はてなキーワード: 意見交換とは
日本における女性専用車両制度を、ローザ・パークス事件等の黒人差別政策を対比しています。この対比の評価すべき点と問題点を指摘してもらえますか。
評価すべき点:
安全性と女性の権利保護:
女性専用車両制度は、女性が公共交通機関を利用する際のセキュリティを向上させ、性的な嫌がらせや危険から保護するための措置として導入されています。これは女性の権利を保護する観点からの側面があります。
社会的配慮と対話:
ローザ・パークス事件と女性専用車両制度の対比を通じて、社会が特定のグループの権利を守るために様々な手段を検討し、導入していることが浮き彫りになります。この対比は社会的な対話を促進し、異なる視点からの意見交換を可能にする役割を果たすことがあります。
問題点:
歴史的背景と文脈の違い:
ローザ・パークス事件はアメリカの黒人差別政策に対する反発として発生したものであり、特定の人種に対する差別を問題にしています。一方で、女性専用車両制度は性別に基づく差別に対する取り組みであり、歴史的背景や文脈が異なります。そのため、直接的な比較が難しい点があります。
差別の程度と性質の違い:
黒人差別は歴史的に深刻で構造的な問題であり、人種差別政策は極めて差別的で不公平なものでした。一方で、女性専用車両制度は性別に基づく特定の問題に対処するための措置であり、その程度や性質は異なります。直接的な類似性が見られないため、比較が適切でないという批判もあります。
総じて、この対比は一部で共通点が見られるものの、歴史的背景や問題の性質の違いからくる違いを理解する必要があります。慎重な比較と文脈を考慮した議論が求められます。
反差別のよくある言説に近づくんだよね
で、こうする
上記のような対比で女性専用車両を正当化する人は後を断ちません。彼らはなぜこの対比に固執するのでしょう。
安全性の強調:
女性専用車両は、女性が公共交通機関を利用する際の安全性向上を目的としています。この制度を支持する人々は、女性が性的な嫌がらせや危険から守られる必要があると考え、そのための手段として女性専用車両を正当化することがあります。
文脈の理解不足:
対比を行っている人々の中には、女性専用車両制度とローザ・パークス事件の歴史的な文脈や背景について深く理解していない場合があります。文脈の違いや歴史的な背景を無視し、表面的な類似性だけに焦点を当てることで、女性専用車両を正当化しようとする傾向が見られます。
議論の都合:
一部の人々は、女性専用車両制度を正当化することで、女性の安全性を重視する社会的な配慮や対話を促進したいと考えているかもしれません。議論の中で異なる立場からの意見を引き出し、社会的な課題に対する理解を深めるために、対比を利用することがあります。
ジェンダー平等の視点からの主張:
一部の人々は、女性専用車両制度が女性にとっての平等を確保し、公共空間での女性の安全を向上させるための手段として正当化できると考えています。ジェンダー平等の視点から、女性に対する特別な配慮が必要だという立場からくるものです。
ただし、これらの理由がどれもが十分に妥当であるわけではありません。議論や対話においては、文脈を理解し、異なる視点を尊重することが重要です。
なんで企画案やアイデアの相談を同期にしちゃったんだろう…その報告先だった上司に聞いていれば、進捗や取り組み状況をダイレクトに把握してもらえていたんだからクソ同期がつまらない工作をしたところで発案者を成り代わられることはなかったと思うけど。
それに報告前のアイデアを誰かに盗用される余地を産まなかっただけでなく、有用なアイデアなら初期段階であっても上司に相談していたら方向性を理解した上でよりよい形にできるような有意義な意見交換ができたはず。私なら絶対にそうする。その方が仕事としてもスピードとクオリティどちらも高められることがわかっていない時点で社会人としてダメ。
つまり、たかだか偶然同じ年に入社しただけの他人とのお友達ごっこを仕事に持ち込んで意識の低い取り組み方をしていた結果だから彼氏も悪いよね。
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
「推し」って感覚が未だにまったくわからない。なんだよ推しって。
俺はみくるたん萌え~とか、あーみんは俺の嫁!って世代のオタクだ。二次元・V含めアイドルには一切興味がない。
だがなんとなくわかった気になっているだけかもしれない。なので改めて調べてみた。
推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E3%81%97
