はてなキーワード: 劇団とは
俺はスポーツ苦手だしスポーツがらみで嫌な記憶しかないから支離滅裂な意見になると思うんだけど、
これが音楽の舞台だったら曲が成果物だし、劇団の舞台だった芝居が成果物であり、観客はその成果物に感動するわけじゃない?
で感動するためにはそれに対する素養が、大なり小なり必要になってくる。
客は勝手に「感動した!」とか言ってるけど選手からすれば客が感動するなんてことは副次的なものであり本質ではないはず。
(もし、選手が、リップサービスではなく本気で「自分のプレーで見ている人を勇気づけたい」と思っているなら厚かましいと思う)
名誉毀損では?
Bingのほうが優秀なのがよくわかるね!
Bingのほうが優秀なのがよくわかるね!
私は宝塚が大好きだ。
美しい人達が全力で作り上げたあの美しい世界が大好きで、贔屓が退団しても、やはり結局は戻ってきてしまう。
好きが高じて、CSで宝塚を放送し続ける、月額3000円ほどするチャンネルにも加入している。
しかし、最近気になることがある。Instagramのおすすめ欄に、そのチャンネルの違法アップロードがたくさん上がってくる。
1日前に放送されたものが既に上がっているし、おそらく探せば全編見られるのでは?というレベル。
契約している側から見れば、とても腹が立つし、なぜ契約していない人が違法アップロードのおこぼれにあずかって契約している人しか見られないはずの作品をタダで見ることができるのか、と苛立ってしまう。
このチャンネル、タカラヅカスカイステージを契約していない人は、スカステ難民というらしい。
スカステ難民のごく1部ではあるが、これをアップロードしてください!だとか自分の加工した画像の転載には怒るのに動画の違法アップロードは有難がったりだとか、そういう迷惑なことをする人もいる。
このチャンネルの月額も決して安い訳では無いし、契約できないのには色々な理由があると思う。
アップしている人は尚更。私にはよく分からないけれど、Instagramに違法アップロードをすることで収益が入るわけでもなさそうだし、なぜ自分がお金を払って見ているものをタダで分け与えてしまうのかがよく分からない。
そもそもそういう人は、1つの番組を作るのにどれだけの人がどれだけの労力を費やしているのか分かっていないような気がする。
私が契約している側だから思うことだけれど、タダでこれだけ見れるなら、なぜ自分が契約しているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
これがPRになる!だとか言っている人もいるけれど、PRなら劇団側がすればいいこと。ファンがわざわざ違法アップロードしてまでするべきことなのか?と思ってしまう。
第一、違法アップロードに頼る人が増えて、契約者が減ってしまうなんてことがあれば、このサービスは無くなってしまうかもしれない。
そんなことは避けたいし、違法アップロードしている人も悪意がある訳では無いということは分かっている。(悪意の有無に関わらずしていいことではないが)
だから違法アップロードをしている人には、これをすることで自分の大好きな劇団や演者にはデメリットしかないのだ、ということを知って欲しい。
そしてマナーが良い、と言われる宝塚ファンが率先してこのような事態を無くしていくことで著作権をきちんと守る社会が作り上げられる、ということも十分に考えられるのではないか、と私は思う。
http://papapico.hatenablog.com/entry/2018/12/06/125644
このぱぴこさんの記事をはじめとする相席スタート山崎ケイの「ちょうどいいブス」論批判を読んで。
私は批判してる人たちみたいに賢くもタフでも正しくもないのでまとまりないですけど。
「そんなことないよー!」待ちとかじゃなくてさ。
美醜ってそこそこ歴史の積み重ねられてきた強度のある価値観で、資生堂あたりが「美人バランス」に基づいたメーキャップ提案なんかする程度には明確な基準があるわけでしょ?
そこに照らし合わせたら、明確に私は美しくないし、ブスなんですよ。客観的な事実として。
30年くらい生きてたらそれはもう揺るぎない事実として理解しますよ。
そこで事実として「ブスなんでね」って話をしてるのに、アリアナグランデに「そんなことない! あなたは可愛いわ!」とか言われたって、いやいや、今そういう話してねえから。
可愛いとかマインドの話じゃなくて物理的な、造形の話をしてるわけだから。
自分のことは好きですよ。でも自分最高!と「私はブスである」という自認は別に普通に両立するじゃないですか。
っていうとまた「自分に呪いをかけるな!」とか言い出す人が現れるんだろうけど。
呪いを解除せよ!って言いまくってる人たちが逆にスピった人とかカルトの人みたいで怖い。押し付けがましい。
ささやかだけど住み慣れた我が家のリビングで寛いでたら知らない人がいきなり「この家は呪われてますよ!!」って上がり込んできた感じ。いや、そういうの興味ないんで…
とか言っても「あなたはまだ洗脳されてるだけ!私も目覚めるまではそうだったの!」みたいな反応されるだけなんだろうな…そういう話の通じない感じまで含めて本当にもううんざり。
つか、「逃げ恥」ってそんな絶賛されるほどの作品か?? 面白かったけどさぁ。
そもそも星野源こそを「ちょうどいいブス」としてサブカル女の皆さんは慰み者として消費してきたわけですよね?
「イケメンすぎるのは無理」「程よくクズの香りがするところがいい」とか言ってさ。
たまたま星野源は音楽の才能もあったけど完全に俳優仕事から人気先行してる以上そこは否定させませんよ。
メイクしたりオシャレしたり自分を肯定するのは楽しい、気分がいい、それはわかるけど「美容によって救われた、自分を肯定できた」「わんわん泣いた」とか言い出してるのもう自己啓発サークルの告白タイムみたいで引く。
そこまで入れ込むか?みたいな、もっと気楽にメイクしておめかしして楽しい、くらいのノリじゃダメなんですか?
モテ至上主義に反対するあまりにモテ意識する人を叩きはじめてるし。
たぶんぱぴこさんはじめ、この「ちょうもいいブス」に怒ってる人って、山崎ケイよりかは「ブスじゃない」んだと思うし、自意識も「いうても私は顔立ち自体は悪くないし、まあ美人寄りだし…」くらいの感じなんだと思うんですよ。
それなのに自分にも「ブス扱い」の火の粉が飛んでくるんじゃないかと思って怒ってるんだと思うんですよ。
でもそれはあなたをブス扱いした人に都度怒ればいい話じゃないすか。
ブスがブスと自認してることにまで怒らないでほしいんですよね…
当時は子供だったから知らないけど、酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」が叩きワードとして使われるようになり、当事者から忌み嫌われたときの流れってこういう感じだったのかなって思う。
ていうか、ぱぴこさんめちゃくちゃパワーカップル側の人間じゃないですか?
