はてなキーワード: 低俗とは
最近のはてなを見ると、はてなダイアリーやはてなハイクを止めたりはてなキーワードの編集を一時的に止めたりと、守勢に入っているようだ。はてなサービスの利用者は増加しているが、経営陣が技術的負債をなくすことができなくなっていることで、はてなの衰退を感じざるを得ない。
はてなには二つの文化が存在する。一つは、はてなダイアリーを原点としたはてな村、もう一つは2013年以降に出来たはてなニュータウンという。はてなダイアリーと増田が前者、はてなブログとはてなハイクが後者に当てはまる。そこで、それらの文化がどんなものか再確認しておきたい。
はてな村とは正にネット論壇の代名詞であった。お互いが場の「空気」に囚われることなく堂々と意見が交わされることで常に議論が活発に行われた。2ちゃんねらー等の他のネット民がゴシップや下らないネタに明け暮れている時にはてな民は着々と考える力を身につけていったのだ。はてなダイアリーが一世を風靡した理由はそれだろう。増田からは「保育園落ちた。日本死ね」や増田文学百選等世間に影響を与えた名作が数多く誕生した。Amazon echoがちょっといい話として増田を選んだ背景にはそれらの積み重ねがあるのだろう。さらにもう一つ忘れてはならないのは、科学技術を尊重する考えも存在したことだ。はてなブックマークではかつて科学技術的な内容が並んでいた。その中でHagexといったIT技術者等も登場した。
一方ではてなニュータウンでは共同体意識の強さが感じられる。そのことははてなブログのブロガー同士のつながりの強さやハイクの穏やかな雰囲気を見ても分かる。はてなハイクではハイク婚という婚約も起きた。また新規ユーザーを取り入れる柔軟性は村より優れている。しかし、お世辞にも議論が本格的に行われているとは言い難い。ユーザー同士がスターを付け合っており馴れ合っていることが分かる。はてなブログで起きている互助会問題が良い例だ。
はてなダイアリーのブログへの統合を考えると、村はもうすぐニュータウン側に併合されると予測できる。このことの背景には村の過疎化がある。はてな民の中には村を原始人が手斧を投げ合っている過疎地と揶揄する声もある。
しかし私はこのままでいいのかと言いたくなる。確かにはてな村は性格が攻撃的で排他的な雰囲気があった。それ故に怖くなって逃げた人も少なくなかっただろう。だが村が無くなれば、これまで積み重ねられたはてな民の素養や議論の精神は廃れてしまうだろう。そして馴れ合うことだけが残ることで、はてなはの質はAmebaやライブドアと同レベル、いやそれ以下に落ちるかもしれない。現に、はてなブックマークでは低俗な記事が並ぶようになって科学技術との関係が疎遠になっている。そして最終的にはてなそのものが過疎化するかもしれない。
だが何よりも、村側とニュータウン側の分断が深刻化する危険性がある。双方の文化の違いは増田とはてなハイクにて顕著に現れている。今でさえ村とニュータウンの棲み分けが進んでいるようで、少しずつはてなの議論の精神が無くなっているように思える。現CEOの栗栖義臣がはてなダイアリー(村側)で働いてきたこともあって、その精神の喪失が経営陣に暗い影を落としているのではないかと想像できる。それがはてなの衰退の一因のようにも思える。
では、村の文化が生きていくためには何が必要か。そこで私は敢えて村とニュータウンの統合を支持する。ダイアリーで書かれた記事等を全てブログにインポートする。同様に増田とハイクの統合を行うべきだ。私は統合後のサービスをマスダハイクと呼んでいる。このことは過去に書いたので是非読んで欲しい。↓
https://anond.hatelabo.jp/20190206113010
はてな村で培われた議論の精神がはてな民のエートスとして受け継がれなければならない。
そして、はてなで培われてきた全ての文化を包括してはてな民の団結を形成するために「はてな国」を成立させる必要がある。これによって、はてなは議論の精神と新規ユーザーを受け入れられる柔軟性を兼ね備えたより良いネット言論空間として生きるだろう。
今後はてなは、色んな付加価値の高い記事が揃うはてなブックマーク、ダイアリーの後継としての新はてなブログ、はてな民達が気軽にコミュニケーションがとれるマスダハイクの三つを支柱として運営するといい。そして、ネット論壇としての使命を全うして欲しい。はてなが百年後にも残っていることを祈って本稿を終えよう。
(二月八日改訂)
http://www.hatena.ne.jp/rule/rule
第6条(禁止事項)
ユーザーは、本サービスを利用するに際し、以下のような法律違反行為を行ってはなりません。
無限連鎖講(ネズミ講)を開設し、またはこれを勧誘・運営する行為
不正アクセス行為の防止等に関する法律に違反する行為、電子計算機損壊等業務妨害罪(刑法第234条の2)に該当する行為をはじめ、当社及び他人のコンピューターに対して不正な操作を行う行為
ユーザーは、本サービスを利用するに際し、以下のような社会的に不適切な行為を行ってはなりません。
