はてなキーワード: 受益者とは
プロチョイス派はまったく感情論でしか反論できておらず、「私はそれは嫌だ」としか言っていない。と言うか、そうとしか言えないことが、中絶の自由を含む女権至上主義が、根本的に人権思想と齟齬を発生させていることの現れだろう。理屈で反論できているならばしているはずだからだ。これは中絶の問題だけではなく、トランスジェンダーの問題等、女権が他者の基礎的人権を著しく毀損していることの現れであり、もはや女権の一点突破では人権侵害が許されなくなってきていることにもつながっている。
語るに落ちるとはこのことである。思想信条は個人の自由であるので動機がミソジニーであろうがミサンドリーであろうが関係のないことだ。それはどのみち当人を含めて証明可能性は無いのだ。人権思想に則って論理展開をしているのであれば、その齟齬を提出すればいいのであって、しかしフェミニズム関連ではほぼ100%毎度毎度このようなリアクションばかりである。こちらがミソジニーであろうがそちらがフェミニズムであろうが裁かれるのは行為だ、思想ではない。現に胎児を殺していることが批判されているのである。
生物種としての普通の営みである。私は出産を強制したとしても、マクロでの影響はほぼ無いと思っている。ほとんどの女性が出産していた昭和30年代40年代50年代のデータにおいても男女の寿命格差は同程度だった。出産を間に組み込んだとしても女性は死ななさすぎるのである。寿命格差の是正と言う意味では、もっと死ぬべきだろう。数年単位で寿命が短い(身体が弱い)男性に対して、最悪徴兵制およびそのバリエーションのような女性のみが受益者になる負担を押し付けることが受忍限度内であれば、胎児の生存権との比較で、出産で女性が死んでもそれは受忍限度内である。それが嫌ならば妊娠しなければいいのだ。
私は別に同罪でもいいのだが、根本的には胎児の生存権とのコンフリクトが誰との間で発生しているかの問題だ。中絶が殺人だとした場合、殺人の企画者(両親)と実行者(医師)が殺人罪になるのは当然である。問題はその企画者に男性が含まれるのかどうかである。男性の同意が必要である場合は、当然、企画者に含まれ得る。しかし多数のフェミニストが主張するように、男性の同意が必要なければ、当然、それは女性のみの責任に帰せられる。セックスは関係ない。それは2人の成人同志の合意によるものであり、社会やまして胎児には関係のないことだからである。私的契約なのだから、その範囲内であらかじめ条件や約定をつけておけばいいことであって、生物の構造上、女性が妊娠から逃げられないと言う事実それ自体は、男性には無関係である。女性が自身でそれを踏まえてうえで自己防衛するべきことであり、胎児にその負荷を負わせるべき理由は何もない。つまり中絶に関しては関係者すべてが罰せられるべきであって、男性と医師は場合によっては無関係者でいられるだけだ(非合法の飲み薬などで堕胎した場合)。ただし女性だけは逃げられない。
これは女性専用車両などでアプリオリに痴漢案件とは無関係のゲイ男性などが負担の強制からは逃げられないのと同じことで、他人様に負担を強制させておきながら、自分が選んだ結果で生じる負荷からも逃れたいと言う女たちはまさに「どの面下げて」と言う話である。
見た人全員が受益者にもなれるぞ
前夜東京の六畳半 夢を見てた
5時には消灯不夜城に
開会式ぶち上げて やめられないよね
観客は誰もいない 観客は誰もいない
日本に救いはないよ 早く逝っておいで
難しい話は辞めよう とりあえずアガって酒でも頼んでさ
いつも国民には止めることを
繰り返してる
幼少期の面影は 誰も知っているんだ
ほら真夜中はすぐそこさ
前夜東京の六畳半 夢を見てた
明かりの灯らない被災地
開会式ぶち上げて やめられないよね
スポンサーは誰も来ない
スポンサーは誰も来ない
昨日は寝れなくて
下水の海に沈んでる
僕らを描いたあのグラフの中に
吸い込まれるように
終末旅行を楽しもう
前夜東京の六畳半 夢を見てた
放送権売り切って やめられないよね
前夜東京の六畳半 夢を見てた
新型株発生して
止められないよね
勝者は誰もいない
勝者は誰もいないから
オリンピック選手はオリンピックにでたい、飲食店は営業してお金を稼ぎたい、劇場は公演をしたいし、労働者はお金を稼ぐために出勤しないといけない。
みんな自分の利益が大事なのは当たり前。コロナ防疫が社会全体の利益だといってもその自分への分配分は放棄しなきゃいけない利益に比べたら余りにも小さい。
でもみんなが自分の利益だけを求めていたら社会は成り立たないのでそれを調整するのが政治の役割だ。
個人が自らの利益を求めるのは当然でしょうがないので「自粛と補償はセット」のようにその利益を満たしてやる代わりに
防疫に協力させる取引を引き出すのが政府の役目で、それがうまくできない日本政府がはてなにおける批判の対象であったはずだ。これまでは。
ところが変異株によるかつてない感染拡大の恐怖でそんな悠長な建前はあっという間にポイ捨てにされ、もはや「個人の利益」が直接攻撃の対象となった。
五輪の間接的な受益者ではあるものの決定権者でも何でもない池江に「私は自らの利益なんて求めません!」と宣言しろと踏み絵を迫ってるのである。
かつて自粛警察の攻撃対象は「実際に営業してる店舗」であったが事態はより先に進んだ。これからはもう「出来れば営業したいという願望」すら許されない。
「コロナが収まるまで喜んで営業を放棄します」と宣言し店に張り紙を出さないと焼き討ちにあうのもそう遠くない。
通勤だってそうだ。「会社がテレワークにしてくれないからしょうがない」なんてのはもはや甘えだ。
「なぜ会社を辞めない。そんなに自分の金が大事なのか」と糾弾される世の中までもう少しだろう。
