はてなキーワード: ぬことは
https://anond.hatelabo.jp/20200703193938
先日こちらのお気持ち文を投下したところ、想像以上の反響があった。私も主にツイッターで感想などを眺めていたのだが、感想をつぶやいてくれた人のうち7割ほどが七瀬サイド、2割ほどがおパ島綾城サイド、残り一割はどちらにも属さないという比率であった。
追記や補足で、七瀬サイドが対価システムに走る理由や、それらが巻き起こす事故についてざっくりと説明をしたが、やや説明不足なところがあったため、あらためて対価システムの成り立ちと、巻き起こった事故などについて書かせていただく。
なお、今回の文章は漫画への関連性が薄く、私の実体験や周囲で観測した事故の話を多分に含んでいるため、人によってはトラウマの想起を招いたり、公平性に欠けるところも多々見受けられると思う。不快に思われたら、体調を崩す前にブラウザバックしていただきたい。
心理学に、マズローの欲求5段解説というものがある。下から順に、生理的欲求、安全の欲求、社会的(愛の)欲求、承認欲求、自己実現の欲求とヒエラルキー型に並び、一つの欲求が満たされると、もう一つ上にある欲求を満たしたいという気持ちが湧いてくるようになる、というものだ(詳しくはググってほしい)。
対価システムにとらわれるコミュ障は、多くがこの社会的(愛の)欲求か、承認欲求に大きくかかわる、ネガティブな経験(いじめ、孤立、暴言、虐待など)がある。要因はコミュ力の低さや容姿、機能不全家庭(いわゆる毒親)や身体的欠落によるハンデなどさまざまだが、とにかく、これらが幼少期に満たされていないと、自己肯定感を持てなかったり、不安障害を発症したりと、成長後の人格成型に大きな傷跡を残すこととなる。
自己肯定感のなさやコミュニケーション能力の欠落はストレスを加速させ、やがて他者の言葉や行為の意味を悪意的にとらえたり、常に攻撃的な態度をとるなどして”周囲に期待をしない”ことで、自分を守ろうとする。これは努力や性格の問題というよりは、本能的な防衛反応である。
ストレスに晒され続けると人間の脳は委縮し、判断力や選択肢を失い、やがて自傷か他傷の二択に追い込まれてしまう。自分含め、人を傷つけるのは世間一般的に望ましい行いではないが、酷寒の雪山で身震いを止めることが不可能であるように、”いま”そうでない人であっても、追い詰められればこうなる可能性があるということは、どうかご理解いただきたい。
無条件に愛されるという経験が少ない人間は、「何かメリットを相手に感じさせないと見捨てられる」という不安に取りつかれがちで、かつ自分をとことん下げているので相対的に相手は雲上人となり、相手の”貴重な”時間を無駄にしないため、関心を引くために、有能アピールを始めるようになる。自己顕示欲というよりは、お友達料金に近い。
親切心で行うというよりは、存在しているだけで周囲に迷惑を与えていると考え、その損失を埋めるべく”他の分野で”役に立つことで相殺しようというシステムだ。
しかし埋め合わせが毎回成功するなどは到底あり得ない上に、対価システムを持つようになる人間は社会的能力が低めなため、昼食に誘ってもらえた際に、誘ってくれた相手に報いようと必死で話しすぎて空気を凍らせてしまったり、面倒ごとを引き受けることでいい顔をしようとして、身の丈に合わぬことを一人で背負いこみ、結果周囲に尻拭いをさせてしまったりと、心臓が痛くなるような失敗をしてしまいがちだ。
埋め合わせに失敗したら、さらに必死に償わなければならない気持ちになる。そしてそういう時に限ってますますやらかし、雪だるま式に焦燥感と無力感と、ストレスが膨らんでいく。とてもつらい。
不平等を相手に飲ませていることに抵抗を覚え、距離を取るようになるのは一般的な考えだと思うが、対価システム保持者はニュートラルの自分という存在に、強力なデバフをかけている。生きているだけで常時-10点といった状態だ。向こうからすれば存在しないその10点分を穴埋めしようと、できれば次にミスった時のための貯蓄をしようとやっきになって空回りし、無駄に疲弊して疎遠になるケースもある。
これを相手視点で見ると、やたら労力の成果を見せてきたり、マウントを取ってあわあわした挙句、急に疲れ果てた様子になり、そのうち連絡もしなくなるという、まったく謎の状態である。相手の期待を裏切りたくないという気持ちや、一緒にいるだけで迷惑だから……という卑屈さは、相手には関係ないのだ。
まだそれだけならただの変な人で終われるが、もっと悲惨なケースだと、最初は完全に捧げる気持ちで書いていたのだが、もらってばかりでは悪いからと返礼があり、やがて絵を描く目的が返礼になって相手を疲弊させてしまったり、見返りを求めず書いていたはずが、自分ばかり書いていて不公平だとなぜか不満を抱き、それを相手にぶつけ不快にさせたり……などがある。
当然のことだが、人はそれぞれ価値観や許容量が異なるし、ルールとマナー、モラルはそれぞれ別物である。自他の区別の境界線があいまいだと、「自分は平気だから○○さんも平気だろう」「自分はこれを守っているのだから、向こうも当然守るだろう」と、無自覚で価値観の押し売りをはたらいてしまう可能性がある。コミュニケーションに自信のない人は、よほど普遍的な事例を除いて、基本的にその都度確認か観察する癖をつけたほうがいい。
七瀬の目的は、一貫して「綾城に認められる」であった。話が進むにつれいろいろと拗らせ、ついには諦めてしまうも、最後までそのスタンスがぶれることはなかった。
気さくなリプライを送り、ジャンル外の話題なども提供してくれ、通話して楽しいおパ島と、まったく交流を持ち掛けてこず、静かに有能アピールをしてくるだけの七瀬。楽しい相手と交流したい綾城が後者を選ぶ可能性は、限りなく低い。
「何かしら対価を支払えば、正当な結果が返ってくるものだ」と思い込んでしまう認知バイアスのことを世界公平仮説と言うが、対価システムはこれに限りなく近い。
しかし、実際は努力が必ず報われるという保証はない。どんなに頑張っても認めてもらえない、ありのままではなお肯定されない状況が続けば、世界を恨むか、オカルトに走るか、すべてを諦めるようになってしまう。頼むから、こうなる前に七瀬はカウンセリングに行ってほしい。
私は心理学の権威でもカウンセラーでもないのだが、私の言葉が、少しでも自己分析の助けになり、気持ちを整理するきっかけになれたなら、この上ない喜びだ。
それと、自己肯定感が著しく低い人には、どうか自分を、ほんの少しでいいので肯定してほしい。全肯定ではなくていい。なにかひとつだけ、人より優れてなくていいから、好きになれる個性を見つけてほしい。箸の持ち方でもお礼をちゃんということでも、声でも足でも字でも、なんでもいい。ひとつあるだけで、少しずつでも自己肯定感をはぐくんでいけるから。
■対価システム人間の面倒くささと負の公平仮説(おけけパワー中島)
https://anond.hatelabo.jp/20200705112649
公平仮説についての補足と、個人的にとった解決手段を他山の石にしてもらうべくしたためた。今回と同様に、科学的な根拠などはほぼないことをご容赦願いたい。
トップブコメ集めていた「日本人であることぐらいしか」の言葉。
憐れむべきとは蔑むべきの言い換えだと、それを知る程度の頭は俺にもある。
やはりお前らからすれば明日ネトウヨに明後日にはネオナチでそして未来のオウムだろう。
なにもない。
俺の目からすりゃなにもない。
でもお前らの足元にはお前らにしか見えない線が見えるらしい。
羨ましいことだ。