高学歴で首都圏で暮らして外資系でバリバリ働いて良きパートナーもいて、そりゃあ自己肯定感もバリバリだし、古臭い日本のお笑い的価値観とかルッキズムとか自虐ブスとかにNo!突きつけられますよ。
でも相席スタートとか「ちょうどいいブス」概念ってそういう層の人向けじゃないからさ、最初っから。
なんでここでは「Not for me」発動されないの??
まぁそういう「古臭いクズの世界」の理屈が通じない書籍出版とかした山崎ケイが浅はかだったって言われたらそうなんだろうけど。
自分の力でそっち側になれなかった人間に対しては「うるせえ!自分の頭で考えてサバイブしろ!」って言い出すんでしょ?
あげく山崎ケイなりにサバイブした形なのにそれすらダメ出しされるって、もうどうすりゃいいんですか。
それこそ「どう転んでも地獄」じゃないですか。
強く正しく賢く誇らしく自分をエンパワメントし続けないといけないの、しんどい。
醜く頭も悪いキモくて金のないオバさんは辛い。
ていうかこの空気にこそ、
「政治的に正しい私たちがこの愚かで無知なブスを啓蒙してやるッ!」
「名誉男性になりたがる、古臭い価値観の馬鹿のくせに生意気にも持論を語り始めたブスを矯正してやる!!」
みたいなノリを感じて、ブス、恐怖ですわ。
前からなんとなく気にはなっていて、先日、浅草ロック座に行ってみたのである。
場所は浅草演芸ホールからちょっと行ったあたり。「浅草ブロードウエイ」なる名前がついていて、幅は広いが車は入らないようになっている。向かいはリッチモンドホテルの下層に「まるごとにっぽん」とかいう明らかにインバウンド狙いの商業施設がはいっていたり、案外こぎれいな場所だ。道路もふくめて近年だいぶ整備されたんだろうという雰囲気。
ビルには大きく「ROCKZA」書いてあるがこれまたこぎれい。入り口にはファンから出演者に贈られたらしい花が飾ってあったり、出演者の顔写真が飾ってあったりするが、そんなにいかがわしい雰囲気はなく、階段を上ったところで昔ながらの映画館の窓口みたいなところでチケットを買うとすぐモギリのおっさんがいて「もうすぐ最終回はじまりますよ」と言われる。
公演は毎日午後1時から同じ演目を4回やっていて、料金は5000円(シニア、女性、学生、カップル割あり)、入れ替えなし。ただし、20:10以降に入場して4公演目だけみれば3500円。とりあえずこの割引時間帯にいったのである。
客層は推定45歳以上の小市民風なおっさんがメイン。競艇場ほど「怪しそうな人」は見当たらず、妙な酔っ払いとかもいない。普段はそれなりに真面目に仕事してそうな人も多い感じ。
サブカル好きっぽい女子二人組みとか、そこそこ若いあんちゃんとかもいないわけではない。
劇場内は、やや縦長の長方形で、ざっと120~130人くらいが座れる感じか。客席の両脇と最後部には寄りかかって立ち見するのにちょうどよさそうな手すりも完備している。
ほぼ満席だが、幸い空席をみつけて着席した。
舞台は真ん中から客席中央あたりまで花道が延びていて、花道の突端は丸い舞台になっている。
あそこで女性があんなポーズやこんなポーズをとるのだな、と思っているうちに開演。
場内に朗々と、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の主題歌(The hills are alive with sound of music~ ってやつ)が朗々と流れて、一応、ジュリー・アンドリュース演じるマリアを意識したんだろうな、という衣装(ただし、安っぽい)を着たお姉さんがバレエのようにくるくる回ったりしながら踊ってる。
曲が終わったので、いよいよ次は脱ぐのかと思ったら、子供役と思しきお姉さんも7人でてきて、「ドレミの歌」が始まった。
古い映画なので知らない人も多いと思うが、「ドレミの歌」というのは、厳格な軍人の家であるトラップ家に家庭教師にきたマリアが子供達に音楽をおしえる、というテイの歌なのである。ちゃんと振り付けも、子供達にドレミを教えるっぽいミュージカルっぽい感じになっている。一応、映画のオマージュ的なことなのだろう。
で、ドレミの歌が終わると、子供役のお姉さんの一人がネグリジェみたいなカッコに着替えていて、マリアに手を引かれて、花道突端の円形の舞台までつれてこられた。
BGMは、これも「サウンド・オブ・ミュージック」の曲なのかどうかは良くわからないが、なんか英語で「さあ、今夜もゆっくりお休み」みたいなことを子守唄風のメロディーで歌っている。
そうこうするうちに、マリアは子供を寝かしつけて舞台から引っ込んでしまった。
そして、この女の子が目覚めるテイで起き上がると、一枚一枚服を脱いでいくのである。
正直、ここまでの流れにいささか関心してしまった。いや、なんか、「ちゃんとつくってる」じゃん。
正直、踊りのレベルがどうとか、そういうことは素人なので良くわからん。
土屋太鳳がときおり「アタシ大学でダンスやってたんです」ってことでやってみせるモダンダンスよりはレベルが低そうに感じた。
脱ぎ始めたときのBGMは、なんか「ええ歌風のJ‐Popのバラード」みたいなのだった。詳しくないので、曲名わからないけど。
怪しげなトランペットやサックスの扇情的なメロディで「ちょっとだけよ、アンタも好きねえ」という雰囲気ではない。踊りもなんというか「エロじゃなくてアートです」という感じ。もちろんストリップだから、あんな格好したりこんな格好したり、足を大きく開いたりもするわけだが。
あと、以前タモリ倶楽部でやっていた、職人芸的なリボンも、本当にやっていた。
これは、ボランティアのファンが、絶妙なタイミングでリボンを投げる職人芸である。
本当に絶妙なタイミングで、観客やお姉さん方の邪魔にならない方向にリボンを投げ、するすると手元に巻き込む様は、ベテラン漁師の一本釣り漁をみているようですらある。
そんなわけで関心しきりのうちに一演目が終わると、会場内にド演歌が流れ始めて、歌舞伎の「道行」みたいな、和装の二人連れが出てきた。男性役は男装した女性。一応、なんか逃げるように駆け落ちした二人、みたいな設定、らしい。
なんだか、振り付けに「ロボットダンス」みたいな動きがはいって独特な・・・と思って気がついたのだが、そうか、これ、人形浄瑠璃のパロディなのか!?
