ。
こうして、栗まんじゅうは、プリキュアやEXILEの元にやってきた。
栗まんじゅうは、多次元宇宙の崩壊を防ぐ手段として、Vtuberを吸収して得た、バ美肉の能力を用いた。
そうして出来た新しい世界では、1人1人の人間が、それぞれ内に秘めた並行世界(コスモ)を持っているのだ。
人々の歴史と記憶は改ざんされ、各グループの増殖スピードは抑制された。
記憶が消されたとはいえ、人々は、潜在的な記憶から影響を受ける。
複数存在したプリキュア世界から生成された人々は、プリキュアのアニメの作り手や重度のオタクになった。
人々の深層心理に強く刻まれたホカノとサナギは、初代主人公のモデルになる。
栗まんじゅうはというと、あらゆる能力を手放して、1人の人間になることにした。
栗まんじゅうは、気付きつつあった。
知覚はできなくても、どこかにきっと他の多次元宇宙があることに。
どんなにコントロールしようとしても、人々の愛と欲望がある限り、また、何かが増殖し続けてしまうだろうことに。
この多次元宇宙もやがて何か一色になり、他の多次元宇宙と争いになるだろう。
その結果、運が良ければ、各多次元宇宙は、1人1人の人間に生まれ変わるだろう。
きっと、こうして歴史がくり返されてきたのだ。
究極にして思考できる栗まんじゅうは、1人の人間、栗子になったのである。
今度は、美味しいものが食べられると良いな、と思いながら。
それなのに、なぜかホカノとサナギだけは、プリキュアになれなかった。
それでも、周囲のプリキュア達は、優しく接してくれた。
ホカノとサナギは、そんなみんなに恩返しをしようと、非力ながらも周囲の人々の悩み事を解決していく。
そんなささやかな日常は、仮面をつけた者らが世界に現れることで壊される。
仮面ライダーを名乗る彼らは、次々とプリキュア達を襲っていく。
全員がプリキュアであるがゆえに、悪意や犯罪に免疫のなかったプリキュア達。
社会は、大混乱に陥ることになった。
ホカノとサナギは、全人類が仮面ライダーである並行世界の住人だったのだ。
仮面ライダーが増殖しすぎた世界から、新天地を求めて並行世界へと送り込まれた尖兵。
それが、ホカノとサナギだった。
ホカノとサナギは、優しくしてくれたプリキュア達を守るため、仮面ライダーへと変身し、並行世界からの侵略者に立ち向かう。
ホカノとサナギの懸命な仲介によって、仮面ライダー世界とプリキュア世界は、和解することができた。
EXILEだ。
EXILE達は、全人類がEXILEグループになった並行世界からEXILEしてきたのだ。
EXILEのタイミングずらして回るやつに巻き込まれ、倒れていくプリキュアとライダー達。
プリキュア世界の崩壊かと思われた瞬間、世界に現れたのは、栗まんじゅうだった。
あらゆる並行世界の中でも最速の増殖スピードを誇る栗まんじゅう。
栗まんじゅうは、ブラックホールを形成しながらも増殖・吸収を続け、他の並行世界へと進出していったのだった。
やがて、ある並行世界で知恵の実を吸収した栗まんじゅうは、知性を獲得し、無軌道な増殖・吸収をやめた。
それぞれの並行世界でプリキュアやらEXILEやらが増殖し、他の並行世界に進出していってしまっては、並行世界を包含する世界そのものが崩壊してしまいかねない。
そこで、栗まんじゅうは、各陣営と交渉をし、ある取り決めを作った。
各陣営は一つの世界に共存し、ごく緩やかなスピードでのみ増殖することにしたのだ。
人類の記憶と歴史は改変され、圧倒的大多数の人間は、プリキュアでも、仮面ライダーでも、EXILEでも、AKBでもない、ただの凡人となった。
ホカノとサナギはというと、和平交渉への貢献を認められ、改変後の初代プリキュアとなった。
あれほど焦がれたプリキュアになった彼女達が幸せだったのかどうか、それは、彼女達しか知らない。
栗まんじゅう自身は、世界の神として、各グループの増殖スピードを監視することにした。