見えないものが見える力がお前の誇りか。
見えないものは見えないことでも俺は誇るか。
ああ……駄目だ。
今ついさっき、人間であることぐらいしか、取り柄がないのは俺もお前も同じだと、そう感じた時、俺にも見えた。
見えず在らずの線が見えた。
駄目だ。
俺にはもう誇るものなどなにもない。
その心が漬けこまれるのだ。
そういうお前らもすでに、漬けこまれているのに。
そこに気づいていることだけが俺の誇りか?
違う。
それを誇らぬことが俺の誇りだ。
ほらまた見えた。
線が。
もう何も誇るものなどない
「バッタ博士」として有名な前野ウルド浩太郎博士の論文に対して、その内容の再現性が取れないという問題があるということを下記の一連のツイートで知りました。
https://twitter.com/n0rr/status/1277918852987285505
”ラボメンが捏造したときに、PIが責任を取る方法がひとつ示された。”
と、ツイート主の @n0rr さんは述べており、筆頭著者である前野博士がデータを捏造して論文を書いたのではと暗に示唆しています。
いったい何が起こっているのだろうと思ったので、詳しく調べてみました。
結論から言うと、「前野博士の実験結果には再現性がある可能性が高い」と個人的には思います。
どうやら、前野博士と田中博士が研究していたバッタ(Schistocerca gregaria)は、「メス成虫が”混み”を感じると、産卵する卵のサイズが変わり、その卵から産まれる幼虫の体の色も変わる」という性質を持っているようで、その”混み”の感受に必要な器官や、卵や幼虫の形質に影響を与えるに十分な”混み”の期間、などが先行研究によって明らかにされていたようです(Maeno et Tanaka 2008やMaeno et Tanaka 2012など, 以下「先行研究論文群」)。”混み”を感受すると、その卵は大きくなり、黒い幼虫が生まれるとされています。この黒い幼虫が成長すると凶悪な群性相になって作物を食い荒らします。
ところが昨年、先行研究で述べられているような条件では卵や幼虫の形質に影響が見られない(つまり先行研究の再現性が取れない)と告発している Nishide and Tanaka 2019 (以下「告発論文」)が出されました。
告発論文の責任著者の田中博士は、先行研究論文群の責任著者です。自らが「過去の自分達の研究結果が信用できない!」という論文を出すなんて極めて異例。いったいどういうことなのでしょう?
自らそのような告発論文を出すという事は、「他の著者が何か良からぬこと(データの捏造など)をした」ということを発信し、誤った言説を正したいという事なのでしょうか。
そんなことを思いながら、関連ツイートを眺めていると、下記のツイートを見つけました。
https://twitter.com/Cyclommatism/status/1278151055830732801
”2011・2012年の科研費の実績報告書では、きちんと結果を再現できているように読めます”(@Cyclommatism さん)
え?予想した展開と違うぞ…と思いつつ、田中博士の科研費実績報告書(https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23380038/)を見てみると…
”孤独相(単独飼育)メス成虫が混み合いの影響(大きく、黒化した艀化幼虫を生産)を受けるには、1日3時間以上の光条件下で混み合いにさらされることが必要であることがわかった。”(2011 年度 実績報告書)
”サバクトビバッタの成虫が混み合い刺激を感受し、それを子世代に伝達する現象を確認した。また、それらの感受期は産卵前4日であると見なしていたが、産卵6日前までの刺激もわずかであるが、影響することが分かった。そこで4日ではなく6日間刺激を与えたほうが、反応が確実に現れることがわかった。”(2012 年度 実績報告書)
と書かれており、確かに先行研究をおおむね再現できているかのような記述があります。
しかし、一方で2013 年度の報告書では下記のように書かれています。
”小さな卵を産む孤独相メスに6日間(感受期間は4日)複数のオスを加え混み合いを与えたところ、反応率が低いうえ、生産された卵サイズが以前(Maeno, 2011; Maeno & Tanaka, 2012)の結果と比べ、大きくならなかった。”(2013 年度 実績報告書)
2012年の報告書までは「孤独相のメスに6日間混み合い刺激を与えると反応が確実に現れる」という結果が、2013年の報告書では「孤独相のメスに6日間混み合い刺激を与えても反応率が低い」となっています。
つまり(私の理解が正しければ、ですが)、2012年度までは前野博士の論文の実験結果の再現性がとれていて、2013年からは再現できなくなっているように思えます。
前野博士が田中博士の研究室から去ってアフリカに渡ったのが2010年度末ですので、2011年度や2012年度の報告書に書かれているデータに前野博士の実験データは含まれないと考えるのが自然でしょう。
(もしも含まれるのだとしたら、田中博士が「過去のデータをあたかもその年に得られたデータであるがごとく報告している」という問題行動をしているということになります)
つまり、データの再現性に関して、田中博士の主張は途中で変遷しているといってよいかと思います。
さらに、前野博士は2020年になって、「実験結果を再現できた」という論文を発表しています。
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0022191019303713
この論文を読んでみると、実験は総勢11名の人間が、実験者、調整役、測定役、解析役というそれぞれ異なる役割で実験に参加し、互いに他のステップには干渉しないし結果も知らない(例えば、測定役は自身が測定しているサンプルがどのような処理を受けたものかわからないし、次にどう解析されるかもわからない)という非常に厳密な条件で行われています。そのうえで先行研究の実験結果が再現されています。
これだけ多くの人が関わると、データを捏造するのは無理ではないでしょうか。
(謝辞に名前が挙げられている方と思しき方による、当時のことに言及したと思われるツイートも見つけました https://twitter.com/kobakaz_jp/status/1278151260743495680, @kobakaz_jp さん)
以上のことから、前野博士による実験データは「再現性がある」と個人的には感じます。
むしろ、実績報告書の中で実験結果の記述を変遷させている田中博士の方の主張は無理筋なのではないでしょうか。
生物を相手にした実験では、ささいな条件の違いで結果が異なることがあると聞きます。
恐らく今回の事態も、そのような違いに起因して先行研究の結果が再現できなかったのではないかなと想像します。
参考文献
Maeno, K., & Tanaka, S. (2008). Maternal effects on progeny size, number and body color in the desert locust, Schistocerca gregaria: density-and reproductive cycle-dependent variation. Journal of Insect Physiology, 54(6), 1072-1080.