人種、民族、信条、性別、社会的身分、居住場所、身体的特徴、病歴、教育、財産及び収入等を根拠にする差別的表現行為
倫理的に問題がある低俗、有害、下品な行為、他人に嫌悪感を与える内容の情報を開示する行為。ポルノ、売春、風俗営業、これらに関連する内容の情報を開示する行為。
迷惑行為、嫌がらせ行為、誹謗中傷行為、正当な権利なく他者に精神的被害・経済的被害を与える行為
自分以外の個人や会社、団体を名乗ったり、権限なく特定の会社や団体の名称を使用したり、
架空の個人や会社、団体を名乗ったり、事実がないにも関わらず他の人物や会社、団体と業務提携や協力関係があると偽ったりする行為
他者になりすましてサービスを利用したり、情報を改ざんする行為
反社会的勢力等の活動を助長または反社会的勢力等に利益を供与する行為
その他、公序良俗に反するかあるいは社会的に不適切な行動と解される行為
感じ悪すぎるので、
https://i.imgur.com/EIvg9bI.png
保存してます。
BLではないですが、好きな作品のファンアート(二次創作)も描きます。
友人には腐女子の方も、そうでない女オタクの方も居ます。腐男子も男オタクも居ます。どちらの性別にも属さない方も。即売会にもほそぼそとスペース参加しております。
今回において「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~(COMIC維新りあら)」という漫画作品に脅迫的な批判をするつもりはありません。法律や条例に抵触するかどうかを語りはしません。ただ少し倫理的に問うことは一つ二つあります。
また、各配信サイトで無料試し読みで設定された話数が、出版責任者が「つかみ」と判断した範囲とみなし、その中で感じた所感だけにとどめることを事前に断っておきます。
匿名の場所にこうして文書を上げるのも、私自身の「顔」や「作品」や交友関係などのプライベートを見たがる人達に対する、防衛だと了承していただければ幸いです。いかなる名品名作であっても、つつけば必ず「粗」が見つかり賛否がわかれる物だと私は考えております。私は自分の作品を愛していますが、悪意をいちいち気にしてしまう繊細さも自覚しておりますし、大事な友人達に迷惑はかけられません。
なのでこの文書は、ある漫画書きの、ごく個人的な感想として見て頂ければと思います。
誰にでもわかるようにと書いた結果長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。
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同時に読者は面白くないと思ったものを面白くない、酷いと思えるものを酷い、ノットフォーミー(自分向けではない)な作品はそうだと言える自由も有ってほしいと思います。彼らの感想もまた創造性を持つ表現行為だからです。
そして作品が流行することによって起こる「意見の封殺」と文化の断絶は、人々の自由に害を与え、文化を停滞させるものであるため、避けるべきだと思っています。
この文章は、それが起こってほしくないがために出す私の意見なのです。
以下の諸々の前提について、あなたが再確認する必要がないと思ったなら3.まで飛ばしてください。
今やWEBでの作品公開は、電子化された過去の名作や現代の人気作と同じ土俵で戦うことになるため、無料公開しても「時間と電池がもったいない」と思われては不利です。戦略的に失敗に陥りやすいです。時事ネタについても個人の公開速度には叶いません。
ただただ露悪的な本はただただ露悪的で、熱心ではない、無駄なお金を出したくないライト層だけに消費されて消えていきます。私自身がそれを好んで読み、染まっていた時期が長らくあったために、それらの寿命が如何に短いのかをよく知っております。
外側に居ても内側に居ても不明瞭です。
その文化の多様さや精神性、変容の歴史を、長く迫害を受け分化してきた巨大宗教のようなものだと今の私は捉えております。
そうした点と、物語を見る目が肥えていることも含めて、漫画で描くには「気を付けるべき題材」であると考えています。
今回の作品「腐女子カースト」にはエッセイというジャンルが振り当てられています。
もしも仮にあなたが「作品ジャンルが実録エッセイなら、ヤマ・オチ・意味のない物語でも成立するのだ」と考えているのであれば、それは読者への甘え、ひいては全てのエッセイ作家への侮辱となることでしょう。
そのように考えて行動した時のリスクを、自身のために想像しなくてはいけません。
エッセイとは自らを省みる内観であり、自らの魅力でもって読者を個人的生活に惹き込むものです。『私小説』『ドキュメンタリー』『ノンフィクション』に連なる伝統的なジャンルです。
そこに登場人物を増やすのであれば、名前を出さない通りすがりの人であっても、存在しない架空人物であっても、最大限に配慮しなければなりません。
エッセイ漫画は「画力が伴わずとも描ける」としばしば思われていますが、それ以外の部分での構成力と魅力を問われるものなのです。