既に飲食店や劇場が池江を叩くこん棒にされてるように、そうやって屈服させた事柄を新しくこん棒にして「〇〇は我慢してるのにお前は何をしてるんだ」とあらゆることを叩いて回る。
近所のスーパーに3日に一度買い物に行くことすら批判の対象になるかもしれない。人間は生鮮食品がなくても保存食とサプリで生命維持が可能だから。
はてなでは非モテ論の影響が大きいから弱者男性もその延長として捉えられやすいが、非モテ論のような内面的な観念論はここでは捨てる。
男性は年収と婚姻率がきれいに比例していることはよく知られており、年収300万円未満だと婚姻率が10%となる。
10代20代で年収300万円以下は除き、30代以上で年収300万円の男性のうち未婚の者を弱者男性と定義する。
なぜ婚姻が重要か。それは未婚男性という属性が他の属性と比べ明白に寿命が短い、つまり生存権が脅かされていると考えられるからだ。
未婚男性 | 男性全体 | 未婚女性 | 女性全体 | |
死亡年齢の中央値となる年齢階級 | 65〜69歳 | 80〜84歳 | 80〜84歳 | 85〜89歳 |
---|
参考 https://data.wingarc.com/marriage-and-longevity-29801
原因は色々考えられるだろうが、生存権という最も根源的な人権が損なわれている属性があるならそこにまずは社会として救いの手を差し伸べるべきではないだろうか。
舞田さんの記事によると独身男性の死亡年齢の中央値は66.1歳とちょうど、年金給付が始まって一年で死亡することになっている。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/06/post-93638.php
もちろん、独身男性の死亡年齢の中央値は年々増加しているが年金支給年齢もそれを追いかけるように高くなっている。
年収300万円で考えてみると厚生年金保険料は年間28万1820円になる。更に40歳以上になると介護保険料もそれに加わってくる。
年金も介護も受益できる見込みが無いのに関わらずに支払い義務のみある。
応能負担は支払いができる能力があるものに支払ってもらうという考え。所得税の累進課税なんかがこれにあたる。
応益負担は福祉の受益者が負担するという考え。保育園の保育料の支払いとか。
弱者男性は収入もなく、福祉も受益しないのに関わらず負担をしているのは貧しいものから富めるものへの所得移転ではないか。
未婚男性の寿命が短い原因は厳しい労働条件に追い込まれている、余裕がないために飲酒などに溺れる、病院を嫌うなどが言われているが
彼らも年間28万1820円の余裕があればもう少し丁寧な暮らしでセルフケアができるんじゃないかと思わないでもない。
※追記(2021/05/06)
弱者男性を福祉の枠組みから外すと読まれたことに驚いた。もちろん、社会福祉はすべての人に必用なのは言うまでもない。
年金の事例をあげたのだから当然、専業主婦(主夫)向けの第3号被保険者のような掛け金を払わずに福祉を受益できるようにするべきと考えている。
凄く面倒くさい人々に絡まれそうだからTwitterには書けないのでこちらに書きたいと思う。
という部分に集約されるのではないだろうか。
もちろん障害者福祉は健常者にとってもセーフティネットであり、無関係の負担で自分が受益者でないと考えるのは不適切である。
だけれども、セーフティネットはセーフティネットであり、その本質は保険である。
保険とはリスクに対して相応の分をかけるものであり、分不相応な保険は必要ないと感じるのは当たり前のことだ。
コストの大きすぎるセーフティネットに対して、「果たしてここまでの福祉が必要なのだろうか」と感じるのは、これも当たり前のことだろう。
KAMEI Nobutaka
少数派による鉄道利用の要望に対して、特権だのワガママだの感謝しろだの言っている多数派の人たちは、駅の階段を一段ずつ歩み、改札を素早く通り抜け、車内のシートに座り、車内放送や電光掲示板で情報を手に入れるたびに、毎秒毎分のように深々と頭を下げて感謝のことばを述べ続けたらいいと思います
そのくらい、多数派は、常日頃から、本人たちもまったく気付いていないくらいのレベルで、圧倒的に優遇され、保護され、配慮され続けているのです。
なぜ?それは、ただ単に「数が多い」というだけの理由によります。
そういう自画像をきちんと手に入れてから、考え、ものを言いましょうね
以上
このツイートに代表されるように、JRに対して感謝の気持ちがないのは当たり前であって、伊是名夏子は自身の当然の権利を享受しているだけであり恥じ入ったりいちいち感謝したりする必要はない。という意見がある。
それは法解釈や人権思想的には正しくそうなのだが、現実にはその負担は健常者社会が負担しているわけで、障害者が望む高福祉社会は健常者なしでは存在し得ない。むしろ、障害者が増えれば増えるほど福祉は下がっていくだろう。
(これは要介護の障害者が50%いる社会を考えてみればわかると思う。1%であれば要介護者にヘルパーが数人つきっきりで介護することは可能であろうが、50%ではどう頑張っても無理なことは自明)
その事実を考えると、やはり障害者サイドは健常者にある程度の感謝と慎みを持って生活していくしかないのではないかと思う。
障害者が生活の全ての面であまりにも多くの負担を健常者サイドに求め、バリアフリー化の工事を全駅で行う努力が必要などと言えば、セーフティーネットの維持があまりにも高くつくと思い、健常者は冷淡になる。
うんざりした気分で一連の議論を眺めていたが、その中によい論考をみつけた。
そう、まさにそれが言いたいことなんだ。わーー 伝わってた!!