Maeno, K., & Tanaka, S. (2012). Adult female desert locusts require contact chemicals and light for progeny gregarization. Physiological entomology, 37(2), 109-118.
Nishide, Y., & Tanaka, S. (2019). Re-examination of the maternal control of progeny size and body color in the desert locust Schistocerca gregaria: Differences from previous conclusions. Journal of insect physiology, 114, 145-157.
Maeno, K. O. (2019). Comments/arguments to: Re-examination of the maternal control of progeny size and body color in the desert locust Schistocerca gregaria: Differences from previous conclusions (by Yudai Nishide and Seiji Tanaka-2019-Journal of Insect Physiology xx, xxx). Journal of insect physiology, 114, 158.
Maeno, K. O., Piou, C., & Ghaout, S. (2020). The desert locust, Schistocerca gregaria, plastically manipulates egg size by regulating both egg numbers and production rate according to population density. Journal of Insect Physiology, 122, 104020.
善・秩序ぼく「暴言を吐く人とそれ以外がキチンと住み分けられる健全なゲームになるといいな」
善・混沌ぼく「チームメイトへの安易な批判が敗北にしかつながらぬことを思い知る良い機会だ。存分に煽りあい存分に負けるがいい」
中立・秩序ぼく「ジャンル批判のような発言が散見されるのを見ると心が痛む。素直に楽しめないのか」
中立・混沌ぼく「なーんか小馬鹿にしつつ面白いこと言えないかな~」
悪・秩序ぼく「よく燃えそうな発言をした奴は積極的に晒し上げていきたいものだな。出来れば本名や住所を暴露している奴がいい。配信者も悪くないな」
https://anond.hatelabo.jp/20200620144901
漏精の怒張は陰茎巨大、珍宝の末年、若くして根を虎棒に連ね、ついで自慰に補せられたが、性、豪快、自ら慰むところ頗る多く、我慢汁に甘んじるを潔しとしなかった。いくばくもなく陰茎を扱いた後は、故山、珍湖に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら自慰に耽った。下吏となって長い男根を俗悪な粗陰茎の前に屈するよりは、巨根家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、性名は容易に揚らず、陰茎は日を逐うて小さくなる。怒張は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその肉棒も峭刻となり、肉落ち亀頭秀で、睾丸のみ徒らに丸々として、曾て壮絶に勃起した頃の最強の逸物の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、陰茎の衣食のために遂に竿を屈して、再び東へ赴き、一地方根吏の男根をせんずることになった。一方、これは、己の陰茎に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か巨大に勃起し、彼が昔、粗根として歯牙にもかけなかったその連中の陰茎を拝さねばならぬことが、往年の性豪怒張の海綿体を如何に傷つけたかは、想像に硬くない。陰茎は萎々として勃たず、異常の性癖は愈々抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、精水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に竿色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま巨根をとび出させて、闇の中へ出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後怒張がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
翌年、珍擦御史、陳々郡の鎮沈という者、男根を奉じて嶺姦に使し、途に精汚の地に宿った。次の朝未だ暗い中に射精しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に巨大陰茎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。鎮沈は、しかし、供廻りの巨根なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。淫月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一本の猛竿が叢の中から躍り出た。男根は、あわや鎮沈に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。その声に鎮沈は聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、肉棒を取り出した。「その陰茎は、我が友、怒張子ではないか?」鎮沈は怒張と同年に巨根の第に登り、精液の少かった怒張にとっては、最も親しい竿友であった。温和な鎮沈の陰茎が、峻峭な怒張の男根と衝突しなかったためであろう。
叢の中からは、暫く返事が無かった。喘ぎ声かと思われる微かな音が時々漏れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は漏精の怒張である」と。鎮沈は自慰を忘れ、馬並みから降りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。そして、なぜ叢から出てこないのかと問うた。怒張の声が答えて言う。自分は今や下半身のみとなっている。どうして、おめおめと竿友の前にわびしい姿をさらせようか。かつ股、自分が姿を現せば、必ず君に侮蔑嫌悪の情を勃させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも竿友に遇うことを得て、亀頭の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が短小な今の外径を厭わず、曾て君の竿友怒張であったこの自分と竿を交してくれないだろうか。後で考えれば不思議だったが、その時、鎮沈は、この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。