はてなキーワード: 聖人とは
疲れているのかうとうとしていたあなたは私の肩に頭を何回もぶつけたね。
最終的には枕にしたね。
フケがちょっとついててつむじまわりの髪の毛が貧相な頭を私の肩に何度もぶつけたね。
ブラック企業にいた頃の疲れきった自分を重ねてつい肩を貸してしまったけど、
駅についた途端こっちを見ることもなくさっさと起きてホームにふらふら歩いていったババア。
肩はまだちょっと痛い。
この痛みを許すために、一言ごめんなさいとかありがとうとかそういう言葉が欲しかったよ。
聖人じゃないし狭量なのでお礼や詫びなしに他人に親切にするのは無理です。
第二肩関節はまだ痛い。
日本の選挙において、経済的な格差というのが投票行動に影響を与えているようにあまり見えない。すなわち排外主義、財政大拡張、軍拡、警察拡張、ばらまき万歳な極右、極左政党、候補者があらわれ支持を伸ばすという欧米で起きている現象が起きていない。
維新の会、民主党政権、安倍政権、小池百合子をこういう現象にあてはめようとする論者も多数いるが、はっきりいって彼らの間に政策面での差異はほとんどないし、彼らが社会の分断を利用して支持を伸ばしているなんてことも全然ない。
では日本社会において、経済の発展や変化についていけずに見捨てられていった人々がいなかったかといえばそんなことは当然ない。では彼らはどこへ行ったのか。それは創価学会だ。創価学会は都市部において見捨てられ、コミュニティからはじき出された人々を吸収することで成長してきた。そして創価学会は彼ら見捨てられた人々を公明党を通じて穏健保守勢力に変換してきたといえる。これこそが日本社会が安定している最大の要因だ。
最も創価学会に批判的なジャーナリスト、例えば野田峯雄のような人たちが見積もったところによると、 2010 年代の日本においても創価学会員はおよそ 500 万人も存在しているという。これは日本の国政選挙における有効得票数がだいたい 5000 万とか 6000 万だとかいう数であることを考えると驚異的な数で、日本の政治勢力の 10% 近くを占めている。
創価学会がまとめあげている勢力の 30% が欧米のように過激派に参画し、残り 70% も公明党にまとめられることがないとすれば、トランプ現象のようなことを起こすことはできないまでも、ギリシャにおいて独立ギリシャ人が与党入りしたという現象ぐらいまでは起こせるだろう。
池田大作は創価学会こそが日本の背骨であり、自身は庶民の王者だなどとうそぶいていて、創価学会に批判的な人々からは厳しく批判されているところだが、はっきりいって客観的に見た限りそれは事実だ。創価学会こそが日本社会を底辺から支え安定させてきたし、池田大作は日本におけるもっとも偉大な宗教家であり、聖人の中の聖人だといえる。池田に批判的な人々は池田の思想は仏教とソクラテスから都合のいいところだけとってきたいい加減な思想だというが、それがなんだというのだ。ムハンマドの思想はユダヤ教のいい加減な解釈にすぎない。思想の内容が問題なのではなく、池田大作という偉大な個人こそが問題なのだ。
ここで問題となるのはなにか。それは池田大作自身がその事実を認識していなかったということである。池田は自身のことを宗教、政治ビジネスの天才と認識していても、偉大な宗教家とは思っていなかった。故に彼は大いなる過ちを犯した。彼は創価学会が成功したのは、選挙活動による成功体験を信者にあたえ、そしてそれによって得られる集票力を換金するというシステムがうまく回ってきたからだと認識していた。しかし実際には違う。創価学会員たちはシステムの一員なのではなく、個人の資格において池田大作という偉大なカリスマと繋がりをもつことによって精神的な安寧を得ていた。
池田はこの事実をうまく認識していなかったフシがある。というのも池田は自身の宗教帝国を息子たちに世襲させようと企んでいた。しかし池田は息子たち、すなわち城久や博正を鑑定するにおいて組織のリーダーとしての資質は厳しく鑑定したが、宗教家としての資質を重視していたということは全くない。池田はあくまで創価学会を詐欺的な政治ビジネスだと捉えていた。
もし池田大作が自身を聖者だと正しく認識できていれば、池田大作以後創価学会を正しくシステムとして回していくための方策をとることができただろう。しかしそうではなかったので、創価学会とは平等な個人が池田大作と精神的な繋がりをもっているだけの人間集団であって、組織たりえなかった。そしてその創価学会を放置したまま池田大作は倒れてしまった。
ここで池田博正が冷徹な組織の管理者として創価学会を大改革することができれば、それはそれで道はあっただろう。しかし池田博正は温厚かつ誠実な池田大作信者にすぎず、その大任を果たす意思も能力もなかった。
今はまだよい。惰性によって創価学会は続いている。公明党は穏健保守勢力として機能している。しかしカリスマ、池田大作亡き(亡きといっていいいだろう、生きてるんだろうけど)今、創価学会が機能を停止する日はすぐそこだ。そうなったとき、日本社会の見捨てられた人々を連帯させるものはなにもなくなり、その時はじめて日本社会は本当の極右、極左勢力というものを目にすることになる。
