はてなキーワード: 齟齬とは
http://anond.hatelabo.jp/20170122090344
あなた(に限らずはてな民の多く)にはアイドルへの差別意識が根強くある。
「どうせドルヲタなんて歌とダンスが上手いか下手かなんて見てないんでしょ」
そうしたらコンテンポラリーダンスやストレートダンスと比べてどうなのかと言われたので、
そんなことはダンスの素養のない私には分からないのでご自分で見て判断して下さいと返答したまでです。
もう一度貼っておきます。
モーニング娘。「泣いちゃうかも」https://youtube.com/watch?v=Vr5FuJmM-vk
モーニング娘。「愛の軍団」
https://youtube.com/watch?v=sqkgQUF5wfU
いつの間に「アイドルの魅力を語れ」という話になったのか………。
そりゃ、あなたがアイドルを好きになってもらえるならそれにこしたことはありません。
アイドルの魅力を語れというなら、すでに「本物のアイドルはいいぞ」で他の人が書いています。納得のいく、心のこもったいい文章でした。
ところがそれにつけられたブクマは三次元アイドルへの罵詈雑言がトップに来るという地獄絵図。
http://b.hatena.ne.jp/entry.touch/anond.hatelabo.jp/20170117225147
議論の発端となった「アイドルアニメ見てる人ってなんなの。本物のアイドル見ればよくね?」のブクマコメを見てください。
http://b.hatena.ne.jp/entry.touch/anond.hatelabo.jp/20170117115317
ろくに知らないジャンルをどうしてこう傲慢に見下せるのか。私はこの差別意識に怒ったので「はてな民の差別意識」という一文を書きました。
http://anond.hatelabo.jp/20170117225147
関ジャニ∞は2002年デビュー、NEWSは2003年だから違う。(途中からヲタになった可能性もあるが、それを含めたらきりがなくなるので考えないことにする)
perfume(2000~)は大きな仕事が多いので「あまり来ないけど、極たまに大きな仕事」が当てはまらない。
Negicco(2003~)は後輩に当たる人がいない。
モーニング娘。で2005年デビューは7期メンバーの久住小春(きらりんレボリューションの中の人)ただ一人だけど後輩のフォローはしないし、今は事務所を離れているので違う。
Berryz工房(2004~2015)はどうか。熊井ちゃんこと熊井友理奈の可能性もある。「トークがいまいち」は完璧に当てはまる(しかしそれは最高のトークでもある)し、桂由美ファッションショーの新作モデルに起用されたのは「極たまに大きな仕事」だろう。しかし一昨年から無期限活動休止なので現在形の文章とは齟齬が出てくる。
となると℃-ute(2005~)の可能性が高い。今年の解散が決まっているがまだ現在形。
さて
の中の誰か?
「昔はああいうこと言ってたのに丸くなってきたな」から舞美は除外される。舞美は昔からものすごく性格がいい。メンバーも10年間で3回しか怒った姿を見たことがないそうだ。
「極たまに大きな仕事」という点で、バラエティー番組の出演の多い岡井ちゃんとソロ仕事がないマイマイも違う。
「歌うまくなったなー」は上手かったのがさらに上手くなった愛理を指すのか、下手なりに上手くなったnkskを指すのか。
当たってますか?
ちなみに私の℃-ute一推し曲は「世界一HAPPYな女の子」
大学によると思うが、ウチの場合は修論を提出した段階で、博士後期課程への進学と学位発行がほぼ決まる。逆に提出した段階での差し戻しを食らう場合は、修士論文撤回の憂き目となる。教授も出せるように指導するし、学生も間に合うようについて行かなくてはならない。とりあえず提出できたので問題がなければ、このまま無事に修了、進学となる。良かった。
よくある適当な私大の阿呆学部を卒業したので、司法試験を受けるでもないのに卒論は書かなかった。留年もかました典型的マジメ系クズな学部生時代の禊ぎをすませることができ、うれしく思っている。ウェーイでもDQNでもオタクでもなかったあの頃の残念さ、大学を卒業してからの放浪にも似た十年を、期せずして総決算する機会となって良かった。
文系修士・博士は無意味だと騒がれて久しいが、そんなことないと思う。そもそも社会的に無意味・無効な誤差として処理される人間にとって何かしら一つをやり遂げた記念が、社会的に認証されることは自信を得る機会になる。もともと無意味な人間には、意味のあるものだ。
幼少期から思春期、青年期にかけて自信を育む機会を生かせなかった人間には辛いことが多い。自信の無さが生活態度、言動に現われるし、結果、多少の理不尽なり違和感を周囲に与えて暮らすことになるからだ。その齟齬が対人関係の軋轢となる。
もちろん修士号をもらったところで、身に染みついた挙動の滑稽さ、可笑しさが拭えるわけではない。聖痕のように残るものだろう。それでも、何かをやり遂げたという実感が、ありふれて大したことではない修士論文の提出という事柄に込められていて、少しだけ自信を得ることができた。
4月からは博士課程に進む。同時に研究分野の珍しさと新しさもあり、ある企業が研究員として雇ってくれることにもなった。学振は落ちたけれど、博論を書きながら、研究員という願ってもない形だ。
もう若者ではない。朝、鏡をみると、残念なおっさんが寝ぼけてくたびれている。老いつつある両親に会った際、母に結婚について聞かれたが、それはあきらめている。でも、覗いてみたい世界があり、その世界に研究員という形で足をつっこんで暮らしていけるのだ。悪くない。