彼は馬並みに命じて行列の珍行を停め、自分は叢の傍に勃って、萎えざる声と対談した。都の巨根、巨友の消息、鎮沈が現在の鎮、それに対する怒張の祝鎮。精年時代に親しかったもの同志の、あの中折れのない語調で、それ等が語られた後、鎮沈は、怒張がどうして今の絶頂となるに至ったかを訊ねた。自慰中の声は次のように語った。今から一年程前、自分が旅に出て精水のほとばしりに宿った夜のこと、一回してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出してみると、声は闇の中から擦りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて先走りを出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は中心の手で地を掴んで這っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を飛び越えて行った。気が付くと、手先や肘の辺りに陰毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に陰茎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは淫夢に違いないと考えた。淫夢の中で、これは淫夢だぞと知っているような淫夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても淫夢でないと悟らねばならなかった時、自分は射精した。そうして萎えた。全く、どんな物でも勃り得るのだと思うて、深く萎えた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も折れ折れには分からぬ。理由も分らずに押付けられたものを大きくして、理由も分からずに勃てて行くのが、我々生きもののさだめだ。自分は直ぐに扱きを想うた。しごき、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分自身は兎の愛液に塗れ、辺りには兎の毛が散らばっていた。これが陰茎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな野合をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、淫語も操れれば、複雑な性行にも堪え得るし、性書の章句を誦んずることも出来る。その人間の心で、陰茎としての己の淫虐な行のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も精無く、嫌らしく、逝きどおろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短小になって行く。今までは、どうして陰茎などになったかと怪しんでいたのに、この間ぴゅっと気が付いてみたら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これはいやらしいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、陰茎としての青姦の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。ちょうど、古い男の陰茎が次第に穴に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一本の陰茎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても竿友と認めることなく、君を掘り喰ろうて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形の棒だったと思い込んでいるのではないか?いや、そんなことはどうでもいい。己の中の人間の精がすっかり出てしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なくいやらしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、いやらしく、硬く、切なく思っているだろう!己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ珍長になった者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了うまえに、一つ頼んで置きたいことがある。鎮沈はじめ一物は、息をのんで、自慰中の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。他でもない。自分は元来巨根として名を成す積りでいた。しかも、業未だ抜かざるに、この運命に勃ち至った。曾て作るところの男根数百本、硬より、まだ世に行われておらぬ。逝こうの所在も悶々早判らなくなっていよう。ところで、その中、今もなお射精せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。何も、これによって一人前の巨根人面をしたいのではない。棒の大小は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも睾丸に伝えないでは、ちんでもちにきれないのだ。鎮沈は股下に命じ、筆を執って自慰中の声に随って掻き取らせた。怒張の声は叢の中から淫々と響いた。長短凡そ三十本、豪快高雅、淫汁逸物、一見して搾精の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、鎮沈は吐精しながらも漠然と次のように感じていた。成程、搾精の素質が第一流に俗するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)萎えるところがあるのではないか、と。精液を吐き終った怒張の声は、突然調子を変え、自らを慰めるか如くに言った。羞しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の珍集が超淫蕩流精子の机の上に置かれている様を、淫夢に見ることがあるのだ。蒟蒻の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。巨根家になりそこなって陰茎になった哀れな男を。(鎮沈は昔の精年怒張の自慰癖を思い出しながら、哀しこしこ聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐を即席の陰茎に伸べてみようか。この陰茎の中に、まだ、曾ての怒張が生きているしるしに。鎮沈は又股下に命じてこれを掻き取らせた。その棒に言う。
偶因萎疾成殊類 精根相仍不可逃
此夕淫山対性月 不成長大但成姦
時に、淫月、光冷やかに、白濁は地に滋く、珍間を渡る冷風は已に暁の近きを告げていた。