・・・と、そんなこんなで、どの演目も結構「ちゃんと」つくっていた。
各演目とも前半はなにかしらのモチーフを基にしたダンスミュージカル風な踊りをやって、後半は脱ぐ、という展開。
「銀河鉄道の夜」のパロディの演目では、インカムつけたお姉さんが「そのよる、ボクはカンパネルラと」とか朗読はじめちゃうし、きゃりーぱみゅぱみゅの音楽にあわせて、おもちゃの兵隊が踊る、みたいなのがあったり。
尾崎の「アイラブユー」に合わせて、何だが不幸な恋愛をしてっぽい二人がじゃれあったり抱き合ったりしてる、という演出もあり。
脱ぐときのBGMはなぜかJ‐Popが多い。ゆず版の「見上げてごらん、夜の星を」とかミスチルとか、意外なほどに合ってたりする。これはJASRACと契約してるんだろうなあ。
休憩中に、幕をスクリーンにして「本日の演目紹介」が投影されていて、最初の演目はちゃんと「サウンドオブミュージック」だった。先ほど「アイラブユー」にあわせてやってたのは「ロミオとジュリエット」だったらしい。なるほど。
本日最後の演目は「チャップリンの独裁者」らしい。何をやるんだろうか・・・と思っていたら、これまたなんか真面目だった。
ステージにはミリタリーっぽい服をきたお姉さんが立った・・・と思ったら、どこからともなく演説が聞こえてきた。
これ、あれや、「独裁者」の最後で主人公が全世界に向かってやる演説。高校のときに英語の教科書に載ってた。自由の尊さを訴えた名文やで。
やがて、演説にかぶさるようにピアノが流れてきて、お姉さんが踊っている。
はじめは何かに束縛されてるような踊り方だったのが、どんどん激しくなっているのは、多分、スピーチのテーマにあわせて、支配からの自由を表現している・・・というのは、こっちの勝手な解釈だが、でも有名な振り付け師でも出てきて「そうなんですよ」といわれれば納得してしまいそうな気がする。
最後、自由への戦いに立ち上がったかのようにこぶしを突き上げたポーズで一旦とまり、そこから曲が変わって脱ぎだすわけだが、これもあれか、支配からの自由の行き着いた先は、「洋服」という束縛からも完全に自由になるということなのか。(深読みしすぎ)
なんというか、みなさん、「売れない劇団の看板女優」みたいな雰囲気。体のラインはさすがに、それなりに美しい。ただメイクばっちりで色とりどりの照明もきついので、正直年齢とかは良くわからん。
あと、これはどこまで書いて良いのかよくわからないのだが、服は全部脱ぐ。で、それなりに高々と足を上げたり、のけぞったり、いろんなポーズをとる。
ちょうどかぶりつきに結構若いお兄ちゃんがいたのが、まさにかぶりつくように見ていた。
ま、ああいうシチュエーションであんなふうに見るのって、なかなかないからなあ。
あれが現在の日本の刑法上、どういう扱いになるのかはよくわからないが、平然とやっているところをみると、「わいせつ」とは扱われてはいないのだろう。
その昔のストリップ劇場は、観客が舞台にあがって女性とあんなこんなことができちゃう「ナマ板ショー」やら、個室で二人きりになってあんなサービスを受けられる設備やらがあったり、そりゃもういろいろある風俗だったらしいが、今の浅草にそんな雰囲気はなく、観客もいたって真面目に鑑賞しているのであった。
ま、各演目の前半はとくに興味ない風な客も多そうだが。
にしてもあのネタは誰が考えているのだろう? 作家とか演出家とかいるのかな?
なんか「昔、寺山修二や唐十郎に憧れてたじいさん」とかが裏でいろいろ携わっていたりするのかもしれない。全般的にネタが古いし。
というわけで、3500円が高いとは思わなかったが、まあ、どうしてももう一度みたいというほどでもないかな。
まあ、興味の沸いた人は話の種に一度くらいみておいても損はしないと思う。
にしてもあれだ。演目とか興味深かったので思わず、軽くメモをとってしまって、だからこそこんな増田もかけているわけだが、ハタからみたら「超熱心なストリップファン」に見えてしまったかもしれないと思うと、ちと恥ずかしい。
ま、どうせ知らない人ばかりだし二度とあうこともない(多分)だろうから、いいんだけどさ。
高校の教員をしてる。管理職でない限り、全員が何かしらの部活動を受け持たないといけない。私は男子バレーボール部だ。
バレーボールは体育の授業くらいでしか触ったことがない。指導は、別に専門の先生がしてくださってる。だから私は見てるだけ。
でも、楽しい。
弱小だけど、みんな一生懸命で、中には練習をサボる子もいるけど、みんなバレーが大好きで……。
6時半に練習が終わっても、そのまま体育館に残ってボールを触っているから、私はそれをぼんやり眺めて、7時半になったら、まだ物足りなさそうな部員たちを追い出して、体育館を施錠するのが日課になっている。
自分のよく知らないものでも、誰かが夢中になって頑張っているところを見るのはとても楽しい。
と同時に、不思議でもある。
どうしてこんなに一生懸命になれるんだろう。
どうしてこんなに、こんなに…。
11月24日(土)
を観た。
好きな俳優さんのTwitterから、この公演のことを知って、劇団のHPであらすじを読んだ瞬間、絶対に観に行こうと決めた。
――――――――――――
<あらすじ>
そのコートで、失った熱量を懐かしんでいると先生に会ってしまいます。
促された松坂はシュートを打ちます。打って、それから、謝ります。
バスケット辞めてごめんなさい。
誰も知らないまま、辞めたのです。
ただ、バスケットを辞めたのです。
――――――――――――
何がそこまで私を惹き付けたのかわからない。
だから、観に行った。
客席に入って、まず目に入ったのは中央のバスケットゴール。そして床に描かれたバスケットコートライン。
フラットな舞台の両脇には階段があって、まるで体育館のギャラリーみたいだな、と思った。
下手側の階段の踊り場にはギターを抱えた人がいた。「間もなく開演です」のアナウンスのバックで、静かにギターを弾き始める。音が重なって、重なって、そして静かに反響しながら消えた瞬間。
そしてそれを少しずつ切り裂くように、そこにある、松坂の肉体。
先生がやって来て、松坂がシュートを打つように促される。高校時代が蘇る。
部活前の男子部員の空気が、本当にリアルで驚いた。シューズの紐を結びながら、他愛ない話をするあの感じが、私が普段目の当たりにしているものと同じ温度でそこにあった。
物語が進むに連れて、少しずついろいろなことがわかってくる。
ずば抜けて上手いのはキャプテンの吉住だけ。彼は素行が悪くてバスケが強い学校には行けなかったから、この学校で一からバスケ部を作った。ちょっとやんちゃで、先生に口答えすることもあるけど、それは結局のところ本人が甘えたなんだと思う。