21世紀も後半になる頃には、僕はこの世界からログアウトしているだろう。それでも、自分が残した浅薄で僅かな研究や記録が、後継の偉大な天才と俊英たちのいくらかの踏み台になり、また諸俗凡人の皆さんに少しでも益するならば、それでいいじゃないかと思っている。百年後に一度、次の誰かが少しだけショートカットできるための一行を書く仕事、それが僕の務めだ。
修士論文を書くということは、最低限、その分野の歴史の全体が見えており、研究史の中で自分の立ち位置を把握した上で、浅彫りの僅かながらも確実な成果を置いていくことを意味する。そうすることで、今までぼんやりと見えていた世界がくっきりと鮮明に見えてくる。ザルだった視点が、精細さをもってくる。それが世界と他者と自己の精彩さに変わってくる。分野によるし一概にも言えないかもしれないが、僕はそういう経験をした。
修論を出し終えて、本当にやって良かったと思っている。
商業のBLで好きな作品があるから、腐女子じゃないとは言い切れない。絵を描くのも好きだ。
こういう性質なので、ネットでの交友関係が少し難しいと感じることがある。
「オタクで絵を描く女性」と聞くと腐女子に直結してしまうことが多い。
実際ネットで知り合った絵を描く女性の友人はBLが好きな人が大半だし、彼女達は作品の感想がBL二次創作へ発展することが当たり前なTLの中でつぶやいている。
リアルの友人だってそうだ。オタクの女友達はほぼBLが好きで、私が原作の話をしたくて紹介した作品をBL二次創作で消費している。
例えば私の好きなキャラAと、友人の好きなキャラAは同じに見えて違うのだ。
かといって、同じ作品の話ができる友人は少ないので話してしまうのだが……。
自身も二次創作をすることがあり、腐女子と共存しなければいけないのはわかっているのだが
原作に対する姿勢、という根本的なところで価値観がぶつかり合うことが多い。
原作準拠の男同士の友情まではいけるけど、妄想による恋愛への発展はちょっと避けたい。
こういう人間って少なくはないと思うんですけど、どうですかね。
追記
ブコメの中で齟齬が見えたので言葉足らずな箇所を追記します……
私の言うキャラA(原作)と友人の言うキャラA(友人好みの二次創作による)ということです。
私は原作でキャラのここがいい、という話をしたいけど友人はキャラを受けにしたときここがいい、という話をしている状態です。
そもそも私のする二次創作はイメージイラストが大半なので、オリジナルストーリーをキャラでなぞるということはほぼなく
この点もオタクで腐女子な友人達とのズレを感じる一因となっています。
腐女子じゃない、と言ってしまえれば楽なのに商業BLで好きな作品があるためにそうも言い切れず………
誰かに自分の不安定な気持ちを吐露したいが、そんな信頼できる相手などいないのでネットに匿名で書き連ねる。
自分は強く優秀な人間であると思っていたが、それは間違いだったことに数年前に気づいた。
私は苦学生だ。学費と生活費をバイトと奨学金でまかなっている。
これがとてもつらい。
稼いだ金はほとんどすべて学費と必要最低限の生活を送るための生活費へと消える。
サークル活動や飲み会に参加する余裕もない。旅行もできない。遊ぶ金がない。休日はただネットサーフィンをして寝て過ごす日々である。
金がないととても非効率だ。
携帯電話の契約にも自分にあった一番安いプランを時間をかけて調べたりする。
金がないので各種料金の支払いは遅れ気味になる。遅れればその分は割増で支払うことになる。
特別な能力があるわけではないので、飲食のアルバイトをしていた。
これがまったく無意味だ。
なのに店側はやたら「責任をもって仕事しろ」と要求する。最低賃金ギリギリのバイトに責任を求めるほうがナンセンスだ。
可能性が小さい。
しかしただ生きるだけで精一杯。
もう少し頭が良ければもっとうまく生きれた。
もう少し頭が悪ければもっと楽に生きれた。
そう思う。
だたの言い訳だ。
彼らは自信に満ちていて、とてもキラキラしている
充実した人生を送っている
金がなく
卑屈でひねくれていて
とても悔しくて、とても悲しい
でも
「できなかった理由」を考えて今の自分の存在を正当化することはしたくなかった。
努力してみた
しかし
いまのところそれはうまくいっていない
なにかうまくいかないことがあったり
そんなほんの少しの苦しみや悩みが
ほんの少しずつ蓄積していき
ほんの少しずつ息苦しくなっていく
息苦しくなってくると
楽になりたい
しかしできない
父親が死んだとき、生命保険金の半分を母親の額面にすることになった。兄弟の総意だしそれは問題ない。
受取人が俺になっていたから、俺が管理して毎月母親に送金することにした。月20万。でも10年も持たずに使い切ってしまう。
ところが母親は20万では足りないと言ってくる。ペットの病気だの何だの。
だから月22万送金するようになった。減りは早くなった。
でも働ける体じゃないし、大変そうだから、俺が地元に帰って家でも買って生活費用を抑えようと提案してみた。
家を探そうとしたけど、なかなか良いのが見つからない。1700万円ほどの家を見つけたら、そこは部落地区だから止めろと言ってくる。
場所とのバランスを考えて母親が気に入ったのは2700万円ほどする場所。まあ、でもそれは俺のためもあって言ってるんだろう。だから怒るということはなかった。
他の地区と色々検討しているときに、「もし結婚したとして、子供のことを考えるなら、荒れていると評判の地区は困るなあ」と俺が言うと一言。
あのさあ…。俺の金を何だと思ってるんだ?