雨の日も風の日も弱者男性論を主張してきたが、今日初めて、辛くても続けてよかったと思えた。
(モテるモテないは)容姿・性格とか色々な要因のせいであり、異性が悪いとか国のせいだとかは思わない。自分に限らず世間全体だいたいそう思ってるでしょ。
でもこの構文で貧困とか低賃金みたいな社会問題を「お前の能力の問題」みたいに切り捨てることもできそうな気がして怖いんだよなー。
怖いんだよなーとは言ったけど、実際には「お前が稼げないのはお前の問題」みたいな発言はたいてい怒られるわけじゃん。少なくとも最近は。モテの話と違いがわからん。
違いなんてない、が俺たちの主張の出発点なんだ。
なぜかフェミニストと対立しているように言われがちだが、「個人的なことは社会的なこと」っていう彼女らの主張を俺たちもまた信じている。一人一人の行動にその人の価値観が現れて、それが社会に影響する。社会の価値観が個人に影響する。人間社会は1つの巨大なシステムだ。
日本でも遥か昔にはオッパイの大小なんてどうでもよくて面長な女性が好まれた時代があった。どんな異性を選ぶか? は文化の影響を強く受ける。文化は、社会だ。
披露宴の馴れ初め紹介で「はじめて会ったとき、おカネ持ちだな、と思いました」とか「乳房が大きいなと思いました」とか言う奴はいない。本当はみんな解っている。それは表で胸を張って言えないような邪悪な価値観だって解っている。
かねてから自己批判なき差別論はクソだと思っていた。反省の結果、自分もまた差別構造の被害者であり受益者でもあることに気づいた。だがもはや目を瞑って自身をあざむくことはできない。だから俺は批判する。何と言われようと。
社会問題と個人の自由を都合よく切り替えて救済対象から外すのはダブルスタンダードだ。欺瞞で保護された理不尽が、結果的に弱者男性を追い込んでいるんだ。
コメントの別の人の返信について。
ならば俺はネットで仲良くしていた異性が実際に会ってみて…
交際を打ち切るわ。でも相手がそれをツイッターで喧伝したら、お前らは容赦無く俺を総バッシングするだろ?
お前たちのそういうところが好きだ。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 89 | 13129 | 147.5 | 47 |
01 | 71 | 4307 | 60.7 | 20 |
02 | 49 | 6315 | 128.9 | 49 |
03 | 46 | 4147 | 90.2 | 44 |
04 | 45 | 3288 | 73.1 | 35 |
05 | 24 | 4645 | 193.5 | 59 |
06 | 38 | 2353 | 61.9 | 43 |
07 | 81 | 5870 | 72.5 | 42 |
08 | 61 | 6848 | 112.3 | 55 |
09 | 115 | 17905 | 155.7 | 60 |
10 | 120 | 11002 | 91.7 | 44.5 |
11 | 196 | 16931 | 86.4 | 42 |
12 | 173 | 11399 | 65.9 | 42 |
13 | 127 | 10151 | 79.9 | 48 |
14 | 89 | 10234 | 115.0 | 53 |
15 | 105 | 7369 | 70.2 | 35 |
16 | 127 | 9376 | 73.8 | 36 |
17 | 128 | 19301 | 150.8 | 47 |
18 | 113 | 11704 | 103.6 | 45 |
19 | 165 | 30361 | 184.0 | 52 |
20 | 157 | 14487 | 92.3 | 43 |
21 | 117 | 14721 | 125.8 | 63 |
22 | 141 | 18950 | 134.4 | 47 |
23 | 138 | 12461 | 90.3 | 34 |
1日 | 2515 | 267254 | 106.3 | 45 |
戦機(3), たどりつき(3), ひまわり(15), クソスペ(3), 馬渕(3), 男性学(3), ほんまもん(3), タワーディフェンス(3), 墓石(8), 社会学部(4), 受益者(3), 見目麗しい(3), 弱者男性(42), ステマ(17), 下方婚(27), 学級(14), アウトプット(7), MMT(6), モラル(11), 冷笑(6), 献血(8), 批評(7), シン(9), 社会問題(9), 資格(32), 庵野(9), 配偶者(11), 起業(12), 有利(12), リベラル(27), 救わ(14), フェミニズム(16), 主義(10), 消費税(10), アップデート(10), 逃げ(25), 引用(10)
■ブクマカ「この件については判断保留」 /20210403055237(30), ■リベラル派男性として「弱者男性論」に賛同できない理由 /20210403165033(26), ■友達と思っていた人から切られるということ /20210402215944(21), ■現代で資格取る奴ってマジで頭悪すぎじゃない? /20210402142842(15), ■ペアーズ婚活必勝法(女性用) /20210403142548(11), ■新社会人になれなかった者による戯言 /20210401174952(11), ■墓石ってさあ /20210402195241(10), ■ /20210403025039(10), ■辛かったら逃げても良いんだよ ← これやめろ /20210401222557(10), ■ジャンプ+がガンガンONLINEに勝った無常を感じる /20210402224412(9), ■ /20210403162924(9), ■ギター:ギタリスト ベース:ベーシスト ドラム:ドラマー ← なぜなのか /20210403112832(9), ■中国人と繋がりたいんだが /20210403160752(8), ■国民が求めるであろう第三次安倍政権 /20210402162411(8), ■色んなコンテンツのアンチを見てきて気づいたんだが、筋の通った叩かれより、筋の通らない叩かれの方が危険信号 /20210403114733(8), ■家族として過ごす意味 /20210403001257(8), ■お前らに一生のお願いがある /20210403223049(7), ■関西人のボケツッコミを強要する同調圧力キモすぎだろ /20210402194438(7), ■4月のオススメ教えて /20210403070509(7), ■KKOはエヴァに乗る機会なんて与えられない /20210403185333(7), ■社員に窃盗の疑いをふっかけた /20210327125834(7)
元の記事と思われるものを読んできたが、元の記事は学問や知識がどういうものか、「知る」という営みにどういう意味があるのか、に重点をおいて語っていた。他方でこの記事は学校教育がなぜ必要かを語っていて、少々論点がズレているような気もしなくもない。
「教育の受益者が社会だ」、この主張には概ね納得。ただ勿論、教育にも功罪があって、例えば優生学や社会進化論を下敷きにして作った教育はファシスト的なものになるかも知れない(それこそ周りを見下すための教育になりうる)。或いは、歴史教育。隣国との領土問題や過去の戦争問題を語ったり聞いたりする時には、歴史の知識を使うわけだけれども、教育で与えられた知識をそのまま(或いは自己流に解釈して)使った結果として、隣国との対立が続いたままになっていたりはしないだろうか?この記事も学問や教育の善を部分的に語っているわけだけれども、その悪も合わせて知らせないと、そこから生まれる社会は少々歪になるかも知れませんね(ここが我々の現在地かも知れません)。
教育制度の論点からするなら少々話がずれるかも知れないが、主体的な学びであるならば、広義の「学ぶこと」「知ること」「考えること」それ自体は社会のためであれ、個人のためであれ良いように思う。個人的な興味から幼少期に好きだった昆虫や恐竜を探究するもよし、文学を学ぶもよし、災害から街を守るためにインフラ整備について学ぶもよし、娯楽である家庭用ゲームについて個人的に考えるのもよし。
教育から与えられた「勉強」がなくても生きること自体はできるだろう。しかしながら、自分から何か(扱うものは極端な話なんでもいいんです)を知ろうとする時に「勉強」がないと困るのも事実だ。我々が文章を読めるのは、どんな形であれ共通のコードとして教育があったからだ。映画や音楽、詩や文学、(極端だが)ブログなどの娯楽を楽しめるのも、部分的にそのコードに沿いつつ「主体的に何かを学んだ人」がいるからのように思う。「勉強」がみんなで楽しめるものの基礎の部分を作っていること、社会や文化の一部を作ってきたことも否定できない。
ざっとまとめるならば、「勉強」と「主体的な学び」に乖離があるのは事実かも知れないけれども、「勉強」が個人も社会も(物質的にも内面的にも)豊かにしうることは事実かも知れない。勿論、どちらにも功罪はあるけれども、一見無駄に見える「勉強」であれ、「主体的な学び」であれ、我々が何らかの形で日常的に使うものであることは否定できないはずだ。
(長文失礼しました)
「どうして勉強しなきゃいけないの?」と子どもに聞かれて俺はこう答えたという内容の増田が先日ホッテントリに上がっていた。読んだ。クソおもんなかった。
とはいえあれを書いた増田だけを責めようとは思わない。「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対する大人の答えはいつだってクソおもんないからだ。
この話題はネットではたびたび繰り返されるが、そこでなされる答えは往々にしてフワッフワしていて説得力に欠けクソおもんない。
その理由はぶっちゃけはっきりしている。嘘をついているからだ。
なぜ嘘をついてしまうのか。そもそも勉強しなければいけないというのが嘘だからだ。にも関わらず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にひねり出すから、そこで語られる内容はフワッフワして説得力に欠けるものにしかならない。
「俺は今の仕事で学校で習ったことが役に立ってる」と言う奴がいる。そらそういう人もいるだろう。しかし、例えば学校で医学や法律の知識を教えれば将来医者や弁護士になる人にとっては確実に役に立つにも関わらず一般的に高校までのカリキュラムに医学や法律の勉強は入っていない。一部の職に就いた場合に直接的に学んだ内容が役に立つというのは子どもが勉強しなければならない理由としてはあまりにも弱すぎる。だいたい、役に立つかどうかでいったらゲームで遊んだり漫画を読んだりすることすら役に立つのだ。そういう経験は将来特に同年代の人との間で共通の話題となりコミュニケーションを円滑にする場合が数多くある。エンタメ業界で働く人にとってはもっと直接的に職業上役立つ経験となるだろう。どんなことだって何かしらの形ではその人の糧となるのだ。
「勉強をすると想像力が養われるのだ」と言う奴がいる。「優しくあるためには勉強する必要がある」と言う奴すらいる。じゃあたくさん勉強してきたであろう高学歴の人たちを見てください。悪口になるからこれ以上は控える。
そもそもの話として勉強というのは誰もが適応して付いていけるものではない。方程式はおろか九九すらままならないような人だってたくさんいる。だけどそういう人たちが生きていけてないということは全然ない。勉強に付いていけなかった人たちもその人なりのやり方で立派に生きている。そういう現実がありながら勉強しなければいけないと言うことにどれだけの説得力があるだろうか?
