はてなキーワード: 視聴者層とは
これが現実だ。
2020秋クール
おちフル…BS日テレ(横1440×縦1080ドット)水曜24時台で4K版が通販のためサイマル無し
裏番組が池袋ウエストゲートパーク(同じ角川ビデオ)のためコマーシャルは殆どが視聴者層とはかけ離れたものメイン
アイナナやヒプノシス、ノブレスはじめ同期の腐夢関連の殆ど…BS11(横1920×縦1080ドット)での放送
(他の性嫌悪主義者がいいと言っている腐夢以外の作品も横1920のフルHD放送されたケースある)
売上
呪術廻戦…2万セット
アイナナ…13000セット相当
ヒプマイ…9千セット相当
(まなびライン)
おちフル…1700セット相当
それでも人権棒どもはおちフルを叩くのか?
人権棒どもが依怙贔屓した作品の方が高待遇または高利益出してるのによぉ…
いい加減気づいてくれよ
ツイッターをやっているものの宿命か、やはりお騒がせ系の人が絡む話題は何もしてなくてもTLに流れてくる。
(原因はおそらく、フォローする際に西野が嫌いかどうかを指標にしていないためであろう。何もしないから流れてくるのだとも言える)
無論、ほとんどが批判・またはアンチ的な内容である。ツイッターだから当たり前だが。
が、正直言ってその批判内容があまりにも荒唐無稽というか、西野信者以上に言っている事が意味不明である。
そして中にはもはや陰謀論の域にまで達しているのでは?と思ってしまうようなものもある。
少なくとも私から見れば、西野に対する感情や評価以前に「いや、流石にそれはおかしくねえか?」と言いたくなるような批判が、決して少なくない同意を意味するいいね・リツイートを得ている光景を目にする機会があまりに多くなってきた。
それらについて感じている事をはてな匿名ダイアリーという便利なものを使って書き連ねようと思う。
ちなみに映画そのものはまだ見に行けてはいない(見るつもり自体はある。多分きっとおそらく)ので内容と現在為されている評価が釣り合っているのかどうか、みたいな事を判断するのは難しい。そして出来ればネタバレはやめてほしい。どんな映画でもネタバレされるのは嫌いだ。
(余談:プペルとツイッターで検索しても映画の内容について触れてるものはほとんど無いため、ネタバレを喰らう可能性は低い。なのでその点に関しては正直大分ありがたい。あくまで私のアカウントの場合だけど)
まず、大前提として以下の通り、プペルはかなりヒットしている。
https://www.cinematoday.jp/news/N0121128
西野は「100万人動員しても赤字」と言っていたが、この様子だと黒字も普通に見えてくるのではないだろうか。
具体的な制作費、及び「どこまで行けば利益出るのか」がわからない以上、赤字黒字を無関係の一般人が判断するのは難しいが、現状数少ない「基準」らしきものは突破した。
(ちなみにもう一つの「基準」は100億円。どういう文脈で言われたのかは調べていないが、西野発言なので基準としては有効だろう。流石に達成は無理だと思う)
西野亮廣、オンラインサロン会員を「食い物にしてる」!? 『えんとつ町のプペル』めぐり「信者ビジネス」の指摘
https://www.cyzowoman.com/2021/01/post_321572_1.html
上記のような記事をシェアしている者が結構多いのだが、記事の筆者は「サイゾーウーマン編集部」と書いてあるだけで個人名が無い上に、芸能ライター(誰かはわからない)が「ネット上では~」と語っていたり、テレビ局関係者(具体的な役職も勤めている局も不明)がググれば誰でも知れる西野の発言を紹介しているだけという怪しいにも程がある記事である。はっきり言ってまとめサイトや実話なんちゃら系の記事と大差ないのだが、内容が西野叩きなら構わずシェアしてしまうのだろうか。
「プペルが本当に面白いなら二次創作が生まれるはずなのに全く見ない。つまり…」に納得の声が集まる「浅い感想しかない」「モルカーは5分でも流行った」
https://togetter.com/li/1655008
まとめの最初のツイートは「ガイナックス初代社長(岡田斗司夫のことなのか?)がそう発言した」という内容だが、これもどこまで本当でどこまでツイート主の主観が入っているのかがわからない。リンクもハッシュタグも無いので元発言がわからない。
「俺らが全く知らないYouTuberが登録者数日本一なのはおかしい!登録者買っただろ!」と言いがかりをつけられたアレである。
実際にはスーツ氏が指摘していたように、「主な視聴者層が普段ネットで発信とかやらない小さい子供の育児中の母親層で、子供をあやすためにYouTubeキッズで垂れ流しており、子供が成長したらチャンネル登録したまま見なくなるだけ」「YouTubeはキッズ向け動画と大人向け動画を完全に分けているので互いの視聴者層が交わらないだけ」というのが真相だ(と思われる。スーツ氏の発言はうろ覚えだが、要旨はこんな感じだったと思う)。
プペルも同じように、単に見に行っている層と普段二次創作を見たり作ったりしている層が被っていないだけなのでは・・・?