マジレスすると「歯磨き粉を歯磨きっていう人」は提喩というレトリックを使っています。
お母さんがゲーム(という集合)のことを何でもファミコン(という要素)で呼ぶあれです。
今回問題にされている表現では、歯磨き粉という下位概念が歯磨きという上位概念で喩えられているわけです。
あなたが歯ブラシと歯磨き粉を主役と暗喩したように、我々の言語空間はレトリックによってかなりの部分が成り立っております。
ひとまず「なんで粉を歯磨きって言うの」という問に対しては「『歯磨き粉を歯磨きっていう人』が『粉を歯磨き』と表現する提喩を妥当だと思っているから、あるいはこのレトリックで十分意図が通じると思っているから」ということになるかと思います。
当方30代前半の男。最近周りのプレッシャーに負けて半年くらい前から婚活的な事をしているのだが、どうもしっくり来る相手と出会えない。少々語弊のある表現になるが、「知的レベルが低くて話が合わない」 とでも言おうか。例を挙げると、ワールドカップの話題で、コロンビアが南米にある事を知らなかったりとか些細な事ではあるのだが、絶妙に話題の「深さ」が合わないのだ。
さて、少し自慢になるが私は婚活をする上ではそこそこ条件が良いと思われる。地方の進学校から中堅国立を経て、一部上場企業に勤務して10年ほどになる。身長は175cmあり、フルマラソンを完走できる程度に体も鍛えている。女性とお付き合いした経験もちゃんとある(2人)し、タバコも吸わない。もちろん借金は無い。
そんなわけで、どうして普通に話のレベルの合う頭の良い子と出会えないのかとなんとも言えないモヤモヤを感じていたのだが、気づいてしまった。ある条件がものすごく高望みになっている事に。その条件とは私が一番重視していた頭の良さだ。
今思えば私が20代半ばまでに出会った女の子、地元や大学の同級生だったり、会社の同僚のツテで知り合った子の学力は大学で言えばだいたいMARCH/地方国立クラスだった。そしてこのレベルの子たちとは普通に話が弾んでいた。少し気になって、このクラスの学力の子が男女比半々のクラスでどの位の割合になるのか、玉石混合の田舎の公立中学を例にして大雑把な推計になるが考えてみた。
まず、大学受験の学力が正規分布になっていると仮定する。MARCH/地方国立と言えば偏差値55くらいのイメージ。ざっくり上位30%くらい。上から6番目くらいに頭の良い子に相当だ。まあそこまで高望みでは無いかな。
ふと気付いた。大学の偏差値はあくまで予備校の模試を受けている生徒が母集団になる。ということは…アラサーくらいの日本の1学年の人口を100万人として、比較対象を受験者の一番多い進研模試(40万人)とする。この世代の4年生大学進学率をざっくり50%として、模試は基本的に大学進学予定者しか受けないこと、全員が毎回受けないことを考えれば進研模試の受験者はほぼ学力上位50%を包含している推定できる。と言うことは、進研模試で偏差値55(上位30%)は母集団を変えると偏差値60相当(上位15%)、そして、進研模試のMARCHの偏差値は…まさかの65越え。あれ、記憶の中にあるMARCHの偏差値と違う。受けてた模試が違うのか。この値で公立中学校換算するとクラスで一番頭が良い子よりもレアになるぞ……
なんと言う事だ。なんということだ。容姿で例えるとクラスで一番かわいいレベルの子を狙うのが高望みだというのは容易にわかる。しかし、MARCH/地方国立クラスの学力がある子を狙うのはそこまで高望みでは無いと思っていた。が、大雑把な推計で見積もった結果思い知らされたのだが、頭の良い子を求めるのはそれ以上に高望みだったのだ。なんということだ。どうりで婚活で頭の良い子に出会わないわけだ。
残酷な事実を知った今は、頭の良い子に囲まれていた20代半ばまでを思い出して絶望に打ちひしがれている。なんということだ!なんということなのだ!