エッセイだからと言って、醜い本音を受け入れてもらえると思ってはいけません。空費させてはいけません。
エッセイだからこそ『第一話』の初対面で『印象良く』見えるように、深く考えなければ、思った通りに読んでもらえないのです。
それは化粧にも似ています。化粧に作法手順があるように、漫画の第一話にも作法があるのです。
現実とずれた部分、主人公の欠落した部分、作者個人の主観があるなら、それもまた、納得を得て面白くするために、最初のフックの時点で、注意深く描写するべきなのです。
共感できる相手だけを狙って描くのも間違いではありませんが、共感できない者でも楽しめる工夫、そして+αで得る物が無ければ、買って読むまでもない孤独な見世物的な内容になってしまいます。結果的に長続きはしません。
誰もが作品をアップロードできる現代では、心の底からの叫びを見つめ続けた尖った『自主制作作品』が作者本人の手によってすぐに届けられるのです。それと競争することを考えても、エッセイはますます難しいジャンルになっています。
足すべき部分は足し、引くべき部分は引かなければなりません。本当に面白い漫画はたったの1コマでも、読者を満足させるのです。
技巧や経験とは必ずしも正比例しません。作家が描くべき時に描いた時に輝くのです。
面白くないと感じながら、面白くないと言われながら描くのはとてもつらいことです。それは作家がするべき我慢ではありません。感覚が麻痺してしまいます。
最初から捨てるつもりの名義だったとしても、それを描いたという傷は全人類が記憶喪失でもしないかぎり一生描いた本人に残ります。
本当に面白い作品で、届くべき人の所に届けば、口コミで売れていくという強みが電子書籍にはあります。
そのためには、読者の目を甘く見てはいけませんし、読者の声を額面通りに受け取らないように注意すべきです。
作品と作家が自由であるためには、正しい戦略を立てなければ、生き残ることは難しいのです。
作品内の第一話、即売会イベントへ向かう電車内で、ノーメイクの女性二人連れに主人公が心の中でツッコむシーンがあります。
この時の主人公の思慮の浅さは、エッセイ漫画としても致命的ではないでしょうか。
表情や服装から即売会という目的地を同じにしていると確信しているからこそ、ノーメイクの女性を「同志だ」と確信して、その気を抜いた姿と能天気な様子に、イベントへ向けて気合いを入れて来た主人公は憤慨しているのかもしれません。
しかし、続くコマはただただ妄想の中で、相手が言いそうな言葉を言い訳だと否定し、持論を展開するだけで、相手のことを考えていません。
取材力・想像力ともに範囲が充分でありません。狭いのです。自分の中で完結してしまっています。
たとえば化粧を禁止されている、お小遣いもギリギリの学生かも知れない。
遠征で電車や高速バスが遅延して時間がなかったのかもしれない。
身バレの可能性があり、恥を忍んで素顔に近い顔で来たのかもしれない。
経済的に苦しくて、自分に合う化粧品やファッションに出会えずにいるかもしれない。
家庭事情も経済事情もさまざまです。また、障害を持つ場合もあります。
化粧をしない理由はそれぞれです。
それぞれが努力によって対策可能だったとしても、皆がそれを完璧にこなせる訳ではありません。
私が考え過ぎで、素顔で出歩くことに特に理由がない人もいるでしょう。普段から化粧をする必要がない仕事に就いているのかもしれない。それを「ろくでもない仕事」だと考えることは職業差別です。
もしかしたら彼女達は「ノーメイクで行く」という行動と、互いの美醜を互いにイジらないという暗黙の了解によって、目に見えない友情を確かめあっているのかもしれません。私はそれを尊いと感じます。決して馬鹿にはできません。その感情に、外見も性別も関係ありません。
素顔で出歩く女性を、腐女子というだけで見下してしまうのであれば、もしも、彼女達が会場前の駅に降りず、手前で降りたなら、あるいは過ぎ去ったならどう感じたでしょうか?
腐女子について話すためにここまで考えなければならない理由がわかるでしょうか?
「格好がバラバラな集団がいたら高確率で腐女子」という有名なネット上の言説があります。これはオタバレの指摘でありながら、腐女子文化を捉えることができる好ましい例なのです。
化粧やお洒落そのものが大好きで趣味とする女性は居ます。それと同じくらい、化粧とお洒落をしない、できない女性は決して珍しくありません。この二者は普段の生活では交わらない存在です。それでありながら、ただ「腐女子」「オタク」「アマチュア作家」であるというだけで、同じものが好きというだけで、SNSや作品を通して同志となり話し合えるのです。
本当に「腐女子カースト」は存在するのでしょうか。色眼鏡をずらして、少し観察すればわかることです。実際に腐女子の集まりを見て、外見の美しい人にそうでない人が付き従ってるように見えましたか?
なぜ、かような形で消化してしまったのでしょうか? なんのフォローもなく、嘲笑して終わってしまったのでしょうか?