途中で送信してしまったのでここから追記。後で更なる追記をするかもしれない。
https://twitter.com/torinakisa/status/1350900186487296001
西野のオンラインサロンが宗教っぽいみたいな批判は前からあったし、自分も外から様子が見えない閉鎖空間で万単位の人間と何かやっている以上、そう言われるのもある程度は仕方ないと思う。
が、幸福の科学映画とプペルを同一視するのは流石に的外れでは。
そも、1100万人もの信者(よくわからないが、wikiとか見るとそんぐらいらしい)がいる日本有数の宗教団体と同じ事を7万人ぐらいしかいない西野サロンでやるのは大分無理があるのでは?
7万人しかいない以上、やはり100万人動員が西野信者だけで構成されているとは思えない。10プペとかやっているのは流石に信者でも少数派だろう。全員が一人あたり14回見に行かないと達成できない。仮に7万人の人間全員に14回見に行かせられるようなカリスマや超人的な洗脳能力が西野にあるとして、なんで絵本書いて映画なんて作ってるの?としか思わない。どう考えても持ってる力に比べてやり方が回りくどい。
普通に、普段ツイッターやらネット掲示板やらで発信しない一般人が見に行っているだけでは。
広告も沢山打っているし、芦田愛菜や窪田正孝といった知名度が高くてファンも多い真っ当な有名人を声優として起用しているし。西野がやり玉に挙げられがちだが、この二人のファン層も一定数見に行っているだろう。
最初の緊急事態宣言頃は色んな芸能人やアイドルがステイホームを呼びかけていて、ファンたちもそれをこぞって拡散していたと思う。
資本主義の象徴の一つであろうテレビもリモート出演や大きなアクリル板をスタジオに多数配置して頑張っていたりと、あぁ世界が大変なんだなというインパクトを与えていたように思う。
それが今や、ある程度の感染対策をしていると言いつつも、かなりぬるくなっている。
音楽番組では他アーティスト同士は接触を避けているとはいえ、グループ内では濃厚接触をしながらのパフォーマンスは当たり前。
どんなに日頃気をつけていたとしても、一人がどこかで感染していたら、結局それをメンバーに感染させ、その家族へと広がっていく。
観客ありでのライブを再開しているアーティストも増えつつある。
ここをまたさらに強く引き締めればテレビ視聴者層やアーティストへのファン層へのインパクトは強いだろう。
あとはフェイスシールドの感染抑止効果のダメさをちゃんと認めて、不織布マスク未満の効果のものは使用禁止としてガイドライン化し、視聴者にも同様の対策を訴えるのがいいだろう。
NHKが面白いエンタメものを作ると「こういうのをどんどんやってくれ、そうすればみんな受信料払うのに」という意見がネットで人気になるが、それは問題のある意見だ。
皆が楽しめて人気になるエンタメを提供して収益を稼ぎ組織を回すだけなら、民放でいい。またはNetflixやamazonでいい。
NHK特有の価値というのは、人気が無かったり視聴者層の購買力が低かったりで儲からないが、必要な人にはとても必要なコンテンツを提供することだ。