漏精の怒張は陰茎巨大、珍宝の末年、若くして男根を虎榜に連ね、ついで自慰に補せられたが、性、豪快、自ら慰むところ頗る多く、我慢汁に甘んじるを潔しとしなかった。いくばくもなく陰茎を扱いた後は、故山、珍湖に帰臥し、人と交を絶って、ひたすら自慰に耽った。下吏となって長く男根を俗悪な粗陰茎の前に屈するよりは、巨根家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、性名は容易に揚らず、陰茎は日を逐うて小さくなる。怒張は漸く焦躁に駆られて来た。この頃からその肉棒も峭刻となり、肉落ち亀頭秀で、睾丸のみ徒らに丸々として、曾て壮絶に勃起した頃の最強の逸物の俤は、何処に求めようもない。数年の後、貧窮に堪えず、陰茎の衣食のために遂に竿を屈して、再び東へ赴き、一地方根吏の男根をせんずることになった。一方、これは、己の陰茎に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥か巨大に勃起し、彼が昔、粗根として歯牙にもかけなかったその連中の陰茎を拝さねばならぬことが、往年の性豪怒張の海綿体を如何に傷つけたかは、想像に難くない。陰茎は萎々として勃たず、異常の性癖は愈々抑え難くなった。一年の後、公用で旅に出、精水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或夜半、急に竿色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま巨根をとび出させて、闇の中へ射精した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後怒張がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
翌年、男根巨大、陳々郡の鎮沈という者、男根を奉じて嶺姦に使し、途に精汚の地に宿った。次の朝未だ暗い中に射精しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に巨大陰茎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと。鎮沈は、しかし、供廻りの巨根なのを恃み、駅吏の言葉を斥けて、出発した。淫月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一本の猛竿が叢の中から躍り出た。男根は、あわや鎮沈に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。その声に鎮沈は聞き憶えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、肉棒を取り出した。「その陰茎は、我が友、怒張子ではないか?」鎮沈は怒張と同年に巨根の第に登り、精液の少かった怒張にとっては、最も親しい竿友であった。温和な鎮沈の陰茎が、峻峭な怒張の男根と衝突しなかったためであろう。
どう言えば良いのかよくわかなくなってきた感じもしますが、能力不足ですのですみません。
仰るとおり、友達も少ないですし、普通の人以下と言われてムカッとして本気で傷付きましたが、それも自分自身の至らぬことと認めます。
でも僕は生きてるんです。少なくとも、ほとんど誰にも迷惑をかけることなく(ないわけではありません)生きてます。
そんな人がいっぱいいます。
僕のような孤独な人という意味ではなく、世の中から様々な意味で差別され排除されているような人達です。
僕は何度か言ったか最早良く覚えていませんが、別に孤独でいいのです。寂しくても構いません。そんなことを訴えたいのではありません。
そうではなく、僕を代表例として、世間から忘れさられ蔑まされあるいは暴言を受けたり、酷い扱いを受けたりして、悩みながらそれでも生きている人がいることを知って欲しいと願っているんです。
仰るように、人の輪の中に入れたら、正直羨ましいとは思います。
でも入れないんです。どうやっても出来ない。あなたが見抜いた通りの人間です。
相手にもしてくれない。
どうかそんな人もいるのだと、わかって欲しいのです。
仲間に入れろと言っているのではありません。
ただただ、差別だけはしてほしくない。それだけです。僕じゃないですよ、人を差別するということをどうかやめて欲しい。
それにはどうすればいいか考えて欲しい。
人を差別するとどうなるかを、今起きている世の中の問題や歴史の問題を見て欲しい。
それらは遠い世界の話ではなく、自分自身の問題だと捉えて欲しい。
社会問題に向き合えと言ってるのではない。
ほんとに上手く言えなくて申し訳ないです。コミュニケーション不足の問題だとは自覚しています。ですが、最早それは私自身にはどうにもなりません。
ただただ自分にできることをするだけです。
乱文乱筆ばっかりほんとに申し訳ないです。
失礼なことばかりだったと思います。
これで消えます。悲しくさせてほんとに申し訳ありません。心からお詫び申し上げます。
どうしても、自民党のせいにしたいんだね。そういう司令?
社民党の機関誌『月刊社会民主』(平成9年7月号・北川広和「食糧支援拒否する日本政府」)。
「拉致疑惑の根拠とされているのは、つい最近、韓国の国家安全企画部(安企部)によってもたらされた情報だけである」「産経新聞に掲載された元工作員の証言内容に不自然な点がある」。従って「拉致疑惑事件が安企部の脚本、産経の脚色によるデッチあげ事件との疑惑が浮かび上がる」。「二〇年前に少女が行方不明になったのは、紛れもない事実である。しかし、それが北朝鮮の犯行とする少女拉致疑惑事件は新しく創作された事件というほかない。……拉致疑惑事件は、日本政府に北朝鮮への食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出された事件なのである」
「問題提起するときに、疑いがある段階で提起しても、これは門前払いだと。つまり、その点をしっかり足場を固めないまま今ずっと交渉を進めようとしているところに、私は日本政府の交渉態度の一番の問題点がある。」と質問。
森総理(当時)に、「それじゃ拉致問題を交渉すべきではないということになってしまうのじゃないでしょうか」との発言までさせていますよね。
どうなんだろうね。
これでも、自民党が悪いというのは文字が読めないか、理解力が低すぎるのか、頭が、、、
ちな、俺は自民党支持者じゃないから、自民党の悪口言われてもなんともないんだけどな。
<第150回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第1号 平成12年10月25日>
○不破哲三君 日朝交渉の中でいわゆる拉致疑惑の問題というのは非常に重要ですけれども、外交交渉としては非常に難しい問題なんですね。それで、そのことについての森発言以来のこの六日間の政府の対応の慌てふためきぶりを見ますと、どうもこの難しい外交交渉を本当にやり切れるんだろうかという心配が絶えません。
それで、少し角度を変えて伺いたいと思います。
まず、政府が北朝鮮側に提起しているいわゆる行方不明者の問題ですが、三年前の与党代表団として訪朝された際に、行方不明者のリストを相手側に渡されていると聞いています。何名のリストをお渡しになったんですか。
○内閣総理大臣(森喜朗君) 私は、この会談でリストを渡したというのは、私が入っておりました会談で知る限り、そういうようなリストを渡したという事実はなかったと思っています。
ただ、この議題になりましたときに、これをそれぞれ担当しておりましたので、中山副団長から、担当された立場の中で、北朝鮮側に対しまして、我が国政府が拉致の疑いがあると判断している七件十名について、その具体的な名前を挙げて解決を中山議員から求めた、このように承知をいたしております。
○不破哲三君 私がその参加者から伺っている話だと、三十二名のリストを出されたと伺っているんですね。