私は想像力が狭いまま物を作り続ける人間に対して「そのままでは続けられないよ」と教える以上のことはできません。
想像力を鍛えるには『違う価値観』と対話しインプットしなくてはなりません。他人との会話でもいいです。怖いなら文学でも好きな漫画でも、アニメ、ドラマ、映画、音楽。なんでもいいです。時間がある時に良質だと思う作品に、幾度も視点を変えて触れてみてください。でなければ、他人を知ることが出来ず、それゆえに自分を正しく見つめることも出来ず、自分だけの世界に閉じこもってしまいます。
インプットをしないまま作品を描けば、描くほどに、ただ自らが傷つき続けることになるからです。
また作者は最低限の身嗜みを礼儀と捉えているようですが、その最低限ラインも上記の理由で人それぞれだと想像できなければなりません。好みの服装もそれぞれ、地域文化、仕事もそれぞれです。
主人公が綺麗でかわいいと感じた『神』の多くも、自分や買いに来た人の姿を気にしていません。コスプレイヤーだって、キャラに入っていない時の自分の姿は出来れば注目されたくないのです。懸命に作って共感を求めた作品ではなく、日常の延長で作った「最低限の礼儀」の姿を褒められても、彼女達は嬉しくありません。そこがそういう場だからです。
腐女子やオタクが「恥ずかしい趣味だ」という感覚も最近では少なくなってきています。
オタク向けのイベントに行くなら、張り切ってグッズを身に纏って「オタクの姿」をすべきだと判断する人もきっといるでしょう。それもやはりその人なりの身嗜みなのです。
またイベント外なら、服装の奇抜さだけでオタクかどうかを判断する材料にはなりません。ゴスや原宿系等、日ごろから周りに迎合しない、自分自身を出したお洒落を好む人々が存在します。似合うか似合わないか他人の判断基準で彼らは服を選びません。オタク文化と重なる部分も多いですが、その文化をオタクと一括りにするのは、私は違うと思っています。
そもそも即売会は『交流』のためのものです。街の本屋さんとは違います。売り手と買い手の信頼で構成された、本来は技術の見本市なのです。この辺りは運営委員会のガイドラインなどにも書いてある範囲でしょう。
会場において相手の姿を気にする時間はありません。イベント会場はまさしく「戦場」なのです。時には顔すらも覚えておりません(これまで自分のスペースに来てくれてる方、すみません)人気壁サークルでなくとも、友人に頼んで売り子を立てる作家さんも居られます。
時間が限られているのに、車の試乗会で車を見に来たのに、同時にディーラーの外見をいちいち品定めしてチェックしますか?
自社のために技術を持つ小さな会社と契約したあとで、社長のブログに自慢が書いてあっただけで「そういえばあの社長不細工だったな、嫁さんも不細工だろう」などと、いちいち思うのですか?
それらを書いた冊子を、彼らの職種を冠したタイトルで売ったらどうなるでしょうか。
まさにそれこそ、礼儀を欠いた行動ではないでしょうか。
表現の自由の下であっても、不快になった当事者には怒る権利があります。
ここまでの説明によって第一話のあの一連の流れが如何に的の外れた低俗な「笑い」であるか、理解できたでしょうか。
ありとあらゆる多様な価値基準を無視して、己が良しとするものだけに迎合する。そこを頂点に据えて妄想の中でカーストを構成する。
腐女子を冠して発表するには、あまりにも浅く、無防備なのです。
そして、何分の一か、ほんの一部だけ、この作品の主人公のように他人を品定めしてしまう人間も、腐女子は間口が広いがゆえに存在しているのです。
主人公と同じ悪意を秘めた女性達は、この作品を読めば共感するでしょう。
ひっそりと楽しんでいた人もいたのかもしれません。
しかし、この「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~」はつい最近、無料公開分がツイッターに投稿されました。現在はアカウントごと消滅しております。
広範囲の誰もが評論できる場所に出してしまえば、本を共有してしまえば、彼女達の罪悪感を無理矢理抉り出すだけの結果になってしまいます。
安易な形で発表し、コントロール不可能な批判を浴びたことによって、彼女達は愛想笑いを続けて、怒れる友人と一緒になって作品を叩かなければいけません。作中で一般人に擬態する主人公のように、怒れる腐女子としてその社会の中で信頼を維持しなければなりません。腐女子という世界の中にカーストが存在しなくても、社会は存在しています。愚痴垢や捨て垢で陰口を叩いて共感しあうのとは全く違います。
そうして作品を叩くうちに作者を、版元を本当に憎悪していくか、あるいは交友関係を切って何もかも忘れてしまうというような極端な行動しか取れなくなります。
作品は、発表の仕方まで気を使わなくてはいけません。これもまた貴重な顧客を失う『失敗』なのです。
この主人公のように、見た印象だけで人を判断して遠ざけて来た記憶が、私にもあります。作家デビューした相手に嫉妬したこともありました。自分と交わらない人間の人生を、いかに踏みにじってきたのか。それを考えるたびに私は後悔と反省を繰り返しています。
〈追記〉この企画の始めごろ、クロちゃんのキスシーンが放送されたときにプロデューサーがツイッターにて「みんな気持ち悪いと言うが、これがイケメンなら誰も文句言わないだろう。視聴者はクロちゃんを差別している」とツイートしてて、クロちゃんを気持ち悪く演出している張本人がこう言うのは最初からある程度の視聴者誘導というか、社会実験的要素はあったんじゃないか、と指摘するの忘れてた。追記終わり。
はてなじゃ全く話題になってなかったけど、この年末の二ヶ月はずっとネットが安田大サーカス・クロちゃんの話題で一色だった。
「大爆笑ホラー」なんて、今まで見たことのない新しいコンテンツだったことは確かだ。