生涯教育・文化番組であったり、幼児番組であったり、災害報道であったり、他組織から一定の距離を置いた報道・批評であったり。
エンタメにしても、求める人は少ないが、一部が切実に求めているようなものを提供して、その趣味的マイノリティの心を支えることができる。
多くの人にとっては直接的にはメリットにならない、だが社会の底や端っこを支えているので巡り巡って間接的には重要で見えづらいメリットをもたらす、そういう投資がNHK受信料である。
というわけなので、「私が見て楽しめる番組なら金を払う気になるから、NHKはそういう番組ばっかり作ってくれ」というのは資本主義的な市場感覚に染まりすぎていて問題がある。
資本主義と市場は優秀な仕組みだが万能ではなく、その穴を埋めるのがNHKなのだ。
「俺は全く興味のない番組が多いが、どこかの誰かは求めててそれが社会の端っこを支えてんだろうから、効果は実感しづらくてムダ金払ってる気になるがそれでも受信料払わねえとな」という、実感には反するが理性を働かせて受信料を払う決断をすることが私たちには必要である。
ちなみに徴収者に暴力的なやつがいる(自分は遭遇したことがないが)のは問題なのでそれは大いに批判するべきだが、「だから払わない」ではなく「払いはするが、ろくでもない徴収者はしっかり教育しろ」という話にするべきだろう。
裏社会映画やアメコミ映画で警察が腐敗している時に、その腐敗は糾弾すべきだが、警察を失くせという話になったらヤバいのと同じである。
抗議の意思表示としてなら一時的に支払わない選択もアリだけどね、本当に一時的ならば。
「NHKでやってることの99%はマジで興味ねえ無駄だしやめてほしいわ~、数年に一回くらいは他がやってくれそうもないのに俺得なコンテンツを作ってくれるのにな~」という感覚は、その99%も他の色んな人達の「俺得」の集合なので、それぞれが望む俺得が世界から消えないために99%のぶんの金も払う、それがNHK受信料の意義なのだろう。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
昨日のジャニーズで盛り上がってた若い子諸君、知ってるか?オールスター感謝祭って昔はクイズ番組だったんだぜ。
昨日のアレを見た人たちってあれをどういうジャンルの番組だと称するのでしょうか。
そもそも「オールスターって何」というところから始まるんすよ。昔の感謝祭は本当に色んな有名人が出てた。若手俳優、大御所芸人、国会議員、プロ野球OB、力士、ニュースキャスター・・・本当に各界の著名人が「賞金のために」出てたんですよ。1問正解で数百円の賞金が加算されて行って、ピリオドチャンピオンになると何十万円も貰えて、さらにボーナスクイズに正解するとまた賞金がもらえる・・・まさに景気のいい時代に「普段TBSに出演してくれる芸能人に感謝する」ために作られた番組。
で、近年視聴率も落ち続けおまけに不況になった。いつの間にか赤坂のスタジオには200人来なくなり賞金も減った。ここまではまだ許容範囲だが、クイズをやらなくなった。クイズ番組なのにクイズやらなくなった。じゃあこの番組は何?
