はてなキーワード: 考察とは
何年も同じジャンルをずっと追い続けている状況が続いていた。もちろん充実していたけど、やはり新たなものに触れる毎日は、発見と新鮮な感動の連続で格別に楽しかった。
友人とは、趣味とは全く別のルートで知り合った。仲良くなってから一緒に遊んだり食事をしたりしているうちに、互いの趣味について沢山話し合った。友人は話すことがとても上手かったので、私は彼女の世界に引き込まれた。
初めは、もっと彼女の話やその世界を知りたいという気持ちで作品のCDを購入して聴いた。
数ヶ月なんとなく聴いているうちに、耳に残るようになる。耳に残れば、その音を創り出しているキャラクター、その背景が気になってくる。キャラクターを知るうちに、物語を知りたいと思うようになる。そそて物語を知ることで、「ただの良い曲」「面白いキャラクター」に色がついて立体的になり、追いかけたくなってしまう…というふうにみるみるうちにどっぷりハマっていったというわけだ。
学生の頃以来の感覚だった。何か新たなものにここまで心酔することは今後の人生でもうないだろうなと思っていたから、自分に少し驚いた。
今までの作品の軌跡や各キャラのエピソード、ただ曲や物語を追っているだけではわからない情報や考察も沢山教えてくれた。
楽しかった。興奮や感動を誰かと共有しながら新たな世界を知っていくというのは、私の今までのオタク人生では無い経験だったから。
作品について知ることも、友人とその作品について話したり教えてもらったりすることも凄く楽しかったから、どんどん吸収した。
吸収するうちに、もちろん私の中での作品の世界、そしてそこに登場する「彼ら」…つまり解釈が存在するようになる。当然それは、私に作品を教えてくれた友人のものとは一緒ではない。
かなり極端にいえば、解釈違いというものに近い。そのようなものが少なからず私と彼女の間にはある。そう気付いていたけど、気にしなかった。だって視点が違えばそんな違いがあることは当然だから。違っていいから、私は友人と話したかったし、一緒に作品を追いたかった。
だからかもしれない。何か全く別の要因かもしれない。単なる私の思い込みかもしれない。未だにわからないけど、ただ私が友人をきっかけにジャンルにハマってから確実に、彼女の私に対する様子に変化が見られるようになった。
毎日のように連絡を取りあっていたのに、彼女からの返信のスピードは日に日に遅くなった。お互いツイッターのTLにはいるのに、交流は減っていった。
もともと少なくない時間を共有していた分、その変化に気が付くのは遅くなかった。
遊びに誘って了承も断られもせず話をそらされたとき、それは確信に変わった。
しかし、間違っても本人に「最近冷たくない?」だなんて聞くことはできなかった。
なぜなら、私はある意味彼女の世界を踏み荒らしてしまったかのような自覚があるから。
自分の好きだった作品に後からやってきて、ハマりたての熱量とともに自己解釈をもって作品について話されたりすること。そしてそれは、決して自分の中にあるものと一致してはいないこと。
違う方向性から自分の領域に踏み込んできて、作品を見つめてきた時間もかけてきたお金も何もかも自分よりは低いくせに、馬鹿みたいにやかましく話し続けるのだ。
初めは多分、彼女も純粋に「自分の好きなものを知ろうとしている」私に喜んでいてくれたのだと思う。自分の生活する村のゲストというか観光客のようなものだから、そりゃ歓迎してくれるだろう。
そんなふうに客のような存在として扱っていたのに、そいつが住民になると言われれば話は変わってくる。
もしかしたら自分の常識とは離れたことをしでかすかもしれない。そいつの存在のせいで自分に不利益が生まれるかもしれない。
そう考えれば、彼女の態度の変化も納得できる。悲しいけど。
もちろん、これは友人ともう一度仲良くしたくて私自身の行動や言動、そして関わってきた時の出来事を振り返って考えて反省した結果1つの仮説として出てきた原因なので、真実はもっと別にあるかもしれない。
それこそ冷たくなった、と私が勝手に解釈して実は彼女にそんなつもりは無いのかもしれない。
確かに出会ったきっかけはその友人だが、その作品は今は私の人生の大切な一部である。「友人が冷たくなったから」という理由で冷めたり、気持ちが変わったりすることはない。でも、本音を言うなら新情報が出た時、彼女と一緒にその熱を共有したかった。ライブ会場で、並んで興奮したかった。
もう変えられないけど、どうすればそんな未来が叶ったのだろうか。
そう思って男性には腐女子であることを一切隠して生きてきたが、本当に腐女子趣味は男性ウケしないのか。
確かめるべく色々試したので書いていく。
アクセス解析見ると私の書いたエロ小説を読みに来る男性も多少はいるみたいだが、私が彼らの性の対象となり得るのかというと、読みに来てんのって同性愛者な気もする。
ネットで「腐女子です。BL小説書いてます。作業通話しましょう。」と募集をかけても、基本的に「全ての女性に手あたり次第に連絡している男性」からしか連絡は来ない。
まあ同類からはちゃんとコンタクト来るので腐女子と作業することばかりである。
次に考えたのは考察だ。