ではなぜ大人たちは「別に勉強しなければいけないなんてことはない」ということを認められず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にでもひねり出そうとしてしまうのか。
ひとつの理由は実際に勉強して高い学歴を得ることは収入や社会的地位といった点で人生を有利にするからだ。大人からすると自分の子ども(や甥や姪)には有利に人生を歩んでほしい。だから勉強してほしい。だけど、それを勉強しなければいけない理由として語るのは利己的な動機すぎてあまりにもあんまりに思える。だからなんとか勉強しなければならない理由として美しいものをひねり出そうとしてしまうのだ。
そしてふたつめの理由は大人は子どもたちに勉強させなければならないからだ。
こう書くと「いやお前今さっき勉強しなくていいって言ったばっかじゃん!」というツッコミが入るだろう。違うのだ。「子どもは勉強しなければならない」と「大人は子どもたちに勉強させなければならない」は全く話が違うのだ。後者は正しいが前者は間違っている。そしてここを混同してしまうがゆえに「勉強しなければいけないなんてことはない」ということに違和感があり認めづらいのだ。
何が違うのか。「勉強しなければいけない」というのは個々人レベルの話だ。個人として勉強した場合の利益やしなかった場合の不利益がどうかという話になり、勉強することによって得られる利益を放棄したからといって生きていけないというわけではない以上別に絶対に勉強はしなければいけないものではない。
一方で「子どもたちに勉強させなければならない」というのは社会レベルの話だ。「勉強させなければならない」という言い方に強制のニュアンスが混じるのに違和感があるなら「勉強する機会を与えなければならない」に言い換えてもいい。
初等教育が充実していてほぼすべての人が読み書きや基礎的な計算をこなせる社会とそうでない社会を比較した場合、前者の方が豊かで力があることは明らかだ。そして初等教育から中等教育、高等教育に接続される子どもが多い社会ほど、より高度な人材が育ち、豊かで力のある社会になるというのもこれまた明らかだろう。
教育の本当の受益者は教育を受ける子ども個々人ではなく社会全体なのだ。
日本国憲法第四条には教育の義務について書かれているが、そこに書かれている文言は「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」だ。子どもに勉強する義務があるなんてことは書かれていない。書かれているのは大人は子どもに教育を受けさせる義務があるということだ。ここまで俺がしてきた話とぴったり一致している。
まとめると、「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問い自体がそもそも微妙と言える。間違った問いに沿って考えると不毛な議論しかできない。
そこで問いを「どうして社会は子どもに勉強させなきゃいけないの?」に変化させると、視点が変わり、より本質的な議論ができるようになるだろう。
多くの人が「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対して「自分は勉強してきたおかげでこんないいことがあったよ」というような個人の経験ベースの答えしかできていないという事実は結局勉強なんて期待されるほど人間を賢くしないということを示唆している。
俺は知性の働きとして特に重要なものは自分というものを相対化できることではないかと考えている。だから知的な人間には「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問いについて考えるのであれば我々と異なる国や時代では勉強というものがどのように扱われているのかであったり、現在の教育制度がどのように形作られたのかであったり、そういったものを気にしながら考えてほしいと願っている。自分で答えは出さずにそういったものを子どもに調べさせる、考えさせる、というのもいいだろう。
だけど多くの人はそのような発想はせずに自分の経験の中から答えを出そうとしていた。人生の早い時期に勉強からドロップアウトした俺のような人間がそういった思考のアプローチに思い至っているのに、俺よりもはるかに勉強してきたであろう人たちがそんなんであるというのは、つまるところ勉強しても人はそんなに賢くならないという残酷な事実を示しているように思えてならない。
元々はオリンピック賛成だった。
その理由は
って考え。でも今は
ので反対。
また、IOCも組織委員会も、失敗してコロナが再流行した場合の損失を補填する立場に無いから、きちんとリスクを評価できていない。
強行したら儲かる一方で、感染者が一日1万人出ても、ワクチンの効かない変異株が現れても、何にも賠償する責任を負わないのだから。だから彼らはやると言うに決まっている。
連中は、ギャンブルで自分ではなく他人の金を賭けて、しかし当たったら自分で利益を得られる、そんな状況だ。
そんな情況で、リスクの大きい賭けをすべきの判断なんぞ、まともにできるわけが無い。
もうリスクと利益のバランスが無茶苦茶になっているんので中止にすべきだ。違約金を払った方がまだマシだ。
今の状態は、開催することでIOCは利益を得るが、その利益を得るためのリスクを負っているのは東京都民、日本国民という状態になっている。
故に、せめて行うなら、コロナウイルスが再流行した場合に発生した経済損失をすべてIOCが負うという条件が必要だが(つまり受益者とリスクを負う者を同一人物にしておくことが必要だが)現実的では無いだろう。
故に中止にすべきだ。
出場できない選手?いや、スポーツ選手はやりたくてやっている、自らやりがい搾取の場に身を置いているので、経済的に考えると放置でよい。
https://yt3079.hatenablog.com/