なんか途中で寝てました。本当にしんどいのでもうどうにかしてほしいです。つらいつらいつらい。もう駄目です。どうにかなってしまいそうです。嘘です。そんなどうしようもない苦しみはありません。どうしたらいいのかわからない、いえ、もうこれ以上身動きできないというつらさがあります。もうどうしようもありません。それは錯覚です。どうにでもしようはあるのです。よくわかりませんけれど、きっと普通に手はあるんです。つまりさっさと就職すればいいわけです。それだけで今の不安感は解消されます。売り手市場、年齢などを考慮して、今がチャンスなわけです。それを考慮して動くわけですがもうどうしようもないと、やはりそう思うのです。もうつらいです。何もしたくありません。しかし何もしないというのを選ぶのは30歳を超えてからでも遅くありません。せめて20代のうちはがんばってください。まだ客観的に、社会情勢的に見て十分やり直しがきく時期ならがんばりましょう。もうどうにもならなくなったら引きこもりましょう。それも僕はつらいと感じるでしょう。もうどうにもなりません。つらいつらい、という気持ちがつよいです。スーパーに行く途中でも辛い気持ちがむくむくと湧いていました。僕はこんな田舎で終わってしまうのかと不安になる気持ちがありました。別に社会的なあれこれなんて僕はどうでもいいと思っていますし、田舎に住んでいることを誇りに思ってすらいる節まであるのですが、スーパーに行くときだけそんな風に感じてしまうというのはよくわかりません。定期的に都会と田舎を往復するような生活ができたらいいのにと思っています。つらいですね。もう何もできないですよね。つらいつらい。つらいままです。結局は自分でがんばるしかないのです。もうだめです。がんばるしかないのです。世界は自分で引き受けねばならないのです。ある意味では僕は今この瞬間にも世界を受け入れてはいるのです。この何もせずに無為に生きている時間に焦燥感を覚えているわけですが、何もせずに無為に生きてきた結果としての未成熟、経済苦、労働スキルのなさ、社会性の欠如、焦燥感や不安感、すべてを僕が引き受けるしかないからです。これは僕以外の誰にも引き受けることができないものです。当たり前の話ですけど。このつらさをそのままにぶつけていいんだと思います。今そう感じている、原因がどうあれつらいという気持ちを切実に感じているならばありのままにぶつけるしかないのです。はー。定期的にやってくるこのつらさをどうにかせねばなりません。プログラマ怖いですけど、何とかなるとは思えないですし、つらい仕事なんてしたくないですけど、それでもみなさんわりとそれなりにやっているようですので、まあ何とかなるんではないでしょうか。心がつらいですね。もうどうしようもありませんね。はやく楽になりたい。いえ違いますね。過去に戻りたいですね。安穏で安全で何も憂いがない状態でこの世界を満喫したいのでしょう。これが本音です。しかし僕がさっき憂いと呼んだものの実態をも包含しているからこそこの世界は豊穣であるわけで、それらから自分だけ逃れようとするのはよくありません。つらいですね。もうどうしようもないですね。いえどうしようもないっていったらウソになるというかいくらでもやりようはあるんでしょうが、それをする勇気がありません。気力がありません。病院に行ったら何とかなるのかもしれませんが健康保険がありません。だいたい何を話したらいいのかわかりません。カウンセリングとか言っても、何を話したらいいかわかりません。まさかこれをプリントアウトして持って行くわけにもいかないでしょう。こうやって書いてもまともな文章になんてなったりしませんし、そもそもまともな文章を書いてやろうという気すらないんですけれども、でもなんかこれを誰かに見られることを想定はしているんですよね。それは文章のクオリティではなく僕という人の社会的立場から参照される性質を誤魔化すために浸かっているみたいな感じです。意味わかんねえですね。