増田に限らずだけどね。
内容を面白く書くこと以上に、何となく世の中が今何に興味を持っているのかを見極めることが重要。
大衆を一人の人間だと考えてその人間の潜在的と顕在的な意見をイメージするとわかりやすい。
聖人君子のような言葉を並べている人にだって、絶対に妬みの一つや二つはあるはずだからね。
もし面白い増田を書き上げても、タイミングが今ではないと思ったら一旦したためて欲しい。
そうしてネタを温めておいて、今だ!というタイミングが来た時に、少しのユーモアと少しの時事ネタを加えると2割は多く伸びます。
伸びなかったときは、内容がつまらなかったのではなくてタイミングが悪かっただけなのです。
そうでも考えてないとやってられない。この文盲共が。
かなり昔の話になるが、僕が出た首都圏の某私立高校はやばかった。
高校受験の偏差値一覧表を見ると60は一応超えて進学校に見える。
だけど実態はひどかった。
具体的に言うと異常な行動をする生徒がちらほらと居たからだ。
まあ、今からかなり前なので多少の改善はしているかもしれない?が
何が異常かと言うと、風俗狂い、校外で当時合法だった脱法ドラッグで乱行パーティーしてる輩、学校内での盗難の多さ。
もちろんそれはほぼ全員でなく一部生徒がそのような逸脱した行為を行なっているから目立つのであるが。
授業に関しても超底辺、中下位クラスでもほとんど成立してない。
動物園だ。
ちなみになぜそこまで酷かったのか答えは簡単だ、スポーツ推薦や中学版指定校推薦、事実上の一科目入試、書類だけで入れる推薦入試などの入試を経て入る人の比率が圧倒的に多く、
一般的な入学試験を受けて入るが全体の20パーセント未満であったからだ。
あと特質すべき点は、スポーツ推薦で入る面子が尋常でなくレベルが低いことだ。
一般的にスポーツ推薦で入る人はマナーがいいだとか挨拶をしっかりとするとかっていうイメージがあると思うが、そんな聖人君子みたいなのはいなかった。
そんな生徒は監督や一部の教師の前では借りてきた猫のような態度を示し、そうでないときは尋常でなく横柄な態度をとる生徒が多かったし、授業は全部寝ていた(威厳のある先生の前でも堂々と寝ていたので、授業は寝ることを指示していたのかと思うくらい)、それにテストではカンニングは横行していた。
また学年によってはそう言った生徒によるおごりの強要や恐喝じみた行為も蔓延していたらしい。
しかもあれだけ豪華な施設を持っているのに関わらず、野球などは大会に出るとほぼ必ず地方予選の二回戦三回戦で負けて、弱小校としか言えない悲惨な状況であったそうだ。
ではどうしてスポーツ推薦で入った生徒のレベルが低いのか、理由は二つある。
まず、首都圏には早慶、マーチ、日東駒専などまともな大学の付属の学校がたくさんあり、
本当にスポーツができる、または、スポーツはまあまあだが勉強ができる生徒は大抵、まともな大学に進める高校に行くからである。
2つ目の理由は学校の施設が余分に豪華で、一日の維持費が200万かかる(噂)の施設やサッカーコート、野球場、ラグビー場、バスケットコート、柔道場、剣道場、水泳場とそれぞれ2つずつあったり。
さらにトレーニングセンター、野球の室内練習場、さらには豪華博物館もどきの施設、図書館が6つ、さらには語学研修センター的なもの(一般生徒は使えない)などありそこら辺の大学よりも豪華なので(一応大学も同じ敷地にあるがそれらの施設はほとんど大学生が使えないらしい)維持費は相当かかる。
だから生徒のレベルが低かろうと大量の生徒を受け入れないと維持できないという理由からだ。
また国や地方自治体からの補助金は生徒の人数に応じて額が決まると言うのも要因であるからであろう。
以上の理由で質の悪い生徒を相当受け入れざるを得ない状況にあるのだ。
そのほかにも、僕の経験した中でインパクトに残っていたことをいくつかあげると、不良の生徒10名前後が学校を終えたら騒音撒き散らしベンツやBMWに乗って暴走行為を始めたり、改造バイクに乗って騒音を発するなどの行為をしていたことだ。
だが、授業中はほぼ100%寝ていたのでほとんど無害であることが救いであった。
ちなみにその生徒は皆町田の中学から推薦で上がってきたそうだ。
あとは薬物乱行パーティーの件だがこれもやはり町田の中学から推薦できたやつが中学の時の女やその仲間を連れて、サッカー部のスタメン落ちやよく分からない運動部の生徒と一緒に
脱法ドラッグ使用し乱行騒動を行なっていたという公然の秘密があった。
しかも高校生なのにも関わらず、風俗パチンコ狂いもかなりいたし、女子生徒は金髪が当たり前(校則では禁止されていたが)で結婚している生徒もうじゃうじゃいた。
で、進学校を自称しているのにも関わらず、普通科で大学に行く連中は大抵は推薦でニッコマレベルの大学、一般入試組は大東亜帝国、実力でマーチに行けば内部で頭がとてもいいと大絶賛される、それに専門学校への進学者もそこそこ居た。(一時期話題になった典型的な自称進学校?)