それで、もう一つ伺いますが、今政府が北朝鮮側に提起している行方不明者の数というのは、今言った七件十名ですか。
○不破哲三君 そこら辺でも随分日本側からの提起のあやふやさというものを感じるわけですね。
それから、私、非常に心配しますのは、この七件十名について政府が国会で説明するのを伺いますと、例えば、外務大臣は国会で、北朝鮮による拉致の疑いがあるという判断ができるのは七件十名ですという言い方をされています。それからまた、別の場合には、拉致の可能性がある事案が七件十名だというふうに言われています。
それで、国内の捜査の問題ですと、こういう疑いがあるからそういう方向で捜査するんだというので済むんですよ。しかし、国家間の外交交渉の場合に、どういう根拠でこの問題を提起するかというのは、これは随分違ってくるんですね。それで、特に拉致というのは、相手の国が国家として国際犯罪を犯したということを言うわけですから、よほどの足場を固めていないと問題提起できないはずなんです。
一体、七件十名という事件の中で、捜査当局として、もう結論が出た、これは北朝鮮による拉致だと結論が出た、それからまたその証拠もある、物証もあるというように判断されているケースはどれぐらいあるんですか。
○内閣総理大臣(森喜朗君) 我が国政府といたしましては、捜査当局において総合的に検討した結果、北朝鮮による拉致の疑いがあると判断している七件十名、こういうふうにいたしておるわけでありまして、日朝国交正常化交渉におきましても、拉致問題としてこの七件十名についての解決を求めているというところでございます。
今、別のリストが云々というお話がございましたけれども、これは私どものそういう会合の中ではそういう資料というものはございませんでしたし、それから、これは警察が当局において総合的に検討した結果ということでありますから、そのことを私どもとしては判断することが大事だ、そのことを私どもとしては信頼することは当然だろうと思っています。
この平成九年版の警察白書にもそのことが明確に書かれておりますし、私どもとしては、これ以上のことは詳細に調査をしたり把握をすることは、今の段階では私は必要ではないというふうに考えております。
○不破哲三君 森さんは今警察白書を引かれましたけれども、この警察白書も、「北朝鮮による日本人ら致の疑いのある事案」それからまた「北朝鮮にら致された可能性のある行方不明者」、全部その表現ですよ。私どももこれは非常に心配になりまして、外務省の関係者からも警察庁の関係者からもずっと伺っているんですけれども、やはりどれも結論は出ていない、結論が出ているものは一件もないという答えが返ってくるので、私たち非常に心配になるんです。
つまり、国内ではこの疑いがあるがという説明をするならわかりますよ、相手の国に対して、疑いがある話がこれだけあるんだと言って外交交渉をするという例は、世界にほとんどないんですね。それからまた、専門家に聞きましても、例えば、国際司法裁判所がある、国際司法裁判所に問題提起するときに、これは外交交渉ではないのですけれども、問題提起するときに、疑いがある段階で提起しても、これは門前払いだと。つまり、その点をしっかり足場を固めないまま今ずっと交渉を進めようとしているところに、私は日本政府の交渉態度の一番の問題点がある。
それで、ずっと七〇年代に起こった事件で、二十年たってそれ以上捜査が進まないなら、それが到達点であるなら、やはり疑惑だという段階にふさわしい交渉の仕方と、疑惑だという段階にふさわしい解決の仕方があるはずなんです。それからまた、問題が、結論が出ている、明確で、こんなに証拠もあるじゃないかというものがあるのだったら、それにふさわしい交渉のやり方と、それにふさわしい結論の出し方があるはずなんですね。
ところが、どうも今の交渉というのは、それを全部ひっくるめて、拉致問題だ、北朝鮮側に言うときには行方不明者だといって、大ざっぱに交渉しているんだが、その肝心の中身は定かでない。この点、私は非常に心配しているんですけれども、いかがですか。
○内閣総理大臣(森喜朗君) 不破議員のそういう御指摘も一つの考え方だろうと思いますが、少なくとも我が国としては、北朝鮮の国に対して、拉致問題につきましてきちっと根拠を明確に説明をしていると私どもは承知をしています。
警察当局においては、裏づけ捜査も行い、関係機関と密接な情報交換などを行うなど、一連の捜査の結果を総合的かつ入念に検討した結果、七件十名の事案について北朝鮮による拉致の疑いがある、このように判断するに至ったものというふうに私どもは承知をいたしておるわけでありまして、少なくとも日本の国としてこのことについて北朝鮮側に示している以上は、責任を持ってこの問題の解決を求めているというのは当然なことであって、不破さんのそのお考えからいうと、不破さんのそういうお気持ちも私はわからぬことはないですよ。そういうお気持ちはわからぬことはないですが、それじゃ拉致問題を交渉すべきではないということになってしまうのじゃないでしょうか。
生き物苦手板の住人の者です。
猫なんか苦しんで死んで当然。別にわざと露悪的に振る舞ってるわけじゃない。
増田の人生終わってる系の投稿で、ブコメに現れる「猫買え猫、ぬこは神」みたいなコメントに毎回虫酸が走ってた。
人生終わってるからこそ、猫みたいな何もしなくてもちやほや愛されるような存在が嫌いなんだよ。
どうぶつ基金とかいう公益財団法人あるけど、実際猫一辺倒だからな。猫基金に改名しろよ。
どれだけ金持ってんのか知らねぇけど、広告打ちまくりで「猫の殺処分が...」みたいなアドセンスが毎回目についてイライラする。
あと猫の虐待動画探してんのに、たまに出てくる「かわいい猫ちゃんの寝顔動画」な。ダンベルで殴り続けてえよ。
案の定ヤフコメに愛誤沸いてて、「猫が嫌いなら猫島出てけよ」ってコメントついててわらう。猫>人間なんだろうなあいつらの脳内は。
愛誤のキチっぷりはTwitterにわんさかいるので、皆さんも見てほしい。結局あいつらの自浄作用なんて0なので生き物苦手板の住人は怒ってるんだよ。
多頭飼いの飼育崩壊してる奴はそんな責めないのに、かるおじとか虐待させてる奴は目の敵にする。
なんなら私刑も加えようとする猫好き()の人たちが怖いよ~~~wwwwwww
かるおじのおかげで、それまで中華の画質悪い動画でシコシコするしかなかったのが、高画質で猫ちゃんの輝きを観れるようになって感謝してる。
じゃあ私猫餌不凍液セット軒下に置きに行くね♡
プログラミング言語を印象批評している記事に触発されて、自分も印象批評してみようと思う。
JavaScript以外にもブラウザ上でぐりぐりするのにはJava AppletとかFlashとかSilverlightとかいろいろあったけれど、結局標準化を成し遂げたHTML5に淘汰されちゃった感じがする。LiveScriptからJavaScriptに改名されたり、規格を話すときはECMA Scriptだったりといろんな別名を持つ。一応、プロトタイプベースのオブジェクト指向言語なんだけれど、それを意識してコードを書く人がどれくらいいるかは謎。
Pythonは小さいコードを書くのには楽だけど、これで大きなコードを書くと思わぬ変更で思わぬことが起きるのでつらい。しばらく使うとPythonイヤイヤ病にり患し、goを使うようになるらしいとか、ならないとか。pythonで大規模なコードを万一書こうと思うなら、カバレッジが高いテストを書いてくれと思う。