もうこの二ヶ月ずっとツイッターのトレンドが「クロちゃん」「水曜日のダウンタウン」よ。
ネットでバズりまくってるのがウリで、「テレビはオワコン」「テレビなんて誰も見ていない」と言われている今の時代、純粋にテレビが世間を熱狂させることに成功した。
ただ、これだけ世間が熱狂している中のクロちゃん監禁企画を無料で開放したのが甘かった。
ツイッターによるとハロウィン並の暴徒と化してて、NHKも取材に動き出したらしい。
ツイッターに大量に現地の動画があがってるのだが、スマホ片手に大挙して押し寄せて将棋倒し状態、「人倒れてるから!踏まれてるから!下がって!」と叫ぶ警備員無視して尚押し寄せる様子は、インスタ蝿とかでは説明がつかないほど日本人がSNSに洗脳されている証明だと思う。もはや狂気すら感じて怖い。
クロちゃんみたさに器物破損・暴力沙汰にも発展して警察も出動、もうそんな大暴動になっちゃったもんだから、一旦中止のつもりがクロちゃんは早々撤退、明日のイベントも中止になったとか。
(シャチホコに騙されて集まったアッコファミリーが「早く帰れて最高」と言っていたが、クロちゃんも早く帰れて最高だったろう)
12時に生放送終わって、もう3時を回った今もとしまえん周辺は渋滞で全く車が進まないとかで、この年末は配送業が寝る時間無いほど忙しく今も絶賛仕事中の人が多いのだが、全く仕事にならず大変、これ企画した奴死ねとのツイートがあった。
もうずっとクラクション鳴りまくりで、周辺住民が困り果てているというツイートもあった。
ハロウィンといい、今回のクロちゃん監禁騒動といい、日本人って簡単に暴徒化するっていうのは平成最後の良い収穫になったと思う
そう考えると水曜日のダウンタウンとは結果的に壮大な社会実験となったのでは?と全員が思っているのに、今回の騒動を受けて「モンスターを見ていた我々の方がモンスターだったのだ」とか皆ネットに書いてた。
そんな誰でも思いつくこと、うまいこと言ったつもりで書くの恥ずかしいからやめろ。
今のコンプライアンスの時代には珍しいほど低俗下劣なバカお笑い番組が、ギャラクシー賞受賞して評価されちゃったりしたけど、
低俗下劣な番組であるのは間違いなく、今まで何回も問題を起こし世間を騒がせてきた。
今の時代ここまで攻撃的な番組内容は滅多にないので、お笑いマニアの俺は涎を垂らして笑い転げるほど大好きな番組なのだが、
2016年(もう2年以上クロちゃんいじってたのか)に「クロちゃん、ツイッターさえあればどこに閉じ込められても助けてもらえる説」という企画の収録があり、
あるマンションの一室にクロちゃんを閉じ込め、窓から見える外の景色や情報をツイッターに呟き、ツイッターを見た視聴者に、それがどこのマンションか推理してもらい実際に助けに来てもらうという企画だったのが
案の定視聴者が片っ端から関係のないマンションに突撃し騒ぎになり企画中止に。
そして今年、「ジョジョの鉄塔システム生活第2弾」という企画。
企画内容としては、芸人を拉致し監禁、監禁された芸人が自身が閉じ込められた檻のある場所まで、他の芸人に電話で嘘をつきをおびき寄せ、まんまと騙され現場まで呼び出された芸人を監禁する代わりに今まで監禁されていた芸人が脱出できる・・・それを繰り返すというもの。
第1段はやりすぎとクレーム殺到したものの、俺のようなお笑いマニアからはかなり評価が高く続けて第2段を収録したのだが
街のど真ん中で芸人を拉致したところ、「通行人が誘拐された」と通報が殺到、警察が出動する騒ぎとなり収録はすべて終了していたにも関わらず放送中止に。
次週予告までやっていたのに、いざ放送当日になると何事もなかったかのようにカットされて説明も何もなかったため、超絶楽しみにしていた俺のようなお笑いマニアの間で話題に。
過去2回も監禁企画でバッシングされた水曜日のダウンタウンだが、プロデューサーの性癖なのか監禁企画は手を変え品を変え続けていき、
散々クロちゃんの人間としてどうかしている様子を放送したあと、視聴者に許すか許さないかテレビのdボタン投票を求め、許せない票が多ければクロちゃんをとしまえんに用意した檻に監禁、
放送終了後の深夜12時から翌日の夜10時まで檻に監禁し、開園準備が始まる朝の9時半までは無料で入場できるとした。
が、無料開放が甘かった。SNSに洗脳され完全に頭が狂っている日本人が暴徒と化さない訳がなかった。
そもそも番組内で「クロちゃんはいくらバカにしても良い存在」として描いているため、それを真に受けたDQNがクロちゃんの檻目掛けて着火したタバコを投げ入れるとかのトラブル絶対起きるだろ、
しかもトイレも檻の中に用意されており、ガチで翌日夜10時まで檻から出られないということになっていたため、ツイッターにはクロちゃんの脱糞映像が大量に乗るだろうなとは思っていたが
以前も番組で放送はしなかったが、水曜日のダウンタウンの宣伝としてクロちゃんを監禁して晒し者にする企画を既にやっており、その時はそこまで人も集まらなかったので
まさかここまでの騒ぎになるとは番組側も思っていなかったのではないか。
しかし、ここまでこの2ヶ月日本を夢中にさせてしまった以上、騒ぎになるのは目に見えていたと思うんだけどなあ。
NHKも取材に動いているだろうし、朝のニュースで他局にバッシングされるだろうな、確実にBPO案件だなこれとは思うんだけど
まあ番組打ち切りまではいかないでしょう。けど、今年のクイズ正解は一年後に今年もクロちゃん出れるかなー、と少し心配。
プロディーサーとしては、今までさんざんバッシングされてきた監禁企画を視聴者自らが実行するという皮肉を演出したかったんだろうけど、更に自分にしっぺ返しが来るっていう残念な結果になっちゃったな。
全面アクリル張りの部屋にふかわりょう、よゐこ浜口を閉じ込め1週間生活させるという企画。