ちなみに早慶へ行く人たちは大抵が帰国子女だったりでAO入試での合格者だそうだ。
ファブリーズの件もそうだが、今の日本は「超潔癖主義」に蝕まれすぎではないかと思う。くさやが臭いのは誰がどう考えても事実なので、地元はこのCMに便乗するくらいでいいと思う。
何かにつけて「地域差別ガー」というバカにはあきれてしまうが、つまるところ地域の抱える不都合な事実を外部が指摘することを拒絶するけつの穴が小さい子供である。それこそ、彼らの好きな言葉を借りれば「言論弾圧愛好家」ではないか。文化や社会には二面性がある。
私が生まれて間もない頃の話だが、1980年代~1990年代の鉄道文化が洗練されていたという話題がSNSや掲示板で流行している。はっきり言って、不良が巣を作りそうな文化がそこにあったわけだが、それでも鉄道ファンは誇らしく思う。「鉄道王国」も日本文化だと自尊心を持っているはずだ。
本来文化・社会性とはそういうものではないか。2000年代の新自由主義旋風だって文化や科学技術などの高度化の裏に犯罪の高度化や富裕層人口のインフレの問題もあった。2010年代も1960年代の再来のようなのムードの裏に貧困問題があった。オートバイブームの裏にはシビアな封建もあった。
オタクが今日社会全般で受け入れられているという。あれといえば、昭和の負の遺産にもかかわらず迷惑者が誰も輩出しなかったことを「世界に誇る日陰者」と自画自賛する書き込みが拡散されたことが多くの人に衝撃を与えたものだった。案の定、オタク自身の努力で出世が実現するとスゴイ発言まみれになった。
冷静に考えてほしいのだが、同じ大衆の同胞であるべき人達がそれと村八分にされる時点で、そもそもすごくなんてないのである。そもそもオタクとは昭和時代の学歴社会化実験の失敗に伴いヤンキーと共に発生した負の遺産である。本来ここで必要な発想は、負の歴史として再発防止策を考えることであり、恥かしく思うべきことである。
仮にもしオタクがすごかったとしてもそれは個人個人がすごいのであってオタクはすごくないのである。社会が立派だったとしても、それは日本人の寛容性のことである。もしあなたが大衆の一員であれば、さほど無関係ではないか。
私は「オタクスゴイ」とそっくりな問題を抱えているのが「マイルドヤンキー」ではないかと思っている。地方のリア充の話題が出ると、なぜか不良とこじつけた話題が出てくる。不良とは縁のない人でもヤンキーのように扱われる、あの変な社会の空気である。
当たり前だが、リア充すべてが悪人なわけではない。大体ヤンキーの本来の意味は実は汚い。もともとはアメリカ人の白人を罵る言葉として生まれたものだ。ジャップと同じ意味合いでアメリカ人が「ヤ○○」の言葉を使うものとしてとらえてほしい。
マイルドヤンキーに代わる言葉はあるだろ。とんでもなくダサそうな文化を謳歌しているのは一握りの地方民のうちの一部とか、不良経験者だけではないかと思う。あのグダポンの撒き散らす固定概念への批判としてもいうが、私は地方を何度も見てきたが、北関東でもマイルドヤンキーなんて一握りの数しかいなかったよ。
そもそもマイルドヤンキーの言葉の根底に都会人による地方人への偏見がある。車好きを例に挙げるまでもなく、外国には日本人が思い浮かべる都市部の人間は殆どいない。むしろマイルドヤンキーの特徴として挙げられる、「買い物先でショッピングセンターに依存している」人は日本を出れば都市部ですら腐るほどいる。国土全体で鉄道依存社会が成り立つ国は、日本を除けば、オランダみたいな地形に恵まれる地域やシンガポールのような都市国家以外にない。
私はこの潔癖の究極が「子供」至上主義だと思う。日本人はみな車嫌いで鉄道好きというおかしな風潮も、子供のために嗜好を装う仕草だという。必死すぎる。大人な人は、それが普通ならしょうがないと受け入れるべきではないか。一番ひどいのは私鉄だ。
子供は日本人の美徳だと、道徳的な人を表す言葉として普及しているが、これはあの押しつけがましい「道徳」と同じうさん臭さを感じて、私は不気味に思っていることである。子供って要は非現実的理想の追求であり、病気だ。
そもそも日本の私鉄社会の根源は鉄道の公有化の失敗だとか戦争の連続による財政難だとか、歴史上におけるネガティブなものの副産物である。今でも「幼稚」とかいう。それはつまり堂々とした対等な存在としてリスペクトするものではなく、結局これは子供なる年齢を使った言葉で「恵まれない現実にある人達」を見下している、前時代的な、差別を連想する表現である。
欧米圏を見ればわかるように、鉄道は弱者というか、つまりよそ者、あるいは貧乏人や弱者のためにある公共施設であって、所得関係なしに使うことをよしとする、ましてや商売の道具としてみなす日本はおかしいのである。
一昔前ですら日本ではここまで「子供」はうるさくなかった。子供は大人らしい事由で成熟した男女を目指した途上段階であり、気づけば加齢で大人になっていた、あるいは10代ですでに見た目も中身も大人同然という人もごろごろいて、それがわずか15年ほど昔までの常識だった。