別に春秋の改編期にやる特番だしドラマ、新番組の宣伝にめっちゃ力入れるのは良いんですよ。最近創設された新企画のアーチェリーも数々の名勝負を生み出してきていいなって思ったんです。でもその他が蛇足すぎる。くだらねぇスタジオ企画とかそういうの求めてないんですよ。おまけに昨日の「このあと誰誰は○○するでしょう?」とかいうクイズにもなってない謎コーナー、あれマジで引いた。つまらない面白くない以前に引いた。あの企画なんだよ。確実にモニ○リングが絡んでるだろ。なんであいつらにやらせたんだよ。そもそも感謝祭にそういうの求めてないし、そんなこと次回以降も続ける気なら「オールスター感謝祭」を名乗らないでほしい。29年前に当時のスタッフと島田紳助がこれ見たら泣くぞ。まあもう次回やる気なんてないんだろうけど。
「もう自分の見たい感謝祭は帰ってこないんだろうな~」って思いつつも毎回見てしまう自分も悪いのだが、地面スレスレにまで下げたハードルを蟻のようにくぐってくるのやめてくれ。こっちは極限までハードル堕としてるんだぞ。くぐるなよ。
ていうか数十年見てきて昨日は本当に途中で見るのやめた。「史上初のスタイルでお届けします!」史上初って何?結局過去の焼き回しとコロナの流行を理由に手抜いてるだけじゃん。前から手抜いてたけど。「史上初」要素、どこにもなかったんだけど。
別に人少ないのは良いよこういうご時世だし。もっと人呼べよなんて言わないからさ、せめてもうちょっとまともに見れる「クイズ番組」やってくれねえかなぁ。
ていうか今のTBS上層部って「クイズだらけの感謝祭はつまらない」って本気で思ってそうだし、俺のこの意見も「今の視聴者層とあなたの考え方は合ってないので、嫌なら見なくて結構です」って言われると思う。俺が老害なのは自覚してるし今テレビマンの考え方と全く違うのは分かってるけどさ、俺は悲しいんだわ。時代の流れなのかな、これ。
で「最後くらいは見るか、誰優勝したか気になるし」って思って23時半にテレビつけたら例の「このあと誰誰は○○するでしょう?」とかいうクイズにもなってない謎コーナーまだやってんの。嘘でしょ。「このあと誰誰はスタッフを助ける?助けない?」じゃねえよ、助けられるのはお前たちの方だろ。
昔はこの時間帯にぬるぬる相撲やってたな~とか、最近だと大逆転ピリオドとかあったな~と昔の感謝祭に現実逃避をしながら今回も島崎和歌子の「My life is...」を聴いてこうしてグチグチと文句を垂れ流している。
どうやら最近MAD文化というものがなくなったのだと考えている人が多い。
MAD文化がなくなったということは、もうMADの作り手がほとんどいなくなってしまったということが考えられるがそれは大きな誤解である。
ニコニコで「音MAD」をタグ検索すると、5年前の2015年から2019年まで投稿件数は減っていないどころか大幅な増加をしているのだ。
2020年はすでに9545件もの音MADが投稿されており、すでに2019年の投稿件数を超えそうなペースで増加している。
少なくとも作り手がほとんどいなくなってしまったということはない。しかしMADがたまに伸びたり、Twitterでバズると「こういう動画減ったな〜」というコメントが必ずつく。これは一般視聴者がMADを見なくなってしまったということである。
私はMADを見なくなってしまったという人が多いのは皆が知ってる共通認識のネタが減ったのが原因であると考えている。
一昔前はオタクならほぼ全員が知っているコンテンツが見られていた(咲、禁書、らき☆すたのようなアニメやゲームなら艦これ等)
しかし昨今はオタクの趣味がソシャゲ、Vtuber等に細分化され、かつては多くのMADが作られていたアニメ自体視聴者は日常系、なろう等の多ジャンルに分散化された。
Vtuberも四天王が出てきた2018年頃にはネット全体がVtuberというジャンルに注目しており、そのころは多くのダンスロボットダンス等のMADが作られていたが、その後にVtuberの主流が配信者となり、VtuberのMADの視聴者層がほぼそのVtuberのファンのみとなったため再生数自体は減った。