主人公の松坂は、もともと野球部だったが、部員と折り合いが悪くて部活を辞めた。バスケ部に入ったのは、クラスメイトに「楽だし、初心者でも大丈夫」と言われたから。
部員の個性が見えてくるに従って、私は自分の部活の生徒の顔が重なるような気がしてならなかった。一人一人は全然違うのに、「ああ、いるよな」「ああ、あるよな」が積み重なって、まるで自分の話のように思えてくる。
中でも胸に来たのは、顧問の沖先生が授業準備が忙しくて部活に来れなくなるシーンだ。代わりに来た外部コーチに、吉住は激しく反発する。
「俺らのバスケ知らないやつに練習メニュー指図されたくねえ!」「お前、顧問じゃねえのかよ!何で来ねえんだよ!授業が増えたとか知るかよ!部活の時間は部活に来いよ!俺の言うこと聞けば勝てるって言ったよな?じゃあ命令しに来いよ!」
私も、授業準備や他の生徒の対応で部活になかなか行けない日がある。やっと体育館に行くと、もう終了の挨拶…なんてことも、何度もある。
生徒は部活に休まず来てるのに、顧問は部活に来ない…なんて、不満に思っても仕方ないよな、と思うけど、授業準備も部活動指導も、教員にとっては両方とも「仕事」だ。私自身はかなり部活が好きな方で、沖先生もかなり部活が好きな方で、でも部活よりも優先しなきゃいけないことがある状況は、すごくよくわかる。
でも、それは部員には「わかってくれ」と言ってもわかるもんじゃないよな、というのも、すごくよくわかる。
コーチが来て、彼らの練習風景はがらりと変わる。活気が出る。それまでだらだら惰性でやっていた練習が、意味付けされて、みんなが「勝つために」練習をやり始める。
新入生が入ってきて、二年生になった松坂たちは少しずつ「自分の武器」を身につけていて、チームは確実に強くなったことが肌で感じられる。
そして迎えたIH予選。
負けたら、三年生の吉住と當座は引退だ。
IH予選1回戦は、勝った。でも、ミスが多くて先生に叱られる。
そして當座が、「辞める」と言い出す。
「大学受験マジでヤバいから、バスケで大学推薦がもらえる吉住と違って、俺はバスケ頑張っても何にもならないから、勉強しないとマジでヤバいから」
當座は序盤から、勉強と部活の両立に悩んでいるような描写が繰り返されていた。だからいつかはこうなる予感があった。でも、それは今なのか。三年生の、IH予選で、1回戦は弱い相手にギリギリ勝って、2回戦は相手も強いからこうはいかないかもしれないけど、でもとにかく負けたらそれで引退の、三年生の、今なのか。
そんな當座に、吉住は噛みつく。「何でだよ!」と詰め寄る。
そして溢れる當座の本音。「俺がいなくても、俺より上手い後輩がいるから大丈夫だよ。俺が試合に出るよりも、後輩が出た方がいいよ」
「下手でもお前出ろ!俺のパス受けろ!」吉住の激昂。二人きりの三年生。吉住と當座と、顧問の沖先生の三人だけでやって来た一年間。少しずつ後輩も育って、やっと勝てるようになった三年生の、IH予選。
でも、頑張ってどうなるんだろう。将来どうするんだろう。部活を頑張った、その先は?
私も、自分の高校時代、勉強を理由に部活を辞めようとしていた同級生を必死で引き留めたことがある。結局、彼女は三年生の夏まで部活を続け、一緒に引退したけれど、今でもあのときの私は正しかったのかとたまに思い出す。もしかしたら、あそこで私が引き留めずに彼女が部活を辞めて勉強だけに打ち込んでいたとしたら、彼女はもっと上の大学に行けたかもしれないと、考える。まあ、最終的に決断したのは彼女自身なのだから、そこに私がとやかく言うことに何の意味もないのだけれど、私は最後まで彼女と部活ができて、とても楽しかったのだけれど……。
教員になってからも、勉強と両立できないから部活を辞めようかと悩んでいるという相談を受けたことは何度もある。そのたびに、私は止めてきた。それが正しいかはわからないけど。
今でも、必死に練習する部員たちを見ながら考えることがある。バレーを頑張ったからといって、進路の保証があるわけでもない。この時間を、補習やアルバイトに費やす方が有意義な生徒もいるかもしれない。でも、この経験はきっと、いつかどこかで、何かの役に立つんじゃないか…。
「これが将来にどう活きていくか」なんて、考え出したらキリがない。とくに教員の仕事なんて、どんな指導をしたとしても、本当にそれが生徒にとって良かったかわかるのは、5年後が10年後か、何年先になるかわからないし、もしかしたら一生わからないままかもしれない。
それでも、今一番良いと思えることをやるしかない。
IH予選2回戦。
格上の相手に、チームは苦戦する。でも、全く勝てない相手ではない。今、自分たちにできる、最高のプレーを。
残り時間あと6分。点差はわずか。負けたら、ここで終了。勝ったら、もう少しだけバスケができる。
今年のIH予選。地区大会は勝ち抜いたけど、県大会は1回戦から格上の学校が相手で、良いプレーはしたけど、負けてしまった。
バレーボールに制限時間はない。先に25点取った方が勝ちだ。じわじわと、相手の点数が25点に近づいていく。
「ああ、このまま、このまま終わってしまうのか。もっと見ていたかった……もっと見ていたい……いや、まだ終わってない、希望はある……うちがここから○点取れば…………」
そんなことを考えながら祈るように試合を見ていたことを思い出した。
そのときの、バレーコートの中の選手の気持ちはわからない。でも、今、目の前の、バスケットコートの中の選手の気持ちは、客席まで伝わってくる。きっと、同じだ。彼らも、彼らも。そう思うと涙が出た。
舞台上の試合のシーンでは、本当にバスケの試合が行われていた。
もちろん、ある程度の段取りはあるだろうが、シュートが決まるかは打ってみないとわからないところは、試合と同じだ。シュートが決まればこう、外れたらこう、みたいなパターンはあるのだろうが、それも、試合と同じだ。
何のスポーツでもチームで行う競技すべてに言えることだろうが、上手いチームは「いるべき時に、いるべきところに、いるべき人が、いる」と感じる。
それは、演劇も同じだと思う。
何をやるのが良くて、自分は何がやりたくて、それがどう自分のこの先に繋がっていくかは誰にもわからない。
何かをやるにしても、何かをやめるにしても、自分が「良かった」と言えなきゃいけない。
いろいろなものが重なって、なんだかもうわけがわからなくなって、最後の方はほとんど泣いていた。
泣きすぎて拍手ができなくて、それだけが心残りなくらい、泣いていた。
だからいつも感想はTwitterで呟いたりするのだけれど、今回はあまりにも自分のプライベートな事象とリンクしすぎてしまったから、匿名ブログに託すことにする。
観に行って良かった。
いちいち劇団DULL-COLORED POP主宰「谷賢一」はクズって認識でOK?