私は別に考察とか好きじゃないけど、作品の背景とか掘り下げて文献漁ればまあ推しの解像度は上がるので、よりえっちなBL妄想が出来るという利点はある。
ネットで「腐女子です。〇〇という作品の考察記事を執筆しています。作業通話しましょう。」と募集をかけると、作業内容がBL小説だったときとは違いかなりの数のコンタクトが来た。
オタトークもそこそこ盛り上がったと思う。
話した人達の中には考察ガチ勢の人もたまにはいて、ノートを取りながらしゃべることもあった。
「あなたのような話ができる女性は珍しい」と色んな人に言われた。
まあ、テッパンの社交辞令だが、BL小説を書いていたときはそれすらなかったので、かなりの進歩と言えよう。
私の進撃は止まらない。
キャラスイーツがウケないことはリサーチ済みだったので、キャラクターを再現する食事ではなく、「私が推しの〇〇司令官に食べていただくために作った食事」みたいなコンセプトでSNS映えと美味しさを意識した飯を作っては、趣味垢に上げた。パーティーでもするんかっていうアホみたいな飯だ。当然独りでは食えないので冷凍して少しずつ食べる。
知り合いの男性から「〇〇さんって料理とかするの?」と聞かれたときに見せる写真が出来た。
が、〇〇司令官の命日に作ったんだよね~、気合入ってんでしょ。みたいなことを言うと、ドン引かれる。
やはり男ウケ抜群の料理というカードを以ってしてもなお、腐女子趣味の男ウケの悪さは拭えないのか。無念。
その次にやったのはWeb開発だ。
知らんけど男ってテクノロジー好きじゃん???私はミリも好きじゃないけど。
Java勉強中です!っていうと「教えてあげようか?」って親切なオタクがわらわら寄ってくる。
おもろ。
BL小説書いてても文字書きの男は寄ってこないが、BLのためにプログラミングやってるとコード書きの男は寄ってくる。
ということで、私が男性ウケする腐女子になれたのかは未だ不明である。
界隈では多芸に無芸的なポジションを得てまあそこそこに居心地は良い。
弱者男性論はフェミニズムへのカウンター・ミラーリングから生まれた概念で、だからこそカウンター・ミラーリング以上の社会的意義を持たないし目的もないというのは正しいと思うし、そのカウンターとしての意義すら見失ってしまった「あてがえ論」や「女性の教育や社会進出を制限」などという時代錯誤な意見は論外だと思う。
そういった過激な思想を取り除いたとしても弱者男性論は結局の所かわいそうランキング向上運動でしかなく、弱者であるから優遇されるべきだ、弱者なんだから強者(女性)への攻撃は正当化されるといった外部への責任転嫁に終止してしまい、その「成果」を得るためにますますかわいそうランキングを向上しようと自身の弱者性をアイデンティティにしてしまう矛盾に苛まされることになる。だからこそ、弱者男性論に解決すべきイシューはなく救いようはないという意見や反論もわかる。
そうは言ってもフェミニズムという性別による差別に戦ってきた先輩の方法論に学び、弱者男性という階層・集団が発見され名前がつけられたことは意義があったんじゃないだろうか。名前があることで初めて対象を考察できるようになる。弱者男性の存在を頑なに認めない人もいるが、課題があることを認めることはそれを即時解決しなければいけないことを意味しないし、ましてや解決していないからと咎められることもない。人間できること・やれることには限界がある。まずは「弱者男性」という概念があることだけでも認識されれば十分な気がする。
そんな非モテ弱者男性を本当に救うのは、あてがえ論や女性の社会進出の制限など女性の権利を押さえつけることではなく男女平等を実現することではないかと思い至ったので簡単に書き下してみる。この増田では上でも書いたとおり特に非モテにフォーカスした非モテ弱者男性論について書くので低収入等については考慮しない。一般に弱者男性とモテの話が切り離せない理由、弱者男性論が女性に向けられる理由も同時に書こうと思う。
フェミニズムや反女性差別の本丸の一つは間違いなく所得格差だろう。具体的な数字もありわかりやすく、女性の社会進出の指標としてよくあげられる。実際のところ、正規雇用社員において女性の所得は男性の75%程度に留まると言われており、男性と同一の労働でありながら女性であるからという理由で所得格差がもたらされているとすればそれは差別的と言える。
たとえば、統計的に女性の20代後半から30代の離職率が高いので女性という属性によって雇用を渋ったり昇進を阻んでいるとしたら、それは犯罪率が高いという理由で男性保育士の雇用を渋るのと同様に差別的だ。
グラフやデータはほしい結論を仮定して読むと見誤る。女性の所得が低いのは女性が差別されているからというのは本当だろうか?女性自体が高い所得を望んでいないとしたら?日本の女性の幸福度は男性の幸福度に比べて著しく高い。目的と手段を取り違えてはならない。大金を手にすることが目的ではなく幸せに生きることが本質的であり金はそのための手段に過ぎない。日本の女性は稼ぐ必要に迫られずとも幸せになれるからそもそも稼ぐ必要がないということはないだろうか?逆に男性は「稼がされていて」それゆえに不幸で、女性は労働から解放されていて「稼ぐ必要がない」ゆえに幸福なのではないだろうか?