あるいは「リア充な美しい大人は好きですか」というように、青年性を脱した兄や姉であるべきだった。正しさではなく「美しさ」が評価された。この美しさという言葉自体清潔を意味するもので今の異常な潔癖主義に通じたのも、もちろん事実ではあるけどね。
特定の環境を聖域化し、あるいは特定の人を「聖人」化してみなし、それを潔癖性を極めた発想とともに崇拝し、潔癖と反する不都合な事実を見て見ぬふりをしたり、あるいは無理してでも隠蔽させようとしたり、それを指摘する存在を許さない、あの感覚。グダポンの言葉を借りればこれは畳精神である。
昔の高校を題材にした作品から黒髪すっぴんさんの描写を削減し、わざとそうでない人を代わりに差し替える。これも聖域を作る発想に由来することではないかと思っている。
その点、例えば私が韓国の学生をみて感動をしたのは、日本において学生というと黒髪が少ないイメージなのかもしれないが、実際には黒髪のおりこうさんが多くいたこと、そういう風潮がそこかしこにあったため、他人に緊張することがなかったからである。
バスの停留所で会話したローカルの若い女性は、なんかお茶目で、自分の生活圏にやってきた外国人を楽しませようというホスピタリティがあって、ものすごく魅力的だったが、やっぱり大人でオタクで、至上主義のない国のほうがよほど大人も魅力的だなと感じたのだった。
これは地方にも言える。マイルドヤンキーの連中なんてありゃ「普通のリア充か重度なオタク」だ。オタク?ってくらい偏執的で、大衆らしさに欠けている。いわゆる元ヤンさえ良くも悪くもリア充らしさがない(事実、彼らが外国に行くとサブカルオタク扱いになる)広い意味での問題なのだ。
日本に出てくるテレビのタレントには個性らしさがない。オタクがいない(例外はあるが)。根っこからのおりこうさんであることを売りにした俳優・声優がいないし、変わった趣味を売りにする者もいない。誰もがそうなるありのままもないし個人差もない。
これは、日本人の一定割合。どちらかといえば韓流ファン経験のある人たちで、同じくマイルドヤンキーか学がありそれなりに品格のあるような人が、ものの感じ方の成熟が遅れたことにあるんじゃないか、と私は思っている。子ども時代や貧乏なときは誰もが感性が幼稚で極端な理想を抱くものだ。
しかし、大人になり、10代になり、豊かになれば、あらゆる体験を通して現実を知るというか、様々な存在を知って、自分自身の肉体と考えの成長もあって、そういう非現実な理想を一度捨てることになると思う。代表が大学生における運転免許取得ラッシュだ。「免許取得者は学のない人のほうが多い」とか「都会人は一生免許と無縁」の虚構に気づく。
私達ネット原住民的には中二病とか高二病とも揶揄される、つまり冷笑主義にも陥るのだが、その現実・実在、不都合性を含めた事実の中にある魅力に気づき、そこから新しい夢を見出だしたりするのが、普通の諸外国ならハイティーンか遅くても20代で経験する段階で、日本人もかつてはそうだったのではないか。
そういうわけで、高学歴だろうと、立派な社会的地位にいようが、年齢が中高年だろうと、マイルドヤンキーと変わらないような潔癖主義の理想を振りかざして現実を拒絶したり自由な創造表現のユーモアを叩くあの感じは非常に納得がいかない。幼稚な人が多すぎる日本の現実がほんとつらいです。
(韓国などの例外を除く)外国のコンテンツは、優れた表現ほど徹底的に不都合な現実・事実に向き合っている。だが、それをただそのまま描いたり、不穏に誇張するだけではなく、そこから楽しさや夢を見出だそうとする傾向があると思う。その際にはお堅い因習を破ることになる。
だがその独創性の第一段階にある「お堅い因習を破ること」を全力否定するのがグダポンのいう「畳精神」であり、右派や私の言う「コリアニズム(文化的右傾化)」である。つまりどんな理不尽でもそれがしきたりで、その空間では聖域性を守るために自分が屈しなきゃいけないし、適応しない他者は咎めなきゃいけないという枷を兼ねた同調圧力も発生する。韓流ブームにものすごく親しんだ人ほど危ない。
ティーンエージャーになる前の現実離れした理想主義(と、それを理想を向けられた側がそのまま受けとめなければいけないということ)に畳精神やコリアニズムはとても相性がいいのである。新しい幼稚な感覚と、古い老いた因習をコラボさせると、アニメや漫画か特撮ドラマかビデオゲームまがいな、子供だヤンキーだという狂うジャパンがあふれるのである。
私が現代の日本はともかくとして一昔の韓流・華流コンテンツを敬遠したのは、アメリカのコンテンツとは違い、理想主義を極めたあのディズニーでさえ、そのテーマパークや映画などに「不都合な現実を受け入れた上でのイマジネーション」がないからだ。理不尽なものを批判的に描くこともなく、拒絶せずにそれを受け止めることすらしない。現実逃避ありきなのだ。