ふかわ・浜口が今まででやった仕事で1番キツかったと豪語する企画だ。
屋外に2人がの生活が丸見えの部屋が1週間も設置され、もちろんシャワー室やトイレも丸見え。
シャワーやトイレに入ろうものなら、裸見たさに客が押し寄せ当時のガラケーで撮影放題。
24時間常に観客に監視されていて、寝ようものなら外からガンガンやられて、それが本当に精神的に来るらしく、ふかわはノイローゼになったとか。
性格が最悪な芸人・ダブルブッキング川元をあぐらで座ってそこから一歩も動けないというか立ち上がれないくらい狭い箱に閉じ込め、世間の人と触れ合って性格を矯正しようという企画なのだが
とにかく性格が悪い川元。食い物は基本的に何もないので、箱まで来た人に恵んでもらうのが基本なのだが、恵んでもらったものに対しても箱の中で暴言を吐き続け視聴者をどんどんアンチにしていった。
その箱はスタッフ不在の環境の中、適当にそこら辺に放置されているので頻繁にDQNが訪れては箱を壊しにかかられたり、ついには川に投げ込まれそうになったりで常に命の危険があったとか。
かなりの長期間あぐらのまま動かなかったので、箱から出たらしばらく歩けなかったとかで
これ、番組内で散々川元の性格の悪さをクローズアップされていたので、今のクロちゃんの比じゃないくらい嫌われており、
SNS時代の今なら箱がどこにあるかすぐ拡散されて人が押し寄せて即企画中止だろうな。
2004年頃に、フジテレビで「お笑い登竜門」という若手のネタ見せ番組をやっており、そこに安田大サーカスも参加していた。
27時間テレビの深夜枠でお笑い登竜門の生放送をやっており、いわゆるモノボケ企画をやっていた。
芸人とAV女優が交互にモノボケを披露し、芸人は何をやっても滑ったことにされ、AV女優軍団はただ茄子とかキュウリをチンポに見立てて咥えるだけのボケ一辺倒なのに受けた判定になるというお約束のくだり。
他の芸人の見せ場なのに、カメラの前までダブルピースで出てきて「イエイイエーイ」とか言ってて、素人かよと思った。他の芸人もあからさまに嫌な顔をしていた。
そして、安田大サーカスの番になるとクロちゃんがまー、つまんねえボケをかまして、ガチで滑った。マジ滑りした。
その瞬間!
団長がまさかの「お前は障害者か!」と叫びながらクロちゃんの頭をどついたのである。
その瞬間、「ヤバイ」って顔をした団長が「俺何も言うてへんよ!俺なにも悪ないよ!」と言いながら、さっきまで他の芸人の番ですらダブルピースでカメラ前にしゃしゃり出ていた団長が、青ざめた顔で奥に引っ込んで一切出てこなくなってしまったのだ。
その後は何事もなかったかのようにコーナーは続いたが、コーナー終了後伊藤アナが「先程は不適切な発言があり…」と謝罪していた。
いつもここからの菊池がナイナイのラジオにゲストで出た際、「ナイナイさんってなんでテレビの売れっ子なのにこんなラジオやってるんですか?」って言っちゃって、さすがの岡村もテンション落ちるという事件があり、あれ、なんか菊地やべえぞってなってるところに
何かの番組で「僕って見た目が障害者みたいじゃないですか、だから電車を障害者料金で乗れるんですよ」とかそんなことをナチュラルに言っちゃって、これテレビに出しちゃヤバイ奴だってのがバレてトーク番組を干されたという記事を週刊誌で読んだばっかりだったので(嘘か本当か知らんが)、
「これは大騒ぎになるぞ!安田大サーカス干されるぞ!とんでもない物を見た!」とワクワクしていたのだが
ネットは全く騒ぎになっておらず、その後も普通に安田大サーカスはテレビに出演し続けていた。
俺が見たのは夢か幻か。
俺の勘違いだったのか?覚えてる人いない?ねえ?
https://anond.hatelabo.jp/20181227015207
書くの時間かけすぎたわ
コスプレイヤーのえなこ、滅茶滅茶可愛いんだけど、ああいうのってAVに転身したとしても返って売れなくなるんだよね。片桐えりりか、きこうでんみさ、がいい例だよ。つまり、AVに出ても売れ続けられそうかどうか、ここが本物か偽物かの大きな違いだ。
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そういうことを書こうと思ったんだけど、こういうあまりに低俗で、普通なら電車の中では会話出来ないような内容を書いちゃうやつらが跋扈してるのが大衆向けマッシヴ掲示板で、さすがにそこで躊躇して、もうちょっと機知を意識してしまう内容しか書けないのが増田。そういうことでいいと思う。
そんな俺は今年で40歳、東京勤務の独身ITエンジニアで年収は600万、大学中退フツメン (最近腹が出てきた) なんだけど、なんで結婚できないのかなー。こんな面白い話できるのになー。みんな見る目ないわね。
(前略)
水瓶座。もう40も間近です。
もう日本のアニメは終わった。ここ数年まともにアニメを見ていません。
無意味なエロ、つまらないエロ、18禁でもないのに行き過ぎたエロ。 こんなこと続けてたら今に手ひどいしっぺがえしを食らいますよ。
なによりその「エロきや飛びつくんでしょ」的発想が嫌です。 なら18禁でやれと。それもやらずにいたずらに市場の低俗化を勧め 人心を荒廃させ自らの土壌をじわじわと崩壊させていることに気づかない ふりをして目先の一時的な売り上げに一喜一憂しているサマは正直言って悲しい。
ちなみに僕はアニメは好きですよ。いっそもう新しいアニメなんか作らずに 昔のアニメの再放送をやったほうがTV局としても視聴率とれていい思うんですが。
タイトルについて この
(以下略)
なんつうか面白い
女性が自分でエロくあろうとするのは、女性の主体性があるから良し
でも文章や絵で、男に都合のイイ女性を書いたらだめよ、そこに女性の主体性がないから
みたいなのさ
少女漫画で典型的なジェンダロールの振る舞いをさせられてるヒロインはOKなんだろ?