仮に実際に稼ぎたかったとしても女性は稼ぐ努力をしているだろうか?非モテ弱者男性が悲鳴を上げているとき真っ先に投げかけられる「モテる努力をしていないのでは?」「だからモテないんだ」という言葉、そのまま返ってくることは考えなかったのだろうか?まさかキラキラ文系キャンパスライフみたいなことをしてなんの学も積まずそれゆえに「パンプスを履かされる」ような労働しか選択肢がないことを差別などといっているのだろうか?低い職業能力しかないから容姿が問われるような目にあっているというぐらいの想像力もないのだろうか?女性性を求めず、責任に伴って高い給与を与えてくれる仕事なんていくらでもある。
シンプルな話として、そんなに稼ぎたいならなぜ女性は理系を選ばないのか?少なくとも稼ぎたい女性であれば実際的に稼げる能力やそういったキャリアパスに投資すべきだろう。理系修士・博士女性の知人友人なら年収1000万程度かそれ以上も珍しくない。
成果物を求められる仕事は成果物こそが全てだ。愛想笑いでは機械は動かない。そういった世界では性別なんてものは些末で、結果を出す人間こそが正義だし高い対価も支払われる。なぜそれを目指さないのか?「稼げる努力をしていないのでは?」「だから稼げないんだ」と言われても仕方ないのではないだろうか?
フェミニズムや反女性差別の文脈で特徴的な表現に女性の性的客体化や性的消費というものがある。性的客体化はものすごく簡単にいえば「女性をモノとして扱うこと」「女性の主体性を認めないこと」である。
女性に限らずだが同じ人間を人間として認めずモノのように扱うのはまったくもって不当であるし、そういう風景を見るのも不快に感じる。そして女性がそのような人間的でない、男性の性欲を満たすためのモノ扱いを受けるといったシーンは見たり聞いたりする。そういった加害者と戦うべきだ。書くのも嫌だがいわゆる「ヤリ捨て」といった言葉などにもあるように、モテ強者男性が女性をモノのように扱うような話は枚挙にいとまがない。ではフェミニストや女性はモテ強者男性と戦っているだろうか?
これはトートロジーではあるがモテ強者男性は女性にモテるのだ。すなわち、なぜかフェミニストや女性は自らを性的客体化するモテ強者男性を攻撃しない。それどころかモテ強者男性に群がっているのだ。つまり女性の性的客体化を積極的に支持しているのは女性自身という矛盾が生じる。そしてなぜか女性には触れることも会話することも早々にかなわない非モテ弱者男性を攻撃するのである。
フェミニズムの文脈ではこの性的客体化の不自然な適用がしばしば行われる。いわゆる二次元女性に対して「これは女性を性的客体として扱っており、そのような表象は女性の累積的な抑圧経験の強化につながる」と。たしかにこういった表象は男性をATMに例えたり年収で評価するようなことを公の場で発言することで直接的な男性の経済的客体化・モノ化と同様抑圧的かもしれない。
このような過激な言説は一部の極端なフェミニストの行動であり大半の女性はそのような攻撃的なことは行っていないと思うかもしれない。しかし様々な研究で明らかになっている通り女性は男性の上位2割程度にしか魅力を感じず、そして魅力を感じない非モテ弱者男性8割についてはその行動の如何に関わらず不快だと感じる。席替えで非モテ弱者男性が隣の席になったからと泣く女性がいた場合、加害者はどちらだろうか?
このような非モテ弱者男性を積極的に排斥しようという女性の本能的欲求が、相手を求める男性の「正(+)の性欲」に対して相手を排斥しようとする女性の「負(-)の性欲」と表現されたことは記憶に新しい。
この負の性欲と「女性が不快と思ったら加虐」とされるセクハラ・性的消費という概念の組み合わせは非常に強く、何をやっても女性に不快と思われかねない非モテ弱者男性は女性の気分を少しでも害したらセクハラだと指弾され社会的に抹殺されかねない。
女性は男性に対して身体的に弱いため男性が近くにいると恐怖を感じるという話と同じように、非モテ弱者男性は女性からの中傷やセクハラ指摘ナイフによっていつ刺されるか常に怯えながら生活しているのだ。悪いことに、暴力を振るえば逮捕は免れないが、セクハラ指摘なら非モテ弱者男性を社会的に殺してもなんの罪にも問われない。
これが弱者男性論が非モテと不可分であることの理由である。モテの量は女性の感情的な加虐性からの盾であり、非モテであることは女性からの加虐を受けることを直接的に意味する。そしてその意味において現代日本の男性はほとんどが弱者男性であり、結婚していても「本当に結婚したかった男」にはなれずATMとして扱われたり旦那デスノートで罵倒されたり托卵されたりなど被虐される立場にあるのだ。あてがえ論は女性の人権を制限するという意味でもまったくもって荒唐無稽であるが、同時に弱者男性の救済にも値しない。
ここまでだらだらとフェミニストの主張や女性差別について考察してきた。端的にまとめると現代日本では一般的に女性は理性的に行動ができず本能を抑えることができない野蛮で怠惰な状態にあるということが言えるかと思う。そしてそれが非モテ弱者男性という女性に加虐される被差別階級を生み出している。
しかしここで短絡的に「だから女が悪いんだ!女はダメなんだ!」と思った方々は少し落ち着いてほしい。これは上記のあくまでごくごく僅かな例から一般化した話であり、女性のすべてがそのように振る舞うということを意味しない。今短絡的に怒りに飲みこまれたあなたより遥かに理性的で、高い成果を上げ人類に貢献してきた女性はそれこそ星の数ほどいるだろう。すなわち「女性であること」は「理性が弱く本能を抑えることができない野蛮で怠惰な状態」の必要条件でも十分条件でもない。つまり弱者男性論に散見される女性叩きではなにも解決しない。そうではなく、現代日本の女性がそのような野蛮で怠惰な振る舞いをしてしまいがちな構造的な問題があると考えるべきだ。
そしてその構造的問題を解消できれば、女性が理性的で主体的になり男性同様本能を抑えられるようになることが期待できる。そしてそれは非モテ弱者男性にとって本質的な救いになりうる。
社会が男性に本能を抑制するように要請することで近年の社会秩序の発展と女性の地位向上がなされてきたように、女性が本能を理性によって抑制できるようになれば女性による非モテ弱者男性への中傷や排斥的加虐が抑えられ、何度も訴えられてきた非モテ弱者男性の消耗した自尊感情や社会とのつながりの回復も期待できるだろう。