私の記憶する限り韓国や中国のテレビドラマやアニメには、日本人がネガティブ過ぎるとして驚いた自転車乗りの姿が描写されていない。1990年代や2000年代(2010年代)に日本型の暴走族が話題になったが、それを風刺するような作品は出てこない。当たり前だが韓国人や中国人のオタクを風刺するような作品もない(日本ですらオタク風刺作品はあるが)
そういう子どもたちはこうしたコンテンツの変わりに漫画や小説(ライトノベルを含む)やゲームのいかれた様子を見ることで、それを教訓にすることができるわけである。日本の作品で言えば喧嘩番長や龍が如くに出てくる「不都合な現実を誇張した」不健全で卑猥な日本の風景も、実は意外にも理想や夢とどこか通じるものがあるし、その中にもやはり社会に対するメッセージもある。
そう考えると、欧米程でないにしても自由な創意工夫性は日本においてはなんとか健在であり、その自由表現の娯楽を通して成長につながることもできたりし、その上でまた新しい夢が見れるというのが、本当にすごいと思っていて、韓国や中国にもそういうクリエイティビティを獲得するには、まず日本同様に現実至上主義と畳精神の解体を加速させることが必要なのだ。
年明けからテレビ出演やら雑誌へのインタビューやら、露出を再開しているみたいだが、ようやく「障害者は真面目で一生懸命な聖人」という呪縛から解き放たれたので、ぜひいろいろ、本来のゲスの極みな部分を全開にして活躍してほしい。
いや、男性が一人で自分の性欲処理ができない状況が、なかなかつらいってのは理解できる。
だからといって、5人と不倫して、家族ほっぽらかしてクリスマスから年末に、ダミーまで引き連れて不倫相手とパリ&チュニジア旅行ってのはゲスだ。
風俗のお世話になってました、の方がよっぽどオレ的に好感度が高い。
今回の騒動から離婚の流れは、身からでたサビなので、ぜひサビ落としに精進してほしいと思う。
そこで思ったんだけど、乙武さん、TENGAと組んで「両手が不自由な男性でも、一人で好きなときに性欲を解消できるグッズ」とかプロデュースしてみたらどうだろう?
常人以上の精力と性欲を持っているらしい乙武さんが、「これさえあれば、オレも不倫しないでもすんだかも!」って胸を晴れるグッズを作れば、すごい売れると思う
両手を使わずに一人で性欲解消ってのは、具体的にどうやるのかいろいろ方法は考えられろうが、モノによっては、健常者にも新しい感覚をもたらす画期的な商品になるかもしれん。
どうせゲスで性欲つよいおっさんなんだったら、その方向性を極めた上で、その天性を世の中に有益な方向で使っていただけたらと思う。
今、昨日録画した検索ちゃんネタ祭りを、今年のツッチーと東MAXはどんなネタを披露するのか楽しみにしながら見ようと思ったんだけど
コーヒー飲みたいし、手元のタバコは本数少ないし、どうせならコーヒー飲みながら見ようと思って近所のローソンに行ってきた。
ペットボトルのカフェオレを手に取ると、ボトルがベコベコに凹んでいた。
飲料棚をよく見ると、カフェオレ以外にもミネラルウォーター、お茶、オレンジジュースのペットボトルが片っ端からベコベコに凹んでいる。こんなの初めて見た。DQNがふざけてやっていったのだろうか。
このローソンには近所の顔見知りのおばさんが働いており、レジで会計の際「若いのに今日は彼女とデートじゃないの?」と聞いてきた。
何言ってるんだこいつ、と思いながら「彼女いないですからねぇ」と返して店を出ると、店の外で赤い服を身に纏った若い女の子の店員がラジカセをセットし、クリスマスソングをかけていた。
そこで初めて「今日はクリスマスだからあのオバサンはあんなこと聞いてきたのか!」と腑に落ちた。本当に、クリスマスソングが流れるラジカセを見るまで全く気がついていなかった。
ローソンの外にもクリスマスケーキを宣伝するポスターとかがベタベタ貼ってあってクリスマス一色なので入店前に気がつきそうなものだが、全く目に入っていないのである。
元々俺は彼女とクリスマスを過ごした経験が一度もなく、この28年間はクリスマスはずっと一人で過ごしてきた。
なので、そもそもクリスマスは自分とは無縁、別の世界の話として受け入れてるために自然と目に入らないようになっているのだろう。
去年のクリスマスも、思い返せばそうだった。
去年の12月25日、給料もボーナスも入ったし年に一度くらいは贅沢をしようと風俗をはしごした。
女子大生くらいの若くてかわいい子が多いと噂の行ったことのないピンサロで、俺好みの小柄な美少女がついてくれて大満足で一発抜いたあと、
表沙汰には健全なマッサージ店として経営しているが実際は基盤店というチャイエスで中国人の30代前半くらいのお姉さんとセックスした。
中国人の女性は美人が多くて大好きだが、最初のマッサージはiPhoneでYouTubeを見ながら背中を撫でるだけで全然マッサージになってなくて失敗したと思ったが