ホントはもっと奔放に生きたいかもしれんけれど、普通顔でちょっとドジな女を演じさせられて
男に助けられたり、母性で男を癒やしたりするのも、舌打ちしたくなるくらい悍ましいと感じてるかもしれないけれど
既婚主婦なのか、独身OLなのか知らんが、不倫なんて低俗なことしたくないと思ってるかもしれんけれど
設定上そういう役をやらされて、家庭を壊すような振る舞いを強制されて
でも「りあるw」っぽく書かれてれば喜んで消費されて、不倫がブームになったりしたよな
なんつうかよ、自分が気持ち悪いと感じる表現だけ、それをキャラは拒否できないとか言い出して
男の性的欲求を刺激し満足させるためだけに生み出された少女を消費するのは許されないとかも言ってっけどさ
近視眼的に、即物的にさえずるんじゃなくてさ
もっとさ、「表現」とはなんだろうとか、「主体性」ってなんだ?とか
きっちりと考えてさ、自分の撃った弾が、実際何を撃とうとしているのか
ドイツは日本よりも差別に対して不寛容だし、多様性を受け入れることこそが正義、みたいな風潮がある。
LGBTのパレードがあればLGBTでない人もレインボーの旗を振り回して行進するし、街によってはパレードがある日に多くのお店が店頭にレインボーの旗を吊るしたりディスプレイしてたりする。
もちろん差別をなくすのは良いことだと思うんだけれど、ただ最近やはりドイツ人のこの態度は表面的なものなのかなと思い始めた。
ドイツにある下らない(けど面白い)ドキュメンタリー番組、Germany's next Topmodel。
ドイツ中から若くて綺麗でスタイルの良い女の子たちが集まって来て、毎回水着姿とかで撮影をしてどんどん選別されるというどこか残酷な番組なんだけれど、今シーズンにLGBTの人が出ていた。
https://www.youtube.com/watch?v=BAwLbRdUAFQ
https://www.youtube.com/watch?v=5BwNTzVx3JA
彼女は番組が始まってすぐに落とされるんだけれど、YouTubeのコメント欄でかなりDisられている。
ハッキリ”気持ち悪い”と書いている人までいて、しかもそのコメントをたしなめる人もいなくて驚いた。
そもそもが低俗な番組だし、YouTubeでコメントしているのも子どもなのかもしれないけれど、普段のドイツ人からは想像できないコメントだった。
彼女の高慢なキャラクターが余計に反感を買っている部分もあると思うけれど……
(「あんたたちとはレベルが違う」って他の子に言ったりかなり感じ悪い。)
後、関係ないけれどメイン審査員のハイディ・クルムが彼女のアヒル口を批判してて、アヒル口が嫌われるのはドイツでもなのか~と思った
クラウドファンディングとは、「○○をするのでお金ください、その金で○○をして、場合によってはお礼に○をあげますね」という形式で何千万も荒稼ぎするプロジェクトもある(らしい)新しいタイプのビジネスの形態です。
クラウドファンディングがうまくいくと、「支援要求者」つまりクリエイターやものづくりをする人は初期の資金がなくても、支援で集まったお金でプロジェクトを進めて事業を成功させることができます。
「支援者」は自分が応援したいプロジェクトを応援して、お礼の品がもらえる。お金を出す人も、もらう人も、どっちも嬉しいwin-winのビジネス。
pixivFANBOX(ファンボックス)というのは、pixivという絵や漫画や創作物を展示できる巨大SNSのようなものがはじめたサービスです。好きなクリエイターに現金をプレゼントできる仕組み。毎月課金制で、支援する人だけが見せてもらえるボーナスコンテンツみたいなものがあります。(ない場合もあります、そのサービスをするかどうかは支援を要求する人それぞれなので)
こちらもお金を出す人は好きな人を応援できるし、応援してもらったクリエイターも潤う、双方が幸せになるwin-winの夢のようなシステム。
昨今の厳しい経済状況の中、クリエイターはこの手のインターネットを使ったお仕組みを活用して金を工面して生き残らねばならない!みたいな意見を聞いたことがあります。なるほどそういうものか。
いいシステムなんだろう。win-winだし。誰も損しない。みんなうれしい。
だけど僕は苦手。これをやってる奴が苦手。
どちらもやってるリアルの友人がいるので苦手になった。
友達がこういうのをやってると、僕は自分が「俺のこと支援するよね?してくれるよね?」「支援しろ」つまり「金よこせ」と言われてる気分になってしまう。
そして支援をしないことで謎の罪悪感が感じる。
最初はそれで、義理というか、しがらみというか、ケチと思われたくないとか、色々な何かに負けて支援してしまった。リア友は大事だし。