では、女性が本能を理性で抑制できず野蛮になってしまう構造的問題とはなんだろうか?おそらくそれは男女の不平等だろう。
未だに「女性が高学歴だと結婚できない」「男性は自分より所得の多い女性と結婚したがらない」「女性は家事と愛嬌」といった女性に対する社会的抑圧は残念ながら存在する。そしてこのような女性の教育や社会進出を推奨せず結婚して扶養されることこそが幸せだという価値観の押しつけは女性の教育・社会進出を阻害するだけでなく、そういった過程で培われる理性的思考や主体性を女性から奪ってしまう。同時に女性に「私は社会から抑圧された」という言い訳を与えてしまい努力するモチベーションを失わせて堕落させてしまう。こうして本能のままに弱者男性を攻撃排除し被害者面をしながら強者男性に媚びを売る怠惰な女性が構造的に発生してしまう。繰り返すが彼女らにその責任はない。構造的問題は構造的に解消されるべきだ。
ではこれらの慣習を打破し、男女平等を実現して女性に理性的になってもらうにはどうしたらよいだろうか。高度化した現代では教育の水準がある程度強く所得に影響しており、経済的事由によって教育を受けるインセンティブを設定できる。すなわち女性が「稼がねば」と自ら思うような状況を生み出すことで、必然高い教育を受け理性が鍛えられ本能を抑制できるようになることが期待できる。
ではどうやったら女性が「稼がねば」と思うようになるだろうか?わかりやすいのは婚姻制度にメスをいれることだ。しばしば「女性は婚姻制度で楽をしている」「理解のある彼くん」と批判されるように、女性が男性の収入に依存する構造が女性を怠惰に堕落させ社会進出を阻んでいる。ひいては最初に上げた所得格差などを温存する結果となっている。
そのため女性が男性の収入に依存できないようにし、女性自身が必死に「稼がねば」と思うように法律を修正するのが効果的なはずだ。たとえば
このように、女性が男性の収入に依存するための多くの法律や制度が存在する。基本的にこれらの法律の修正をしたとしても「一人暮らしが二人」の経済状況とは変わらないため、女性がきちんと社会進出し労働し稼げている限りにおいて女性が極端に不利になることもないはずだ。にもかかわらずこれだけ「女性は男性の収入に依存せよ」というシグナルが法律にまで入り込んでいるのはグロテスクに感じる。女性が社会的制度によって強く婚姻や男性に依存して堕落することを動機づけられてしまっているのは異常だし、社会で活躍したかった・できたはずの多くの女性にとって悲劇と言えるだろう。フェミニストとしても解決したい課題のはずだと思う。
もちろん女性の出産に伴うフォローのための法改正も同時に必要になるだろう。これだけは男性にはどうしようもない。1年間の法定産休・育休と休職期間中の給与保証などの大胆な支援策もあるべきだと思う。フェミニストのいう結果平等はこういった形で強力に推進されるべきだろう。
出産後に男性の経済的支援があるならとパートタイム等の責務の軽い・時間の短い仕事に移ってしまう女性も多いと聞くが、上記婚姻制度改革によって男性依存を断ち切ることで改善が期待できる。男性のように「働かなければ・キャリアを失ったら死ぬ」という緊張感があれば成長意欲も刺激されるだろうし離職率も下がって「女性は30代になると離職するから」などという理由で採用・昇進を渋られることもなくなっていくだろう。
このような先進的な男女平等の実現・婚姻制度の解体によって女性も男性同様社会に参画し、男性に求められるよう女性も理性によって本能を抑え他者への加虐性を抑制することで、弱者男性は初めて「弱者男性」としてではなく「弱者」として男女平等な救済の道に進めるだろう。弱者男性の本質的な救済は男女平等を推し進めることにあるはずなのだ。
緊急事態宣言終了後の7日移動平均が最小となった日:3/8(253.4人)
終了後の7日移動平均が終了日の7日移動平均に再度到達した日:4/18(586.4人)
6/9時点の7日移動平均:401.6人
出典元:https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/cards/monitoring-number-of-confirmed-cases/
緊急事態宣言2回目の感染者推移より、十分に感染者数を押さえ込んでいる状態から上昇トレンドに戻るまでに約5〜6週間のタイムラグがあることがわかる。
緊急事態宣言3回目は6/20までを予定しており、6/9時点で明らかな減少トレンドに入っている。
2回目のトレンドの通り推移すると仮定すると、その効果は8月頭くらいまでは持続するが、その後明確な上昇トレンドに入り、8月中旬〜下旬頃に緊急事態宣言終了時の感染者数に到達すると推定される。
・〜7月下旬:感染者数は減少〜現状維持トレンドで推移し、国内に楽観的な雰囲気が漂う
・8/8:オリンピック閉会
・8/24:パラリンピック開始(よりハードなシナリオでは中止)
・9/5:パラリンピック終了
・9月中旬:緊急事態宣言4回目発動(パラリンピック中止の場合は8月中旬のお盆前に前倒し)
私はなぜかファンがめんどくさいジャンルにハマることが多い気がする。めんどくさいといっても悪い意味ではなく、良い意味で。
言い換えるとものすごく熱心とも言えるかもしれない。
色んな作品のファンにも言えることかもしれないけど、作品の良さに対して世間からの評価が充分でない、とファンが特に強く考えているような。あとはご新規さんの歓迎が熱烈すぎるとか。
考察や分析が細かすぎる人も多い。読ませてもらってて楽しいので嬉しい。みんな頭がいいんだよね。
私は割と作品に対してライトなオタクなので、考察できる人はすごいと思うし、その力が少し羨ましい気もする。
ライトな人間なのに、考察しがいのある作品ばかり好きになるのは何でなんだろう。
世界観の深さになんとなく惹かれてるのかな。
都議会で「国会で審議を求める意見書」を提出することが可決したらしい
夫婦同姓も異性婚も仕事一筋プライベートゼロな働き方も継続できる
そうじゃない選択肢が増えるだけ
なのに何故嫌がるのか?