俺は中学生の時、公立の2番手校に行きたがった。それを言ったら1番手校じゃないなら学費は出さない、と怒鳴ってきた。これは完全に見栄だけの理由。後から公立高校の学費なんて高校生自身でも全然問題なく払えるレベルだと知ったことは置いておく。
結局、私立の特待生で学費免除になったんだけど、それでも俺の教育費が高いと文句を常に言われた。バスの定期代が高いとも言われたから学期の途中から自転車で通うことにした。片道40分。
それだけなら普通だろうけど、小遣い1円もくれないからバイトもして、特待生を切られないために勉強もして、成績は学年トップ5には常に入っていた。
浪人はしたけど(浪人中の生活費や受験に関する金は母親も父親も一切払っていない)、良い大学に入って名のしれた場所で働いている。
俺は間違いなく努力して、悪くない結果を出していると思う。
「勉強なんかしても何の役にも立たない。勉強しか取り柄のないお前は人間としての魅力がない。運動出来ないノロマ。運動が出来る従兄弟は格好良いな。本当にお前は格好悪いな」
ずっと言われてきた。でも勉強を続けてきた。
やっと手に入れた俺の結果を、かつて俺を馬鹿にし続けてきた母親は当てにしている。
家でも買って、なんて言ったのが間違いだった。家を買った後の生活費は俺が中心で出すことになるだろうけど、そもそも現状の生活費の切り詰めからからしておかしいから、いくら持っていかれるか検討もつかない。
母親は「生活が苦しくて、おかゆだけの日が続く」とか言ってるんだけど、ウォーターサーバーをもう何年も置いている。解約を提案したら絶対に逆上して会話にならないから言わないけど。
この間なんか、携帯電話ショップに言われて家にWi-Fi接続を導入したらしい(俺は見ていない)。でも実家はパソコン置いてないんだよ。通信機器は母親のスマホだけ。そのスマホはちゃんと回線繋がってる。Wi-Fi要りますか?
Wi-Fiの解約を提案したら「解約手数料がかかる」ってさ。Wi-Fiに金を2年払い続けるのとその解約手数料今すぐ払うのと、額面計算して比べてくれよ。
こういうのをポンポンと契約されかねない。その解約の度に金がかかって、所得に対して支出が馬鹿みたいになりそうだ。
逆に、前にトイレの換気扇を俺が付けっぱなしにしていたら(俺は自分の家でもずっと付けている)、凄く文句を言ってきた。付けないことによって節約しているらしい。それで一ヶ月の電気代いくら浮くんだよ。付けっぱなしでも300円程度だろ。こういうところで自分は節約上手の生き方上手であるかのように振る舞ってくるのも疲れる。
で、月20万円で過ごせないのが信じられないから、月の支出を見せてくれ、削れるところを見直していこう、と言うと「何でプライベートなことをお前らに教えないといけないんだ」とキレる。
一緒に暮らしてやっていける気がしないよ。
育ててくれた恩は感じているけどさ、俺が母親から受け取ったのって、一般的な家庭からすれば遥かに少ないんだよ。それもありえないレベルで。
暴力・暴言の虐待は日常茶飯事だったしな。夫婦喧嘩の仲裁を子供たちでやったことなんて数え切れない。
すねて飯を食わないと言い出した母親におかゆを作ったら、「しつこいんじゃ!!!」と怒鳴ってお椀をゴミ箱に突っ込まれたこともある。
それなのに俺が、一般的な家庭における息子が親に渡すものよりも遥かに大きな世話をする必要ってあるんですかね?