まったく演劇人にモラルだの常識だの求めるなんてさ、表現の幅を狭くしちまうだけだぞ。法律違反はすぐさま警察に突き出せばいいが、モラルだの常識だので裁く「一見正義」に騙されちゃあいけない。正義なんてねーよ。
つい最近に何かの劇団の主宰が「俳優に恋人がいてショック受けるとは何事だ、ファンならちゃんと祝福してほしい。ワンチャンないんだから」なんだようるせーな。
今年の春に好きだった廃油がカノバレし炎上した。
芸能人は顔がとても整っているのでまあ彼女くらいいるだろうと思ってたので、バレ方が文○砲だったりしたことやくだらない匂わせ行為をしたこと以外はカノバレ炎上について私へのそれほどのダメージはなかった。
カノバレ以外でのダメージが大きかったというかイラついたのは訳知り顔でショックを受ける(フリをする)女の存在である。
それまで舞台やライブにすら行かなかったくせに「○○くんカノバレとかショック〜」まあこれはまだいい。推しは顔がいいから顔だけ好きな人もいる。でもこっちのがショック受けてんぞ。
前文撤回するようになるが、一番腹が立ったのは「○○くんにだって彼女いたっていいじゃん!」とか的外れなことを言って叩くファンでもなんでも無い奴。
いやお前逆にいないと思ってたからそんな言葉が出てくるんだろ!?って感じ。
彼女いたっていいよそりゃあ。でも芸能人に恋人がいて良いイメージになるのは自分の確固たるポジションを確立してる人ぐらいだよ。今大人気のイケメン俳優ですらやり方によってはイメージダウンしちゃうよ。剛○さんみたいまで行けばもう拍手だよ。あれは相手もすごい。
祝福してほしいとか何よ。推しが出てる面白くない作品見た時に「あれは面白くなかったな〜」って言わないで!ファンなら面白かったって言って!なんだよ面白くないもの作った側の責任だし面白いものを面白くできなかった推しの責任だよ甘やかさないわ
結論、
これが言いたかった。
推しに関わってほしくない、受け入れられない、上演中止になってほしい
https://torchlight.hatenablog.com/entry/2018/11/19/202015
私は2.5もなにも関係ない演劇界の端っこにいる役者の一人であるが、この記事や『メゾン・マグダレーナ』上演に関して炎上と言っていいほどの反応があるにも関わらず、演劇を創る側にいる人達がまるで危機感を抱いていない事に絶望的な気持ちを感じている。
そんな中、関連があるのか?と思うようなタイミングで、某劇団主宰が「演劇人にモラルや常識を求めるのは表現の幅を狭くするだけ」と呟いていて、本人が上記ブログの炎上から呟いた内容でないことを私はひたすら祈っている。
本人の意図はわからないが、今回の炎上を『.5俳優ファンの感情的な暴走』と見ている一部の観劇おじさんがしてやったりという感じでリツイートしている事に余計に暗い気持ちにさせられた。
ほかに何も出来ないような、世の中でロクデナシと呼ばれる人間こそ芸術に救われるべきだと私も思っている。だからこそ、そのような人間が搾取されない環境も守らなくてはならない。
市原幹也が告発された時の方がまだそれぞれ意見を発していた。#metoo の勢いもあった。あの件もキャスティングを餌に女性に性加害をした点は似通っている。なぜ今回、さほど騒がれないのか。
『推しに関わって欲しくない』という気持ちが強く出た見出しに対する、ある種拒否反応を起こしているのか、制作会社や関係者に対して顔色を伺う必要があるのか。
誰も手を上げないのに自分だけ騒いで今関わっている関係者やスポンサーに煙たがられたくない…これは私が表立って反応出来ない理由。他の人たちもそうなのか、それとも他人事と思っているだけなのか。
既に実刑を受け、罪を償った人間を締め出すのかとか、私刑だと言うならば、平田オリザが市原幹也の件で出したコメントを何度でも読み返してくれ。
生徒に性的暴行を行った教師が教職に戻って来ることは歓迎されるべきか?
じゃあ横領で実刑を受けた銀行員は再びお金に触れるポジションに勤めるべきか?
界隈の近い遠いもどうでもいい。
これを演劇界全体の問題と捉え、演劇界が社会に対してどのような姿勢を見せるのか考え、意識をアップデートし続けないならば、私達は時代に取り残されて当然である。
立場を利用した犯罪歴を黙認し、演劇界が不透明であり安全でない事に開き直り、時代を逆行し、観劇はごく限られた人間のマニアックな趣味になり、私達は再び河原乞食と呼ばれ、有能な人材は海外へ出ていき、日本から演劇文化は消滅する。このままならそうなってしまえ。それほどの事だと感じている。
ではせっかくなのでゲスな興味にも応えて行きたい。
と言いたい所だが、盛り上がりそうな下世話なネタ無いな…誰か知ってたら代わりに話して欲しい。
俺の知らない内に気付いたら劇団内結婚してる人が何故か異様に多いので、多分密かに距離縮んでる男女は多いんだとは思う。
俺がゴシップに疎いのは、俺が鈍感or既婚者だから蚊帳の外に置かれてるor巻き込まないよう気遣われてるからかも知れない。
実体験から言うと、劇団外で恋人や配偶者が居る人間は、劇団内の男女関係を心配されたりモヤモヤさせるので覚悟してくれ。
芝居やってる方は趣味とは言え皆ガチで取り組んでいるから気持ちを作れ、気持ちを作れと言われる。演出からガンガン厳しい言葉が飛んでくる。
キャスト同士の関係作りも大事なので、稽古の間だけは擬似夫婦や擬似恋人にならなければ芝居の出来に深刻に関わる。(確かに親密にもなる。作品作りの為っていう共通目的もあるしね)
俺は一度そこで板挟みになり、すごーく中途半端な関わり方をして、結果的に劇団にも嫁さんにも迷惑をかけた後悔から、最近はキャストはあまり引き受けず裏方スタッフの仕事中心でまったりやっている。
アマチュアだが劇団に入って演劇をやっている。やってみて面白かった事を挙げていく。
・顔はメイクでどうにかなる!