この数式を求めよ、著者の心理を述べよ、この文章を英語で書け…
これらは常に正解は1つである
道徳の授業でもそう
親切にしたり、周囲に配慮したり、所謂褒められるべき言動は何か学習する
これはこれで良いが、圧倒的に「他者と議論すること」「多様な意見を認識すること」の機会が少ない
そのため、唯一無二の正解を揺るがそうとする意見を排除したいのではないか
つくづく多様性はこの国と相性が悪い
嫌だけど様々な事象で苗字を変えざるを得なかった人は、このタイプと予想する
選択的夫婦別姓への意見について、10代20代は賛成している人が多いというアンケートを見た
これは若年層ほど柔軟な考えをするという理由以外にも未婚者の割合が多いという要因があるのではないか
もっと分かりやすく言うと、「自分が若手の頃は大変だった」「今時の若いもんは」とかいう老害と同じである
自分が嫌だったり苦労したことを免除されている人を許せないのだろう
そんな人に限ってドラム式洗濯機や食洗機、床暖房などを愛用しており自分に都合の良い変化は大好きなのだ
なぜなら働き方改革と違って推進することで国が受ける恩恵が少ないからだ
少子高齢化で生産人口は減るけど、生産人口は介護と子育てで忙しくて大変
楽な仕事も用意してあげる
というやつだ
多様な働き方にすることで減りつつある生産人口を補おうとしている
女性が輝く時代というキーワードに噛み付く読解力にも頭髪にも乏しい人がいたが、あれはただのキャッチコピー
多様性が苦手な国民に受け入れられるように、国民の半数が好印象を受ける言葉を使っているだけ
話は戻り、選択的夫婦別姓と同性婚が可決されることに対する「国」のメリットなんてあるのか?
で、締め括るくらいなら書かない方がマシなので世間で言われていることについても考察する
苗字を変えられる人や同性パートナーを持つことに理解がある人と結婚したら良いというのが国の考えと予想している
施設育ちの子供が少なくなることはどのように国のためになるのか不明
現時点では国に対して明確なメリットをあげられないため、これで戦うしかないと思慮する
裁判しかり、意見書しかり差別や不利益の実績を積み上げていくしかないのだ
にも関わらず恥ずかしげもなく意見1や意見2を声高に叫ぶ人がいて本当に厄介
黙って欲しい
主語デカすぎオタクになるけど、マジで全人類見ろ!!!!!ちょっと控え目に言うと、令和を生きるアニメ好きは絶対に見ろ!!!!!TVアニメ版を見た奴は死んでも見ろ!!!!!お前が知ってるスタァライトはもうここには無い!!!
まだ一回しか見れてないんだけど、本当の本当の本当に最高だったんだよ、劇場版スタァライト!!!語彙力ないしネタバレせずにどこがどう最高って説明すんのが難しいんだけどさ〜〜あぁ〜〜。
私はアニメからハマって舞台やライブにも行きつつでもスタリラはやってない程度のオタクなんだけど、「完全新作楽しみだなぁ〜!ウキウキ!」くらいの気持ちで見に行ったら、私は首切られて血しぶき上げて死んだ。
え?は?死んだ?私、死んだの?って思ってるうちに次々に展開されるレヴューに私はめためたに打ちのめされて、再生産されて、エンドロールでぼろぼろに泣いた。
私が知ってるスタァライトはもう無かった。私が知ってるのは第100回スタァライト。そこにあったのは第101回スタァライトで、全く新しく、見たことのないスタァライトだった。
スタァライトのキャラってさ、パッと見で「あぁ、この子はツンデレなんでしょ」とか記号的に捉えられそうなところをTVアニメでそんなことねーわとぶっ壊してくれたんだけど、この劇場版でまた同じことされるとは思ってなかったよ!!!私が知ってる○○ちゃんはもういないんだよ!!!ばか!!ぬるい気持ちで見に行った私のばか!!!