◎日本人は毎年数十万人単位で急減の一方で、移民(外国人住民)は毎年増加(コロナ渦で数年はずれるが)を続ける
→日本人と移民の人口比逆転は時間の問題「40年後の40才以下の3人に1人は移民?」
(出生率に変化がなければ、将来の人口動態もほぼ推計通りになる)
◎約90年で人口が半減するスピード(しかも子供が少なく老人が多い)。人種単位の持続性の観点では有事であり、危機的非常事態。それなのに対策は後手後手
→例えば、ウイルスの蔓延は現在進行形で悪化のスピードが早く、人権を制限してでも効果的で思い切った対策をとる機運も生まれやすいが、少子高齢化はダメージの時間的スピードが遅いために、切迫感が低く、結果、対策が「常に」後手に回る。
◎現状の育児支援中心で自由意志に期待した少子化対策は30年以上、毎年失敗の連続。政府自治体の対策の対象世帯である「産みたくても産めない人。結婚したくてもできない人」はどれだけ存在するのか。被害者感情に流される対策は効果が出ていないのが現実。
→本当はお金ではなく、大変だから子作りをしたくない。面倒だから結婚したくない。だから育児支援で保育所をいくら作っても、育休を増やしても結婚に結びつかず、子供は増えない。(平均年収の倍で待機児童のない東京都千代田区の出生率は全国平均以下)
◎出生率低下の要因は未婚率の上昇と多産の減少。その原因とされる「格差拡大説」はどこまで正しいのか。
→独身に低所得者が多いのは「原因ではなく、結果」。1970年代までは、低所得者(年収200万円以下)でもほぼ結婚して子供がいたが、現在は戦時中よりもはるかに低い出生率。日本を含む先進国は生活が多様化しており、コスト要因の結婚の必要性と優先順位の低下により、低所得者から結婚を回避するようになった。
◎子作りしたい人への環境支援ではなく、子作り「したいと思っていない人」に子作りを促す対策が重要
→既婚者の完結出生児数は約2人であり、現実として子作りをしたい人は支援に関係なく、子供を作っている。問題は出生率低下の要因である未婚者の急増であり、結婚を諦めている人、意欲に乏しい人にどう働きかけるかがカギ。結婚は個人の自由だが、その自由により、社会の持続性を大きく損ねている。
◎動機に働きかけ効果だけ求めた少子化対策は次の通り。「3大義務同様に子作りの努力義務化の指針」「第3子以降に1000万円超など、多産ボーナス」「子作り負担のなく福祉を受ける40才以上の独身は増税(実質的独身税)」
→早婚に金銭的メリットが生じて、相手の理想ハードルが下がり、これまで結婚できなかった層も結婚相手の対象に。育児放棄など社会問題の増加より、少子化放置で起こる社会問題の方がはるかに深刻。消費性向の高い育児世帯と若年人口が増えれば内需が復活。
◎少子化対策の失敗は、効果でなく倫理的視点(受け入れられやすい育児支援のみ)で選ぶから失敗する。本来、負担の大きい子作りに対し、反発のない対策は効果も期待できないはず(作用反作用の法則)。先祖の多大な負担があったからこそ、現代人が存在する。現代人が身勝手な倫理やモラルで負担回避を正当化すれば、将来世代は先細りの一方。
→目的(少子化解消)は手段(人権に問題があるが効果を見込める対策)はを正当化するのか。メリットがデメリットを上回れば導入すべき(人が減り続ける悲惨な社会になっても、子供を作らない自由意思尊重が大事なのか? 倫理観や同義性の遵守より、手段が受け入れ難くても「問題解決を優先」すべき)
★本稿のポイント
少子化対策の「思い込み=(人権やモラルは少子化解消よりも重要)」を解消し、少子化対策にのみ人権やモラルを我慢すれば、効果的な対策を実行でき、少子化問題は解決可能。昔の子沢山を成立させていた周囲のプレッシャーや後継、労働の担い手などの子供が生まれる要素が無くなった現在、「法律一本の施行」で制度を作り、子作りに動機を与えて出生率の上昇に繋がる具体策を提案する。それを実行するには、いかにしてハードルとなる人権や倫理観を我慢してもらうのかの説得が少子化対策の本質にして、本稿の最大のテーマだ。少子化が解消し子供が増えれば、内需が復活し日本経済も回復する。本書では、このままの少子化状況が続いた場合の日本人に訪れる悲惨な運命とそれを回避するための、効果を優先した対策を提案、解説する。
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近代社会学の祖オーギュスト・コントは「国の未来は人口構成で決まる」と見抜いたそうな。人口を減らしながら常に高齢者が多い逆ピラミッド状の人口構成では、衰退は避けられません。合計特殊出生率1.36(2019年)と低迷を続ける日本。このまま人口が減り続ければ、国の発展以前に現日本人が将来的に存続できなくなります。存続できない可能性が高いのではなく、日本人の出生率が2を切り続ければ将来的に存続できなくなるのは物理現象です。それに対し、どこか他人事の日本社会と政治に問題意識を投げかけたいと思います。
問題は解決するより、発見する方が困難です。個人も組織も、自ら気づかない潜在的な問題により、傾いていきます。少子化問題は極めて深刻な問題にも関わらず、政府の少子化対策関連予算は先進国の中でも総予算に占める割合が低く、口では声高に危機感を高めていると言っても、財政支出の観点からは本気度が極めて低く、問題視していないレベルと明確に言えるでしょう。2019年末に決まった26兆円(真水4.3兆円)の経済対策でも少子化関連には1円も使っていません。使い先は電線の地中化など。。