もうこうやって延々とわけのわからん、読んでも仕方がないような文章書いてればいいんじゃないでしょうか。それができたら幸せでしょうか。別に幸せじゃないですね。どうでもいい思考をシャットアウトするとめっちゃ脳がクリアになるよーってふろむだ先生が言ってましたがこれはあれですね、すごいどうでもいい思考ですね。これをシャットアウトしてもっと生産的なことに活かせば僕はもっといい方向にいけるんではないでしょうか。でもこのだるい感じがある以上僕は頑張れないですね。高校のときは体は十全でしたがやる気はなかったですよね。ぜんぜんダメですよ。ネットでよいアドバイスがもらえるかもしれませんが、今の僕には彼らの容赦ないレスに耐えることができません。弱っているところに匿名インターネットはきついです。今ぼくはすごい弱っています。助けを求めるのはネットではなく身近な信頼できる人です。あと医者です。しかし僕には身近に信頼できる人とかいませんし健康保険ないですし医者で何を話したらいいのかわかりません。作業も進んでいません。時間は待ってくれません。言い換えれば時間は平等ということです。なんということでしょう。こんなものを書いている暇があったら脳内妄想彼女を書いてればよかったのです。それを小説として書いていればいいのです。なにもきっちりした小説の形にしなくてもいいです。今やってるようにすごい適当な感じで書きなぐってやればいいのです。しかし僕には致命的な欠点がありまして、台詞を考えるのが苦手だということです。会話ができないのです。脳内会話すらできないのです。僕ができるのはひたすらに独り言です。何かの刺激を受けてそれに対して返事をするということが苦手です。今やってるのを見ればわかりますが、自分のうちから湧き上がってくる何かを拾い上げるというのはまあできるんですが。だったら何か刺激を受けて何か湧き上がってきたものを書けばいいじゃんという話です。もしかするとここにブロックがあるのかもしれません。つまり自分が思いつくようなことは大したことのないものだ、というブロック。あるいはこれの方が大きいかもしれませんが、どういう感想だったら〇がもらえるか、というのを優先して考えている回路の存在です。これのせいで自分が純粋に思ったことを拾い上げるのが難しくなっているのではないでしょうか。まずはすべてをとっぱらって素直な気持ちを救い上げるのです。ってそれは今やってることですね。そのための練習でもあるわけですね。後いい加減僕は誰かに見せるための文章の書き方というのを練習しておくべきです。読書感想文とかね。日記とかなんでもないですし。文章書くのがそもそも好きじゃなかった自分に今無理やり文章を書くという存在のありかたをインストールしようとしている段階ではないかと思います。20過ぎてからですよやってるの。さすがに遅きに失したという感じです。来世でがんばってください。もうだめですね。何もできません。早くどうにかなってほしいです。もうだめです。疲れました。早く楽にしてください。小説書けるようになりたいな。素敵な世界をこの手で無限に紡ぎだせるようになりたいな。無意識プログラミングすればできるよ。どうやったらできるんだよ。母親を見ろ。何かできているように思うのか。わかんねえ。聞いたらいいんじゃないか。家庭はぐちゃぐちゃだけどな。何を求めているんだ。自分の幸せしか僕は求めてねえもんな。でも仕方ないじゃないか。自分が不幸せなのにどうして他人の幸福を祈れるってんだ。それができる人は聖人か馬鹿のどちらかだ。みたいなうんちみたいなラノベみたいなことを言うつもりはないです。こういうレトリックは不純物というか回答、真実に迫るには有害ですらあります。僕が他人の幸福を祈れないのはそもそも他人に興味がないからでしょう。自分だけがよければいいのです。そしてそれがデフォになっています。他人のこととか考えたことがないのです。自分さえよければよいのです。そしてそのことのまずさを頭ではわかっていても体ではわかっていないのです。腹に落ちていないのです。そのくせ自分は他人から何かをしてもらって当然と思っています。