Javaは初期のころオートボクシング / アンボクシングもなく、ストイックなオブジェクト指向言語だった記憶がある。ただ、staticを多用してオブジェクト指向とは程遠いコードも簡単に書けるので、Javaで書いているからと言ってオブジェクト指向だと思うのは禁物である。
PHPはWebネイティブな言語で、初期のころHTTP POST/GETなどで渡された変数がそのままプログラム中に出てくる機能や初期化していない変数を最初に使うと空文字列あるいは0で初期化するという機能があった。また、文字列と数字を臨機応変に切り替える機能もあり(今もそうかは知らん)、数字と文字の比較を比較演算子(==)でシームレスにできる。パスワードチェックみたいなコードで===ではなく、==を使っているとPHPを知らないバカ扱いされる。
C#はHello Worldくらいしか書いたことないから知らん。monoのような互換環境があるのは知っているけれど、わざわざPC Unix上でmonoを使う気分にはなれなかった。
C++は黎明期に使った感じと、C++11以降に使った感じが驚くほど違う言語。今はかゆいところには大抵STLで手が届くし、autoを使えばイテレーションで腱鞘炎になることもない。PC Unixにも最初から環境がインストールされているか、簡単にインストールできるので毛嫌いせず使うとよいと思う。
Rubyはぎょっとする変更をよくやるというイメージ。これで書かれたプログラムを長年愛用してきたが、ぎょっとした変更を入れられて動かなくなったのでgoで書き直した。その点ではpythonも3でおいていかれたので嫌い。
TypeScriptは書いたことないから知らない。JavaScriptだと大規模コードを書くとつらいのでTypeScriptを使おうという人がいるのは知っている。大規模なコードを書くとしたら、インタフェースに合った呼び出しかコンパイル時にチェックしてくれるような強く片付けされた言語のほうがよくなってくるというのはわかる。
Cは片付けし、構造化したプログラムを書きやすくしたアセンブラ...というイメージだったんだけど、C99くらいから便利機能がいろいろ入ってそうでもない感じになった印象。昔はCのコードを見たら最適化した後のx86アセンブリが見えていたんだけれど、最近は見えなくなってしまった。子供のころ、本屋で秘伝C言語問答 ポインタ編に出会ったのがこの業界に入るきっかけだったのかもしれない。ほかの言語でいろいろ楽に書けるから、カーネルをいじるか、システムコールをたたくかするときくらいしか自分の中では出番がなくなってしまった。
これ以下のランキングのもその気になったら書こうかな。
正常です。これからも清く正しいインターネットライフをお過ごしください
気をつけてください
インターネットに向いてなさそう
「……“本当の10話”? ちょっと何言ってるか分からねーな」
慌ててシューゴさんは取り繕って見せるが、とぼけているのは明白だった。
「“本当の10話”じゃなくて“幻の10話”です、シューゴさん」
「あっ……と、間違えた」
まともに取り繕える余裕がないほどの事柄、ということなのだろう。
内実を知らない新人たちも、その雰囲気から異様さを感じとった。
「あれリリースするのは、やめといた方がいいと思うけどな~」
「どうしてもって言うなら構わんが……」
「どうしても!……これでいいですか、シューゴさん」
「いや~そういうことじゃねーじゃん?」
「どういうことですか」
偏屈でもアニメを作るのだけはやめなかったシューゴさんが、今はそれを露骨に拒否しようとしている。
彼がそれだけ“幻の10話”を良く思っていない、ということだけは新人たちでも分かった。
「寝ているだけでは子供は育ちませんよ。三年寝太郎だって何もしていなかったわけじゃない」
「おいおい、寓話を論拠にするのはやめろって~」
グダグダな押し問答が繰り返され、場の空気は昼食と共に冷え切っていく。
会議は踊る、されど進まず。
「“幻の10話”とは何なのでしょうか……?」
「あ?……ああ、そっか、第3シーズンから入った奴もいるのか」
新人たちの狼狽ぶりを見て、シューゴさんたちは冷静さを取り戻した。
「ふむ、そうですね……この企画を進めるにしろ、まずは前提を共有してからにしましょう」
「オレは嫌だけどな」
「まあ、とにかく、資料をまとめてきますので、後日また会議ということで」
「そうだな、今あーだこーだ言うより、実際に見てもらったほうがいい」
こうして会議の初日は、昼食を不味くするという結果を残して終わった。
最近、高校に上がったばかりの娘が外出自粛中なのを良いことに、実父である俺に対してあまりに過剰な濃厚接触を強いてくるんですね。
娘はなぜか毎日自宅で制服を着て過ごし、仕事中の俺に後ろから抱きついたり(胸が当たる)、スカートの裾をつまんでひらめかせたり(内側が見える)、その格好のまま俺のベッドに潜り込んだり(匂いが残る)するんですね。
で、自分の奥さんはこのご時世にスーパーでパートという大変な立場で、これは自分の稼ぎが足りないせいなので全く申し訳ない限りなのですが、
娘はそんな母親が不在のときに限って、制服姿であれやこれやとやって、楽しそうにするんですね。
「ママ帰ってくるから今それはダメ」と言われたときには、俺はもう怒鳴りそうになりましたね。自分の母親には言えないやましいことだと自覚していながらやっていたのか、おい、と。
そしてそんなことがあった翌日の午前中、娘がまた制服姿で抱きつこうとしてきたので、耐えきれなくなって俺は説教しました。
お母さんに言えないようなことをするのはやめなさいと、せっかくの制服を、自分の父親を刺激するための道具に使うのはやめなさいと、誘惑するかのような下品な行動はよくないし制服は脱ぎなさいと、はっきりと伝えました。
そしたら娘、いきなり下の下着だけを脱いで、それを俺の顔に投げつけてきたんです。意地なのか制服は着たまま、下着だけを。
そしてここからが本題なんですが、このちょっと冷静さを欠いた娘が、涙声でわけのわからぬことを叫んで、俺を押し倒して、それからやっと制服を脱ぎ始めるんです。
俺は慌てて止め(ようとし)たんですが、娘はやめてくれません。やめろ。
若い頃の妻とそっくりの顔をした女の子が、制服を着ているだけでもだいぶ危うかったのに、それをやけにゆっくりと、か細い指先で丁寧に慎重に脱いでいくんですね。
制服の布地は、舞う蝶の翅さながらの繊細な揺らめきで柔肌を離れて、肢体から外部へと帰していく。そんな光景が、目に焼きつかんばかりにスローモーションで視界に広がっていたのです。
結局自分は、実の娘にいいように弄ばれて、帰宅した妻が慌てふためきながら心配して声をかけてくれるまで半裸で床に倒れ込んでいました(妻には一人で熱中していたと誤魔化しました)。
娘はそのあと(俺の観測では)一度も部屋から出ずにいたんですが、翌朝にはまた普段通りに両親に接してくる有様で、もう自分がやったことを開き直っているんでしょうね、案の定その日も昼過ぎに前日と同じことを娘にされました。制服姿の娘に。
それを毎日繰り返されていて、自分は疲れています。率直に言って、この文章を書くのにもかなりの神経を費やしています。昨日は夜中にパジャマ姿の娘が、眠っていた俺を叩き起こして、熟睡している母親を無視して父親をリビングに連れていって、云々でした。だから夜2時を過ぎて昼間の仕事をようやく片付けたばかりの今の俺が、これから床についてもまた中途半端な時間に娘に眠りを破られる疲労の連鎖が、容易く想像できるんですね。
叫ばせてください。
俺はもうこの実の娘に襲われたときの対処法が、わからない!!!!