現状の少子化対策は育児支援など環境整備の観点しかなく、30年間も同じような方向性の政策しかとられておらず、改善の兆しが全くないのに、「地道にやるしかない。環境整備が大事だ」と言い続けています。一方、日本人が減り続ける中で、近年の政府は実質的な移民政策に大きく舵を切りました。100年後の日本列島は日本人と移民の混在する国になっています。さらに、それ以降も出生率が大幅に回復しない限り、容赦無く日本人は減り続ける一方で移民の割合は増え続け、その時の日本国籍のルーツは海外由来になっている可能性が物理的に極めて高くなります。公用語が中国語などに変わっている可能性も十分あるでしょう。
そうはならない為の少子化対策。現状の育児環境改善策以外にも、視点を変えれば効果のある対策はあるはずです。出産育児は個人の権利に関わる問題ですが、残念ながら環境支援だけで結婚、子作りの有無を自由意志に委ねた現在の少子化対策では増えていない現実があります。それを改善するためには、より、子作りの動機付けに導く政策が必要であると考えます。しかしそういった対策は、個人の自由意志に反する可能性のある対策であり、モラルや倫理観の問題で実行に大きな障壁があります。しかし、動機付けの対策に有効性があって少子化が改善される可能性があっても、現代人のモラルや人権を優先すべきなのでしょうか。その優先順位がどうあるべきか、問題提起したいと思います。
少なくとも現状の育児支援中心の対策より、効果が見込めそうな対策を、モラルや現代人の自由や権利を理由に放棄してもいいのか。現代人のモラルや価値観はその人種の存続や持続性以上に重要な価値観なのかーー。
このように、少子化対策の具体策だけでなく、タブー視される少子化対策問題に対し、「どう向き合って、どう考えるべきか」。そういった観点を問いただすような内容になります。現在出尽くしている対策や論点とは違った観点と具体的な対策を提案し、実効性のある少子高齢化対策に繋げたいと思います。
【要点・トピック】
現状の少子高齢化が改善しないまま、実質的移民の外国人労働者を受け入れ続けると、いずれ日本人と移民が「人口比で逆転」する事になる。日本人の為の日本ではなくなり、多民族国家に変わる。日本人と外国由来の国民・住民の人口構成逆転に繋がる現象はすでに進行しており、人口構成比の逆転は時間の問題。不可逆になる前に手を打つべき。
政府、自治体の育児環境支援ばかりの少子化対策は結果が出ておらず、失敗との結論付けが必要。国民の自主性に任せれば、少子化は進行する一方。少子化の構成要素である未婚率の高まりは少子化現象の原因ではなく結果。日本を含む先進国が直面する少子化の原因は文明化による価値観の多様化で、結婚と子作りの優先順位が下がった事による晩婚化、非婚化が進んだ影響。現状の育児支援中心の対策の方針を「大幅に変えないと」今後もさらに日本人は減り続ける。子作りの動機付けをアメとムチの両面でやるくらいでないと解決は難しい。効果的な対策を打てば「翌年から」出生率は著しく反応する事が過去の事例からも分かっている。子供が増えだし、出生率が2を越えれば、日本の将来は明るい。
モラルや倫理観、自由意志を優先して、負担感のある少子化対策をせず、現状の効果が上がってない対策をなおもやり続け、その結果このまま滅びるか、逆にモラルや人権をある程度我慢して、有効性のある対策を実行し、安定した持続性のある社会にするかーー。
続きは以下にて
https://yt3079.hatenablog.com/
◆このまま人口が減り続けると、どうなるのか
政権に関係なく、労働や消費の担い手不足という現実問題に対応するため、政府や経済団体は、外国人労働者という形態で、実質的な移民(国連の定義では1年以上住む外国人)の受け入れをさらに推し進めるようになるだろう。実際、2018年の「骨太の方針」でも外国人労働者受け入れ拡大の方針が決まり、2019年4月には改正入管法が施行された。彼ら外国人が高齢者になった時、どうなるか。もちろん追い返す事はできず、いずれは外国人移民の高齢化問題も出てくる。
このまま、日本人の人口減少分を外国人で補おうとすると、コロナ渦で数年はずれ込むだろうが、基本的には時間の進行とともに、日本人と外国人の比率が相反し、やがて逆転することになる。この点ははるか先の未来の事として、ほぼほぼ論じられていない。このままでいいのだろうか。すでに東京都内ではかつて外国人が多かった街は新大久保と観光地くらいだったが、今や主要繁華街で昼夜問わず、その割合は静かに増え続けている感がある。
◆出生率の数字は「人口が減っていくかもしれない」危険指数ではなく、数値が2.0を下回る状況が続けば「いつまでに人口がゼロになるか」の確定年数を導ける指数。内戦中のシリア、アフガンや北朝鮮より先行きが危ない少子化日本。
出生率を人に問うても、いまひとつ危機感が薄い。出生率低下と言っても、「人口がゼロになる事は無いだろう」「単なる警告信号のような数字だ」と、漠然と認識する人は多い。しかし、出生率の1.41という数値は男女2人の親から約30年後の次の出産サイクル時の出生数は1.41人しか生まれてこない計算だ。これを分かりやすく1人に置き換えると約0.7人になる。1年間の出生数が87万人(2019年出生数)だとすると、この世代が、第一子を生む頃の30年後は87万×0.7の約60万人、その30年後は約42万人。その30年後は約30万人とどんどん減り続ける。そんなバカなと思うかもしれないが、実際、第二次ベビーブームの1973年は209万人の出生数で、彼らが出産適齢期になった30年後の2003年あたりは不景気の影響もあって、出生率が1.26程度まで減っており、その結果、113万人と親世代の半分程度の出生数に落ち込んでしまった。団塊ジュニア世代は就職氷河期世代で不況と重なる運の悪さがあったが、現実的に、出生率が2を切ると、容赦なくその数値の割合だけ、出生数は減り、人口が減り続けるのである。