何という汚物。醜悪ですね。そしてそれが本当に汚物であり醜悪であることが本当にはわかっていないのです。なんだかタブレットが熱くなってきました。正確にはタブレットじゃなくて2in1なんですけど。熱はパソコンにとってよろしくないのでちょっと休ませてあげた方がよいかもしれません。本でも読みますかね。目隠しを取ったらいっきに明るくなりました。どうだ明るくなっただろう。めっちゃ明るくなりました。すげえ。別にすごくはないです。しかしこの時間帯になっても昼みたいに明るいというのはなかなかです。フロントガラスの銀シートを外したらもっと明るくなるでしょう。それにしてもおなか一杯です。小食がいいらしいですがどうしても食べてしまいます。ファミレスに行けばよかったんじゃないですかね。でも行くのに罪悪感があります。どうせ他に人いないんだしいいじゃないですか。駄目なんですかね。なんだか申し訳ない気持ちがどうしてもありますし。長居するのやっぱりよくないですよね。でもどうしてもやりたいんです。疲れました。父親について行くだけならすごく楽だったのに。つらいですね。面倒ですね。もう僕は本当に疲れました。疲れ切っています。もう何もしたくありません。でも世界は放っておいてはくれません。僕は本当に疲れ切っています。ぐったりしています。しんどいです。何もしたくありません。だるさが取れません。いい加減にしてほしいです。これは何とかならないんですか。これが諸悪の根源なのです。これをどうにかしないことにはどうにもならないのです。早い所なんとかしてしまわなければ人生が台無しになってしまいます。もうけっこう壊れてますけど、底が抜けてしまいます。早くなんとかしなくちゃいけません。そしてIT技術をフォローしていかねばなりません。それが未来を生きる道です。もうどうしようもありません。早く死にたいです。早く殺してください。助けてください。僕に安穏をください。安逸の中で生きていたいです。しんどいです。つらいです。体が重たいです。誰か助けてください。もうどうにかなってしまいそうです。助けてください。つらいです。しんどいです。体が重いです。このままでは何もできません。しんどいですよ。もうどうにでもなってしまいます。うんちという感じです心がうんちですね。正しく排泄物です。トイレットペーパーが必要です。ガソリン高くて死にそうです。二年前なら110円台とかだったじゃないですか。何でこんなに高いんですか。ふざけてるんですか。いや別にふざけてはいないでしょうけど。それにそんなにしょっちゅう乗るわけでもないですし長距離運転をするわけでもないですし貯金は十分あるのでまあそんなに気にする必要はないんですけどね。心理的な問題です。140ウン円という値段を見てうへえーとなるわけです。もう勘弁してくれという感じです。僕がいったい何をしたんだという話です。何もしなかったからこんなことになっているんだといういんたーねっと小話があります。ランタンは明るいです。お茶のペットボトルは転がっています。これ何日前からあるんでしょうか。たぶん2か月くらい前からあります。すごいですね。時を駆けていますね。別に時を駆けてはいないでしょう。この車がデロリアンとかだったら別ですが。カエルの装飾をすればケロリアンですよ。パクりですね。パクりはよくありません。インスピレーションを受けるのはよいです。所詮すべてパクりです。足がだるくなってきました。パーカーで雨を拭いていますがそろそろ洗濯したほうがいいかもしれません。けっこう長いこと放置していましたし。しかし車のあっつい中に放置していたのであればどうなるんでしょうか。細菌とかにとっては案外これが快適な温度だったりするんでしょうか。今ネット使えないから調べられねえですけど。いえ使おうと思えば使えるんですよね。テザリングすりゃいいだけの話です。僕ずっとこれデザリングって読んでました。
いきなり学歴に言及されたのでつい学歴の話をしてしまったが、これはミス。失礼。