しかし今でもMAD、特に音MADは良作が作られ続けているのは事実である。昨年11月に平成に投稿された全音MADから各人10個選び順位づけ、それらを集計したうえでランキングにしたイベントが行われた。このランキングには大体の人がMAD全盛期をイメージしている2009,2010年頃だけではなく、最近の動画特に2018年の動画が多くランキング入りしている。
https://www.youtube.com/watch?v=0fbikIWDKIU
長いと感じる人は10位からの動画(59:48~)がフルで見れるのでそこから見てほしい。
https://www.nicovideo.jp/mylist/67036747
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1q0oKdIh5AV8-2biDY8KYd_5uEB0-Im8EXShlf-z0I0Q/
話は変わり、ニコニコにおいては動画を発掘する手段としてタグ検索とランキングに上がっている動画を見るというのが主流であるが、タグ検索はその素材がよっぽど好きな人しかやらず、ニコニコのランキングページはそもそも見る人が減りつつある。
今でも良いMADが作られていると言われても、これでは探しようがないと言う人におすすめするものがある。それは、毎年行われている「音MAD10選」である。
こちらのホームページで毎年投票式によりその年ごとの良かった音MADを選び集計結果が発表されている。
http://oto10.s602.xrea.com/10sen/
1年おきではなく最新の動画群の中から良作を見つけ出したいという方は音MADの作り手の中に最新の動画をマイリストに入れてニコレポに放流している人もいるのでそれをチェックしてみるのもよいだろう。
かつては創作の場において2ch(現5ch)が主流で多数の面白い人が集まりコピペ、FLASH、AA等多くのネット発文化が生まれた。その後に人の集まる場所はTwitterに移ったが、最近異なる思想の人が一つに集まりすぎることの弊害からか、強い口調で煽り合ったり他人の意見を否定することが増えつつある。動画投稿で生計を立てるという新しい職業を生み出したYoutubeも、最近の急上昇は芸能人が席巻し、新規に素人が出る幕がなくなってきた。しかし、ニコニコにおけるMADの作り手は当然のことではあるが一切の見返りにもならずとも動画を作り続け、技術の向上を目的にしたり、純粋に面白い動画を投稿したりし続けている。その姿はニコニコ、いや大きな資本が投入され続ける前の楽しかったころのインターネット文化を継承している最後の砦といえるのかもしれない。
最近、ジェネレーションギャップ的なものを感じる
自分は20代半ばになるんだが、5~6歳下の年の人と話しているとどうもPCの扱いが苦手な人が多い印象がある
勿論そんな世代の中にも自作プログラミング言語の処理系を作り上げてしまう天才やフロントエンドでもう現役で働いていけるんじゃないかってほどの技術を持った人は居るんだけど、その一方でWindowsの操作がおぼつかない、みたいな人も見る
子供世代からいじりまわしてきたデバイス・ガジェットの中央値が変わったんだろうなぁとつくづく思うようになった
Mac慣れしててWindowsは分からないとか、スマホはすごく触ってるけどPCは殆ど触ってない、みたいな中央値のギャップを感じる
VTuberなんかも、中の人の世代はどうも自分と同じか少し上ぐらいの世代が多くて、ターゲットも広げようという意思を感じる人も居るがたいていの場合視聴者層の中央はニコニコ動画、2ch、mixi、アメーバ、etc...の時代を通ってきた人のように思える
上の世代にIT頓珍漢な人がいるって話もよく上がるけど、下に深い溝が見えてきてるというか、ギャップを感じるようになってきたのは自分だけだろうか?