推し(おし)とは、特定の人物やキャラクター、作品、商品などに対して、熱心な支持や愛情を示す行為やその対象を指す言葉である。推しの語源は、「推す」(おす)という動詞から派生し、主に若者を中心に広まったインターネット用語である。推しは、アイドルや俳優、声優、アーティスト、アニメキャラクター、漫画、ゲーム、映画、テレビ番組など、幅広い分野において使用される。
推しの行為には、対象の情報収集や作品の購入、イベントへの参加、SNSでの応援メッセージの投稿などが含まれる。また、推しを応援するファン同士が交流し、情報共有や意見交換を行うことも一般的である。推しの対象は個人の好みや価値観によって異なり、多様な選択肢が存在する。
推しに対する熱意や忠誠心は、ファン同士のつながりを深める要素となり、コミュニティの形成や発展に寄与することがある。推しを通じて、ファンは新たな友人や知り合いを得ることができる場合もある。しかし、推しに対する過度な熱狂や執着は、他者への配慮を欠く行為やトラブルを引き起こすことがあるため、適度な範囲での応援が求められる。
https://www.weblio.jp/content/%E6%8E%A8%E3%81%97
う~ん、やはりピンと来ない。
と頭を捻っていたら、Pixiv百科事典にそこそこしっくりくる記述を見つけた。
そもそも「推す」が「他者に薦める」という意味の言葉のため、「推し」は自分が独占欲を持たないものに対して使う言葉である。つまり、自分が恋愛的な感情を持っている相手に対して表現するにはあまり適切でない言葉と言える。英語における「Love」と「Like」の違いで言えばLikeに当たる。
日本のことわざに「高嶺の花」があるが、花を取ろうとせずに見るだけで良いと思えるのが「推し」である。
https://dic.pixiv.net/a/%E6%8E%A8%E3%81%97
ここまでをまとめると「推し」っていうのは、
存在に対して使うのか(間違ってたら教えて)。
いや~こうして改めて意味を調べてみるとよくわかるな。自分にはまったく理解できない感覚だってことが。
例えばハルヒなら俺は佐々木が好きというか俺の嫁なんだが、ハルヒを読んでいるとき俺はキョンだ。俺自身がキョンになっている。だから佐々木がキョン以外と絡むエロ同人を読んだだけで寝取られた気分になる。これは紛れもない独占欲だな。
「佐々木は俺の嫁!」ってTwitterで主張したい気持ちは無くはないが、別に他人に佐々木の良さを薦めたいわけじゃない。別に他人に佐々木を好きになってほしいわけじゃない。ただ「刮目せよ!俺の嫁を見ろ!」って言いたいだけだ。他人の好みなんてどうでもいい。いやどうでも良くはないな。俺以外で「佐々木は俺の嫁!」って言ってる奴を見かけたらイラつく。お前の嫁じゃなくて俺の嫁だって思う。交流なんてぜんぜんしたくねえ。
こうして我が身を振り返ると、昨今の「推し」文化ってのは随分と上品じゃあないか?
みんなが私の好きなものを好きになってほしいです、独占欲は持ちませ~んってか。
嘘つけやって思ってしまうのは俺が古いオタクだからかそれとも歪んでいるからか或いはその両方か?
上野千鶴子さんの発言が批判される主な理由は、性別に基づく一般化や偏見を含む、性差別的で差別的な発言であるとされています。ただし、議論を正確に理解するためには、具体的な発言の全文や背景を理解することが重要です。一部の発言を切り取ったり、状況や背景を無視したりすると、発言の意図や文脈が歪められる可能性があります。
性差別や差別解消については、多くの国や地域で議論されており、人々が平等に尊重され、差別されない社会を築くための努力が重要視されています。これには、女性の権利向上だけでなく、男性の権利やジェンダーダイバーシティの促進も含まれます。
議論や意見交換の際には、相手の意見に敬意を払い、共通の理解を築く努力が大切です。偏見や差別的な意見に対しては、事実に基づく反論や対話を通じて、理解を深めることが求められます。
vhthlh これで下請法違反とか競争法違反とか呟いている面々がいたけど、どうもネトウヨとか冷笑系とか陰謀論っぽい雰囲気のアカウントだったから、少なくとも本件に良からぬ輩が混じってきていることは間違いないと思う。
kiku-chan 今回の問題を明確に整理して、解決策まで提言している。/ 下請法がどうのとか言ってる奴がいてドン引き
ivory105 これに対して下請法違反だ!!という声がファンから出てて…
〇「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」より抜粋
、全ての企業には、その規模や業種等にかかわらず、人権尊重責任があるが、
それぞれの企業が人権尊重に取り組む際に、自社のサプライヤー等に対して