というか、俺がいるから母親は俺の金を当てにしてくるんだよな。元々俺は家の中で存在するはずのなかった子供なんだし、いなくていいよな。
残額800万に俺の取り分を加えた1000万を全部送信して、バックレようか。
【追記】
予想以上の反響で驚いています。応援の言葉をくださった方にお礼を申し上げます。ありがとうございます。
いくつか補足をしておきます。
・他の兄弟
兄弟も手伝ってはくれています。帰省のときに小遣いを母親に渡したりしているそうです。自分は小遣いは渡していません。
本文からも退場したわけではなく、見直しを提案したときには同席してくれていました。母のセリフが「お前らに」となっていたのはそのためです。
ただ、結婚していたり、正社員ではなかったり、ということで面倒を見るのは自分以上に困難と思われます。精神的にどうかは知りません。
・年金
評価は受けていたと思いますが、受取人が自分だったのは評価されていたからではなく、母を受取人に出来ない理由があったからです。(法的にどうなのか分からないので書きません。役所からはこの回避方法で問題がないという回答をもらっています。)
だから母は自分が本来の受取人であり、「管理してもらっているのではなく、預けているだけ、本来は自分の金である」ことを主張します。
贈与税がかかるから一度には渡せない、ということで自分の扶養に入れて、生活費を送っています。(ここは法に触れたら金を没収されるものなので母もすぐに言うことを聞いた)
税金の話をするまでは、「私が正当な所有者なのに、あいつは私に金を渡さない。100万ぐらい持ってくるのが筋だ!」と兄弟に愚痴を言っていたそうです。これは傷つきました。
・文章力
ごめんなさい。元々上手い方ではないのですが、それに加えて感情が爆発しそうになっていたので、何を書けば自分の感情が読み手に伝わるのかよく分かっていませんでした。
思い出したエピソードを詰め込んだ感じです。
10日ほど前に、やはり腹が煮えくり返って書いたものがありますので貼っておきます。ただ、一部ノイズをかけようとして情報に齟齬があります。両方にリンクを書き加えたのを以て本人だと見なして下さい。
自分語り。かいつまんだつもりですが長くなりました。ごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20161204200529
・「生んで~」
自分は母親に生んでもらっていません。兄弟は母親の実子ですが。自分は母親と養子縁組をして母親を扶養に入れています。ちなみに実母は実母で嫌いです。
http://anond.hatelabo.jp/20161219005939
【追記2】
騒動の最中に、母に「それなら増田じゃなくて姉と一緒に住むっていうことを考えてみても良いんじゃない?」と言ってみた。
母の回答は「それは私も考えたけど、すぐに良い人見つかったらって思うとなあ……(だから住むなら増田)」であった。
姉が母と一緒に住んだとして、再婚すれば母から再び独立する未来が見えている。
日に日に尾鰭がついてここに匿名で書いたところでどうにもならないのかもしれないけれど。
まず、何故スケオタが自分たちが釣られたと思ってしまったかのこと。
一番の理由はキービジュアルや声優情報が出る前からアイスショー等に公式がスペースを出して宣伝に力を入れていたことだろう。
私自身アニメもよく見るがかなり珍しい展開順だったのではないかと思う。
ファンなら誰もが知ってる振付師と衣装ブランドの名前も挙げられていたため結構盛り上がった記憶もある。
今でこそタブーになり消えたがキャラのモデルになった選手たちも公言されていた。
スケオタ向けのメルマガでアニメ円盤の特典映像についてのアンケートが実施されたこともある。
ここまでするからには、実際の大会とコラボし推奨作品になったりするようなスポ根もののアニメが見られると思ってしまったのだ。
スケオタだからこそ、普段見られないプログラム製作や衣装作りの過程が見られるであろうことに勝手に期待してしまった。
実際私もスケ連も監修していると勘違いしていた。
勿論その後は個々人がどんな物語どんなジャンルを好むかの問題だし、今のままでも楽しんでいる人も悲観してる人も、追っている人も切った人もいるだろう。
ただ、本格スケートという部分にモヤモヤしている人がいるのは、スケオタについてはこういう事情があったことを分かって欲しいのです。
次に、本当にこのアニメは(当初から)デリケートな性についての問題を描くつもりだったのかということ。このことについては私は否と言いたい。
だって、だったら男性キャラのモデルに実在の女性スケーターを据え、彼女が男性だったなら〜などと言えるはずがない。
(当初とつけたのはことが大きくなるにつれてこの設定が消えたからだ。)
他にも性についてやけに過激な言動が目立つが、それらの言動が周囲から許容されること=寛容な社会なのではない。
異性間だろうと男同士女同士、それ以外だろうと常識やマナーは一律であり、それはアニメ内だけでなくメタなところにも言えることで、
アニメだけを見て理解したつもりになるのは勘違いも甚だしいし、それを絡めて競技ルールや登場国の政治方針にまで言及するのはあまりにも危険なことだ。
少し矛盾するが最初、私は女性スケーターがモデルである件は好意的に受け入れていた。
創作における性の操作は繰り返されてきた表現手段であり現実世界の問題とごちゃごちゃにして狭められるべきものではないと考えていたからだ。
しかし、このアニメがファンが言うように本当にこのテーマを扱う作品なら話は別だ。
マナーの厳しいナマモノジャンルにアニメ公式そのものがなり得てしまうようなキャラ作りは避けるべきだったし、他記事にあった、LGBTを盾にしていると言われてしまうようなぼんやりとした作り込みで済ませられるようなものではダメなのだ。
(ただし、この件は某原案者が盛り上がってるだけでアニメ公式の方はなにも言及していないのでなんとも言えない部分ではある。)
恐らく、話数が若い段階で物語の方向性が変わったことは確かだ。オリジナルアニメではよくあることだし、製作スケジュールとの兼ね合いもあるかもしれない。
最初の項で書いたアンケートの、スケオタ自身の反応が芳しくなかった結果かもしれない(実際アンケートの取り方について少し炎上したのだ。)
ただ、その方向転換が大体的に打ち出したキャッチコピーを変えてしまうもので良かったのか、変えた時点の残り話数で、実在するモデルがいると公言してしまった過去がある状態で描き切ることができる題材として正しい選択だったのか違和感を覚えてしまう。