俺は男だが、人の容姿はメイクでこんなにも別人に変身できるのかとビビった。
イケメンにもブサイクにもなれるし老いたり若返ったりもなれる。
いや、乱暴な感想だとは思う。メイクと言っても舞台メイクと日常のメイクは全然別物だし、メイク映えするかしないかは個人差があるのも解る。
でも普段化粧なんかしない男からすると、メイク面白ぇ!っていう衝撃を味わえた。
地顔の造形に拘って悩むのが下らなく思えた。
思うんだけど、何で男は化粧しない文化なんだろう?男がファンデ塗る程度でも気持ち悪がられたりするよな?
眉毛描くだけでもちょっとイケメンになるやん。男性メイクが流行れば顔面コンプから救われる人もいるんじゃないだろか。
素人劇団なので役者は稽古に数ヶ月かけるんだけど、数ヶ月の間ずーっと同じキャラクターに向き合い続ける事になる。
最初は、ソイツがどんな理由でそんな台詞を吐くのか、どうしても心情が理解できず納得できない台詞が一つや二つ、必ずある。
一言を言うのがすげー大変だったりする。
たった一言に納得できないだけで、そこの芝居がマジで上手くいかなくなるのだ。
それやってると、理解できなかった台詞が理解できるようになる。というか自分の中で辻褄が合う解釈が出来上がって、その台詞に必然性が生まれるっつーか。
そうすると初めて芝居に血が通った気になり、意味不明だった他人に歩み寄り同一化できたような気になる。
そこで、この脚本書いた人はここまで深く考えていたのか、スゲーな!!と物書きへの畏怖を覚える。
・異世界に没頭できる。
リアルな大道具と小道具と衣装とメイクと照明と音響の力で、そこが現実ではなく芝居の中の世界になり、自分は別人に変身し、作った感情がリアルに胸に湧く。
これが凄く気持ちいい。
テレビも映画もゲームも無かった昔の人達でもこういう体験はできたんだなぁ…
他のキャストの演技が上達すると、それに呼応して自分の演技が上達する事が往々にしてある。
相手の台詞に力が宿って自分に届き、それまで出せなかった感情を引き出して貰う事がある。
逆にこちらの台詞にも力が宿って相手の芝居が変わる瞬間がある。
これがなんつーか、日常には無いコミュニケーションであり濃い感情のやりとりって感じなんだ。凄く面白い。
・不平等なんだけどそこがいい
例外もあるけど、男の役は男が、女の役は女が、老人の役は老人が務める、みたいに、自分の性別や年齢や容姿、あらゆる面で配役が制限されまくる。
それに演技の上手い人よりもハマり役の人が主役に選ばれる事もある。
でも、主役が美味しくて脇役が不遇って訳じゃ無い。物語に登場する人物は老いも若きも男も女も悪人も善人も色んな役所にそれぞれ作り込む余地があり旨味があって、各人が一生懸命になる。
むしろ嫌われ役とか小心者の役の方が面白かったりする。またどんな大根役者にも必ず「ソイツにしかできない芝居」がある。
顔やスタイルや頭や性格がいい人が正義とかいう一元的な価値観とは違った、もっと多面的に人間の魅力に目を向けないと芝居が完成しない。
前より人間に優しくなれた気がする。
推しが大好きです。
けれど、推しの事を好きだと、大きな声では言えません。
もしかしたら、殆どのオタクはそうなのかも。ただそれが私にはストレスでした。
今でも変わらず推しのことが大好きです。それは恋では無く、私を楽しい気持ちにさせてくれる人として。
共感してくれる人がいるならしてほしいし、同情してくれる人がいるならしてほしい。
でも、どうかこれを反面教師にして幸せなオタクライフを送って欲しい。
新しい公演が始まる度に日本の隅っこから飛行機に乗り、都内から電車で小一時間の田舎の劇場へ通いました。
通う為にほぼ毎日睡眠時間を削って放課後から早朝までアルバイトをしました。学校が長期のお休みの期間や公演日数が少ない時などは、都内でウィークリーマンションを借りて全部通いました。
そこは小さな小さな劇団で、開演前も終演後もお客さんと役者は直接お話が出来て、皆さんとても親密にしていました。
お客さんは皆優しく私をすぐに仲間として受け入れてくれました。
その劇団の公演は本当に素敵で、もっとたくさんの人に見て欲しいと私は思いました。だから私がチケット代や電車賃を負担して、たくさんの友達を呼んで一緒に観に行きました。皆その劇団の事を好きになってくれました。嬉しかった。
その劇団の団長は私に「いつもありがとう」とか「あなたが友達を呼んでくれるお陰で今までよりも良い公演が出来るようになった」なんて言葉もかけてくれました。なんてファン冥利に尽きる言葉なんだろうと思いました。
その中でも私の親友のAちゃん。彼女は一人でも劇場に通うようになりました。彼女の推しは団長。私の推しは歴が長めの団員。
そうやって何年も応援している内に、劇団も少し人気が出てきました(まだまだ小劇団の域を超えませんでしたが)
増えたお客さんも皆良い人ばかりでした。本当に毎日が楽しかった。
え?と思いました。
たったそれだけの一言で、複雑な気持ちがワッと押し寄せてやがて怒りに変わりました。
「それ、本当?」一応冷静を取り繕ってまずは真偽とどういった経緯での発言かを確認しました。
Aちゃんは「私だから本音を言えるって言って、団長は仕事の愚痴しか言わない。私はそれ聞くのが面倒くさくなってきた。」
「何それ。だったら出なくて良くない?」私はAちゃんに同調したつもりでした。
それがAちゃんの癖で、自分の納得のいく返事が貰えなかった時にその素振りを見せます。私は他に彼女の納得いく返事なんて浮かばずそこでその話を終わらせていつも通りそれぞれ帰宅しました。
その次の公演を観に行くと開演前にAちゃんが泣きながら団長と話をしていました。その時団長に睨まれたような気がしていました。何かがおかしいのを感じて私はそこに近付けませんでした。
その日の公演は団長が役を全うしませんでした。普段来ているファンは、普段と違う事を面白がりましたが、初見の人は「意味が分からない。何あれ?」と口々に文句を言って出て行きました。
終わった後、私の推しが私の所に駆け寄って来ていつもと同じように笑顔で明るく、楽しい話をしてくれました。
その日AちゃんにTwitterもLINEもブロックされました。
その次の公演に行きました。開演前に団長に睨まれながら言われました。
「もう来ないで」
なんだこいつ。
それ以外に何も思わなかった。
終演後、推しが私に「団長の事は気にしないで」と言ってくれました。私は推しに余計な心配を掛けたくなくて、何も聞けず、Aちゃんの事は黙ってました。
その日が終わってから暫く考えました。何で私が「もう来ないで」と言われたのか?