その際、企業は、直接契約関係にある企業に対して、その先のビジネス上の関係先に
おける人権尊重の取組全てを委ねるのではなく、共に協力して人権尊重に取り組むこと
なお、企業が、製品やサービスを発注するに当たり、その契約上の立場を利用して取
引先に対し一方的に過大な負担を負わせる形で人権尊重の取組を要求した場合、
おっしゃる通り、議論や意見交換においてはさまざまな立場や意見が存在し、特に二次創作や個人の価値観に関する議論は多くの視点が絡み合うことがあります。こうした議論の中で、賛否が分かれることはよくあります。
あなたが述べているように、二次創作に対する肯定派と反対派の議論は、その性質上、主観や感情が大きく影響することがあります。同じ事例や情報をもとにしても、人によって受け取り方や評価が異なるため、意見の食い違いが生じることはよくあることです。
また、特定の理論や論法を駆使して議論をすることは、その立場を強化し、他方の意見に対して反発を示すことにつながることもあります。一方の立場を支持する人々が、その立場をより強調するために論法を用いることは、議論の特徴と言えるかもしれません。
議論や意見交換は、多くの要因が絡む複雑なプロセスです。異なる立場や価値観が存在するからこそ、意見の幅広い対立や共感が生まれ、新たな考えや視点を発見するチャンスとも言えます。ただし、どの立場にも過度な固執や排他的な態度を持つことは、建設的な議論や理解を深める障害になる可能性もあるため、相手の意見を尊重しながら話し合う姿勢が大切です。
人数多いなら全部Zoomレクで良い。現地の価値観文化に触れるとか代表者5人とかにして後全部画像、動画でいい。
5人が聞いてきた話を38人に向けてセミナーすればいい。というか別に誰相手にでもいいからオンデマンドセミナーで流せばいい。
ってかまずYouTubeに出せばいい。せっかく出羽守できる素材確保できたんだからいい機会じゃん。
会社で「DX推進部がDX学ぶためにアメリカに38人で行ってきます! シリコンバレー楽しいいいい」ってなったら全員キレるって。
本当に感覚がズレてる。誤解を招いた、ではなく、国民の感覚とズレてる。
ChatGPTに書かせてみた。
【オタク層】
アニメやマンガ、ゲームに夢中な人々で構成される層。自分の好きな作品やキャラクターについて熱く語り合い、ネット上でコスプレや二次創作活動を行っている。オタクカルチャーに精通しており、新作情報やイベント情報を常に追いかけている。
【ビジネスマン層】
社会的地位を重視し、ビジネスやキャリアに熱心に取り組む層。SNSをビジネスの場として活用し、自己ブランディングやプロモーション活動を行っている。ビジネスのノウハウやキャリアアドバイスを発信し、ビジネスコミュニティを形成している。
【インフルエンサー層】
SNSを活用して自分の生活や趣味を発信し、フォロワーを増やし続けることを目指す層。商品やサービスのプロモーション、広告収益などを目的とした活動を行っている。他の層から注目され、影響力を持つ存在となっている。
新しい情報を求めてネットを徘徊し続ける層。ニュースサイトやブログ、SNSを通じて様々な情報を収集し、自分の知識を広げている。時事問題やトレンドに敏感であり、話題の情報をいち早くキャッチすることが得意。
【アクティビスト層】
社会的な問題や不平等に対して声を上げることに熱心な層。SNSを通じて情報発信や意見交換を行い、社会変革を目指す活動を展開している。環境問題、人権問題、ジェンダー問題など、様々なテーマに取り組んでいる。
きっかけはポケモン実況者が楽しそうにポケモンをやっているのを見て剣盾から始めたが、主に2つの理由で辞めた。
ポケモン実況を見ていた自分は目標レート2000を目標としていた。強い人は何を考えているかを知りたくてTwitterでランクマで結果を残している方をリストに入れて参考にしようと思った。
しかし「TN◯◯4ね」「◯◯運だけ」「4桁は障◯者」など普通に書き込んでいたり生放送でも似たような発言があったり、日々レスバしていて心底幻滅した。
こういう人ばかりではないのはわかるが、正直あんまり関わりたくないと思った。偏見ではあるが現実を捨ててまでポケモンにのめり込むような方々は現実で馬鹿にされたり、蔑まれたりして嫌な思いをした方が多いはずなのにネット上で同じことをしているのは不思議に感じた。
2つ目、公式が色々終わってる。
こっちの方が大きいかもしれない。
剣盾からSVに変わった際、ポケモンの育成環境がもっと楽になっていると思っていたが待っていたのは更なる苦痛だった。
テラピース変更に50個、努力値振りをするためのお金集めは連射コン前提。なんで対戦するためのハードル上げてるの?ユーザーの意見聞いてますか?
