能を見ておかしいと思ったことはないだろうか? 演劇としてあまりに狂っていると。
なぜ老人を演じるときは背筋を伸ばし、かくしゃくとして演じよと言うのか?
古典演劇と思われている能であるが、その思想は非常に先鋭的であり未来的である。
ここではその具体例を2つほど見てみよう。
演劇や映画では役者の顔が目の前に見えるので、その役者特定のイメージがついてしまう。だからこの役にこの役者はイメージが合わない、この役者の演技は役と合っていないという観客も出てくる。
しかし小説なら文字で人物の描写はあれど、人物の絵面は読者各人の想像力で自由に描けるので演劇や映画のような役と役者のイメージの齟齬という問題はなくなる。
能がなぜわざわざ面をつけるのかといえば、面という匿名の顔によって観客の想像力を阻害しないように配慮しているのである。つまり小説と同じように記号だけ提示して(笑顔とか悲しみの顔とかを大まかに提示して)、読み取りは観客任せなのだ。
(小説で言うと「彼は小さく微笑んだ」という文章があったとして、最終的にどの程度の笑みなのか想像するのは読者である。それと同様、能は表情すらも観客の想像力に任せているのだ)
思うに近代西洋演劇はあまりに観客という存在を忘れすぎた。反対に能は強烈に観客の存在を意識し、観客に対し作り手としての参加を要請しているのだ。
近代演劇というのは、当たり前であるが「リアリティ」というものを重視する。
老人を演じるなら、よぼよぼで背中を曲げて、耳が遠いよう演じなければいけない。
これは確かに老人のように見える。実に合理的な演技だ。
しかし、それは本物の老人といえるのだろうか?
つまり老人を演じるなら、背筋を伸ばし、かくしゃくとして演じよ、というのである。
これはなぜかと言えば、老人とは「常に若くありたい」と願う存在だからである。
老人と見られることは弱者、無力な者と見られることである。だから老人は老人と見られることを嫌い、自分はまだまだ若いと思う。
その心情を表現してこその演技であるから、老人らしい見た目にこだわるなど愚の骨頂。老人の心境とは遠くかけ離れた「リアリティのかけらもない演技」と能は捉えるのである。
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■「能」という、演劇の破壊者
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