「やってくの?」と聞かれた後のセックスはめちゃめちゃ本気でサービスしてくれて大満足だった。
大満足で外に出ると、夜の11時。駅前はイルミネーションがきらびやかに輝いており、普段見ることのない若いカップルで溢れかえっていた。
「ああ!今日はクリスマスか!いつもの給料日の感覚だった!」と一瞬恥ずかしい気がしたが、給料日は給料日だ。俺は給料日に風俗に行く。いつもの給料日と変わらないのだ。
それにしても、ピンサロの女の子もエステの中国人のお姉さんも、「今日はクリスマス」という話を一切してこなかった。
まあ、そもそもクリスマスに風俗に来る男なんか鷹が知れてるので察してくれたんだろう。
俺はむしろクリスマスなのに休まず風俗で働くというプロ根性に脱帽と尊敬の念でいっぱいである。(後に聞く話だと、やっぱりクリスマスは休む風俗嬢が多くて店は大変だそうだ。)
なんか月収の話からアメリカに住むって話になって盛り上がってるし、あとはネトウヨがどうのとかアニメの話ばかりの、いつも通りの通常運転でクリスマス色が一切ない。
これも俺がクリスマスに気づかなかった一因だ。
俺が高校生だった10年前は、クリスマスに外を歩くカップルを見ると嫉妬にかられたが
今は見ても何とも思わなくなった。もう一人でいるのが当たり前なので他人事でしかない。
10年前、mixi全盛だった頃は匿名文化だったせいか、女友達たちはクリスマスになれば次々と「ラブホに行った」とか「彼氏の家に泊まった」とか、遠回しにセックスをしたことを自慢する日記を書いていた。それが若い女の子のステータスなのだろう。
そういった女友達が次々とクリスマスセックスの自慢を書き込んで競っているのを見てクリスマスの訪れを体感していた。
それがいつしか、mixiからFacebookに移行すると本名で会社の人間とも繋がりがあるからか、そういたゲスい書き込みが全くなくなり、まるで聖人君子のようになったのでFacebookからはクリスマスの訪れを感じることが無くなった。これも一因だろう。
俺が20から23歳くらいの頃、2、3人の女友達から一晩だけのセックスのお誘いが来たことがあった。
その年代の女の子にとって、クリスマスに異性と過ごせないというのは余程辛いことなのだろう。
しかし、俺が以前いけると思って誘ったところ、トイアンナよろしく「友達だと思ってたのに、最低」と断ってきた女ばかりだった。
俺が誘うとダメなのに、向こうから誘うのはアリなの?友達なのに?
なんだか誘えば簡単に乗ってくる都合のいい男としか思われていない感じがして腹が立ったので断った。
据え膳食わぬは何とやらという言葉もあるが、やはり女側が誘ったなら乗らなきゃならない、女に恥をかかせてはいけないというのは女側もそう考えている部分はあるのだろう。
俺が断ると大層御立腹の様子だった。
せっかくいい友人関係が築けているのに、セックスしてしまっては
俺も今後どう接していいかわからなくなる。俺はとにかく女性経験が薄いのだ。
これからも友人関係を続けるために、断って良かったと思っている。
趣味で通じ会える友人は少ないので、男だろうが女だろうが、趣味の話ができる友人は貴重なのだ。
いや。
少なくとも伝統的仏教には「理解できた天才にすがる」という考え方はないよ。
チベットやタイの上座部仏教系では「個人個人が頑張って悟りを開け」が基本。
天才ですら他人を悟りに導くことは無理(せいぜい新しい悟りマニュアルを書ける程度)
と考えるんで「一部の超天才しか真髄に届かない」という言い方も間違ってない。
それに対して「いやきっちり理解できない凡人にも確実に救われる方法はあるんだ」
例えば「どうすれば一切合財みんな救えるか、と考え続ければ天才でなくてもいずれ悟りには届くはずだ」
とかそういうポジティブ志向。まあ「いずれ」が「100回生まれ変われば」だったりするけど。
さらにポジティブになると「南無阿弥陀仏さえ唱えてればOK」なんてとこまでいく。
どっちにせよ「すごい人を崇めてその人に縋って救ってもらおう」っていう
キリスト教の聖人みたいな「特別に偉い人を救いの契機として扱う」方向は
密教系は良く知らんので、ひょっとするとそういう方向もあるのかもしれんけど。
※汚い話なので、食事中の方はご遠慮ください
生理的に嫌いな人間、というのは多分誰にでもいると思う(いないという人は、もう人を超越した存在、神様のようなもので、人間を犬猫のように思っているのだろう)。
そういった人間の対処法を自分なりに考えてみた。まず前提として、本などに書いてある、相手の良いところを探してみるとか、好意的に接してみるとか、そんな孔子みたいな聖人君子の行いは最初から諦め、どのように避け、やり過ごすかだけを考える。
まず基本動作として無視をする。これはいじめとかそういう次元の話ではない。いじめは、他の人と共謀して無視することで初めていじめとなる。一人で勝手に無視する分には、その両者で意思疎通が出来てないという不具合以外は何も問題がない。例えば道端にう○こがあったとする。トイレにあれば、流すという行為で処理出来るが、道端にあった場合、無視するよりないだろう。運良くビニール袋を持っていて処理出来る状況だったとしても、9割の人は無視を選択するはずだ。生理的に無理な人間≒う○こなのだ。