今ダブルバトルの世界大会予選で色々問題になっているが、問題が起きた時に早急にアナウンスしない、ユーザーとの意見交換もない、これは本当になんなんでしょうか。剣盾の切断バグの時からずっと感じてはきたが、流石に今回の件でもう期待するのを辞めた。
やめたい。
30代後半女。
私は、もともと他人に対して威圧的に振る舞う方ではない。はずだ。
友人に対しても同僚に対しても家族に対しても取引先に対しても、どちらかといえば腰を低く接するほうだし、怒りを表明することはもともと苦手だ。
仮に立場が異なる意見や要望を伝える場合も穏やかに伝えるべきだと考えているし、
怒鳴ったり不機嫌になってみせるのは、心理的安全性が下がるばかりで全く益がないと考えていた。
だが、職場の限られたメンバーに対して、意見を伝えるときに「不機嫌である」という表情を浮かべることが増えてきた気がしている。
自分を加えて3人でチームだが、50代上司は実務にはあまり関わらない。
会議等は、私と同僚が実務の話をして、ときどき上司が口を挟むというかたちである。
たとえば取引先との商談用資料をどういう方向性でまとめるか、という話で、私と同僚の意見が食い違った際に、
「私はAを中心にまとめたらいいと思ってます。理由はこれこれこうです。同僚さんの意見はどうですか?」と伝えると、同僚が黙り込んでしまう。
私の意見の何かが気に食わないのだが、それが言葉にならない……というのだ。
正直ここで「何いってんだこいつ……」と思うが、相手の愚痴みたいにぶつぶつ言ってる言葉をなんとか拾って、
「なるほど、同僚さんの意見ってこんな感じですかね。では、こういう要素を挟むのはどうでしょう?」と私なりに頑張って反映させようとする。
それでものすごーく納得行かなそうに「じゃあそれで……」と言うのがお決まりなのだが、
挙げ句に、同僚氏の納得してない方向で進めてるんですから、(私)さんが一人でこの仕事進めたらいいんじゃないですか、ってなる。
これで同僚が無能で仕事ができないというなら放置するのだが、同僚は客受けはとーーってもよく、一人で勝手に仕事をするぶんにはむしろ評価されている。
取引先との人間関係等を握っているのが同僚のことが多く(私より数年早く入社しているため)、この拗ね拗ね状態の同僚から情報をひきだす必要もあることが多いので八方塞がりだ。
上司はなんとなく口を挟んでは来るけれど、根本的に話を理解していない。面談等では、同僚氏と協力して仕事を進めてほしいと私に言ってくる割に、会議のこの有様を見てもなんとも思わないらしい。
そんな状態が続いて、ある日
「はあ、じゃあ、こうしますけどこれでいいですね。これであとでちゃぶ台返しされたら流石に私怒りますからね。」
とかなり不機嫌を滲ませて伝えたところ、この二人が慌ててもう一度意見を練り直す、ということが起きた。
そっぽを向いてよくわからん拗ねを見せていた同僚も
………怒るとこっちの話をまともに聞くんか。
と思った。
それ以来、話をしていて袋小路だな…と思うと、不機嫌さを表に出すことが増えた。
流石にまだ怒鳴ったりはしていないのだが、
こうやって「不機嫌さで他人を動かす」のを自分がしているのがまず嫌だ。
そして、上司も「(私)さん怒っちゃうからさ、ちゃんと話そう?」みたいな態度を取り始めているのもむちゃくちゃに嫌だ。
怒りっぽい女部下と温厚ななだめる上司、みたいなロールに付き合わされている気がするし、
実際怒って見せている自分も嫌だ。
もっと若い頃、怒りっぽい、高圧的に話す女性社員を見て、なんであんなふうにしか話せないんだ…と思って呆れていた。
まともに、順序立てて話せば聞いてもらえるはずではないかと思っていた。
ただ、今年齢を重ねて思うことは、
下から「お伺いを立てる」とか「聞いてもらう」形式ならば問題なく通じていた話が、
それなりに責任ある立場で、同列の目線で意見を求めようとすると急にまともに聞いてもらえなくなる、ということだ。
ただ普通に意見交換をしたいだけなのに、フラットに話したらコミュニケーションが成立しない。
もしかしたら、圧倒的にこちらが出世して上下関係がつけばまた話しやすくなるのかもしれないが、
そうでない今は、感情を強く打ち出して「怖いからさ(笑)」みたいな扱いにならない限りまともに話ができない場面が度々訪れるのではないか。
ただ、正直怒りたくない。怒るのは苦手だ。
こうして土日までひきずって、自分の態度をうだうだ思い悩む羽目になる。
なんとかならんか。
−−−−
属人業務が増えてるのよくないから、このタイプの案件はチームであたるようにしようねえ〜
というお達しにより結成されたチームのため……