でも、あまりにこのような「周囲の人間にお金くださいとお願いするシステム」が流行してしまって、ぶっちゃけムカついてきました。
「さあ金をよこせ、どうぞ支援よろしく」と言われて振込用紙を手渡されるような気持ちになる。被害妄想ですかね?そんなつもりない?支援したくなきゃしなければいい?うんうん全部わかってる。わかってるけどな。
義理というか、しがらみというか、ケチと思われたくないとか、そういう色々で悩むのが煩わしいのです。
とくに対価もなくpixivFANBOX(ファンボックス)やってるやつは、これが物乞い以下の低俗な小遣いせびりであることをもう少し自覚してくれ。
応援ではなく対価の支払いならばまだ許せる気がするんだ、多分。
クラウドファンディングは見返りがあってそれを求めてお金を出すのは、まぁ筋が通ってる。(よく知らないですが見返りがない場合もあるようですが。資金援助だけするやつ)(でも本当は何かやりたいプロジェクトがあるなら、自分で資金繰りして準備しろよって思う。人脈とかで無理やり周りから金出させるのでなくて)(魅力的で本当にそれがいいものだから支援するプロジェクトは別)。
自分にとって本当に欲しいものを得るためにお金を払うのは当たり前。
noteの有料購読もいいんです。読みたいものに支払う、雑誌を買う感覚。
pixivFANBOX(ファンボックス)もそういうのならまだいいけど、でも単純に支援を求める使い方もある。
「支援者のためのボーナスコンテンツなんかなくていい、支援してもらったお金で美味しいもの食べたよ、みたいな報告だけで支援した人は満足するのです」みたいな記事をどっかでみて本当に滅入った。
いい加減にしろよ。
気軽に、手軽なお金儲けとしてこういう仕組みを使う人=「支援要求者」が、本当に嫌いだ。
「支援要求者」が「支援者」に要求しているそのお金は、支援する人たちにとって苦しい労働と引き換えにやっと手に入れた貴重なものだということを忘れるなよ。
クリエイターを支援する仕組みを否定したいわけじゃない。でも手軽なお金儲けとして自分を応援してくれる人からお金を徴収するシステムとして使う人がいる。実際そういうクソ野郎を知ってる。
てめーの金はてめーの労働で稼げ。
第一回戦は早速、俺たちの出番だ。
ウォーミングアップを始める俺たちのもとに、見学に来ていた母は心配の声をかける。
「あなたたち本当にやるつもり?」
「ここまできて『やっぱりやめる』って選択はないよ。だったら最初からやるなって話になるからね」
俺と同じく、母もこの番組を面白いと思っている人間ではなかった。
だが、俺みたいな漠然としたものではなく、一応の“背景”があるから嫌悪感を露にしているのだと思う。
「“痛み”をエンターテイメントにするなんて低俗だし、それを楽しむのは不健全じゃないかしら……」
同じく見学に来ていた弟が母をなだめる。
弟は『イタガリアン』のファンで、俺が参加するとなったときも大層喜んだ。
今回の件で一番盛り上がっているのが、傍観者の弟ってのも妙な話である。
「諦めなって母さん。残念だけど、母さんみたいな繊細な人間相手にこの番組は作られていないし、そんな義務もないんだからさ」
「あなたたちは痛みに慣れすぎて、鈍感になってるのよ……」
母が言うと中々に重みのある言葉だ。
と同時に空虚さも感じる。
昔は人間の体のほうが多く比率を占めていたが、今では脳と心臓のみ。
つまり母は“痛み”に鈍感ですらなく、今では感じることすらできないわけだ。
だからこそ、自分が感じることができないものに対して慎重にモノを考えようとしているのかもしれない。
まあ、実際のところどうかは知らないし、知ったところで俺がどうこうするってわけでもないんだが。
「安心しろって。痛い思いをするのは俺じゃなくて、出場者のカジマのほうだからさ」
「そうそう」
「いや、それはそれでどうかと思うんだけど……」
そして第1回戦が始まる。
地元から参加者を募るから分かってはいたが、いきなり知り合いとの戦いである。
「お前ら、何で出場したの」
「オレはシロクロ! 最強の男!」
シロクロはそう言ってボディビルダーみたいなポージングをした。
どうやら大した理由ではないらしい。
恐らくシロクロの突発的な行動で、ガイドはそれに巻き込まれたってところだろう。
「さて、今回は“木の棒”です」
「出場者の方々は理解しているでしょうが、視聴者の方へ向けてルールを改めて説明をさせていただきます……」
数分かけて、司会者が丁寧すぎる説明を始めるが、ぶっちゃけ大したルールはない。
要はテーマ毎に決められた方法で痛めつけ、出場者はそれにいい感じのリアクションをすればいいだけだ。
こうやってルールを確認してみても、やっぱりこれゲームとして粗末すぎるな。
ルールを複雑化したら大衆ウケが悪くなるとはいえ、これだとテキトーすぎないか。