理由は私がAちゃんに納得のいく返事をしてあげなかった事しか浮かびませんでした。そして彼女の性格を鑑みて今思えば、あれはただの自慢だった。
「団長はあなたにそんなに心開いてくれてるんだね」それが正解の言葉だった。
けれどそれを言えなかった事で払う代償が大きすぎると思いました。Aちゃんと団長は何を話してこうなったのか?それは今でもわかりません。
Aちゃんが泣いていたあの日の前までは優しく笑顔だった団長が、急に、どうして。
私は悩みに悩み、次に行ったらその後は劇場に足を運ぶのをすっぱりやめることにしました。
推しには最後に手紙を出しました。ただただあなたのお芝居が大好きだという旨を何十枚もの便箋に書き連ねました。それ以外の事は書かなかった。
次の公演に行ったら、終演後に団長に「あなたは仲間じゃないから」と言われました。
推しに申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、いつも通りの推しを見送った。
私はこの事を誰にも言いませんでした。私以外の人は幸せにファン活動しているから。
でも、私が行かなくなって不思議に思った他のお客さん達が私にDM等でメッセージをくれました。私はそれらに対して「Aちゃんと喧嘩して、もう来ないでほしいと言われた」と返しました。
それから暫くして、Aちゃんも劇場に足を運ぶのをやめたみたいです。理由は知りません。
これまで数年この劇団にたくさんのお金と時間を費やして、こんな終わり方で、自分は一体何していたんだろうという虚無感。
私の手元にはもう二度と目にしたくない劇団のグッズやパンフレット等が大量に溢れていて、それをゴミだと認識してしまうともう何も残りませんでした。
今すぐ死にたい、何も無い、あの幸せな日々を返して欲しい、憎い、殺したい、自暴自棄…
そんな中、支えてくれたのが他のお客さん達でした。
DMでAちゃんの悪口を言ってくれたり、実は状況を察していたという人が団長の悪口を言ってくれたり、それが大きな心の支えでした。私は悪くないと思えたから。
そして私が行くのをやめた3ヶ月後、推しは劇団から離れました。
それが推しにとって良かった事なのか、良くなかった事なのかはわかりません。私は、少なからず嬉しかった。
月日が過ぎ社会人となり、小劇団を追わなくなって出来た貯金で上京をしました。
私には新しい推しができました。今度は小劇団ではない、2.5次元などにも出るキラキラの若手俳優。
恐らく、好きになった当時は同担拒否という言葉はまだ存在していなかったと思います。同担同士でTwitterをフォローし合うのが当たり前。情報交換したり、チケットを連番したり。
私は以前の劇団のトラウマが有りファン活動は控え目な方でした。
とは言っても公演半分は行って地方に遠征もして、ブロマイドはセンチ買いするし推しにも認知されていたと思います。
でも周りが「推しの為に全公演通います!」「推しの為にグッズ買い占めます!」等と宣言していると、不安でした。
私の応援の仕方じゃ推しに貢献できていない?私はファンとは呼べないのではないだろうか?
マウントを取られる事はよくあり、けれど荒波立てたくないから私は自ら下手にまわりました。
推しからファンサを貰った事が無い事にして、オキラのふりをしていました。
私がそう言うと皆幸せそうに私はこんなファンサしてもらえたよ、と自慢してくる。それで良いと思いました。
そのお陰か私は多くの同担に囲まれており、よく「私実はあの同担が苦手なんです」とぶっちゃけられることもあった。
理由はわかりませんでした。私には皆普通のファンに見えたので。
あまり自分の話をしないように気を付けていて、推しの現場は毎回とっても気を使いました。
私は推しにファンが増えてほしいから、Twitterは公開にして推しの良い所をたくさん言葉にしてツイートをしました。皆が良い反応をしてくれたし、推しも生き生きしているように感じました。承認欲求が満たされたようで楽しかった。
けれどどうやらそれが悪目立ちする原因にもなったのと同時に、「同担拒否」という言葉が一気に流行り始めました。
すると、一部の同担に過剰にマウントを取られるようになりました。マウントを取ってくる人達は全通当たり前の熱狂的なオタク達。
私は彼女らに勝とうなんて思った事はなかった。
彼女らは私がツイートをする度にそのツイートに対する意見のようなツイートをしていました。
「推しのブロマイド今回は何枚買おうかな」なんて言えば「何枚買おうかなんて考えてるようなのはダメだよね。限界まで買わないと」と言い、「推しへの手紙書き終わったけどもうこんな時間だ!」なんて言えば「推しへの手紙はオールで書くもの」とか。
最初は偶然だと思ったけれど、私が何をツイートしても彼女らは私のツイートした話題に必ず触れていました。
それで息苦しくなりました。何もツイートが出来ない。
私はTwitterをやめました。
推しの現場にもひっそりと通う事にしました。良席は取らないし髪型や服装やメイクも変えて。同担に見られたくなくて。
それまで推しは私を見つけては、私が手紙で書いた好きなセリフや好きなシーンは、私の目を見てやってくれていたように感じていました。
しかし、そういった事が一切無くなってしまいました。見つけられなくなったからでしょうか。
そのせいか通っても楽しいと思えることが少なくなり、モチベーションが下がり、通う回数も減って行きその内に手紙も書かなくなっていました。
推しはブログ更新が段々と活発になっていきました。それから手紙やプレゼント等に言及したり、今までしなかった事をしました。
私が送っていた時は手紙にお礼なんて言ってくれなかったのに…。もしかして、本当にオキラだった…?
私がいなくても推しを推す人はたくさんいる。私は推しとどうなりたいわけでもない。ただ推しの演技が好きだから、見たい時に見られれば良い。
そう思って、長いこと手紙も送らず接触もせず、ただ静かに彼の芝居を観に行きました。
暫くしてTwitterを覗いたら、私に過剰なマウントを取っていた同担がいつの間にか全員降りていて驚きました。
気になって遡ると私がTwitterをやめてからすぐに皆、推すのに疲れたというような旨のツイートをしており、
それは私がいなくなって張り合いが無くなった事で急激に冷めたのかそれとも元々私がいなくなる前からそのつもりでいたのかわからないけど、いつの間にかお金をたくさん使う同担がごっそり減っていたのです。
それに続けてマウントを取っていなかったファンの中にも静かに降りている人もいました。
もしかして、ブログの更新が活発になったのはこれ以上ファンが減ったら困るから…?