もうこれ正に再生産なんだよね〜〜〜TVアニメの時のみんなは死んで再生産されるんだよ〜〜〜それはキャラだけじゃなくて見てる私達もなんだよ〜〜〜!!!
映画見た後と前じゃ、明らかに自分の何かが変わったのを感じる。私は一体何を見てたんだ?いや、“見てた”のか?首は切られて、血しぶきを浴びて、炎に焼かれて、確かに私は死んだのだ。これはもはや体験であり経験。あの舞台に絡め取られて巻き込まれてしまった。ポスターにも書いてあるとおり、これは「劇場でしか味わえない“歌劇”体験」なのだ。
ていうかさ〜スタッフさん達、変態すぎない???戦闘シーンの作画は言わずもがな、衣装とか舞台設定とかセリフも表情もこっちが思ってたレベルぶっちぎって天元突破してくるじゃん???誰が1カットごとに殺しにかかれと言った??お??オーバーキルにもほどがある。特に○○ちゃんに○○を乗せた台に足をかけさせた人には紫綬勲章をあげたい。天才がすぎる。ありがとう。あなたがいる方角には足を向けて寝られないのでご住所教えてください。
あとスタァライトは訳が分からない、説明がないと無理とか思う人もおるかもしれんけどさ〜!そうじゃねーんだよ!!!ここは舞台なんだぞ!!!全てはそこにある!!!その時その時で湧き上がる、お前の感情を信じろ!!!考察や解釈はそのあとだ!!!できればTwitterに呟いてね!!!私今鬼のように検索してるから絶対見るよ!!!
はぁ……勢いに任せて書いたけど、とりあえずみんな見てください。もったいないから、本当。映画の冒頭の映像が公開されてるから貼っときますね。
オッカム先生はもともと、北海道の裕福でない家庭で生まれ育った自分の境遇と、階級格差・地域格差への怨嗟をたびたびつぶやかれていました。たとえばこれとか。オッカム先生にとっては、その境遇から脱出するための唯一のキャリアパスが、大学の研究職になることだったということで、「うちには資産がなく告げる(sic)仕事もなく、もう大学組織に雇われるしかない。それで業績や大学の規模やステイタスに拘りました」とか、「私はガリガリ亡者のように(大学教員)職を求めていました」みたいな話はよく書かれてました。今回消されたツイートの中にも「大学に職を得られないなら死ぬつもりでした」というのがありました。地元dis・ご実家disについてはやや自虐芸が過ぎるようにも思ってましたが、それは個人的境遇についての説明とモチベーションにつながる話でもありますし、自分もこういう文化資本を含めた階級格差・地域格差がアカデミアでのキャリア形成に及ぼす影響(再生産)というのは、充分考察・検討に値する問題だと思っています。
そういった背景のうえでの、件の炎上について。オッカム先生は、国際会議の同時通訳をやれるほどの能力を持ちながら、研究もしていなければ常勤でもない既婚の女性達を見て、
北大助手時代に「東京は恐ろしい所だ」と思ったことが一度だけあります。国際会議のロジやっていた時、同時通訳を派遣してもらいました。最初は研究者なんだから通訳くらいできるだろうと思ってたのですが通訳は甘いものではなくまるでうまくいかなかったのです。まして同時通訳など訓練なしには無理。
アカデミアの国際会議でしたから専門用語だらけですが、事前に資料渡しておいたら、それはそれは見事な同時通訳がなされました。通訳者はすべて女性だったのですが、これが皆さん、専業主婦だったのです。東大やICUを卒業した専業主婦です。セレブバイトだったのです。
東大やICUや東外大(ICUや東外大は大学院を駒場で修了してたりする人もいました)出身者が専業主婦やってるのです。ジェンダーの問題は本件ではちょっとおいておきます。とにかく北北海道の辺境出身の私にはあまりにもイカツイ学歴の持ち主が専業主婦やって、セレブバイトしている。衝撃と畏怖でした。
繰り返しますが、ジェンダーの問題は専門外なのでおいておきます。彼女らは比較的余裕で超一流大学に入り、普通に教養を積み、しかしキャリアをガリガリ重ねることには関心がなく、恐ろしく給料の高い旦那のパートナーとして読書し語学を磨き子育てしている。雲の上より私には高かったです。
あり得ないのです。あり得ない世界だったのです私には。研究者としては、彼女らの旦那(が研究者だった場合)を凌ぐことができるかもしれない。しかしあの高学歴と語学力でキャリア志向のない妻を迎えることは想像もできなかった。つまり僕は絶対に勝てない。一体どんな世界なんだと背筋が凍りました。
という感想を抱かれました。当時その体験から受けた階級格差・地域格差の衝撃、圧倒的な語学力を持ちながら自分が切望する大学研究職というキャリアパスには興味を持たずに暮らしている(暮らせる)方々が存在することの衝撃をそのまま言葉にした結果、一連のツイートには、当時のオッカム先生がお持ちだったジェンダー観も交錯した形になり、そこが批判の対象になりました。
この「格差の衝撃」が、最終的に「自分と彼女達の旦那との勝負」(同時通訳者達の配偶者男性のことは、それまで話題に一度も登場していないし、そもそも研究職かどうかもわかりません)になり、しかもその彼らに自分は「絶対に勝てない」と勝手に敗北感を抱いてしまう…というくだりについては、多くの方が「もしかしてオッカム先生は、『男性の価値は、配偶者の属性や能力や、その配偶者を専業主婦として養えるかどうかによって決まる』という価値観をお持ちなのではないか?」という風に読まれたようです(自分も、素直に読んだらこの文章の意味はそうなってしまうように感じます)。そこで「トロフィー・ワイフ」という言葉を出して批判する方々も出てきましたが、オッカム先生は、この言葉を使ってオッカム先生を批判する方々に対して「女性はモノじゃないでしょう」「私、思いつきもしませんでした」と非常に憤られています。