次に、無視しても再度くる場合、さすがに無視していられないので2度目のアタックはこちらも対応をする。が、その際に感情を出してはいけない。邪険に扱うこと自体が、そのう○こに一定の興味を持ってしまっていることになるからだ。嫌な思いをした、という経験は頭に残りやすい。ので、極力無感情で臨む。愛情の反対は無関心である、機械のように事務的に対応すべきである。第一段階の無視も、感情を殺しやすい行為の一つである。無視していればその人間に対しては何も思わなくなるし、向こうもああ、無視されてるから近づかないでおこう、となるかもしれない。一番愚かなのは、言い争いを仕掛けたり、感情任せに暴力沙汰を起こしたり、いじめに発展させたりすることである。それはこちらが向こうを押さえ込もうとしている行為であり、そんなことをする権利も必要性もないのだ。向こうだってこっちを同じように思ってるかもしれないのだから。
基本的には、2度目の機械的に相手にする、で諍いになる確率はかなり低くなるはずだが、脈略もなく言い掛かりを付けられることもあるだろう。色々な人間がいるのだ、何が起きるかは分からない。基本的には、言い掛かりや悪口雑言は無視が正解だ。最初にいった神様じゃないが、相手を犬猫畜生だと思うことにしたほうがいい。犬が吠えただけで切れるだろうか、猫が威嚇してきて威嚇仕返すだろうか、う○こに「おめぇ臭えなぁっ!」と言うだろうか。相手は自分より劣っているから、恐怖から自己防衛のために何か吠えているんだなあ、くらいの気持ちで臨むのである。度を過ぎたことを言い出したら、感情的にならずに言い返せるなら言い返してもよい。が、普通は感情的になってしまうので、その場合は相手の言葉を録音し、上司や先生に報告しよう。なんらかの進展があるはずだ。
次に暴力をふるわれた場合、この場合は正直に言うとよく分からない。暴力をふるってくるやつは最初からふるってくる所謂いじめっ子が多く、ここでの生理的に無理な人間とは別の人種であるからだ(物理的に無理な人間、とでも言うのだろうか)。もしふるわれた場合は、先程の上に報告、が最善であるはずだが、個人的見解では、殴られても何もしないというのは現実的ではないので、逃げるか、相手がそんなに強そうでないならある程度やり返してもいいと思う。逃げれた場合は上に報告、やり返して返り討ちに出来た場合は、次また襲ってくることは考えにくいので、報告はしないでいいだろう。そして返り討ちにできていれば、相手から遠ざかってくれる可能性が高い。立っただけで流れる、ホテルのトイレのように。
色々書いてきたが、結論としては、感情を極力抑えて、相手に対して何も興味を持たなくすることが大事である。う○こは流す、嫌いな食べ物は避ける、生理的に無理な人間は無視する。言い争い、いじめ、暴力などをこちらから仕掛けるのは、相手と対等になっていることを認めている証、同じ穴の狢、同じトイレのう○こである。自分が他人に「うわっくさ!生理的に無理!」と言われたくないなら、どちらの行動を取るかはもう明白であるだろう。
※これらは全て個人的な見解であり、最善解は最初に書いた聖人君子の行いなのでしょう。また、他の対処法も無数に存在するはずなので、話半分で読んでもらえれば幸いです。
オランダ人のふりして日本に立ち寄ったガリバーが「踏み絵は勘弁な」と言って「お前ほんとにオランダ人?」と疑われる場面があった。
で、次のお話「馬の国」を読む前に考えた。
殉教するより踏んで生き延びて信仰を広めた方がいいと思うけど違うのかな。
異教徒に強制されて十字架を汚したとしても、信仰心が本物であれば構わないと思うのは甘いだろうか。
ちょっと検索したら二十六聖人のルドビコ茨木は「信仰を捨てたら命は助けてやる」と言われて、
「この世の一瞬の命と天国の永遠の命を取り替えることはできない」って返したみたい。
昔読んでびっくりした遠藤周作「沈黙」ももう一度読んでみるか。
というかあれ、もっと早く主人公の前に出て来いよキリストさんよ。
マグロ食べに行くか。
トーマ「ボクには勝ち負けすらどうでもいいのです。キミの心を救いたいだけなのです」
トーマの動きの質が変わる。
アナウンサー「あーっと?トーマのこの動きは…?まるでダンスをしているかのようだ!信じられない!このリングで何かを表現しているのか?」
トーマがこれまで見てきたナルシマリョウの心の闇を、まるでリョウそのものであるかのように観客に、視聴者に、そして何よりナルシマリョウにダンスで見せつける。
戦いながらダンスを踊るトーマにリョウは一撃も当てることが出来ない。
それを見た全ての者がナルシマリョウの悲しみ、苦しみ、痛みを知り、落涙する。
リョウ自身でさえ言語化することが不可能だった自分の気持ちを見せられたリョウは動揺する。