本来着目すべきは「男だけに年収のフィルタがあること」であった。
婚活において男「だけ」に年収のフィルタがあることを無視するな。
草食化という概念は単に行動の積極性だけでなく、晩婚化・非婚化も包含するので、「恋愛・結婚しようにもできない」という状況も広範に示す。
婚活という場において男「だけ」に年収のハードルが課されていることは、男>女の賃金格差がなくては婚活に参加できないということだ。
男の年収が女の年収よりも高いことが求められる状況において、男女の賃金を統一することは、女にとって結婚できるパイが減ることを意味する。
自分の考えを発表することには慣れているが、このような匿名の場で発言することが少く、もしかすると思慮分別に掛けた失言があるかもしれないが、そこはどうかご寛恕いただきたい。
一サラリーマンでしかない自分が、差別だの階級だのという深刻な問題について色々熟思することになった発端は、近頃流行りの、フェミニストや助勢権利問題に関して盛んに議論しているような場面をネットでしょっちゅう見掛けたことである。ここで敢て話しておくが、私の身の回りではフェミニストがどうこう、男がどうこう、女がどうこうという大局的な視点の議論はあまり行われていない。一体どこのどういう層が、どういう考えからこうした議論をしているのだろうという好奇から眺めるうちに、自然と自分がこうした差別について考えるようになったのである。
極端な話、こういうものは不特定多数に向けて発信されるのだから、その不特定多数の中で刺激を受けた人間がまた不特定多数に情報を発信し、こういう聯関が幾度となく続いて奇妙な合戦が始まるというのが実情である。何百人もの眼に触れれば、一人くらい「お前が言えたことじゃない。俺はこういう差別を……」と言って反撃してくるものも居るだろうし、それを見て「問題をすり替えているだけだ!」と批判してくる者も一人は出てくる。一人の意見が数百人に伝えられて色々な思想を掘り出すのはネットならではの現象。現実を見たら、まるでそんな議論起きてないじゃないか!と思っても何もおかしくはない。しかし、こういう前提を受けた疑心の強い私は「口に出していないだけで、こういう考えや不満を持っている層は一定数いるのでは?」と勘繰って、更に色々のことを調べた。あくまでもフェミニズムや女性差別、セクハラ問題、Metoo運動などについてだが、本当に多様な議論があるものだと内心驚いた。少年漫画をジェンダー論の視点から語るもの、男性差別と女権拡張論を一緒くたにして語るもの、ポリコレ棒をひたすら恐れるあまりありとあらゆる人権を憎悪し、また差別されることに怒りを覚えた人間たちが、そういう特定層が属している集団全体の問題へと広げて争うこと………。
大概の議論には少なからずこうした不毛な要素が孕まれているが、ネットは憎悪の導火線に火をつけてあちこち爆発させるのに非常に適した性質を持っている。文字数制限があるSNSもまた、そういう性質を持っている。ほんの微妙な解釈の違いが、やがて不毛な言葉遊びに繋がり、いつの間にやら人種差別、性差別の話題に敷衍されている。そうした事例をいくつも見る度に一番疑問に思うのが、「何故これほどまでに単語が錯綜しているのだろうか」ということである。
情報過多のこのご時世は、少しでも少ない語数、少しでも簡潔な言い回しで知的に物を表すのが良いとされている。微妙に差異がある言葉を言い尽くして、詳細に伝えるなどは馬鹿のすることと切り捨てられる。そのために、一つないし二つの意味合いしか持たない言葉や、本来いくつかの分岐がある言葉が下位互換の概念を包括することで、とことん省略しようと試みている。こうした考えを持っているのはおそらく私だけではない。著名な人物で言えば、かの三島由紀夫もこうした問題に警鐘を唱えている。
民主主義という言葉は、いまや代議制議会制度そのものから共産主義革命までのすべてを包含している。平和とは時には革命のことであり、自由とは時には反動政治のことである。長崎カステーラの本舗がいくつもあるようなもので、これでは民衆の頭は混乱する。