もうさ、「トロフィー・ワイフ」という言葉がふっと思いついた人が2桁いるんですよ、確認した範囲で。どんな人生送ってきたんだと思うし、女性はモノじゃないでしょう。私、思いつきもしませんでした。
そして、「思いつきもしなかった」理由として、
思いつきもしない理由を考えてみました。
あともう一つ、アメリカ研究では、人種とジェンダー研究が盛んです。だから、「男女差別が具体的にどう現れるか」の研究を死ぬほど聞きます。だから「ジェンダーのことは置く」としたのは、自分のような政治史はジェンダー研究者から見たら子供レベルだからです。でも他分野の人よりは知ってます。
と言っています。オッカム先生は、ご自分が「自分が性別で他者を差別しない」方だと考えられています。なぜならアメリカン・スタディーズは半分以上女性の、実力の世界だし、「男女差別が具体的にどう現れるか」の研究を死ぬほど聞いているからです。これに説得力を感じるかどうかは読者の皆さんによって異なると思いますが、自分はちょっと、皆さんから指摘されていることの肝心な部分が伝わっていないのかな、と思いました。
もうひとつ、同時通訳という仕事について。同時通訳というのは、通訳・翻訳界のひとつの頂点で、その中でも国際会議などの同時通訳案件を請けられるのは本当のトップクラスの人材です。同時通訳というのは、どこに専門性があるかが誤解されがちな仕事で、語学力があればできる仕事…たとえば「米国からの帰国子女で、英語・日本語どっちも十分な語学力があれば、同時通訳ができる」という風に思われる方も多いようですが、実はそうではないのです。
英語を話される方なら「英語脳と日本語脳を切り替える」みたいなイメージは割と湧きやすいと思いますが、同時通訳というのはいちいち脳を切り替えてはダメで、「2つの言語モードを、脳のなかで同時並行で走らせる」という特殊な訓練が必要です。これは2言語ネイティブであってもなくても、練習なしには極めて難しいことです。
自分は同時通訳なんてとてもできませんが、一時期フリーランスの書籍翻訳をしていました。翻訳業界では「米語ネイティブで日本語も達者な人なのに、英日翻訳をやってもらったら商用出版に耐えないクオリティだった」ということをよく耳にします。頭が英語のモードのまま日本語に翻訳をすると「単語を日本語に置き換えた英語」になりがちで、日本語ネイティブが読んだときに不自然だったり意味が通らなかったりすることが多いのです。だから頭を日本語のモードに変えて、自分は英語原文を知らないというつもりで読み直して、それでも意味が通るかどうかを検証しています。
同時通訳者というのは、これをリアルタイムでやる仕事です。頭をフル回転させて、耳から入力された言語Aの内容に意識を研ぎ澄ませつつ、語り手の立場、聴き手の立場、その場の文脈などを加味して、最も適切な言語Bでの表現を選び出して、言葉として淀みなく紡ぎ続けるわけです(個人的には、同時通訳者さんの脳内では将棋や囲碁などの知的ゲームのトッププロ並の情報処理が行われていると思っています。「アスリートに近い」という人もいます)。想像していただければわかると思いますが、同時通訳は脳にかかる負荷がものすごいので、長時間はできません。国際会議などのように尺が長い場合は、複数の同時通訳者をアサインして、15分交代でやります。休憩中はしっかり糖分を取る人も多いようです。業界トップクラスの年収数千万円レベルの方々でも、持ち時間の終盤にさしかかってくると、徐々に言葉が途切れたり、不本意な倒置などが増えたりしてくることがあります。それほどハードな高度技術職なのです。日本トップクラスのフリーランス同時通訳者の田中慶子さんのお話( 日本トップクラスの同時通訳者が明かす、英語で困ったときの切り抜け方 - ログミーBiz)など読むと、その内実が伝わりやすいかもしれません(ちなみに田中さんは帰国子女ではなく、高校まで愛知で育った方です)。
また、担当分野に関する深い知識も当日までに身に付けなければいけません。通訳業界ではしばしば「その場にいる人の中では、通訳が一番話題に疎い人物」みたいな言われ方をします。商談でも政治交渉でも学術会議でも、母語は違っても同じテーマについて語りたい人達が集まって話す場なので、通訳以外の参加者達はテーマ自体については深く理解しているのです。その2者の橋渡しをするのがその場で一番アウェイな通訳だと考えれば、どれほどの事前準備が必要か、というのは想像に難くないと思います。