その状況に危機感を覚えた私は慌ててチケットを増やして、ブロマイドもいつもの倍以上買いました。地方にも遠征した。
ただ、手紙だけは書けませんでした。長いこと書いてなくて、なんて書けばいいのかわからなかった。それから、私が手紙を送らなくなってからのブログの内容の真意がわからなくて、私は送らない方が良いのではないか?などとつい考えてしまうから。
当然、通っても推しは見てくれない。
誰が座っているのか、前方席を見て笑顔になる推しを遠くから見る私。
ドッと寂しくなりました。
推しは何を思っているんだろう。
そして私は何を求めているんだろう。
私の推し方はずっと間違っていたのだろうか。
中学生からおっかけになって、かれこれ15年くらい何らかのヲタクをやって生きている。ジャニーズ、お笑い、女子アイドル…いろいろなものを追い掛けて、応援しているのが生き甲斐だった。逆を返すとそれ以外生き甲斐のない人間だ。だから自分の持ちうる時間もお金も全力で注ぐのは苦痛じゃない。幸い、今まで好きになった人たちは上昇志向が強く、明確な目標があって、ファンの応援を必要としている人ばかりだった。はてブロやtwitterなどで良さを広める、チケットを買う、CDを買う、友達を連れて行く、感想の手紙を送る。奢りかもしれないけど、上昇志向の強い芸能人を応援する上で、自分のヲタクのやり方が間違ってはいなかったと思う。
晩夏、新しい人を好きになった。誰かを好きになるのは理屈じゃなくて一瞬だ。それは恋愛だって、追っかけの対象だって同じなのだ。
新しく好きになった人は劇団の俳優さんだった。いま、私はどうやってその人の応援をすれば良いか分からない。
多分、現状に満足していてこの状態が続けば良いと思っている。劇団の仕事以外はほぼ仕事がない。けれど上昇志向はない。大きな劇団の中堅の俳優さんなので首になることはまずないだろう。特に自分個人へのファンは求めていない感じがする。劇団へのファンは歓迎の節だが、自分のファン、というものに対しては反応が薄い。
彼の舞台を見るのは楽しい。胸が高鳴るし、同じ演目でも何度だって見たい。
なのに、やっぱり何故か満たされない。とてもショックだ。けれど、それは満たされないことに対してではない。求められたくてヲタクをしているわけではない、と思っていたのに、私はやはりどこか求めてほしかった、ということに気付いてしまったからだ。自分のしたことを喜んでもらえる、目に見えて反応がもらえるということの甘美さに私はちっとも気付いていなかった。すごく、すごく、恥ずかしい。
書いていても何を言いたいか分からないんだけど、とりあえずいま、どういう風に応援したら良いか分からない。いや、ファンなんだから普通に見に行けばいいんだけど。だけど反応がないとどうしても悪い考えがよぎる。ファンレターも迷惑かもしれないし、多ステも気持ち悪いと思われてるかもしれない。逆に、じゃがいもみたいに何とも思われてないかもしれない。私は気持ちが悪いことにそのどちらも嫌なのだ。個としての認知はいらないが、ファンの塊として「いつもありがとう。応援してもらえて嬉しい」とは思ってほしい。気持ちが悪いけど、どうしてもその欲を捨てられない。
友人みんなから「あなたに合ってない推しだね」と言われる。私もそう思う。応援されるのが好きで、褒められるのが好きで、愛されるのが好きな人を応援する方が私は幸せだと思う。でも、好きなのだ。舞台の上で一瞬で分かるその声が、情けない役ほど似合う困り顔が、日替わりで繰り出す小ボケが、キメるときはキメる姿が、とにかく大好きなのだ。いつか、この気持ちも笑い話に出来るかもしれない。
発売日を心待ちにしていていざ買おうとしたらアマゾンでの思わぬ低めの評価。
とはいえ予定していたのだし読むつもりだったので購入、Kindleで読む。
読み始めてすぐに、読み飛ばしたかのような感覚。前巻とうまく繋がらない。
場面やストーリーがかなり端折られてる感覚があってしっくりこない。
ずっと謎解き・解説を読まされているようで、ドラマを楽しむという感覚はイマイチ不足していたと感じる。
あれ以上の落としようがないとは思うので。
本来は一月半ほど先の予定だったものを随分と早めたらしいと、レビューにあった。
映画等の予定もありで無理やり押し込めたのだろうか。
もし今後リテイクが可能なら、端折った主人公たちのドラマを書き足してほしい。
宵をやりたいと羽生田に伝えた後に五十嵐や野菊ともやりとりがあったはず。劇を辞めるにしたって劇団関係者達の困惑だったり興行の問題だったりもう少し場面が見えるものがほしい。
最終巻ではかさねはいざなに対するあれこれの思いはすっかり打ち解け、理解しきっているかのような叙述だった。けれど母親に対してはずっと葛藤だったりいろんな思いがあったはずで、この点でも書き切れていないように感じる。
主人公にはいろんな思いがあったはずなのだが、それらは行動や感情描写では描かれず、実はこうでした と説明されて終わっているような感覚。
補足的な続編を期待したい。
今日のフジテレビの情報番組「バイキング」で、例の「カメラを止めるな」パクリ疑惑が特集されていた。
その中で、「舞台と映画はこんなに似ているんですよ~」として、「オープニングが同じ」というVTRを流していた。
舞台は、女性が悲鳴を上げて監督の「はい、カット!」で始まる。
映画も、女性が悲鳴を上げて監督の「はい、カット!」で始まる。
だからパクリだという主張だ。そもそも原案は認めてるのだから似ている部分があってもいいのだが、それにしても「はい、カット!」で始まる作品など過去にも山程あるのだから、オープニングが同じだとしてパクリの根拠として提示するのにふさわしくないだろ、と思った。
と言っても自分は映画通でもドラマや漫画などの物語通でもないので、とっさに「はい、カット!」から始まる作品を羅列することはできない。
・元々俺が作った(?)劇団で、そのみんなで作って俺らでずっとやっていた物語だった
・劇団員でもない人間がその大切な台本影響を受けてオマージュ的なものを作った(そこらへん表記なし)
・「(そのオマージュ物語が)面白い、この監督すごい」と、その劇団員でもない人間が大絶賛され、一気に金持ちルート&クリエイターとして一人格上げ
・元の劇団でそぼそぼと何年間もやっていた作者達をさしおいて、元ネタにした人への敬意も無しに表記も無しになぜか「(元ネタがあるとも一般人はほぼ知らず)面白い」と褒められて不義理な名誉を手にする
・なあなあと勝手に原作的な関わりは全部否定されてなんの権利も持たない原案でほぼ一方的におしまいっぽくされた(書類で)
表記無いオマージュで勝手に名誉を手にし、なんの権利も無い原案におさめようとするようなところどころに存在する不義理が起爆剤になってるんやろな感