長々と書いてしまったが、どちらのファンが悪いのかが言いたいのではない。スケオタの中にもどんどんヒートアップしてしまっている人もいる。ただ、苦言を呈している人が差別者呼ばわりされ、実在選手を盾に揶揄されることが悲しくてならないのだ。
『逃げるは恥だが役に立つ』というドラマが流行っている。
要約すると最初は便宜上の契約結婚を交わして夫婦がだんだんお近づきになり「本物の夫婦」になる話だ。
好きでもない相手と同棲状態になったり、なかば無理やりお近づきになり、付き合っていくうちに本物の恋仲になる。
そういうお話をバリエーション含め、あなたはいくつも知っている。どれも人気作だ。
少女向けコミックのそれ系統は最近じゃ一月に一作は実写映画化されてるし、
男性向けの場合は落ちものだとか、ハーレムものだとか呼ばれている(まあただハーレムの場合、「好きでもない相手と〜」は一昔前の流行になってるかもしれない)。
こういう系の恋愛物語がいったいなんで受け入れられやすいかというと、
それは我々にとって(少なくとも概念的には)馴染みぶかい恋愛の形態でもあるからです。
親や仲人から引き合わされて、ほとんど初対面の相手となんだかよくわからんが結婚し、最初は家と家との結婚という感じだったのが、
『この世界の片隅に』なんかもそうでしたね。
あれが理想の「見合い結婚」、日本人の好きな「恋愛物語」のパターンです。
日本人は現在に至るまで実はアメリカ的な意味での恋愛結婚をよく理解していないのじゃないか、と思う。
いやね、アメリカ人だって昔から自由恋愛バンザーイ!みたいによろしくやってたわけじゃないんです。
50年代60年代あたりまでは、結婚相手なんて「ご近所さん」が普通だった。
特に都市部では出稼ぎにきた移民労働者が、やはり移民であるお隣の娘さんをなんとなく良いな、と思って、デートを申し込んだり、
あるいはいきなり「娘さんを僕にください」とやってきてそのまま結婚することも多かった(後新聞に結婚相手募集の広告出したりなんかしてた)。
「結婚したあとで好きになっていく」パターンは実はわりと最近までアメリカにもあったんです。
カウンターカルチャー、フリーセックスの時代です。
フリーセックスの方はエイズやらキリスト教保守派のバックラッシュやらで廃れていくんだけど、
自由恋愛のほうは残った。
そう、電話の普及ですね。といっても、
今みたいに個人につき一つってわけにはいかなかったけれど、約束を取り付けるのは楽になった。
娯楽も増えたし、公民権運動の余録で女性の地位も向上して女性の選択肢もちょびっとながら増えた。
なんたって50年代までは女性が単身で社会にでる手段なんて絶無に近かったわけですからね。
やたら女性が結婚を急いだのも実家という家庭から逃げ出したいところが大きかったんです。もっとも、結婚で実家を脱出したところで新しい「家庭」に囚われるわけですが。
恋愛の自由市場化が何をもたらしたかといえば、相手を「事前に」品定めできることでした。
やはり恋人は楽しい人じゃないといや。自分と合う人じゃないと。たとえば、音楽の趣味。映画の趣味。本の趣味が合う人。
食べ物の好みも重要。服装のセンスも忘れちゃいけない。それに犬派か猫派かも……そうそう、絶対ウンコはもらさない人じゃないとね。
こうして相手に要求するリストは無限に増えていく。このうち一つでも「アウト」だとたとえその他の条件を満たしていてもバイバイさよなら、となりやすくなる。
あなたは見知らぬ他人といくらでも知り合えるようになったし、その他人の情報を一切会うことなしにいくらでも知れるようになった。
メールやSNSの発展は新しい人とのつながりを容易にもしたけれど、同時に既存のつながりの切断も容易になった。
ネットで知り合ったあなたのカレの音楽の趣味が最悪だと一分前にわかった? よっしゃ、ならメールを送るんだ。
「あなたがそんな人だとは思わなかった。別れましょう」
そういう人はまだやさしいほうだ。なかには、別れのメールすらおくらずに元恋人を一方的にブロックする人間もいっぱいいる。
アメリカではカジュアルに出会えるマッチングサイトが普及しているけれど、
でも、なぜかアメリカ式自由恋愛のマインドだけは心得ていて、相手への要求レベルは格段に細かく、高くなっている。
知り合う手段は相変わらずインターネット以前のものに限定されているのに、意識だけはポストフェイスブックと化している。
この齟齬は、なんだろう。
といえば、おそらく日本人には「運命の人」信仰があるからだと思う。
「運命の人」信仰とは、趣味が全部合うとか食べ物の好みが一緒だから好きなんだとか、そんなんじゃなくて、
理屈抜きで前前前世から結ばれるべき運命だった人がいるんだよ、という幻想のことだ。
そう、『君の名は。』だ。
わけのわからないまま同居生活を続けるうちに相手のことがなんとなく好きになって
自分の好みを相手が事後的に受け入れ、相手の好みを自分が事後的に受け入れることだ。
それは家父長的な家庭であれば、夫の好むを妻が一方的に受け入れなければならず、逆はないという非対称な関係であったけれど、
現代の恋愛物語ではそれがアップデートされて「お互い様だよね」ということになっている。
日本の恋愛では、まず運命が先にあり、個人の人格はあとからついていく。
それはおそらく個人の人格を認め合う自由恋愛の本義からは外れた思想なのだろう。
でもまあ、なぜか日本人はそういうのが好きだ。
結局、皆、自由恋愛最高!を謳いながらも、心の奥底ではお見合い結婚に憧れ、理想化しているのだ。
Twitterで回ってきたので、これと付随するいくつかのブログの記事を読みました。とても興味深くて面白かった。
父親はサラリーマンではないけれど、リンクした記事の高学歴の世界の住人の特徴(?)には大方即していると思う。
私立小中高を出てそのままの流れで大学生になった。浪人する人はいたけれど、大学に行かないという選択肢を持つ同級生はいない。
「実は日本に大卒ってそんなにいない」という文をみて本当に驚いて、大学進学率を調べた。だいたい50〜60%くらいらしい。
これが多いのか少ないのかは正直わからない。でも、大学に行かない40%強のことを自分は知らない。今数値としては知ったけれど、実感はない。どうやって生きてるのかもわからない。自分の世界にはいないから。
ギャンブル中毒とかホームレスとかも同じで、情報として知ってはいるけど知らない。
ギャンブル中毒の話はNHKでやっていたし、ホームレスは夜の新宿駅で見た。