自分で言うのもなんだが、私は古い人間だ。未だに家父長制度があり、男女間は厳密には不干渉であるべきで、それを易易と超えるような浅はかな行為は慎むべきだという考えを持ち、性犯罪で女性側がだらしのない格好をすれば「何故襲われるだろうと予測できないのか」と疑問に持つような人間だ。そうした考えは、先進的な思想家や活動家からとにかく攻撃され、時代遅れと呼ばれて封殺される。それでも、フェミニストの中には色々な考えがあり、ラディカル、リベラル、いずれの思想は言葉の上では微妙に、根本では大きく異なっている思想にもかかわらず、リベラルがラディカルに、ラディカルがリベラルに、なんとも不思議な混濁が起きる。こういう事を近頃は主語が大きいと言うと仄聞したが、単なる無知ではなく露骨な印象操作のためにこの事態が起きるのはあまりに不毛である。喫緊の問題は、こうした語義の混乱が争いを招く事態を避けることだが、それを実現するのはとても難しい。
まずは、差別と区別の違いは合理性の有無、もしくは合理性の包含量にあるという仮の出発点から話を始めたい。
アメリカで黒人が公然と差別されていた頃、差別をしていた白人はそれを差別だと思っていたのだろうか。
あるいは江戸時代、えた・ひにんへの迫害や、癩病患者への扱いは、支配層にとってば全く合理的な区別だと捉えられていたのである。
ここで鑑みるべきは、人の合理性認識は時代や場所によって劇的に変化しうるということであり、先述の例はその証左に他ならない。
さて、問おう。
区別はするとしたら、それはなぜ「実は差別」ではないと言い切れるのだろうか?
あるいは、自分が合理性を感じられるものは区別で、そうでないものは差別なのだろうか?
それならば、あなたのその主観の正当性はどのように担保されるのだろうか?
それならば、その2つの違いはどんなもので、その違いによってなぜ差別は批難され区別は許容されるのだろうか?
もしそうなら、そしてあなたが何らかの人的区別をしているのなら、それはどのように正当化されているのだろうか?
山月記に出てくる李徴氏のように、理由も分からないまま、ただ「差別はダメ。でも区別はあり」という世界に生きている。
諸兄の忌憚なき意見を聞きたい。
日本すごいじゃなくて選手すごいとかの論争だがマウント取り合ってるやつら全員まとめてバカじゃねーの?
日本すごいには狭義の国家だけではなく、選手個人とかナショナルチームとかメディアとか見てるだけのやつとか全部包含して日本すごいなの
五輪自体の成り立ちや文脈からすると日の丸ブンブン振ってニッポンニッポン騒ぐことすら健全なのだが
それをヨコに置いといても本大会は明らかに日本の総合力がレベルアップしてる
期待と報道が過熱したあとにはメダルラインを超えられずに失速するのが常だった
ジャパンマネーで物理で殴った?20年前の方が全然カネはあったよ
メディアとネットのヒステリーに苛め殺された韓国のパシュート選手の空っぽの目をみたか
スターシステムに祭り上げられた千葉すずは生放送で「メダルキチ●イ」と言い放った
「最後は楽しんでやります」と言いながらおっさんの宴会芸のようなアフロをかぶって登場した
ネットもない時代だった。痛々しさに寄り添うコメントも共感も届かなかったことだろう
本大会の選手のインタビューをみると隔世の感がある。10代半ばにしてこの完成度
そつがなくでつまらんとかもっと破天荒でいいとか思ってるじじいはバカだな
トップアスリートには知性も社会性も求められることを彼らが証明している
4位と3位の厚い壁を超えてくるのもメンタルの重要性をわかっているからだ
先達の経験に学び、失敗を論理的に分析し、根性論を科学でねじ伏せてきた結果だろう
少し前まで風物詩のようだった協会や上層部の内紛が見えないのも良かった
ディレクターの指示に対して機転をきかせて選手のプライドを優先する局アナもいた
全部見ているわけではないがワイドショーにしても過剰な物語演出が今回少なめでいい感じだ