この危機感の無さには、「出生率」と言う単語にも問題があるのではないか。2018年に国会を通過した「働き方改革」も「残業代カット改革」なら法案は通らなかっただろう。それほど名前は大事だ。言葉は悪いが「人口半減期」のような数字で、出生率を人口が「半減する期間」で示した方が分かりやすいのではないか。例えば、今の出生率が続くと人口の半減期はおよそ80~90年だ。つまり、2100年ころには日本の総人口は6000万人に半減している計算だ。今の出生率が続いた場合に、半減するまでの期間を書いた方が、危機感は伝わり易いだろう。
内戦のシリアやアフガン、独裁政権下の北朝鮮ではいずれも出生率が2を上回る。いくら、内戦や政治不安で経済状態が悪くても、それにより大規模な内戦に発展しない限り年間1万人も死亡する事はない。しかし、日本では団塊世代が平均寿命を迎える2030年頃は年間170万人程度の人口減を経験することになる。そして、今後70年かけて日本の総人口が6000万人に減少すると予測されている。結果的に早く滅びる国がいい国と言えるのだろうか。
◆現日本人が外国人(実質的移民)に徐々に置き換わり、日本人はやがて少数派に転落して、いずれゼロになる・・・100年後に純粋な日本人は消滅へ。アメリカではすでに16歳未満で白人が過半数割れ。
「移民が来ても、混血化するから日本人の血は残るはず」というのは大きな誤解である。出生率が2を割っていれば、人口減少は続き、その減少を補うために、時間の進行とともに、外国人移民が入り続け、日本人の血はゼロになるまで混血化しながら希釈化され続けていく。
2020年6月には国勢調査局の統計を基にAP通信がまとめた情勢によれば、アメリカではすでに16歳未満で白人人口が初めて半分を割ったという。流入が急増するヒスパニックや黒人、アジア系に対し、白人人口が増えなかったためだ。アメリカでは1990年に75%だった白人の割合は2020年現在は60%に急減。たった30年で約20%も人種割合が低下したことになる。さらに2045年までに白人人口が半分を割るという推計がある。白人の出生率が2を切り続けて増えず、白人人口がゼロに向かい減っていく一方で、ヒスパニックとアジア系の流入がその穴を埋めているためである。アメリカの出生率は2を上回っているが、それはヒスパニックを中心に移民の出生率が高いためである。現在、アメリカは多民族国家だが、そのうち白人が減り、やがて黒人とヒスパニックだけの国になり、逆に多様性は少なくなっていく可能性が高い。
私の考えを書いてみる。
シンプルに言うと、「対『社会』において、自分の選択や行動に、手応えや見返りは基本的にない。だからといって、無意味ということにもならない」となります。
例えば投票とか、自分が投じた一票単体って全然選挙の行く末を左右してそうに見えなかったりするじゃないですか。(選挙の細かいロジックや一票の格差問題、死票に対する考えとかは本筋でない。個人としての手応えのことだけを言っている)
でも、かと言って投票したことは完全に無意味ってわけじゃないんですよね。1票が積み重なって何十万票にもなっているのだし、投じた候補が当選しなくても、数字は出るし、投票率にも微細に貢献するし。
例えば私は基本的に信号を無視しないし、交通法規をかなりていねいに守るけれど、そこに見返りなんてほぼ感じてないです。ただそこに意味はありますよね。あるいは損失を回避するという見返りがある。とはいえ、それはやはり訪れなかった悪い未来であって、実感としては伴いようもないんですが。
こんなふうに、見返り・手応えが『ない』のはわりと普通のことだと思うんですよ。自粛の受益者は社会であって、我々個人じゃないので。いくら我々が社会に含まれているとは言っても、身に染みませんって。
だから、「見返りがないからつらい」ことまでは同意した上で、「でも、そもそも論として、こういう自粛に、わかりやすい見返りとかは特にないと思います」と私は思いますね。むしろ逆に、「見返りや手応えがない取り組みに、我々はどれだけ付き合えるのか?」という問いこそが大事だと思っています。
普通はさ、意味が感じられないことってやってらんないはずなんですよ。説明されてようやく「なるほど、そういうことなら」と気乗りするぐらいが普通です。多くの人が交通ルールを守るのは、事故の悲劇をよく知り、ちゃんと踏まえているからで、常に明示的な見返りの実感があるからではない(=実感がなくても見返りが『実際にある』と【知識で】確信できる)からでしょう。
だから、「もう我慢したくないや、無理」って感じるのはとてもわかる。というか私も気分としては思う。気分的なことに限らず、経済的な、あるいはその他のあれこれの事情も当然あることでしょう。
しかし、この世界的な未曾有の危機において、モチベの維持までも専門家や他人の説明に甘えて、意味がある(はずの)ことを放棄する気にも私はなれないんだよなあ。手応えも見返りもないけど、無意味だとも思わないんで、できる自粛を続けるつもりです。でも、他人に強制まではできない、とも思います。人それぞれ、守れる範囲も違うはずだし。
ある個人は「いや無理、付き合いきれません」となっても仕方ないと思うし、逆に「やれやれ、もうちょっと耐えるか、無意味じゃないしな」と思える人が、多く居れば居るだけありがたいのではないでしょうか。
あるいは、交通ルールのように、知識によって「見返りが既に『ある』」と認識できれば、自粛する意義もとらえやすくなるかもしれませんね。医療崩壊が防げる、というのは(既に防げてないのかもしれないけれど、だとしてもその崩壊からの脱却は)、それはもう超絶素晴らしい成果に違いない、と私は確信しています。よって、医療崩壊を防ぐためなら大抵の我慢はやったろうじゃんよ!という気持ちです。何より自分が感染しないこと、それが最大の成果だと自分に言い聞かせる毎日です。
そして、「無意味ではない」ということまさにそのものが、最小限にして最大の、確かな見返り、と思うしか……ないんじゃないですかねえ。
実感もないし、誰も褒めてくれないですけどね。
できたオトナであり続けるのも大変ですよね。
お互い頑張ろうね。