極端な言い方をすれば、自分はそういう人たちを「同じ人間」だと思っていないのかもしれない。少なくとも、圧倒的少数派だとは思っていた。1億2千万の日本人のうち、ホームレスは新宿駅にいる十数人だけで、ギャンブル中毒なのもTVでインタビューしていた数人だけだと、理解とは別に感覚的にそう思っている。
だって身の回りにそんな人はいないのだ。新宿駅は日本でも有数の大きな駅で本当に色々な人がいるから、人口の0.01%にも満たないような人たちが存在するとしか考えられない。そこから電車で10分離れた田舎にある最寄駅では、地面に寝ている人は酔っ払ったサラリーマンか具合の悪い人で、ダンボールと生活用品を持っている人は倒れてないのだから。
大学で知り合った友人が高校の時にアルバイトをしていたという話を聞いて、すごい!偉いね!と言ったら怒られたのを覚えている。世間では珍しいことではないらしい。
けれど自分が高校生のころ、ローソンで冷凍庫に入った高校生の写真が炎上した時、友人との間で「高校生なのにアルバイトしなきゃいけないなんて大変だね、かわいそうだね」という話が出た。当たり前に高校生でアルバイトをする=普通ではないと思っていた。
同じ大学内、ある程度似通った生活環境の人が集まるところですら齟齬が生じる。
「普通」は自分の育った環境で定義されてしまうし、その枠外を理解はできても実感することはかなり難しいように感じる。
溝は確実にあるだろうけれど、基本的に人はその溝に無自覚だと思う。溝を超えること、価値観を理解することは可能だとしても同じ価値観で生きることは多分できないのだろうなと思った。
能を見ておかしいと思ったことはないだろうか? 演劇としてあまりに狂っていると。
なぜ老人を演じるときは背筋を伸ばし、かくしゃくとして演じよと言うのか?
古典演劇と思われている能であるが、その思想は非常に先鋭的であり未来的である。
ここではその具体例を2つほど見てみよう。
演劇や映画では役者の顔が目の前に見えるので、その役者特定のイメージがついてしまう。だからこの役にこの役者はイメージが合わない、この役者の演技は役と合っていないという観客も出てくる。
しかし小説なら文字で人物の描写はあれど、人物の絵面は読者各人の想像力で自由に描けるので演劇や映画のような役と役者のイメージの齟齬という問題はなくなる。
能がなぜわざわざ面をつけるのかといえば、面という匿名の顔によって観客の想像力を阻害しないように配慮しているのである。つまり小説と同じように記号だけ提示して(笑顔とか悲しみの顔とかを大まかに提示して)、読み取りは観客任せなのだ。
(小説で言うと「彼は小さく微笑んだ」という文章があったとして、最終的にどの程度の笑みなのか想像するのは読者である。それと同様、能は表情すらも観客の想像力に任せているのだ)
思うに近代西洋演劇はあまりに観客という存在を忘れすぎた。反対に能は強烈に観客の存在を意識し、観客に対し作り手としての参加を要請しているのだ。
近代演劇というのは、当たり前であるが「リアリティ」というものを重視する。
老人を演じるなら、よぼよぼで背中を曲げて、耳が遠いよう演じなければいけない。
これは確かに老人のように見える。実に合理的な演技だ。
しかし、それは本物の老人といえるのだろうか?
つまり老人を演じるなら、背筋を伸ばし、かくしゃくとして演じよ、というのである。
これはなぜかと言えば、老人とは「常に若くありたい」と願う存在だからである。
老人と見られることは弱者、無力な者と見られることである。だから老人は老人と見られることを嫌い、自分はまだまだ若いと思う。
その心情を表現してこその演技であるから、老人らしい見た目にこだわるなど愚の骨頂。老人の心境とは遠くかけ離れた「リアリティのかけらもない演技」と能は捉えるのである。
「ポリコレ棒」という用語はあれか、ようするに「議論が終わった事柄」について説明を省略した「やったら駄目なことリスト」を見せられた人が「初めから全部説明してくれ」という引き伸ばし作戦をするためのものか。— 丹菊逸治 (@itangiku) 2016年11月14日
そう、まさに、少し前までの「ポリコレ」という言葉は、こういう意味で使われていたはずだ。
すでに政治的闘争を経て決着した、これら社会的弱者を差別してはいけない、地位を向上していきましょうという合意のことだ。
@tyk97さん連続Tweet:乙武さん入店拒否の件から考察する「グローバルいんちき」というプロトコル - Togetterまとめ
@H_Nobunagaさん連続Tweet:乙武さんの件、橋下市長の従軍慰安婦の件とPolitical Correctness - Togetterまとめ
上記リンクは、ネットでPCという言葉がよく使われだした頃の議論だ。
人種と文化のるつぼである移民国家アメリカで、マイノリティが闘争を経た末に権利を勝ち取り、歴史を逆戻りさせることのないよう不可侵の約束事となった、それがポリコレ。
個人的にも得心が行ったし、Twitter上の頭の良さそうな人たちにも概ね好評だったので、なるほどポリコレというのは政治的運動で勝ち取るものなのだな、と思っていた。
オタクを差別してはいけないというのは、特に社会的なコンセンサスなど取れていないので、PCの範囲ではない。
そこに突然、君たちもPCで守られてきたんだよ、なんて言われたら、はぁ?となるに決まってる。
ところで、ポリコレの辞書的な意味は「差別・偏見が含まれないよう配慮された言葉」で、マイノリティに限らないものらしい。
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
しかし、オタクが差別されてる!とか噴き上がってるエントリなり発言なりに対して「うんうんそれもまたポリコレだね」と答えた者が、過去にどれだけいたのだろうか。
オタク蔑視に文句があるなら、先人の手柄にフリーライドするのではなく、オタクはオタクで政治的主張をしていくべき、という意見を何度も見た。
その意見自体は正しいと思う。ある程度他から借りてこられる部分はあるにせよ、当事者が声を上げなければ始まらない。
しかし、それをポリコレという言葉を使って表現しているのは、過去には殆ど、あるいは全く、見たことがなかった。
今日これだけポリコレという言葉が溢れているにも関わらず、だ。
つまり、多くの者は暗黙には「ポリコレ=政治的闘争を勝ち抜いた一部のマイノリティを守るもの」と認識していた、と考えるのが自然だ。
いや、オタクがPCで守られているという意見も、言いたいことは多分理解できてるつもりだよ?