トーマ「これでやっとキミを理解することが出来ました、次はキミを救う番です」
スパーリングパートナーから会得した柔道・柔術・サンボ・合気を駆使しながらトーマがリョウを攻め立てる。
リョウもこれまで身につけてきた技を十二分に活用しながら対抗する。
ラストラウンド、天才と言われたトーマにどうしても決定打を当てることが出来ず、このままでは判定で負けてしまうと焦り、技が雑になっていくリョウ。
その時、空手の師匠であり、敵のトーマ側についていたハズの黒川がリョウに
黒川「リョウ!何だそのザマは!ワシが教えた空手はそんなモンじゃなかったぞ!」
と檄を飛ばす。
リョウ「やかましい、クソジジイ!今は敵じゃなかったのかよ!」
猛攻を仕掛け、リョウが最後の正拳を見舞おうとした瞬間、笑みを浮かべ、両手を広げるトーマ。
そのままリョウの攻撃をもろに顔面に食らい、まるでキリストのように十字に倒れ、そのまま試合終了。
リョウ「テメェ、ワザと避けなかったな!」
トーマ「言ったでしょう、ボクはキミを救いたいのだと。それにもう避けられないと分かったからね」
と呟く。
リョウの表情はもはや少年Aやナルシマリョウのそれではなく、成嶋亮という一個人に戻っていたのであった。
トーマはこの試合後、ダンスに復帰。神を宿すと言われたそのダンスに、人間の性(サガ)ともいうべき生々しさの要素も加わり、さらに世界的な評価を受ける。
時は流れ、故黒川師匠の空手を継ぎ、道場で弟子に空手を教えていた成嶋涼。
そこに空手着を着た一人の男がやってくる。
彼を見た成嶋涼が「待っていたぞ!」とニヤリと微笑んで、完。
作者もトーマをラスボスにしたかったはずなのに、尺の都合か、編集の意図か、キャラが言う事を聞かなかったからか、中途半端になってしまった感があったんで、これでいいんじゃないかな。
今回は少年ジャンプ+
なにせこれまでのルナのバックボーンも心理描写も薄いから、あまり気持ちが入らない。
あと、信者らしきやつが銃弾をバットで打ち返すシーン、中々楽しいと思うんだけれども、派手に描いてなくて勿体無いなあと思ってしまう。
で、それを考慮して気遣った行為をすると、存分に甘えるか無下にする。
いいキャラしている。
実物は無理なんで、本から耐性を得ようとするときの絵面の不味さよ。
「幽☆遊☆白書」でとあるキャラが「無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た快感さ」というセリフを思い出す。
いや、無修正のポルノでもなければ、突きつける相手も悪魔なんだけれどもね……。
それにしても、どてらのイモ臭いデザインをキラキラした子が着るのは、音楽に意図的に入れられた不協和音の如く効果を発揮するなあ。
今回のアプリはシンプルかつ強力な効果というわけでもない、かつ制限つきであるが故に、使用者の人格と物語が色濃く反映されてていいね。
まあ、展開は予想通りではあるんだが、最終的な落とし所をどうするかだな。
これまでのエピソードから考えてバットエンドにはならないとしても、じゃあならないようにしつつ、話としてそれなりにどう締めるか。
今回は露悪的な作風だから、最後にスッキリさせてくれないとこれまでこの漫画を読み続けていた「i・ショウジョ+」の読者はヒいてしまう可能性があるからね。
次回に引っ張っておいて、感慨もなくあっさりバラすという。
いや、正体は丸分かりだったから、こうするのが妥当だとは思うが。
まあ、さすが大食い界のトップだけあって、いいこと言って説得してくれる。
ギャグ漫画的にはどうなのかとは思うが、こういう部分で引き締めるのって個人的には大事だと思う(以前の[WEBコミック感想]で、とある漫画を「まるで騒ぐのをやめたら受け手が読むのをやめると思っているんじゃないかってくらい、ネタの入れ具合が過剰だ。漫画にだって、息継ぎは必要なんだぜ」と書いたことがあって、ボケが面白くてもメリハリがないと個人的にはワンランク評価下げるんだよね)。
そして新たな延長戦は時間無制限で、多く食べられた方が勝ちだというサドンデス方式。
他にも主人公を用意するという路線ならば、その方向性はいいと思う。
正直、現主人公は潔癖すぎるというか、あの環境下で聖人であろうと振舞うのがコンセプトにそぐわないというか、設定のせいもあり、かえって歪にうつる場面もあるしね~。
落書きしたりゴミや水をかけたりノートを池に捨てたり物真似でバカにしたり耳の聞こえない女の子を苛めてる主人公も胸くそ悪いし、主人公が壊しまくった補聴器が総額170万と聞いて、すべての苛めの責任を主人公に押し付けて主人公を苛めだすクラスメイトと教師も胸くそ悪い
何より胸くそ悪いのは主人公から酷い苛めを受けていたのに毎朝学校に早く来て主人公の机にされている落書きを消したり殴られて倒れている主人公を介抱しようとするヒロイン
しかもそんなヒロインにムカついて蹴ったり殴ったりの暴行までしやがる主人公もムカツク