この娘をどう可愛がればいいのか、何をすれば喜んでくれるのか、童貞にでも戻ったように何もかもがわからなくて、(父であり夫だが)ダッチワイフのようにされるがまま!!
一般家庭では、実の娘に襲われたとき、父親はどう対処しているのだろう。律儀に可愛がっているのだろうか。俺には何もわかりません。
今日も何もできなかった。昨日も、一昨日も、先週も、先々週も。
部屋は乱雑に散らかり、湿った匂いを振りまく。堆積する洗濯物と本。傍らにあるピアノは、厚い埃に覆われている。
風呂に入るのが途方もなく億劫に感じる。食後の歯磨きをする腰が重い。それだけじゃない。出歩かない日に着替えをしないのはもともとだけど、爪も伸びるままだし、日課の朝洗顔もおざなりになったし、ある日目についた眉毛は気づいてから2週間そのままだ。
やらなきゃいけないことはたくさんあるし、やりたいことはそれに輪をかけてたくさんある。先方へのメールとアポ取り、日課のピアノの練習、チームの作業、TOEICの勉強、部屋の掃除。勉強ならプログラミングもやらなきゃいけないし、他に溜めている仕事もある。全て進行していない。現状を鑑みてできないはずがなく、単純にサボっているだけとしか言いようがない。毎日惰眠を貪り、空いた時間起きることもなくゴロゴロし、ギリギリ体が動くとき思い出したように少しゲームをして、ただ夜が更けるのを待ち、空が白み始めた頃になって、今日も何もできなかったという後悔・自己嫌悪とともに眠りにつく。そんな毎日を過ごしている。どう考えてもサボっている。
そう。できないのではない。やる気になれない。もはや自分が頑張ることに意義を感じない。今の頑張りが明日につながるようには、到底思えない。今頑張ることは、明日の含み損を減らしこそすれ、すでに抱え込んだ大赤字を解消してくれるわけではない。雪だるま式に増える借金の、無限に膨らみ続ける利息に押し潰される人生としか思えない。
誰も助けてくれない。おそらく、自分の明日を気にしてくれる酔狂はどこにもいないのだろう。自分の過去に目をかけてくれた人もほとんどいないから。私はこの数年間、日々硬直と停滞が進む体と神経に抗いながら、ボロボロになっていく心を誤魔化しながら、それでもできる範囲で実績を積み上げてきた。だとしてもそういうことなら、その実績はハリボテだし、ひいては自らの人生も廃棄寸前の見切り品でしかなかったということだろう。そうではないと言える証拠は乏しいが、そうであると言える状況はいくらでもある。
どうしてこうなってしまったんだろう。どこかで道を間違えたことは分かっているが、どこかを修正してもこうなる未来から逃れられない気がする。
こんな状況だから……というわけでもないが、『恋する小惑星』というアニメを観た。『恋する小惑星』に登場するキャラクターたちは、与えられた問題に対して先送り的な解決法を見出しているシーンがいくつかあったように見受けられた。
正直、はっとさせられた。誰に限った話でもない、みんな明日に対する無力感は持っているし、それを根本的に解決する力を持っていない人だっている。でも、自分の周りにいる誰かが受け入れてくれるなら、明日に意味が生まれる。明日に何かあるなら、今日頑張れる。関係によって、問題をうやむやにしてしまうことで、多くの人は救われる。私にも、そのような光景があったならば。
いや、違う。私にも確かにあったのだ。単に選ばなかっただけで。選ばぬことを選んでいるうちに、一向に姿を見せぬ青い鳥を探し求めているうちに、褒め言葉や励ましは全ておべんちゃらに聞こえるようになり、損得勘定によって物事を判断するようになり、快晴の空に思いを馳せる心の余裕が追いやられ、やがて慈しみの関係が絶滅したのだ。それからのことは、語るに及ばず。私は、自分の逃した魚がどれほど大物だったかを、この段になって初めて悟った。
しかし。だからといって、だからといってどうすればいいのだ。もはや人と話していても言葉が通じている感触がない。失われた関係も、捨て去った機微も、粉々に崩れたパーソナリティも、もう戻っては来ない。軌道修正するにも、燃料の残量は少ない。気づいたところで、目の前にそびえる借金が消えてなくなるわけではない。
価値のない人間の行動に、価値は見出されない。価値のない人間の言葉は、空虚そのものだ。価値のない人間との関係は、価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない価値がない
詰んだ。来ないかもしれないかもしれない明日に、望みをかけて耐え続けることに何の意味があろうか。どうして誰かの代わりにもなれない欠陥品なのに生きていかなきゃいけないのだろう。これから何年、督促状でできた蟻地獄に耐え続けることになるのだろう。