オタク側にも、俺達の趣味を蔑視するな!アニメやゲームと犯罪を結びつけるな!と主張する権利は認められているし、現にそうしてきた。
今後のオタクの努力次第では、アニメやゲーム等の趣味や職業で蔑視してはいけませんという社会的合意が取れる(つまり、PCになる)可能性もあるだろう。
今PCという概念を否定したら、その未来すらも否定してしまう。
これまでマイノリティの尊重を訴えてきた方々のお陰でオタクも少なからず楽になっているんだ、という意見も見た。
それは至極尤もな話だ。
一口にオタク差別というと内容が非常に曖昧だが、表現に関わる職業に対する差別、それを消費する趣味に対する差別、オタクという属性そのものに対する差別等があるだろう。
この中のいくつかは、オタク以外の政治家や運動家たちによって改善された部分も少なくあるまい。
それでも、少なくとも現時点では、オタクを蔑視するのは社会的に非難されるような行為ではない。
オタクはマイノリティなので地位向上に取り組みましょうという社会的な動きがあるわけでもない。(むしろどんどんマジョリティ化していきそうだがそれは別の話だ)
「ポリコレはオタクの事も守ってきた」というのは、単純に言葉の使い方がおかしいんだよ。
たとえ辞書的には正しい用法だろうと、相手の認識と齟齬があるときはちゃんと説明して使って頂きたい。
それをしないのは「消防署の方から来ました」とやってることは同じだ。
はてなブックマーク - べるお@冬コミ落選マンさんのツイート: "だから「俺らはポリコレで割を食ってばかりだ」って言い分には全然賛成できないんだ。ポリコレのない世界で毎日投げつけ何でもかんでもポリコレに含めるな!テメエの身はテメェで守れ!我々はお前のママじゃねぇ!→あれもこれも全部ポリコレが守ってきたんだ!ポリコレを否定したらお前も死ぬぞ!って変節にしか見えないんですよ。2016/11/13 00:41
「結婚することを『ゴールイン』みたいに表現することあるだろ?」
「あるね」
「でも、その後の生活もあるわけで、それをゴールと表現するのはどうかと思うわけ」
「じゃあ、ゴールはどこだ?」
「うーん……離婚?」
「結婚がゴールでないという以上、別の地点をゴールにしなければならない」
「いっそゴールなんてないと考えてもいいんじゃない」
「いや、人生が永遠に続くわけではない以上、確実にゴールは存在すると考えたほうがいい」
「うーん、となると、やっぱり死ぬことがゴールになるのかなあ」
「何か哲学的な感じになってきた」
「冷静に考えてみたんだが。ゴールをどう解釈するかがキモなんじゃないか」
「例えばゴールは無数にあるとか?」
「そう。現実の陸上競技だって、一つのレースだけ出て、そこでゴールしたら他のレースには出れないってわけじゃない」
「つまり『結婚するというレース』と考えるなら、そこをゴールに定めることは間違いではないかもしれない?」
「それだ。仮にそのレースにゴールしても、その他のレースには出場できるし、しなくても別のレースに出場できる」
「数多あるレースを『人生』で一括りにして、ゴールを一つにするから齟齬をきたしていたのかあ」
「けど、結婚することをゴールと定めてもいいとして、それはそれで新たな問題が」
「ああ、スタートをどこにするかだ」
将来的な貧困云々を予想する人も共通する特徴は、国民の平均所得の変化だけを論じて、
その変化に応じた社会システムの変化に /まったく/ 無頓着なところ。
日本人の異常なほどの持ち家志向は、高度成長期に住宅に異常なほどの供給不足が生じたことから、
例えば賃貸において需要側が不当に不利な契約をさせられる、といった社会問題が続発したため、
「持ち家がなければ生活が安定しない」という社会的コンセンサスが背景にあった。
だが、当時と社会状況が大きく変化した現代ですら、まことしやかに「持ち家がなければ高齢者になってから路頭に迷う」と喧伝され続けている。
ところが、現実は賃貸物件の全国的な空き室率が5割に近付きつつあり、よほどの好立地でない限りは需要側が不利になることはない。
持ち家を所有するにしても、かつてはほとんど見られなかった中古物件をリノベーションするパターンが増えている。
状況が変化すれば、消費行動が変化するには当然なことだろう。
多くの人間は不利な状況になっても現状を維持し続けるほどにはバカではないので、環境が変化すればそれに応じて社会システムも変化する。
だから、現在の状況が完全に維持されるという謎の前提で将来予想をしても、実際の結果とは全く異なった予想にならざるを得ない。
若者特有の消費行動や価値観というのも、環境の変化に応じた社会変化の一種であり、適応の結果である。
中高年世代はそれをしばしば批判するが、それは旧世代の環境に応じて身に付けた価値観が現実と齟齬を来たしている結果に過ぎないのであって
議論を噛み合わせようとしない輩を創作(と言うか半ば例題)にて説明してるが、ここで創作そのものの質について意見してるあたりがメタになってて草が生えざるを得ない。その上情報の齟齬に話を置き換える始末。アホかこいつ。
もしかして、僕がブクマしている元増田自体の質を意見しているように読まれました?