こうした仕事の性質上、企業の常勤正社員で、毎日同時通訳ばかりしている方はあまりいないと思います。契約社員などでの社内通訳というポジションもあるにはありますが、数は多くなく、そういう方々の中にも将来的なキャリア形成として、より高収入で仕事も選びやすいフリーランス通訳者を目指す方は多いようです。オッカム先生がおっしゃられている状況を考えると、会議にいらしたのは、おそらく首都圏でサイマル・インターナショナルなどにエージェント登録されているクラスA以上のフリーランス通訳者だと思います。おそらく全員が、事前に当該分野・当該テーマについての予習をみっちりして、前日に首都圏から北海道に飛行機で前乗り込みして、複数人の体制でブースに入って、アカデミックな話題について原稿なしの同時通訳をやられたのではないかと思います。トータルの拘束時間は3日ぐらいかかっているのではないでしょうか。そういうプロフェッショナルの同時通訳者の方々が、その時はみなさん既婚の女性だった、という状況なわけですが、自分はこれを「キャリアに興味がない専業主婦のセレブバイト」と呼ぶのは無理があるし、そう言いたくもないなあと思います。この表現には「有閑階級で時間がある主婦だからこそできる、暇つぶしの趣味的な仕事」というニュアンスがどうしても漂いますが、仕事の実態はとてもそんな風に軽々しく言えるものではないし、だからこその高給でもありますし、将来につながる立派なキャリア職でもあるからです。
炎上ツイートの冒頭を読むと、同時通訳が「訓練なしには無理」のハードな仕事だということはオッカム先生も認識されていたようなのですが、そういう高度技術職に携わっている既婚女性達が、〈既婚〉で〈女性〉という手がかりだけから「比較的余裕で超一流大学に入り、普通に教養を積み、しかしキャリアをガリガリ重ねることには関心がなく、恐ろしく給料の高い旦那のパートナーとして読書し語学を磨き子育てしている」と推定して、「専業主婦のセレブバイト」という評価に到ったのは、当時のオッカム先生が同時通訳という業態についてそれほどお詳しくなかったこと、お話をされた同時通訳の方がご自分のステータスについて「専業主婦」と仰ったこと(どういう質問に対してこの答が出てきたのか、答えられた方がどういう思いでこの言葉を選んだのかはわかりませんが)、男女の性別役割に関して当時お持ちだった先入観が絡まり合っていたこと、の3つによるのではないか、と感じます。
過去の物の見え方は物の見え方として、問題なのは、帝京大学教授として後進指導にあたる立場になられたオッカム先生が、当時ご自分がお持ちになられたそうした印象をどう考えられているか…なのですが、今日までのつぶやきを拝見すると「当時の自分の物の見方には、今からしたら偏っていた部分もある」といった形でそれを相対化する振り返りは自分の見た限りではあまりなく、むしろ一部の批判に対しては訴訟をする決意を固められているようです。自分は正直、事態があまり好ましくない方向に向かっていると感じています。
実際Qアノンみたいな話は俺もどうかと思うし、
妄想と現実の境目がなくなって統合失調症みたいになるのは問題だと思う。
でもさ、じゃあ「陰謀なんてない」のか?
というと、そんなことないよな。
陰謀論を否定することは、「すべての公式発表は事実とする」ってことだよな。
政府がシロと言ったらシロ。
ホワイトハウスが盗聴なんて知らないといったら知らない。
本当にそんな世の中なら、ジャーナリズムなんていらないのにな。
もちろん現実、そうじゃないと皆知ってるはずだ。
陰謀は、ある。
確かな証拠はないかもしれないけど、証拠がない=潔白ではない。
だから陰謀を疑うことに関して、まるっきり否定するのは間違っていると思う。
「通勤に往復2時間かかる場合、給料が20%低くなる」と、僕は考えている。ビジネスを通じて、さまざまな人から話を聞き、自分でも体感した、ほぽ間違いない数字だ。
コロナ禍でオフィス通勤が減り、Zoomでの会議や打ち合わせが普通になっている。それで生産性が下がったという話は、まったく聞かない。逆に、パソナやアミューズなど有名企業が本社を地方に移転させたり、オフィスの規模を大幅に縮小する流れだ。
先を読んでいる企業が、いま、オフィスという不良資産を手放そうとしている。昔から僕は「会社にオフィスは要らない」「通勤は無駄!」と説いてきたのだが、コロナによって、ようやく一般にも浸透してきた感がある。
会社に行かなくては仕事ができない、という考えは完全な思い込みだ。リモートワークで全然問題ない。煩わしい社内政治から離れたり、嫌なヤツと会わなくて済んだり、好きなようにデスク周りを整えられる。会社に行かないほうが、仕事の能率は上がるのではないか。
昔の話だが、僕は2011年6月から長野刑務所に収監された。以降、自由な暮らしは奪われた。時間も規律も、刑務所が決めた通り。他人のルールに縛られて過ごさなければならなかった。
だけど、発信はやめなかった。メールマガジン発行や著作など、仕事をやり続けた。インターネットは見られなかったので、新聞やテレビのニュース、差し入れられる書籍などから情報を得て、僕なりの考察や意見を、外の社会へ述べ続けた。
収監前に関わっていた多くの事業も、獄中でこなしていた。僕がいなくても進められるシステムを収監前につくり上げていたので、スムーズにやりきれた。
■堀の中でも充実していた
塀の中でも一般のビジネスパーソンと同じか、それ以上のアウトプットを続けていた。航空工学の勉強もしていたので、退屈だった時間はすぐに消え去った。
たぶん僕は、刑務所生活中も、外にいた普通の会社員よりも充実して過ごしていた。言ってみれば、リモートワークのエキスパートだ。
気持ちさえあれば、制限された現実の環境を、自分の望む通りに変えることはできるのだ。収監という特殊な経験をした僕は、若い人たちに聞いたい。