第一にオタクコンテンツはもともと大量消費を狙って作られていたわけではないということ。
マニアックで一部の人間の欲求で先鋭化してゆくメディアだった。
つまりオタク産業とは一種のインディーズムービー的な消費傾向を持っていたと言える。
これは泣きゲーのエロゲなんかもそうで、オタクコンテンツ全体は分断されているからこそ特異性を発揮していった。
そして元増田の言うように『攻殻機動隊』『AKIRA』『エヴァンゲリオン』『カウボーイビバップ(も有名だがそこまでエポックメイキングではなかったような)』などの登場によってスターダムな地位を獲得したかのように見えた。
ところがこれは業界を萎縮させるものだったと思う(登場したことが悪いとはいってない)。
業界はオタク受けよりも世界や一般層を意識するようになってしまったし、現場がどう思おうが出資側は視聴者層の拡充を求める。ずいぶん世代が飛ぶけどそこからネトフリやらAmazonやらがアニメに乗り気になって今の現状がある。
今となれば北米市場とアジア圏のオタク需要を狙う産業になってしまい、皮肉にもライトオタク化した「一般的オタク層」という微妙なライン層がTwitterで消費して流すだけのものになってしまった。
つまり尖った作品が出しづらくなった割に、土壌としては邦ドラを見るような層を取り込めなかった。
このどっちつかずの状態でご新規を獲得しようとしても伸びるはずもない。むしろすり減ってゆく。
すり減りの原因はパチ屋の高齢化や他の経済的な要因も大きいが、コンテンツ自体の目線からするとこういう流れがあるんじゃないかと。
もちろん最初から一般受けなんて狙わない監督もいるけど、こういう人たちは同じようにハリウッドにもいるので。
「人気順」ランキングがここ1~2年ほど違和感を覚えるに至り少し調べてみた
ちょい前に音声作品で某サークルが過去作100%クーポンをくっつけた作品を次々と流してランク上位を取り続ける事態があった
商法がバレたのか視聴者層が飽きたのか、未だにそのサークルの作品は一定数売れているようだが昔ほどではなく、ランク上位に挙がってくることがなくなった
そして今は同人ゲームだ
単価12000円オーバー、モノクロのツクール製RPGという余りに強気なものが飛び出してきた
価格設定で話題を呼び、ごく少数が売れた時点でランキング上位に入り、今現在週間月間1位となっている
が、ここで販売数順に切り替えるとあっさり7位に落ちる。月間1位の作品は売上18000本、件の作品は売上4800本だ
ここで一つの仮説を立てた
D〇siteの「人気順」が恐らく「該当期間の売り上げ額順」であるらしい、ということだ
集計期間の販売数と累計販売数を完全一致にする為に月間ランキングかつ30日以内に発売の作品を条件に表示したところ、各ジャンルにおいて1位から5位は少なくとも売上額順であった
もしこの仮説が正しいなら、「過去作品を抱き合わせてでも売り上げ数を増やす」「初動に一定数の忠実な購入者がいることを読みに入れて高額な価格を設定する」などの手法が人気順ランキングで上位に食い込むことを可能にすることになる
ちなみに、どうやらD〇site側は人気順の人気の定義について回答を控えているようなのでこれは仮説の域を出ない
脚本だけではない。
“幻の10話”に携わったスタッフは、そのほとんどが聞き馴染みのない者だった。
つまりシューゴさんなしの、代理スタッフで構成されているってことだ。
「珍しく休みをもらってな。まあ、有給を消費させたかったんだろうが」
それはシューゴ監督の負担を減らすことは勿論、彼なしでクオリティを保障できるかという試みでもあった。
本作の要がシューゴさんであることは確かだが、同時にリスキーな人物であることも確かだったからだ。
彼の気難しい性格と、遠慮知らずな言動は、過去の公式ブログやインタビューなどで遺憾なく発揮されている。
ヴァリオリという知的財産を太く長くしていきたい企業にとって、このまま彼に依存して制作し続けることは避けたかったんだ。
しかし、その試みが失敗に終わったことは“結果”が何よりも物語っている。
「で、休み明けに見せられた資料が“このザマ”ってわけだ。そりゃ反対するだろ」
そういう視点で資料を深く読み込んでみると、確かに歪な点が散見された。
「例えば、この新キャラクターだ。なんだよ、この宝塚みたいなデザイン」
インディーズバンドのライブハウスに、一人だけトップアーティストが参加しているような浮きっぷりだ。
「もし大衆にウケるとしても、誰が描くんだよ。主要人物だから、これからずっと描くんだぞ? こんな線の多いキャラ動かせんのか? アニメは作画じゃなくて動画なんだよ」
メインの視聴者層を無視して、変に凝ったテーマを描こうとしている。
「だから言ったんだよ。“別にオレなしで作っても構わんが、この出来じゃあ炎上するぞ”って」
むしろやる気に満ち溢れていたことは、資料の書き込みを見れば分かる。
ただ、それがどうにも空回っている印象だった。