だとしたら、ごめんなさい、誤解させてしまいましたね。
僕が議論が噛み合わないと感じる創作を読むとイライラする、という話で、元増田の質には何も感じていません。
例を挙げるとカドが立ちそうなので挙げませんが「作者が意図せず」噛み合わない議論を続ける作品が苦手という意味です。
作中で「議論が噛み合わないおかしな奴」が登場するのは、イライラしないのですが、
作中で筋の通った議論のように、元増田の紹介しているピントのずれた議論が行われるような創作物があって、それが苦手なのです。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
この「飴をくれる危険な大人」というイメージは、割と昔からあるようだ。
1968年製作の映画「チキ・チキ・バン・バン」では、とある悪役が子供をさらうために、餌としてアメを用いているシーンがある。
まあ、もっと探れば歴史がありそうだが、少なくとも「飴をくれる危険な大人」というイメージは、1968年あたりから既に確立されていたというのは確か、だというのが私の見解だ。
正しさというものは多側面から見ればいくらでもあるので、側面的に見なければ齟齬をきたすからさ。
恋愛工学とかで考えた方がいいことに数学を持ち出して、その数学的な正しさが破綻していなくても適切とはいえないだろう?
まあ、一つは「大義名分」だな。
だから、税を徴収したいとき、そういうものは増税の対象として都合がいいのさ。
まあもう一つの理由は、身も蓋もない言い方をすれば「それでも買う人がいる」からだな。
過去にも何度か増税があったが、今なお多くの人が愛用している。
つまり、たくさん税を手に入れられて国は喜ぶ、喫煙者や酒飲みの肩身が狭くなったとして善良な市民も喜ぶ。
Win-Winというわけさ。
鉄道むすめとのコラボで新たに駅乃みちかのイラストが作成されたのだが、
ああいった表情、ポージングが艶めかしい物として扱われている場面をあまり見たことがない気がする。
挑発的であったり、動揺を悟られないように堪えていたり、どこか当惑したような表情だったりではなかっただろうか。
キャラクターがくだんの駅乃みちかのように恍惚とした姿を見せるのは、
大抵の場合、何らかの対象に向けた羨望や感激を表現するためだと思う。
しかしながら、漫画、アニメ、ゲームというオタク文化以外に目を向ければ、
腰をくねらせ口を半開きにし、頬を赤くして、そして蕩けた目つきで何かを見つめている姿は色めかしさの記号として扱われることもなくはない。
私が思うには、あのように肌質や皺を誇張して描かないと、「立体感に乏しい、塗りが甘い」とみなされてしまうからそうしているまでだ。
アニメのクオリティが高いからこそ、一枚絵ならばより描きこみを多くしなければならないという不文律があるということだ。
不自然なまでに光沢感を強調したかつての「エロゲ塗り」もそのような差別化の末に確立されたはずであろう。
まさにいま沈没していってる船の上で一切のまともな修理をして来なかったのが、今までの世代の奴ら。
時代は常に動き、今までのやり方では、完全に齟齬が出ているのに何ひとつ治そうとしなかったのが今までの世代の奴ら。
だってこのまま全員が長時間労働続けたら、マジで子供出来ないよ?いつ作るの?
日本人減り過ぎて、少数の働く人間が大量の老人を支えなきゃならなくなって、高負担でまた子供を育てられなくなってって悪循環で、どの道終わるんだけど。
社会保障や年金だって、いつまでまともに機能するか分からない。
どうせ終わるなら船の修理ぐらいやらせろ。
>おれらのオヤジたちが作り上げたものをのうのうと食いつぶしてるのは
今の日本を作り上げたのはお前のオヤジではないと思う。思い上がり過ぎ。
その世代の財産を食いつぶしてるのが、失われた20年間を一切立て直せなかった奴ら。全員。
なんで今まで間違った事がずっと続いて来て、しかも経済の低迷という「大失敗」を招いているのに。
今まで通りやれば全部上手く行くと思うんだ?
科学実験で失敗した方法を何度も何度も何の改善も無く繰り返して、「成功しない」って言ってる奴が居たら、そいつは頭のおかしい奴だろ。